晴れわたる空の下・3

 馬の扱いには自信があったケビンだが、過去に手綱を取った事も世話をした事もない、怪我を負っている馬を御した事はかつてなく、苦戦を強いられる事となった。
 全力で走り続けた馬に追いつくまでにも一苦労だったが、いくらか走ってようやく速度を落としはじめた馬車に追いつき、手綱を手にとってみたものの、こちらの意思通りに動く様子はまったくない。落ち着け、止まれ、と声をかけても、もちろん何の意味もなかった。
 ケビンはそうして、馬を止めようと努力をしていたが、しばらくすると諦めると言う苦渋の決断をするしかなかった。この速度と揺れでは、馬車の中に居る可憐な主君は相当ひどい目にあっているだろう。大きくゆすぶられるのはもちろん、体のあちこちをぶつけている可能性も大きい。痣や擦り傷くらいならばともかく――ケビン個人の気持ちを言うならばそれも許せないのだが――頭を打つなど大きな怪我を負わせるわけにはいかない。
 ケビンは手綱を手放し、斧を構えると、傷を負った馬と馬車をつなぐ綱を切った。
 大きな荷物から切り離された馬は自由に駆けていく。すかさずケビンは、馬車を一匹で引く事となったもう一頭の哀れな馬の手綱を拾い、ゆっくりと速度を落とした。
 馬が離れていく瞬間、馬車はバランスを崩して大きく揺らいだが、なんとか倒れずにすみ、ケビンはほっと胸を撫で下ろす。それから慌てて愛馬を降り、一瞬迷ってノックをした後、馬車の扉を開いた。
「申し訳ありません、エリンシア様……」
 何と言って謝罪するべきかも判らず、とりあえず謝罪の気持ちを伝えようと紡いだ第一声が、虚しく霧散した。
 馬車の中を覗いて愕然としたケビンは、半身だけ馬車の中に入り中を見回す。しかし、そこには誰も居なかった。
「エリンシア様……?」
 どこに行ったのだと、考えるまでもなかった。ケビンが開けた扉の向かいの扉が、開いていたのだ。
 あの揺れで扉が開いてしまい、途中で落ちてしまったのか。あるいは、危機を察したエリンシアが、安全そうなところを見つけて自ら飛び降りたのか。
 ケビンが外見から想像したエリンシア像に後者はありえなかったが、扉の鍵は壊れたわけでなく内側から開けられた様子だった。上官曰く、麗しきエリンシア姫は幼少のころから剣術・体術・馬術の訓練を積んでいたらしいので、儚げな風情に似合わず行動的なのかもしれないと、ケビンは無理やりに納得した。
 しかし、いつの間に? 並走している間にそんな事をされれば、いくらケビンとて気付くはず。と言う事は、エリンシアはケビンが馬車に追いつく前、遥か前方で馬車から脱出しているのか?
 ケビンは息を呑んだ。来た道を、急いで戻らなければならない。王女の救出と、適うならば上官の助太刀に。彼の人の強さはよく知っているけれど。
 ケビンは慌てて、愛馬に駆け寄った。
「ようやく追いついたぞ」
 ガサリ、と草を書き分ける音と声がして、ケビンは振り返る。
 現れた人物は五人。彼らの鎧にはすべて、デインの紋章が刻まれていた。
「あれが王女の馬車か」
「やっかいな聖騎士と引き離せたはいいが、追いつくのに一苦労だったな」
「手柄の事を考えれば、このくらいの苦労はわけないさ。下級騎士ひとり程度なら、俺たちでもどうとでもなるだろ」
 馬に乗る余裕もない。ケビンは苛立ちに唇を噛み締め、愛用の斧を構えた。

