祈り・願い

 指輪を消滅させんとした旅の最中にあったできごとのうち、心のほとんどを指輪に支配された頃の事を、わたしはほとんど思い出せない。だからと言って全てを忘れてしまったわけではなかった。覚えている事や、後から気付いた事はいくつかあった。
 覚えているのは、誰よりもわたしの事を思い尽くしてくれた忠実な庭師を盗人扱いして傷付けた事。彼が歩く事もままならないわたしを支え進んでてくれた事。這う事すらできなくなったわたしを背負ってくれた事。
 それから彼はおそらくわたしのために、自分が飲むべき水を、食べるべき食料を、取るべき睡眠を分けてくれたのだと思う。わたしたちの手の中にあったそれらの量を考えればおのずと判る事だと言うのに、あの時のわたしはその事実に気付かず、体が欲するにまかせて飲み、食し、眠った。彼がそのためにどれほど辛い思いをしたかを考えずに。
 もし彼がわたしの傍らに居なければ、わたしは指輪を消滅させる事はできなかっただろう。おそらくは滅びの山にすら、モルドール内にすら辿り着けずに朽ち果てていたであろうから。
 そう、あの時、仲間達から離れてひとりモルドールに向かおうとした日、彼がわたしの心中を察し、追いかけてきてくれなければ、わたしはそこで彼らと永遠の別れを迎えていたに違いない。

 サムや、わたしの親愛なるホビット。お前はわたしとの別れを惜しみ泣いてくれたね。わたしが別れを告げてから、わたしの乗る船が灰色港を離れるその時まで。いいや、その後もお前の涙が止まる事はなかったようだ。少なくともお前は、わたしの目にお前が映らなくなるその時まで泣いていたから。
 しかしわたしは悲しみの涙を流しはしなかった。お前はそんなわたしを薄情だと思うだろうか?
 サム、わたしはけして悲しくなかったわけではないんだ。それどころか、わたしほどお前との別れを惜しむ者は居ないだろうと自信を持って言い切れる。
 けれど、サム。この別れは永遠を約束された別れではない。お前のおかげでわたしは生きている。お前も生きている。ならば、遠い未来にわたしたちは再会するかもしれないだろう?
 そしてなにより、わたしは少しだけ嬉しかったんだよ、サム。
 袋小路にいる限り、わたしの傷は癒えないだろう。毎年決まった時に病み、お前の手を煩わせるだろう。あの滅びの山へ向かっていた時のように、お前は自分の身を削りながら、わたしのために尽くすだろう。

 おそらくわたしとっては、それが一番辛い事だったんだ。

 さあ、幸せにおなり、サム。ローズに、家族に、ホビット庄中の者に愛されながら。お前は立派な父となり、立派な者となるだろう。わたしにははっきりと見えるよ。お前の輝かしい未来が、水鏡など通さずとも。
 そして、そちらでのお前の役目が全て終わったら、わたしの元へおいで。あの時のように、姿を消したわたしを追いかけておいで。

 わたしは西の地で傷を癒しながら、その日を夢見て眠るだろう。


指輪物語
トップ