ひとつになる日

 春はホビット達に暖かい風と優しい水を平等に与えると言うのに、色とりどりの花に囲まれた袋小路屋敷の美しさは群を抜いていた。庭に一歩足を踏み入れた者は、いや、ただ前を通りすがっただけであっても、その美しさに心を満たされ、思わず微笑みたくなるほどだ。
「これも手入れした人の人柄がでてるんだろうね」とホビット達は噂する。仕えていた袋小路屋敷を相続して主人となり、ホビット庄の代表である庄長となった今でも、庭の手入れを他人に任せようとはしないサムワイズ・ギャムジーの事を。彼はいつも公言している。「この庭をおら以外の誰かに任せるとするなら、おらの息子のフロドしかいねえ。もっとも、フロドに任せるにも、少なくともあと十年は必要だがな」と。
 サムワイズ殿はほんの十年前まで、袋枝路三番地に住むしがない庭師だったが、今はホビット庄中に知られ、慕われ、愛されている立派な青年だ。けれども、皆が彼について知らない事がひとつある。彼が毎年この時期に必ず、まだ暗いうちにひとり起きだして庭に出る事を。
「ふう。旦那、今年も綺麗に咲きましただよ」
 サムは満足そうにそうひとりごちて微笑んだ。地平線からお日様が顔を覗かせ、生まれたばかりの光に照らされる草花達を目を細めて見つめながら。
 それから目を伏せ、すう、と大きく鼻から息を吸い込む。続いて祈りながら、ゆっくりと目を開ける。
 太陽が少しだけ高い位置に移っていた。その他には目を伏せる前とまった変わらない光景に、サムの胸はつんと痛む。胸に集めた甘い花の香りが冷たい冬の氷となって、内側から刺し貫ぬくようだ。
 祈りは、願いは、どこにも誰にも届かなかった。それが寂しくて、サムは無意識に首をめぐらせ、と西の方向に視線を向けた。
「フロドの旦那……」
 朝日と共にその年の庭の出来を判断するのは、かつてサムの主人であった人物の仕事だった。彼はけしてねぼすけではないけれど、サムが他のホビット達に比べてずいぶん早起きであるから、サムより早く起きる日は一年の中でその日一日だけだった。
「うん、今年も綺麗だよ、サム。お前は本当に申し分ない庭師だ」
 彼は毎年、そう、サムが心の底では「今年は綺麗に咲かなかった」と反省していた年以外はほとんど、微笑みながら誉めてくれたものだ。
 けれども彼はもう居ない。
 数年前に、西の灰色港から、もっともっと西の地に旅に出てしまった。声も、視界も、噂話すら届かない遠い遠い地へと。
 彼は二度と帰ってこないだろう。この袋小路屋敷の庭を歩き回る事も、パイプを咥えながら窓越しに眺める事も、二度と無いのだろう。
「旦那をもとめちゃなんねえよ、サム・ギャムジー。旦那は深い傷をおっちまった。だから行っちまった。旦那はここじゃ幸せになれなかったんだ。傷を治せる力が無いおらが、旦那をもとめちゃなんねえ」
 サムは朝日を背に自分に言い聞かせるが、心は言葉と相反する願いを抱き続けていた。胸の痛みが増して、きりきりと音を立てそうになって、耐え切れずに両膝をつくと、涙を頬に伝わせた。ぐっと自分の胸倉を掴むが、痛みは少しも癒されない。それどころか増すばかりだ。
「おらは今幸せだ。おらにはもったいねえくらい、なあ?」
 主人と共にホビット庄を出、恐ろしい指輪を消滅させるまでの長い長い、けれど実際には半年程度であった旅は、それはそれはたいへんなものだった。主人を助け、彼とずっと共にあれた事はサムにとって一生の誇りである事に間違いは無いが、沢山の辛い思いをした。毎日歩き詰めであったし、食べ物は満足にとれなかったし、痛い目にも何度もあった。何より日々焦燥していく主人を見る事が一番辛かった。
 けれどその旅を終わらせホビット庄に帰ってきてからは――指輪戦争が完全に終結してからは――それはそれは幸せな日々であったではないか。想いを寄せていたロージーもまた自分の事が好きで、結婚し、エラノールが生まれた。待望のフロド坊やに恵まれ、二人目の娘が生まれ、去年はピピン坊やに恵まれた。綺麗な庭付きの大きな家を手に入れ、皆の支持を受けて庄長と言う役職にもついて。単なる庭師であった頃には考えられないことだ。
 まるでその幸福の代償のように、ただひとり、大切なひとが欠けている、たったそれだけ。
「旦那がいないだけだ。あとは、昔のおらが望んでも得られねえくらいの幸せだ。だから我慢しろ、サム・ギャムジーよ。旦那はエルフたちと幸せに暮らしているに決まってる」
 そうだろうか。
 本当にそうだろうか。彼は幸せにやっているのだろうか? 今はまだビルボが生きているかもしれない。けれど必ずビルボはフロドを置いて死んでしまうだろう。彼は寂しく無いだろうか? そう考えが行き着くたび、サムは苦しくて、いてもたっても居られなくなるのだ。

