晴れわたる空の下・10

 ライは約束を違える人物ではなく、ある時は使者に持たせた書状で、ある時は彼本人が現れて、エリンシア王女の現状を伝えてくれた。
「デイン兵の追っ手がかかるも、無事トハを出航」――最初の報告を受けた頃はまだ春も半ばで、茂る緑と世界をあらゆる色に染める花々の美しさが、悲しくもクリミアの惨状を際立てていた。
 日差しが徐々に強まり、中天に輝く太陽から降りそそぐ強烈な夏の日差しが人々の肌を焼きはじめる頃、ライは笑顔でジョフレたちの前に現れて、「姫は無事にベグニオン入りを果たしたぞ」と教えてくれた。その頃ジョフレたちは変装をし、商隊や芸人に混じってクリミア中を放浪し、エリンシア王女やクリミア貴族たちを捜索するデイン兵からからくも逃れて潜伏していたタギオ候の遺児と合流を果たしたばかりだった。
 クリミア王が遺児、王女エリンシアの噂を民に流しはじめたのも、ちょうどその頃だ。命を奪われないまでも、デインの圧制に疲弊していた民の心に、僅かな希望となりえる噂は驚くほどの早さで広がった。広がった当時は根拠のない夢物語としてであったが、痺れを切らしたデイン兵が堂々と王女を探しはじめると、民はそれまで架空の救世主と信じていた存在を、現実の救世主として待ちわびるようになった。
 やがて夏は過ぎ、支配者たるデインに捧げるための麦で大地が黄金色に輝きはじめる。流れる風や空気は徐々に熱を失い、心地よく肌の上を流れていくが、望まない労働に従事する者たちの額に浮かぶ汗を引かせる力はなかった。
 日照時間が減り日の明るさが減るのと同じ速度で、民の心が萎えていく。その様子を目の当たりにしたジョフレは、ときおり南東の空を見上げた。
 何もかもが順調に行くわけがない。王女自らが使者に現れたとて、ベグニオンがすぐに動くはずがない。判っていてももどかしく、ジョフレはたびたび南東の空を見上げる事となった。
 しかし、全ての事象がジョフレたちを悲しませるわけではなかった。王女の存在を受け止めた遺臣たちが、少しずつジョフレたちに合流したからだ。
「今はまだひとつ所に集まる時ではない。目立つ動きをして、デインに気付かれてはならない」
 激しい戦いで散ったと思われた遺臣たちとの再会の喜びを胸の中に押し込め、再び合流する日を誓って離れるのは苦い思いだったが、まとまって行動ができないほどに人数が膨れ上がった事は誇らしかった。はじまりは、たった三人だったのだ。
 そして、秋の終わり。
「エリンシア王女はベグニオンの後ろ盾を得て、デインへと進軍を開始した!」
 現れたライの口から告げられた情報が、どれほど支えとなっただろうか。
 ユリシーズは空を仰いで、ルキノは瞳を潤ませながら手を組んで、女神に祈った。ジョフレは何もできず、呆然と立ち尽くしていた。
「軍を率いるのはエリンシア姫より爵位を授与されて将軍職についたアイクってヤツだ」
「その名は確か、姫を護衛していた傭兵団の団長、でしたかな?」
「気にいらないか?」
 ライが含んだ笑みを浮かべてユリシーズに問うと、ユリシーズは静かに首を振った。
「戦時に英雄が生まれるのは当然の事。姫を護り導いてくださった方ならば、相応の地位と名誉を与えられてしかるべきでしょう。デインを破れば土地はいくらでもあまるのですから、ある程度領地を分配しても問題はないかと。優れた傭兵団への報酬として――それにしては法外すぎますかな」
「称号に相応しくない男だったらどうするんだ?」
「そのような者を姫が選ばれるとは思えませんし、ベグニオンが軍を貸し与えるとはもっと思えませんが、まあ合流した際、じっくりと値踏みさせていただきましょうぞ」
「クリミアに必要のない者だと判断すれば?」
「とりあえず頭を挿げ替える事にはなりますな。手段は追って考えましょう」
「ははっ、あんた本当におもしろいな。ま、そんな事にならない自信あるけど。オレは」
 そう言ってライは笑ったが、ジョフレには到底笑える話には思えなかった。
 しかし――アイク将軍、か。
 王女を護り、クリミアを奪還する軍の若き将。本来ならば、ジョフレが居なければならなかった地位に立つ少年。
 当然ながら彼の話はジョフレの耳に痛く、苦笑するしかなかった。
「それはともかく、ベグニオンが動いたとなると、ガリアも動かれますかな?」
「時間の問題ってとこだな。ベグニオンを敵に回したら国が滅ぶってのが、同盟国クリミアを裏切るような意見をごり押ししてたお偉方の言い訳だからな。その言い訳を失ったんだし、うちの王は動く気満々なんだから、重い腰を上げないわけにはいかないって。一月後には、ガリアとクリミアの国境付近に兵を揃えるぜ」
「では我らもそろそろ、一箇所に終結せねばなりませんな。場所は――」
「東のデルブレーがいいんじゃない? ガリアと協力すれば挟み撃ちができるし、デインとの国境に近いから姫と合流がしやすいもの」
「さすがですルキノ殿。ではそのようにしましょう。そうと決まれば各地の遺臣たちに連絡をしませんとな」
「んじゃ、オレもガリアに帰るよ」
 立ち上がり踵を返すライの瞳が、ジョフレをちらりと映したかと思うとそこから動こうとしなかった。
「これが最後の報告だ。あとは、あんたたちの目で確かめな」
 言ってライの手が、ジョフレの肩を軽く叩く。
 ああ、ようやく。
 ようやく、エリンシア王女はクリミアの地にご帰還なさるのか。
 肩に他人の手が触れる事で、はっきりと現実を噛み締める事に成功したジョフレは、ライに深々と礼をして、去り行く背中を見守った。
「さてと。いっそう忙しくなるわね。ユリシーズもそろそろ、魔道書に積もった埃を掃った方がいいんじゃなくて?」
「我が輩よりも、ジョフレでしょう。しまいこんだままの鎧が錆びついていないか心配です」
「確かにそうね」
 ふたりの会話を聞いてはいたが、はっきり認識する事はなく、ジョフレは己の両手をじっと見つめていた。
 再び鎧を纏い、槍を手に。
 再び王女のために戦える日が、近付いている。
「彼に恨みがあるわけじゃない、むしろ感謝しているくらいだけれど、ラモン王の時代から……遡れば建国王の時代から仕えている身としては、ぽっと出のアイク将軍に負けたくないところね」
「ですな」
「頼んだわよ、ジョフレ将軍」
 姉と友から投げかけられたまなざしに、ジョフレは力強く頷く事で応えた。

