晴れわたる空の下・6

「王弟殿下が……?」
 何の冗談だ、と言い返しそうになったジョフレだったが、悲痛以外に表現のしようがない姉の表情を見下ろせば、そんな事ができるはずもなかった。ルキノがそのような冗談を言う人間ではないと、一番良く知っているのは、弟であるジョフレ自身なのだから。
 王弟の下で戦場を駆けていた、この世で最も信頼の置ける人物がそう言うのならば、ジョフレは王弟の敗北を信じるしかなかったが、それは姉の正気や人格を疑ってでも信じたくない事象のひとつであり、自然、その場に呆然と立ち尽くす事となった。
 激しい雨音に、草を踏み荒らす音がまざる。それから、すすり泣く声。静かな森に突然現れたふたつの音から、背後にいた部下たちが泣き崩れている事実を、ジョフレは思い知った。言葉無くすすり泣く彼らが、この国がデインに占領される事を思い嘆いているのか、共に戦場で果てれば良かったと後悔しているのかは、判別つかなかった。
「それで、クリミア軍はどうなった」
「王弟殿下が討たれた時には、まだ半分は残っていたのだけれど……王弟殿下を失う事で、みんな絶望してしまった。導き手は居ない。クリミア王家の血は絶えた。何の希望もない状況下で、ただでさえ圧倒的な力を持つデイン軍とまともに戦えるわけもなくて……多くの兵は死に、僅かに残った兵は散り散りになってしまったわ」
「希望なら」
 力のない声で、ジョフレは言った。
「まだ、あるだろう」
 確かに、武勇並ぶものなしと称えられた王弟は、突然の戦乱に巻き込まれたクリミアにとって、何よりも輝かしい希望であった。ジョフレとて例外ではなく、王弟がクリミアを守ってくれると思うからこそ、クリミアを離れると言う選択をためらわずに選べたのだ。
 その眩しい光がデインの闇に飲まれてしまったのならば、それはとても絶望的な事だ。しかし、真の絶望ではない。
 クリミアにはまだ、王女エリンシアが残されているのだから。
「王家の血ならば、ラモン王の遺児が……」
「誰がそれを、知っているの?」
 ルキノは言葉と共に、内にあった悔やみを吐き捨てているようだった。
「王弟殿下の居ない王国軍で、隠された王女の事を知っていたのは、私とユリシーズふたりきりだった。王弟殿下のお言葉ならば違ったかもしれないけれど、動揺と混乱で埋め尽くされた王国軍に、私たちの言葉を信じてくれる人なんて、ほとんど居なかった。いいえ、ひとりも居なかったかもしれない。生きるために、偽りの希望でもいいから縋りたくて、信じたふりをする人がいくらかいただけ」
 ルキノの手がジョフレの腕を掴み、力を込めて震える。
 統率者を失った王国軍の兵たちが、どうなったかをジョフレは知らない。玉砕覚悟でデイン兵に立ち向かった者もいるだろう。絶望から逃れるために、自ら命を断ったものもいるだろう。戦場を放り出し、今もどこかで生き長らえている者、デインに捕らえられ殺されたもの、捕虜となった者もいるだろう。
 ルキノはきっと、それらを見てきた。
「あの戦場で私たちにできる事は、もう何もなかった。ひとりでも多くのデイン兵を道連れに果てる事はできたけれど、そんな事に意味はないでしょう。まして、自ら陛下たちの後を追うなんて……」
 ルキノは、恐怖と苦痛と嘆きの声を聞きながら、ここまでたったひとりで走ってきたのだ。
「エリンシア様は必ずクリミアに戻られるわ。だから、どんなに無様でも生き延びて、その日が来たらエリンシア様の下に馳せ参じ、クリミアを取り戻すために全力を尽くす。それが、クリミアの戦士としてできる最良の事だと、私は信じてる。この命を散らすならば、エリンシア様のために」
「姉さん」
「いいえ。たとえエリンシア様がいらっしゃらなくても……ただ惨殺されるだけだと判りきった戦いで命を捨てる事が、クリミアに対する忠義だとは思わない!」
 全てを吐き出すと、ルキノは俯いた。
 ジョフレを掴む手の力が抜ける。雨水を吸った長い髪の隙間から覗く唇が、小刻みに震えている。
 気丈ではあったがけして気性が激しいわけではなく、むしろ冷静で落ち着いた所がある姉が、ここまで感情を剥き出しにするのは珍しい事だった。
