ひかり・前

 彼が生まれ育った土地は暖かな地域であったし、その後は焼けた砂と乾いた風だけの世界で過ごしていたのだから、一面の銀世界や、どんよりとした暗い空から無垢な白が降りそそぐ様を目にするのは、初めての事だったのだろう。
 降り積もる雪を見つめる燃えるような赤い瞳が、大きく見開かれて輝きを増した。
「すっげぇー!」
 しばらく立ちつくしていたトパックは、やがて空に向けて両手を広げ、走りはじめる。ムワリムは慌ててトパックを追いかけ、引き止めた。
「ぼっちゃん。そんな薄着で雪の中を駆けずり回っては風邪をひきます」
 ムワリムは、デインに向かう事が決まった時から準備しておいた、毛織のマントをトパックの肩にかけた。彼が普段身につけているマントは、砂漠の太陽から身を護るためのものであり、防寒にはそれほど適していない。涼しい風程度を相手にするならば充分だが、氷や雪から身を護るには明らかに役者不足だった。
 暖かく柔らかな感触に、興奮で気付けずにいた、身を凍らせようとする寒さをようやく知覚したようで、トパックは白い息を吐きながら満面の笑みを浮かべた。
「ありがとな! ムワリム!」
 言って、走り出す。
 深いところでは足首が埋まる程度に積もっている雪の上に、がむしゃらに足跡を残す。そうしてトパックが先陣を切ると、我慢しておとなしくしていた子供たちや、少年たちが順々に後に続いた。
 トパックが作った雪玉が狙いをはずして――おそらくは大人ぶってはしゃごうとしないサザを狙っていたはずだ――ボーレの後頭部にぶつかると、陽気で負けず嫌いな彼は三倍の雪玉でトパックを狙った。それが傍観者であったミストにあたり、彼女が仕返しに投げた雪玉は(紆余曲折の末ようやく)サザにあたり……それを繰り返す内に、気付けば大規模な雪合戦がはじまっていた。
「まったくもう」
 副官であるティアマトがため息まじりに呟いた頃には、ボーレとワユから執拗な挑発を受けた、軍の頭であるアイクまでもが、幼稚な争いに巻き込まれていた。
「セネリオ、この事態を素早く治める策はない?」
「特にありませんし別に治める必要もないでしょう。雪が降り出しましたし、夕刻までそれほどあるわけでもない。今日はこれ以上進軍しない方が無難です」
「それにしたって、野営の準備が必要じゃない」
「陽が沈むまでに寝床を確保できない者は、雪の中で寝ればいいんです。それだけの馬鹿ならば、風邪はひかないでしょう」
 冷静で排他的な参謀は、実に彼らしく冷たく言い放つと、踵を返して賑やかな場を離れた。ティアマトとオスカーは顔を見合わせて苦笑いを浮かべ、セネリオの後を追うと、遊びに混じらなかった年長者たちも同様に動きはじめた。ムワリムもそのひとりだった。
 ムワリムは力一杯雪と戯れるトパックを見つめてから、三人に続いた。セネリオの意見はもっともだと思う反面、トパックだけは雪の寒さから護ってやりたいと思うのが正直なところだった。
 おそらくセネリオも自分の寝床のためでなく、未だ雪合戦からの離脱ができないでいる将軍のために動いているのだろうと気付いたムワリムは、妙に親近感を覚えてしまい、細腕で一種の肉体労働にはげむセネリオの手伝いをしてやった。そもそもテントなどはひとりで張れるものではないのだから、互いの協力が必要なのだ。
「不思議だな」
 突然、ごく近いところから声が聞こえた。
 種族によって差はあるが、ラグズは全体的にベオクよりも気配に敏感だ。だからラグズであるムワリムに悟られずに近寄ってきた人物は、やはりラグズしかありえず、ムワリムは振り返らずとも声の主が誰であるかを予想する事ができた。声は明らかに女のもので、ムワリムが同行している軍に、ラグズの女はひとりしか居ないからだ。
「不思議か。確かにそうかもしれないな」
「そうだろう」
「お前も雪を見た事がないのか」
 レテはムワリムの問いに、即座に答える事をしなかった。
「……確かに、ガリアに雪が降る事はまずないが、私はその事を言ったわけではない」
 声にこもる感情はどうやら不機嫌そうで、ムワリムは己の投げかけた問いが誤りであったと自覚したが、だからと言って正解が判るわけではなく、間の抜けた問いを重ねるしかなかった。
「では、何がだ」
 レテはため息で答え、ムワリムのそばにしゃがみこむ。
 どうやら設営を手伝ってくれるらしい。ムワリムが地面に打ち込んだ杭に器用にロープを結び付けていく。
「お前がだ」
 しばらくして紡がれた声が、先ほどの問いの答えだと知って、ムワリムは手を止めた。
 傍らのレテを見下ろすと、彼女は難しい顔をしていた。もともと馴れ馴れしい表情をする娘ではないが、今はいつも以上に険しい。口はへの字に結ばれ、眉間にはきつく皺がよっている。
「ラグズ解放軍を名乗っておきながら、お前が一番解放されていないように見えるぞ。あんな子供に、服従して」
 苛立ちの含まれたその声は、しかしとても優しくムワリムの耳に届いた。どうやら彼女は彼女なりに、同族であるムワリムを気にかけてくれているらしい。
 獣牙族としての誇りに満ちた彼女の眼には、元奴隷であったムワリムが情けなく映っているのだろうと容易に予想したムワリムは、反論の言葉を捜してはみたが上手く見つからず、柔らかく微笑む事しかできなかった。


