晴れわたる空の下・12

 王都を脱出しエリンシア王女を連れてガリアへと向かっていた時、雲の厚い灰色の空を見上げながら、まるで自分の心情を写し取っているようだと思った事がある。
 ならば今、自分の心は、断たれた望みを思って泣いているのだろうか。
 朝から降り続く雨が勢いを増し、暗さが視界を狭める中、城門の前に隊列を組み、防衛の準備を整えてデイン兵の到着を待っていたジョフレは、愛用の弓に手をかけた。
「来るぞ。構えろ!」
 激しい雨音にかき消されて音もほとんど聞こえていないが、城に向けて迫ってくる一団の影を見つけたジョフレは、号令をかけ、自らも矢を番えた。
 影は近付いてくる。少しずつ、少しずつ、僅かに地面を揺らしながら。
 深く息を吸い込み、吐く。それとほぼ同時に、雨の向こうにあった影がはっきりと人の形を取ってジョフレの目に映った。
「撃て!」
 号令と共に、クリミア兵が次々と矢を放つ。
 弧を描き、デイン兵たちに降り注いだ無数の矢は、さまざまな運命をたどった。あるものはデイン兵の体を貫き、あるものは盾ではじき返され、役目を果たさず虚しく地に落ちる。
 何人のデイン兵が倒れたかを確認する間もなく、ジョフレは再び号令を発していた。
「撃て!」
 これで、どれだけのデイン兵を倒せるのか。
 小高い丘の上にあるデルブレー城の前に陣を引いて居るため、弓の打ち合いとなればジョフレたちクリミア軍に分があった。こちらの矢は多くのデイン兵に致命傷を与えているが、向こうの矢はほとんどこちらに届いていない。幾人かの兵士が怪我を追ったが、杖使いが癒しきれる程度だ。
「怯むな! 撃て!」
 だが、接近戦になれば兵数の差がものを言う。距離があるうちにできる限り向こうの兵を減らしておきたい。
 ジョフレたちは続けざまに矢を放ち続けたが、しかしながら全ての兵を討つ事はもちろんできず、しばらくすると目前にデイン兵の一団が迫った。
 ジョフレは弓から槍に持ち替え、圧倒的な数のデイン兵を睨みつけた。
「ここ、デルブレーにおいて、我らが王アシュナード陛下に対する反乱分子が潜んでいるとの情報がある。おとなしく投降し、開城せよ。さもなくば……」
「我が名はクリミアが聖騎士ジョフレ」
 ジョフレはデイン兵の言葉を遮って、堂々と名乗りを上げた。
「聖騎士ジョフレ……なるほど。危険分子としてすでに処刑命令が出ている者ではないか」
 隊長格の男が含んだ笑みを口元に浮かべる。そして軽く右手を上げると、デインの兵士たちは各々の武器を構えた。
「ならば中を改める必要もなかろう。全軍突撃! デルブレーに潜むクリミア兵を殲滅せよ!」
 戦場に、デイン兵たちの雄叫びが響く。
 クリミア兵も負けじと、主の名を叫びながら槍を振るい続けた。

 地面は赤く、この雨で発生した水たまりが溢れてできた小さな川に流れる水も赤く、それらの赤を映す事で降る雨も赤い。世界中が鮮烈な赤に染まってしまったようだ。
 雨によって体が冷え、寒さに震えていたジョフレだったが、戦場の赤に魅了されて恍惚した意識は、握り締めた槍を手放そうとせず、何人目か判らないデイン兵を屠った。
 ただでさえ兵数に圧倒的な差があると言うのに、この天候。体力を余計に削られ、持久戦はいっそう不利になる。
 一度城内に避難するべきか。いや、この乱戦状態では、指揮は行き届くまい。国のために身を挺して戦い続ける彼らを見捨てて自分だけ安全なところに行く事など。
 それにここで自分たちが篭城してしまえば、全てとは言わずともいくらかのデイン兵がこの場を離れるだろう。人員や物資の救援を求めに行ったものが、王女たちの軍を見つけてしまうかもしれない。そうなれば、この戦い自体が無駄となってしまう。
「一旦戻れ! 陣を立て直す!」
 今まさにジョフレが出そうとしていた指示が、デイン兵の間に広がっていった。
 デイン兵が引いていく。その隙に、ジョフレたちも隊形を組み直した。数が少ない分、建て直しはこちらの方が早い。
「大変です!」
「ジョ、ジョフレ将軍!」
 王女がこの地を無事に離れられるよう、少しでもこの戦いを長引かせると言う使命以上に大変な事が他にあるのかと思いつつ、槍に付いた血を拭いながら、ジョフレは部下の声に耳を傾ける。
「クリミア軍が……エリンシア様の軍が、こちらに向かって来ています!!」
 あまりの事実に、ジョフレは槍を取り落としそうになった。
「ばかな……! ユリシーズは何をやっているのだ!!」
 なぜ、そうなる。
 王女を逃がすために自分たちはこうして戦っていると言うのに、なぜ王女の軍がこちらに向かってくる。
「姫よ……今からでもいい……どうかお逃げください……!」
 ジョフレは目を伏せ、祈るように呟くと、再び目を開きデイン兵を真っ直ぐに捕らえる。
 この判断を下したのが、エリンシア王女か、それとも軍を率いるアイクと言う将軍かは判らない。どちらにせよ、王女がこの付近に残存している事は間違いない。
 稼がなければならない時間が、大幅に増えた。
 いや、時間稼ぎどころではない。この圧倒的な力の差を跳ね除けてでも、勝たなければならない。王女――エリンシアと言う女性を、守るためには。

