序章 誕生  父と、母と、自分と。家族三人、大陸最大の都市である王都セルナーンで過ごす日々に終焉が訪れたのは、本当に突然の事だった。  聖騎士団に所属し、順調に出世を重ねていた父は、神の御子の護衛隊長と言う名誉ある地位について安泰していた。母は大人しいながらもしっかりと家庭を守り、夫を支え、娘であるナタリヤに惜しみない愛情を注いだ。ナタリヤは明るく健やか、かつ利発に育ち、多くの友人を持っていた。  傍から見れば理想的とも言える家族の中で、特別な変化を望む者は誰ひとりとして居なかった。家庭を外から見守る近所の住人も、この幸福な家族が突然消えてなくなるなどと、考えもしなかっただろう。  終わりのはじまりは、「短くて数日、長くてもひと月程度だろう」と言って遠征に出た父から届いた、一通の手紙だった。手紙は長く、沢山の事が書いてあったようだが、当時七歳になったばかりのナタリヤに理解できたのは、父の甥、つまりはナタリヤにとって従兄弟にあたる人物に、二度と会えないと言う事だけだった。  とても悲しい事だった。ナタリヤが従兄弟と接する機会は、年に一度、家族三人で父の故郷に帰る時だけだったが、その際に従兄弟はとても優しく頼もしく接してくれたので、ナタリヤは彼を実の兄のように慕っていたのだ。  ナタリヤは母の服の裾を強く掴み、大粒の涙をこぼしながら従兄弟の死を悼んだ。終いには、大口を上げて天井を仰ぎ、大声を上げて泣き叫んだ。  いつもならばナタリヤを抱きしめて慰めただろう母は、手紙に目を落としたまま、ただ立ち尽くしていた。母はナタリヤとは違い、長い手紙が意味する事を全て理解したがゆえに、呆然としてしまったのだろう。  母が立ち直ったのは、ナタリヤが泣きやんだ頃だった。ナタリヤの前に膝を着き、視線を同じ高さにすると、肩に温かな手を置いた。 「ナタリヤ、私たちは、もうすぐ引っ越さなければならないわ」 「どうして」 「お父様は聖騎士を辞めて、違うお仕事に就かなければならなくなったの」 「どうして? せいきし、かっこいいのに」  聖騎士である父が、ナタリヤには自慢だった。まだ幼いナタリヤは、将来の夢が数多くあったが、その中でも最も熱く語るのは、父と同じ聖騎士になり、女性初の聖騎士団長になる事なのだ。 「そうね。もう見れなくなるのは残念。だけど、新しいお仕事をするお父様も、きっとかっこいいわ。だって、お父様にしかできない事をするんだもの」  母は自分が悪いわけでもないだろうに、幾度も幾度もナタリヤに謝った。生まれ育った地を離れるのは、ナタリヤが七年間で築き上げた友情の輪を崩してしまう事であるからだ。そしておそらくは、ナタリヤが語ってきた夢の全てが、幻と化す事を哀れんでもいたのだろう。  ひと月ほどして父が戻ってくると、数日もしないうちに、ナタリヤは王都を離れる事となった。多くの友達との別れを惜しみ、思う存分涙して乗り込んだ馬車の中で、父と母が優しく抱き締めてくれたのが救いだった。  新たな生活の場は、かつて従兄弟が暮らしていた城だった。王都で生活していたナタリヤにとって、ザールとの名を持つ城や町はみすぼらしいものだったが、城で暮らせるとなると話は別だ。王都で暮らしていた頃の家は、友人たちの家に比べれば広い程度だったが、ザール城はその何十倍もの大きさなのだから。 「ここが父様と、母様と、お前の家になるんだ、ナタリヤ」  すごい、すごいとしきりに騒ぐナタリヤに、父は微笑んだが、心から笑っているようには見えなかった。「嬉しくないの?」とナタリヤが訊ねると、父はまた微笑んで、「そうだね、嬉しいね」と、曖昧に答えるのだった。  気にする事をやめて、ナタリヤは城の中を駆け巡った。数え切れないほど部屋が沢山あり、人が沢山居た。大人たち、特に両親と同じくらいか年上の人々が、こぞって自分に頭を下げる事が少し心地良く、得意になっていた。  十数人に挨拶された後、ナタリヤはひとりの青年とぶつかった。実際はまだ少年と言える年頃だったが、幼いナタリヤには大人にしか見えなかった。 「あ、ごめん」  どちらかと言えば駆け回っていたナタリヤに非があるのだが、青年は謝罪の言葉を口にする。しかし、笑いながらと言う態度が、得意になっているナタリヤは気に入らなかった。 「なによ、そのいいかた。わたしはナタリヤさまよ!」  ナタリヤが胸を反らして言うと、青年は一瞬呆けた後、小さく吹き出し、肩を震わせた。 「そうでしたか。それは申し訳ありませんでした、ナタリヤ様」  青年が言い直すと、ナタリヤは満足して肯いた。まだ笑っているのは少し気にかかったが、大人たちが恭しく接してくる満足感の前に、多少の事は気にならなかった。 「ナタリヤ!」  背後から響く父の声が、少し慌てていた。どうしたんだろう、と振り返ったナタリヤは、突然駆け寄ってきた父に頭を掴まれ、力ずくで頭を下げさせられた。  得意になっていたナタリヤにとって、許しがたい屈辱だった。「なによ、父様」と言いながら腕を振り上げると、父はもう片方の手でナタリヤの体を抑えつけた。 「申し訳ありません、カイ様。私の娘が、無礼をしたようで……」 「ああ、やっぱりルスターさんの娘さんだったんですね。面差しが少し似てるな、とは思ったんですよ。可愛いですね」 「いえ。甘やかして育てたもので、少々生意気がすぎるようです」  この町で、この城で、一番偉いはずの父が頭を下げている意味が、ナタリヤには判らなかった。「もっと堂々としててよ」と言いたかったが、父の手はナタリヤの口をしっかりと塞いでおり、言葉にする事はできなかった。 「子供だし、元気でいいじゃないですか。お城に来たばかりで浮かれてるせいってのもあるんでしょうし? あ、気にしないで大丈夫ですよ。彼女――ナタリヤちゃん? 特に何もしてませんから。それにね、ルスターさん。もう俺に礼儀を払う必要はないと思うんですよ。ルスターさんはザールの主で、俺は居候になるわけですから」 「何をおっしゃいます。そもそもこのザールは、祖先が大神殿より賜ったものなのです。その大神殿より、カイ様シェリア様の穏やかな生活に支障ないよう、精一杯尽くすようにと、指示を受けております」  カイと呼ばれた青年は苦笑した。 「それじゃあ、しょうがないんでしょうね。残念ですけど」 「ねえ、このひと、だれ?」  油断した父の手を逃れ、青年を指差しながらナタリヤが言うと、父は慌てた様子でナタリヤを見下ろした。いつも優雅な風体の父が慌てるのは、珍しい事だった。 「ナタリヤ! 何て口を利くんだ。この方は……」 「いいですよ、ルスターさん」  青年はひとしきり笑った後、ナタリヤの前にしゃがみこみ、ナタリヤの目の前に手を差し出した。 「俺も、王都からこっちに移ってきたばかりで、まだろくに知り合いが居ないんだ。仲良くしてくれるか?」  ナタリヤは戸惑ったが、青年の人好きのする笑みにあっさりと警戒心がほぐされ、肯いた。 「べつにいいけど」 「そうか。じゃあ、俺たちは今日から友達だな」  青年は強引にナタリヤの手を取ると、握手にしては大げさなほど手を振り回した。 「俺はカイ。どうやら、天上の神エイドルードの子供らしい」  まるで明日の天気を語るかのように軽い口調でされた告白は、幼い子供であるナタリヤでさえ理解できる重い事実であった。  カイ――そうだ、神の御子カイ。父が聖騎士だった頃に守っていた相手ではないか!  ナタリヤは口を大きく開けたまま呆然とした。するとカイはいたずらっぽく笑い、ナタリヤの頭を思い切り撫で回してから、立ち去っていった。  まだ温もりが残っていそうな頭頂部に自身の手を置きながら、カイの背中を見送っていたナタリヤは、カイの姿が視界から消えた頃、ようやく正気を取り戻す。 「すごい」  呟くと、胸の奥にわだかまっていた興奮が緊張の解れと共に放たれ、ナタリヤは父に振り返る。 「すごいよ、とうさま。わたし、カイさまとともだちになっちゃった」  父は困惑と歓喜と動揺をない交ぜにした複雑な笑顔をどこともつかない虚空へと向けていたが、やがてそれをナタリヤに向けた。 「とても光栄な事だ。一生の誇りにし、寛大なるカイ様への感謝の気持ちを忘れないようにしなさい。それから、カイ様に失礼のないように」 「だいじょうぶだよ、ともだちだもん!」  ナタリヤが満面の笑みで言い切ると、父はため息と共に肩を落とした。  それからナタリヤは、毎日のようにカイの家へと足を運んだ。友人は全て王都に置いてきた上に、城の中では友人の作りようがないため、九つ年上とは言っても、カイはナタリヤにとってもっとも歳の近い友人であったのだ。  父はカイに城内で暮らす事をすすめたが、カイは城の中で暮らそうとしなかった。「何か意味があるのですね?」との父の問いに、「あるつもりだけど、ないかもしれないなあ」と曖昧な答えを残して、カイは町はずれの小さな家に住みついた。小さいと言ってもナタリヤの感覚であり、ザールの町に住む一般の者たちと比較すれば大きい方なのだと、数日通ううちに知る事となった。急だったが、それでもできる限り立派な家をカイのために用意したのだろう。  ナタリヤが訪ねると、カイはいつも笑顔で受け入れてくれた。小さな家にナタリヤを迎え入れ、沢山の話をした。多くは、彼が王都に移住するよりも前、海辺の街トラベッタで過ごした日々の事で、海どころか王都セルナーンとザール以外を知らないナタリヤにとって、新鮮で楽しい話ばかりだった。  カイの家に住んでいたのは、カイだけではなかった。いつも家の隅の椅子には、眩い黄金の髪と無限の広がりを感じさせる空色の瞳を持つ少女が腰掛けていた。とても綺麗な少女で、これまで美人だと思ってきた母や叔母のレイシェルが、霞んで見えるほどだった。 「あのひとはだれ?」とナタリヤが訊ねると、カイは照れ臭そうに微笑んでから、「俺の奥さんだよ。シェリアって言うんだ」と答えた。ナタリヤは声が出ないほど驚いて、何度も何度もカイと少女の顔を見比べた。  似合わないふたりだ、と言うのが、ナタリヤの本音だった。こんなにも綺麗な少女にカイでは不釣合い、と言う意味ではなかった。いつも優しく、朗らかに笑っているカイに、人形のように愛想の無い少女では不釣合いだ、と思ったのだ。  だがカイは、シェリアの事をとても大切にしていた。常に笑顔で語りかけ、日々腹を膨らませていくシェリアに寄り添い、精神的にも肉体的にも献身的に支えていた。シェリアも口調や態度こそ冷たかったが、どうやらカイを頼っているらしいと、長く時を共にするうちに理解したナタリヤは、初期に抱いていた違和感を徐々に忘れ、これもひとつの夫婦の形なのだろうと受け入れられるようになっていた。  ふたりが――そう、シェリアもカイと同じだった――神の子である事は、町の者には秘密にしていた。「どうして?」とナタリヤが訊ねると、カイは寂しそうに微笑みながら言った。 「俺が神の子だと知った人たちのうち、ナタリヤ以外は、みんな緊張して、普通に接してくれなくなったからな」 「でも、とうさまとか、おしろではたらいているひとたちはしっているんだから、すぐばれちゃうよ?」 「それはそうなんだけどな。それでも、秘密にできる限りは秘密にしておきたいんだ。たとえ短い時間でも――普通を装って、生きてみたいんだよ。我侭だって判っているけれど」  幼いナタリヤには理解できない話だったが、それがカイたちが城で暮らさない理由なのだろうと言う事は、何となく理解した。  運が良かったのか、彼らの正体が町に広まる事はなかった。やがて、カイの人あたりの良さが手伝って、可愛らしい若夫婦は近所の評判になった。手を取りあって生きる仲の良い夫婦なのだと、最も近くにいたナタリヤでさえ信じていたのだから、近所の者たちも疑わなかっただろう。  運命の日が、長雨が続く鬱陶しい日々の終焉と共に訪れるその日まで。 「ごめんな、ナタリヤ。明日だけは絶対にうちに来ないと、約束してくれないか」 「どうして?」 「そろそろ、近所の人たちに俺たちの正体がばれてしまいそうなんだ。だから、ルスターさんの言葉に甘えて、城の方に引っ越そうと思っている。その準備があるから、ナタリヤと遊ぶ時間がなさそうなんだ。明後日からならまた遊べるから、明日だけは我慢してくれないか?」 「うーん、わかった。明日だけなんだよね」 「ああ」 「じゃあ、約束」  だが、翌朝目覚めたナタリヤは、前日にカイと固い約束を交わした事など、すっかり忘れ去っていた。いつも通り、食事と簡単な勉強の時間を終えると、体が勝手にカイの家を訪ねてしまったのだ。 「カイ様? シェリア様?」  カイの家の前には先客が居た。その人物がハリスと呼ばれているのを、ナタリヤは知っていた。カイの隣の家に住居を構える彼は、周囲の人間には公言していないが聖騎士で、カイとシェリアの護衛役だ。何も知らない近所の住民は、カイかシェリアの父親だと思っていただろう。 「失礼します」  返事がない事をいぶかしんだハリスは、扉の前で考え込んだ末に、取っ手に手をかけて扉を開けた。  直後、部屋の中を覗いたハリスが、まるで戦慄したかのように目を見開いた時、様子がおかしいと判っていながらも、ナタリヤは湧き上がる好奇心を抑えきれなくなっていた。  ハリスが家の中に入っていくと、ナタリヤは家に近寄り、開け放たれたままの扉から部屋の中を覗き込む。  部屋の入り口近くに立ち尽くすカイが見えた。彼の眼差しには、強く深い闇が宿っていた。ナタリヤの知る、いつも朗らかなカイが内包するには、相応しくないものだった。  恐ろしさに足が竦んだナタリヤは、声も出せず、その場から一歩も動けなくなる。  唯一自由な眼球を動かすと、カイとハリスの視線の先にはシェリアが居る事が判った。近所に住む女性がもう臨月だね、と言っており、その言葉の意味をナタリヤは知らなかったが、もうすぐ子供が生まれる事だ、とカイが教えてくれた。「うれしいね。わたし、ほんとうのおとうとやいもうとみたいにかわいがる」とナタリヤが言うと、「そうしてくれると嬉しいよ」とカイは答えたものだ。  大きな腹を抱えた少女は、寝台に横になり、いつもならば美しく弧を描いているはずの眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべていた。あの人も表情を変えられるのだと、変なところで感心したナタリヤは、ハリスが家を飛び出そうと振り返った事に気がついて、後ろめたさをごまかせるような隠れ場所を探した。  しかしハリスは家から出てこなかった。カイがハリスの腕を掴み、引き止めたのだ。 「カイ様、お放しください。人を呼ばねばなりません。おそらくシェリア様はこれから、ご出産を」 「いいんだ」  カイの声は静かだった。場にそぐわない落ち着いた声は、まるでシェリアのようだとナタリヤは思った。 「良いはずがありません。誰かを呼ばなければ、私たちには何も……」 「誰も、何もしなくていいんだ」 「カイ様?」  強い疑問を込めた声でハリスが名を呼ぶと、カイは空ろな瞳をハリスに向けた。 「俺は選んだ。選定の儀で。あの晩、全ては定められたんだ。何も変わらない。俺たちや、俺たちではない誰かが、シェリアに何をしてやろうとも、運命は変わらない」  ハリスはもう一度カイの名を呼んだが、その声にはシェリアの悲鳴が重なった。おそらく、そばに居たカイですら、呼ばれた事に気付かなかっただろう。  空気に溶けてしまいそうなほど細い声でしかしゃべらなかったシェリアが、空気を引き裂くほど強く叫んでいる。それほどの苦痛が彼女の身を攻めているのだと思うと、ナタリヤの小さな体に震えが走った。 「お前が悪いんだ」  カイは表情は変えない。声音も変えない。  だと言うのになぜ、泣いているように見えるのだろう。 「お前が悪いんだ、お前がこれを望んだんだ、お前が、シェリアを」  カイの喉が鳴る。何かを飲み込んだようだ。息だったのか、唾液だったのか、言葉だったのか、ナタリヤには判らなかったが。 「違う。俺が悪いんだ。俺が、シェリアを、選んだんだ……」  いっそう強い悲鳴が家の中を支配する。  シェリア様、とハリスは叫んだ。その声は彼女自身の声に遮られ、シェリアには届かなかっただろうが、そばに居たカイには届いたようで、ハリスを捕らえる手から僅かに力が抜けた。  隙を見逃さず、カイの手を振り解いたハリスは、呻き騒ぐシェリアの元へ駆け寄ろうと床を蹴る。  赤い液体がハリスの頬を打った。それは頬骨から滑り落ち、ゆっくりと伝わると、唇の端を掠めた。足を止めたハリスは、確かめるように頬に手をやったが、しかし指にふれたものを視認する事を躊躇っていた。  その間も、シェリアの悲鳴は止まなかった。そしてハリスの頬に触れたものが、ハリスの全身にふりかかり、カイを、少女が横たわる寝台を、そばの壁を、天井までも汚していった。  なに。なんなの、これは。  あかい。あかい、すべてが――  紅い世界を照らし出す輝きが、シェリアの腹の上に見えた。長い、まるで刃のような形をした光。  いや、まるで、ではない。それはまさしく刃だった。シェリアの腹の上にあるのではなく、シェリアの腹の中から突き出す、鋭い刃だった。  少女は産みの苦しみで叫んでいたのではない。胎内から切り裂かれる苦しみに、悲鳴を上げていたのだろう。 「シェリアさ……」  シェリアの悲鳴が途切れた頃、新たな悲鳴が上がった。それが他の誰でもない、自分の悲鳴である事に気付いた時、ナタリヤはその場に膝を着いていた。  なんなの、これ。  噛み合う事もできなくなった歯がけたたましい音を立てる。全身が震えているのだと自覚したナタリヤは、己の肩を抱いた。経験した事のない、むせ返るような血の香りの中で、こみ上げてくるものに耐え切れず、嘔吐する。  明らかに異常な光景だった。母となるべき少女はこと切れ、美しい顔を歪ませたまま、力無く寝台に横たわっている。その少女の切り裂かれた腹から、光る剣を手にした赤子が姿を現している。そして、妻を心より慈しんでいたはずのカイは、無残な妻の姿を平然と見下ろしていた。  妻の体が切り裂かれながら、自身も血まみれになりながら、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。  まるで、そう、はじめから知っていたかのように―― 「ごめんな」  ナタリヤの存在に気付いているのかいないのか、カイは振り返る事なく、唇を振るわせながら呟いた。 「ごめんな、シェリア。ごめん、俺は」  カイの膝が力を失い、血まみれの床の上に崩れ落ちる。  同時に産声が上がった。母の血に塗れた子が、懸命に生を訴えるその声は、輝かしくめでたい事でありながら、悲しく辛く、何よりもおぞましいものにナタリヤは感じた。  シェリアの体が、熱い光となって辺りを照らし出す。  鮮烈な光は刺すように痛く眩しく、ナタリヤは目を伏せた。体中から力が失われ、上体も地面に倒れ込む。  弾ける音がした。何が弾けているのか判らなかったが、同時に光が収束している事をナタリヤは理解した。  意識を手放しかけながら、最後の力を振り絞り、薄く目を開く。  光は赤子が握る光の剣を包み込むと、やがて抜き身の刃を治める鞘となって、実態を現した。黒い、闇よりも暗く、だが美しく輝く鞘は、金の細工で縁取られ、空色の宝石が輝いている。まるで、たった今失われた少女の化身のようだった。  渇いた音を響かせて、剣が床に転がり落ちる。  いつの間にか寝台に歩み寄っていたカイが、剣を拾い上げた。生前のシェリアを労わるように優しい手付きで鞘を撫でると、泣き喚く赤子の傍らに置き、代わりに不器用な手付きで赤子を抱き上げた。 「アスト」  カイは呼んだ。自身の子、偉大なる天上の神が遺した救世主の名前を。  悲しくも優しいはずの響きは、薄れゆくナタリヤの意識の中に、恐ろしい響きとなって強く焼きついた。 一章 神の子と魔物の子 1  二年前に風邪をひいた時の事をアストがふいに思い出したのは、十歳の誕生日を翌日に控えた朝の事。父とふたりで摂る朝食を追え、ふたり並んで長い廊下を進む途中、深々と礼をする女官長に、会釈で返した瞬間だった。  風邪が治って元気になった嬉しさのあまり城の中を駆け巡ってみたが、それまで女官長を勤めていた女性の姿はどこにも見つからず、今の女官長が改めて挨拶に来た時の言葉にできない寂しさは、今も鮮明に思い出せる。「引退すると言っていたよ。残念だけど、かなりお歳を召していたからな。優雅に見えて結構体力を使う仕事だと言うから、辛かったんだろう」と父は説明してくれたけれど、それにしても最後に一言くらい挨拶をくれてもいいじゃないかと、不満に思った夜の事も。  当時のアストは気付かなかった。だが、今のアストは知っている。アストが風邪をひいた主原因は、部屋の掃除を担当した女官が窓を閉め忘れた事に気付かずに寝てしまったせいで、当時の女官長が突然辞めたのは、その責任を取らされたからだと。 「だからか」 「何だ、突然」  隣を歩いていた父が、疑いの目をアストに向けた。 「ねえ、父さん。今日の朝食、味おかしくなかった? おかしいって言っても、おいしくないとか変なものが混じってたとかじゃなくて、味がいつもとちょっと違うって言うか」 「そうだったか? 俺には判らなかったけどな」  父が豪快に笑いながら「お前と違って小さい頃からいいもの食ってないから、微妙な違いなんて判らないな」と続けたので、本当に気付いていないのか、気付いていないふりをしているのか、アストには判断ができなかった。とりあえずそれ以上話を続けても意味がなさそうだったので、唇を引き締める。自然と、唇の先が少し尖った。  父は判らないと言うが、アストは確信に近いものを抱いていた。きっと料理長が変わったに違いない。理由はおそらく、昨晩のアストの食事に出た魚に少し大きめな骨が残っていて、アストの喉に刺さったせいだ。  アストは父に隠れて、深く長い息を吐いた。「大した事じゃないのに」とか「くだらない」とか「次から注意すればいい」とか、言ったところで意味はない事を、アストはすでに悟っていて、ため息を吐く事も、それを隠す事も、すっかり慣れてしまっていた。  だが父はさすがにアストより上手で、気付く事に慣れている。明後日の方向を向いたままでありながら、大きな手をアストの頭の上に置き、優しく撫でてくれるのだ。  頭部から伝わる温もりは、ちくりと胸に刺さるものを溶かしていく気がして、心地良いのは確かだった。だが、同時に「どうしようもない事なんだ」と言われているような気がして、余計に寂しく感じてしまうのもまた確かだった。  アストは無言のまま父と並んで通路を抜け、門を潜り、緑溢れる庭に出る。盛りの季節は少し外していたが、見回せば色鮮やかな花が沢山咲いていた。  花の手入れをしている男の背中を見つけると、アストは父を置き去りに走り出す。 「あの、花束を作りたいんだけど」  アストが声をかけると、庭師の男は振り返る。仕事の邪魔をするなと言いたげな厳しい眼差しが、アストを捉えると同時に緊張する様に嫌気がさしながら、アストは何とか笑顔を保っていた。 「さっき、ルスターさんに許可は貰った。庭の好きな花を摘んでもいいって。あまり強すぎない赤とか、黄色とかの花を集めたいんだけど……あ、これとかいいな」  花の名を知らないアストは、辺りを見回し、贈る相手に相応しい可憐な花を見つけると、不用意に手を伸ばす。すると庭師の男は慌てて花とアストの間に身を滑り込ませた。 「お手が汚れます。自分がやりますので、必要な花を教えてください」 「このくらいなら自分でもできるよ」と言いかけたアストの記憶を掠めたのは、かつて庭師として勤めていた初老の男の小さな背中だった。  彼が引退と称して息子に後を任せたのは、庭で遊んでいたアストが誤って花壇に飛び込み、棘でいくつかの傷を作った後だったか。 「じゃあ、よろしく。俺じゃ、関係のない花を傷付けてしまうかもしれないしね。とりあえずこの花を、赤いのと黄色いの三本ずつくらい?」  アストは助言を求めて父を見上げた。 「白も混ぜたら綺麗じゃないか?」 「そうかな? じゃ、それで。花の事はよく判らないから、あとは任せます」 「判りました」  肯いた男の手の動きは鮮やかだった。何十、何百と咲く花の中から一番綺麗に咲いている花を見つけだし、素早く鋏で切ると、器用にまとめていく。引き立て役に良い小さな花や形のより葉を混ぜ込んでできあがった花束は、女性が好みそうな綺麗な仕上がりになっており、アストは充分以上に満足した。 「どうもありがと……」 「カイ様!」  男への礼をかき消すように、父の名を呼ぶ声がした。男は小さく礼をして、アストやカイのそばから離れ、入れ替わりに父の名を呼んだ男が近付いてくる。王都から派遣され、ザールへ滞在している聖騎士たちの長であるハリスだった。  アストはハリスが苦手だった。嫌っているわけではない。アストが係る人々の中で、比較的自然に接してくれる彼の事は、むしろ好ましく思っている。ただ、彼が現れると、空気が緊張して息苦しい気がするのだ――特に、父がそばに居る時は。 「どうした」  父がハリスに振り返り、重い口を開くと、アストは隠れるように父の背中に回った。 「兵士長より至急の報告があるようです。例の洞穴の件で」  ハリスが答えると、カイはろくに思考する時間もとらず即答した。 「そうか。判った」  答えた父は振り返り、もの言いたげな視線をアストが手にする花束に落としてから、アストと目を合わせた。 「悪い。今日はひとりで行ってきてくれるか?」 「父さんは行かないの?」 「多分しばらく、少なくとも今日は無理そうだ。せっかくの花束が痛んだら可哀想だから、今日届けてあげてくれ――っと、何だ? ひとりでは行けないか?」  微かな意地悪を混ぜ込んだ笑みで父がそう言ったので、アストは必死に首を振った。アストは明日、十歳になるのだ。目的の場所が少々遠いからと言って、何度か通った道をひとりで歩けないほどの子供ではない。 「じゃあ、頼んだぞ。昼のうちは大丈夫そうだが、夜には雨が降りそうな空だから、すぐに行って早く帰って来い。あと念のためにこれ着ていけ」  ほのかに笑った父は、手にしていた雨具をアストに着せると、背中を軽く押した。暗い森へのたったひとりの冒険の心細さを、支えてくれるかのように。  強い雨を地上に降らそうとくすぶる濃い雲が空中を埋め尽くしている。本来ならばまだ中天に太陽が輝く時分でありながら、まるで夜のように暗かった。  視界が通らない中、湿った空気を肌で感じながら、柔らかな土と若草を踏みしめながら歩みを進めていたアストは、突然背後が強く光ると、息を飲み、身を竦ませる。  ほどなくして起こる轟音を、耳を塞いで堪えると、恐る恐る振り返った。生まれた直後から今日まで暮らし続けるザール城が、強い稲光に照らされ、輪郭を浮き上がらせた。  再び雷が鳴るだろう。判っていながら、今度は耳を塞がなかった。小脇に抱えていた花束を優しく胸に抱き、空を見上げると、次の轟音が空気を震わせ、同時に雨が大地を震わせた。 「父さんのうそつき。もう降っちゃったよ」  雨は容赦無くアストの肌と花束を打った。アストには耐えられる程度の強さだが、可憐な花は雨の強さにくたびれはじめる。アストは花束を庇うように背中を丸め、泥をはねさせながら走りだした。  ザールで十年近く暮らしているアストであるから、今が頻繁に雨の降る時期だと知っていた。朝の天気をあてにしては痛い目を見るのがしょっちゅうで、ついさっきまで雲ひとつない快晴であったと言うのに、突然豪雨になったかと思えば、弱い長雨が続くなど、とにかく天気が変わりやすいのだ。  そんな雨の時期の天気を予想などしても無駄だと知っているはずなのに、どうして素直に信じてしまったのだろう。雨の時期の終わりごろにあるアストの誕生日が、明日に迫っているからだろうか。  まあいい。雨具を準備しておいてくれたのだから、予想が外れた事は許してやろう。そう結論付けたアストは、父の事を考えるのは止め、全力で目的地へと向けて走る。  泥を撒き散らしながら走る子供の集団が見える。騒ぎながら走り、帰路につく彼らも、アストと同様に天気を読み間違えたのだろうか。  一瞬迷った後、子供たちを避ける事を選択したアストは、俯き、遠回りになっても子供たちと鉢合わせせずに済む道を探す。だが、新たな道を見つける前に、子供たちはアストのすぐそばまで駆けてきた。元々、暗く強い雨の中で視認できる程度の距離しかあいてなかったのだから、当然の事だった。  子供たちもアストを見つけた。ほとんどの子供たちは不思議そうな顔をしたが、とにかく家に帰る事が最優先なのだろう。アストに声をかける事なく、アストの横を通り過ぎていく。 「なあ、あいつ、誰? 見た事なさそうじゃね?」 