 仕える家に炎のような髪と瞳を持つ子供が居る事は、その子が生まれた日から知っていたが、トパックとムワリムが出会うまでには、何年もの時間が必要だった。やれと言われれば何でもこなしてみせなければならなかったが、力自慢の虎の獣牙族の主な仕事はやはり裏方の力仕事で、幼い子供と触れ合う事などほとんどなかったからだ。
 それでも顔を合わせる事や、すれ違う程度ならば幾度かあったのだが、本当の出会いと言えるはじめて会話をした日には、トパックはずいぶんと大きくなっていた。
 庭で転んで怪我をした彼の傷を手当し、肩に乗せて部屋まで運んでやったのがその日だった。トパックは高い視点に感動して、怪我の痛みなどすっかり忘れてはしゃいでいたものだ。
「お前、名前は?」
 そうして紡がれた問いはムワリムにとってあまりに衝撃で、担いでいたトパックを落としかけた。
 もしそんな事になったら、すぐさま話が上に伝わって鞭で打たれただろうが、その恐怖があっさり霧散してしまうほど、ムワリムは驚いていた。
 だから足を止めて、仕える家の末の息子を凝視してしまった。答えもせずにそうしていたので、トパックは、不満げに表情を歪めた。
「なんで、そんなに驚いてんだよ」
 ムワリムは一瞬戸惑い、真実で答える事にした。
「失礼いたしました。名を問われたのは、初めての事でしたので」
 今度はトパックが驚く番だった。
 彼が眉を顰めたので、機嫌を損ねたのだと知ったムワリムは、諦めて少年を肩から下ろし、彼の前に片膝を着き、深々と頭を下げようとした。叱られるにしても、体罰を受けるにしても、下手に構えるより素直に身を投げ出した方が多少はましな仕打ちですむと、体で覚えていたからだった。
 しかしトパックは、ムワリムを詰る事も殴る事もしなかった。彼の頬は彼自身の髪の色のように紅潮していたが、それはムワリムへの怒りによってではなく、何か別の対象への怒りや、羞恥によるものだった。
「……ごめん」
 短い謝罪を、奇跡と言わずなんと言おう。幼いとは言え貴族のベオクから、そんな言葉が聞けるとは。
「何を、おっしゃいますか」
 反らされた視線が、硬く握り締められた小さな拳が、ムワリムに真実を伝えてきた。
 彼は恥じているのだ。自身の無知と、同じ血の流れを汲む者たちが積み重ねてきた行為を。
 そんなベオクを、ムワリムはかつて見た事がなかった。
「ぼっちゃんが謝られる事など、何もありませんよ」
 だからムワリムは、トパックの態度が表面上を取り繕うための偽りであればいいとさえ思った。長い隷属によってベオクへの恐怖と絶望が植えつけられていたムワリムにとって、このあまりに些細過ぎる希望は、むしろ残酷だった。彼の兄や姉や母や父のように、当然のように服従を誓わせ、汚らわしいと吐き捨て、思うがままに暴力をふるってくれた方が、いくらか気が楽だと思えるほどに。
「もう、ここまででいい」
「ですが、その足では、おひとりでお部屋まで戻るのに辛いのでは」
「今、兄貴の機嫌が、すごく悪いんだ」
「……はい?」
「こんなところを見られたらきっと、理由とか聞かずに、怪我、お前のせいにされる。そしたら……」
 それだけ言って、トパックは長い廊下を走っていった。
 片足を引きずりぎみの背中は痛々しかったが、ムワリムはその背を追う事もできず、呆然と見送っていた。


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