嘘偽りはかけらも込めず言える。自分の妻はいつまで経っても魅力的で美しいと。 確かに時が経つにつれ、日の光のように鮮烈な明るさを秘めた瞳の輝きは曇り、顔中に深い皺が刻まれ、豊かな髪は完全に色を失ってしまった。若い頃の初々しい、夏草のような生命力を秘めた愛らしさと美しさは失ってしまっただろう。けれど彼女はそれらと引き換えに、秋の陽射しの中で静かに揺れる、慎ましやかな強さを持つ花のような魅力を徐々に手に入れたのだ。 ローズはいつまでも綺麗だ。けれど、それは儚い美しさで、サムはここ最近、たびたび言い表せない悲しみに胸の中を支配されていた。 こんな苦い思いを、サムは六十余年前に一度だけ体験した事があった。あの頃は本当に苦しくて、この愛しくも強い妻と、愛らしく(当時は)幼いエラノールの支えがなければ、けして乗り越えられなかっただろう。 「ローズ……」 サムは両手でローズの細い手をぎゅっと握り締めたが、握り返してくる力は微々たるものだった。 「行かんでくれ、ローズ。旦那のように、おらを置いて行かんでくれ」 サムの虚ろな瞳に涙が浮き上がり、ほろり、としわがれた頬を流れ落ちる。 妻の、繋いだ手から伝わってくる脈が、空気を僅かに奮わせる呼吸が、いつ途切れてしまうだろう。それを考えると、サムは若き日に刻まれた二つに裂かれた痛みを思い出してしまい、子供のように泣きじゃくりたい気分になった。 サムは二年前に百歳を超え、ローズももうすぐ百歳の大台に乗ろうとしている。当然、いつどちらが相手を置いて永遠の眠りにつくか判ったものではない。しかし長い年月を共に生きたのだ。覚悟は自然と決まっていくものではないか。自分が彼女を置いていくか、彼女が自分を置いていくかの覚悟が。 だのに若き日の痛みは、覚悟などどこかに吹き飛ばしてしまう。 「サム……」 妻が起き上がる事ができなくなって幾日目であろうか。ローズは寝台に寝ころがったままサムを見上げて微笑んだ。力の無い、悲しみ深い笑みであった。 「長い、とても長い時を、わたしたちはふたりで歩いてきたのねえ」 サムは涙を拭うのも忘れて微笑み返し、力強く答えた。 「ああ、そうだなローズ。そうだな。そしてこれからもだ」 重なり合ったふたりの手が、小刻みに震え続ける。 どうしてだろう。ローズの手が震えているのか? いいや違う、自分が泣いているからだ。 「これからも……だ」 こうして今にも消え入りそうな妻を見ている内に、サムの脳裏にはふたりで築き上げた沢山の思い出が蘇ってきていた。たとえば彼女にはじめて出会った日。それは彼女がこの世に生まれ出でた朝で、ロージーは目も開いていなかったから、この出会いを覚えていないだろう。彼女より四つ年上のサムでさえ記憶が曖昧だ。 仲良くしているコトン家に娘が生まれたと聞き、サムの父ハムファストは誰よりもはやく祝いの言葉を述べるために、サムを背負ってコトン家に転がり込んだ。はじめて見たロージーの感想は美しいとは程遠く、彼女が生まれる一年前に生まれた妹マリーゴールドの時に抱いた感想と全く同じで、「ぐにゃぐにゃしていて不気味」とのものだった。だが同時に小さくてまことに愛らしいとも思え、自分の手の小ささを自覚していなかった当時のサムは、全て自分で護ってやろうと思ったものだった。 それから共に成長した。サムが袋小路屋敷に仕えるためにホビット村へ引っ越した事で少し距離をおき、けれど愛情は徐々に育まれ、ふたりは結婚した。十三人もの子供たちが生まれた。大人になった彼らはみな独立し、今やサムとロージーには沢山の孫と幾人かの曾孫がいる。 こんな幸せがあるだろうか。こんな幸福が、永遠に続かないものだろうか。 続くわけが、ないのだけれど。 「聞いて、サム」 繋いだ手に込められた力が僅かに強まり、サムははっとなって顔を上げた。 「聞いて、サム。あの人はね、去る前にサムにはないしょでわたしに言ったのよ。いいえ、言葉では言わなかったわ。けれど確かに言われた気がしたの。『サムを頼む』と」 「あの人……」 「聞かなくても判るでしょう。あなたの胸の中の一番あたたかい所に今も居る人よ」 ずきん、と音を立てて心臓が悲鳴を上げる。忘れられない若き日の痛みが、妻の言葉で余計に鮮明となった。 かの人は、遥かな昔に遥か遠くへと旅立ってしまったのだ。そしてサムのそばに居てくれた頃は、常に淡い光の中に居るように美しく静かに輝いていて、やはり手が届かなかった。 「サム、わたしはあの人に約束したのよ。あなたの面倒はわたしが見るって。いつも楽しく笑って、おいしいごはんを食べて、辛い時には支えて。そうして生きていくと、わたしはあの人とわたし自身に約束したのよ」 「ローズ」 「けれど、その約束はもう終わり」 「ローズ!」 叫ぶと同時に、サム、と懐かしい呼び声が聞こえた気がした。 穏やかで、のびのびとしていて、まるで朝露をこぼす若草のような甘く爽やかな声。誰よりも敬愛し、尽くした青年の声でただ一言、「おいで、サム」と自分を呼ぶ声が聞こえた。 なんと、なんと甘美な誘惑であろうか。 「まだ呼ばねえでくだせえ、旦那、フロドの旦那……まだ……もう少しだけ。あと二年でいいんです」 全てを失ったら美しい地で待つあなたの元へ旅立つと、確かにあの頃決意したけれど。けれどまだ少し早いと思ってしまう自分は、贅沢ものなのだろうか。 だが、たとえなんと言われようとも、最愛の妻のささやかな願いを叶えてやりたいと思うのだ。 「フロドの旦那に会ったら、伝えてちょうだいね。ローズが心から、ありがとうと言っていたと。それから今度はわたしから、サムの事をお願いしますと言っていたと」 妻の切ない笑顔は華やかに、若い娘時代に戻ったかのように、明るく変化した。夏の始まりに輝く今日の日の太陽のように。それが彼女の最後の力だと、サムは本能で感じ取っていた。 「区切りが悪くて残念だけれど……わたしは充分すぎるほど幸せだったから。だからこれからは旦那に支えてもらいなさい、サム。そして旦那を幸せにしてあげなさい」 主人よりも遠くへ旅立とうとするローズを引き止めるために、サムはなりふりをかまってはいられなかった。大声で、時に呟くように、泣きながら妻の名を繰り返し呼ぶ。 けれどやがて返事がなくなり、握り返してくる手の力もなくなると、サムは妻の体の上に崩れ落ちた。 「ローズ……」 「どうせ終わりが来てしまうのなら、区切りのいい所まで楽しくやっていけたらいいわね」 「区切り?」 「そうよ。サムが百歳になるまでとか、わたしが百歳になるまでとか、出会ってから百年とか、結婚してから百年とか――さすがにそれは無理ね。ふたりしてトゥック翁を超えなきゃらならないから」 甘く鋭い薔薇の花の香りに囲まれながら、ローズ・コトンは笑顔で言った。ローズ・コトンと名乗る事ができる最後の日に。 その日の彼女を、サムはいつまでも忘れはしなかった。 袋小路屋敷に長年輝き続けた太陽が落ちてからも、ずっと。 |