「あんま顔見えなかったけどな」 「この町のヤツじゃないんじゃないか? それか、最近引っ越してきたばっかりだとかさ。ちらっと見えたけど、あんな金髪、見た事ない気がする」 「金髪?」  集団の中のひとりが、正解を思いついたようだった。アストは今まで以上に強く地面を蹴り、子供たちと距離を置く。 「もしかして、エイドルードの――」 「アストさま!?」  張り上げた声は強い雨音に混じってもまだ耳に届いたが、アストは聞こえないふりをした。彼らはおそらく、悪意を込めた言葉をアストに投げかけはしないだろうと判っていたが、同じ年頃の子供から、同じ年頃の子供に対する言葉以外のものを投げかけられる事には、辟易していた。  誰もが言う。アストは救世主なのだと。  それが本当に真実なのか、アストには判るはずもなかったが、周囲の誰もがアストを救世主として扱い、信仰の対象としているのだから、たとえ自分に特別な力がなかろうと、周りの扱いが息苦しかろうと、真実だと受け止めるしかなかった。過剰に大切にされる事や崇められる事を、疎外されている事と同じに感じてしまうのは、自分の心が弱いせいなのだと繰り返し言い聞かせながら。  やがて町外れに到達した時、アストは心から安堵した。黒い土が続く暗い森の中に、ザールの民のほとんどは足を運ばないからだ。  駆け続けて疲れた足を止め、高く伸びた木がまばらに立つ森を前に、乱れた呼吸を整えながら、解放感を味わう。聖騎士たちが本当の意味でアストをひとりにする事など考えられないので、目に入らないだけで近辺に潜み護衛と言う名の監視をしているのだろうが、見えないものは気にしない事にしようとアストは決めていた。いちいち気にしていたら、生きているのも嫌になりそうだ。  呼吸が通常に戻ると、アストは再び歩き出した。雨で緩んだ土を踏みしめ、木々の間を通り抜けると、すぐに大きく切り開かれた場所に辿り着く。そこに建つ小さな屋敷のそばに、アストの目的地はあった。  聖十字を模った、灰色混じりの白い石が立っている。そこに彫られているものは、アストの母に代わってアストを育ててくれた、恩人と言える女性の名だ。刻まれた名の持ち主は、アストがまだ五歳の頃に亡くなっていたが、アストが自分の成長を見てほしいと思える数少ない相手だった。  アストが幼いうちに亡くなった彼女の事で、思い出せる記憶はいくつもない。病に蝕まれ、寝台から起きあがる事もできなくなった晩年の彼女が、まだ死をよく理解していなかったアストでさえ強烈な死の匂いを嗅ぎ取れるほどに痩せていた事だとか、枯れた木の枝のように細い指が、アストの頬を優しく撫でてくれた事だとか。  宝石のように美しい薄緑の瞳が、まるで哀れむかのように、アストを見つめていた事だとか。  アストは墓に歩み寄り、花を添えた。すぐさま強い雨に打たれ、花は弱っていったが、アストにはどうする事もできなかった。  墓の前に直立し、かすかな明かりに輪郭を浮き上がらせる十字を見つめたのち、アストは目を伏せる。幼い記憶を可能な限り掘り起こし、女性がまだ元気だった頃の面影を呼び寄せてから、感謝と祈りの言葉を口にした。 「久しぶり、レイシェルさん」  四年以上ぶりに呼ぶ名は、ひどく懐かしくアストの胸に突き刺さった。 「レイシェルさんが育ててくれたおかげで、俺は明日、十歳になります」  僅かにだが、雨が弱くなる。小さな体を容赦なく打ちつける冷徹な雨が、優しく抱き締めてくれる温かな腕のように感じられた。まるでレイシェルが今日の訪問者を喜んでくれているように思え、アストは無意識に表情を綻ばせ、墓へ微笑みかける。 「本当なら、明日、十歳になった俺を見せに来ようかと思ったんだけど、明日からちょっと忙しくなるんだ。だから今日のうちに来ておこうかと思って。ごめんなさい」  雨の強さは変わらなかった。正直な告白をして良かったのだと、アストは胸を撫で下ろす。あたりまえだ。レイシェルはこの程度の事で怒る人では無かったのだから。 「明日から何で忙しくなるかってさ、父さん、九歳の誕生日の時に、約束してくれたんだ。十歳になったら、剣を教えてくれるって。レイシェルさんは父さんが戦うところ見た事あるかな? かっこいいんだ。去年、父さんが城の裏庭でさ、十人、ううん、二十人は居たかな。とにかく沢山の兵士を相手にしてたんだけど、みーんな倒しちゃったんだ。俺もそんな風になりたいって言ったら、父さん困った顔してさ。『まだ早い』って。でも、俺がしつこくお願いしたら、じゃあ十歳になったらなって約束してくれたんだよ。だから明日から、父さんに剣習うんだ。父さんが知らんぷりしても、知るもんか。毎日父さんにひっついて、絶対に教えてもらうから!」  墓標に向けて笑いかけたアストは、しばらく沈黙を保った。まるで返事を待っているようだと、自分自身を滑稽に感じはじめると、小さく声を上げて笑った。 「レイシェルさん、俺、強くなれるかな」  風は柔らかく、しかし濡れた身には冷たく、アストの頬を撫でた。 「俺は救世主になる運命だからって、みんなが俺に優しくしてくれるよ。みんなが俺を、すごい人みたいに扱って、ちょっとの怪我や病気もさせないようにってくらい、大切にしてくれる。俺がこの国を、この大陸を救うからって。でもさ、俺に何ができると思う? 俺、母さんみたいに、魔物を倒したり、傷を治したりする力なんて、持ってないんだ。何にも、できないんだよ。だから」  だからせめて、父さんのように、魔物からザールを守れるくらいの力が欲しいと願う事は、おかしくないよね。  喉が詰まり、言葉にする事ができなくなったアストは、心の中でレイシェルに語りかける。  何でもいい。何かしなきゃ、潰されてしまいそうなんだ。  辛いんだ。ここに居る事が。  想いを胸の中で吐き出したアストは、両手で自身の顔を覆う。降り続ける雨の音だけが耳の中でこだましていて、まるで誰かの悲痛な泣き声のようだと感じた。  誰か。それは、自分自身だったのか、それとも、他人の心を感じ取ったのか。 「いつまでもここに居たら風邪ひいちゃうや。レイシェルさん、俺、そろそろ帰るよ。またそのうち来るから。今度は強くなった俺を見せられるといいな」  雨に濡れた服が重くのしかかったが、アストは立ち上がった。無言で墓標を見下ろし、心の中でも別れの言葉を告げると、踵を返し、来た道を戻ろうと歩き出す。  強烈な違和感に、アストは足を止めた。  何に対して違和感を覚えたのかしばらく判らず、戸惑いながら立ち尽くしていたが、やがて視界の端に映る明かりに気付くと、そちらを凝視した。  明かりは、ザールの城主ルスター・アルケウスが、妹レイシェルのために建てた小さな屋敷の中からもれ出たものだった。  主人亡き今、なぜ、中で明かりが灯っているのだろう。  アストは勇気を振り絞り、鈍い動きで首を廻らせ、明かりの方に目を向ける。閉じられた窓の向こうに小さな人影を見つけると、アストは目を見開いた。  見慣れた優しい人々と同じ、甘い、蜂蜜の色が輝いている。 2 『愛しているわ』  ユーシスが熱に浮かされるのは、いつもの事だった。 『愛しているわ、ユーシス』  高熱の中で見る夢は暗黒で、重く心細い世界が広がっていたが、唯一、優しく響く女性の声だけが、ユーシスの心を慰めてくれた。  目が覚めれば、優しい声が母のものであるとすぐに判ると言うのに、夢の中のユーシスには、それが判らない。正体の知れない人物だけが救いである現実に、ある種の絶望感を抱えながら、闇の中を歩いていくしかなかった。 『この世の全ての人が貴方を疎んでも、私だけは、貴方を愛しているから』  どこにも辿りつけない虚しさ。  何にも手が届かない渇き。  それらは強い愛情がこもる温かな声によっても解消される事はなく、やがてユーシスは息苦しい目覚めを迎える。  体が重い。長く続いた熱のせいだろうか。全身汗だくで、手足は痺れているかのようだ。鬱陶しく輪郭にへばりつく髪を掃うどころか、声を出す事すらできず、ユーシスは静かに天井を見上げ、ゆっくりと呼吸を繰り返すしかなかった。目を閉じ、再び夢の中に落ちると言う手もあるにはあったが、絶対にしたくなかった。まだ重く苦しい夢を見るはめに陥るかもしれないからだ。  時間が過ぎるうちに、少しずつ体が動くようになってきた。安堵の息を吐きながら、ユーシスは毛布の中から手を出す。頬をくすぐる髪をどかすと、額に置かれた布に手をやった。使用人のモレナが、冷たい水に浸したものを置いてくれたのだろうが、ユーシス自身の熱と相殺されたのか、とっくに温くなっている。  どれほどの間眠り、うなされていたのかを、ユーシスには知る術がなかった。窓の外は暗いが、かすかに届く雨音から察するに、夜になったせいではなく、厚い雲が空を覆ったせいなのだろう。だとすればユーシスが長時間眠っていたとは限らず、モレナが最初の一度以降ユーシスの寝室に立ち寄らなかった事を、一概に責めるわけにもいかなかった。  ため息を吐いたユーシスは、まず上体を起こし、上着を羽織ると、窓のそばへと近付いていった。  吹き荒れる風と大きな雨粒が地上に叩き付けられる音は、窓越しにでも自然の力強さをユーシスに伝える。けして自分にはないものへ焦がれる想いが胸の内に強まり、ユーシスは目を細め、羨望の眼差しを外の風景へと向けた。  激しい雨の向こうに人影を見つけたのはその時だった。 「貴方が寂しい時に縋る事ができるように」と、「いつでも貴方を見守れるように」と、母は死の直前、ユーシスの部屋の窓から見える場所に眠る事を望んだ。意識がある時のユーシスは、いつも窓越しに、母の骸の上に立つ墓標を眺めていたものだ。  その母の前に、ひとりの少年が立っている。  少年と言って良いものか。彼は、ユーシスと同じ年頃の子供だった。ユーシスならば吹き飛ばされてしまいそうな風の中、すぐに熱を出して倒れてしまいそうな雨の中、存在できるだけの力強さを持っていたけれど。 「すごいな」とひとり呟いたユーシスは、窓の向こう、風と雨の向こうの少年を、ずっと見つめ続けた。彼がこんな酷い雨の中、母の墓の前で何をしているのか、興味はあったが知る術はなかった。  見れば墓には花束が添えてあり、ならば少年は母と親しい人物なのだろうか、とユーシスは考えた。自分と同じ年頃の少年が、五年近くも前に亡くなった母と、どうやって仲良くなったのかは判らなかったが、わざわざ母の墓まで来て、綺麗な花を供えてくれる人物となると、他に思いつかなかったのだ。  ユーシスは自然と笑っていた。単純に嬉しかったからだ。自分と言うやっかいな子を抱え、人目を忍ぶように城や町から離れた場所に移り住んだ母に、優しい想いを手向けてくれる人物が居る事実は、素直に喜ばしい事だった。  やがて少年は立ち上がった。泥を跳ねながらゆっくりと歩き出した少年は、突然足を止める。しばらく直立していたが、ユーシスの存在に気付いたのかこちらを見ると、目を丸くした。  目を丸くしたのはユーシスも同じだった。まさか気付かれるとは思わなかったのだ。暗い上、雨風は視界を狭めるほどに強いものであったから――暗いからこそ、ユーシスの部屋から漏れ出す明かりが目立つのだとは、考え付かなかった。  心臓が跳ねる。どうしてよいか判らなかった。これまで屋敷の外に居る人物と目が合う機会などほとんどなかったし、あったとしても、ユーシスが何か行動を起こす前に相手が目の前から消えていくため、何をする必要も無かったのだ。  だが彼は、足を止め、ユーシスを凝視したまま動かない。もしかすると彼は、自分が何者であるかを知らないのだろうかと考えたユーシスは、ぎこちないながらも笑みを浮かべ、小さく手を振ってみた。  少年が更に驚き、一歩後じさったので、ユーシスは慌てて振っていた手を背中に隠した。  自然と俯いた顔が紅潮した。何を馬鹿な事をしたのだと、ユーシスは自身を責めた。すぐさま逃げ去られなかったからと言って、調子に乗るからこうなるのだと、見ろ、相手は怯えているではないかと、心の中で何度も自分を罵倒した。  気味が悪いに決まっている。普通の子供なら、いや、子供で無かったとしても、自分なんかに近寄りたくないに決まっている。妙な希望を抱くなど愚かな事だ。どうせ失望するだけなのだから――希望を抱く事が許された相手は、墓標の下へと遠ざかった母だけなのだから。  羞恥のあまり目を伏せたユーシスの耳に、ゆっくりと窓を叩く音が届いた。  目を開ける。見えるのは床と、自身の足だけだった。立ったまま夢を見たのだろうかと疑ったユーシスは、もう一度だけ鳴った音に惹かれ、恐る恐る顔を上げた。  先ほどの少年が、窓一枚隔てただけのところに立っていた。  なぜ彼は恐れる様子も見せずに近付いてきたのだろう。ユーシスは強い疑問を抱いたが、答えを考えるだけの余裕はなかった。窓の前に立ち、窓に手を置いてユーシスを凝視する少年の存在が奇跡のようにも思え、ユーシスは震える手を窓の掛け金に伸ばしていた。  ユーシスはいつもモレナから、「体に障るから外にはけして出るな」と言いつけられている。こんな天気の日に窓を開ける事も、本当は許されないのだろう。  自分が存在するだけで周りの者がどれほど迷惑しているかを自覚しているユーシスは、普段ならば言いつけられた事を必ず守る子供だった。  だが、今日だけは違った。  窓を開けると、激しい音がする。風が部屋の中に流れ込み、同時に雨も僅かに飛び込んできた。冷たい空気によって汗が急激に引いていき、冷たくなった自身の体を抱き締めながら、ユーシスは窓の向こうに立つ少年の目を見た。  雨を吸って重く垂れる金髪に隠れていてもよく判る。優しい、綺麗な色だった。まるで、晴れた日の温かな空の色。 「どうして俺に手を振ったんだ?」  少年は心底不思議そうに、だがどことなく嬉しそうに、ユーシスに訊ねた。  どうしてと問われ、ユーシスは困るしかなかった。答えは「振りかえして欲しかったから」以外に無かったが、素直に言うわけにはいかなかった。「何を調子に乗っているんだ」と笑われる事に耐えられるほど、自分は強い人間ではないと自覚している。 「お前は俺の事が怖くないのか?」  体の震えが止まり、ユーシスは真っ直ぐに少年を見つめた。 「怖い? どうして?」  少年は間抜けに口を開いたまま、一瞬固まった。 「お前はずっとここに、ザールに住んでいるのか?」 「うん」 「それなのに、俺の事を何も知らないのか」  ユーシスは肯いた。 「君も、僕の事を何も知らないみたいだ。だって君は、僕の事を怖がって逃げるどころか、自分から近付いてきたんだから」 「どうしてお前を怖がらないといけないんだ?」  先ほどの自分とまったく同じ疑問を口にする少年の間の抜けた顔がおかしくて、ユーシスは吹き出した。  腹が痛い。懐かしい痛みだ。そう言えば、最後に笑ったのはいつだっただろう。母がまだ生きていた頃――自分が不幸だと思いもしなかった頃のだっただろうか。  ひとしきり笑ったユーシスは、笑いすぎて目の端に滲んだ涙を拭った。 「僕が魔物の血を引いているからさ」  告白すると、窓の向こうの少年は、真剣な眼差しに闇を混ぜ込みながら、唇を引き結んだ。 「僕のお母さんは、僕を産むまでは普通に元気な人だったらしいけど、僕を産んで、僕と暮らすうちに、どんどん痩せ細って死んでしまった。魔物の僕が、お母さんの命を少しずつ吸いとっていったからだって、みんな言ってるよ。だからみんな僕には近寄らないんだ。僕のお母さんみたいに、痩せ細って死んでいくのは嫌だからって」  ユーシスは、自身に忌まわしく纏わりつく噂を隠す事なく少年に伝えた。隠しきれない苦しみを、引きつった笑顔に混ぜ込みながら。  ユーシスにとって幸運な事に、彼は何も知らなかったのだ。ならば何も教えないまま、楽しく語り合えば良かったのかもしれない。そうして次の約束を取り付ければ、この先も、語り合える友人ができたかもしれない。静かな館でひとりきりで過ごす時間が減るのかもしれない。  だと言うのに、なぜ語ってしまったのか、ユーシスには判らなかった。  彼を騙す事への罪悪感がそうさせたのだろうか。全てを隠して仲良くなった後、どこからか全てを聞きつけた彼が、ユーシスを恐れたり、罵倒したり、非難する事が、怖かったからだろうか。そうして離れてしまう事が、今すぐに逃げられる事よりも辛いと思ったからだろうか。  現実に直面する事が急に恐ろしくなったユーシスは、窓に手をかけた。今すぐ閉じて、寝台に潜り込んで布団を頭から被ってしまえば、何も見なかった事にできる――  ユーシスが窓を閉めるよりも先に、少年の手が窓を押さえつけた。同じ年頃とは言え、病弱なユーシスと、雨の中動き回れる少年では、力の強さが大きく違い、ユーシスは立ち尽くしたまま、少年の視線を浴び続ける事しかできなかった。 「お前には本当に、魔物の力があるのか?」 「あるわけない!」  魔物どころか、並の人間よりも貧弱な体しか持たない自分に、そんな力などあるわけがない。ユーシスはそう信じている。  だが、同時に思うのだ。方法が違うだけで、母を死に追いやったのは、紛れもなく自分なのだと。  領主の妹として、遠くに聳えるザールの城で生きるはずだった母を、こんなにも暗い館に縛りつけたのはユーシスだ。そして母はユーシスが受けるはずだった負の感情を一身に受け止め、負う必要もない苦労を負った事によって、徐々に蝕まれていったのだ。 「じゃあ――」  扉が叩かれる音が響き、ユーシスと少年は、同時に部屋の中を見た。通路から部屋に繋がる扉は小さく振動しており、モレナが来たと知ったユーシスは、少年の力が緩んでいる隙に手をどかし、慌てて窓を閉める。  厚いカーテンをかけると、少年の姿は失われた。彼がまだ窓の外に居るのか、すでに立ち去っているのかを、確かめる勇気が無いまま、ユーシスには寝台に飛び込み、頭から布団を被った。  瞼の裏には少年の面影が残っている。耳には、少年の声が。  だが、気のせいだ。きっと夢を見たのだ。  幸せな夢か、悲しい夢かは判らないが、愚かな自分が見せた夢であったのは、間違いないのだろう―― 3  九歳の誕生日の朝、「お前が十歳になったら、剣を教えてやる」と父が約束してくれてから、アストは十歳になるのが楽しみで仕方がなかった。早く十歳になりたいと、次の誕生日を待ちわびて、緩慢な時間の流れにもどかしい思いをしながら、次の誕生日が来る日を指折り数え続けてきた。  だが今日、寝台に入ってもなかなか寝付けないのは、眠りに落ちてもすぐに目が覚めてしまうのは、明日が楽しみすぎるせいだけではない気がした。目を閉じると浮かび上がる、寂しそうな目をした蜂蜜色の髪の少年が、アストに穏やかな眠りを与えないのだ。  母――おそらくはレイシェルの事だろう――を殺したと、自分は魔物の子なのだと、嘆く少年。全身で救いを求めているように見えた彼は、最後に力一杯アストを拒絶した。  窓を叩き、自分はまだここに居るのだと主張するべきだったのだろうか。それとも、無理矢理窓をこじ開けるなり、屋敷の中に踏み込むなりすべきだったのだろうか。雨の中、閉じられた窓の前に立ち尽くしたアストは、自身が取るべき行動をいくつか考えたか、結局何もせず、おとなしく城に戻った。  考えたところで、少年の事が判るわけもない。無駄なのだから、考えるのはやめよう。アストは自分に言い聞かせ、布団を頭からかぶって視界を真っ暗にした。明日は早起きして、朝から父に特訓して貰うつもりなのだ。たっぷりと睡眠を取り、体調を万全にしておかなければならない。  浅い眠りを呼び込み、また目覚めるを幾度か繰り返すうちに、アストはようやく深い眠りへと落ちていった。  最後に目覚めた時には、太陽の明かりが窓から射し込んでいた。寝過ごしたかもしれない不安に、一瞬で目が覚める。  慌てて飛び起きたアストは、まず着替えた。その頃には、誰かが起こしに来た気配はないので、さほど遅い時間ではないだろうと判断がついたのだが、朝が来たと思うと居ても立ってもいられなかったのだ。  脱いだ服を寝台の上に投げ散らかしたまま、慌てて部屋を飛び出そうとしたアストの視界に、壁にかけた肖像画が飛び込んでくる。  急いでいたとは言え、大切な事を忘れるところだった。アストは足を止め、逸る心を抑え、肖像画に向き直ると軽く礼をした。 「おはよう、母さん」  アストには母がない。  ひとつの命として産まれてきた以上、母親と言う存在はもちろんあるのだが、十年も前に失われている。故にアストが知る母は、肖像画の中、朗らかに笑う父の隣で無表情を保つ少女でしかない。  このザール城において、アストの母を知る者は限られているため、アストが母の話を聞いた事はほとんどなかった。以前「まるで人形のようだった」と語った人物が居たが、彼はアストがそばに居る事に気付いた途端、「人形のように完璧な美しさを誇っておられました」と取り繕うように言って、そそくさと逃げ出してしまい、詳しい話は聞けなかった。  だが、それだけで何となく理解できた。おそらく母は、良くも悪くも肖像画の印象そのままの人物だったのだろうと。冷たく近寄りがたい、けれど誰もの目を惹く神秘的な美しさを持った、まさに神の娘と言うべき高貴な少女だったに違いない。  幸か不幸か、髪と瞳の色以外母に似なかったアストは、薄い笑みを浮かべながら母を見上げた。 「母さん、俺、今日で十歳になったんだ」  簡素な報告を終えると、アストはゆっくりと深呼吸をする。 「じゃあ、行ってきま――」  日課である母への挨拶が終わるか終わらないかのうちに、扉が二回叩かれた。動揺しながら「はい?」と応えると、扉がゆっくりと開かれ、優しい蜂蜜色が覗いて見えた。  その色を持つ人物を、アストは四人知っている。だが、ひとりはすでにこの世になく、ひとりはこの城の主で、ひとりは現在ザールにおらず、ひとりはアストがザール城で暮らしている事を知らないはずだった。四人とも、朝からアストの部屋を訪ねてくるとは考えにくい。  では誰だと疑問を抱く前に、扉は大きく開かれた。  姿を現したのは、ザールに居ないはずの人物だった。多くを学ぶためにと、二年半前に突然「王都セルナーンに行く」と言い出した、ザールの次期領主。 「ナタリヤ!」 「おはようございます、アスト様」  アストが名を呼ぶと、ナタリヤは大きな瞳を輝かせた。 「どうしたの? 王都に勉強に行ってたんじゃなかったっけ?」 「行っておりました」 「なのにどうしてザールに居るのさ」 「ザールに戻る事になりましたので。昨日の夜遅く、到着いたしました」 「なんで? 丸々三年かかるって言ってなかったっけ? あと半年くらい残ってるよね? 追い出されたの?」  ナタリヤは笑みを浮かべた唇を歪ませた形で、表情を凍り付かせる。アストから顔を反らし、隠すようにため息を吐いていたが、隠しきれていなかった。 「ご期待に沿えず申し訳ありませんが、どうやら、私は自身の事を過小評価していたようなのです。予想以上に勉学が順調に進みまして、早く終える事が可能となりました。ならばアスト様のご生誕のお祝いに駆けつけようと、急いで帰ってきたのですが……」  口調こそ丁寧だが、言葉の中には明らかに嫌味が込められており、アストは小さく笑みを浮かべる。  本来ならば気分を害するべき所かもしれないが、アストにとっては嬉しい事だった。アストに嫌味を言ってくれる相手など、そうそう居ないからだ。 「何かおかしな事でも?」 「なんでもないよ」  正直な想いを伝えるのは気恥ずかしく、顔を背けるようにして、アストは寝台に腰を下ろす。  手で口元を覆う事で笑みを隠しながら、ナタリヤの髪の色に昨日の少年を思い出したアストは、彼が本当にレイシェルの子供なのだとすれば、ナタリヤの従兄弟にあたるのではないかと思い至った。  ナタリヤなら知っているかもしれない。あんな場所で、まるで隠れるように生きる少年の事を。  聞けば話してくれるだろうかと口を開きかけて、戸惑った。ナタリヤならば、同じくザールで暮らす従兄弟の事を、わざわざ訊ねなくとも包み隠さず話してくれるのではないかと考えたからだった。  ナタリヤはあの少年の事を知らないのだろうか。それとも、語る事をためらうほどの確執があるのだろうか。 「カイ様とシェリア様の絵はこちらに飾ってあったのですね」  アストが悩んでいると、ナタリヤが不意に呟いた。  優しい緑の瞳が見上げる先には、若き日の――などと言うと、「俺はまだ若い」と父に怒られそうだが――両親の肖像画があった。 「うん、そうなんだ。母さんの絵はこれ一枚しかないからって、父さんが俺にくれた。俺にも母さんが居たんだって事を、忘れないようにってさ」 「そうですか」  ナタリヤは相槌を打ちながら、肖像画を見上げる目を細める。 「シェリア様は本当にお奇麗な方ですね。カイ様のお心を掴んで離さないのも、判る気がします」  ナタリヤの言葉に反応し、アストは視線を下げる。肖像画を見上げるナタリヤの横顔は、どこか辛そうにも見えた。 「父さんは、母さんの事忘れてないと思う?」 「もちろんです」 「そっか。俺、父さんの口から母さんの話を聞いた事ってほとんどないから、父さんはもう、母さんの事をあんまり思い出さないのかと思ってた。そうじゃなけりゃ」  アストはてのひらの下にある布団を撫で、柔らかな感触を楽しみながら続けた。 「ナタリヤ、俺さ、正直に言うと、母さんが居なかったのははじめからだから、皆が思ってるくらい、もの凄く悲しいわけじゃないと思う。それよりも、どんな人だったんだろうって気になる方が強いかな……ナタリヤは、俺の母さんの事何か覚えてる?」  ナタリヤの視線がゆっくりと下りてくる。絵の中のふたりから、アストの元へ。だが不思議と、眼差しにこもる感情に変化があるようには見えなかった。 「残念ながら、私はシェリア様にお会いした事がありませんので、アスト様にお話できる事は何もございません」 「そっか。じゃあ、しょうがないよね」  勢い良く立ち上がり、大きな足音を立てる事で話の終焉を伝えると、アストは小走りで扉に向かう。一刻も早く父に会わなければならない理由を思い出したからだった。 「そうだ。おかえり、ナタリヤ」  思いついた言葉を口にするため、アストは扉に手をかけながらナタリヤに振り返る。 「先に話しこんじゃって、言い忘れてた。ごめん」  ナタリヤは一瞬目を丸くしたが、すぐに可愛らしく微笑んで応じた。 「ありがとうございます。では私からも、ひとつよろしいでしょうか。アスト様に朝を告げる役目を無理矢理預かり、お部屋を訪ねた目的が、まだ達成できてないのです」 「何?」 「本日のアスト様に一刻も早くお会いしたいと願う理由は、ひとつだけです」  ナタリヤはそっぽを向き、咳払いをして声の調子を整えてから、再びアストに向き直った。 「お誕生日おめでとうございます、アスト様」 4  父はアストの背後に回り、腰を屈める事でアストと視線の高さを同じくすると、アストに剣を握らせた。 「とりあえずは剣の持ち方からだな」  よく判らないまま柄を握るアストの手に、父の手が重なる。口で説明するよりも体に覚えさせた方が早いと判断したようで、「親指はこうで……」などと簡単に説明をしながら、アストの手を動かし、正しい位置に移動させようとしていた。  だが、父の動きが突然止まった。数秒遅れててその事実に気付いたアストは、慌てて顔を上げ父を見た。「やる気がないならやめるぞ」と放り投げられる事を恐れたからだった。  一年間待ち続けてようやく訪れた喜ばしい日だと言うのに、なぜ全く関係ない事を考えていたのか! 「ごめんなさい! ちょっと、ぼーっとした! 真面目にやるから!」  慌てて言うと、父は小さく声を出して笑う。笑いがおさまってから、「そんなに必死にならなくても、いきなり見捨てたりはしないぞ」と続けてくれたので、アストは胸を撫で下ろした。 「だが、刃を潰してあるとは言え、剣を使うんだから、集中した方がいい。思わぬ怪我に繋がるかもしれないからな」 「うん。判ってるよ」 「……その調子じゃ、ちゃんと集中できそうにないな」  父が呆れ混じりのため息を吐きながら、少し厳しめの口調で言うので、アストは縋るような視線を父に向けた。 「とりあえず、何を考えていたのか言ってみろ。あれだけ執着していた剣を習う事よりも気になるなんて、相当な事だろう。ずっと捉われるような悩みがあるなら、早く解消した方が――っと、もしかして、俺には言い辛い悩みか? そうだよな。そう言うのがあってもおかしくない年頃だよな。そうすると、誰に頼ればいいんだろうな……?」  アストが上手く説明できないでいる間に、父は勝手に想像を膨らませていた。このまま放っておけば、勝手に悩みを捏造されかねないと怯えたアストは、「そんなんじゃないよ!」と強く叫んで父のひとりごとを止めた。  