デインの急襲以来、デルブレー城――に限らずクリミアにある城が――がこれほど明るさに満ちた事はなかっただろう。しかも今日は、外は雨が降り、空は厚い雲で覆われ、太陽の光はほとんど地上へと届いていないと言うのに。 場内の窓と言う窓や、明かりが灯されているランプが磨かれた事、通路の燭台に灯される蝋燭の本数が増えた事も一因だったが、やはり一番の理由は、空気が浮かれあがっている事だった。 それもそのはず、偵察隊として送り出したユリシーズが、喜ばしい情報を持って帰ってきたのだ。 思えば、ジョフレはかつてこれほどまでにユリシーズとの再会を望んだ事はなかった。彼と会いたいからではなく、彼が持つ情報が欲しいからなので、あまりに申し訳なく本人には言っていないが。 「なあユリシーズ。姫はいつお戻りになられるだろうな?」 「あと半日ほどの事だろう。我が輩とさほど距離が開いていたとは思えん」 「そうか」 「念のため言っておくぞ、我が友よ。君は先ほどもその問いを我が輩に投げかけた。これで四度目となる」 「そうだったか?」 同じ事を何度も聞くな、と言いたげな忠告を、ジョフレはあっさり聞き逃して、窓から暗い空を見上げた。 あと半日。待ち続けた時間を思えば、たった半日。しかしあまりに時間の歩みが遅く、半日が永遠のように感じてしまう。 王女を迎え入れるための準備をしようと、仮にも将軍だと言うのに掃除やらの手伝いをしてみたが、いつから自分はそんなに手際が良くなったのかと言いたくなるほど、時は進まなかった。そうして手持ち無沙汰になったジョフレは、友人に同じ問いを繰り返しているのである。 「暇ならば訓練でもしたらどうだ? 将軍殿」 「基礎訓練ならば朝から必要以上にやっている。これ以上やるのは体を酷使しすぎだと、先ほど止められた。仕方なしに弓の訓練をしようと思えば、矢の絶対数が足りていないのだから浪費するなと注意されてしまったしな」 「基礎訓練でなく、模擬戦闘はいかがか? 槍を模した木切れを振るえばよかろう」 「姉さんが偵察隊に出てからは『将軍のお相手など、恐れ多い!』と相手をしてくれる者が居なくてな――そうだ、お前はどうだ、ユリシーズ。お前のナイフ使いはなかなかのものだと姉さんが」 「いやいや、たしなみ程度に訓練はしているが、本職の君の相手をするのは恐れ多いよ」 ジョフレの遠回しな誘いをさらりと交わし、ユリシーズは軽く手を上げてその場を立ち去る。 残されたジョフレは壁に額を預け、深いため息を吐いた。 ベグニオンやガリアの援軍。落ちたデインの王都。そして、王女エリンシアの帰還。ここにきて全てが順調に進んでいる。順調にすぎると言っていい。 一年前、街道の途中で王女を見失ったあの日からずっと抱き続けていた悲願が、ようやく成就しようとしているのだ。 その時に。 「……嘘だと言ってくれ」 デインの軍隊がデルブレーを包囲しようとする現実を目の当たりにした今、そんな嘘を言われたところで気休めにもならない事を知りながら、ジョフレの口をついたのはそんな言葉だった。 判っているからこそ、ユリシーズはジョフレの言葉を真に受けず、見えすいた嘘を吐こうとはしない。神妙な表情を浮かべた顔をぎこちなくジョフレに向け、硬く引き締めた唇で全てを語っていた。 降り注ぐ雨音が、耳の中にこだまし続ける。 「お前は今すぐ、姫の下へ行け。ユリシーズ」 叶おうとした瞬間、あっさりと霧散する願い――波にさらわれる砂の城のように残酷な運命を目前にしながら、ジョフレの気持ちは不思議と落ち着いていた。 「何を言うのだ、ジョフレ。君が行け。君の軍馬ならばすぐにエリンシア様の元へ……」 「何を言っている、はこっちの台詞だ。俺が勝手な事をしようとする度に、『君は軍の将なのだ』とか言って引き止めるのが、お前の役目だったはずだろう。俺は将としてデルブレーに待機している兵を率い、デイン兵と戦う」 「しかし」 「姫を守るのが俺の使命だ。俺はここでデイン兵を引きつける。その隙に、姫を安全な場所へ」 一呼吸おいてからジョフレが強く言うと、ユリシーズは戸惑いを振り払い、泥を跳ね上げながら走り出した。 クリミアの遺臣たちの運命を嘲笑うかのように、雨音が勢いを増す。その中で一瞬目を伏せると、治療の杖を手に、様々な感情を瞳に湛え、ジョフレを見上げていた茶色の瞳が蘇った。 その瞳を持つ女性を、そばに居て守りたいと思っていた。願っていた。けれど今こうしてその願いが絶たれても、絶望感はない。 「叶うならばせめて最後に、姫のお姿を目に焼き付けたかったが……」 吐露したささやかな願いは、雨にかき消され、誰にも届かないだろう。だがそれでジョフレは満足だった。これでようやく、王弟殿下から与えられた命を果たせるのだから。 急いで城内に戻る。エリンシア王女を向かえるための準備に慌ただしく動いていた騎士・兵士たちのほとんどは大広間でこまごまと働いており、そこに駆けつけたジョフレは、軽く息を整えてから大きく深呼吸をした。 「北東の方向より敵襲! デインの軍、中隊規模と予想される! 全員直ちに装備を整えよ! これより防衛戦に入る!」 ジョフレの声が響き渡ると、王女の帰還に浮かれていた兵士たちの表情が一気に引き締まった。各々が手にしていた磨いた食器、花を生けた花瓶、洗いたてのシーツなどはその場に置き去りにされ、しばらくして武器を手にした兵士たちがジョフレの元に集まってくる。 ほんの少し前まで喜びのみに支配されていた顔に、苦渋がにじみ出ていた。その様子に胸を打たれはしたが、クリミア軍の将として彼らを解放すると言う選択は選べず、申し訳ない気持ちになりながらも、ジョフレは落ち着いた声音で語りかけた。 「ここまで来てエリンシア王女の軍との合流を果たせんとは残念な結果だが、このデルブレー防衛戦はエリンシア王女をお守りするため、つまりはクリミア王国の未来のための、重要な戦いとなる。皆、誇りを持って戦いに挑んでもらいたい」 しんと静まり返っていた空気が、徐々に重く垂れ込めていく。 「悔やむ事はない。我らの意思と願いは、フェール伯や剣士ルキノが引き継ぎ、姫の下へと届けてくれるだろう。そしてクリミア奪還と言う悲願は、必ずや姫が叶えてくださる」 その日を共に迎えられない事を、悲しむ必要はない。 その日を向かえるために、自分たちが、この戦いが必要なのだ。 「クリミア王国と、我らが主エリンシア王女のために!」 悲しみを振り払うため、勇気を振り絞るため、己を鼓舞するため、決意を新たにするため。 それぞれが戦いに赴くため、気持ちの整理をつけるために、愛する母国と王女の名を叫んだ。声はデルブレー城内を支配し、雨音を引き裂きながら辺りへと広がっていった。 「全員、戦闘配備!」 |