晴れわたる空の下・8

 先頭を行くユリシーズが、フェール城へと続く街道を反れ、人の足で踏み分けられただけの素朴な小道をとる。すると後を追うジョフレの胸に、自分の城はもうないとのユリシーズの言葉が、いっそう重く圧し掛かった。
 この切迫した状態で、確実な死を避け生存への可能性にかけると言う冷静な選択ができたユリシーズを、ジョフレは誇らしく思っている。おそらく本人も、最良の選択と信じて疑っていないだろう。だが、死よりはましであったとしても、かつての平和なクリミアで生活していた頃に比べて不自由や重圧を民が強いられているのは疑いない事だった。
 ひとつひとつの判断に冷静さが求められる今、けして表に出す事のできない焦りを、ユリシーズは、ルキノは、ジョフレは、自覚無いまま歩みの速さへと変換していた。
「ところで我が友よ」
 ユリシーズが突然、思い出したように言った。
「なんだ?」
「麗しき姫君の近衛たる君が、なぜここに居る?」
 口調は疑問系だったが、表情は確信を得た薄い笑み。たまらずジョフレは、長いため息を吐いた。
「知っているくせに意地が悪い聞き方をするな。お前に嫌味を言われんでも、その事に関しては重々恥じているし、言い訳をする気もない」
「それは何より。では我が輩から褒美に、君が喉から手が出るほど欲している情報を提供しよう」
 言ってユリシーズが表情から笑みを消したので、ジョフレは黙って耳を傾けた。見ると、姉もユリシーズを食い入るように見つめている。
 話が長くなる事を予見しているのか、ユリシーズが水袋の口を開け、ごくり、と喉を動かした。その僅かな時間すらももどかしく、ジョフレは更に一歩、ユリシーズに近付いた。
「離す前にひとつ聞きたい。君が姫を見失ったのは、城を出てから何日目になる?」
「……また嫌味か?」
「それは被害妄想と言うのだ我が友よ。我が輩は手に入れた情報から導き出した推測に矛盾が無いかを確かめたいだけなのだよ」
 ぽん、と軽く肩を叩かれ、ジョフレはしぶしぶ喉の奥から声を絞り出す。
「確か、四日目だったと記憶している」
 ユリシーズは僅かに見開いた目で一瞬だけジョフレを凝視し、それから腕を組み、思考に耽り始めた。
「となると時期は合うな。信憑性はあると言う事か……」
「どう言う事だ、ユリシーズ」
「焦るな友よ。教えてやろう。エリンシア様と思わしき女性は、皮肉にもクリミアが落城したその日にガリアに入られている。とある傭兵団に護られてな」
 姉の眉間に僅かながら皺が寄ったのを確認してから、ジョフレは己の口元を撫でた。
 傭兵団。戦を生業としているとの意味ではジョフレたち騎士に最も近く、それでいて最も遠い人種だ。戦いがなければ生きていけない彼らは、身を落として盗賊まがいの蛮行に走る者も居ると言う。
「傭兵団と言っても色々あるでしょう。姫は大丈夫なの?」
 ジョフレの胸に沸いた不安を代弁するように、ルキノがユリシーズに詰め寄った。
「姫が王宮を出られた六日後、とある傭兵団のアジトがデイン兵に襲われている。その時はまだデインの勝利が確定しておらず、姫にかかった追っ手以外ほぼ全てのデイン兵がは王都の大戦に参加していた事を考えると、その時姫はそのアジトに居たと考えるが自然だ。時期的にも場所的にも、ジョフレとはぐれたエリンシア様が匿われていて不自然ではない」
「つまりその傭兵団がエリンシア様を匿い、ガリアまでの護衛を勤めてくれたと考えていいんだな」
「我が輩はそう判断している」
「それで? その傭兵団の評判は?」
「良すぎて胡散臭いほどだ。小規模だが幾人か精鋭もおり、充分に強い。中にはかつて王宮に仕えていた騎士もおり、傭兵団として考えれば充分すぎるのほどに品位もある。僅かな報酬で貧しい村や町を幾度も救った事がある、善良な団体との事だ」
 ユリシーズは笑みを浮かべながらも僅かに眉をひそめ、気に入らないそぶりを見せた。非の打ちどころがない存在への感想を、「胡散臭い」の一言にまとめてしまう彼らしい表情だ。
「評判通りだとすれば、女神が姫に与えもうた幸運に感謝しなければならないわね」
 胸を撫で下ろしながらため息を吐くルキノが言うと、ユリシーズは同意した。
「確かに。姫は主を見失うような近衛騎士よりもよほど頼もしい護衛を手に入れたのかも知れぬ」
 主を見失った近衛騎士にできたのは、聞こえよがしに笑うふたりから顔を反らし、女神へと感謝の祈りを捧げる事だけだった。