アストが考えていた事の大半は、昨晩レイシェルの屋敷で会った少年だった。結局ナタリヤに話を聞けなかったので、少年の存在の全てが、アストにとって謎のままなのだ。  彼の事を父に聞いたところでどうしようもない。とにかく今は忘れて集中しようと決め、何度か頭を振ったアストは、ふいに思いつく。あの少年が本当にレイシェルの息子なのだとすれば、父が彼の事を知っていてもおかしくないのではないか、と。レイシェルはアストの乳母なのだから、当然父はレイシェルと知り合いであり、彼女の子供の存在を知っていてもおかしくない。むしろ、アストが今まで知らなかった事のほうがおかしいくらいだ。 「父さん」  アストは剣を地面に置き、振り返って父と向かいあった。 「なんだ?」 「昨日、レイシェルさんの墓に行った時」 「ん?」 「そばにあるだろ。生きてた頃のレイシェルさんが住んでた屋敷。あそこに、俺より少し小さいくらいの子供が居たのを見たんだ。ナタリヤたちと同じ、蜂蜜色の髪をしていて……」  父の笑みに僅かな困惑が混じるのを、アストは見逃さなかった。 「ユーシスに会ったのか」  聞き覚えのない名前の響きは儚く柔らかく、あの少年によく似合っているとアストは思った。 「あいつは、ユーシスって言うのか?」 「ああ。お前は自分より少し小さいと言ったが、本当はお前よりお兄さんだ。と言っても、数ヶ月程度だけどな。産まれた時から体が弱くて、よく寝込んでいるようだから、体はお前より小さいのかもしれないな」 「そうなのか……」 「お前を育ててくれたレイシェルさんの、実の息子さんだ」 「やっぱり」との言葉は、わざわざ口に出さなかった。  アストは一度目を伏せ、視界の中から父を消し去る。すると、窓際に立つ少年の、不安げな、怯える様子がはっきりと蘇った。  母親を殺したと告白した子供。細い体で、自分は魔物ではないと強く否定しながら、罪の意識に震えているようにしか見えなかった。 「あいつ、なんであんなところに住んでるんだ? レイシェルさんが生きていた頃ならともかく、今も、なんて」 「それは」 「あいつは『魔物の子』って言われてるって言ってたけど、関係があるの?」  アストの問い詰めるような視線に、父は強い眼差しで応じてくれた。 「関係が無いとは言えないな」  苦悩を色濃く表した眉間から、アストは察した。父は、「どうしようもなかったんだ」などと言う、大人がよく使いそうな言い訳を、必死になって飲み込んでいるのだと。 「ザールの民がユーシスの事をまるで魔物のように思っているのは本当だ。以前、ザールの城が魔物たちに襲われるって事件があってな。お前が生まれるより少し前の事だ。本来、エイドルードの結界は、ザールの町や城まで守っていて、中に魔物たちが入ってくるなんてありえないんだが、そのありえない事をやってのけたのが、ユーシスの父親だった。操られていたのか、本人の意思かはともかく、魔獣に心を支配されていたユーシスの父親は、自分の体を半分だけ魔物にして、魔獣の力を結界の中に呼び込み、一時的に結界の力を弱めた。本人が亡くなった今、想像するしかないんだが、とりあえず学者や神官たちはそう言ってる」  ザールを出る事を許されていないアストは、魔物の姿を見た事がない。故に、魔物に襲われる恐怖を肌で理解できていない。しかし、幼く拙い想像力でも、恐ろしい事件であったのだろうと予想するのは容易かった。  多くの人が傷付き、多くの命が失われたのだろう。二度と同じ事が起こってほしくないと、願っているのだろう。 「その時の事を、ザールの大人たちはよく覚えている。だから、ザールの大人たちは、ユーシスの事が怖いんだ。ユーシスが、ユーシスの父親のような力を持っているんじゃないか、父親と同じ事をするんじゃないかって。そうやって怯える人たちを、レイシェルさんも、ルスターさんも、俺も、責める事はできなかった。でも、そうやって怯える人たちが、怯えたあまりにユーシスを傷付ける事は、絶対に許せなかった。だから、人の目から隠れるように、あそこで暮らすようになったんだ。辛い決断だったと思う」  アストは無言で頷いた。ユーシスを目の当たりにし、僅かながらも痛みを受け取ったアストとしては、感情的に一切納得ができない事なのだが、理解できているふりをした。 「だがな、レイシェルさんも、ルスターさんも、俺も、違うと思っている。信じている。ユーシスは魔物なんかじゃないってな。アスト、お前はどうだ? あの子が魔物の子供だから、怖いと思ったか?」  アストは迷う事なく、力強く首を振った。  胸を張って、はっきりと言い切れる。彼は魔物ではない。罪の意識に怯える、ただの人間、ただの子供なのだと。 「あいつは違うって言った。俺もそう思う。だから怖くはなかったんだ」 「そうか」 「でも、そこじゃない何かが、怖かった。だってあいつ、すごく怯えてたんだ。自分は魔物で、魔物の力で母さんを殺したって言われてるって言ってて、それは力一杯違うって言ってたけど、あいつが違うって言ったのは、自分が魔物だってとこだけに見えて」  どうしてかと問われても、判らないとしか返せない。だが、アストは感覚的に理解したのだ。ユーシスは、自分の正体でも、ザールの民の反応でもなく、母を殺した事実に怯えているのだと。 「――ああ」  ああ、だからか。  だからこんなにも、あの少年、ユーシスの事が気になったのか。 「アスト」  父の手が、アストの頭に触れたかと思うと、乱暴に頭をかき混ぜた。少しだけくすぐったく、少しだけ痛いその行為に、アストが「何するんだよ」と声を上げる事で小さな抵抗をすると、動きを止めた父の手は、ゆっくりとアストの肩へ移動した。  肩から伝わる温もりは、ごまかしようのない純粋な優しさだけが存在していた。 「ユーシスはレイシェルさんを殺してなんかいない」 「本当に?」 「当たり前だ。レイシェルさんは、ユーシスの存在に関係なく、病にかかって亡くなったんだ」 「そっか。それなら、いいんだ」 「お前もだぞ」  限りない愛情の溢れる声に、アストは胸の強い痛みと、痛みが癒される心地良さを同時に味わう。  父の空色の瞳が優しく細められ、痛みを受け止めてくれるので、アストは泣き喚きたい気分になったが、父の前でそうする事は照れ臭かった。父はそんなアストの想いに気付いたのか、そっとアストを抱きしめてくれた。 「ごめんな」 「何で父さんが謝るのさ」 「お前が余計な事を気にしているのは、俺があまりシェリアの――母さんの話をしなかったせいだと思ったんだ。そうだよな。お前は自分が生まれた時期と母さんが他界した時期を知っているんだから、ちゃんと説明されなけりゃ、そう言うふうに考えるのが自然だよな。でも、違うんだ。母さんが死んだのは、お前が生まれてきたせいじゃない」  アストは父の胸に顔を埋めながら、泣きたいとの欲求に耐えるために、目の前にある父の服を掴む。  そうなのだ。アストがこんなにもユーシスの事が気になったのは、彼の言葉がアストの奥底に眠っていた恐怖を呼び起こしたからなのだ。  自分は母が居なくてもさほど寂しくない。だが、父が自分に対して妻の話をできないほどに寂しい想いを抱えているのが、自分のせいだと言うならば、とても悲しくて、とても辛い事だと思ったのだ。 「そんな事言われても、信じられないよ」 「なら、お前が信じてくれるまで何度でも言うさ。お前が頭で理解して、心で受け止められるようになるまで、何度でも、何度でもな。母さんが死んだのは、お前のせいじゃない」 「じゃあどうして母さんは死んだんだ」とアストは続けて訊きたかったが、泣くのを堪えて上ずった声になってしまう予感がして、口を噤んだ。 「お前も、ユーシスも、誰も悪くないんだ――」  父の声は優しく、いつまでもアストの中に響き渡る。繰り返されるたびに、父の言葉は強い力を持って、アストの中に浸透していった。  ひとりで抱えていた不安を、誰かが否定してくれる事は、なんと心地よいのだろう。アストは父の胸の中で、誰の目にも映らない笑みを作った。 5  大人たちは時折、「大きな仕事をしたあとの食事は特別に美味い」と言ったたぐいの台詞を口にするが、昨日までのアストにはさっぱり理解できないものだった。  だが、今日からのアストは違う。大人たちのような仕事はしていないが、朝から昼まで動かして疲労を蓄積させた体には、いつもの食事がいつも以上に美味しく感じられ、「ああ、こう言う事なのか」とおぼろげに理解できるようになった。口に出したら笑われそうなので言う気はないが、少し大人になった気分だ。 「今日はこのくらいにしておこう」と言って父が訓練を切り上げた時は、倒れそうなほどに疲れていて、すぐにでも部屋に戻って休みたい気分だったが、残った気力と体力を振り絞って食堂まで歩いてきて良かった。一旦休んでしまってからでは、この味は判らなかっただろう。 「よく最後までついてきたな。途中で根を上げるかと思っていたが」  アストは口いっぱいに頬張っていたものを咀嚼し、飲み込んでから返事をした。 「あたりまえじゃん。そんなにすぐに諦めるくらいなら、あんなにしつこく頼んだりしないよ」 「そりゃそうか」  一年前の、暇さえあれば「剣を教えて」と言いながら付きまとっていた頃のアストを思い出したのか、父は複雑な笑みを浮かべた。当時のアストは、仕事の邪魔こそしないように心がけていたが、休憩や睡眠の邪魔は多少なりともしたので――だからこそ父は根負けしたのだろうが――あまり良い思い出ではないはずだ。 「ま、かなりきつかったけどさ。で? 次はいつ!?」 「そうだなあ。特に問題が起こらなければ、昼前はいつでも暇なんだが」 「あ」  アストの隣の席で、淑女らしく静かに食事を進めていたナタリヤが、短く声を上げた。 「本日の朝、多くの聖騎士や兵士たちが各地に派遣されましたが、報告は受けておられますか?」  カイは瞬時に表情を引き締め、アストに向けていた視線をナタリヤに向ける。 「いや、何も」 「そうですか。緊急に何が起こると言うものでもないので、おふたりのお邪魔にならないよう報告を後回しにしたのでしょう」 「何かあったのか?」  難しい話になりそうだ。アストは話に口を挟まず、食事を進める事に決めた。見上げる父は、完全に仕事の顔で、冗談でも言おうものなら、叱られてしまいそうだ。 「昨日の朝、見回りをしていた兵士たちが、これまで魔物が足を踏み入れられる限界とされてきた地域よりも内側に魔物の姿を発見したのですが、その話は聞いておられますか?」 「もちろん、昨日のうちに」 「父は当然、魔物を発見した区域の警戒を強化したのですが、昨晩から今朝にかけて、他の安全区域でも魔物の姿を発見したとの報告が相次いだため、見張りの強化と調査を行う事に決めたようです。あ、ですが、ご安心ください。今のところ、ザールの町や城まで入り込んだとの話は無いようです」  父はとうとう、食事の手を完全に休める。  難しい顔をする父を上目遣いで見つめながら、アストは最後のひとくちを飲み込んだ。 「詳しい話を聞いてみたいんだが、ルスターさんたちは余裕がないかな?」 「問題ないと思います」 「そうか、じゃあ後で会いに行ってみよう。報告をありがとう」  素直な礼を伝えると、父はアストに振り返った。 「アスト、今日はみんな忙しいだろうから、部屋でおとなしくしてろよ」 「わざわざ言われなくても、動き回る体力なんか残ってないよ。ごちそうさま」  食事を終えたアストは、父やナタリヤをその場に置いて、自室に戻る道を進んだ。ナタリヤの報告の内容は気になったが、詳しく聞いたところで自分には理解できない部分が大きく、眠くなるだけだと判断したからだった。アストが動き回る範囲では問題ないようだし、とりあえず「今までより危険な範囲が広まった」とだけ認識していれば充分だろう。  部屋に戻ると、四半日前に離れたばかりの寝台が、妙に恋しいものに見え、扉を閉めると同時に飛び込んだ。枕に顔を埋め、柔らかさを堪能した後、仰向けになって天井を見上げる。  瞼はすぐに重くなった。けだるさが気持ちよく、一度眠ってしまおうかと目を伏せたアストは、まどろみながら、ひとり町外れで生きる少年の事を思い出した。  一気に目が覚め、飛び起きる。  魔物がこれまでよりもザールに近いところに現れるようになった、とナタリヤは言っていた。ザールの町や城はまだ大丈夫だとも。だからアストは安心していたのだが――町はずれの森は、森の中にある屋敷は、同様に安全なのだろうか?  やはり詳しく聞いておくべきだったと、ついさっきの自身の行動を後悔したアストは、急いで食堂に戻ってみたが、父の姿もナタリヤの姿も見つからなかった。他の誰かに訊ねようかと考えたが、詳しいだろう兵士や聖騎士たちの姿は周囲に見当たらず、たまたま通りかかった女官は、アストと同程度の知識しか持っていなかった。  では、父やナタリヤを探そうかと考えたが、食事中の会話を思い出し、思いとどまる。おそらく父たちは今、領主ルスターや兵士長たちと、今後の対策について話しているだろう。それこそ、アストには理解できない難しい話で、ただの邪魔者になってしまう。普段から、「父の仕事の邪魔だけはしないようにする」と決めているアストにとって、許されない選択だった。  ならば最後の手段だと、アストは城を出る道を進んだ。自分の目で確認に行こうと思ったのだ。本音ではそうしたかったアストにとって、都合のいい事だった。  表から出ては目立ってしまうだろうと考え、裏口の方へ進んだアストは、小さな門を目の前にした頃、突然声をかけられ、身を硬直させる。 「どちらに向かわれるおつもりです、アスト様」  心臓が大きく鳴った。ぎこちない動作で振り返ると、見る者を威圧するほど冷静なハリスの視線が、アストだけを捉えていた。 「ちょっと、気になるところがあるから、見に行こうかと思って」 「どちらです?」 「な、何でわざわざ聞くんだよ。今まで、町の中ならどこに行こうと、いちいち訊かなかったじゃないか」 「平時における町の中ならば、アスト様がいずこにおられようと、常に聖騎士たちの目が届き、緊急の際もお守りする事が可能であるからです。ですが今は事情があり、万全の体勢でアスト様をお守りできる状態ではございません」  外の警戒に人を裂くため、町中の見回りにや防衛を担当する人の数が減っている、と言う事なのだろう。  問題はアストが思っているよりも深刻なのかもしれないが、「別に見守ってくれなくてもかまわない」と内心思っているアストにとって、ハリスの主張はどうでもいい事だった。  アストは軽く唇を尖らせた。 「判った。言うだけ言うよ。町外れの森の中に屋敷があるのを知ってる?」 「生前のレイシェル殿が暮らしていた屋敷の事でしょうか」 「そう。そこを見に行きたいんだ」  ハリスは薄く開いた唇を一度引き締めてから、新たに言葉を紡いだ。 「森周辺は、現在聖騎士たちが、結界の限界点を探る調査をしております。安全かどうか確認されておりませんので、どうかご遠慮ください」 「安全かどうか判らないから行きたいんだよ。屋敷に住んでる人が、大丈夫かどうか」 「問題ありません。ザールの兵士たちが警戒にあたっております」 「でも、兵士たちが警戒してるのは森の周りで、常に屋敷だけを見張っていてくれるわけじゃないんだろ? 魔物は、聖騎士たちが別のところを見回っている隙を突いて、屋敷を襲うかもしれないじゃないか。もしそうなったらどうするんだ? たったひとりくらいなら、ザールの民の命を見捨ててもいいって思う?」  ハリスはアストを見下ろしたまま、短い沈黙を作った。睨まれているのか、彼なりに何か考え込んでいるのかが判らず、アストはすっかり怯えていた。 「判りました。では、私が見て参りましょう。お望みでしたら、調査が終わるまでの間、常に屋敷周辺に待機し、警戒の目を光らせます」 「ハリスが? 直接? ひとりで?」 「はい」 「俺を城に残して?」  再び沈黙が訪れた。無言のハリスが向ける視線はやはり少し怖かったが、アストは負けじと見つめ返した。睨み返す、と言ってもよいほどの強い目つきで。はたから見れば明らかにアストの方が弱いのだろうが、負ける気はしなかった。 「自分の目で見に行きたいんだ」 「ですから、安全が確認されるまではお待ちくださいと」 「俺は『自分の目で見に行きたい』って言っているんだよ、ハリス」  必死なアストが吐き捨てた言葉は、もはや命令だった。聖騎士であるハリスには、よほどの事でもないかぎり、拒否できないものだ。  普段のアストは、皆があまりにも簡単に言う事を聞くのが気味が悪いので、滅多に命令する事はない。だが今は、とにかく行きたいとの想いが何にも勝っており、願望を叶えるための方法が他に考え付かなかったのだ。  ハリスは抵抗を示す間を僅かに空けた後、アストの前に跪き、頭を下げる。 「ご命令とあらば。ですが、私のそばをけして離れないでいただく事と、万が一魔物が現れた場合は即座に引き返していただく事を、お約束いただけますか。我らはアスト様の御身をお守りするために存在しております。我らにとって、アスト様をお守りする事は、アスト様のお言葉よりも絶対なのです」  正直なところを言えば、ハリスが同行するのは息苦しい気がして嫌だったが、いざ魔物が現れた時、自分ひとりではユーシスを守れないし、何より自分の目で直接確かめにいける喜びが大きい。  アストは納得して頷いた。 「判った。ハリスの言うとおりにする」 「ありがとうございます」 「じゃあ、すぐに行こう」 「はい」  ハリスが頷き、立ち上がるのを確認してから、アストは再度歩き出す。  歩くと言うには、少し早い、小走りに近い形で。脇目もふらず、町外れの森までの道を。 6  昨日と違い空は晴れ渡っているため、視界が開けており、アストの姿は多くのザールの民の目に晒された。聖騎士の隊長であるハリスが隣を歩いている事で、金髪の子供がアストだと言う確証を得やすかったのもあるのだろう。好奇や尊敬の眼差しが、多くアストに向けられた。  中には突然祈りだすものもおり、普段のアストならば確実に顔を反らしているところだ。しかし今日のアストは気にしなかった。目的地まで一目散に進む事で、精一杯だったからだ。  晴れた日でも、町外れの森は少し薄暗かった。同じだけ気分が暗くなり、アストが足を止めると、「一度こちらでお待ちいただけますか?」とハリスの声がかかる。冗談ではない、何のためにここまで来たのだと思い、アストは地面を蹴るように力強く歩いた。  町の中では隣を歩いていたハリスが、常にアストの二歩前を歩くようになった。周囲に向ける眼差しも、鋭いものに変わっている。彼の立場上警戒せざるを得ないだけなのだと判っているのだが、今すぐに魔物が飛び出してくるような気になり、アストは少しだけ身を縮ませた。  やがて目的の場所に辿り着く。雨が降っていない事を覗けば、昨日見たものとまるで同じ光景が広がっており、アストは安堵した。レイシェルの墓に備えた花束もそのままだ。雨に打たれすぎたせいか、かなり弱り、花びらがいくらか散らばっていたけれど。  念のためユーシスの無事を確認しておきたいと、屋敷の方に目を向けたが、全ての窓が閉めきられていて、中は覗けなかった。  窓を叩いたり中に入ったりしても大丈夫だろうか? 躊躇するアストの前に、突然ハリスの大きな手が現れた。 「ど――」  どうしたんだと、訊ねる必要はなかった。ハリスは腕の動きで下がるようにアストに伝えたすぐ後に、剣を引き抜いた。鋭い視線を森の奥に向け、剣もそちらに向けて構えている。  かすかな唸り声が森の奥から響くと、アストの背筋に冷たいものが走った。 「アスト様、先程のお約束、覚えておられますね?」 「あの声、魔物?」 「おそらくは。やつらがどこまで近付いて来られるか判りませんが、ここも危険かもしれません」  アストが来た道を引き返しはじめると、ハリスは地面を蹴った。ザールに居る聖騎士たちの中では最年長だと聞いているが、とても年齢を感じさせない素早い動きに、振り返りながら走っていたアストは一瞬見とれた。 「凄いな」と感心してから、アストは足を止め、真剣な眼差しを屋敷に注いだ。もちろん、ハリスの手前約束を守るふりをしただけで、ユーシスの無事を確認するまで引き返すつもりなど毛頭なかった。  昨日ユーシスが現れた窓に駆け寄り、強く叩く。返事はない。何度か繰り返したが、やはり反応はなく、アストは歯を食いしばった。  すでに屋敷を出て避難しているならば、それでいい。しかし、屋敷の中の別の部屋に居るのか、部屋の中に居ながら外に出てくる気が無いのだとしたら問題だ。  真実が判らないアストの中に、「ひとりで戻る」との選択はなかった。一度窓を離れ、周囲を見回し、屋敷の入り口に駆け寄った。  都合の良い事に、鍵はかかっていなかった。アストはためらう事なく扉を開け、屋敷の中に飛び込んだ。  初めて足を踏み入れる屋敷の中は、つくりがどうなっているか判らず、がむしゃらに駆け巡り、部屋をひとつひとつ確認するしかなかった。骨の折れる作業だが、さほど大きな屋敷ではない点が幸いだった。領主の妹レイシェルと、その息子ユーシスのための屋敷とは言え、たったふたりが暮らすためだけに急遽建てたものなのだ。時間的にも予算的にも、あまり大きなものは造れなかったのだろう。  アストは目に付いた扉を片っ端から開けて、人影を探した。台所や倉庫、明らかな空き部屋にはもちろん、ユーシスの部屋――もしかしたら違うかもしれないが、昨日ふたりが邂逅した場所だ――にも人の姿は見つけられず、アストは少々苛立ちながら、次の扉に向かう。  乱暴に開いた扉は、書庫のものだった。小さい部屋の壁一面に本棚が備え付けられており、埋め尽くすように本が並んでいる。ザール城の書庫と比較すれば当然少ないが、充分圧倒されるだけの量があった。  アストが探していた人物は、部屋のほぼ中心に居た。  毛糸で編んだはおりものや膝かけで暖を取りながら、柔らかそうな椅子に座り、膝の上に開いた本に視線を落としていた彼は、扉が開くと同時に顔を挙げ、驚きのあまり見開いた目をアストに向けた。同時に、悲鳴混じりの息を吐いていたようにも聞こえた。扉が勝手に開いた事に驚き、扉を開けた人物がアストである事に再度驚いた、と言ったところだろう。 「覚えてるか? って言い方も変かな? 俺、昨日会った、アストって言うんだけど。お前、ユーシスだろ?」  ユーシスの動揺はいっそう強くなり、無意味にあたりを見回してから、アストに向き直った。 「どうして僕の名前を?」 「父さんが教えてくれた」 「何で君のお父さんが僕の名前を知っているの?」 「俺を育ててくれたのはレイシェルさんだし、父さんはレイシェルさんのお兄さんのルスターさんと親しいから、だと思う。詳しい事は俺も知らない。それよりも、できれば早く……」 「もしかして、君のお父さんって、カイ様?」  ユーシスが突然父の名を紡いだので、アストは僅かの間息を止めた。 「父さんの事を知っているのか?」  ユーシスは半ば伏せた睫に哀愁を乗せた。 「母さんが生きてた頃、よく話をしてくれたから。カイ様は僕の恩人だって。僕が産まれた時、神官たちは僕に祝福を与える事をためらったけど、代わりにカイ様が祝福を与えてくれたって。カイ様と、お兄さん――僕にとっては伯父にあたるルスターさんが、守ってくれたんだって」  本に添えられていたユーシスの両手に、力が篭る。  苦悩の証である皺が、ユーシスの眉間に刻まれている事に気付いたアストは、数歩踏み込んで、手が届く位置まで近付いた。 「とにかく、話は後で。今は」 「どうして僕に祝福なんかを与えたんだ」  吐き出された言葉は、感謝とは縁遠い、呪いにも似た言葉だった。 「僕は魔物じゃない。だけど、魔物の子供なのは本当だ。だからみんな僕を怖がってる。みんな、お父さんがやったように、僕もザールを襲うんじゃないかって怯えてる。だからお母さんは、城や町で暮らせなくて、でもザールから遠く離れる事もできなくて、僕を連れてこんな所に隠れたんだ」  ユーシスは真に呪詛するカイの代わりに、息子であるアストを睨みつけた。カイが持つものと同じ、空色の瞳を。  風がざわめくように粟立つ肌を抑えようと、アストの右手は左腕を強く掴んだ。 「僕は祝福なんていらなかった。守ってほしくもなかった」  掠れて空気に溶けてしまいそうな叫びが、アストの記憶を呼び起こす。僅かな過去に交わされた言葉、何よりも優しい父の声。  違う、とアストは思った。抑えるべきは、自分自身の震えではないのだと。思った瞬間、体は勝手に動いていた。 「余計な事をしなければ、僕は産まれてこなかったかもしれないし、産まれてきてもすぐに死んで、お母さんを苦しめる事がなかったかも――」  アストはユーシスの手を掴んだ。  興奮と動揺のために震えていた、アストのものよりも幾分細く神経質そうな指は、他者からの力に耐えるためにか、瞬時に強張る。直後、アストの手から逃れようと力が込められるが、力ではカイの方が圧倒的に上だった。 「俺が産まれるのとほとんど同じ頃、俺の母さんは死んだよ。だから俺も思ってた。俺が母さんを殺したんじゃないかって、不安だった」  ユーシスがきつく唇を噛んだ。 「でも父さんは言ってくれた。俺が母さんを殺したんじゃないって。何度でも何度でも言うって、父さんは言ってくれた。それで俺の心が本当に楽になるのか、まだ判らないけど、でも嬉しかった。言ってもらえないよりずっといいって思ったんだ」 「それが、何だって言うんだ!」  消え入りそうな声で怒鳴るユーシスに、一瞬気圧されそうになったアストだが、負けじと言い返した。 「お前もだよ。父さんは言った。お前はレイシェルさんを殺してなんか居ないって。だから、お前がそうしてほしいって言うなら、父さんは何度でもそう言ってくれるはずだ。いや、父さんはもしかしたら、お前にしょっちゅう会いに来るほど時間が無いかもしれないけど……それなら、俺が代わりに言ってやる!」  ユーシスの瞳が瞬いた。  若草色のそれが、春の日差しに照らされたように明るい光を宿すところをはじめて目にしたアストは、小さく、今にも消えてしまいそうな儚い光を逃すまいと、ユーシスを掴む手に力を込める。 「君は、どうして……なんで、そんな」 「そんなん、判るかよ。ただ、今のお前みてるとむかつくんだよ。いや、むかつくって言うか」  悲しい。  そうだ、悲しいのだ。みっともなく泣き叫びたくなるほどに。傷付く姿を見ていると、まるで自分が傷付いているかのようで、息苦しいのだ。  父がどれほど優しい言葉をかけてくれても、優しい温もりを与えてくれても、それは許されているだけで、本当の意味で救われているわけではないのかもしれないと、心のどこかでアストは不安に思っている。けれどもし、目の前のこの少年が、立場は違えど共通する痛みを抱えるユーシスが、救われるならば。  その時は、自分も救われるような気がしたのだ。不安はどこかに消し飛び、自信が持てるような気がしたのだ。 「僕、は……」  アストの手の中にある、アストよりも僅かに小さな手が、それまでと違った理由で震えはじめる。奇麗な色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝いはじめると同時に。 「泣くなよ」と言いかけて、アストは必死に言葉を飲み込んだ。今朝、父から同じ言葉をもらい、泣きそうになっていた自分を思い出したからだった。ユーシスはきっとアストよりも素直で、見栄で涙をこらえるような子供ではないのだろう。  黙って眺めているのも気まずく、ユーシスに背を向けたアストは、忘れかけていた現状を思い出す。力いっぱいユーシスの腕を引き、無理やり立たせると、走り出した。 「な、何、どこに?」 「話し込んでる暇なんてなかった。なんか、近くまで魔物が来られるようになったみたいで、この屋敷も危ないかもしれないんだ。今調査してるらしいんだけど、だからとりあえず、いったん屋敷を出て……」 「でも、僕は、屋敷を出ちゃ駄目だって言われてるんだ」 「緊急事態だぞ!? 関係あるか!」  アストが厳しい口調で言い切ると、ユーシスは黙ってアストに従ったが、病弱なユーシスがアストと同じ速さで走れるわけがなく、アストは仕方なしに走る速度を緩めた。  これでは歩いているのとほとんど変わらない。いっそおぶった方が良いかとアストが考えはじめた瞬間、異質な音が低く響き、耳を刺激する。  アストが振り返った時、ユーシスも振り返っていた。少年たちはほぼ同時に、通路の先の壁が軋むのを確認した。 7  それが本当に意味のある行為なのか、考える余裕もないまま、アストはユーシスを背中に庇った。両手を広げ、ユーシスの前に立ちはだかりながら、大きく見開いた目で、歪む天井と屋根を見つめる。  