 心臓が張り裂けそうだ。
 血まみれの戦場にたったひとり残された男は、ふと思う。
 それは、多くの部下を失ったからか。息が切れるほどに戦い続けたからか。守るべき王女が、そこに居ないからか。
 思い悩む必要などない。そのすべてが答えなのだと、ジョフレは判っていた。
「……行かねば」
 共に戦い栄誉ある死を遂げた兵士たちを、弔う事もせずにその場に置き去りにする事は苦痛だったが、すべてのデイン兵を片付けたと言う保証もない今、どこかで戦い続けているかもしれないケビンや、ケビンと共に居るかも判らないエリンシアのために走るのは、呼吸にも似た、ジョフレが生きる上での必然とも言える行動だった。
「姫、どうぞご無事で」
 今すぐ死者の仲間入りをしても誰も驚かないだろう己の体を酷使しながら、祈るように呟く。傷のせいか体が熱を持ち、汗が溢れ、意識が朦朧としはじめる。僅かでも気を抜けば閉じようとする瞼をこじ開け、ジョフレは前方をしっかりと睨みつけた。視界は霞みかけていたが、見失うほどではなかった。
「エリンシア様……!」
 常に柔らかな光の中に居た王女の名は、口にするだけで大いなる力となった。ジョフレの中にだけ存在するふたつの誓いが蘇り、残された僅かな力を奮い立たせる。
 軽々しく触れる事すら許されなくなったのは、性別の違いだの愛だの恋だの、そんなものを意識する事もなかった幼い日の事だった。今思えば、この国でもっとも高貴な女性のひとりに対して当たり前の事なのだが、当時は意味も判らないのに急に壁を作られ、悲しかった。
 ただ隣に並び、共に生き、共に学び、共に遊ぶ。今でも一番大切な思い出で、一番輝かしい日々の中、感情の種類に変化はあれどエリンシアを大切に思う気持ちだけは変わらず、ジョフレは誓った。どんな形でもいい。この人を一生守っていこうと。あらゆるものからこの人を守る、盾になろうと。
 そしてもうひとつ誓ったのは、目の前で両親を奪われ、エリンシアの華やかな深緑の瞳が悲しみと憎しみに濁った瞬間だった。周囲と自分自身の闇の気に震える王女を腕の中に守りながら、彼女がこれ以上傷付かずにすむように、自分がこの人の剣になろうと、誓った。
 誓ったのだ。他でもない、自分自身に。
「愚かなり、デイン兵よ!」
 王女と部下の無事を祈りながら走るジョフレの耳に、森中に響き渡らんばかりに張り上げられたケビンの声が届く。
 声量こそかなりのものだったが、普段の彼の声ならば必ずある、過剰な力強さがそこになく、ジョフレはなお早く馬を走らせようとし、すぐに考え直した。
 ケビンの声の中に、何かしらの違和感を覚えたのだ。
「愚かなのはどっちだ? 死にかけのくせにデイン様に逆らいやがって。とっとと王女をよこせ!」
 おそらくはデイン兵と思わしき複数の男たちの笑い声。それに、ケビンの笑い声がかぶさった。
「だから愚かだと言うのだ。私ごとき下級騎士が王女を守る騎士と本気で思ったか!」
 違和感の正体におぼろげに気付いたジョフレは、静かに進み、ケビンたちの姿をぎりぎり覗き見れる場所に移動した。
 傷付き、武器を取られ動きを封じられたケビンを囲む五人の男。その向こうに、エリンシアが乗っていた黒塗りの馬車がある。
 デイン兵のひとりが馬車の扉に手をかける事で、ジョフレも、デイン兵も、ケビンの笑いの意味を知った。
「このような単純な策に嵌る者を、愚かと言わず何と言う? お前たちが追っていたのは王女の影! エリンシア王女はとうにこの場を離れておられる!」
 はったりだ。
 不必要なほど大きな声で、挑発する口ぶりで、意識を自分にひきつけながら、仲間の誰かに現状を知らせようとしている。なぜか馬車の中にはおらず、別のどこかに居るだろう王女を探して保護しろと、ケビンは叫んでいる。自身の命の保障など、どこかに放り投げて。
 迷うジョフレの視線と、ケビンの視線が絡まった。
 ケビンは、かつて自分がそうしたように力強く微笑み、肯いた。それがどういう意味かを理解し、自分の運命を享受した者の笑みだった。
『命に代えましても』
 王弟の命にそう答えたのは、自分だけではなかったな。
 笑みに思い出し、迷いを払拭したジョフレは、ケビンたちに背を向けた。


4へ
GAME
トップ