敵将の断末魔の叫びが響き渡る。 霞みはじめたジョフレの視界は、目の前で繰り広げられる光景をはっきり捕らえる事はできなくなっていた。誰が、どのように敵将を討ち取ったのか解らぬまま、ただ、仲間たちの歓喜の雄叫びがクリミア軍の勝利を教えてくれた。 深く安堵した。それと同時に、体中から力が抜ける。指に引っかかっていた槍を取り落とすと、多量の水分を含んで柔らかくなった土に槍が突き刺さった。 「将軍、大丈夫ですかっ!」 傾いだ体を支えようとしてくれている腕も、すぐそばで叫ばれる声も、おそらくはケビンのものなのだろう。だが、確認する術はない。ほぼ失われた視力で目視する事はかなわなかったし、声はひどく遠くに聞こえたのだ。 信頼を預ける部下のものでなかったとしても、自力で自らの体を支える力すら残っていなかったジョフレは、その腕に頼るしかなかった。浮遊感に任せて己の体を投げ、支えてくれる腕に体重を預ける。 「将軍、将軍!」 いくども自分を呼ぶ声がした。やはり、ケビンの声だ。 やかましいはずの彼の声が、遠くなったジョフレの耳に、優しい囁きとなって届く。弱っているのは視力だけでなく、聴力もなのだろう。 「杖使いを呼んで! 早く!」 「しっかりするのだ!」 冷静さを欠いた姉や親友の声も、ほとんど聞き取れなかった。姉のものと思わしき柔らかな手がジョフレの顔を包むように触れたが、不思議と温もりは伝わってこない。 雨は止み、太陽が地上を照らしているはずだと言うのに、どうして世界はこんなにも静かで、暗く、寒いのだろう。 自分だけ、なのだろうか。世界は自分にだけ、冷たいのだろうか。 それは寂しい事だと思った。 同時に、寂しいだけではないかもしれないとも考えた。 自然と口元に笑みが浮かぶ。意識を埋め尽くす深い暗闇の中に浮かび上がる、緑の髪を持つ美しい女性が、慈愛の篭った優しい微笑みを投げかけてくれたから。 そうだ。自分以外の者すべてに、世界が明るく温かいのならば、あの方にとって世界は美しいもののはずだ―― 突然、清らかな白がジョフレを支配する闇を飲み込んだ。 柔らかな温もりがジョフレを包み込み、体内の血液が失われる事による脱力感も、全身に負った傷の痛みも、寒さも、全てが和らいでいく。 それが神官たちの使う癒しの杖の力だと判断がつくほどに回復すると、ジョフレはゆっくりと目を開けた。 空が見える。その手前には、今にも泣きそうな、心配そうな表情を浮かべて覗き込んでくる顔が、いくつも並んでいた。 「ジョフレ……良かった……」 姉のルキノは、祈るように両手でジョフレの手を包み込んでいた。 「女神アスタルテに見初められるには、今少し男を磨く事が必要なようだな、我が友よ」 親友のユリシーズはすでにいつもの調子を取り戻し、飄々とした笑みを浮かべて言った。 「多勢のデイン軍を相手に無勢で挑まれながら、ご生還されるとは! このケビン、誉れ高きジョフレ将軍の部下としてこの世に生を受けた事、誇りに思います!」 部下のケビンは大げさにジョフレを褒め称え、敬礼していた。 そして―― 「姫っ!」 立ち並ぶ顔の向こうに主君の姿を見つけると、ジョフレは慌てて体を起こした。まだ癒えきっていない傷が痛んだが、瑣末的な事に構う余裕はない。癒しの杖を持ってジョフレの佇むエリンシアの前に跪き、姿勢を正す。 すぐに頭を垂れようと思ったが、体が言う事を聞かなかった。両目に映る光景が嘘や幻ではない事を確認せずにはいられなかったのだ。 表情がやや凛々しく、立ち振る舞いに威厳が出てくるなど、記憶の中にあったエリンシアと差異があるにはある。だが、ほとんどは変わらぬままだった。離宮で共に育ち、共に生き、忠誠を捧げてきた王女だ。 深い茶色の瞳が、もの言いたげにジョフレを見下ろす。僅かな怒りを前面に出しながら、慈愛と歓喜を奥に隠したその瞳に、ジョフレは胸を熱くした。 王女にそのような感情を抱かせた者は他ならず自分自身で――だとすれば、自分は何と幸せな人間なのだろう。 「あのまま命を落としていたら、もう会えなかったのですよ?」 感情に震えた声が、叱りつけるようにジョフレに投げられる。ジョフレは返す言葉も無く、深く礼をして応えた。 「判っていますか?」 「は……っ!!」 エリンシアを失うくらいならば自分が犠牲になるべきだと、それが喜びであると信じていた。未練が全く無かったと言えば嘘になるが、自らを投げ出す事に迷いはなかった。 けれど、今となっては恐ろしい事だと思う。この喜びを、この幸福を、知らずに絶えていたのかもしれないと思うと。 ジョフレはゆっくりと顔を上げた。 空が見える。ジョフレの心を写し取ったように、雲ひとつない青空に燦々と輝く太陽。 その下で、エリンシアは微笑んでいた。慈悲の心が輝きとなって宿る瞳が、優しくジョフレを見下ろしていた。 ようやく取り戻したのだ。クリミアも、ジョフレ自身も。 遠い戦いで失った、大切なものを。 |