やがて強い力に耐えられなくなった壁が、激しい破壊音を立てながら穴を開けると、アストは歯を喰いしばって悲鳴を堪え、息と共に声を飲み込んだ。強がらなければ、腰が抜けて座りこんでしまいそうだったからだ。  穴から屋敷の中に飛び込んできたもの――むしろそれが飛び込んできたからこそ穴が開いたのだが――は、昆虫の足に似たものであったが、大きさや強度が違うのは見るからに明らかで、はじめて目にするものながら、これが魔物なのだろうと理解するに充分な異質さだった。  全身が震えだすほどの恐ろしさだったが、不思議な事に、背中の後ろに隠れるユーシスの小さな悲鳴が、アストに冷静さを呼び戻してくれた。取り乱しかけていた心が落ち着き、とりあえず出口へ向かうべきだと考えられるようになった。幸いにも、魔物の足が飛び込んできた場所は出口へと反対方向であるし、魔物は穴に足がひっかかっており、その場を動けないでいる。  ユーシスの手を引き、アストは再び走り出した。恐怖によってか、ユーシスの体は硬直していたので、半ば引き摺るような形になり、腕に重みを感じたが、気にならなかった。早々にこの場を立ち去り、ふたりそろって魔物の脅威から逃れなければと言う使命感が、アストを突き動かしていた。  乱暴に扉を開ける。外から流れ込んでくる空気は、なぜか新鮮に感じられた。アストですらそう感じるのだから、ずっと屋敷の中に閉じこもっていたユーシスは尚更だろう。  屋敷の外に踏み出そうとした瞬間、アストは手を強く掴まれ、引き止められた。あまりにも強い力なので、アストの手を掴む人物がいつの間にか入れ代わったのではないのかと疑ったが、やはりユーシスだった。  両手でアストの手を掴むユーシスの両足は、床に縫い付けたかのように、その場を動こうとしない。 「どうしたんだよ」 「やっぱり駄目、駄目だよ。僕は、外には」 「だから、魔物が来てるんだぞ!? いいんだよ、今だけは! 町や城の中なら、まだ安全だって言ってたから……」 「嫌だ!!」  喉が擦り切れんばかりの、感情がはじける叫びは、アストに強烈な衝撃を与え、息をする事さえも忘れさせる。  アストが力を抜くと、ユーシスはアストの手を振り解いた。自由になった手ですぐに目元を抑えたのは、泣いているせいかもしれない。 「魔物が来てるならなおさらだよ。僕はここに残る。町にも城にもいかない」 「どうして」 「僕が行ったら、町にも城にも魔物が来るかもしれない」  呼吸のしかたを思い出したアストは、胸いっぱいに息を吸ってから、はっきりとした声で返した。 「何言ってんだよ。魔物の力なんて持ってないって、お前が自分で言ったんじゃないか。もしザールが魔物に襲われたって、お前とは関係ないんだろ?」  ユーシスは激しく首を振った。 「関係ないよ。もちろん、関係なんかない。でも、関係ある事にされるんだよ。僕のお父さんがしたように、同じ事をやったんだって決め付けられるんだ。僕は、魔物の子だから」  力ずくでもこの館から避難させるため、ユーシスの腕を掴もうと伸ばしたアストの手は、ユーシスに触れる前に動きを止めた。  嘘でも「そんな事はない」と言ってやれば、ユーシスの頑なな心や強張った体を動かす事ができたのかもしれない。だがアストには絶対に言えない、無責任な台詞だった。  ただの子供と同じように、いや、ただの子供よりも何もせず、緩慢な日々を過ごしているアストを、「救世主だから」と、「神の御子カイとシェリアの息子だから」と、崇めているザールの民を、アストは知っている。彼らは疑いもせず信じているのだ。アストがいつか、魔獣や魔物の脅威から大陸全てを救うのだと。  ユーシスも同じなのだろう。崇められているか蔑まれているかが違うだけで。 「じゃあ、お前はずっとここに居るのか? 魔物に殺されるかもしれないのに」  僅かにためらいを見せた後、ユーシスは肯いた。 「町や城に逃げ込む事が、死ぬよりましだとは思わない」 「それは」 「しょうがないんだよ。誰かが悪いんじゃないんだから。本当は、お父さんが悪いんだろうけど、もう死んでしまって、謝ったり反省したりできない人だから……だから、どうしようもないんだよ。判るだろう? 君だって、普通の子供じゃないんだから」  ユーシスの言う通りだった。アストには、ユーシスの言いたい事が痛いほど判る。泣きたくなるほど、理解してしまう。  でも。 「でも、俺は、どうしようもないなんて言いたくな」 「アスト様!」  知らない男の声が、アストの言葉をかき消した。  長い腕が背後からアストを抱きとめると同時に、浮遊感がアストを包む。体が浮き上がったのは一瞬で、すぐに床の上に転がった。同時に、床が揺れる強い衝撃。見れば、数瞬前までアストが立っていた場所は、魔物の足によって無残に粉砕されていた。  身を挺してアストを庇った男は、現状を理解しきれていないアストをその場に置き去りに、即座に立ち上がると、剣を鞘から引き抜く。  濃い色の髪と、意志の強い眼差しと、左手に剣を持つ姿が印象的な男は、格好から聖騎士だとすぐに判ったが、アストには見覚えのない人物だった。そもそも、ハリスと同じ位の歳の聖騎士など、ザールには居ない。  素早く振り返り、入り口を広げて屋敷の中に入ってこようとしている魔物と対峙する男に、「貴方は誰だ」と問いを投げかける事はできず、アストは男の戦いを見守った。  左腕で振るわれる一撃は重く、魔物の硬質な皮膚を強打し、時に貫いた。男の攻撃にか、それとも身を貫いた痛みにか、怯んだ魔物が若干後退すると、ようやく屋敷を襲う揺れや軋む音が止んだ。  アストは深呼吸をしてから、慌ててユーシスの姿を探した。呆然と横たわるユーシスの姿は、探す必要もないほどすぐ近くにあった。アストを守った男は、同時にユーシスも守ってくれたようだが、飛び散った破片全てから庇う事はできなかったようで、ユーシスの額には何かが掠めたような小さな傷があった。 「大丈夫か?」  アストが手を差し伸べ、ユーシスを抱き起こすと、ユーシスは小さな手でそっと額を抑えた。 「僕は大丈夫だけど、君は」 「俺だって大丈夫だぞ。お前と違って、傷ひとつない」 「そうじゃなくて……君だけでも早く逃げればよかったのに。今みたいに、都合よく助けが来るとは限らなかったんだから」  言葉で説明できない不快な感情が、アストの胸の中にわだかまり、やがて抑えきれなくなった。アストは腕を伸ばし、ユーシスの胸倉を掴むと、顔を近付けてユーシスを睨み付ける。 「俺はお前を助けるためにわざわざここに来たんだ。ひとりで逃げるわけないだろ!」  ユーシスは間抜けな表情をして、上目遣いにアストを見た。 「何で君は、僕を助けようと思ったの? 昨日ちょっと会っただけの他人じゃないか」 「それは」  すぐさま答えようと、口を開いたアストだったが、頭の中に浮かぶ言葉はあまりにも利己的にすぎ、ありのままに説明すれば、「余計なお世話だ」などと、失笑と共に冷たい言葉を吐き捨てられる気がした。  戸惑うアストが口を噤むと、ユーシスは唐突に思いついた顔をする。 「そっか。神の一族だと、僕みたいな子供も助けないといけないんだね。僕に祝福を与えたカイ様みたいに」 「なっ……そんなんじゃ、ない……」  思い物体が地面に落ちる音がして、アストとユーシスは振り返る。  落ちたものは、魔物の足の一本だった。男が叩き切ったのだろう。先を失った魔物の足と、男の剣から、人のものとは違う色をした血液が滴っている。  魔物の血は思いの他悪臭で、アストは瞬時に顔をしかめた。 「ジオール!」  凛とした女性の声が、アストの知らない名前を呼んだ。  合図だったのだろうか。足を一本失っただけで、変わらず暴れている魔物のそばから、男は素早く退散する。どうするつもりだと、反射的に問いかけようとしたアストが声を出すより僅かに早く、落雷が魔物の体を打った。  アストは咄嗟に顔を背けて目を閉じたが、刺激的な光が残した残像は強く、消えるまで長い時間を必要とした。耳の奥で鳴り続ける轟音が消えてもなお。  白い世界が落ち着きはじめ、周囲の光景をはっきり捉えられるようになると、アストはあらためて周囲を見回す。  男はすでに剣を鞘にしまっていた。魔物は雷に身を焼かれ、地面の上で果てていた。 「何で、雷? 今日、確か、晴れて……」  誰と定めずアストが問いかけると、男は振り返り、アストの前で跪いた。 「お怪我はございませんか、アスト様」  アストはしばらく戸惑った後、何度か肯いた。 「あ、うん。大丈夫、何ともないけど……えっと、貴方は?」 「聖騎士のジオールと申します」  なるほど、先ほどの声は彼の名を呼んでいたのかと、アストはひとつ納得した。 「いつもザールに居る人じゃないですよね?」 「常時は王都セルナーンの大神殿において、神の御子リタ様のおそばに仕えております」 「リタ様?」 「カイ様やシェリア様と同じく、天上の神エイドルードと地上の女神の」 「いいわよ、ジオール。自己紹介は自分でするから」  先ほどジオールを呼んだ声が、再びアストの耳に届いた。綺麗な声だった。意志が強く、だが攻撃的ではない、すんなりと頭や心に響き渡る声。  新たな人影が入り口近くに立っていた。ひとりはハリスだ。若干息を乱した彼は、体のあちこちに魔物の返り血を浴びている。屋敷を襲った魔物以外にも、多くの魔物と戦っていたのだろう。  ハリスの隣に立つ人物は、アストと同じ、淡い色の金髪を持つ女性だった。やはりアストと同じ色の瞳が、宝玉のごとく輝いている様は、とても似ていた。いや、似ているなどと言う言葉で片付けていい域を超えていた。 「――母さん?」  母であるわけがなかった。アストの目の前に立つ女性は寂しげに笑っているが、肖像画の中や人々の思い出話の中に出てくる母は、けして笑わない人だった。  何より、アストの母は、アストが産まれた頃に死んでいるはずではないか。 「ごめんね。似てると思うけど、私は貴方のお母さんじゃないんだ」  女性は背の中ほどまで伸びた髪をゆるく揺らして、アストのそばに寄る。  近くで見ても母とよく似た顔をしていたが、やはり母ではなかった。表情の違いだけでなく、全身から溢れる生命力も、およそ母らしくないものだった。 「こんにちは、アスト」  凛とした声が、優しくアストの名を呼ぶ。 「私はリタ。私も貴方やカイと同じ、エイドルードの一族の者よ」  握手を求めて差し出された手は眩しいほど白く、アストは戸惑いながら手を伸ばす。  触れた手は柔らかく、少し冷たかった。 8  リタの手が離れていく瞬間、ユーシスの存在を失念していた事を思い出したアストは、慌てて振り返る。  アストにつられたリタがユーシスを見つけ、微笑みかけると、呆然と座り込んでいたユーシスは、咄嗟に顔を反らした。屋敷で静かに暮らしていた彼には、多くの人間――たった四人でも、ユーシスにとっては充分多いはずだ――に囲まれている現状が、落ち着かないのだろう。あるいは、リタが持つ華やかで煌びやかな雰囲気を、苦手としているのかもしれない。  ユーシスの態度を意に介さず、リタは手を伸ばした。つい先ほどまでアストと握手していた手が、小さく傷付いたユーシスの額に触れる。可憐な唇が小さく動き、囁くような声量で神聖語が空気を震わせると、リタの手元が僅かに光った。  光が治まると同時に、リタの手がユーシスから離れる。額にあったはずの傷は、まるではじめから存在していなかったかのように、奇麗に消えていた。  母と同じ力だと、見守っていたアストは思った。アストの母も、特別な力――人の傷を癒す力や、聖なる雷で魔物を倒す力など――を持っていたのだと、人伝に聞いた事がある。実際にアストが目にした事はもちろんなかったが、同じものである事は疑いなかった。 「もう痛くない?」 「は、はい」 「そう。良かった」  リタが微笑みかけると、ユーシスは居心地悪そうに俯いた。 「ところで、リタ様はなぜザールにいらっしゃるのです?」  ハリスが問いかけると、リタはハリスに背を向けた状態でため息を吐いてから振り返る。 「例の洞穴に関する報告を大神殿に届けたのは貴方でしょう。だから視察に来たんじゃない」 「私が出した使いが大神殿に到着したのは、早くて昨日の夕方かと思いますが」 「そう。私は昨晩報告を聞いて、今朝早くに大神殿を出たの。どうしても私が参加しなければならない用や式典とかしばらくなかったし、急に何かがあっても、大抵の事は大司教の爺さんを代理に立てれば済む事だからね。ちょっと無茶をしたかなと思ったけど、来てよかった。思ったより悪い状況みたいだから」  呆気にとられたハリスは、しばらく言葉を失った後、気を持ち直して新たな質問を投げかけた。 「お供はジオール殿のみですか?」  リタは眉間に皺を寄せる。誰の目から見ても明らかな、不満げな表情だ。  短い時間ながら、多彩に変化する表情を見守るうちに、アストはしみじみと感じていた。この女性は、顔立ち以外の部分は全て、母と似ても似つかないのだと。  リタには母ほどに神秘性がないため、よく似た容姿を持っていながら、美しいと言う印象が母ほどには強くない。しかし、強引とも言える力強さや、黙っていても滲み出てくる明るさからは、母とは全く違う人としての魅力を感じた。初見とは言え、見間違えた事が失礼に思えるほどに。 「ちょっとハリス。私を誰だと思っているの? 護衛がこんな歳とった、引退直前の聖騎士ひとりだけのわけがないでしょう」 「では、他の者はいかがされました?」 「さあ? 私が突然方向転換しつつ速度を上げたから、着いて来られなかったみたい。ふがいない連中よね。あれで私を守ろうなんて十年早いって言うのよ」  ハリスがもの言いたげな視線をジオールに向けると、ジオールは無表情で肩を竦めた。 「おかげでしばらく引退できそうにない」 「お望みなら、強制的に引退させてあげるけどね」  リタが首を切る仕草をすると、ジオールはリタの視界に入らない場所で再び肩を竦め、口を閉じた。 「さ、話はひとまずこのあたりで切り上げましょう。寄り道で長居していると皆が心配するから、とっとと城に向かわないとね。貴方たちも、一緒に来なさい」  リタはアストやユーシスに向けて手を差し伸べる。それまでハリスたちに見せていた、上位に立つ者としての威圧感を見事に消し去った、温かな笑みを浮かべて。  差し出された手を取る事に、城が戻るべき場所であるアスト自身は異論がなかった。だが、ユーシスは当然、リタの手を取るどころか、目を合わせようともしない。  アストはしばらく考え込んでから、リタの瞳を真っ直ぐに見上げた。 「ユーシスはここを離れる気はないんだ。理由は言えないけど」  リタは僅かに首を傾げた。 「そこまで堂々と言い切った度胸に免じて理由は聞かないでおくけど、私が無知なのは貴方たちのせいなんだから、無神経な事を言ったとしても怒らないでよ」 「うん」 「ここは危険だから、一度避難しなさい。この屋敷やこの場所に思い入れがあるのかもしれないけど、このおじさんたちが安全を確認してから戻ってくればいいだけの事でしょう。それに、あっちの方とか穴開いてるじゃない。補修しないと生活にも不便なんじゃないの?」  風通りの良くなった通路を指差すリタの発言は、間違いなく、ユーシスにとって無神経な正論だったが、事前に交わした約束を覚えていたため、アストは感情のまま言い返す事をしなかった。  アストは怯えるように俯いたままのユーシスを背に庇い、首を振る。 「貴女の言う通りにするのが正しいって判ってる。それでもユーシスはここを動く気はないんだ」  リタは腰に手をあて、アストたちを見下ろしながら問う。 「さっきから『ユーシスは』ばっかり言ってるけど、貴方はどう考えてるわけ? と言うか、何か考えてるわけ?」 「考えてるよ。色々考えて、今は『ユーシスがしたいようにすればいい』って思ってる」 「その子、怪我したり、最悪の場合死んでしまうかもしれないけど、それでもいいって思ってるの?」  もちろん良いわけがない。アストは再度首を振り、はっきりと言い切った。 「そんな事にはならない」 「どうして言い切れるの?」 「俺もここに残るから」  発言した瞬間、全員の強い視線が、瞬時にアストに集中した。おそらくユーシスもだろうが、背中の向こうの彼がどうしているのか、アストからは見えなかった。 「俺がここに残れば、ハリスもここに残るだろ。そしたら、もしまた魔物が出ても、俺を守るために戦うはずだ。そのついでに、ユーシスを守ってくれるだろ」 「私がアスト様を無理矢理お連れする可能性はお考えになりませんか?」  いつも通りの冷静さを取り戻したハリスが、アストを守る立場にある人間としてごく当前の提案をしたので、アストは咄嗟に身構えた。  ハリスが本気でアストを連れ戻そうとするならば、力も体格も圧倒的に負けているアストに抗えるわけがない。ならば本気で行動させるわけにはいかず、そのためには、気持ちで負けるわけにはいかなかった。  緊迫した空気が流れる。困惑したユーシスが掠れた声で「もういいよ」と言いながら、アストの袖を引いた。  同時に、高い笑い声が響き渡る。リタだった。馬鹿にされているのかと思ったアストだったが、腹を抱えたリタは、心から笑っているように見えた。 「嫌いじゃないなあ。そう言うの」  必死に押さえ込んだ笑いの隙間を縫って発せられた言葉は、アストの案を否定するものではなく、優しく受け止め肯定してくれるもので、アストは強張った体から力を抜いた。 「いっそ私がここに残って守ってあげたいくらいだなあ」 「リタ様」 「判ってるわよ、さすがに迷惑かけすぎだって。じゃあ私はおとなしく城に向かうとして……アスト、こう言うのはどうよ? ジオールとハリスがここに残って、安全が確認されるまで、屋敷周辺の警護をする。ふたり居れば、とりあえず安心でしょ?」  アストは笑顔で肯いた。  ザールに滞在する聖騎士たちを統べるハリスの実力は話に聞いている。大きな魔物を圧倒していたジオールの実力は、先ほど目にしたばかりだ。彼らならば、ユーシスを魔物の脅威から守るだけの力があると信じられた。 「じゃあ決定。貴方たちはここに残りなさい。で、アスト、この人たちを残すための交換条件。貴方は城に戻りなさい。ジオールたちだって守る相手が少ない方が楽でしょう。何より、私は今すぐに城に行かなきゃならないんだけど、こんな辺鄙なところからザール城に向かうの初めてだから、道に自信がないのよね。誰かひとり、道案内が必要なの。ジオールもハリスもその子も駄目なら、貴方しか居ないのよ」  アストは再び肯いて答えた。その程度の条件でユーシスが守られるならば、心より歓迎すべき事だった。 「リタ様」  無表情ながら不満を表す声音で、ハリスが名を呼ぶ。するとリタは、同じだけの不満を込めた瞳で、ハリスを睨みつけた。 「いいじゃないの。たまにはわがままくらい言わせなさいよ」  言って、リタは即座にジオールを睨みつけた。 「今、『普段から言ってるじゃないか』って思ったでしょう」 「とんでもございません」 「言っておくけど、これは私のわがままじゃないから」 「無論、承知しております」 「そう。ならいいわ」  リタは納得したそぶりで、ハリスに向き直る。  結局のところジオールは、リタが普段からわがままを言っている事に関して全く否定していないのだが、リタが納得しているのならばそれでいいのかと、アストは口を挟む事をしなかった。 「いいわね、ハリス」 「了解いたしましたが、恐れ多くもお願い申し上げます。ザール城に到着なされましたら、聖騎士を数名こちらに派遣ください。私――私たちにも隊長としての役割がありますゆえ、この一件が片付くまでの間、常に屋敷の警護に就くわけには参りません」 「そりゃそうね。きっと、今晩か明日にでも会議があるだろうし。判った。人選は適当でいい?」 「無理は申しませんが、可能でしたら、私の部下ではなくジオール殿の部下からお願いいたします」 「別にいいけど……?」  ハリスの言葉の真意を理解できないリタは、不思議そうな顔をして、素直に問いを口にしようとする。慌てたアストが手を引くと、「ここでその問いを口にしないで欲しい」との、アストの想いを感じ取ってくれたようで、口を閉じてくれた。 「じゃ、行きましょうか」  アストは力強く何度も肯くと、「よろしく」と言ってジオールとハリスに後を頼み、リタの腕を引いて屋敷の外に出る。瞬間、視界の端に蜂蜜色が揺らめいた気がして、足を止めて振り返った。  いつの間にか立ち上がっていたユーシスが、もの言いたげに口を開いている。戸惑いながら伸ばされた手も、優しい色の瞳も、アストだけに向けられていたので、彼が話かけたい相手は自分なのだと悟ったアストは、体ごとユーシスに向き直った。 「あの」  ユーシスは伸ばした手を引っ込めて、腹の前で手を組んだ。アストよりも若干小さな手は、必死に押さえ込んでいる事が伝わるほどに、いびつに震えていた。  勇気が必要だったのだ、彼にとっては。 「さっきは、ごめん。その、僕は多分、ひどい事を言ったよね。君はとても、悲しそうな顔をしてた」  思い当たる事はいくつかあったが、謝罪を耳にした瞬間、どうでもいいと思えた。アストは全て忘れ去ろうと心に決めて、静かに首を振る。「気にしなくてもいいんだ」と、想いを込めて。 「それから――助けに来てくれて、ありがとう」  絞り出された言葉は、聞き取る事さえ難解なほどか細いもので、実際アストの耳にはほとんど届かなかったが、照れ臭そうに俯くユーシスの表情から、理解する事は容易かった。  アストは肯いて応じる。勝手に笑いはじめる顔を、ユーシスや大人たちに見せるのは恥ずかしく、手の甲を唇に押し当てる事で可能な限り隠してみた。 9  リタが手綱を操る馬上において、アストは心は浮かれていた。  馬上から見下ろす景色は、視点が高いところにあるためか、地上を歩きながら見る時と印象が大きく違っている。かと言って、進むたびに少しずつ変化していく様は、城の上部の窓から見下ろすものともまた違い、新鮮な感覚だった。  アストは表面上おとなしくしていたつもりだが、リタはアストが楽しんでいる事をとっくに察しているようだった。けして馬を駆けさせる事なくゆっくりと進み、楽しむ余裕をアストに与えてくれている。 「もしかして、馬に乗るのはじめてなの?」  アストの指示によって、ザールの中心を縦に走る大通りに辿り着くと、リタは馬に乗ってからはじめて、道に関係ない質問を口にした。目的のザール城は、未だやや遠いところにあるとは言え、正面に現れている。余計な会話をしても道を誤らない自信ができたのだろう。 「うん。必要ないしね。俺、生まれてから一度もザールを出た事ないし」 「確かに、必要はないか。私も必要があって乗ってるわけじゃないし――あ、一応訂正しておくけど、貴方は一度だけザールを出た事あるわよ」  ザール以外の場所の記憶が一切ないアストは、目を丸くしてリタを凝視した。 「そうなの? 小さい頃?」 「そう。貴方が赤ん坊の頃。だから当然覚えてないだろうけどね。ついでに言うなら、私はその時、貴方に会ってるの。だからさっき、『はじめまして』って言わなかったでしょ」  言われてみればそうだった。彼女はアストに対して「こんにちは」と挨拶したのみだった。聞いていたアストはあまり意識していなかった――と言うより、母が目の前に現れた事に驚くので精一杯で、会話をする余裕がなかった――が、リタはきちんと意味をもって言葉を選んでいたのだ。 「じゃあ、俺は、王都の大神殿に行った事があるの? それとも別の場所?」 「大神殿でよ。ほら、全ての子供はさ、産まれた時にエイドルードに仕える者から祝福を受けるでしょ? で、貴方に祝福を与えたのが、私なの」  アストは首を捻った。 「それだけのためにわざわざ大神殿に? ザールにだって神官は居るし、神官たちが駄目でも父さんで充分じゃないかなぁ……」 「その辺はちょっと事情があってね。馬鹿馬鹿しい話なんだけど」  リタは眉間に深い皺を刻み、あからさまに不快を混ぜ込んだため息を吐く。直後、唇を尖らせながら、刻まれた皺を消し去ろうと、指で軽く眉間を揉み解しはじめた。  可愛らしい仕草であったが、同時に間抜けにも見え、アストはリタの目を盗んで肩を震わせる。 「そう言う事か」  皺の具合を見ていたアストは、しばらく時間がかかるだろうと油断していたが、リタが新たに声を発したのは、思いの外早かった。 「あの子、さっきの、ユーシスって言ったっけ? 彼が例の、レイシェルさんの息子ね? カイが祝福を与えたって言う。ああ、だからジオールの部下の方が良かったのね。ザールに滞在している聖騎士たちは、あの子の事よく知っているもんね。快く引き受けない人も多そうだし、最悪、警護を放棄して、あの子を見捨てるかもしれない」  カイは怯えて身を硬直させたが、すぐに解した。どうせ後で説明しなければならないと覚悟していた件を、すでに知っていると言うならば、むしろ気が楽だと気付いたからだ。  何より、この短時間で、アストはリタに対して好感を抱いていた。言動も雰囲気も考え方も、気持ちのいい人だと。彼女ならば、ユーシスを魔物の子として嘲る事はないだろう。 「貴女もユーシスの事を知っているんだ?」 「知ってるも何も、馬鹿馬鹿しい話に関係してるのよ。貴方、カイがあの子に祝福を与えた事実を知ってるって事は、そうなった経緯も知ってるのよね?」 「うん。さっきユーシスに聞いたばかりだけど。神官たちがやらなかったから、代わりに父さんがって」 「さっき? ユーシスに? あー、まあいいや、その辺は後で。カイがあの子に祝福を与えたのはね、完全にカイの独断だったわけよ。神官たちの反対を押し切った強行って言うのかな。結果、やつらいわく『魔物の子』が、この国で最も輝かしい祝福を受けちゃったわけ。くだらない神官たちを黙らせるには他に方法がなかったんだろうけど、王族ですら大司教の祝福しか受けられないってのに、思い切ったわよねえ、カイは……」 「父さんは間違ってないよ」  我慢できずにアストが口を挟むと、リタは少し寂しそうな笑みを浮かべる。弱々しい表情は、彼女が最初に見せたものと同じなのだが、多少なりともリタの事を知った今となっては、違和感を覚えるものだった。冬の終わりにちらつく雪のように、はかなく消えてしまいそうだ。 「そうだね。私もそう思う」  リタはアストの頭に片手を置き、淡い金色をかき混ぜる。  それは口にできない感情を覆い隠すための行為だったのか、手の動きが止まった時には、リタの笑顔は明るいものに戻っていた。 「さて、問題です。あの子から遅れる事数ヶ月、産まれた子供は誰でしょう」  問いはなかなか曖昧で、ザール中を探せば答えはいくつかあっただろうし、国中を探せば無数と言って良いほどにあっただろう。しかし外を知らないアストに考え付く答えは、たったひとつしかなかった。 「俺?」 「正解。じゃあ次の問題。元々あの子を良く思ってなかった連中は、貴方の事をどう思っているでしょう」  今度はアストが眉間に皺を刻む番だった。リタが言わんとしている事はまだ理解しきれていないが、不快な事に違いないだろうとの直感が働いたのだ。 「とても、大切に思ってる」 「正解。カイに『勝手な事するな!』って文句言う度胸すらない連中は、『我らの救世主アスト様が、魔物の子ごときに劣る扱いを受けるなんて我慢ならない!』と思ったわけね。だから、貴方が受ける祝福は、あの子が受けたものよりももっと立派なものであってほしかった。だけど、祝福を与える立場にある者で――って言うか、この国に生きる全ての人の中で、カイより位の高い存在なんて、当の貴方以外には居ないわけよ。しょうがないからカイが祝福をって話に一度はなったのだけど、同じ人物が祝福するならなら、順番が後の分劣ってる感じがして、彼らは面白くなかった。そこで思い出したわけね。カイより上は居ないが、同等な存在が、王都の大神殿に居るじゃないか、と。で、私が貴方の誕生を祝福する事になったわけ」 「それだけ?」  眉も目も口も、顔の中にある全てを中心に寄せるように顔をしかめたアストは、呆れた勢いで出した自身の声の低さに驚いた。自分はこんなにも冷たい声を出せるのかと。 「それだけ。情けない話でしょ」  リタは失望を混ぜ込んだ笑いを漏らした。 「とは言え、これって、貴方がセルナーンに来た理由にはならないのかなあ。元々は、私がザールに行くって方向に話が進んでいたし」 「そう言えばそうか。俺が父さんより偉いなら、俺は貴女より偉いって事だし」 「自分で言うと可愛くないぞ」  リタはアストのこめかみを軽く小突き、頬をつねった。  痛みで頬が軽く熱を持ったので、アストは小さく暴れて痛みを訴えと、「ごめんごめん」と笑いながら軽く言い放ったリタは、柔らかな手でアストの頬を撫でてくれた。 