感謝

「一三八〇年!?」
 フロドがそう叫びながら目を見開いたのは、一体いつの事だったであろうか。サムがとっつぁんにはじめて袋小路屋敷に連れてこられ、主人であるビルボ・バギンズやその養子フロドと言葉を交わすようになってから、おそらく一年も経っていなかっただろうと思う。
 驚くフロドに驚いたサムは、庭ばさみを動かす手を止め、フロドよりも更に目を大きくした。フロドはサムより十二も年上だった。学問に通じており、同年代の他のホビットよりはるかに落ち着き払った青年であった。だから何気ない事にそれほど驚くとは思わなかったのだ。
「はあ、そうですが、若旦那。そんなに驚いて、おらの生まれた年になにかあるんですか?」
 フロドは口元を和らげて微笑んだ。
「驚かせて悪かったね。その年は確かにわたしにとってとても重要な年なんだが、別にお前が悪いわけではないんだよ」
「何があったんですか?」
 深い考えも無く反射的にそう尋ねた事を、サムは数秒後に後悔した。優しかったフロドの笑みに明らかな陰りがさしたのだ。聞いてはいけない事を聞いてしまったのだろうといたたまれなくなり、日焼けして汗ばんだ手で己の胸の辺りをぎゅっと掴み、俯いて縮みこむ。
 そんなサムを見たのか見ていないのか、フロドはくるりと背中を向け、サムから数歩離れると、静かに腰を下ろした。
「わたしの本当の両親がなくなったのが、ちょうどお前の生まれた年だったんだ。その年に生まれたお前がそんなに成長しているのだなあ、と驚いたんだよ。ずいぶん時が流れたものだ」

「サム・ギャムジーよ。お前は本当に馬鹿で無神経なやつだよ。若旦那がビルボの旦那の養子だって事を、お前はとっつぁんに聞いて知っていたじゃねえか」
 フロドが屋敷の中に消えたあと、そうして自分に語りかけた事を、サムは今でも覚えている。それからしばらくは申し訳なくて、フロドと目も合わせられなかったのだ。フロドは変わらず優しく微笑みかけてくれたと言うのに。
 だから、印象深いからこそ、今でも幾度か夢を見るのだろうか?

「旦那、フロドの旦那。朝です、起きてくだせえ」
 山間の向こうに朝日が昇ったのを確かめてから、サムは傍らに眠る主人を揺すり起こした。歩きづくめで疲れた主人は、まだ眠り足りないとばかりに寝返りをうったが、すぐにゆっくりと目を開いた。眩しそうに朝日を受け止めながら。
 フロドは目をこすり、朝日から顔を背けるようにサムの方を見上げた。しばらくサムの顔をじっと見つめ、そして再び眩しそうに目を細める。
「どうしましただ? 旦那」
 不思議に思ってサムが尋ねる。そのように不用意に質問をする事が後悔に繋がるのだと、さきほど見張りをしながら反省していた事も忘れて。
「夢を見たんだ」とフロドは言いながら上半身を起こした。
「とても昔の事だよ。お前は覚えていないかもしれないね、もう二十年も前の事だから。お前が袋小路屋敷に通うようになったばかりの頃、わたしはお前が生まれた年を聞いて、ひどく驚いた事があったんだよ」
「覚えてますだ」
 サムは咄嗟に答えた。忘れられない、忘れようともしなかった事だ。
「そうか。ならばこれも覚えているだろうね。お前が生まれた年は、私の両親が亡くなってわたしがひとりになった年だとも」
「もちろんです」
 彼がたった十二歳でごく近い家族を失った事をとっつぁんの口から初めて聞いた時、サムはまだ少年と言うよりは子供と言っていい年で、同調して泣いてしまった。フロドに出会い、それが彼の中にある強さと優しさの原因の一端である事を理解した時、彼の前で涙するのを必死に我慢したのだ。
「サム、もしもの事だよ。誰か――たとえばわたし達では力の及ばないような存在がだ、その人がわたしを哀れんで、失った両親の代わりにお前と言う友を与えてくれたのではないかと、わたしはときどき考えるんだよ。そしてもし本当にそうならば、わたしはその存在に、深く感謝したいと思うんだ」
「え?」
 今、主人はなんと言ったのだろうか。
「いや、代わりと言う言い方は良くないだろうね。お前はお前、サム・ギャムジーでしかないのだから。なんと言ったらいいのだろうね……上手い言葉が考えつかないよ」
 そんな事はどうでもよかった。
 この優しすぎるほど優しい主人にとって、サムが少しでも救いに、支えになれたと言うのならば、どんな意味でも構わないとサムには思えた。彼がサムを必要としているのなら。サムが居る事で、彼の中に隠れている寂しい影を、少しでも掃えるのなら。
「お前と出会えて、お前がこうしてわたしと一緒に来てくれて、本当によかった。お前がいなければわたしはきっと今頃、とっくに旅を諦めていただろうよ」
 そして何より、彼に出会えてよかったと。主人の言葉を借りるならば、自分と主人を出会わせる力を持った何らかの存在に対して心より感謝したいと、サムは思ったのだ。


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