 橙色の明かりが灯るランプがテーブルの中心に置かれると、広いとは言えない部屋の中がぼんやりと照らし出された。
 部屋の中心に置かれたテーブルは、四人が座れればせいぜいの大きさで、かつ古びていたが、質はそう悪くない。足や淵などあまり見られない部分に丁寧な細工がなされていたし、軽く触れてみたところ手触りは滑らかで心地よかった。
「何に使う場所なの、なんて聞かない方がいいのかしら」
 部屋の隅に置かれた机に備え付けられていた羽根ペンをいじりながらルキノは訊ねると、ユリシーズは浮かべた笑みをそのままに静かに目を伏せる。
「心の安寧に最も必要な物は無知、と言うのが我が輩の持論だが」
「……従わせていただくわ」
 ルキノは微笑で頷いて、それ以上この話題に触れる事をしなかった。
 確かに、この部屋は怪しすぎる。こうして中から見ているだけならば単なる手狭な部屋にしか見えないが、入り口が草や岩で巧みにカモフラージュされた地下室なのである。この部屋がある森に初めて足を踏み入れたジョフレたちはもちろん、普段から近くを通っている地元民でさえ見過ごすだろうと言う巧妙な隠し部屋だ。
 今回のようにいざと言う時の避難所として準備したと言うのならばさすがと感心するところだが、先ほど触れたテーブルに積もった埃は大した量ではない。ユリシーズ本人かは判らないが、それなりにこの部屋は利用されているらしい。
「それはさておき、姫がガリア入りしてからの情報はまだないようだ」
 ユリシーズが椅子に腰掛けながら言った。
「お前の密偵でもガリアには入れないのか?」
「不可能ではないが、入るも出るも難しいのだよ。結果、情報が流れてくるのは遅くなるのだ。しかし……」
 ユリシーズはテーブルに肘をつき、両手の指を絡ませる。
「ふむ。姫がガリア入りした日を思えば、そろそろガリア側に何かしらの動きがあってしかるべきだが、こう静かとなると――動く気はない、か?」
 独白に似た呟きに、ルキノが長い髪をなびかせて振り返った。何か言いたげに唇を開いたが、一瞬戸惑った隙に、ユリシーズが話を続けてしまう。
「デインとの戦いに勝ち目はないと見たか、内部の問題か。まあ今更立たれたところで、ガリアとデインの争いにクリミアの地が焼かれるだけなのだと思えば、今はまだ動いてもらわない方がありがたいか」
「少し」
 ルキノの声が部屋中に響き、ユリシーズの言葉を遮る。
 ジョフレとユリシーズがルキノに視線を集めると、ルキノはくるりと背を向けて、先ほど降りたばかりの階段に歩み寄った。
「風に当たってくるわ」
 引き止める事もせず、背中を押す事もせず、ジョフレはユリシーズの正面の席に腰を落ち着ける。
 組んだ手を口元に運び、姉が響かせる靴音が扉の向こうに消えるまで、ジョフレは沈黙を保った。ユリシーズも同様だった。
「姫はまだガリアにおられるのだろうか」
「おそらく。ガリア王カイネギスとの面会が果たされぬままどこかで倒れている可能性も否定はできんが」
「……何とかガリア入りする方法はないだろうか」
 ジョフレはユリシーズの瞳を真っ直ぐに見つめた。
 何もかもを彼に頼る自分を情けないと思いつつも、やはり彼ならば何か名案が浮かぶのではないかと期待してしまうのだ。
「それならば」
「密入国はなしだぞ。姫の立場が悪くなる」
「あまり難しい事を言うな、我が友よ」
 すべらかに動き出そうとしたユリシーズの唇が動きを止め、ジョフレは落胆し頭を抱えた。
「……噂ばかりだ」
 不安、焦燥、己の無力への失望、懺悔。無意識に吐き出した言葉に、感情の全てが込もる。
 そばに居るはずだったのだ。そばに居て、あらゆる苦難や危険からエリンシア王女を守らなければならなかったのだ。それが自身の意思であり、王弟の勅命であったと言うのに。
 だのに、今のジョフレがエリンシアの無事を知る方法は、何人もの人を伝った情報しかない。それがあまりに情けなく、涙も出なかった。
 以前、雨に打たれながら、これが女神に下された罰なのかもしれないと思った事がある。しかし今ならば、それが勘違いである事が判った。今のジョフレの立場が、自分が成すべき事を他人が成していき、遠く離れた地で何もできずに歯がゆい思いをする事が、何よりも苦しい罰なのだ。
「ふむ。それほど落ち込むとはな。先ほど少し苛めすぎたか?」
「気にするな」
「いや、我が輩はまったく気にしていないが?」
「……少しくらいはしてくれ」
 苦笑を浮かべて返しつつも、この気軽なやりとりは、友人が気を使ってくれての事なのかもしれないとジョフレは考えた。僅かだが、本当に僅かだが、気が楽になっているような気がするのだ。
 再び沈黙が流れる。ジョフレは目を伏せ、ゆっくりと油が燃えていく音を受止めた。
「ジョフレ、ユリシーズ!」
 心地良い空白を、姉の声と荒々しくドアが開く音、階段を駆け下りる足音に阻害される。
 そんなに騒いではカモフラージュの意味がないと注意すべきかと顔を上げたジョフレは、そこに信じられないものを見て、目を見開いた。


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