ひかり・後

 それからはトパックに出会う回数は急激に増えた。足が治った彼は荷運びをしているムワリムの隣に並んで歩いたし、馬の手入れをしていれば厩まで顔を出した。
 色々な事を話した。貴族の子息としての教育を受けていたトパックはムワリムの知らない知識を秘めていたし、逆もまたしかりだった。
 ただ、ムワリムが細やかな作業をしている時だけは、トパックは黙って隣に座って、ムワリムの大きな手をじっと見ているだけだった。仕事が遅れれば当然のように鞭打ちが待っているので、トパックは仕事の邪魔にならないよう、そうして気を使ってくれるのだ。それどころか手伝おうとしてくれた事もあり――彼に手伝えるような仕事はほとんどなかったし、そんな事をさせるわけにもいかないので断ったが――彼が側に居る事に疑問は抱けど不満を抱く事ははなかった。不条理な暴力を浴びせない主人は、それだけでもありがたいものだが、それだけでは片付かない気持ちを、ムワリムはトパックから受け取っていた。
 一度だけ、「どうして私に構うのですか?」と聞いた事がある。するとトパックは寂しそうに笑った。
 いや、彼はいつでも寂しそうに笑う子供だったと、ムワリムはこの時ようやく気が付いた。
 そして胸を痛めた。奴隷の身であるラグズたちが笑う事など滅多にないが、幸せな時、楽しい時は、もっとちゃんと笑っている。自分たちにもできる事が、恵まれているはずの彼にできないのか?
「邪魔か?」
 本人にそのつもりはなかったのだろうが、笑顔と同じだけ寂しげな問いは、立派な返事だった。
「いいえ。楽しいですよ」
 微笑みながら素直な気持ちで答えると、小さな主人は俯いた。
「奴隷なんて汚らわしくて無知で凶暴なんだから、命令を下すだけでいい、会話をする必要は無いって、ずっと言われてた」
「……」
「でも、違うな。たぶん、ムワリムと話したのが、初めての本当の会話だったんだ」
 トパックはそれきり何も言わなかった。少しだけ覗いて見えた顔は照れていて、この人は全て顔に出る人なのだな、と、うっかり感心してしまった。
 素直だからこそ、寂しい笑顔は胸に痛い。
 トパックは誰もが家族に対して抱くべき情愛を抱いていなかったし、与えられる事もなかった。それは酷く寂しい生で、奴隷であるムワリムに柔らかく接してくれる彼には似合わないとムワリムは思う。
 いや、寂しいからこそ、トパックは優しいのかもしれなかった。もしもトパックが、彼の家族を愛し、愛され育ったのならば、彼の家族と同じように、ムワリムを道具として扱っただろう。こうしてムワリムに擦り寄る事も、楽しく会話をする事もなかっただろう。
 ムワリムの気持ちは複雑だった。
 トパックこそが幸せに笑うべき人なのに、幸せに笑う彼は、けしてムワリムの側には居ないのだ。

 トパックを除いたムワリムの主人たちはよく、「半獣は凶暴で低能な生き物だ」と蔑んでいたが、自身の苛立ちを解消するために理由をこじつけ、躾と称して奴隷たちを鞭打つ者は凶暴ではないのだろうか。
 鞭が風を切る音が繰り返され、皮膚が裂け、血が滲む。体中に走る痛みでぼんやりとしはじめた頭でそう考えたムワリムは、以前の自分ならそんな事を思いもしなかったなと気付いた。今までは、彼らは鞭を振るう人で、自分は打たれる人なのだと、そう理解して終わっていたはずだ。
 どうして、そんな事を考えはじめたのだったか。
 押さえ込まずともうめき声がもれる事がなくなるほどに衰弱したムワリムは、目を伏せて横たわる。そうすると鞭は更に激しくなるが、意識を失ってしまえば、目が覚めるまでは痛みを感じずに済んで楽なのだ。
 どうして――。
 遠のく意識の中、脳裏に浮かんだのは、赤い髪の子供の寂しげな笑顔だった。
 ああ、そうだ。
 彼に出会ってしまったから。
 彼が自身と奴隷たちを同じように扱うから、だから、夢を見てしまったのかもしれない。

