晴れわたる空の下・2

 地の利をとる事で、数や待ち伏せによる相手の優位を退けられたのは幸運と言えた。
 立ち並ぶ木々に阻まれ、ジョフレの背後に回る事ができない騎兵隊たちは、正面から少数ずつジョフレに対峙するしかなく、数の暴力を使えないとなれば、彼らはジョフレの敵ではなかった。全ての攻撃を避けきる事はさすがにできず、いくらかの傷を負ったが、屠った騎士の数を思えば、この程度の傷は安いものだ。
「はっ!」
 気合と共に一閃したジョフレの槍が相手騎士の腹を貫き、騎士が落馬した。
 確かこれで、十八人。
 ジョフレは体力を消耗し、肩で息をしている状態だったが、よりいっそうの気迫を込めて正面の一騎を睨みつける。
 あと二騎くらい何とかなるだろう。一番の実力者と思わしき隊長がまだ残っているのが不安要素と言えたが、勝つしかない。勝ってケビンたちと合流し、王女エリンシアを守りガリアに向かわなければ。
「覚悟せよ、聖騎士!」
 血まみれの槍が正面の騎士の鎧の隙間を縫った瞬間、覚えのある声が耳についた。
 下卑た笑い、品のない声。忘れもしない、この騎兵隊を率いる隊長の――。
「!」
 慌てて声のした背後に顔を向ければ、弓を構えた隊長がこちらに矢を放った。風を切る音は一瞬で、避ける間もなく、矢はジョフレの背に突き刺さる。
 熱が、背の中ほどに生まれた。
 悲鳴を飲み込み、激痛を堪え、ジョフレは馬を操り隊長と対面する。
「卑劣な……!」
 敵わないと判っていながら部下たちを正面衝突させ、その隙に自分はゆっくりと森を抜け、背後を取る。他にジョフレに勝つ方法を見出せなかったのだとすれば有効な策と言わざるを得ないが、自分だけの勝利と手柄のために、部下を平気で使い捨てにする精神が許せなかった。
 ジョフレはもはや使いものにならない槍を投げ捨て、新たに弓を構える。本格的な訓練をはじめたのは聖騎士となってからだったが、弓の腕でも眼前の男に負ける気はしなかった。
 それを構えで察したのだろう。デインの隊長は両手を上げ、体で降参を表す。
「待て。判った、引く。引くから、命だけは……」
 無様な懇願を聞き入れる気は毛頭ないた。ジョフレがためらいもせずに放った矢は男の眉間を貫き、男は地に落ちて、動かぬ躯となった。
「っ……!」
 相対する敵兵を全て討つ事で、一時の安堵が手に入ると、背中に走る痛みが急激に強くなった。幸いにも内臓を傷付けてはいないようだが、思ったより深い。染み出す血の生温さに、悪寒が走る。
 身を縮め、目を伏せ、ゆっくりと呼吸をした。そうする事で痛みが治まるわけもなかったが、痛みを慣らす事はできた。
 大丈夫だ、自分はまだ戦える。弓を引ける。それができなくとも、馬を走らせる事はできる。自分はまだ、エリンシア王女の盾になれる。
 ジョフレは進むべき道を睨みつけると、エリンシアや第五小隊と合流するべく、来た道を戻った。

