誕生日

 昼食を食べ終えてからずっと食卓に腰を落ち着け、フロドはぼんやりと窓の外に見える庭を見つめていた。まだ陽が昇りきらない時分、サムが丁寧に水を撒いていたので、元気でみずみずしい青さが視界を埋め尽くしてくれる。
「どうぞ、フロドの旦那」
 いつの間にかそばに居たロージーは、突然フロドの目の前に巨大な皿を置いた。
 皿の上には、たっぷりとした濃厚な生クリームと、苺を中心とした大量の果実で飾られた大きなケーキ。彼女はお茶の時間によくケーキを作るのだが、それにしても今日のケーキは大きすぎる。大体、彼女がケーキを食卓に並べるのはいつも、サムも含めて三人が食卓に揃ってからだ。
「どうしたんだい? ローズ。今日はずいぶん大きなケーキを作ったね。それにまだお茶の時間には早いのではないかな。サムもまだ戻って来ていない」
「旦那は知らないと思いますが」
 ロージーはフロドの隣に座り、にっこり微笑んだ。
 フロドは彼女との共同生活をはじめてそれほど長くないので自信を持って言い切る事はできないが、いつも彼女が浮かべる太陽のように明るい笑みとは少し違うように思えた。何かを含んでいるように見える。
「今日はわたしの誕生日なんですよ」
 それを聞いてフロドは僅かに目を開いた。彼女の言う通り、本当に知らなかった。彼女の誕生日を聞いた事はないし、サムも教えてくれなかった。そう言われてみれば、彼女はここ数日急がしそうにしていた。おそらく今日配る贈り物を作っていたのだろう。朝から彼女を尋ねてくる客がいつもにくらべてずいぶん多かったのも、彼女におめでとうと言って、贈り物を貰うために来た者達だと思えば不思議ではない。
「そうだったのか。誕生日おめでとう、ローズ。けれど、もっとはやく教えてくれればよかったのに」
「ええ、言おうと思ったんですけど、なんとなく旦那を驚かせてみようかなと思ったんです。それでずいぶん前から、旦那には何を贈ろうかと考えていたのです。旦那に贈り物をするのははじめてですし、何かあっと驚くものを贈りたいと思ったのですが、考えつかなくて。そう言うわけで朝からケーキを作ってみたんですが、ただのケーキじゃつまらないかと思っていつもより大きいのを作ってみました」
「ありがとう、いただくよ」
 フロドは笑いながらフォークを手にとった。
 それにしても本当に大きなケーキだ。フロドの顔よりもぐんと大きい。いつもはこれよりもふたまわりくらい小さなケーキをサムとロージーと三人で食べていると言るのだが、全てひとりで食べろと言うのだろうか。
「しっかり全部、ひとりで食べてくださいね、フロドの旦那」
「君もどうだい? ローズ」と言おうと振り向いた瞬間、釘をさされたフロドは苦笑した。彼女のケーキはたいへんおいしい――ケーキに限らず、彼女が作る料理はなんでもおいしい――のだが、さすがにひとりで食べきれる量ではない。子供の頃なら、わけてくれと言われてもひとりじめして食べたのだろうが。
「ローズ、とてもありがたいけれど、さすがにこれを全部は無理じゃないかな。せっかくだから君やサムにもわけて、一緒に食べたいのだけれど」
「いいえ、だめです。どれだけ時間がかかっても、旦那が全部食べるんです。今お茶を入れますから」
 ローズはぴしっとそう言って、フロドに背を向ける。まるで母親のようだ。
「どうしてそんなにわたしひとりに食べさせる事にこだわるんだい? こう言うものは皆で分け合って食べた方がおいしいに決まっていると言うのに」
「旦那がものを食べていると安心するって、サムが言うんです」
 白い、見るからに温かそうな湯気をたて、ティーポットにお湯が注がれていく。フロドは手を動かす事も忘れて、ロージーが再び自分の方に振り返るまで、彼女の背中を無意識に見つめ続けていた。
「わたしは旦那とサムの旅の事、話で聞いたぶんしか判りません。辛かったんだろうなとは判りますが、それしか判りません。サムは言ってました。一番辛かったのは旦那が指輪を運んでいた事で、次に辛かったのは旦那に満足に食べさせるものがなかった事だって。
「指輪はもうなくなりました。だからそれはもうサムもわたしも心配しません。けれど旦那がいつまでも小食で、やせっぽっちのままだったら心配です」
 食器と食卓が僅かにこすれあう音がして、特大ケーキの隣にお茶が置かれる。湯気が顔にかかり、茶葉のかすかな香りが鼻に届くと、フロドはたまらず笑い声を漏らした。こみ上げてくるおかしさは、止めようとしても止まるものではなく、涙が出そうになる。フロドはとうとうフォークを手放して、両手で顔を覆った。
 なんて優しいんだろうね、お前たちは。
 そしてなんて強いのだろうね、お前たちは。
「そこまで笑う事はないと思いますけど、フロドの旦那」
「ああそうだね。笑っては失礼だね。いたまないうちにケーキを全ていただかないとならないし」
「ええそうです。残さず食べてくださいよ」
「判っているよ」
 フロドは再びフォークを手に取り、少しずつケーキを口に運ぶ。半分もいかないうちに、あまりの量とクリームの甘味に苦しくなったが、笑みが途絶える事はなかった。


指輪物語
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