「結局、何で俺が王都に行く事になったの?」 「せっかくだから大神殿で盛大な儀式を行いたいってのもあったんだろうけど、一番は私がザールに行きたくないって駄々こねたからかな。私に祝福させるなんて、完全に神殿がわの我侭だから、譲歩してくれたみたい」 「今は来てるのに、何で十年前は来たくなかったの? めんどくさかったから? 王都に比べたらずっと田舎だし」  リタは静かに首を振った。同時に揺らめく長い金髪は、傾きだした陽の光を反射し、周囲に無数の光を振りまいた。 「あの頃はザールに会いたくない人が居たから、かな」  目を細め、徐々に近付いてくるザール城を見つめるリタは、手綱を両手で握り締めた。そして馬の腹を蹴ると、突然走る速度が上がる。  アストは必死に馬にしがみつき、崩れかけた態勢を整えた。 「大丈夫?」 「大丈夫だけど、なんで突然」 「だって、目立ってるみたいだから、ちょっと嫌かなって」  言われて周囲を見下ろすと、ザールの住民たちがちらほらと、通りの左右に集まりはじめている。普段、アストがひとり歩いているだけでも注目されるのだから、リタと居ればいつもの倍、いや、それ以上目立つのは、必然と言える事だった。大人たちならば尚更だ。彼らは、生前のシェリアの記憶が残っているであろうから。 「ま、そう言うわけで、私は元々貴方に借りがあったの。だから、私が貴方の友達を守るために自分の部下を貸してあげた事、恩に着なくていいわよ」  アストはリタに背中を預け、真上を見るような格好で、リタの顔を覗き込んだ。 「友達?」 「違うの? あんなに必死に守ろうとしてたのに?」 「だって、昨日会ったばかりだよ」  リタは小さく吹き出した。 「関係ないでしょ。いつ会ったかなんて」 「そうなのかなあ」と小さく呟いた言葉は、風に遮られてリタには届かなかった。速度が上がれば会話すら難しいのだと悟ったアストは、口を閉じ、リタと同様に正面を見つめる。  陽の光を浴びたザール城が、すぐ近くに迫っていた。  アストは片手で自身の胸に触れてみる。何かが胸の奥で渦巻くような感覚に、落ち着かなかったからだが、触れてみたところで治まる様子はなかった。  風の中でアストは思った。治まらなくてもいいのかもしれないと。これはきっと悪いものではないのだろう。  歓迎すべき心地よいものが、芽生えた証なのだ。 二章 封印 1  昨日までの調査報告によると、ただひとりを除いては、新たに広がった魔物の活動範囲に生活しているザールの民は居ないらしい。  城の高層部に位置する会議室の窓に寄り、城下を眺めていた領主ルスターは、遠くに洗濯物を干す人影を見つけると、優しく目を細めた。  視線をずらせば、大量の果実を積み込んで走る荷車や、工房から伸びる煙突から吐き出される黒い煙も見える。晴れた日のわりには元気に走り回る子供の姿が少ないが、何が起こるか判らない現状に不安を覚えた親がおとなしくするよう指示するのは当然で、むしろそれ以外の事柄において、以前とほとんど変わらない光景が今日も訪れた事に、ルスターは安堵していた。「ただひとり」の存在がなければ、日常が訪れた喜びのあまり、満面の笑みを浮かべていたかもしれない。  だが、「ただひとり」の存在は、喜びの中に暗い影を落とす。ルスターは近くに誰も居ない事を確認した上で、苦笑いを浮かべた。それから細めた目を町外れの森に向け、固く目を伏せる。  いくらかの時が過ぎた後、ルスターが立ち尽くすだけの静かな部屋に、扉を叩く音がきつく響いた。ルスターは音に驚いて顔を上げ、振り返る。「どうぞ」と声をかけると、扉は開かれた。  姿勢を正したルスターが、懐かしいふたつの顔を温かな微笑みで迎え入れると、相手も同様に笑ってくれた。ひとりは理知的で静かに、ひとりは明るく力強く。  ふたりの印象は、最後に顔を合わせた日からほとんど変わっておらず、心の内に眠らせていた王都での懐かしい日々が、強制的に蘇った。当時に帰りたいと望むわけではなかったが、夢のような日々の思い出は、ルスターを少しだけ感傷的にさせるのだ。 「ご無沙汰しております、リタ様、ジオール殿」  印象こそ変わっていなかったが、容姿の方は年月によっていくらか変化をしていた。可愛らしさよりも美しさが先に立つようになったリタの繊細な美貌は輝くほどで、髪が伸びた事も手伝ってか、やはりシェリアと似ているのだと思えるようになっていた。歳を重ねる事で貫禄が増したジオールを従える様は、絵物語に出てくる姫と騎士のようだ。 「遠路はるばるお越しいただいたと言うのに、昨晩はご挨拶もせずに、申し訳ございませんでした」  ルスターが頭を下げると、リタは軽く笑い飛ばした。 「いいわよ気にしなくて。忙しかったんでしょう? それに、おじさんに迎えてもらうより、綺麗な女の子に迎えてもらう方が、気分いいし」 「ナタリヤは粗相をいたしませんでしたか?」 「奇麗でなだけじゃなくて、しっかりしている子じゃない。問題の起こりようがないわよ。それより、ほんと久しぶりね。しばらく見ない間に、『領主様』が板についたみたい」 「板についているかは判りませんが、何とか今日までやってこられました」 「色々大変だろうから、心労はたまる一方でしょうけど、体の方は元気そうで何よりね」  リタは身軽な動きで部屋を横切り、窓のそばに寄ると、先ほどまでルスターがしていたように、城下を見下ろした。  何気なくリタがこぼした、「前に来た時と変わらないわねえ」の一言は、彼女がかつてザールを訪れてからの約十一年間、平和が続いていた証にも思え、ルスターは少しだけ誇らしい気持ちになる。 「そう言えばね、ルスター。私、昨日会ったわよ」 「どなたに、でしょう」 「貴方の甥っ子のユーシスに」  ちょうど気にかけていた存在を匂わされ、ルスターの胸は激しく鳴った。 「報告を受けております。リタ様とジオール殿が、魔物に襲われていたユーシスをお救いくださったと。ありがとうございました」 「別に、お礼を言われたくて話をふったわけじゃないんだけどね」  リタは窓に背を向け、会議用の机を見る。今日の会議に参加する者を把握している彼女は、迷わず一番前の席を選び、腰をおろした。  すると、部屋の入り口近くに待機していたジオールが、リタの隣に歩み寄り、ルスターに小さく会釈をしてから席に着く。  自分も席に着こうかと、数歩踏み出したところで、居ても立ってもいられなくなったルスターは、リタに向き直った。 「その……ユーシスは、元気にしておりましたでしょうか」  リタは考え込んでから答えた。 「そうねえ。ちょっとだけ怪我したけど、私が治しておいたし、問題なく動いてしゃべっていたから、それなりに元気なんじゃない? でも、元気だ、ってはっきり言い切れるほど健康そうには見えなかったかな。アストと同い年の割には、体が小さくて細かったし、顔色もあんまり――って、もしかして、最近会った事ないの?」  痛いところを真っ直ぐに突かれたルスターは、肯くしかなかった。 「逐一報告を受けてはおりますが、ユーシスがレイシェルと共にあの屋敷に移住してからは、一度も顔を合わせておりません」 「忙しいから? って、その程度の理由で十年も放置するのは、貴方の性格から考えてないわね。じゃあ、領主様が直々に『魔物の子』に会いに行くなんて、領民感情が許さないってところかな? まして甥っ子だもんねえ。どうしたって身内贔屓に見えるし」 「恥ずかしながら、おっしゃる通りです」  ルスターは口に出さなかったが、本当はもうひとつ理由が存在していた。レイシェルとユーシスを城から追い出した張本人が、自分自身であるとの事実だ。  もちろん、憎くてやった事ではない。そうした方がザールの民の中で生きるよりも幾分ましな生活ができるであろうと思っての事であるし、何より、レイシェル本人が望んだからである。しかし、いくら理由があったとしても、自分で追い出した相手に自分から会いに行くとの矛盾を解消できるほどのものではなく、会いに行く事ができないまま、今日に至っていた。 「今はもう、城も、町も、森も、何もなかったみたいに、事件の前のまんまなのにね。一番立ち直りが遅いのって、人なのかしら」  頬杖をつきながら、ため息混じりに漏らしたリタの言葉に、複雑な想いを抱きながらも、ルスターは表向き素直に肯定した。 「そうかもしれません。私はザールで過ごす日々の中、かつてジオール殿が語られた言葉を、しきりに思い出します」  ルスターは祈るように、両手の指を軽く絡めた。 「私が?」 「そうです。かつて貴方はこうおっしゃりました。忘却は、神が人に授けた救済なのだと。当時の私は、意味を理解したつもりでいただけで、真実の理解にいたっていませんでした。ですが、今は、よく判る気がするのです」 「忘れられれば、ザールの民はありもしない恐怖から救われる、か」 「同時に彼らは、寂しい魂の救い手にもなるでしょう」  ルスターは両手を固く握り締める。込める力の強さが祈りとなって、神に届けばよいと願った。祈りを届けるべき神はもはや空にはなく、地上で生きる神の血族に託すには人の祈りは重すぎると、知っていたけれど。 「それに――」 「私がそう言った時、忘れられた者は悲しいと、ハリスは言っていたか」  突然のジオールの言葉に、ルスターは自身の手元に向けていた視線を上げ、ジオールを見つめる。 「え? ええ、確か、そのような事をおっしゃっていたかと」 「ちょっとジオール、貴方、昨日の事まだ気にしてたの? 歳を食えば食うほど心が狭くなってって……」 「な、何の話でしょう。私にもお聞かせ願えませんか」  雰囲気が変わっていないとは思っていたが、ジオールに対する遠慮のないもの言いも、十一年前と変わっていなかったらしい。ルスターはリタの言葉を遮ろうと、咄嗟に問いを投げかけた。 「大した事ないのよ。昨日、貴方の娘さんが私たちの応対をしたでしょう? その時『はじめまして』って言われた事、根に持ってるのよこの男」 「根に持っているわけではありませんが」 「でも、『はじめて会うわけではないのだが……』って、ちょっと寂しそうに呟いてたじゃない」  リタは背もたれに体重をかけ、やや気楽な格好になってから腕を組んだ。 「あの子、二十歳にはなってないわよね? だったら、最後にあったのは七歳とか八歳とか、それくらいでしょう? ちょっと会った事がある程度の知り合いのおじさんの事なんて、忘れて当然じゃない」 「馬鹿じゃないの、大人気ない」と吐き捨てるように付け加えて、リタはジオールを睨み付ける。もはや弁解する気を失ったのか、相手をする事が面倒になったのか、ジオールは涼しい顔をして、黙って正面を見ていた。  ルスターは困惑していた。何より、配慮が足りなかった事が悔やまれた。昨晩の自分の元に駆けつけ、殴りつけてやりたい気分だ。 「『ちょっと会った事がある程度の知り合いのおじさん』ではなかったのですよ。ナタリヤにとって、ジオール殿は」  リタは目を丸くしてルスターを凝視した。 「そうなの?」 「はい。ナタリヤはずいぶんとジオール殿に懐いておりました。一時は大人になったらジオール殿と結婚する、としきりに言っておりましたから。子供の言う事ですし、ジオール殿はすでに既婚者でしたから、誰も本気には取りませんでしたが」  ジオールは小さく笑った。 「貴公は当時ずいぶんと落ち込んでいたがな」 「そこは、忘れてください」  かすかに赤面したルスターがわざとらしく咳払いをすると、ジオールは黙り、再び正面を向く。  リタは意地の悪い笑みを浮かべながらも、いくらかの同情を混ぜた眼差しをジオールに向けた。 「確かに、そこまで懐かれてたなら、忘れられてたのは切ないわね。むしろ、『ちょっと会った事がある程度の知り合いのおじさん』の方が、諦めがついて良かったかしら」 「いえ。本来のナタリヤならば、十一年の時を経たとしても、ジオール殿の事は忘れなかったと思います」  リタとジオールの真剣な眼差しが、同時にルスターに注がれた。ふたりとも、「ならばなぜ」と言った質問を投げかけてこなかったが、疑問に思っているのは明らかで、説明すべきかルスターが迷う事によって、沈黙が産まれた。  沈黙を破ったのは、突然開かれた扉だった。大なり小なり警戒心を抱いた三人は、一斉に扉に向き直る。 「あ、もう、揃ってたのか。不躾で申し訳ない」  扉を開けたカイは、突然注目を浴びてたじろぎ、一歩後退した。 「どうぞ、お座りください」  カイとハリスが席に着き、ふたりを迎え入れるために一度起立したジオールが再び着席したのを確認してから、ルスターも椅子に座る。順番に四人の顔を見つめてから、最後に四人を同時に視界に入れると、懐かしさはいっそう強くなった。  この面々がよく顔を合わせたのは、十一年前の、たった数ヶ月間だ。ルスターが生きてきた年数と比較すれば、僅かと言って良い時間。だがその時間は強烈で、ルスターの記憶に今でも印象強く残っている。  再びこうして集まれた事は喜ばしい。ふと笑みがこぼれるほどに。しかし、同時に寂しい想いを抱かずにはいられなかった。  原因は判っている。かつてと同じようでいて、空気がまるで違うからだろう。  思い出の中よりも、ひとり足りないために。 2  彼も、後ろめたさや罪悪感と言ったものを抱えて、今日まで生きてきたのかもしれない。  カイは隠し切れない困惑を混ぜ込んだ神妙な顔付きで、「久しぶり」と言った。カイが座るべき席の正面に腰掛けている、リタに向けて、だ。  冷静なふりをしつつも、気にかけながら見守っていたジオールは、リタが平然と「久しぶりね」と応えた時は、平然としたふりかもしれないと疑いながらも、無意識に安堵の息を吐いていた。本心にせよ、ふりにせよ、リタがカイと普通に接する事ができるならば充分だと、時の流れはリタに優しく作用したのだと、ジオールには思えたのだ。  約十一年前の選定の儀の後、すぐにザールへと移動した他の者たちには知るべくもないだろうが、リタのそばに残ったジオールは知っている。覚えている。しばらくの間、リタが泣き暮らしていた事を。気丈ゆえに人前で涙こそ見せなかったが、泣き腫らした目を隠しきる術はなく、いっそ人前で堂々と泣いてほしいと願うほどに痛々しかったものだ。  リタが涙するほどに傷付いたのは当然だろう。今ならばカイなりに色々考えがあったのかもしれないと思えるが、当時のカイがシェリアを選択した事実は、リタへの完全な裏切りと言って差し支えなかった。第三者のジオールですら、立場を忘れて問い正したくなるほどだったのだから、当の本人であるリタが、カイを罵り、恨み、憎んだとして、誰が責められるというのだろう。  だからこそリタはカイとの再会を拒み、赤子だったアストが大神殿に来た時でさえ、カイが大神殿に戻る事はなかった。結果、ふたりが再会するまでに、長い時間がかかってしまったのだ。 「これで全員揃ったわね。はじめてくれる?」  まだ内にわだかまるものがあるのか、単純に会話が見つからなかったのか、あるいは使命感に急かされたのか、僅かな雑談の時間すら取らず、リタは進行を促す。  空気を察したのか、ルスターは素直にリタの指示に従い、肯いてから立ち上がった。 「まずは、私が今朝までに受けた報告です。一昨日の早朝、魔物の進入が不可能とされていた地域に、魔物の姿が確認されました。その日の晩には複数箇所での目撃情報が入りましたので、昨日の朝より調査範囲をザール周辺全域に広げ、昨日の晩には、拡大された魔物の進入可能区域を、ある程度把握するに至りました。幸いにも、拡大した区域に含まれるは、ごく一部の農地や住居のみで、現時点での人的被害は重軽傷者数名、死者はおりません」 「追加でひとつ」  ハリスはルスターの言葉が終わると同時に、立ち上がった。 「つい先ほど、洞穴付近へ調査に向かわせた聖騎士たちが帰還いたしましたので、新たな情報が入っております」  ハリスと入れ替わりで、ルスターは腰を下ろす。組み合わせた手に静かに力を込め、ハリスに目を向けた。  ルスターは「洞穴」の言葉にあからさまに反応していた。仕方ない事だ。地中深くへと続き、封印された魔獣へ繋がる唯一の道は、彼と彼の一族の運命を大きく変えたのだ。かつて、知ってか知らずか洞穴に足を踏み入れた、ひとりの男によって。 「一昨日の早朝、異常な魔物の出現を最初に察知した場所が、洞穴付近です。以前はエイドルードの結界により、魔物が活動できない地域となっておりましたが、此度の進入可能区域の拡大によって、可能になった模様です。どうやら他の場所よりも出現した魔物の数が多いようなのですが、こちらに関しましては、他の場所から魔物たちが集まってきたのか、魔物が洞穴から出てきたのか、まだ判断できない状態にあります」  リタが大きな瞳をつり上げてハリスに向けた。 「ちょっと待ちなさいよ。洞穴の入り口の扉は、例の事件の後に調査してちゃんと閉じ直したって、十年くらい前に報告もらった記憶があるわよ」 「確かに閉じました。そして、少なくとも一昨日の夕刻確認した際には、間違いなく閉じられておりました」 「じゃあどうして魔物が出てくる可能性があるの。今は開いてるってわけ? 洞穴周辺は当然一般人は立ち入り禁止でしょうし、そうでなくても、あれがどんな恐ろしいものか知ってるはずじゃないの。誰があの扉を開けようなんて馬鹿な事を考えるの」 「それこそが、本日新たに入手し、皆様にお伝えすべきと判断した情報です」  ハリスは咳払いし、声を整えてから続けた。 「帰還した者の証言によりますと、扉は破壊されていたとの事です。力が加わったのは外側かららしく、おそらくは周辺に集まった魔物たちの手によるものでしょう」  空気が、いや時間が、凍りついた。誰もが一瞬、思考も動きも止め、瞬きする事すら忘れていた。 「勘弁してよ……」  いくらかの間を置いてからリタが溢した言葉ほど、その場に居る者たちの心を簡潔に表現できるものはなかっただろう。  洞穴には、地底に眠る魔獣が放つ強い魔の気が満ちている。それは魔物に更なる力を与えるだけでなく、ただの人や動物たちを魔物に変えるほどの力があるのだ。  過去に、ルスターの義弟であるユベールが魔物へと変質したのも、洞穴に足を踏み入れたから――実際の証言を得たわけでも、目撃者がいたわけでもないが、調査によって発見された、開け放たれたままの扉と、周辺に残されたユベールのものらしき足跡が、多くを物語っていた――なのだ。  当然、放っておいても良い事はひとつとしてない。早急に閉じなければならないが、事は簡単ではなかった。ユベールの時は扉が開かれていただけであったので、行って閉じ直せばそれで終わったが、今回は破壊されているのである。しかも、周囲で魔物の活動が可能になっていると言う事は、当然妨害があるだろう。濃い魔の気によって力を増した、多くの魔物たちの手によって。魔物たちにしてみれば、閉じられて良い事などひとつもないのだから。 「そもそもは、魔物の活動範囲が広まったのが問題なわけよね。何で突然こんな事になったのか、原因は判っているの?」 「現在のところ、はっきりとした原因はまだ判っておりませんが」  ルスターは僅かに逡巡してから続けた。 「我々……この場合、ザールの民との意味ではなく、この大陸に生きる全ての者の意味ですが……我々に残された時間を思えば、ひとつしか考えられないかと」  ジオールは同意して肯いた。  エイドルードは消滅の瞬間、封印を含めた全ての力が保てる期間はあと二十年だと、言葉を残した。その日からすでに十五年程が経過している。ルスターが言わんとしている「残された時間」は、あと五年程度、と言う事だ。  リタは静かに目を伏せた。神妙な横顔は、あらゆる感情を内に秘めているように見える。 「エイドルードの封印が、少しずつ弱まっているって事か。そうよね。魔物が暴れる範囲が広がっているのは、北のザールに限ったわけじゃない。東にも西にも南にも、似たような事が起こってる」  おそらくはその場に居る誰もが否定したいと望む予想を、リタははっきりと言い切った。厳しい現実を目の前につきつけられる事は息苦しいが、結局のところ逃れられない現実なのだから、真正面から向き合う彼女の言動はむしろ正しいと賞賛するべきだろう。 「封印が弱まると言う点ではどこも同じだろうが、魔物が強まると言う点では、ザールが圧倒的に不利だろうな」  カイが突然口を開いたのは、何かしらの打開案を考えようと、場の空気が動きはじめた時だった。 「やっぱりそうなの? いざ交戦する時に厄介ってだけでなく?」 「ああ。エイドルードの結界が、大陸の外側……と言うか、大神殿と砂漠の神殿と森の神殿が描く三角形から外れれば外れるほど力が弱まり、やがて失われるってのは判るよな。で、魔物が侵入できる範囲と言うのは、その魔物の力が、エイドルードの結界の力より上回っている範囲、と考えれば判りやすい。このままエイドルードの結界が変わらなかったとしても、洞穴の解放によって魔物の力が増せば、より内側まで入ってこられるようになってしまう。入ってきた時に受ける被害も、当然増える――逆に言えば、今解放されてしまっている洞穴を封じる事で、魔物の力をいくらか抑えれば、現状よりは魔物を奥地へ押しやれると思う」  カイは一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしてから、短く言い切った。 「洞穴を封じよう」  全員の表情が、それまで以上に引き締まり、カイに集中していた視線は、より強くなる。  誰もが一度は願った事を、事の難しさを一番理解しているだろうカイが言ってのけたのは、ある種の希望にも思えた。 「エイドルードと同様の封印を求められても困るが、洞穴の入り口を元通りにする程度の封印ならば、不可能じゃない。リタ、君の力を借りる事になるが」  リタは交戦的にも見える笑みを浮かべながら応えた。 「やれるものならやってやるわよ。でも、どうやって?」 「封印を保つのと同じで、力ある者が三人必要だ。あとは現地に行って、ちょっとした儀式をやればいい」 「アストと、私と……貴方で?」 「いや。アストと君はそうだが、もうひとりは俺じゃない。シェリアだ」  生きていればここに居たに違いない、少女の姿のまま皆の記憶にとどまっている人物の名によって、場の空気が大きく変化した。  リタは眉を顰める。大きな怒りと悲しみを内に秘めている様子を感じ取り、彼女に代わってジオールが問いを投げかけた。 「シェリア様はお亡くなりになられたと聞いておりますが」 「ああ。シェリアは確かに死んだ。だが、地上から失われたわけではない。大神殿にも話は行っているだろう? 彼女は人――神の娘としての生を終えたあと、新たな役を担い生まれ変わったと」 「光の剣を収める、鞘として」  押し殺したリタの声に、カイは肯きながら答えた。 「ああ」 「アストと、私と、その鞘があれば、再び洞穴を封じられるのね?」 「そうだ」  予想や疑問を挟む事なく言い切られたカイの言葉は力強かった。ジオールが抱いていた不安を、打ち消すほどに。  代わりに、強い疑問が沸きあがった。だがそれは、使命感によって産まれたと言うよりは、単純な好奇心によって産まれたものでしかなかった。わざわざ表に出す事もないと、秘めたままにしようと心に決めると、ジオールは何事もなかったように、カイの言葉に耳を傾けた。 「儀式を行う間、無防備になるアストやリタを魔物から守る護衛が必要だ。洞穴付近に魔物が多いなら、護衛はひとりやふたりじゃすまないだろう。ハリス、その辺の手配を……」 「ねえ、カイ」  カイを呼ぶリタの声は、ジオールが聞いた事もないような、静謐なものだった。  視点を上に取るためか、リタは立ち上がる。カイを見下ろす空色の瞳は、おとなしいものであったが、問いただす意志を秘めていた。 「貴方はどこまで知っているの?」  リタが口にした問いは、ジオールが先ほど心に秘めたものと、まったく同じだった。 3 「貴方は、私たちが知らないような事を、沢山知っているんじゃないの? アストや、私たちや、この大陸が辿る運命――エイドルードが定めた事を」  穏やかな口調ながら問い詰める意味合いを込めてリタが言うと、先の話をするためハリスに向いていたカイの目が、リタを捉える。十一年ぶりに見るその目は、以前と同じようでいて、他人のような白々しさがどこかにあった。  失望したと言っては、身勝手が過ぎるのだろう。過ぎた時間や、彼の人生に起こった数々の経験を思えば、変わる事は至極当然、変わらなければ生きていけなかったのだろうとさえ思える。  だが、リタは見つけていたのだ。昨日出会ったアストの中に、かつてのカイにあったものを。だから、心のどこかで期待してしまったのだ。  判ってはいる。カイが変わろうと、変わるまいと、今の自分には何の関係もないのだと。悔しいだの寂しいだのと思う事が、間違っているのだと。 「いいかげん、ひとりで抱え込まずに、全部白状したらどう?」  叩き付けるように机に手を置くと、会議室には不似合いな大きさの音が響いたが、カイが身動きひとつせず黙ったままでいたので、リタは身を乗り出し、少しでもカイに近付こうとした。 「何から語っていいか判らないほど、貴方が得たものが多いと言うなら、ひとつずつ質問してもいい。たとえば、そうね。アストは何のために生まれてきたのか、あの子の役割は何なのか、まずはそれを教えて」 「役割、と言うと?」 「私は最初、産まれてくる子は、エイドルードの代わりに天に昇って、長く封印を守る者なんだろうって勝手に思ってた。けど、アストが産まれて違うって知った。アストの使命がそんなものなら、あんな物騒なものと共に生まれた意味がないもの」  語るうちに、語気は徐々に強くなっていく。質問のつもりで音にした言葉は、叫びに近いものとなっていた。  だがやはりカイは、気を乱す事なく、悠然とした態度で座っていた。 「確かに俺は君たちより多くを知っているが、それは俺が果たすべき役割に必要だからだ。それが君の目に、自分勝手にひとりで抱え込んでいるように映っていたとしても、違うんだ。エイドルードが本当に考えて俺だけに託したかは判らないが、少なくとも俺は、俺だけが知っている事に意味があると思っている」  リタは大きな目を細めた。 「そうね。意味はあるんでしょう。知っている人間が少ない方がいい事はいくらでもある。多くの地上の民が、未だエイドルードの不在を知らないのも、私たちが今、できる限り人を閉め出しているのも、そう言う事だもの。でもね、それと、貴方ひとりしか知ってはならない事とは、繋がらないでしょう?」  リタはため息を吐き、髪をかきあげると、そのままこめかみを押さえて目を伏せる。  上手い言葉が見つからない事に、これほど苛立つ自分が居るとは思っていなかったリタは、何とか感情を押さえ込みながら脳内で模索し、新たな言葉を探りだした。 「言い方を変えるわ。今現在貴方ひとりしか知らない事が、貴方以外の誰も知らなくていい事とは、どうしても思えないの。たとえば、あくまでたとえばよ。貴方が役目を果たす途中で死ぬような事になった時、後を引き継ぐ人間がいなくていいの? 誰かが貴方の役目を引き継がなければならないとしたら――」 「それは無用な心配だ」  カイの口調は穏やかだったが、他者を切り捨てるかのように冷たいものだった。心配される事が迷惑だとでも言いたいかのように。 「ずいぶんな自信ね」 「大抵の事ならば、何があっても大丈夫なんだと、俺だけは判っているからな」 「それも、貴方しか知ってはいけない事なのかしら?」  反射的に口に出してから、あまりに嫌味が過ぎる言葉だと気付いたリタだったが、反省する気は微塵もなかった。今のカイの言葉や態度は、どうにも腹が立つ。嫌味のひとつやふたつ言ってやらなければ気がすまない。  カイはふいに微笑んだ。想いを見透かされているような気がして、リタの苛立ちは更に増した。 「何も知らなかった時の俺と同じように、皆も一度は疑問に思ったんじゃないか。同じエイドルードの子だと言うのに、なぜ俺だけが、目に見える特別な力――リタたちのように、守る力、癒す力、魔物を罰する力を、持っていないのか」  言葉ではっきりと肯定するものは居なかった。しかし、全員が貫いた無言は、ほぼ肯定を表しているようなものだった。  カイが指摘した通りだ。リタは疑問に思っていた。だが、カイがリタや地上の民が知らない何かを知っていると感じた時、疑問はどこかに吹き飛んでいった。知識こそが、エイドルードがカイだけに与えた力なのだろうと、勝手に納得していたのだ。 「本当は俺も、産まれた時から力を持っていたんだよ。誰ひとり、俺自身、気付かなかっただけで。だから俺は、役目を終える前に死ぬ事など絶対にない。