月と星の夜

 丈高い若きローハン王よりもなお高く、広く作られた西向の窓からは、無数の星とひとつの月による明りが降り注いでいた。光は美しい黄金館と王の髪をいっそう明るく輝かせ、(このような夜更けに起きて外に出ている者が居るとすれば)この国を彩った栄光とこれからの繁栄を象徴しているかのように見える。
 王は窓際に腰かけて、心地よく体を冷やす夜の空気を浴びながら、星々を見上げていた。
 誰もが寝静まったこの時刻に、身動きせず息を潜ませていると、本当に静かだ。春の夜風の音に混じって、星の降る音が聞こえてくるかのよう――それから、軽い足音も。
「誰か居るのか?」
 エオメルは足音が響いてきた方向に向けて訊ねた。
 こっそり寝所を抜け出してきたエオメルには、探される覚えが大いにあったのだが、足音の主はそうではないと直感で理解した。もし自分を探しに来た者だとすれば、もう少し堂々として当然に思う。しかし聞こえてくる足音からは、できる限り音を消そうとの努力が感じられたのだ。
 偶然通りかかったものか、あるいは曲者か。
「このような時分に、このような所でお会いできるはずもない殿方に会ってしまいました」
 明らかに女のものと判るりりしい美声の主は、くすくすと笑いながら闇を抜け、エオメルのそばに歩み寄ってくる。エオメルと同じ金の髪と、エオメルと同じ血を受け継いだ、この世で唯一の者。
「エオウィン……どうしたのだ、こんな夜分遅くに」
「それはわたくしの台詞です、兄上。このような所で何をしておいでです?」
 暗に「はやく寝室に帰れ」と意味を込めたエオメルの言葉をさらりとかわし、エオウィンはエオメルの隣に腰を下ろした。
 エオメルはそんな妹を愛情込めた眼差しで見下ろす。そしてふいに腹の底から笑いがとめどなく溢れてきて、耐え切れずに口元に笑みを浮かべてエオウィンから顔を反らした。
「妹よ、わたしはな、もし今も生きておられれば、われらの父や、あるいはセオデン王が苦しんだであろう痛みに耐え切れず、こうして夜を過ごしているのだ。冷たい空気や美しい夜空は、わたしの心をわずかながらも癒してくれるであろうから」
「それはどのような痛みです? 平和と幸福のみが残った今の時代に、何を苦しむ事があるのですか」
「どのような時代でも、妻を娶り娘を設けた男たちはみなこの苦しみを味わう。慈しんで育ててきた娘を、他の男に送らねばならない時に――私の場合は妹であるがな」
 エオウィンは少し驚いたように息を飲み、それから少しだけ頬を染めて微笑んだ。
「夜が明ければイシリアンに発たねばならぬ。ファラミアと共に住まう地に。さあエオウィン、はやく戻って休むがいい。せっかくの花嫁が寝不足では、わたしはファラミア公やエレスサール王に顔向けできぬ」
 するとローハンが誇る美しき姫の笑顔は曇り、彼女は何か思いつめた顔でエオメルを見上げてくる。
 ふと、エオメルはあの暗い日々を思い出していた。まだエオメルは王の甥で、セオデン王が存命していた頃。勇気あるエオウィンの輝かしい瞳が、今はゴンドールの偉大なる王となった人物に惜しげもなく視線を注いでいた頃の事。それはまださほど遠い日の事ではない。
「こうして兄妹だけでゆっくり話ができるのも、今日が最後かもしれません。もう少しこのままで、懐かしい話でもいたしましょう。たとえば……兄上は覚えておられますか。もう何年前になりますか、とにかく幼い頃の事です。わたくしはいつも兄上に着いてまわって、しかし兄上はそんなわたくしを疎んじる事無く、遊んでくださいましたね」
 エオメルは力強く肯いた。
「覚えているとも。今思えばあの頃乗馬や剣術をお前に教えたからこそ、お前はこうも勇猛な姫となってしまったのだろうな。もしあの頃もっと大人しい遊びでお前の相手をしておれば、お前は普通の大人しい姫と育ったかもしれぬ」
「それは兄上にとって喜ばしい事でしょうか? ペレンノール野の合戦の結果が、悪い方へと変わったかもしれませんのに?」
 言葉で答える事が難しく、エオメルは曖昧に微笑み、妹の柔らかい金の髪を撫でた。確かに妹の言う通りで、「盾持つ乙女」たる妹をエオメルはたいへん誇りに思っているのだが、その反面、この姫が可憐でたおやかであればまたどれほど美しいだろうとも思うのだ。
「兄上もご存知でしょう。わたくしにはエレスサール王へ焦がれていた時期があるのだと」
 つい先ほど不安にかられた事実を、当の妹の口から聞かされ、エオメルは目を見開いて妹を見下ろした。
「王はおっしゃられました。わたくしは王が掴むであろう功に、栄光に、王が持つ剣に焦がれていたにすぎないと。ええ、王のおっしゃる通りでしょう。けれどもうひとつ、わたくしはわたくしになく王のみが持つものに、焦がれておりました。それが何であるか、兄上には判りますか?」
「いいや、まったく」
「返事が早すぎます。まるで考える気がないよう」
 妹の指摘はもっともで、エオメルは頭を抱えて苦笑した。はじめは不満そうに胸を張っていたエオウィンも、つられて笑ってくれた。
「わたくしが最も欲していたものは権利なのです、兄上。もちろん王となる権利などではございません。わたくしは戦場を駆ける権利が欲しかったのです。それもただの権利ではなく、幼き日々のように、兄上に並び立って戦う権利が。詩人達は歌い継ぐでしょう。ペレンノールの野で再び見えたマークとゴンドールの王の姿を。わたくしはそうして、兄上と共に歌われたかったのです」
「歌われているではないか、お前は。わたしやエレスサール王よりも多く歌われている時もあるほどだ」
「ええ、ですからわたくしはこうして笑っていられるのです。望むものが多少違った形とは言え、手に入ったのですから」
 エオウィンは長い服の裾を翻し、空気のように軽やかに床に立った。月と星の光を全て背中に受けたまま、エオメルの方に振り返ろうとはしない。
 エオメルは僅かに目を細め、妹の背中をじっと見つめた。
 二度と会えないわけではない。この世で唯一血を分けた兄妹の絆は互いが思うよりも深く、愛しあったふたりを永遠に引き裂く事は無いだろう。けれどなんとなく思うのだ。妹とこうして黄金館の夜を過ごす事は、もう二度と無いのではないかと。
「わたくしはこれからファラミア公と共に生きていきます。殿はわたくしに手をさしのべてくださいましたから。けれどあの方はわたくしが望まない限り、わたくしの手を引いてはくださらないでしょう。ただ共に歩こうと、あの方はおっしゃるのです」
 振り返ったエオウィンの微笑みは、淡い光を浴び、今までエオメルが見たどの笑顔よりも美しく思えた。
 愛しい妹はようやく、本当に望む幸福を手に入れたのだ。幼い頃に手を離し、ひとり先へと進んでしまった兄でも、大国の頂点にひとり立ち尽くす偉大なる王でもなく、今の自分を全て受け入れ肩を並べて歩んでくれる存在を。
 エオメルは重い腰を上げ、妹の傍らに立つと、心からの祝福を込めて優しいキスをした。
「幸せに、エオウィン」


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