晴れわたる空の下・5

 大粒の水滴が、ぽつりと脳天に落ちる。それを皮切りに、暗雲が覆う空から、叩きつけるような激しい雨が地上へと降りそそいだ。
 痛みすら覚える雨は、ようやく塞がりかけた傷口を抉る針のようで、償いきれない罪を背負った人間に女神が与えた罰かもしれないとジョフレは考えた。
 守るべき主を見失い、危機にさらしたなどと、命を断ったところで許される罪ではない。だと言うのにこの程度の罰とは、女神も心優しい事だなと思いながら、そもそも自分は許されたいと思っていないのだなと気付いたジョフレは、雨に濡れた重い体を引きずるように彷徨い続けた。
「将軍、体を冷やしては毒ですよ」
 と、気遣う部下の声はあったが、耳を傾ける気はないし、部下たちもそれ以上何をするでもなかった。彼らとて気持ちは同じはずだ。自分の身よりも、エリンシアの身を案じるべき状況なのだと。
「ジョフレ将軍、ご報告です!」
 エリンシアの捜索をしていた者のひとりが、弾んだ声でそう言って、泥をはねさせながらジョフレに駆け寄ってくる。
「先ほどデインの一団の姿を見つけました。多勢に無勢ゆえ、口惜しくも身を隠してやり過ごしましたが、その時デイン兵のひとりが、一団の目的を口にしておりました」
「……何と?」
「王命により、エリンシア様を捜索しているとの事!」
 ジョフレの体が揺らいだ。
 力なく背後にあった木に背中を預ける。自然と組み合わされた手を額へ運び、女神へ感謝の祈りを捧げる。
 アスタルテよ、貴女のご慈悲に感謝いたします――。
 王女が行方不明と言う事実に変わりはない。変わりはないが、現状は想像しうる中で最も良いと言えた。王女は生きていて、デインに捕らわれてもいないのだから。
「他に、何か判った事はあるか?」
「噂話でしたらいくつか耳にしました。ですがあてになるかどうか……」
「たとえば?」
「王女はすでにガリア入りしている、実はガリアに行くふりをして王都に戻っている、どこぞの傭兵団に保護されている、王女は本当は存在しない、などですね。ひどいものでは王女ではなく王子だと言っている者もおりました」
 なるほど確かに噂話らしい。明らかに間違った話や、矛盾する話が出揃っている。その中に真実がひとつでもあるのか、ひとつもないのか、今のジョフレでは情報が少なすぎ、判断できなかった。
「王都に戻られる事はないだろう。だとすればエリンシア様は、何らかの形でガリアを目指されているに違いない」
「では我らもガリアに向かいますか?」
「そうしたい所だが……我らだけではガリアの国境を越えられないのだ。一応友好国ではあるが、国境は開かれているとは言えん。協力を求めたい国に対して、密入国するわけにもいくまいし……陛下、いや、王族のどなたかの書状でもあれば良いのだが、エリンシア様がここにおられぬ今、我らはそれを手に入れる事もできん」
「確かにそうですが……」
 ジョフレと同様に、兵士たちも押し黙った。
 ようやく王女の行方を掴みかけた所で出す結論としては悔しいが、ここは王都に戻るべきかもしれない。ジョフレはぐっと拳を握りしめる。いや、今から国境付近まで向かい、王女と合流できる奇跡を願うのもひとつの手か。
 考え込み目を伏せる事で、聴覚が研ぎ澄まされると、耳の奥に音が響いた。
 馬が駆ける音。おそらくは、単騎。
「……何か来るぞ」
「え?」
「身を隠せ、早く!」
 ジョフレの指示に、兵士たちは散った。
 幸いにも森の中は、身を隠す場所が五万とある。付近でもっとも大きな木の幹に姿を隠したジョフレは、駆けてくる者が何者かを確かめようと、そっと顔を覗かせた。
 デインの者か、クリミアの者か、あるいはまったく違う国の者か。
 下手に姿を晒して騒ぎを起こし、まだ遠くないデインの兵団に感付かれるわけにはいかない。だが、このご時世に街道を単騎で駆ける者の正体を知っておきたかった。
 街道の向こうから、徐々に姿を現す白馬。煌びやかな飾りは、聖騎士に与えられた軍馬のものだ。
「あれ……将軍の馬じゃありませんか?」
 兵士のひとりがジョフレに囁いた。