 温かな滴が頬に触れる事で、閉じていたムワリムの意識は覚醒した。
 明りを求め、ゆっくりと瞼を開くと、焦点が合わずにぼやけた視界の向こうに人影があったが、誰かを判別する事はできなかった。やがて人影を彩る色の中に、鮮やかな赤が濃く存在している事が判り、ムワリムは影の主がトパックであると確証した。
「ぼっ……」
「しゃべるな」
 トパックがムワリムに対して命令を下したのは、後にも先にもこの時ただ一度きりだった。強烈な違和感に戸惑ったムワリムは、反射的におとなしく従い、口を噤む。
 トパックは無言で、ムワリムの傷の治療を続けていた。通常ならばムワリムたちには許されていない高価な傷薬を使って、不器用ながら丁寧に包帯を撒いてくれた。
 赤い瞳に、涙が滲ませながら。
「死んじまうかと、思っ……」
 頬を伝う涙の量が増し、滴が次々とムワリムの頬へこぼれ落ちた。
 奴隷の命は軽いものだが、便利な労働力であるのは確かなので、八つ当たりじみた懲罰で命が奪われる事はまずない。奴隷を従え慣れている主人、中でも鞭を打つ事に快楽を求める者ならばなおさら、どこまでやれば奴隷が死んでしまうか見極めがついているはずだ。だから死ぬ事はないだろうと、ムワリムには判っていた。
 しかしトパックはそれを知らない。知らずに、ムワリムの命を案じて泣いていたのだ。
 その事がとても美しい事に思え、不思議とムワリムの両目にも、暖かいものが滲んでいた。
 無数にある傷全ての治療を終えたトパックは、ムワリムの正面に座り、見上げてくる。何かを言おうと口を開き、戸惑って俯き、ようやく意を決したのか、もう一度ムワリムを見上げた。
「色々、調べたんだ」
 呟いてトパックは、傍らに置いていた袋を開けた。探るような手つきで袋の中から取り出したものを、ムワリムの目の前に突き出す。
 古い腕輪だった。繊細ではないが美しい細工がされ、大きな石がひとつだけはまっている。目にするだけでも不思議な魔力が感じられ、ムワリムは息を飲んだ。
「うちの先祖が、お前の先祖から奪ったものだって。倉庫の奥の方に隠されてた。すげえ魔力が秘められてて、身につけると――ずっと、化身したままでいられるって」
 そこでトパックは言葉を切った。腕輪を握った両手が、小刻みに震えていた。
「返す」
「……は」
「お前の先祖はもう居ないから。だから、お前に返す」
 トパックは腕輪を半ばむりやりにムワリムの手に握らせると、拳で乱暴に涙を拭った。そうして再びムワリムを見つめてきた瞳は、先ほどの泣いていた子供の面影をどこにも残さない、炎のように力強く、決意が秘められたものだった。
「その腕輪があれば、お前にもう敵は居ない。俺たちベオクなんて、ひとひねりだろ。弱くて、馬鹿なやつらに従う事なんてない。ここを出て、自由に――」
「ぼっちゃん……」
「だけど、だけど、もし」
 息を飲み、間を置いてから、トパックは続けた。
「もしもお前が、ひとりだけ解放される事に負い目を持つなら」
 力を貸してくれ、と、消え入るような声で少年は言った。
 何に? どうやって? 問い返す事はいくらでもできた。だがムワリムは何も聞かず、迷わず、静かに肯いた。
 そんなムワリムに向けられた、笑顔。


「なぜ笑う」
 レテは立ち上がり、腰に手を当て、鋭い視線でムワリムを見下ろす。ムワリムが全てを諦めていると取ったか、彼女を馬鹿にしていると取ったか。どちらにせよ大きな誤解を抱かれたのだろうと察知したムワリムは、「違うのだ」と短く反論した。
「違う? 何がだ?」
「隷属と、だ」
 レテは大きな瞳を丸くした。
「では、どうしてあんな子供に」
 納得いかないのか、少しだけ語尾を荒げたレテを横目に、ムワリムは雪と戯れるトパックを探す。
 一対一の個人としてムワリムに向き合ってくれた、はじめてのベオク。ムワリムのために泣き、ラグズたちの現状を嘆き、約束された安定や贅沢の全てを捨てて立ち上がってくれた少年。諦める事しか知らなかったラグズ奴隷たちの前に突然現れた、眩しすぎる希望の光――。
「レテ。私は我らの王を知らない。だが、王を誇り、王に仕えるお前たちの気持ちが判らないわけではない」
 輝きを頂き、全てをかけて尽くそうと思う気持ちを、ムワリムは知っている。以前のように強制されての事ではなく、自らの意思で、ムワリムはトパックに従っているのだ。
「……あの子供とカイネギス王を同列に扱うつもりか。不愉快だ」
 大層不服そうな口ぶりだったが、しかし否定をしようとはせず、レテはその場を後にした。表情はいつも似たようなしかめっ面だが、判りやすい娘だ、とムワリムは苦笑する。
 しばらく彼女の背中を見送ってから、ムワリムは目を伏せた。
 瞼の裏に、雪の中で仲間たちとはしゃぎあい、大きく口を開け、笑い声を響かせるトパックの笑顔が蘇る。
 昔の彼が常に見せていた笑顔は、気付けば思い出せなくなっていた。あの日、ムワリムが無言で肯いたその日から、彼は本当の笑顔を知ったのだ。
 ――自分たちラグズ奴隷に全てを与えるため、全てを捨ててくれた人の、笑顔を守るために。
 胸に秘めた誓いを脳裏に蘇らせ、ムワリムは穏やかな笑みを浮かべるのだった。


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