最後までアストを導き続けるだろう」 「それを信じろって言うの?」 「信じてくれと言うしかない」 「納得いかないけど、納得するしかないわけね」  カイは苦笑いを浮かべて肯いた。 「そうだな。確かに、君たちの不満を買ってまで、全てを隠す必要はないのかもしれない。たとえば君がさっき訊いたアストの役割。まだ幼いアスト本人に伝えるのは酷だと思って黙っていたが、リタは知るべきだろうし、三人に教える分にも問題はないんだろう」  カイの言葉の中にひっかかる点を見つけ、リタは正直に反応した。 「私が知るべきってのは、どう言う意味? 私にもまだ何か役割があって、そのために必要な知識って事?」 「まさにその通りだ。別に今知る必要はないんだろうけどな」 「何なのよ、私の役割って……」  リタは問いかけながら、ずいぶん前から気にかけていた事を思い出し、答えが来る前に続けた。 「そう言えば私、ひとつ気になっていた事があるの。アストが産まれた頃からずっと、北の方角に惹かれ続けていたって事。ザールとか洞穴とかに導かれているのかと思いつつ、放っておいたんだけど、今日、ザールに到着した辺りから、私を惹きつける方向が急に変わったの。正体を探ろうと思って惹かれる方向に進んだら、そこには森があって、アストが居た」  カイの目の中に鋭い光が生まれる。まるで動揺を押し殺そうとするそれは、リタを見上げた。 「この力は、役割に関係するの?」  閉じられたカイの唇が、戸惑いを示すように僅かに歪んだ。悩んでいるのだろう。言うべきか、言わざるべきか。 「今はまだ言わないでおこう」  やや長い沈黙を挟んで届いた返答がそれだったので、リタは乱暴に座り直し、腕を組んだ。心から不愉快な回答だったが、納得すると決めて宣言した以上、苛立ちに任せて口を挟む事はできなかった。 「話を戻そう。アストの役割は、リタの言った通りだ。エイドルードの跡を継ぎ、魔獣の封印を保つ事じゃない。いずれ時と共に封印が消滅しても、人が生きていける大地をつくる事。それこそが、エイドルードがアストに押し付けた使命なんだ」  アストの誕生を知った時から薄々考えていた事ではあったが、カイの口から語られる事によって予想が真実に変わると、リタの中に鈍く苦い痛みが湧き上がる。  同情か、あるいは同調なのか、痛みの原因を探るため、リタは自身の胸に手を置いた。 「アストはやがて、神の剣を手に、ひとり洞穴を進む」  リタは洞穴に足を踏み入れた事がない。近付いた事すらない。だが、地上を脅かす力の根源が、先にあるのだ。暗く、恐ろしく、辛い道のりである事を想像するのは容易い。  その道を、アストはひとり行くのだ。残された時間、五年の内に――十五歳にもなれないうちに。 「神の剣で、魔獣を滅ぼすために、ね?」  震える声でリタが言うと、祈るように目を伏せ、俯いた。まずはルスターが、続いてハリスが、最後にジオールが。偉大なる神の末裔とは言え、まだ小さなアストに救済を求める自身を、恥じているようにも見えた。 「良かった」  リタが素直な想いをこぼすと、カイがためらいながらリタを見つめる。 「良かった? 何がだ?」 「判らないわよ。貴方が教えてくれないんだから。でも、私はアストの使命を知るべきだ、と貴方は言ったでしょう? それは私が、いつかひとり重い使命に向かうアストを、何らかの形で手伝えるって事じゃないの? なら、何もせずに見守ってろって言われるよりは、ずっと気が楽だと思ったの。神の娘として産まれてきた事に、意味を見出せるようになるかもしれない、ともね」  カイは机の上に放り投げていた手を固く握り締めた。 「君は、意味が欲しかった、と言っているのか?」  リタは慌てて首を振った。 「ごめんなさい。無神経な事を言ったわ」  即座に自身の非を認め、リタは謝罪の言葉を口にしたが、けしてカイの目は見なかった。カイに対して謝ったのではないからだ。申し訳ないと思った相手は、神の娘としての運命に殉じた双子の姉であって、カイではない。  自業自得とは言え、重くなった空気に耐え切れず、リタはジオールに目配せし、退室する意志を伝える。伊達に十年以上も付き合っていないジオールは、すぐに理解し、肯いてから立ち上がった。 「話は終わったし、やる事は決まった。あとの話に、私は必要ないわよね。儀式の日程については合わせるわ。私は今すぐにでもいけるけど、人を集める必要がある分、そっちは時間がかかるでしょう。細かい事が決まったら報告をちょうだい」 「了解いたしました」  リタは立ち上がると、深呼吸する間に覚悟を決め、カイを見下ろした。 「それからカイ。最後に一応聞いておくわ。答えは期待できないと思ってるけど、貴方に遠慮なくものが言える立場にある人間の義務だと思うから」 「何だ?」 「わざわざ洞穴の封印をする必要はあるのかしら。今すぐアストが洞穴に潜り、魔獣を征伐すると言う選択は無いの? たった十歳のあの子に酷だとは思うけれど、十四、十五になれば酷じゃないって話でもないし……」 「確かに、それが一番てっとり早いな」  また「今はまだ言えない」などと言われてごまかされると覚悟していたリタは、カイが朗らかに笑ったので驚いた。 「残念だが、それはまだ無理だ。理由も言える。俺はさっき言っただろう?『アストはやがて、神の剣を手に、ひとり洞穴を進むだろう』って。だから、まだ条件が揃っていないんだ。アストが持って産まれた剣は、神の剣ではないからな」  場が騒然とした。ならばなぜ、アストは剣を持って産まれたのか、その剣にシェリアが引き裂かれてしまったのかと、誰もが疑問に思ったからだった。 「もちろん全く無関係じゃない。あの光の剣は、やがて神の剣に生まれ変わる。だが、その時が来るまで、アストは使命を果たせない――ついでに言っておこう。俺の使命は、『その時』をアストに告げる事だ」 「『その時』はいつ来るの?」  咄嗟に浮かんだ質問を声に出すと、カイは曖昧に笑う。  やんわりと相手を拒絶する、柔らかくも冷たい笑み。それだけで全てを理解したリタは、カイに代わって答えを口にした。 「今はまだ言えない、って事ね」 4 「失礼いたします」  カイの部屋の扉を開けた瞬間、ハリスの目に映ったものは、薄暗い部屋の中に立ち尽くすカイの背中だった。  カイは入り口に背を向けたまま、細長い形状をしたものを両手でしっかりと持っていたが、手にしているものが何なのか、暗い事も手伝って、ハリスの位置からはよく見えなかった。だが想像するのは容易い。彼がひとり、悲哀の眼差しで見つめるものなど、他に考え付かないからだ。 「兵士長やジオール殿と話はつきました。予定通り、ザールの警護は全て兵士たちに任せ、私の隊とジオール殿の隊で、アスト様、カイ様、リタ様を護衛いたします」 「そうか。判った」 「あろう事か、留守を後継者に任せて着いていきたいなどと、聞こえよがしにひとりごとを呟いていた者がおりましたが、無視をしておきました」  ハリスは名前を出さなかったが、カイはすぐに誰の話だか理解したようだった。吹き出し、「ルスターさんらしいな」と優しい声で呟くと、ようやく振り返る。  カイが手にしているものは、ハリスが事前に予想していたものとだいたい同じで、金の縁取りと空色の宝石で飾られた鞘だった。想像と違っていたのは、その鞘に、光り輝く剣が納まっていない事だ。 「剣はいずこに?」 「ここにある。今は見えないが、正当な持ち主の手に戻れば見えるようになる」 「アスト様に渡されるのですか」 「ああ。この剣がなければ封印できないが、剣を使えるのはアストだけだからな。そろそろ返すべき頃合いかと考えていたから、ちょうどいい」  カイの手が優しく鞘を撫でる。その手付きは、かつて妻であったものに触れていると考えるには、少しぎこちなさすぎる気がした。  青年の手の中にあるものは、本当はシェリアではないのかもしれない。シェリアの体が引き裂かれる瞬間も、光と化して剣を包み込む瞬間も、光が鞘として具現化する瞬間も、はっきりと記憶に焼き付いていると言うのに、「神の奇跡」との言葉で片付けるにはあまりにも悲惨すぎる光景が夢であってほしいと望む心が、ハリスを一瞬だけ血迷わせた。 「リタは、こうなりたかったんだろうか」  鞘を見下ろすカイの言葉に、ハリスは一瞬息を詰まらせる。半ば呆けたカイの目を見る限り、彼が言葉の中に余計な意図を込めていないと判るのだが、意識の中でリタの名をシェリアに置き換えてしまったハリスは、静かに責められた気になっていた。  ハリスはシェリアの幸福を望んでいた。そのためには、シェリアの望みを叶えればいいのだと思っていた。そしてシェリアの望みは、神の娘としての役目を果たす事だった。  けれど今のハリスには、役目を果たす事によって人ではないものへと化したシェリアを目の前に、「これが本当にシェリアの幸せだったのだ」と言い切る自信がない。選定の儀を前に、神の娘としてではない、シェリアとしての心を、僅かに垣間見てしまったがために。 「違うでしょう。けれど私は、リタ様のお心が少しばかり判る気がしております」  ハリスが呟くと、カイは顔を上げた。 「カイ様やシェリア様のように、神の御子としての大陸を守る使命を果たせないならば、かつての生活を捨て神の御子として生きる事を決意した意味はどこにあるのかと、迷っておられるのではないでしょうか。その迷いの中で、貴方がたを羨ましいと思う心が産まれたとしても、いたしかたない事かと」 「リタは大神殿で、俺たちが放棄した神の御子としての役目を、ひとりで果たしているんじゃないのか?」 「もちろんです。それでも、仲間はずれにされたような、複雑な感情を抱いておられるのでしょう――これは、リタ様のおそばにある、ジオール殿の見解ですが」  カイは鞘を緩く抱き締めた。 「それが本当だとしたら、リタは馬鹿だな。俺たちは皆、それぞれに孤独だってのに」  囁くような呟きの中には、途方もない寂しさが抱え込まれていた。王都に残ったリタの、人ではないものに姿を変えたシェリアの、地上を救う役割を背負うアストの、ひとり地上の運命を知ってしまったカイの。  カイたちと自分との間にある見えない壁が、いっそう高く厚くなった気がした瞬間、ハリスが思い出したものは、エイドルードが定めた運命に抗おうとした末に命を落とした男、エア・リーンの存在だった。  神の一族に救われる日を待つだけの、無力な地上の民として、エア・リーンの生き様を肯定する事はけしてできない。けれどハリスは知っているのだ。彼が、彼だけが、神の一族を孤立に追いやる壁を破ろうとしていた事を。 「準備がございますので、私はこれにて失礼いたします」  ハリスは一礼し、退室するためにカイに背を向けてから、長い息を吐いた。新たに吸い込む空気によって、想いを押し潰すために。 「ハリス」  呼び止める声に、ハリスは動きを止める。扉へと伸ばした手を下ろし、カイに振り返った。 「何か?」 「ずっと、お前に訊きたい事があった。だが俺は、お前に何を言っていいのか、どうしていいのか、判らなかったんだ」  表面上は静かだが、何か強い力が内側から強い揺さぶりをかけ、カイを責めているようだった。見開かれた瞳は乾ききっていると言うのに、今にも泣き出しそうに見える。 「お前はシェリアを愛していたか?」  突然の問いかけは、ハリスから思考能力を奪い去るほどに唐突で、恐ろしいと言えるほどの内容だった。「ご冗談を」と軽口を叩き、なかった事にしてしまいたかったが、カイの視線はハリスを捕らえて逃そうとはしない。  即座に答えを見つけられなかったハリスは、直立したまま、向けられた視線に応じる事が精一杯だった。 「今もさほど立派になったとは思わないが、昔の俺は本当に子供だったと、今になって判ったよ。以前の俺はお前の真意に少しも気付けなかった。お前が嫌なやつだと思い、そうじゃなければ、お前が俺を嫌っていると、本気で信じていたんだ」 「突然どうなされたのです?」 「お前はシェリアのために憎まれ役を演じてたんだよな。シェリアの望みを叶えるために、俺の中にあったシェリアへの嫌悪を消そうとしたんだ。お前は本当に上手くやったと思うよ。俺はお前を不愉快に思うあまり、一度は殴ろうとしたほど腹を立てていたシェリアを、好意的に思えるようになったんだ。好意的と言っても、ほとんどが同情みたいなものだったけれど」  カイは近くにあった棚の上に、優しい手付きで剣を置いた。剣を見つめる眼差しも、同様に優しかった。シェリアと夫婦として過ごした一年弱の日々の中、よく見せていた温かさだ。  その優しさが、妻に対する愛情でない事を、ハリスはとうに理解していた。あえて言うならば兄妹愛のような――同じくエイドルードを父に持つと言う点において、彼らは本当に兄妹なのだが――ものであったが、それが悪だとは思っていない。カイはよくやってくれた。愛してもいない少女を、精一杯慈しんでくれた。その点において、ハリスは今でもカイに感謝している。 「先ほどのご質問にお答えいたします」  ようやくまともな思考力を取り戻したハリスは、考えをまとめると、意を決して口を開いた。 「カイ様がもし、ひとりの女性として、との意味で問われたのでしたら、判りませんとお答えするしかありません。私がシェリア様へ最も強く抱いたものは、罪悪感でした。もちろん、大切に想う、愛情に似たものも抱いておりましたが、それはどちらかと言えば、エ……ジーク殿が貴方に向けた感情に近いと思います」 「そうか」  カイは剣から手を放し、ハリスを見上げる。 「だが、シェリアはお前を愛していたよ。抑圧された心で、お前を選ぶほどに」  声の静けさと反比例する、大きな力を秘めた言葉は、ハリスの心を大きく揺さぶった。  シェリアが自分の事を特別に思っている事は知っていた。愛情を知らない娘が、懸命に創りあげた不器用な愛情かもしれないと、思った日もあった。だがハリスは、それはもはや罪と言って良いほどの自惚れなのだと心の中で笑い飛ばし、今日まで生きてきたのだ。  なぜ今更、よりによってカイの口から、語られるのか。これでは否定する事ができないではないか。 「シェリアはやがて、解放された心でお前を素直に愛し、生きる事ができたはずなんだ。それに気付いていながら、俺は」 「お止めください、カイ様」 「お前は俺を恨んでい」 「お止めください」  ハリスは語気を強め、カイの声を遮った。 「貴方は、私が何を望んでいたのか全てを知っていると告白した後で、何をおっしゃるのです。断罪されたいのでしたら、他を当たってください、と言わざるをえません。仮に私が、シェリア様の運命を嘆き、シェリア様にこの運命を強いた者を呪詛する日が来たとしても、呪うに最も相応しいと選ぶ相手は、貴方とシェリア様が結ばれる事を誰よりも強く望んだ者――他ならぬこの私自身です」  ひと息で言い切ったハリスは、必死で空気を肺に取り込んだ。  カイは上下するハリスの肩を見守る目を細めた後、片手で目元を覆った。何も言おうとはせず、体重のいくらかを棚に預けた格好で、微動だにしない。  目を塞いでいる以上、見ていないだろうと思いつつ、ハリスはカイに礼をして、退室するために再度扉へと近付いた。 「悪かったな。ひとりよがりの感傷に付き合わせて」  カイの声がハリスの耳に届いたのは、部屋を出て扉を閉め切る直前だった。  ハリスは首を振る。カイの目に届かない事は判っていたが。 「おそらく、ひとりよがりではないのでしょう」  神の血族と、ただの地上の民との間には、見えない壁が確かにある。彼らの使命の重さ、辛さ、計り知れない孤独を、ハリスには一生理解できないだろう。  だが、理解できる事もある。久方ぶりに再会した人物に、呼び起こされた感傷。等しく抱いた罪の意識。そして、喪失の悲しみだ。 5 「これは今日からお前が持つんだ。大事にするんだぞ」  父がアストに差し出したものは、金色の繊細な細工が施され、透き通るような空色の宝石が輝く、汚れなき闇色の鞘だった。  過去にアストが見たどんな鞘、いや、どんな物よりも美しいそれには、剣が納まっていない。鞘だけ渡されても、剣を習いはじめたばかりのアストには軽い嫌味としか思えないのだが、その割には立派過ぎる上に、父の顔が真剣だったので、何かしらの意味があるのだろうと心を構えた。 「何なの、これ」 「お前のものだ。今までは俺が預っていたけどな」 「なんで、俺のなの?」 「そう言う風に決まっていたんだ。お前が生まれてくる前から」  父は曖昧な言い方をしたが、自分が何者であるのかを理解しているアストは、大切なものである事を悟る。おとなしく手を伸ばし、受け取った。  地面から計ってアストの腰ほどの長さがある割に、重さをまったく感じないほど軽いそれは、冬の空気のように冷たくアストの手を攻めたが、拒絶されている気はしなかった。生まれる前から自分のものだったとの父の言をすんなり受け入れられるほど、しっくり手に馴染む。  唐突に、光が弾けた。  強烈な光は刺すように痛いはずであったが、違った。けして眩しいとは感じず、平然と目を開けていられる。  ありえない状態に慌てたアストが縋るように父を見上げると、父は目を細めて微笑んだ――目を細めたのは、眩しいからではなさそうだ。 「これは、何?」  アストの手の中にあるものは、先ほどまでは確かに、美しいだけのただの鞘だった。しかし今は違う。剣の形をした淡い光が、鞘に納まっていたのだ。  恐る恐る手を伸ばし、光の剣の柄に手をかける。  すり抜ける事を覚悟していたアストは、やや温もりが宿る柄をしっかりと握れた事実に、声も出ないほど驚いた。慌てて鞘を取り落としかけるが、地面に着く前に父が掴み、アストに返してくれる。 「これはエイドルードの遺産。エイドルードがお前に託し、お前だけが振るう事を許された、光の剣だ。気を付けて扱うんだぞ」  父がアストの肩を少し強めに叩くので、アストも少し強めに肯いた。 「うん。大事にする」 「大事にするのもそうだが、それだけじゃなくて……」 「うん。ザールの人たちがそんな事をするとは思わないけど、もしもって事もあるし、これ、すごく綺麗だし、高そうだし、盗まれたりしないようにする」  誰にも奪わせないとの決意を込め、アストの手が強い力で鞘を握り締めると、父は朗らかに笑った。 「その点は気を使わなくて大丈夫だ。たとえザールの全ての民が泥棒でも、これを盗めるやつはひとりも居ないから」 「なんで?」 「剣がお前だけのものだってのはさっき言った通りだが、鞘も特別なもので、エイドルードの血を引く者のみが触れる事を許されている。そうでない者が触れれば、エイドルードの罰が下るんだ。だからお前が気を付けるべきなのは、誰かがこの鞘に誤って触れないように、って事だな」  アストは視線を父に向けたまま意識を鞘に集中した。指先から伝わる冷たさが、アストを内側から恐怖へと陥れていき、額に悪い汗を浮かべながら、喉を鳴らした。  同時に、心の中で感謝した。触れるだけで人を傷付けられる力を恐ろしいと思えるようになるまで、この剣を、鞘を、預ってくれていた父に。今も充分幼いと言えるが、もっと幼い頃のアストならば、鞘に秘められた力を悪用して愚かな行いをしたかもしれないし、そうでなかったとしても、不注意で多くの者を傷付けていたに違いない。 「父さん以外の人に触らせちゃだめって事だね。判った」  強く肯いたアストが言うと、父は言い辛そうに口を開いた。 「いや、もうひとり、大丈夫な人が居るんだけどな」 「え?」  疑問を抱いている事を表す短い声を上げてすぐに、アストはひとりの女性を思い出した。母に似た面差しを持ちながら、母とは全く違う印象を持つ女性を。 「リタさんの事か」 「ああ。まあ彼女は、基本的には王都の大神殿に居る人だから、考えなくてもいいんだが」  父はわざとらしく咳払いを挟み、話題を変えた。 「最近、魔物が以前よりもザールに近付いてきている事は知っているだろう?」  父の言葉に、アストは気を張り、小さく身構える。町外れの森で見た魔物の事を思い出したからだった。 「もちろん。俺、魔物見ちゃったし」 「それでな、魔物たちをこのまま放っておくのは怖いから、魔物がこれ以上近付いてこないよう、今できる対策をしてみようって話になったんだ。そのためには、お前と、その剣の力が必要なんだが――協力してくれるか?」  父の申し出は、アストにとって願ってもない事だった。アストはずっと、救世主と呼ばれて飼い殺される日々を窮屈に感じ、皆の役に立つ事を望んでいたからだ。  だが、魔物の異常さや恐ろしさの記憶が蘇ると、体が勝手に縮こまってしまう。結果、協力する意志を示すために肯くまで、いくらか時間を浪費してしまった。  父の手が申し訳なさそうにアストの頭を撫でる。アストの方が申し訳ない気持ちになり、ごまかすように新たな言葉を紡ぎ出す。 「そ、それに成功したら、魔物は出なくなるのかな?」 「出なくなる事はさすがにないな」 「全部が、じゃなくてもいいんだ。今よりも外側に追い出せるようになるかな? その、たとえば、森まで来なくなる、とか」  父はアストが言わんとしている事に気付いたようで、からかうように微笑み、アストの頭を撫でる手つきをいくらか乱暴にした。 「聞いたぞ。ハリスを巻き込んでユーシスを助けに行ったんだってな。お前、いつの間にユーシスと仲良くなったんだ」 「べ、別に、そんなに仲良しじゃないよ。会ったばっかりだし。あいつ、時々むかつく事言うし。ちゃんと謝ってくれたけどさ」 「そうかそうか」  浮かべた笑みをそのままにアストの頭を軽く叩く父の態度が、馬鹿にされているようで悔しかったアストは、大げさに手を振り回して父の手を払いのける。 「お前が知りたがっているのが、ユーシスの屋敷の安全って事なら、まあ大丈夫だろう。やってみなければはっきりと判らないが、あの屋敷は今の時点でほぼ限界点にあるからな。あそこが危険なままなら、やる意味がなかったって話になりそうだ」  アストは安堵して息を吐いた。「ユーシスが助からないならやらない」などと言うつもりはなかったが、ユーシスも助けられるならなお嬉しいと思ったのだ。  本当は、ユーシスとザールの民の間にある確執を何とかし、彼が屋敷を離れて城に来てくれれば一番良いと思っているが、それが一朝一夕で叶うと思えるほど、アストは楽観的ではない。 「そうだ、父さん。ユーシスとかリタさんから聞いたよ。ユーシスが産まれた時に祝福したのが父さんだとか、そのせいで色々大変だったとか」  父は僅かにためらってから肯いた。 「大変だったと言えば大変だったかもな。暗に『考えなし』みたいな言われ方をしたし……俺だって一応考えて、悩んだんだんだけどなぁ。祝福なんて受けなくても、子供はちゃんと育つわけだし」 「そうなの?」 「ああ、間違いない。お前の目の前に証拠が居るぞ。俺は産まれた時に祝福を受けていないはずだから」 「嘘だぁ」  神の血族である父の誕生を祝わない者が居るとは考えられず、アストは目を大きく見開いて、父を凝視した。 「嘘じゃない。俺を育ててくれた人はエイドルードを嫌っていたからな。神官のところに行って産まれた子供に祝福を与えてもらうなんて発想、全く無かっただろう」  神の子である父を育てた人物が神を嫌っているなどと、つまらない笑い話だと思いながら、アストは首を傾げる。 「父さんは、それで良かったの?」  父は嘘偽りのない微笑みで肯いた。 「彼は俺に、愛情や日々の糧を惜しみなく与えてくれた。俺はこうして大人になっている。充分じゃないか」 「うーん……」  大きな手が再びアストの頭に触れた。  温もりは間違いなく愛情の証で、これならば確かに、よく知らない神官に与えられる祝辞よりも大切なもののような気がした。 「無理に判ろうとしなくてもいいさ。ここは俺が育った街と違って、産まれた子供が祝福を受けるのが当たり前の場所なんだから。だからこそ俺も、別に必要ないと思っていながらも、ひとりだけ祝福を受けられないのが許せなかったんだ。神に仕える者――いや、いい歳をした大の大人が、差別を助長するような事をするなんて、頭がおかしいんじゃないかってな」 「うん、ありがとう、父さん」  感謝の言葉は自然と口から飛び出していた。  父が与えた祝福は、薄暗い森の中で寂しく生きるユーシスを、人々の悪意から守ってくれたのだろう。魔物に怯えユーシスを受け入れられない者たちは、神の救いを求めるあまり、神の御子である父の意志に逆らえないのだから。  ユーシスは守られたくなかったと、祝福など必要なかったと言っていたけれど、それでも、アストは嬉しかった。父がユーシスを守ってくれた事、ユーシスがこれまで生きていてくれた事、同じ寂しさを知る者として通じ合えた事が。 6  アストは森への道を進んでいた。  洞穴の封印のために北へ向かうのは明日の早朝である。護衛隊長のハリスは、「明日に備えて、今日は城でごゆっくりされたほうがよろしいのではありませんか」と、アストの外出をやんわりとたしなめたが、アストはどうしても、明日の事をユーシスに報告したかった。  城を出るだけでもたしなめようとするハリスが、森に行きたいと告げるアストに難色を示すのは当然であったが、幸いにもアストには、父親やリタと言った強い味方がふたりも居たため、望みを押し通す事ができた。父は「いいんじゃないか? 誰か護衛を連れていけば」と、リタは「いいんじゃないの。護衛に私が着いていってあげようか?」と、驚くほど軽く背中を押してくれたのだ。  アストひとりだけのわがままならともかく、カイやリタにまで言われては抑えようがないと判断したのか、ハリスはしぶしぶアストが森に行く事を許してくれた。無表情ながらどことなく不機嫌そうな様相で、アストの背後にくっついて来ている。  アストは少しだけ申し訳ない気になった。彼ら聖騎士は明日、封印の儀式のために魔物たちの中で無防備になるアストたちを守る役目があるのだ。今日のアストのわがままにつきあう暇があったら、明日のためにゆっくり体を休めたいだろう。  口に出してしまうと、「ならば帰りましょう」と言われてしまいそうなので、心の中だけで「できるだけ早く帰るから、ごめん」と繰り返し謝りつつ、アストは先を急いだ。  屋敷が見えはじめると、アストは駆け出し、はじめて会った日と同じ窓の前に立った。  今日のユーシスは部屋の中に居た。寝台の上で上体を起こし、熱心に本を読み耽っている。どちらかと言えば勉強が好きではないアストにとって、誰に指示されずとも読書に精を出すユーシスの姿は信じられないものだったが、こんなところでひとり――しかも体がさほど丈夫ではない――彼に許される時間の過ごし方は、それしかないのだろう。  邪魔になるかもしれないと一瞬考えたが、基本的にはためらわず、アストは窓を叩いた。  ユーシスはすぐに音に気付き、本からアストへと視線を移す。僅かに目を見開いたのは、アストの登場に驚いたからだろうか。  肩にかけていただけの上着に袖を通したユーシスは、本にしおりを挟んで閉じると、寝台を出て窓際に近付いた。鍵を開け、窓を開け、アストの居る空間と彼自身の空間を繋げる。 「またお母さんの所に来たの?」  第一声がそれだった。どうやらユーシスには、誰かが自分に会いに来る、との発想がないらしい。  アストは肩と共に眉尻を落としながらも、口からもれかけた呆れだけはなんとか抑えた。 「あれからどうだ? 魔物とか。出てるのか?」 「その事なら大丈夫だよ。森のもう少し奥の方に、小さな魔物が何体か出たらしいんだけど、そのくらいですんでる。この間みたいな大きな魔物は出てないし、小さい魔物はここまで近付けないみたいで」 「じゃ、お前の方は問題ないんだな」 「うん。屋敷の周りにいつもひとの気配があるのって、ちょっと慣れないけど……それ以外は今まで通り」  アストは辺りを探し、少し離れて立つハリスの向こう、何とか視認できる位置に立つ兵士の姿を見つけた。聖騎士たちは全て明日の儀式のために動員されるので、ユーシスの警護は今日から兵士たちの仕事になっているのだ。  元々ザールに居た彼らは、ユーシスの噂や過去の事件を良く知っているのだろう。あまり近付きたくないとの思いが遠くからでも丸見えで、アストとしては気分が良くなかったが、職務放棄しないだけましだと思うようにした。今日と明日を乗り越えれば、もう警護の者は必要なくなるのだから。 「あのさ、俺、明日ちょっと出かけるんだ。父さんとか、聖騎士のみんなとかと。難しい事は良く判らなかったけど、今ちょっと魔物が強くなってて、そのせいでこの辺まで魔物が出るようになっちゃったんだって。だから、魔物の力をちょっとだけ弱めに行くんだ」 「そんな事ができるんだ」 「うん。できるんだって」  ユーシスは感嘆のため息を挟んで続ける。 