わがまま

 袋小路屋敷の食卓は、少し前まで毎日、それはそれは賑やかだった。
 美味しい食事を囲みながら、主人のフロドはすべらかな声で語り、彼を盛り上げるように庭師のサムが同意し、相槌を打ち、時には(むしろ、フロドが中心の時が「時には」なのだが)主人の声を打ち消すように大声でしゃべる。サムの妻であるロージーの、高らかな笑い声が途切れる事なく響く。サムとロージーの間に娘エラノールが生まれてからは、賑やかを通り越してうるさいと言えるほどになっていた。
 けれど今はなんて静か。
 それはおそらく、フロドが食卓から欠けているだけが理由では無いだろう、とロージーはなんとなく感じ取っていた。
 遠くから響く子馬の嘶きに、夫の帰還を察したロージーは、サムが帰宅すると同時に温かい食事を出せるように準備しておいた。普段の彼ならばそれを楽しそうに平らげ、たとえロージーがエラノールにかまう事で精一杯になっていたとしても、何かしら陽気に語りかけてくる。しかし、今のサムは時折「うめえなあ」とか、「ローズの料理は最高だ」とか、何かを自分に言い聞かせるように小さく呟くだけで、あとは黙々と料理を口に運んでいた。時々ちらちらと左手の方の壁を見つめているのは、何か意味のある動作なのだろうか?
 これは明らかな異変であったのだが、「何かあったの? サム」と訊ねるだけの勇気がロージーの中にはなかった。ロージーの中に勇気が足りないのではなく、単に敷居が高すぎるのだ。実の所ロージーは、サムがこれほどまでに落ち込んだ所を見た事がなく、本当に彼は今落ち込んでいるのか、と言う事にすら自信が持てていない。
 けれどなんとなく、「ビルボに会いに裂け谷まで行ってくるよ」と去って行ったフロドの微笑みの中に、ロージーは何かしらの違和感を覚えていたので、それが彼に影響しているのではないかと思った。フロドのからみで落ち込むとすれば、そうとう深いだろう。
 少しだけ待ってみようか、彼が何かを話してくれるのを。それでもだめなら、聞いてみよう。とりあえず今はその辺に触れないように話をしてみよう。
「フロドの旦那は裂け谷とか言う所に行ったのよね? そこは遠いのよね。いつごろ帰ってくるのかしら。とても綺麗なところだって言ってたわね。だったら旦那は春まで向こうにいるのかしら」
 サムは何かを思い付いたようにフォークを起き、膝の上のエラノールの小さな頭を撫でた。黄金の髪がきらきらと、サムの指の間で輝く。
「ローズ、旦那はもう帰ってこねえのよ、二度とここにはな」
「帰ってこないって?」
「旦那が行った所は裂け谷じゃねえ。もっともっと遠い所だ、二年前におらが旦那についていった所よりもずうっとだ。ここには帰ってこられねえのよ」
 ロージーはそこで、話を反らすどころかうっかり確信を突いていた事に気がついた。気がついたところでもう時遅く、サムの正面に腰をおろし、身を乗り出して話に聞き入る。
「旦那は深い傷を負っていたのよ、少なくともここでは治る事のねえ傷をな。だから旦那はエルフたちと西の海の向こうに行っちまったよ。旦那の持ち物を全部ここに置いてな。もちろんおらもだよ。おらは旦那に言っちまった。『おらは行かれません』ってな」
 サムは泣き喚く事もなく、ただ淡々と事実を語り、しかしどんな時でもくるくる変わる表情を持つ彼がそうなっている事が、なにより悲しみを表現しているようにロージーには思えた。食卓の上で軽く握り締められたサムの右拳に向けて手を伸ばし、そっと手のひらを重ねてみる。
「おらは旦那がここにずっといてくれると思っていた、と言った。旦那はそうするべきだって意味を込めてな。だが旦那は行っちまった」
 ロージーの手を挟むように、サムの左手が重ねられた。
「旦那は行っちまったのよ」
 それきり何も言わず、俯くサムが泣いているのだと気付くまで、そう時間はかからなかった。サムはロージーの手を両手で優しく包み込み、額のあたりまで引き寄せたのだが、小指の先に一滴、温かい液体が触れたのだ。
「あんたはどうしたかったの、サム。旦那と一緒に海を渡りたかった?」
「それはできねえ! それだけは」
「じゃあ旦那に残って欲しかったのね?」
「そりゃあ、できる事ならな」
「でもあんたは止めなかった。できない事だと思ったからでしょう。引き止めたら、旦那が苦しむと判っていたから」
 ロージーは薄く微笑みを浮かべながら、あいた片手でサムのくしゃくしゃな髪を撫でた。無言で肯定する夫の悲嘆する様子が、そして彼の膝の上できょとんとしながら父親を見上げるエラノールが、何よりも手放しがたい、愛しい宝物に思えたのだ。
「旦那とサムの指輪にまつわる冒険を、わたしは何度何度も聞かされたわ。そして聞くたびに、わたしはいつも思っていたわ。ひとりで行くと言った旦那にむりやりついていったサムのくだりを聞くたびに、あんたは旦那に勝てるとこなんて庭仕事と料理の腕以外何ひとつないと言っていたけど、わがまま勝負にも勝てたのねって。けれどあんたは、それにもとうとう負けてしまったのね」
「ロージー……」
「料理もこれからはわたしがするんだし、じゃあもう、庭仕事にせいを出すしかないでしょう」
 自分の手を包み込む、仕事でガサガサに荒れたサムの両手にこもる力が増した。
 指輪の人を魅了する魔力はとてつもないものだったと、サムやフロドが語っていた事をロージーは覚えている。しかしサムはその魔力に抗い、指輪をフロドに渡した。彼はフロドのために誘惑に耐え、指輪を手放したのだ。
 けれど彼はフロドのために、ロージーを、エラノールを、手放す事はしなかった。そして自分のために、フロドに苦痛を強いる事はもっとできなかった。
「しょうがないから、わたしがしばらくあんたのわがままを聞いてあげるわ。さしあたってはそうねえ、夜食に何を食べたいか言いなさい。シチューを作ろうかと思っていたけれど、あんたが今一番食べたいものを作ってあげるわ」
 サムは涙を拭って顔を上げると、しばし呆然としていたが、やがて真っ赤な顔をほころばせた。
「シチューはいいなあ。兎肉で、香草が入ってりゃ最高だ」
「あら偶然。ちょうど兎肉を準備していたのよ。香草は畑から取ってくればいくらでもあるわね。じゃあしばらく待ってなさいな。わたしが腕によりをかけるんだから、寝るんじゃないわよ。エラノールをよろしくね」
「ああ、判ってるだよ」
 台所に向かうため、サムに背を向けたロージーは、しかし彼から目を反らす事に強い不安のようなものを覚えた。ちらり、と横目で覗いてみると、サムは泣きはらした顔でありながら笑顔でエラノールをあやしており、心配する必要は何もないのだと判る。
 ロージーは溢れそうになる涙をこらえ、笑顔で台所に向けて走った。


指輪物語
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