遺産

「サム、わたしはときどき考えるのだが」
「何をですか? フロドの旦那」
「ここにお前とローズの絵を飾ってみたらどうだい?」
 ゆったりとしたロッキング・チェアに深く腰をおろしたフロド・バギンズは、そう言って暖炉の上部を指差した。中指の足りない彼の右手に包帯が巻かれなくなってからずいぶん経つと言うのに、サムは未だに見慣れる事ができず、目をそらすように主人が示す先を見る。そこには一対の男女の古い絵が飾られていた。
 かつて袋小路屋敷のあるじであったビルボ・バギンズの両親、バンゴ・バギンズとその妻ベラドンナ(・トゥック――だった女性)の絵だ。以前ビルボに彼らの話を簡単に聞かせてもらい、その時サムは彼らが袋小路屋敷を建てた事を知った。今から百年以上昔の事だろう。
 そんな偉大な(サムにとっては偉大だ)夫婦の代わりに(並べて?)自分達の絵を飾ろうと主人は言ったのか?
「そんな、フロドの旦那! とんでもねえことですだ!」
 主人の言葉の意味を理解したサムは大慌てで、両手を大きく振ると言う大げさな動作付きで否定した。
「そうかい? わたしはなかなかいい案だと思うのだが。ビルボやわたしはそれなりに、お前やローズがそれはそれはていねいにこの絵を手入れしてきた事をわたしは知っているが、しかしずいぶんと痛んでしまっている。絵の具の色は褪せ、紙は変色して。この絵は完全に日の当たらない、もっと奥の方に移して、代わりにお前達の絵を描いてもらって飾ったらどうかと思うのだよ」
 それはある意味でまったくもっともな意見であったが、それでもサムは素直に受け入れる事ができず、左右に首を振る。
「旦那の言う通り、奥の部屋に飾るのは悪い事ではないとおらも思いますだ。移すなら居間がいいでしょう。ですが、その代わりにおらたちの絵と言うのはだめですだ。おそれおおくて、もったいねえです。それより旦那の絵を飾ったらどうです? 駿夫さんから贈られたとっときの一枚があるでねえですか」
 サムは我ながら名案だと思い、得意げに言った。
 かつての仲間であり、ゴンドールの王となった男が、指輪を葬った英雄であるフロド(とサムもなのだが、今そんな事はサムにとってどうでもいいことだった)をあらゆる形で称えた事は記憶に新しい。フロドに似合うきれいな衣装を作り、宴を催し、たくさんの歌い手に歌わせた。絵もそのうちのひとつで、画家に何枚かフロドの絵を描かせ、そのうち一枚をフロドに贈ったのである(ちなみにサムはなぜ一枚だけなのかと訊ねたが、ミナス=ティリスなどに英雄像として飾ると言われ、納得して引き下がった)。あれならば袋小路屋敷の客間を飾るに相応しいだろう。
 しかしフロドは複雑な笑みを浮かべていた。
「せっかくお前が考えてくれたと言うのに悪いが、わたしはそれだけはしたくないのだよ。少なくともわたしがこの屋敷の主人でいる間はね――さて、お前が嫌がるなら仕方がない」
 ロッキング・チェアがぎしりと音を立てる。フロドが立ち上がったのだ。
「どうするんですか?」
「ローズの方に頼んでみようと思う。彼女なら喜んでくれるのではないかと思ってね」
「だ、旦那ぁ!」
 慌てるサムの様子がおかしかったのか、主人は珍しく腹を抱え、大声をあげて笑いながら客間を立ち去った。
 さりげない日常の中の会話であったけれど、それもまた、サムの中に残るたいせつな思い出。