 彼の言う通りだった。馬に施された装飾はジョフレの愛馬とまったく同じだ。それに長年親しんだ愛馬となると何となく顔の区別もつくもので、間違いなく、駆けている馬はジョフレのものだった。
 数日前、少年兵の手当てを受けて目を覚ました時には居なかった。気を失う前には確かにそばにいたので、ふがいない主人に愛想をつかしてどこかへ去ったのかと勝手に思っていたのだが。
「乗ってるのは誰でしょうね。聖騎士の軍馬を奪うなんて……!」
 とげとげしく吐き捨てる兵士には答えず、ジョフレは身を隠すのをやめ、道へと足を踏み出した。
「将軍!」
 高位の司祭の祝福を受け、特別に手入れされた誇り高き軍馬は、聖騎士たる主以外の者を背に乗せる事はほとんどない。ジョフレが聖騎士叙勲を受けあの馬を手に入れた際、ジョフレの周りの者何人かが果敢にも挑んだが、大抵の者は振り落とされた。「友の相棒なのだから私の相棒でもあるのだよ」と良く判らない理論で挑戦したユリシーズも、例に漏れず、だ。
 だからあの背に乗れる者は、ジョフレ以外ではたったふたりしか居ない。幼い日からジョフレと共に育った、ふたりの女性だけ。
 正体を隠しているのだろう、深々と被ったフードから時折覗く髪の色で、ふたりのうちどちらであるかを判別したジョフレは、ためらう事なくその身を晒した。
 馬上の主も、ジョフレの存在に気付いたようだった。手綱を引き、ジョフレのすぐそばで足を止める。
「……ジョフレ!」
 離れていたのは数日。だが、ひどく懐かしく感じる声が、ジョフレの名を呼んだ。
 軽やかな身のこなしで、馬上の人から地上の人となった人物は、フードを払って顔を見せる。涼やかな色を持つ長い髪と瞳は、ジョフレと同じ色。線の細さこそ違えど、顔立ちはジョフレと酷似している。
「ルキノ姉さん」
 呼ぶと、ルキノは華やかに微笑んだ。
「王弟殿下の下で戦っていたのではなかったのか? どうしてこんな所に」
「それはこっちの台詞だわジョフレ。貴方の馬が貴方を乗せずにとぼとぼと歩いてきた時の、私の絶望と言ったら! 天に召された貴方から、急いでいる私への最後の贈り物かと思って、ありがたく拝借したけれど……良かったわ、生きていたのね。無事だったのね。本当に良かった」
 ルキノは両腕を伸ばし、確かめるようにジョフレの輪郭をなぞる。
 気丈な姉の僅かに潤んだ瞳を見つめ、それだけ心配をかけたのだと、ジョフレは申し訳ない気持ちになった。戦乱の中で戦う場所を分かったのだから、弟が遠い場所で命を落とす覚悟くらいは決めて居ただろうが、だからと言って心配や、生きて再会できた喜びが失われるわけではないのだ。
「エリンシア様は無事なの? きちんとお守りしてる?」
「それは……」
 どきりとし、反射的に口を噤むと、ルキノは何かを察したらしい。ジョフレから目を反らし、辺りを見回した。
 もちろん、その涼やかな両の瞳に、求める人物が映る事はない。
「まさか、デインに奪われたわけではないでしょうね?」
「それはない。そんな事になれば、俺は玉砕覚悟でデインの砦に突入するか、命を断つ。ただ、見失ってしまった。どこに居るかは判らない。俺たちもデインも、エリンシア様を探している」
「なんて事……!」
 正直に答えると、ルキノは手を振り上げた。殴られて当然だと構えたジョフレだったが、姉の手が振り下ろされる事はなかった。
 軽く唇を噛み、何かをこらえている。振り上げられた手は、震えている。
「どうした。なぜ、殴らない」
「権利が無いからよ。私も、貴方と変わりないわ。戦士としてあのお方の下で戦い、クリミアを守らなければならなかったのに」
 ルキノは震える手で拳を握り、それをジョフレの胸に降ろす。
 触れる事で傷口が疼いたが、傷の痛みよりも、ルキノの言葉がもたらした胸の痛みの方が辛かった。
「王弟殿下は、デイン王アシュナードに敗れたわ」
「なっ……!」
「クリミアは、負けたのよ」


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