「水の辺村のロージーと言えば、この辺一帯で知らない男は居ないと言う美人だったらしいね」 三時のお茶を優雅に飲み干して、フロドはにっこりと微笑んだ。 窓ごしに夫の仕事を覗き込んでいたロージーは、夫の主人で家主でもある青年の突然の投げかけに、何事かと振り返る。どうやらティーカップが空になっているようなのでおかわりを注ぐと、遠慮がちに青年の正面に座った。 ふたりの間には、サムの手(と言うより、むしろ口か)によってすでに空になって久しいティーカップとアップルパイの乗っていた皿がある。いつものサムならばお茶もアップルパイもおかわりをするはずなのだが、どうも庭に咲くマリーゴールドの具合が悪いらしく、一切れ食べて庭に飛び出していってしまった。 「それを言うなら、旦那は大旦那とふたりそろってホビット庄中で変わり者と大評判でしたけど」 「そうだろうねえ。何せ、この辺一帯で知らない男は居ないと言うほど有名な事を、わたしは知らなかったんだから。サムのやつは君の事に関しては少しも私に話してくれなかったからね」 冷めはじめたアップルパイにさっくりフォークを入れ、満足そうに肯くフロドの姿は、紛れもなく変人のそれだとロージーは納得した。噂ばかりを信じて人間を見ないのは良くないと思っていたが、人間を見て変人と思うのならば許されるだろう。 「話がずれてしまったね。わたしが疑問に思うのは、それほどの男達に人気だった美人がどうしてサムを選んだのか、と言うことなのだよ。しかも話を聞く限り、君はサムが旅に出る前、つまり今ほど立派だと知られていない頃から、サムの事が好きだったそうじゃないか」 「いけませんか?」 「いいや、サムや君にとってとてもいいことだし、わたしにとってありがたい事だ。サムは誰よりも幸せになるべきだからね。ただどうしてだろうと少し気になっただけだよ。うん、君はサムに負けず劣らず料理の腕もいいし」 ロージーは頬杖をつき、フォークを咥えたままのフロドの顔をまじまじと見つめた。 「そうですねえ、どう説明しましょう。旦那に判ってもらえるといいんですが。ええと……サムは花とか、エルフとか、きれいなものが好きでしょう?」 「そうだね」 迷わず肯定するフロドに、ロージーは思わずくすくす笑ってしまう。彼がその返答の中に深い意味を込めていないことが判っていても、いや、判っているからこそか、おかしくてたまらなかった。 「旦那は自分がきれいだって認めてしまっているんですね」 「それを言うなら、君も自分がきれいだと認めている事になるけれど」 ロージーはフロドの鋭い切り返しを適当にあしらった。 「まあそんな事はいいんですよ。だから父さんはよくサムに、『そんな面してきれいなもんが好きなんて、身のほど知らずだなあ』なんて言ってからかってました。けれど、わたしはそうは思わなかったんですよ。サムは、サムが大好きな沢山のきれいなものより、ずっときれいだから、きれいなものが好きで当然なのにって」 するとフロドはうっかり紅茶をこぼしそうになるほど吹き出し、口を抑えて噎せる。ゴホゴホと咳き込みながら、それでも笑いが止まらないらしく、おかしな声を上げていた。 ロージーは首を傾げながらフロドのそばにより、背中を撫でてやった。 「フロドの旦那、どうかしましたか!?」 激しい咳に心配したか、サムは窓から上半身だけ食堂の中に飛び込ませた。「なんでもないよ、少し噎せてしまっただけだ。安心して、お前はお前の仕事を続けるといい」フロドがそうサムに語りかけると、サムはしぶしぶという表情を浮かべたがとりあえず納得したようで、窓の向こうに姿を消す。 咳が落ち着いた頃、ロージーはフロドから離れながら訊ねた。 「どうしてそんなに笑うんですか。わたしは旦那に聞かれた質問に、素直に答えただけですけど。そんなにおかしかったですか」 「とんでもない! これ以上無いほど立派な答えだよ。わたしもサムに対して君と同じ事を思っていたんだからね。だから驚いて笑ってしまった。しかしわたしは嬉しいんだよ。サムが君を好きで、君もサムを好きで、結婚して幸せになってくれている事がね。うん、君になら安心してサムを任せられるよ」 ならばどうして笑うのかしら。やっぱりこの人は変人だわ。 思った事をはっきり口にできないもどかしさに、ロージーはついつい思ってもいない嫌味を口にする。 「安心してください。サムが旦那の面倒を見る分、わたしもサムの面倒を見ますから」 その時見せた陰りを帯びたフロドの微笑みを、ロージーは忘れられなかった。 気軽な、何気ない会話だと思っていた。疑いもしなかった。 だけど違ったのだわ。あの賢くて綺麗な旦那は、のんびりアップルパイを食べながら、大切な友人の妻を試していたのだわ。わたしが、「旦那に置いていかれたら死んでしまう」なんて言った忠実な庭師を殺さないだけの女であるかを。 わたしがあの時彼の望む返答をしなかったら、彼はどうしていたのかしら。遠い遠い西の地に旅立つ時、サムを一緒に連れて行ってしまいはしなかったかしら。 「大丈夫ですよ旦那。サムは今日も楽しそうに生きています。サムの面倒はわたしが見ますから」 表向きは何事もないように振舞うけれど、ひとり庭で涙する悲しい背中を、わたしが抱きしめてあげるから。 「サム、ごはんよ!」 二度目の朝食の準備が終わると、ロージーは窓枠に手をついて、庭に出ている夫を呼んだ。こちらにむけられた丸まった背中がぴくりと動き、振り向き、明るい笑顔を見せてくれる。 かわいそうな旦那。 大切なものを置いていってまで、なぜ西に旅に出なければならなかったのか、わたしにははっきり判らないけれど。だからなんてばかな人なのと思ってしまうけれど。 ありがとう。 もしいつか、旦那にわたしの気持ちを伝える事ができる日がきたとすれば、わたしはいくつもの言葉を差し置いて、その言葉を伝えるでしょう。 わたしに最上の幸福を残してくれた事を思って。 |