「こら、待ちなさい、フロド!」
 ロッキング・チェアにゆっくりと揺られながらうたたねをしていたサムの意識は、この広い屋敷中に響くのではないかと思わせる妻の声によって覚醒する。眠い目をこすると、ふたりの間に生まれた幼いフロド坊やが、今にもサムの目の前を走り抜けようとしているところだった。しかしローズ夫人に背中から抱きとめられてしまう。
「ど、どうしただ? ローズ」
「あらサム、起きたの? 気持ちよさそうに寝てたからほうっておいたけれど、客間はお客を迎えるところで、屋敷の主人が昼寝をするところではないわよ?」
 サムは頭をかきながら苦笑すると同時に、ローズの腕の中にいるフロド坊やに目を止めた。息子は無邪気な表情でサムの行動をまねており、その様子は微笑ましかったが、体の前面をあますところなく泥で汚しているのが気になった。これではロージーに追いかけまわされても仕方がないだろう。
「ほらフロド、とりあえず脱ぎなさい」
 言うが早いか、フロドは次々と服を脱がされていく。上半身がすっかり裸になったところで、大きな瞳はきょとんとしながら暖炉の上を見つめた。
「父ちゃん、あれは誰だ?」
 フロド坊やの、五本しっかりそろった小さな右手は、暖炉の上を指し示す。主人のフロドと息子のフロドは名前が同じだけで、顔も、声も、思慮深さも、秘めたる知性も(これは将来追いつけるかもしれないが)何ひとつ似ていない。だと言うのに、その瞬間だけサムの目には二人の姿が重なって映った。
 答える事は簡単な事。けれど胸が詰まって、声にならない。悲しいとか、苦しいとかではなく、ただ懐かしくて――奇妙な喜びで胸を締めつけられて。
「あの人はね、フロドって言うのよ」
 答えられないサムの代わりに答えてくれたのはロージーだった。彼女は服を脱がす手を休め、息子の肩に手を置き、月を見上げる時のように少しだけ眩しそうに目を細めて眺める。暖炉の上に飾られた、かつてエレスサール王からフロド・バギンズに贈られた絵を。
 サムも一瞬同じように見上げたが、たまらず目を伏せた。
 主人が置いて行ったものの中にこの絵を見つけた時(もっとも、主人は本当になにもかもを置いていってしまったのだが)、サムは迷わず暖炉の上を絵をこれに置き換えた。ぴかぴかの衣服と、エルフのマントとブローチ、それからつらぬき丸を腰に携えた勇者の姿。絵が失われた人物の代わりになるわけもないのだが、それでも何らかの形でフロド・バギンズに居てほしかった。彼は袋小路屋敷に欠けてはならない人物であったのだから。
 けれどこうしてこの絵を飾る事こそが、彼の居ない証であるようにも思える。彼は言ったではないか。「わたしはそれだけはしたくないのだよ。少なくともわたしがこの屋敷の主人でいる間はね」と。
「フロド? ぼくのこと?」
 フロド坊やは大きな目をいっそう大きくして、絵とロージーの間で視線を行ったり来たりさせた。
「あんたはいつあんなに大きくなったの。もちろん違う人よ。あの人はフロド・バギンズと言うのだから。だけどね、フロドの名前はあの人からもらったのよ。あの人は前にこの屋敷で一番偉い人だったの。そしてすごい人だったの」
「すごいの? 何したの? その、フロド――」
「バギンズ。それはわたしからは言わないわ。けれどあんたがもう少し大きくなったら、お父さんが話してくれるわ。ねぇ、サム、そうでしょう?」
「そうなの? 父ちゃん」
 ぎしり、と大きな音を立て、サムは立ち上がる。フロド坊やとロージーの傍らに跪き、そうして息子と目線の高さを合わせると、ゆっくりと頭を撫でて額にキスをした。
「もちろんだ」
 それはずっと前から決めていた事。
 もう少し時が流れたら、外に遊びに出ているエラノールや、ぐっすり眠っているロージー嬢やや、これから生まれてくるだろう子供達をみんな集めて、たいせつな話を語って聞かせよう。主人はそのために何もかもを残して去ったのだ――語り継がねばならない物語を書き綴った、あの赤い表紙の本も。
「それでいいですかね? フロドの旦那」
 額の中のフロド・バギンズが、かすかに微笑んだように見えた。


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