 朦朧とした意識の中で、緑の髪を持つ女性は華やかに微笑んでいた。
 庭園に溢れる花々に埋もれ、明るい声で囀る鳥たちと戯れ、幸せそうに日々を過ごしていた。
 手を差し伸べる事もできず、少し離れたところから彼女を見守りながら、ジョフレも微笑んだ。
 鈴のように細く美しい声が、ジョフレの名を呼ぶ。
 幸せな日々だった。思い出すだけで、泣きたくなるほどの。
 ――人は、最後には正直になるものだ。
 エリンシア王女を守って朽ちる事ができるのならば、それで構わないと思っていたはずなのに、今こうして、誰よりもかの人を求めている。
 体中から血が抜けていくのと同じ速度で、力が抜けていった。体中を支配する疲労が重くのしかかり、槍を持つ手を上げるのも一苦労だ。いや、この状態で手放さないだけでも、自身を褒めてやるべきかもしれない。
「敵兵を褒める主義はないが――さすがは聖騎士の称号を得た騎士と言うべきか」
 デインの将は、ジョフレの持つ槍に貫かれた左肩から流れ出る血を手で押さえながら、小さく言った。
「何十……いや、百を越えるか? それだけの我が同胞と戦い、勝利しながら、なお私と渡り合おうとはな」
「……」
「しかし、これで終わりだ!」
 敵将の斧が振り上げられた。
 避けるか。いや、この間合いでは不可能だ。でははじき返せるか。
 ジョフレは最後の力を振り絞り、槍を振り上げた。
「無駄だ!」
 斧の刃と槍の柄が、ぎりぎりと音を立てる。何とかこらえてはみるが、力で押し返す事は不可能だった。
 相手の言う通り、自分はこれで終わりなのか。
 それは嫌だ。嫌だ。
 ――嫌だ!
「……!」
 声にならない声が悲鳴となり、ジョフレの耳を突く。
 槍にかかる圧力が弱まった。いや――無くなった。
 頬を撫でる一筋の風。これは、自然の風ではない。おそらくは魔法によるもの。
 ゆっくりと顔を上げたジョフレは、赤い髪を持つ騎士と、彼の後ろから飛び降りた風の魔術を得意とする親友の姿を両の瞳に映し、安堵のため表情を和らげた。
「無事か!? 我が友よ!」
「ユリシーズ……なぜ、戻った……」
「将軍! ジョフレ将軍っ!」
「ケビン……お前、生きていたのか……!?」
「おのれ……!」
 ユリシーズの風の魔法に全身を切り裂かれ、血まみれとなった敵将が、憎々しげにジョフレたちを睨みつけてくる。
 もう槍を持つ事もできないジョフレの前で、ケビンとユリシーズは構えた。
 いや、ふたりだけではない。
「姫は無事よ。お会いしたければ……なんとしても、生き残りなさい!」
 耳に心地よい姉の声。
 すらりと引き抜かれた剣は、太陽の光を反射して輝き、敵将へ向けて振り下ろされる。

 いつの間にか雨は止み、温かな太陽が地上を明るく照らし出していた。


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