無風が続く中で聞こえた木々が揺れ葉が擦れあう音を不自然に思ったのは、ジョフレだけではなかったようだ。ジョフレが右手を手綱から離し槍を構えたのと、ルキノがジョフレの後ろから飛び降りながら腰の剣を引き抜いたのは、ほぼ同時だった。 そうしてふたりが突然戦闘態勢に入った事に慌て、兵士たちは何が起こっているのかも判らないまま、各々の武器を構える。きょろきょろと周りを見回しているが、敵の影も音もない事に、ひどく戸惑っている様子だった。 真っ先に構えたジョフレとて、現状を全て理解しているわけではない。覚えた違和感が悪意によるものか善意によるものかも察していなかったし、違和感の正体が人か否かの判別もついていなかった。姉がほぼ同時に同じ行動をとった事に、安堵したほどだ。 「……デイン軍ですか?」 「まさか。軍は人間の集合体だ。その存在を悟らせる事なく近寄る事など、ほぼ不可能……」 「デインがその不可能をやってのけたからこそ、私たちは今ここに居るのではなくて?」 姉の意見に反論の言葉もなく、ジョフレは周辺を睨みつけた。 とは言え、近くに集団が潜んでいるようには思えない。単騎か、せいぜいが自分たちと同程度のごく小さな集団であろう。 敵か、味方か。それとも、そのどちらでもないものか。敵であると言うならば、早々に始末し、前へ進まなければならなかった。 ジョフレたちは昨日中にフェール領へと足を踏み入れており、この調子で行けば今晩にもフェール城に辿り着ける。一刻も早くユリシーズと再会し、王女エリンシアへの手がかりを掴まなければならない今、足止めを食うわけにはいかない。 自然、気が逸る。自身を落ち着けようと深く息を吸ったジョフレの耳に、手を叩く音と場違いに陽気な声が届いた。 「いやおみごと! さすがは戦場を駆ける華、ルキノ殿。風すらも裂くしなやかな剣捌き、とくと拝見いたしましたぞ」 静かに木々の間を抜けて現れたのは、一目見れば忘れられない容姿の持ち主だった。色は押さえ気味だが道化師のように派手な衣装、色鮮やかなリボンでひとつにまとめた金の巻き毛、人を食ったような表情とその表情によく似合う小さな髭。 ジョフレはデイン急襲の日に別れた友の姿をその目に捉え、こわばった体から力を抜いた。 「私はまだ、剣を振るってなくてよ」 剣を鞘に治めながら、呆れた笑みでルキノは答えた。 「……ユリシーズ」 「なんの。ルキノ殿の見事な動きの一端を垣間見るだけで、洗練された剣舞のごとき美しき雄姿が我が輩の目には映ります」 「どうやら医者に見てもらった方がいいようね、フェール伯ユリシーズ」 「これが病と言うならば、どんな名医にも……」 「ユリシーズ!」 ジョフレはユリシーズの言葉を遮るように、声を荒げて名を呼んだ。 口には出していないが、「やれやれ」と言った表情だった。彼の小さめな目や口は、腹が立つほど感情表現が巧みなのだ。 「おや、居たのか、我が友ジョフレよ」 「……さっきからずっと姉さんの隣にな」 「それはすまなかった。雑草は美しい花を引き立てる大切な役割を担うが、それ自体を認識するのは難しい」 こうもはっきりと雑草扱いされてしまうと、腹が立つどころが笑えてしまう。どうにも憎めないユリシーズと言う男にかける言葉が見つからず、ジョフレは肩を竦めて苦笑した。 「どうしてこんなところに居るんだ?」 「そうよ、ユリシーズ。貴方の城はすぐそこでしょう。約束の場所も貴方の城だったはずよ」 ジョフレの疑問に、ルキノが続いた。 するとユリシーズは、相変わらずの飄々とした笑みを浮かべたまま、胸を張って言ったのだ。 「ふたりとも冷静に考えたまえ。悲しくもクリミアが敗北を向かえた今、私の城などあるわけが無いだろう」 あまりに明るく言われたので、彼の言葉の意味を掴みかねていたふたりは、ほぼ同時に気がついて、身を乗り出し、ユリシーズを凝視した。 「いやはや、もう二、三日は大丈夫だろうと思っていたのだが、デイン軍の動きは思ったより迅速でな。竜騎士の機動力はさすがと言ったところだ」 「呑気な事を言っている場合か! デインの手はすでにフェールまで及び、城を占領されたと言う事だろう! お前の城や、領地や、領民たちは……!」 「我が友よ、少し落ち着きたまえ。デインとてそう大量の竜騎士を抱えているわけではないのだぞ。フェール城に現れたデインの竜騎士はたった三騎。まあそれでも充分な脅威と言えるが、正面から戦って落とされるほどフェールの城は脆くない」 だが、お前はここに居るじゃないか。 