 黒塗りの馬車は、離れた時から微動だにせずそこにあった。内外から扉を開けられた様子はなく、中の人の気配もそのままだ。
 そうしてエリンシアの無事を確かめると、ジョフレの表情は自然と和らぎ、腹の奥から息を吐く事ができた。
「ジョフレ将軍!」
 見張りを兼ねた護衛の兵士のひとりが、ジョフレの姿を見付けるなりその名を呼ぶ。ジョフレが頷いて応えると、直後、馬車の扉が開いた。
 馬車の中で、森よりもなお深い輝きを秘めた緑の髪が揺れ、同色の瞳がジョフレを見上げた。
 ジョフレの記憶に残るその瞳は、常に春の太陽のような優しい輝きで溢れていたが、今は空と同じように厚い雲に覆われており、少々の陰りが見えた。それでも王女の美貌に陰りはなく――むしろ新たな魅力の発見とも言えた――馬車の傍らの兵士は息を飲んでいた。
 王女を凝視する兵士の態度を注意するべきか一瞬迷ったジョフレだったが、それはしなかった。自身も王女に視線と意識をすっかり奪われており、上官である自分がこれでは、部下を叱りつける権利などないと思ったからだ。
「ジョフレ……大丈夫ですか?」
 怯えるように訊ねてくるエリンシアに、ジョフレは力強く頷いた。
「もちろんです。私は王弟殿下よりエリンシア様をお守りする大役を預った身。エリンシア様を無事ガリアへとお導きする使命を果たすまで、倒れるわけにはまいりません」
「ですが、ひどい傷です」
 エリンシアは馬車から半身を出す。手には癒しの杖を持っており、ジョフレの傷を癒そうとしているのだと容易に想像がついた。
「いけません、エリンシア様。いつどこにデインの者がいるか判らない状況です。むやみに姿を現しては……」
「では、貴方が馬車の中に入ってきますか?」
「いえ、それは、できかねます。後方では未だ戦いが続いているでしょう。すぐに向かわねばなりません」
「ならば尚更です。その傷では、満足に戦えないでしょう?」
 きっぱりと言い切ったエリンシアは、杖を持ってジョフレに歩み寄った。
 意思が強く、時に頑固な部分も見せる彼女の事、もう何を言っても聞き入れはしないだろうと、ジョフレは諦めた。諦めてしまえば、王女の労わりはとても嬉しいものだった。
 背中に手を伸ばし、刺さったままの矢を引き抜くと、エリンシアの癒しの術を受け入れる。
 淡い光と共に、優しい力が全身に漲った。無数の小さな切り傷も、背中の刺し傷も、一瞬にして癒えていく。
「ありがとうございます、エリンシア様」
「……この程度の事しかできなくて、ごめんなさい」
「何をおっしゃりますか。私にとってエリンシア様のために戦える事は、至上の喜びです」
 偽りは無かった。真実を言葉にするだけで、胸中に幸福が溢れてきた。
 賢王ラモンも、王弟レミングも、敬愛すべきすばらしい主であるし、彼らの元で戦ってきた今までの自分に誇りがある。
 しかしエリンシアは、誇りももちろんだが、何か違ったものも同時に与えてくれるのだ。
「他に何か、私にできる事はありますか」
 震える小さな唇が言った。
 そこに居てくれるだけで良いと言う真実は、不安に支配された王女に対して適切な返答では無いのだろう。それくらいは、ジョフレにも判っている。
「お祈りください、女神アスタルテに。我らの勝利を」
 微笑みながらジョフレが言うと、エリンシアは小さく頷き、胸の前で手を組んだ。
 すらりとした立ち姿は彫像のように美しく、けれど無機質な冷たさはない。まるで女神そのものだと、ジョフレは思った。自然と湧き上がる勇気と安らぎは、感動を伴っていた。
「見つけたぞ、王女エリンシア!」
 不吉な声が響いたのは、ジョフレが今にも駆け出そうとした瞬間の事。
 ジョフレは息を飲み、エリンシアを守るように馬を操り、主君に背を向けた。
「馬車の中にお戻りください、エリンシア様。ここは、我らが」
「ですが……」
「早く!」
 声を荒げて叫ぶと、エリンシアは黙り、ジョフレの指示に従った。
「お前たちはこの場を動くな。何があっても王女をお守りしろ」
「はっ……」
 扉が閉まる微かな音を確かめ、兵士に簡潔に指示すると、ジョフレは駆けはじめた。
 槍を構えた騎兵が、すれ違い様に突き出した槍を避ける。突き出された槍の柄に腕を絡めて掴み、そのまま押すと、騎兵は体勢を崩した。その隙を突いて槍を奪い取り、騎兵を叩き落とす。とどめを刺す余裕はなかったが、武器を奪われ落馬した騎士が何かしようとしても、護衛の兵士たちがどうにかしてくれるだろうと信頼し、ジョフレは突き進んだ。
 自分に向けて放たれる矢を篭手で掃う。迫り来る兵士たちを端から薙ぐ。先ほどの騎兵隊との戦いで浴びた返り血と合せて、服や鎧が赤く染まりつつあった。
 ケビンたちはどうなっただろう。傷付きながらもなお向かってくる兵士を貫きながら、ジョフレは考えた。僅かとは言えデイン兵がエリンシアのところまで到達したとの事実は、ジョフレの中で五番小隊の絶望を意味している。全滅とは言わないまでも、ほぼ壊滅状態に陥っているのではなかろうか。
 自分だけの勝利と手柄のために、部下を平気で使い捨てにする――それは先ほどの騎兵隊隊長に対する評価であったが、結果だけを見れば自分も同じである事に気付いたジョフレは、皮肉なものだと自嘲ぎみに笑いながら、槍を振るい続けた。
 志し半ばで命を落とした兵たちのためにも、ここで諦めるわけにはいかない。
「うわぁっ!」
 背後から兵士の悲鳴が響く。それから興奮した馬の嘶き、走り出す車輪の軋む音。
 振りかえる余裕のないジョフレだったが、音だけで大体の判断はついた。流れ矢か何かが馬車に繋がれた馬を襲い、馬が暴走したのだろう。
 ――エリンシア姫!
 ジョフレは心の中で叫んだ。
 後から後から現れるデイン兵に煩わしさが増す。こんなところで雑兵を相手にしている暇はない。王女を、追わなければ。エリンシア姫を。
「ジョフレ将軍!」
 自らの名を呼ぶケビンの声が、今は救世主の声に聞こえた。
 失いかけた冷静な思考が、徐々に蘇ってくる。
「ケビンか!」
「助太刀いたします!」
 乱戦をくぐり抜けてきたのだろう、いくつもの傷を負ったケビンは、ジョフレのそばに馬を寄せ、自慢の斧を振り上げる。
「ケビン、ここはいい。馬車を追え」
「馬車を……?」
「暴走した。ここにクリミア騎兵は私とお前しか居ない。急げ!」
「はっ!」
 深く傷付いたケビンと、先ほどエリンシアに傷を癒してもらったばかりのジョフレでは、どちらがここに残り、どちらが馬車を追うべきか、判断するのは容易かった。ケビン自身も手負いの身ではここを抑えきれるとは思っていないのだろう。素直に従って、馬車が走り去った方向へと馬を走らせる。
 追えるものならば、自分で追いたいが。
 胸の奥に隠した本音を想い、一瞬だけ口の端に笑みを浮かべたジョフレは、再び槍を振るった。
 たとえ見苦しかった騎兵隊隊長と同じ結果を辿ったとしても、意思までもが同じ道を辿るわけにはいくまい。


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