 クリミア・ベグニオン連合軍、デイン王都を撃破。
 ユリシーズの情報網を駆使せずとも、人々の口を介して伝わった情報は、クリミアの民に再び強烈な光を与える事となった。クリミア国内に配置されたデイン兵からの圧力はいっそう強まったが、その程度で消えたり萎えたりするほど、彼らに与えられた希望は弱々しくなかった。
 そうして一日一日が過ぎ、デルブレーに集まる仲間たちが増えていく。
 誰も彼もにジョフレは感謝したが、中でも感動せずにいられなかったのは、ジョフレと共に王女護衛の任に就いた第五小隊の生き残りたちが、王女の帰還の話を聞きつけてジョフレの下に駆けつけてくれた事だった。彼らは一年前の誓いを忘れないどころか、デイン兵の目を盗んで己を鍛える事も忘れず、頼もしき姿でジョフレの前に現れた。
 新生クリミア軍はまだ百にも満たない。しかし精鋭ばかりがずらりと並び、ジョフレは将として誇らしかった。
「いよいよ我らがエリンシア王女は、デインの王都より進軍し、大橋を渡ってクリミア入りを果たされるぞ」
 密偵の報告を受け、ユリシーズが珍しく声を荒げて言った。
「……偵察隊を出すか」
「おお、我が輩もちょうど同じ事を考えていたぞ」
「あら、私もだわ」
 ジョフレの案に、ふたりは笑顔で頷いた。
 その笑顔はもちろん、ジョフレに対して同意を伝えるものであったが、それ以外にも、暴走しかねないジョフレを制止する意味を持っていた。
「一刻も早くエリンシア様にお会いしたい気持ちは判るが、将たる君が偵察隊として動いてどうする。まずは別の人間が行くべきだろう」
「私たちの事をエリンシア様に報告しなければならないから、一目で身分証明ができるほどに信頼が厚い人物が適任だと思うけれど」
 この日のために一年前から仕組んでいたのではと思わせるほど、ふたりの息はよく合っていた。
「……判った。ふたりに任せる。護衛に騎兵を何人か連れて行くといい」
「話が判るな我が友よ。嬉しいぞ」
「ただしユリシーズ。お前は姫のお姿を確認しだい、報告に戻ってくるように」
 ジョフレにできる精一杯の仕返しに、ユリシーズの笑顔が硬直した。


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