「お前はこれから長い年月、欠けることのない一つのものでなければならない」

 別れ際に主人に言われた言葉を思い出し、サムは顔を上げた。朝の風はまだ少し冷たく、サムの濡れた頬を撫でる。
「旦那の言う通りですだ。ローズも、エラノールも、フロドも、ロージーも、ピピンも、おらは置いていけねえ。いっそ体がふたつに裂けてしまえばいいのになあ。それならおらは、ローズ達と一緒に暮らしながら、旦那のところにも行けるのに」
 けれどそれは叶わない願い。フロドが再び袋小路屋敷に戻ってくるのと同じくらいに。
 サムはしばらくそのままでいたが、やがて拳でごりごりと涙を拭き、立ち上がって膝についた土を掃い、振り返った。朝日はまぶしく、けれど労わるように優しく、サムを包み込んでくれた。
 もうすぐロージーが起き出してくる。それまでに寝床にもどらなければならない――庭を眺める儀式は、そうして遥かな西の地を思い求めることは、サムだけの秘密であるから。
「許してください、旦那。ごめんな、ローズ。でもおらは、おらの心は、もうひとつきりにはなれねえ」
 体はここにある。心のほとんどもここにある。けれど、指輪を所持していた僅かな時間や、一年の内のたった一日程度の、ほんの一部だけは、フロドについて海を渡ってしまったのだ。そして欠けた心は疼き続ける傷のように、サムを責め苛む。それは痛くて辛い。
 主人が受けた傷はもっと深く、痛かったのだろう。ならばその傷を癒すために大海を渡った主人の選択は当然の事に思えた。サムは寂しい以上に喜ばなければならない。それが主人の幸せなのだから。

「お前の時も来るだろう」

 フロドは別れの際にこうも言った。
「おらの番が、いつか? それはいつだ?」
 自分が旅立つ日は本当に来るのであろうか? この袋小路屋敷に、サムが守るべきものが失われた時だろうか? それは、海のこちらの残された心が、癒しようもなく深く深く傷付いた時?
「はい、フロドの旦那。そしたらおらも行きますだ。旦那といっしょに遠くへ行ってしまったおらの心を取り戻せば、エルフ達の至福の地に行けば、きっとおらの傷も少しずつ治るでしょう。
「そしたらおらは、ようやく、旦那の言った通りの、欠けることのないひとつのものになれますだ」
 でもそれは、遠い遠い、何十年も後の事。そうでなければ困る。悲しくて傷が深くて、フロドの所に辿り着く前に死んでしまうだろう。
 フロドがこの屋敷に居ない事は辛い。だが、その辛さに耐える事ができるほど、今の自分は幸せだ。主人に会いたいと願う傍ら、家族を失わなければ主人に会えないと言うのならば、主人に会える日など来なければいいと願う自分もいる。
 サムは一歩一歩、幸福を噛みしめるように歩みを進め、音を立てないようにゆっくりと屋敷の扉を開けた。


「あらサム。今日はずいぶん早起きね」
 屋敷の中に入ると、ロージーは泣き喚くピピン坊やを抱いてあやしていた。サムはどきりとしてたじろいだが、ロージーは少しも驚く様子を見せず、サムをじっと見つめている。一歩、二歩と近付いてサムの前に立つと、何かに気付いたようにぴくりと眉を動かし、くんくんと鼻を鳴らした。
「いい匂いがするわ。ああそうね、もう春だものね。あの庭にずっといたなら、匂いが移ってどうぜんね」
「え?」
「ちょうどよかったわ、わたしは朝ご飯の準備をするから、しばらくピピンを見ていてちょうだい」
「な、その、」
 ロージーはピピンをサムの腕に抱かせると、腰に手をあてて胸を張った。
「なにうろたえているの? わたしが知らないと思っていたの? あんたが一年に一回すごく早起きをして、フロドの旦那の事を想ってる事を。秘密にしているつもりだったならあいにくね、あんたは一年後にそなえて、もう少し足音を消す訓練をするべきだわ」
 サムがびっくりしすぎて何も言えずにいると、ロージーは微笑んだ。気が強くて綺麗で、彼女の名前――ローズ――に相応しい笑みだ。
「怒らないだか?」
 ロージーは首を傾げた。
「怒る? どうして? あんたはフロドの旦那にお仕えしてたわ。そのために一年以上もわたしを放っておいたわ。なのに今更、一年に一回くらいわたしより旦那を優先した所で、どうしてわたしが怒るの?」
 サムはもうどうしようもなくなって、目をめいっぱい見開くと、ピピンがよりいっそう大きな泣き声を上げるその時まで硬直し、泣き声に呼応して笑い声を上げた。楽しくて、そして何より嬉しくて、サムは笑わずにいられなかった。むりやり乾かした涙がまた滲んできそうだった。
 笑いながらも、サムはすっかり慣れた手つきで(何しろもう四人目の子供なので)ピピンをあやす。すると安心したようで、ロージーはサムに背中を向け、台所に向けて歩き出した。
「ローズ、おらは本当に今、幸せだぞ。考えられねえくれぇに」
 サムの声に反応したロージーは軽やかな足取りを止め、ふわりと髪を揺らしながら振り返った。
「何を今更言っているの。あたりまえよ。そうじゃなきゃ、あんたは迷わずフロドの旦那にお仕えするために旦那を追うでしょう。わたしもあんたに旦那を追うように言うでしょう」
 袋小路屋敷中に、健やかに眠っていた子供達が気持ちよく目覚めるほどの幸福な笑い声が響いた。

 フロドの旦那。おらが旦那の所に行くのは、ずっと、ずううっと先の事になりそうですだ。


指輪物語
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