ジョフレがそう口にする前に、ユリシーズは続けた。 「しかし我が輩は考えたのだ。ここで抵抗し竜騎士たちを撃退したところで、そう間を置かずに軍隊がフェール城を襲うだろうとな。王都を落としたデイン兵が、今頃は暇を持て余しているのだから。どう足掻いても落城が明らかならば、下手な抵抗をせず早急に無血開城するが賢いと判断したのだ。民にはしばらく辛い思いをさせる事になるが、領民を失った領地を支配しても意味がない事は、いくらデインの兵でも判るであろうから、程よく従順にしていれば、無下に命を散らされる事もあるまい――支配階級の身にある我が輩は、その限りではないが」 ユリシーズは得意げに髭を撫でた。 「つまり民の命を守るために、貴方は行き場を無くしたという事ね?」 「それは我が輩だけではないと思われるが? たとえば戦場の花たる指揮官ルキノ殿」 「私が戦場の花かどうかは置いておいても、それは認めるわ。ねえ、聖騎士ジョフレ」 「……そうだな」 「我ら三人、行き場無く流離う遺臣と言う事だ」 ユリシーズと言う男は常に笑顔で周りを煙に撒く男であるから、今彼が心底愉快そうに笑っていても、本音はそこには無いのだろうと、ジョフレには判っていた。 こんな時ですら表面上を偽れる彼の余裕に頼もしさを感じたジョフレは、彼に倣って微笑んでみる。見下ろすと、姉も同様に微笑んでいた。 「安心なされよ、颯爽とこの場を去り身を隠さねばならんとは言え、とりあえず身を置く場ならば確保してある。が――」 笑みの奥に隠された鋭い瞳が、ジョフレたちより後ろで呆然と立ち尽くす兵士たちに向けられた。 「正直なところを言えば、足手まといになりかねん者を擁護するほどの余裕はない」 そう言ったのがユリシーズでなければ、ジョフレは兵士たちに代わって何かを言い返していたかもしれなかった。 ユリシーズの事だ。豊富な知識を秘めた回転の早い頭で思考を組み立て、最善の方法を考えた末に、兵士たちを切り捨てる事に決めたのだろう。クリミアのため、自分たちのため。そしておそらくは、兵士たちのためでもあるはずだった。 「しかし……!」 反論しようとして言葉が見つからない兵士たちの無念が手に取るように伝わってきて、いたたまれない思いに支配されたジョフレは、愛馬の背を降り、兵士たちに向き直った。 「各々、ここで武器と鎧を捨てよ」 「ジョフレ様……!」 「口惜しいが、今はまだ戦うべき時ではない。それでも生まれながらに戦士である我らに他に選ぶ道は無いが、お前たちは違うはずだ。一民として故郷に戻り、苦しむ家族を、友を、仲間を支えてやるといい」 「ですが、将軍……!」 視線が絡まると、兵士たちはすっかり恐縮して、言葉を詰まらせた。 将軍と口にして、より思い知ったのかもしれない。ジョフレは命令を下す者であり、彼らは従うべき者なのだと言う事を。 「お前たちと……ケビンの無念は、私が預かる。どうか任せてほしい」 彼らの上官の名を出すと、全員が表情を凍らせ、やがてひとりが泣き出した。 こう言うところを見せられると、あの赤毛の青年は、彼らにとっていい上官だったのだろうと思い知らされる。上官としての彼をジョフレは知らないが、部下としての彼は少しは知っていたので、兵士たちの反応と合わせて多少予測する事ができた。今のジョフレのように無体な命令を下す事はなかったのだろう。部下たちの良き理解者であったのだろう。 恨まれる覚悟はできていた。無力な自分に背負えるものが、よりいっそう濃さを増す感情の闇だけであるのならば、それだけでも担おうと。 だが、兵士たちはジョフレに氷の視線を投げかけるでも、罵倒を浴びせるでもなく、静かにジョフレの前に跪いた。 「いつか……いつの日にか」 兵士の内のひとりが言った。 「クリミアがデインが再びと戦う、その日には……武器を手に取り、将軍の下に馳せ参ずる事を、お許しくださいますか」 ジョフレは戸惑いを隠しきれなかった。 自分の都合で突き放しているのはこちらだと言うのに、まだそんな事を言ってくれるのか。 兵士たちの気持ちが暖かく、ジョフレは喜びに微笑んで、小さく首を振った。 「それは認められん」 「しょっ……」 「私の下ではなく、我らが主エリンシア王女の下に、馳せ参じよ」 静かに、しかし力強く言うと、兵士たちの表情は明るく輝いたが、すぐに見えなくなった。全員が深々とジョフレに頭を下げたまま、動こうとしないからだった。 ジョフレはルキノやユリシーズと無言で頷きあうと、兵士たちに背を向けて歩き出した。 |