「やっぱり君、凄い人なんだね」  やっぱりと言われてしまうと、小さく胸が痛んだが、アストはその痛みに気付かないふりをした。 「それで? 弱まったらどうなるの?」 「ここまで魔物が出てこなくなるんじゃないかって」  ユーシスはほとんど無表情のままだったが、口元が小さく動いた。もしかしたら誰にも判らないほど小さく微笑んでいるのかもしれないと疑ったアストは、彼の視線がアストから少しはずれるのを見逃さなかった。  アストは振り返り、ユーシスの視線を追う。先にあったのは、薄い明かりを浴びて鈍く輝く聖十字――アストの乳母でありユーシスの母であるレイシェルの墓だ。  そうだった。魔物の脅威に晒されているのは、ユーシスだけではない。ユーシスに寄り添うように眠る、レイシェルもなのだ。 「ちょっとした儀式をしなきゃいけないらしいんだけど、そんな難しい事じゃないって父さん言ってたし、俺、頑張るよ。頑張って成功させる。そしたら、レイシェルさんのお墓も、お前も、大丈夫になる」  ユーシスは小さく肯いた。 「あのさ、お前やレイシェルさんの事を守ろうとした人たちはちゃんと居てさ、でもその人たちはみんな、力があっても大人だから、お前たちを守る事はできても、できない事が沢山あったと思うんだ」 「そのくらいの事は、判ってるよ」 「でも俺は子供だから、ちょっとは違うと思う」 「そうかな」 「そうだって。だからこれからは、俺がお前たちを守るんだ」  言ったアストは、自身が音にした言葉の中に違和感を覚え、戸惑いながらも正体を探ってみる。しかし答えはどこにも見つからず、気持ち悪さに胸元を抑えてみたが、何も解消されなかった。  色々なものをごまかそうとしたアストがユーシスに笑いかけると、ユーシスの表情に変化が現れる。  今度はアストでも確認できる、きちんとした微笑みだった。 「ごめん」  しかしユーシスの口から出てきた言葉は、アストにとってあまり嬉しいものではなかった。 「何で謝るんだ?」 「えっ、何だろう。何となく出てきたんだけど……『迷惑かけてごめん』かな?」 「うーん、あんまり嬉しくないな」  アストが素直な感想をもらすと、困惑したユーシスは、長い時間考え込んだ末に、新たに言葉を選び直した。 「えっと……ありがとう」  恩を着せたかったわけではないので、やはり嬉しいと言えるほどではなかったが、謝られるよりはよっぽど良いため、アストは肯いて受け取った。 「で?」 「『で?』って?」 「だから、結局君は何しに来たの?」 「何しにって……」  この期に及んでそんな質問を投げかけてくるユーシスに対し、アストは心底呆れた後、めげそうになった。そして思った。今まで交わした会話が、ユーシスにとって何の意味も持たないものだったとしたら、とても寂しい事ではなかろうか、と。  負けるまい。アストは心の中で決意する。勝ち負けを競うものではないはずだが、アストの気分的には、すでに勝負となっていた。 「お前に会いに来たんじゃないか」 「どうして?」 「どうしてって、話をしに来たと言うか……えっと、あれ? こう言うのって理由がないといけないんだっけ?」  アストが腕を組んで考え込む。ほぼ同時に、ユーシスは軽く首を傾げた。 「でも、無かったらわざわざこないよね?」 「あー、そうか……そうかなあ?」 「だって、今この辺は魔物が出るかもしれないんだよ? 護衛の人が居るからそんなに怖くはないかもしれないけど、一応、命がけじゃないか。あと、君は救世主様なんだから、わざわざ君から足を運ばなくてもいいんじゃないのかな?」 「そしたら、お前が城に来ないといけないじゃないか」  アストはユーシスと同じ方向に首を傾げて目を合わせ、ユーシスの両の瞳が動揺に揺らめくのを見逃さなかった。 「あんなに嫌がってたのに」  瞬きする事も忘れて凍りついていたユーシスが、ようやく答えたのは、木々をしならせるほど強く吹いた風がゆるまり、騒がしい音が静まった頃だった。 「それは絶対に嫌だけど」 「だけど?」 「僕と君は会わなきゃいけないわけじゃないんじゃないかな」  今度はアストが凍りつく番だった。  ユーシスの指摘は間違ってはいない。確かにアストとユーシスは、会わなければならないわけではなかった。会わなくともそれぞれの日常は続くし、会ったからと言って地上が救われるわけでもないのだから。  だからと言ってアストには、ユーシスの言った事が正しいと思えなかった。 「でも、会っちゃいけないわけでもないよな」 「どうかな。後ろの人たちとかに、あんまりいい顔されなさそうだよ? 救世主様が魔物の子と、なんて」  ユーシスは一瞬ハリスの表情を確かめたが、ハリスは気付いていないのか、気付いていないふりをしているのか、何の反応もしなかった。 「関係ないって。いや、お前が本当に魔物なら、俺もちょっとは考えたと思うけど、実際は違うんだし。俺がお前に会いに来たって、俺やお前が死ぬわけでも、他の誰かが死ぬわけでもないんだから、会いたいと思った時に会いに来るよ」  ユーシスの喉が鳴った。それとほぼ同時に、彼は激しく咳き込みはじめた。  顔を反らして背中を丸め、連続で何度も咳をする様子が辛そうで、慌てたアストは混乱し、腕を伸ばす。背中をさすると、ユーシスは少し楽になった顔をした。  触れる事で、肋骨が浮くほど細い体である事を知った。体があまり丈夫ではないと聞いているが、まともにものを食べているのか気になるほどだった。 「ごめっ……ちょっと、驚きすぎて、むせた」  勢いが少し落ち着くと、ユーシスは咳の合間を縫って説明してくれた。どうやら悪い病気ではないようで、その点では安心だった。 「変な人だね、君は」  咳が止まると、大きく深呼吸してからユーシスは言った。 「俺から見れば、お前の方がよっぽど変な奴だけどな」 「そうかな」 「絶対そうだって」 「違うと思うけどなぁ」  小さく声を上げて笑うユーシスの表情は、出会ってから今日までアストが見たものの中で、一番柔らかく、一番自然に笑えているものに見えた。  少しは心を開いてくれているのかもしれない。アストはそう勝手に決めつけ、勝手に得意な気分になる。 「ごめん。僕、ちょっと疲れてしまったから、休むね」 「あ、そっか。ごめんな、話長くなって」  上着を羽織っていたもまだ寒いのか、自身の肩を抱きながらユーシスは、ゆっくり、はっきりと首を振った。 「もし気が向いたら、また来て」  照れ臭そうに呟かれた、消え入りそうなほど掠れた声を、アストは受け止める。  言葉では何も返さなかった。肯きもしなかった。だが、勝手に笑いだす顔が、何よりも判りやすい答えのはずだった。 7  ついこの間はじめて馬に乗ったばかりだと言うのに、またも馬に乗る機会に恵まれてしまった。  一度目のような興奮はさすがにもう無かったが、普段と違う視点はやはり新鮮で楽しい。うかれたアストは、父が手綱を操る馬の背に乗りながら、呑気に空を見上げた。父の手綱さばきはリタと比べると安定しており、安心して揺られていられる――などと正直に言ってしまうと、万が一リタの耳に入った時に何を言われるか判ったものではないので、口には出さないでおいた。  見上げた空は晴れ渡っている。そう言えば、ユーシスと出会ったあの日以来、雨は降っていなかった。  どうやら雨の季節はいつの間にか終わっていたらしい。雲ひとつない青は清々しく、アストは鼻から胸いっぱいに空気を吸い込んだ。  すでに魔物が出でもおかしくない区域に入っているが、今のところ、先頭を行く部隊が軽く始末できる程度にしか出ていない。アストの元まで喧騒は届かない上、温かに降りそそぐ日差しが心地良く眠気を誘ってくるので、空気も気分も嘘のように穏やかだった。もし聖騎士たちが周囲を固めていなければ、父とふたりで遊びに来ているのだと、錯覚していたかもしれない。  空を見上げる事で、唯一現実を教えてくれた聖騎士たちが視界からはずれたため、本当に錯覚しはじめた頃だった。長く続いた平和な空気を引き裂きさく一筋の雷光が、天から落ちてきたのは。  轟音に、アストは気分も体も引き締め、前方に目をやる。晴れた日に突然落ちる雷の原因はリタ以外に考え付かず、リタが乗る馬が隊の前方を進んでいる事を知っていたからだった。  犯人はやはりリタだったようだ。アストがはるか遠くにリタを見つけるのと、リタが天に向けて伸ばしていた白い手を下ろしたのは、ほぼ同時だった。  リタの周囲の聖騎士たちが数人、リタに向き直って何かを言いはじめる。感謝の類か、自ら動きすぎる彼女へを嗜める類か、この距離では当然聞き取れなかった――おそらくジオールは、嫌味の混じった注意の類を口にしているのだろうが。 「聖騎士たちが魔物たちと戦うより、まだ離れているうちにリタさんが雷を落とした方が楽だし、誰も怪我しなくてすむんだから、怒ったりしなくてもいいのにね」  アストが正直に感想を述べると、父は苦笑した。 「俺もお前と同じ考えだけどな、彼女の場合は、放っておいたらひとりで魔物の中に突っ込んで、ひとりで大暴れしかねないから。ああやって周りの人間が多少小言を言って、日頃から牽制しておかないと、いざと言う時大変なんだろう」 「そんな無茶な」と思いつつも、確かにリタならばやりそうだと、アストは納得した。そして、隊が進行を止めるまでの間、両手では数え切れない回数の雷が落ちるたびに、口から勝手に飛び出そうとする笑い声を必死に飲み込んでいた。  隊全体の動きが止まったのは、洞穴を目の前にしての事だった。  伝令役の若い聖騎士が、他の聖騎士をかき分けて姿を現し、アストたちと、アストたちのすぐ横につけていたハリスの間で足を止める。姿勢を正して一礼してから、朗々と語りはじめた。 「ご報告です。先頭部隊の者が目視できる距離まで洞穴に接近いたしましたが、洞穴の周辺に多数の魔物の姿が確認されています。このままいたずらに隊を進めるは危険との事です」 「それはジオール殿の判断か?」 「はい」  アストが父を見上げると、父はハリスを、ハリスは父を見た。互いに思うところは同じだったようで、ほぼ同時に地上の人になる。  ただひとり馬上に残されたアストは急激に不安になったが、「お前も来い」と言った父が、アストが馬から降りるのを手伝ってくれた。 「ジオール殿のところまで案内を」 「はっ」  父とハリスが若い聖騎士に着いて行くので、アストもそれを追った。聖騎士たちが自然と避け、道ができていくのは、ハリスの力か、父の力か、アスト自身の力か――おそらくはその全てなのだろう。  案内された場所は、隊のほぼ先頭だった。前方に木が立ち並んでいるせいで視界があまり開けていないが、何人かの聖騎士たちが隙間から向こうを覗き、警戒している。彼らの後ろで、リタとジオールが難しい顔をしていた。 「ジオール殿」  ハリスが声をかけると、リタとジオールが振り返る。同時にジオールが手を軽く上げると、警戒をしていた聖騎士たちのひとりが身を引いたので、ハリスは木々に近付き、生い茂る葉の間から、前方を確認した。 「元々魔物が多く居るとの報告は受けておりましたが、昨日受けた報告よりも遥かに多いようですね。昨日の時点では、充分すぎるほどの戦力を用意したと思っていたのですが」  ハリスの声は落ち着いていたが、簡潔に語られた状況は落ち着いていられるものではなく、不安のあまりアストは、傍らに立つ父の服の裾を掴んだ。 「なんで都合良く……いや、私たちには都合悪いのか。まあ、どっちでもいいけど、なんで魔物たちはあんなに集まって来てるわけ? やっぱり魔物たちは、洞穴の近くに居た方が強い力がもらえるの?」 「おそらくそうなんだろうな」  苦い顔をしつつ、落ち着いた口調で答える父を見上げ、アストは手に込めた力を強くした。 「じゃあ魔物たちは、今は力を蓄えている最中、ってとこか。早めに動いておいて良かったわね。あいつら全部が充分な力を得てからザールに来たら、やっかいな事になってたかも」  リタは肩を落とし、長い息を吐いてから、腕を組んだ。空色の瞳は、不機嫌な光を秘めはじめる。 「魔物に怯えて引き返すって選択は絶対にないわよね。かと言って、封印に回せる力を残した上で、私がここから減らせる数は限られているし。でもこのまま突っ込んだら、聖騎士たちが受ける打撃は大きいでしょうね。下手したらほぼ壊滅。お役目だからしょうがないと言っちゃえばそれまでだけど、無駄に命を散らしたくはないし。そこで、物知りなカイ様に、何か名案がないかお伺いを立てようって事になったのよ。どう? 何かある?」 「ずいぶん嫌味っぽい話し方をするな。君らしくもない」  ハリスの隣に並んだカイが、木々の向こうを眺めながら言うと、リタの唇に歪んだ笑みが浮かんだ。 「貴方も十年以上嫌味な男と一緒に居てみればいいじゃない。嫌でも移るわよ」  わざとらしいジオールの咳払いに、誰ひとり気付いたそぶりを見せないので、アストも気付かないふりをし、苦笑いをしながら一瞬だけ肩を竦ませた父が再び木々の向こうに集中するのを見守った。 「誰かが囮になって別の場所に誘き寄せようにも、今のあいつらにとっては、下手な人間よりもあそこに居る事で得られる魔の気の方がよっぽどごちそうだろうから、動かないだろうな。アストやリタは他に重要な仕事があるから、俺が囮に――いや、そもそも、魔獣の指示でもなきゃ、あいつらは俺がいい餌だって気付けないのか?」  聞いているアストがうろたえてしまうほど物騒な父のひとりごとを制止したのは、ハリスだった。 「カイ様、そのような策を使われるくらいでしたら、我らは今すぐ突入命令を出して玉砕する方を選びます」  父が少し残念そうに肩を落とすのを、アストは見逃さなかった。 「って言うと思ったんだ。ま、無理を押し通しても大して効果はないだろうから、やめておこう。となると単純に、突撃前に手数を減らすか」 「私が?」 「いや、アストだな」  突然名前を出されたアストは、視線で父に縋った。  今日まで何もしてこなかったアストにとって、洞穴の封印を担うだけでも緊張すると言うのに、それ以上の役目を果たせるのだろうかと不安がよぎったのだ。しかも、失敗すれば、多くの聖騎士たちの命が失われるかもしれない。 「ごめんな、アスト。疲れると思うけど、そんなに難しい事じゃないから、力を貸してくれ」  アストは恐る恐る肯いた。 「うん、それは、いいんだけど」 「じゃ、ハリス、ジオール、そう言う事で頼む。多分半数かそれ以上の魔物が倒れる。その後すかさず突入だ。時間を空けてしまえば、魔獣の力に惹かれた魔物がどんどん集まってくるだろうから」 「了解いたしました」  ハリスは駆け足で来た道を戻り、ジオールはその場で振り返り、周囲に待機する部下たちに指示を飛ばす。聖騎士たちは素早く隊列を組み変えたり、武器や盾を構えたりと、すぐにでも茂みを乗り越え魔物たちに突撃できる態勢を整えていった。 「で、聖騎士たちが残った魔物を抑えている間に、アストとリタは予定していた配置に着いて、封印を完成させる、と。リタ、その間余裕があったら、雷落としててもいいぞ」 「言われなくても勝手にやるわよ」 「勝手にはやらない方がいいんじゃないか」  何度目か判らない苦笑いを浮かべた父は、弱々しくリタに言い返した後、アストの背後に回ると、両肩に手を置いた。 「剣を抜いてくれ」  アストは肯き、父の指示通りに光の剣を鞘から抜き放った。柄を握った事はあったが、抜いたのは初めてであったので、切っ先まで全て輝く光によって完成している事実を目の当たりにするのは当然初めての事だった。 「鞘の方は俺が預かっておくな」  父はアストの腰から鞘を外し、右手に握りしめると、左手でアストの背中を優しく押した。  木々の隙間を縫い、生い茂る草を踏み分けると、急に視界が開けた。一面の平野は、短い草とまばらに生える木があるのみで、一ヶ所に集う魔物たちの姿が良く見え、アストは音を立てて唾を飲み込む。  魔物たちの中心は、良く見ると小高い丘のようになっていた。そこに大きな穴が開いており、地中深くへ繋がっているのだろう。 「剣を構えて。落ち着いて、ただ一度、なぎ払えばいい」 「それだけ?」 「ああ、それだけだ」  何が何だか判らないアストは、父の指示に大人しく従った。てのひらから勝手に滲み出る汗を自身の服で丁寧に拭き取ってから、剣を中段に構える。  温かな熱がてのひらから腕に伝い、肩から首へ、頭へ、胸へ、全身へと伝わっていった。熱病にかかったかのようであったが、辛くはない。だが不思議だった。指先から足先まで、すべて自分の意志で動かせる事が判っていると言うのに、自分の体が自分のものではないような感覚がした。  剣が放つ光が強まっている事に気付いたのは、一閃した直後の事だ。  光の剣から新たな光が放たれ、空気を引き裂くように前方へと飛び去った。それはどんな刃よりも強く大きく、何も気付かず魔の力を喰らっていた魔物たちを乱暴に引き裂いていく。  魔物たちの奇声・悲鳴の大合唱が起こる。あらゆる色の体液が空へ向けて吹き出したが、空に届く事は無かった。命を失いただの肉塊となったものと共に積み上がり、緑と茶色だけだった大地を染め上げた。  背後から力強い男たちの声が上がる。それはアストの力を称えるものであり、聖騎士たちが飛び出して行く合図でもあった。  自分がやった結果を呆然と見つめていたアストは、自身の左右をすり抜けていく男たちの背中と、男たちが立てる猛々しい足音に気付く。  彼らの武運を祈りながら、アストはその場に膝を着いた。 8  聖騎士たちが飛び出すと同時にアストたちの元へ向かったリタの目に、今にも崩れ落ちようとするアストが映った。続いて、小さな体を支えるために、優しい腕が伸びる様子も。 「大丈夫か?」  アストを抱きとめたカイが浮かべる苦悶の表情に、強い後悔の念を感じ取ったリタは、親子の世界に介入し辛くなり、ふたりから二、三歩離れたところで足を止める。問いかけに対する反応としては鈍すぎるほど間を空け、アストが肯くのを確認すると、強く安堵した。  アストは当初、完全に父親の腕にもたれかかっていたが、やがて僅かに気力と体力を取り戻したのか、顔を上げる。父親の体を支えにして自身の体を立たせると、ようやく言葉で答えた。 「大丈夫。だけど、なんか、すごく、疲れた」  切れ切れにこぼれる声は弱っていた。普段の健康的な様子が嘘のように青白い顔色で、大粒の汗を浮かべている。大量の魔物を滅ぼす事によって、幼い体に急激にのしかかった疲労の大きさを知るには充分で、リタは今すぐアストのそばに駆けつけ、抱きしめ、繰り返し謝りたい気になった。  だが、その役目を負うべきが自分のものではない事を、理解できないリタではない。 「疲れて当然だ。ごめんな。完全に俺が読み違えた」  カイの大きな手がやや乱暴に、だが優しく、アストの頬と頭を撫でた。 「でも俺、まだやれるよ。皆が魔物を抑えてくれてるうちに、早く行かなきゃ」 「それはそうなんだが、お前は少し休んでおけ」  温かな声で囁いてから、カイは鞘をアストに向けた。説明が無くとも父親が意図するところを理解したアストが剣を納めると、剣が放つ強い光は力を弱める。 「リタ、剣のところは触らないようにな」  剣を納めた鞘を、カイはリタに投げてよこした。  突然の事だったので驚き、反応が遅れてしまったが、リタは何とか取り落とさずに受けとめた。ひと息吐いてから、きつくカイを睨み付ける。 「何よ、突然」 「悪い。俺はアストを連れて行くから、君は剣を持っていってくれるか。他の人には頼めないんだ」 「どうしてよ」 「その鞘に触れられるのが俺たちだけだからだ。ああ、剣には触れないように。それはアストだけのものだ」  カイの語る「俺たち」がどの範囲を示しているのか、察するのは容易で、ならば断る事などリタにはできない事だった。 「判ったけど……荷物持ちとして使われるなんて、何年ぶりかしら」  嫌味を混ぜた口調で言いながら、本音は違う事を示す笑みを浮かべると、カイは苦笑しながら小さく肩を竦める。  カイがアストを背負うと、同時に駆けはじめた。本来はカイの方がリタよりも足が速いはずだが、並んで走るにちょうどいい速度だった。リタに気を使って合わせてくれている、と言うわけではないだろう。背中に居るアストへの気遣いと、荷物としての重みが、カイの足を自然と遅くしているだけだ。  喧騒の中走り続けると、地面がよく揺れるようになった。命を失った魔物の巨体が、地に倒れた衝撃によるものが主だ。時に、体から何十本もの矢を生やした空飛ぶ魔物が地上へ落ちてきて、その時の衝撃はより強く、転びそうになる事もあった。  洞穴に近付くほどに、進行は困難になっていく。アストが大幅に減らしたとは言え、洞穴を死守しようとする魔物たちはまだ多く残っており、リタたちを洞穴へ届けようとする聖騎士たちの戦いが、苛烈を極めたからだった。やや優勢にある聖騎士たちが、魔物たちを押しやり、こじ開けてくれた道を進み、リタたちはようやく洞穴の前へと辿り着く事ができた。  洞穴を見るのは初めてで、リタは息を飲んだ。鞘を掴む手に、勝手に力が入る。大の大人が何人も並べるほど大きい入り口から漂う濃い魔の気は、今にも人間たちを飲み込んでしまいそうで息苦しく、無意識の内に姉に縋っていたのだった。  洞穴の中は、外の光がかろうじて届く入り口付近を除くと真っ暗で、先がどうなっているかは全く見えない。どれほど長く続いているのだろう、魔獣が眠る地底まで――アストはいつか、この不確かな道を、ひとり進まなければならないのか。  未来のアストが辿る運命を想像し、リタの胸は強く痛みを訴えた。 「アスト、疲れてるのにごめんな。もうひと仕事だ」  アストは小さく肯き、カイの背中から降りた。  同時にリタが剣を差し出すと、アストは剣を引き抜き、カイが鞘を手に取る。剣が再び強く発光しだすと、周囲の聖騎士たちから歓喜の声が上がった。  光の眩しさに、魔物たちは先ほどの惨劇を思い出したのか、何らかの危機を感じ取ったようだった。地上の魔物は聖騎士たちを蹴散らそうとより強く暴れだし、空の魔物はそれまで攻撃を加えていた弓部隊に見向きもせず、アストに向かって飛んでくる。  鋭いくちばしを持つ魔物が、アストの小さな体を貫こうと急降下した時、アストはぎこちなく剣を構えた。  素人同然の構えでも、彼と剣の力があれば魔物一匹倒すのは簡単だろうが、これ以上力を使っては、封印を施す前に倒れてしまうかもしれない。そう考えたリタは、止めなければと思った。アストが力を使う前に、自分が魔物を倒さなければと。  リタは腕を伸ばす。聖騎士たちがアストを庇おうと駆け寄ってくる。それら全てを存在で制止し、カイはアストの前に立ちはだかった。  カイは剣を抜かなかった。剣の代わりに鞘を構え、魔物を待ち受けただけだった。  それだけで充分だった。黒い鞘は傷ひとつ付く事なく、光を浴びて輝く優雅な姿に不似合いなほど強烈な力で、魔物を弾き飛ばしていたのだ。  不自然な態勢で地面に叩き付けられた魔物の、骨が折れる鈍い音を聞き届けてから、リタはカイに振り返った。 「その力は、対魔物専用? それとも、私たち以外全部に対して?」 「後者が正解だな」 「なるほど、私を荷物持ちに使うわけよね。でも、もう少し大切に扱ってもいいんじゃないの? それは……」  カイの視線が、鋭くリタを貫く。  一瞬怯み、言葉を飲み込んだリタは、すぐそばに居るアストが何も知らない事を思い出した。迂闊な事を口にしかけた自分を頭の中で罵倒し、止めてくれたカイに心の中で感謝する。 「……封印にも役立つ、特別な鞘なんだから」 「特別だからこそ、ここぞと言う時に使うものだろ」  直前の眼差しが嘘のように優しく微笑んだカイは、アストに向き直った。 「アスト。それからリタもだが、今から封印が終わるまでの間、魔物の事を一切考えるな。お前たちは必ず俺たちが守るから」  即座にアストが肯き、続いてリタも肯いた。  不安は元より無い。少なくとも現時点では、聖騎士たちの戦力が魔物たちの戦力を上回っていたし、そうでなかったとしても、聖騎士たちは命をかけ、必ずアストとリタを守るだろう。たとえ最後のひとりになろうとも。 「そして、何があっても振り返る事なく、封印の完成を優先すると約束してくれ」  リタは即座に肯いたが、アストはしばらく動かなかった。  アストはまだ幼く、戦いに馴れていない。人が目の前で倒れても平静としていられる自信がなかったとしても、仕方ない事だろう。名も顔も知らない、王都から来たばかりの聖騎士たちならば耐えられたとしても、幼い頃から知っている聖騎士たちが倒れたとしたら? 比較的近しい位置に居るハリスが、命の恩人であるジオールが、最愛の父親が倒れたとすれば。  不安に硬直するアストの背中を、カイが軽く叩いた。 「俺たちを信じろ」  力強い言葉を残し、カイはその場を立ち去った。残されたアストはしばらく父親の背中を見つめた後、強く肯いた。もうカイは見ていなかったが、カイの言葉に対する答えだったのだろう。  リタもカイに倣い、アストの肩を軽く叩いてから、アストのそばを離れた。アストを頂点とし、洞穴の入り口を塞ぐ三角形をつくる位置で足を止める。目の前は土や岩で盛り上がっており、向こう側は見えないが、カイが鞘を置いているはずだ。  リタは目を伏せ、胸の前で手を組んだ。視覚を塞ぐ事で研ぎ澄まされた聴覚が、周囲で繰り広げられる戦いの音を強くリタに伝えてきた。大地を駆け、踏みしめる音、剣と魔物の硬い皮膚がぶつかり合う音、矢が風を切る音、悲鳴、唸り声、雄叫び――  組んだ手にいっそう強い力を込めてから、リタは目を開け、視線をアストに向けた。  アストは震えながら天上に向けて剣を掲げた。剣が放つ光が更に強まり、アストの体を包み込んでいく。  剣がアストに力を与えているように見える光景だったが、違うのだと、リタは感覚で知っていた。剣も強い力を秘めている。だが、アストの中に眠っている力はそれ以上で、剣はアストの力を解放するための媒体にすぎないのだ。 『天上には神、地上には人。地中に眠りしは、悪しき魔獣――』  アストが声を紡ぎはじめた。周囲に鳴り響く音にかき消され、リタの耳には届かなかったが、事前にカイに教え込まれていた、神聖語による祈りの言葉だろう。  失われた封印を復活させる、力ある言葉が放たれると、アストを包んでいた光が、リタの元まで伸びてきた。  光は、真夏の太陽のごとき熱さとなって、外側から内側からリタの体を責める。熱いと同時に息苦しくなり、体が揺らいだが、両足に力を込め、倒れる事を拒絶した。剣は、光は、アストだけでなく、リタの力をも引き出そうとしているのだから、負けるわけにはいかない。  乱れかけた呼吸を整える事で、体と同時に揺らぎかけた心も引き締めると、周囲が静かに感じられるようになった。集中する事で、感覚が研ぎ澄まされたのだろう。耳に届くものは、アストがたどたどしく音にする神聖語のみとなっていた。 『我は誓う。偉大なる天上の神の名の下、集いし命の平安を』  幼い少年独特の柔らかな声が途切れる。リタは大きく息を吸い込み、静かに吐き出してから、再び発せられたアストの声に重ねた。 『我らは今、地底と地上を繋ぐ道を、遮らん』 9  アスト――正しく言うならば、アストの持つ剣――を中心として、光が弾けた。  光が周囲にある全てを飲み込んだのはほんの一瞬だったが、ごく限られた者を除き、人間も魔物も、等しく目が眩んだ。光に背を向けていた者も、目を閉じていた者もだ。  例外は、封印の儀式に集中しているアストとリタを除けば、カイだけだった。戦場を自由に動ける唯一の存在となったカイは、絶好の機会を逃すほど愚鈍ではなく、目を押さえながら騒ぐ魔物を何体か切り捨て、あるいはがむしゃらに暴れる魔物から逃げ道を見失った聖騎士を救出した。 「ありがとう!」  はっきりと目が見えていない聖騎士の青年は、救い主か誰か気付かぬまま、気安く礼を口にした。もし相手がカイだと気付いたらどれほど慌てふためくのか、興味がないわけではなかったが、わざわざいじめる事もなかろうと、声を出さずに軽く肩を叩いてその場を離れる。  時間と共に、皆が徐々に視力を取り戻しはじめていた。一概には言えないが、平均して、魔物たちよりも人間の方が回復が早いようだ。元々優勢ぎみだった聖騎士たちは、未だ目が眩んだままの魔物たちを、圧倒しはじめていた。  強い脚力を持った魔物が大地を蹴り、人の壁を飛び超えて姿を現したのは、カイが勝利を確信した時だ。  再度の封印を阻止するため、アストやリタを狙って来たのだろう魔物は、運が悪い事に、カイの目の前に着地する。再度地面を蹴る余裕を与える事なく、首を鋭く突くと、魔物は地面に赤黒い池を造りながら倒れ込んだ。 「お怪我はないようですね」  カイと同様に、人垣を乗り越えて現れた魔物を切り捨て、背後のアストを守りきったハリスが言った。 