熱にうかされる時期が訪れると、必ず見る夢がある。
 それはわたしの全てを覆い尽くし、取り込み、深淵の闇に封じ込めようとする悪夢。目覚めの朝――すなわち、闇からの開放の時――を、その日ほど待ちわびる夜は無いだろう。もちろん目覚めは最悪だ。全身から汗が噴出し、それまで眠っていたとは思えないほど鼓動が高鳴り、四肢は鉛のように重い。それでもわたしは待ち望んだ目覚めに安堵し、ひとすじの涙をこぼす。
 わたしはこれまでに何度、この悪夢を見たことだろう。夢を見ることがあまりに恐ろしくて、寝台を這い出、夜通し目を開けていたくてたまらないというのに、体は言う事を聞いてくれない。病に支配された体は休息と睡眠を求め、わたしの体を寝台に縛り付けるのだ。なんとかして寝台から逃れたとしても、辿り着いた場所――床や椅子など――に縛り付けられるだけ。
 逃れる事のできない永遠の恐怖は、いずれわたしを狂わせるだろう。いずれ? それはいったいいつだろう。明日か、半年後か、来年か、何十年後か。来るべき日(次に傷が疼く日と、わたしがわたしでなくなる日。わたし自身、どちらがより心配であるか判らなかった)を恐れるあまり、時の流れを恐れるわたしに、安息の日など永遠に来ないのではないかと思う。
 わたしは休みたかった。この時わたしが望んでいた事は、ただゆっくりと眠ることだった。

 体をどこかに縫い付ける夢は、その代わりに精神をはるか遠方への旅に導いてくれる。わたしはそんなことを望んだ時は一秒たりともなかったのだが。
 辿りついた場所は緑生い茂る川岸で、少し離れた所にふたつの影が見える。いつもと同じ場所、いつもと同じ光景。影達の声は聞こえないが、彼らが仲良く戯れている事を感じ取れた。いや、感じずともわたしは知っていた。彼らは仲の良い友人であったと。
 しかしひとつの指輪が発見されると、つい先ほどまでふたりの間にあった友情はもろくも崩れ去る。指輪を見つけた方は指輪を守る事に必死になり、もう一方は指輪を奪おうと必死になる。そしてとうとう、指輪の持ち主を殺害し、生き残った方は指輪を手に入れた。
 それはゴクリで、スメアゴルであるはずだった。指輪を欲するあまりに何事も恐れず、わたしの指を食いちぎり、滅びの亀裂に落ちていった者――そう、スメアゴルであるはずだったのだ。
 わたしは両目を閉じようとする。けれど瞼もわたしの望み通りに動く事はない。手で両目を覆い隠そうとしても、手は微動だにしない。わたしは両目を見開き、闇よりもなお暗い光景を瞳にやきつけることを何者かに強制されているのだ。
 何度も見た光景。だがそれでも慣れない。氷の雨に全身を貫かれたような痛みと冷たさに、夢の中のわたしは力無く最も信頼する者の名を呼ぶ。
「……サム」
 気付くとわたしは指輪を奪い合った者のうちのひとりと入れ代わっていた。ひとり立ち尽くし、手の中に指輪を納めた方にだ。興奮で荒げる呼吸を静めながら、わたしはゆっくりと視線をめぐらせ、そばに倒れた人物の位置で止める。
「サム!」
 いつも朗らかに笑う彼の面影はどこにもなく、苦しみと憎しみだけを残した形相で、彼は死んでいた。伸ばされたまま硬直した腕は、指輪を渡すまいと握りしめられたまま。
「サム……わたしは、わたしは何を――」
 わたしは指輪を欲するあまりにかれを殺した。それは夢だ。
 夢。ほんとうに夢だろうか? わたしが指輪を欲し、その欲にとらわれた事は現実だ。そしてもしあの日、キリス・ウンゴルの塔の上で、サムが指輪を手放さなければ? わたしはサムを殺していたのではないか? それでなくばわたしはサムに殺されていたのではないか?

「どうされましただか、フロドの旦那?」
 優しい声をかけられ、わたしの意識は急に現実へと引き戻された。書斎の入り口からこちらを除き込む彼は、手にしたランプの暖かい明りに照らされ、眩しいほどに輝いて見える。
 わたしは目を細めながら、体が言う事を聞くかどうか確かめるために背凭れから体を起こし、ほう、と一息を吐いた。夢、そう、あれは夢だ。たとえ現実に忌まわしい事が起こる可能性があったとしても、現実には起こらなかった。あれは夢。夢なのだ。
 この時わたしはどうして、心配そうにわたしを見下ろすサムに対し、本当の事を言わなかったのか。それは自分でもよく判っていない。真実を告げたとして、何が変わったか判るべくもないが。
 夢を見ただけだ。
 わたしを生かし、前進させる事に精一杯で、指輪のためにわたしを殺そうなどと考えもしなかったであろうサム。かれの清らかさと偉大さのおかげで現実にならずにすんだ光景を、夢に見ただけ。それこそが何よりも恐ろしく、何よりもわたしを痛めつけるものであったけれど。
「わたしは傷付いている」と、わたしは答えていた。「傷付いて、二度と癒ることはないのだよ」
 夢が、わたしの傷を抉り続ける限りは。

 わたしは休みたかった。この時わたしが望んでいた事は、ただゆっくりと眠ることだった。


指輪物語
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