 珍しいからこそ、ジョフレは苦しかった。
「姉さんは、正しいさ」
 優れた指揮官でもある姉の声が、誰にも届かなかったのだとすれば、それはとても悲しい事だ。
「姉さんは戦場から逃げ出たわけじゃない。今だって、誰よりも立派に戦っている」
「っ……!」
 耐え切れず、と言った様子で、ルキノは両手で自身の口元を押さえたが、嗚咽を抑えきる事はできなかったようだ。兵士たちのように崩れ落ちるのだけはこらえようとしているのか、ジョフレの胸にもたれかかってくる。
 見る事の叶わない姉の静かな涙が、ジョフレの胸に重くのしかかった。
 たとえ傍から見た結果が明らかであっても、自分たちが諦めていない以上、戦いはまだ終わっていない。それならば戦士はまだ泣いてはならないはずで、女の身で剣を取る事を決めたルキノならばそれを誰よりも判っているだろうに、こうして泣いているのだ。
 本来ならば檄を飛ばすなり諌めるなりをするべきなのだろう。だが、ジョフレはそれをしなかった。絶望が垂れ込める中でも諦めず、力を尽くし、成すべき事を選び取って走り続ける者に、このくらいの休息を許して何が悪いのだ、と思ったのだ――もちろんジョフレ自身には、許される事ではないのだけれど。
 ジョフレはしばらくじっと姉を見下ろし、肩の震えが止まったころ、そっと手を差し出し涙をぬぐってやった。
「みっともないところを見せたわね」
 照れくさそうに笑うルキノに、ジョフレは小さく首を振った。
「いや。さっきも言ったが、姉さんは立派だ」
「……ありがとう」
「それで? エリンシア様のために動くと言うのなら、これからどこに向かうつもりだった?」
 ジョフレが問うと、ルキノは息を呑んでから答えた。
「しばらくはフェール領のどこかにかくまってもらう予定なの。西側の方がまだデインの手が伸びていないから、あくまで比較的だけれど安全だし、あのユリシーズお見立ての隠れ家なら信頼できるでしょう。それにガリアも近いから、姫の行方も追いやすいと思ったのよ――まあすべて予定なのだけれど。フェール伯に生きて再会できなければ、どうなるか判らないわ」
「ユリシーズはどうしてる?」
「追っ手を撒くために分かれて逃げたから、今どの辺りに居るかは判らないけれど、ユリシーズだもの。別の道を通って、無事、自分の領地に戻るでしょう」
 ユリシーズだからと言うのは、あまりにも根拠の無い理由だったが、それをなんとなく納得させてしまうのが、道化師のような格好で相手を油断させ、何も考えて居なさそうな口ぶりで鋭い意見を述べ、笑みを浮かべながら鋭い眼光を周囲に向けているユリシーズと言う男だった。
 他の誰の生存を疑っても、殺しても死んでくれそうにない彼の生存だけは疑いようがないし、彼ならば頼りになる。姉の今後を任せるにはこれ以上ない人材であり、ジョフレは安堵した。
「ねえ、思ったのだけど……貴方たちも一度、フェールに来たらどうかしら」
 ルキノの提案に、ジョフレはすぐさま首を振り、それから手で部下達を示す。
「彼らはぜひそうしてやってほしい。手負いの身で、今までよく付き合ってくれた。だが、俺には果たすべき、果たしていない使命がある。それを終えるまで、休む事などできない」
「将軍、そんな……!」
「俺たちだって、エリンシア様を見つけるまでは!」
 部下達の意外にも強気な反応に、驚き戸惑うジョフレの横で、ルキノは表情を和らげた。
「少し考え方を変えてみたらどう? 休息するわけじゃなく、情報を集めに行くのよ。私がこれから会いに行くのは、ユリシーズなのだから」
 王弟に文官として仕えていた、飄々とした様子で抜け目のない親友の顔を思い浮かべたジョフレは、「なるほど」と小さく呟いた。
「ユリシーズの情報網ならば、エリンシア様の行方を掴んでいるかもしれない、か」
「そう言う事よ。悪くないでしょう?」
 姉の小さな微笑みに、視線だけで答えたジョフレは、愛馬の手綱を手に取った。


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