「かすり傷ひとつない。たとえあったとしても気にするな」 「お命さえご無事ならばよろしいとでも?」 「まあ、そう言う事だ。役目を果たせなくなるような後遺症を負ったら困るだろうが、そうはならないしな。俺の事は放っておいて、アストの護衛に専念してくれ。優勢とは言え、戦力が有り余ってるわけではないんだ」  突然影が生まれたので、カイは空を舞う魔物を警戒し身構えたが、羽に大量の矢の雨を浴びて失速するのを確認すると、視線を地上へ戻した。 「私の隊の任務はアスト様とカイ様をお守りする事です」 「言われなくても知っている。それに俺は、『俺の命なんかどうなってもいい』なんて、無責任な事を言っているつもりはない。アストも、リタも、俺も、全員が生還するためには、俺を無視してふたりを守った方が確実だ、と提案しているだけだ。何が不満なんだ。仕事が楽になっていいだろう」  ハリスはまだもの言いたげな顔をしていたが、諦めたようで、それ以上何も言おうとはせず、鋭い眼差しを大地や空に向けた。一分の隙も作らずアストを守り通そうとの意志がこもった眼差しは頼もしく、カイは安心し、視線をリタにずらした。  彼女もアストと同様に、頼もしい男に守られている。ジオールはリタのそばで、時に左手に持った剣で魔物を切り裂きながら、部下たちに指示や激を飛ばしていた。  カイは最後に、鞘が突き立つ大地を見た。神の一族しか触れる事のできないそれは、誰かの守りを得る事無く、孤高の姿を保っている。額に汗し、熱心に祈り続けるアストやリタと違い、涼しげに祈り続けるシェリアの美しい横顔が見えるようで、カイは思わず目を細め、顔を反らす。  剣を持つアストの手が震えはじめている事に気が付いた。疲労が小さな体にのしかかっているせいであろうか。それとも、内側から沸き出る力が、小さな体を執拗に責めているからか。 「もういい」と、止めてやる事ができれば、どれほど気が楽だろう。アストに頼らずとも、地上を救う術があればいいのに――神に祈る事を知らないカイが、神に祈りたくなるほどに、アストの姿は痛々しいものだった。  せめて封印が早く終われば良い。カイはアストを見つめながら願ったが、完成までにあとどれほどの時間が必要なのかは、カイにすら判らない事だった。祈りの言葉は完成しており、あとは待つしかないのだ。アストと、リタと、シェリアだったものが放つ力が、洞穴の入り口を塞ぐ瞬間を。 「封印の完了までにいかほど時間が必要か、お判りになりますか?」  空の一点を見つめながらハリスが言った。 「いや、判らない。アストとリタ次第としか言いようがないんだ。もしかすると、封印が終わるよりも、魔物たちを全滅させる方が早いかもしれないな」 「それは、少々難しいかと」  ハリスの口ぶりが気になり、カイは彼が見つめる先を見た。青空の中に点在する黒い影を目にすると納得し、ハリスの隣に並ぶ。 「俺は基本的に魔物は嫌いだが、中でも一番嫌いなのは、羽が生えていて空を飛ぶやつなんだ」 「私もです」  簡潔に同意を示すハリスの態度に、カイは小さく笑った。隣に立つ男が、「エア」についてだけではなく、「ジーク」について語れる唯一の人物である事を思い出したからだ。 「ここは任せた、向こうは俺が行く、と言いたいところだが……」 「カイ様」 「やめておく。ここは俺や他の聖騎士たちに任せておけ」  カイがハリスの目を見ると、ハリスは強く肯いた。 「申し訳ありません。一度こちらを離れます」  走り去るハリスの背を見送ってから、カイは周囲の警戒を強める。  周囲は地を駆ける魔物と聖騎士たちの戦いが強固な壁となっており、聖騎士たちの敗北の様子がない今、先ほどのように高く跳ぶか、あるいは飛ぶ以外に、カイたちの元に魔物が到達する術はない。この争いの中で最も安全な場所と言って良い程だが、魔物たちが最も狙いたい場所であるのも確かなため、気を抜くわけにはいかなかった。  ちょうど地に伏した聖騎士を踏み台に、数匹の魔物が飛び込んできた。周囲に構える聖騎士たちの数や立ち位置と、脇目も振らずに洞穴を目指してくる魔物たちとを脳内で照らし合わせた結果、絶対に任せられない一匹を見つけたカイは、それを自分の相手と決めた。  迫り来る魔物の体を狙って剣をなぎ払う。だが魔物は素早く身を引き、鼻先を掠めるのみだった。  魔物は、長く伸びた角をカイに向けたまま、その場で土を均す。鼻息が荒く、傷付けられた事で腹を立てている事は明らかだった。  魔物は前触れもなく、カイに向けて突進してきた。カイは当然避けたが、カイの後ろにはアストが居る。ただ避ける事によって、魔物がアストに突進するのを許すわけにはいかず、魔物の足に力強く剣を叩き付けた。  足を痛めた魔物は、体を大きく傾けたが、倒れ込むまではしなかった。皮膚が固いからか、それとも当たり方が弱かったが、腫れた足に刻んだ傷は思いの外小さく、残り三本の足に大きく頼りながらも何とか立ち、カイに向き直る。  カイは舌打ちし、再度魔物に切っ先を向けた。  なかなか戦いにくい相手だった。角は鋭く、突進の勢いと合わせれば、人間の体などあっさり貫けると予想できるからだ。避ける事は難しくなさそうだが、下手に避けてしまえば、アストの体が貫かれてしまう。幼いゆえに脆い体や精神で、角の一撃を食らえば、一体どうなる事か。きっと耐え切れまい。  今度はカイの方が先に地面を蹴った。魔物の角を根本から叩くと、折れるまではしなかったが、魔物の体が大きく揺らいだ。  崩れかけた体勢を持ち直すため、痛めた足に体重の大部分をかける事となった魔物は身を屈めた。だが、足以外はさほど傷付いていないため、鼻息を荒くしたまま、自由に動く首を大きく旋回させる。  追撃のために近付いていたカイは、側面から迫る角を避けるためにいったん身を引いてから地面を蹴り、魔物との距離を詰め直したが、即座に魔物の角が正面から迫ったので、後方に跳びながらそれを避ける。着地と同時に体勢を整えたが、魔物もほぼ同時に四本足で立ち上がっており、カイに向けて跳びかかってきた。  魔物は足の負傷のため当初の素早さを失っており、警戒していた角の一撃は容易に避けられた。しかし、間髪入れずに続いた牙の攻撃は避けきれそうにない。カイは左足を振り上げ、大きく開いた魔物の口に放り込んだ。下手な部位に喰いつかれるよりは、はじめから鎧に守られている場所を差し出した方が良いと判断しての事だが、脛に噛り付いた魔物の牙や顎の力は、カイが予想していたよりも強く鋭かった。  鉄製の脛あてが歪み、カイの足を圧迫する。  痛みを飲み込みながらカイが剣を振るうと、魔物は一瞬カイのそばを離れたが、避けきれずに背中を切られた事に気を立て、すかさず飛びかかってくる。カイの足元に向いていた角を素早く振り上げ、カイの足を掬った。  カイはしばらく防戦に回る事にした。剣を握った右手で、繰り返される魔物の攻撃をはじく事に専念する。そうしていくらか後退しながら、左手で何とか脛あて部分の留め金を外し、自身の足を解放した。魔物の牙は鉄を僅かに貫いており、少し血が出ていたが、傷自体はかすり傷のようなものだった。  負った傷からは考えられない痛みと熱が脛に走ったのは、反撃に転じようと決めた瞬間だ。  大地を力強く踏みしめていたはずの左足が、突然強烈な痛みを訴える。カイは体勢を崩しながら、気力で角を避けてはみたが、魔物の体そのものを避ける事はできなかった。自身と魔物の体の間に剣を入れ、かろうじて受け止めようと試みたが、自身の体重すら支えられなくなった左足に、衝撃をこらえきるだけの力があるはずもなかった。  カイの足は容易く地面を放棄し、体が吹き飛ぶ。大きく後方に飛ぶと、背中から地面に落下し、勢いが衰えぬまま転がり落ちた。 10  張り詰めた糸を爪先ではじいたような、軽くもあり重くもある違和感に、リタはゆっくりと目を開ける。  自分自身と、アストと、シェリアであったものを繋ぎ、洞穴の入り口を包む淡い光によって、視界は霞がかっていた。目に映る全てのものの輪郭がぼやけ、正しい色を認識できない。しかし、何であるのかを判別できないほど歪んではおらず、魔物と戦う聖騎士たちの姿や、光の剣を手に集中するアストの姿を確認できた。  リタは集中を乱さぬまま、首を巡らせて辺りの様子を見極め、違和感の正体を探ろうとした。僅かとは言え、神聖な空気を侵食する何かが起こった事は確かなのだ。周囲で起こる戦いさえも完全に遮断するほど集中した意識が、感じ取ってしまうほどの何かが。  その「何か」が判らないまま続けて良いのか不安を覚えたリタは、不安を掃ってくれそうな相手を探した。悔しい事に、思い浮かんだ人物は、カイとジオールのふたりだった。 「ジオール」  先に目についたジオールの名を静かに呼ぶ。集中を保つために抑えた声しか出せなかったのだが、ジオールは喧騒が響く中、リタの声を確かに捉えてくれた。 「いかがされました」  力強い剣戟で魔物を切り捨てると、ジオールは辺りを警戒しながら、リタのそばへ駆け寄ってくる。周囲に魔物が近付いてくる気配がない事を確認してから身を屈め、耳の高さをリタの口の高さに合わせた。 「今、変な感じがしたんだけど、何か起こらなかった?」 「何か、とは?」 「それが判ったらちゃんと訊いてるんだけど。たとえば、そうね。今私たちが創る図形の中に光ができているでしょう? その中に誰かが入ったとか」  ジオールは僅かな間を空けてから答えた。 「入るだけでしたら、先ほどから何度でもございます。聖騎士たちも、魔物も」 「そう……」  ジオールの言う事だ。間違いはないだろう。はっきりと言い切られたリタは、謎の違和感を気持ち悪く思いながらも、納得するしかなかった。正面に向き直り、洞穴を睨みつけ、組んだ手に力を込める。  一連の動作の中で、リタは再び違和感を覚えた。先ほど感じ取った、直感に近いものではなく、もっとはっきりと捉えられるものだった。  やはり何かがおかしいのだと、リタは正体を探るため、同じ動作を繰り返す。  カイが居ない。  辺りを見回す事で、リタはその事実に気が付いた。  アストを支え、アストを守る役目を負う男が、アストのそばに居ないなどと、これほどおかしな事が他にあるだろうか。思わぬ魔物の襲撃によって、他の聖騎士たちがアストのそばを離れようとも、カイだけは最後までそばに居て、アストを守るべきだ。彼はただの聖騎士ではなく、エイドルードの御子であり、アストの父親なのだ。 「ジオール、カイはどうしたの」 「カイ様ならば、ハリスが守りに――アスト様のおそばに」  ジオールは周囲を見回し、カイの姿が見えない事に気付いたようだった。 「ハリスもおりません。何か意味あってこの場を離れたのではないでしょうか」  確かにジオールの言う通り、ハリスはアストの周囲に居なかった。リタはハリスとさほど近しくないが、それでも、考え無しに持ち場を離れるような男でない事くらい知っている。  リタはジオールの予想を受け入れかけたが、慌てて首を振った。はじめに覚えた違和感が、嫌な予感ばかりをリタに伝えてくるのだ。絶対に、良くない事が起こっていると。  戸惑ううちに、アストの護衛隊の聖騎士が数名、洞穴の入り口に近付いた。中を覗き込み、何か叫んでいるようだが、リタには聞き取れない。  代わりに聞き届けたジオールの視線が、素早く洞穴へ向く事によって、悪い予感が的中した事を知ったリタは、軽く唇を噛んだ。 「カイは、洞穴に落ちたの?」  きつく引き締められたジオールの唇は、答える事を拒否しているようにも見えたが、やがて重々しく開かれた。 「そのようです」 「じゃあ、一度儀式を止めた方がいいんでしょうね」  リタはざわつく胸中を落ち着かせるために一度深呼吸をし、組み合わせた両手に込めた力を緩める。しかし、大きな手が力強くリタの両手を包み込み、絡みあった指は解けてくれなかった。  両手に落としていた視線を上げる。歳を重ねても鋭さを失わない、むしろ増す一方であるジオールの強い視線が、リタの目を、心を貫いた。 「儀式はこのままお続けください」 「無茶言わないで。このまま、洞穴と一緒にカイも封印しろって言うの? できるわけないでしょう」  カイは言った。役目の途中で死んだらどうするのかと問うたリタに、大抵の事ならば何があっても大丈夫だと。  あれだけ自信を持って言い放ったのだ。彼には何かしら、死を払いのける力があるのだろう。だが今の状態を払いのける力があるとは、到底信じられなかった。アストとリタとシェリアが力を合わせた封印よりも、カイの力が上などと、馬鹿げた話があるものか。  ならば、洞穴の中に封印される事によって、彼は、彼の果たすべき役割は、放棄されてしまうのではないか? 「カイを救出してから、もう一度儀式をやり直せばすむ事でしょう。とりあえず」 「不可能です」 「魔物が次々とやって来るから? そんなの、貴方たちが気合を入れればすむ事じゃない。私だってちょっと疲れているけれど、もう一度くらい何とか」  ジオールは無言で顔を背けたが、強い眼差しは相変わらずで、リタから逃げるためではなく、何か大切なもののために動いたのだとリタは理解した。  理解したからこそ黙って、リタはジオールの視線を追う。先にあったのは、体を振るわせながらも必死に立つ子供の姿で――リタは瞬時にジオールが伝えようとした事を知った。  同時に、知らなければ良かったと後悔した。小さな体を酷使し、大陸を、生まれ育った町を、友を、守るために力を尽くす子を知った今、どうしたって止められない。 「あの子は……アストは、次は何ともならないわね」 「はい」 「あの子は現状を知っているのかしら」 「判りません。ですが、知ったとしても、封印が完成するまでにカイ様が脱出なさると信じ、約束を守られるのではないでしょうか」  リタは俯きかけた顔を上げた。  何があっても振り返る事なく、封印の完成を優先すると約束してくれ――そうだ。確かにカイは言った。そして信じろと言った。アストは何も言わなかったが、信じると決意していた。 「私も信じなきゃ、格好つかないか」  リタはジオールの手を振り払うと、再び手を組み直した。込めた力に呼応して光が強まり、眩しくはなかったが、リタは目を細めた。 「続けるわ」 「ありがとうございます」 「それによく考えたら、アストより私より、貴方たちの方がよっぽどカイを見捨てられないのよね。私が慌てる必要なんてどこにもない」  リタが唇に笑みを浮かべると、ジオールも同様に微笑んだ。 「おっしゃる通りです。封印完成直前までにカイ様の保護が完了しなければ、その時改めて、お止めしに参ります」 「絶対よ。こんな事で永遠のお別れになってたまるもんですか。私、まだカイに訊かなければならない事があるんだから」 「『訊きたい事がある』の間違いでは?」  ジオールの言葉に、リタは浮かべた笑みを歪ませる。 「完全に間違いではないわよ。訊かなければならない事だって、いくらでもあるでしょう。私以外に、カイに強く言える人間は居ないんだから」 「おっしゃる事はごもっともですが」 「じゃあ、余計な口を挟まないでちょうだい」  リタが語気をきつめにして言い切ると、ジオールは黙って肯き、元の任務へと戻っていく。  限られた人間に対してのみなのか、全ての人間に対してなのかは知らないが、少なくとも自分に対しては間違いなく底意地の悪い男から逃れるように、リタは目を伏せた。  悔しいが、ジオールの言う通りだ。リタはずっと知りたい事がある。  知る事が幸福に繋がるとは思えない。とても悲しいか、とても苦しいか、そのどちらかになるだろうと判っている。  それでも、受け止める覚悟はできている。できたからこそ、リタは今ここに居るのだ。 11  ハリスが弓部隊の元へ到着した頃には、空の魔物たちもずいぶん近付いてきており、はっきりと姿が捉えられるようになっていた。  悠長に数を数えるほど余裕がないため、詳細は判らないが、数は十五から二十と言ったところだろう。数の上では弓部隊の方が多いが、矢を一、二本食らった程度では倒れない魔物の生命力を考えると、けして有利とは言えない状況だ。  それでも、近付いてきた魔物の集団のうち、最初の数匹はあっさりと地に落ちた。考えなしに飛んできたため、弓部隊の集中攻撃を受けたのだ。何十本もの矢を受け、羽を傷つけた魔物は、飛ぶ力を失い、重い体を大地に叩き付ける。轟音が響くと共に、砂煙が舞い上がり、ハリスの視界を濁らせた。  残った魔物たちは、墜落する仲間を目の前にし、多少はものを考えるようにしたらしい。それまで飛んでいた位置よりも高度を上げ、矢が届かない高みへと逃げていったのだ。  こうなってしまえば、地上を歩む宿命に産まれた人間たちに、できる事は少ない。魔物に当たらない事を承知で、矢を撃ち続けるだけだった。  目的は魔物を倒す事ではなく、神の一族の身を守り、封印を完成させる事である。魔物たちをこれ以上神の一族に近付けないようにすると言う意味では、矢を撃ち続ける事自体無駄ではない。しかし、矢に限りがある事を考えると、不安ばかりが残る。矢が尽きてしまえば、守る事ができなくなるのだから。  弓部隊を率いる隊長も、不安を抱いたのだろう。一斉攻撃をやめ、小隊ごとの順次攻撃へと切り替えた。一度に撃つ本数を減らし、矢を消耗する速度を緩めたが、封印が完成し、撤退するまでの間、持つかどうかは疑問が残る。  虚しく矢を撃ち続ける地上の民を見下ろす魔物の姿が、こちらの消耗を誘いながらいやらしく笑う狡猾な生き物に見えてきた。魔物にそこまでの知恵はなく、安全な場所から攻める隙を見計らっているだけだと判っていながら――結局のところ、見る者の心が、視界に反映されているのだろう。  ハリスは空中に待機する魔物たちの様子を確認しながら、弓部隊の隊長へと近付いた。隊長は魔物の様子を確認するため、常に空を見上げていたが、ハリスが声をかけるよりも僅かに早く、近付く人物の気配を察知し、視線を地上へと下ろした。 「ハリス様。いかがされました」  ハリスは隊長の隣に並び、空を見上げる。 「アスト様のお力によって地上の戦況は優勢だが、空中はそうでもなさそうなのでな」 「お恥ずかしい限りです」 「いや、戦力を読み違えたのは私の方だ。前線に立っている者をいくらか下げて、こちらに回す事も考えたが……現状では無意味のようだな」  次々に空へ飛び立つ矢が、何を掠める事もなく再び地上に戻ってくる様子を目の当たりにしながら、ハリスは呟いた。 「やつらの狙いはあくまで弓部隊か。睨みあいの状況から動く様子がない。他の部隊に攻撃を加えようとは考えないのだな」 「空の魔物にとって、我々ほど煩わしいものはないでしょう。我々を片付け、ある程度の安全を得てから他に、と考えているかもしれません。相手は魔物ですから、単純に目の前の障害に気をとられているだけやもしれませんが」  おそらく後者だろうと考えながら、ハリスは隊長の目を捉えた。 「引きつけられるか?」 「魔物どもを我らに、との意味でしょうか」 「違う。地上にだ」  ハリスが簡潔に告げると、対象は眉根を寄せた。 「正直に現状を伝えよう。封印が完了するまでに、あとどれほどの時間が必要か判らないのだ。今のように、牽制しあっているうちに事がすむかは判らん」 「矢の数が間に合わず、攻撃手段を失った状態での戦いとなっては、アスト様の危険が増しますね」  ハリスが肯くと、隊長はしばし無言になったが、すぐに力強く肯いた。 「判りました」  隊長はハリスの横をすり抜け、数歩前に出ると、腕を振り、低く響き渡る声を響かせた。攻撃止め、と彼は言ったが、この状況で手を休めろとの指示が来るとは思っていなかった部下たちは戸惑っており、全員が完全に指示に従うまで、いくらか時間を必要とした。  矢の雨が降り止む。空気が緊張する事で、騒音が消えたような気がした。 「全員構え」  静止の指示よりも落ち着いた声だったが、静かな空気の中では、充分に響き渡った。  ここに来て一斉攻撃の準備の指示が下る事で、弓を持つ男たちは、自身の隊長の意図を読み取った。空に向けて矢を番え、来るべき時を待つ。  ほどなくして、誰もが予想した通りとなった。単純な思考しか持ち合わせない魔物たちは、やはり単純に、攻撃が止まった事を好機とみなしたのだ。魔物たちは一斉に急降下し、弓部隊へと襲いかかる。 「撃て!」  隊長の指示と同時に、矢は魔物の集団を目指して撃ち上がった。魔物たちが降りてくる勢いと合わさって、矢の勢いはいっそう強くなり、魔物たちの体に深く食い込んでいく。  魔物たちは叫び、暴れた。無数の矢に貫かれた巨体を地に沈め、大きな音をいくつも響き渡らせた。  全ての魔物が仕留められたわけではなかった。まだ息を残した魔物は、傷を負う事で動きが鈍りながらも、まだ意志に従う羽を懸命に動かす。まるで恨みを叫ぶように奇声を響かせながら、地上へと突進してきた。  ハリスはあらかじめ構えていた剣を振り上げながら、狙われた聖騎士と魔物の間に体を入れ、攻撃を受け止め、押し返す。相手が弱っていたので、簡単な事だった。再度飛びかかってきた魔物は、鋭いくちばしでハリスの目を潰そうとしたが、一撃を羽に埋め込み、切りかえしで頭部を強く強打すると、地上にくちづけし、二度と動かなかった。  振り返ると、残った魔物に対処するため、弓を投げ捨てて応戦する聖騎士たちが目に映る。ハリスは降りそそぐ矢に当たらないよう、頭上に盾を構えながら素早く駆け、彼らの援護に回った。  再度静止の命が響く。地を這う魔物にとどめをさしたハリスは、頭上を見上げた。空にはまだ三匹の魔物が残っていたが、今度はどれほど待っても、矢が届く位置まで降りてこようとはしなかった。 「さすがの魔物も学習したか」  ハリスの独白が聞こえていたのか、隊長がハリスのそばに駆け寄ってくる。 「ハリス様、申し訳ありません。撃ちもらしました」 「いや、充分よくやってくれた。引き続きここで待機、空への警戒を続けてくれ。私は戻る」 「はっ」  魔物たちはしばし弓部隊を見下ろした後、散開する。弓部隊から離れ、剣によって地上の魔物と戦う者たちを新たな相手を物色しはじめていた。  ハリスは元の持ち場に戻る中、魔物の動向を確認するため、たびたび空を見上げる。残った空の魔物のうちの一匹が、自身の真横を飛び続けている事に気が付くと、小さく笑った。  護衛隊長の証である赤い外套の翻る様が目立ったか、単独行動をしている者が狙いやすかったのか。どちらにせよ好都合だと、ハリスは徐々に戦いの場から離れるよう、さりげなく進行方向を変えた。  やがて魔物は、ハリスに向けて降下してきた。  あらかじめ警戒していたハリスは、魔物の一撃を剣で受け止める。予想以上の重みが腕にのしかかり、筋肉が軋んで悲鳴を上げた。  魔物はハリスに反撃の隙を与えないよう、すぐに地上を離れようとするので、ハリスはすかさず一撃を加えた。大きな羽ばたきによって土埃が舞い上がる中、ハリスの剣は魔物の胸を抉る。  叫び声を辺りに響かせながら、魔物は飛ぶ事を忘れなかった。手の届かない位置から零れ落ちる血はやはり悪臭で、かぶらずにすむよう、ハリスは二歩ほど後退した。  逆上した魔物が、再度地上に降りてくる。今度は受け止めず、即座に反撃を加えようと構えたハリスは、目の前の魔物の羽音に、別の魔物の羽音が重なるのを聞いた。 「ハリス!」  二匹同時に相手にするならば、受け流す事が優先か。構えを変えようとしたハリスの耳に、聞き慣れた、落ち着いた声が届いた。すぐ近くまで寄ってきている影が、視界の端に映る。  二匹目の魔物より、声の主の接近の方が幾分早そうだと判断したハリスは、構え直し、自分に向けて飛んでくる魔物を際どい位置で避けた。  魔物は自らの突き進む力によって、ハリスの剣を体に埋め込んだ。ハリスの手にかかる力も凄まじく、危うく取り落としそうになる。  羽を折り、激しい音を立てて落下した魔物に、まだ動くだけの力が残っているのを見つけたハリスは、剣を持ち変え、魔物の上に落とした。深く突き刺し、魔物が動かなくなるのを確認してから見ると、もう一匹の魔物もちょうど息絶えたところだった。 「ジオール殿が持ち場を離れるとは珍しいですね」  汗を拭い、やや乱れた呼吸を整えてから、ハリスはジオールに振り返る。 「我らほどの立場になれば、こうと決めた場所が持ち場ではないか。そうでなければ、貴公もまた持ち場を離れた事になる」 「おっしゃる通りですが」  ハリスは咳払いをひとつ挟んだ。 「ならばなぜここを持ち場と決めたのですか、とお聞きしたくなりますね」  ジオールは魔物から剣を引き抜き、血を拭うと、ハリスに振り返った。  いくらか返り血を浴びた立ち姿は相変わらず毅然としていたが、不思議と表情が疲れている。表情に出るほど戦いによって疲弊した様子は見られないため、違和感を覚えたハリスは、ジオールを見つめる視線を鋭くした。 「報告したところで意味はないやもしれんが、報告せざるをえない事もある」 「私に、ですか」 「そうだ」 「ジオール殿自ら?」 「戦いの最前線は、引退間近の年寄りより、若い者たちに任せるが相応しいと思ったのでな」  目の前に転がる魔物の遺骸を見せられては、とても同意できる事ではなかったが、ハリスはとりあえず肯いた。 「それで、報告とはなんです?」  ジオールは僅かに沈黙を保った。それは彼なりの戸惑いで、ハリスは彼が伝えようとしている内容はどれほどのものなのかと、心を構える。 「カイ様が……洞穴に落ちた」  低く響いたジオールの声は、厳しい現実をハリスに告げた。 「誰か救出には?」 「残念だが、我らにできる事は無いようだ。祈り、待つ以外にはな」  ハリスはまだ遠い先を見つめた。優しき光が溢れる場所を。  自然と目が細まるのは、眩しいからではなく、砂を噛み締めるよりもきつい苦味が、口内に広がり続けるからだ。 12  痛みと衝撃で気を失っていたのかもしれない。  カイが瞬時にそう考えたのは、記憶に残る最後の光景と、現在目に入る光景が、激しく食い違っていたためだ。  しかし、すぐに気が付いた。カイの意識はずっと保たれていたし、瞬き以外で目を閉じてもいなかったのだと。吹き飛ばされ転がった僅かな時間の中で、景色の方が大幅に変わったのだと。  先ほどまで居た平野には、まばらに草が生えていたし、やや離れたところに森があったので、緑色が鮮やかに映えていた。だが今カイの周囲にあるものは、岩混じりの土で、見えるものは茶色や灰色ばかりだった。  辺りも暗い。緩やかな坂の先にある穴からいくらか光が差し込んでいるが、カイの居る所まではほとんど届いていないので、心許なかった。  洞穴に落ちたか。  現状を自覚すると、外側からカイの心と体を侵食しようと渦巻く濃い闇の空気に敏感になり、肌が粟立った。自覚なく、あるいは望んでこんな所に居座っては、あっと言う間に闇に飲み込まれてしまいそうだ。かつてのユベールのように。  神の子が魔獣の眷属と化すなどと、笑い話にもなりはしないだろう。カイは気を張り、闇を跳ね除けようと集中しながら、上体を起こした。あちこちぶつけた場所を左手でさすりながら、取り落としかけた剣を再び握りしめ、外を覗く。薄い光の向こうに見える空の優しい青が、正気を保つ手伝いをしてくれるようだった。 「カイ様!」 「カイ様!」  外から穴の中を覗き込む影がいくつか見えた。何人もが、労りを込めてカイの名を呼ぶ。 「大丈夫だから、お前たちは入ってくるな。魔物の相手をして、アストたちを守ってやってくれ」 「ですが、カイ様はもしやおみ足を」 「やめろ!」  足を踏み入れようとする若い聖騎士を止めるため、カイは声を張り上げて叫ぶ。 「入り口付近とは言え外と中では、闇の濃さがまるで違う。お前たちでは簡単に闇に飲まれるだろう。救助に来た者に殺されてはたまらない。はやく戦いに戻れ」  早急に相手の足を止めるため、遠慮せずに冷たく本音をぶつけると、入り口付近に集まっていた影は、戸惑いを見せつつも、カイの言葉に従って解散した。ほぼ同時に穴の向こうが騒がしくなったので、魔物の襲撃が激しくなったのかもしれない。  カイは立ち上がる前に、自身の左足を見下ろした。右足と比べて倍近くまで膨れ上がったそれは、見慣れた自分の体ではないようだった。小さな傷だけでここまで酷くなる事は考えられないので、魔物の牙に毒があったと考えるのが妥当だろう。カイは、この程度の毒ですんだのが幸いだと思う事にした。  さて、どうやって外に出よう。カイは乱れた息を整えながら考えた。見た目同様に痛みが酷く、強い熱を持ちはじめている。このままではまともに動けそうにない。  先ほど聖騎士たちに告げた言葉に嘘はなかった。ゆえに、洞穴から出るために誰かの手を借りる事はできない。だが、這って外に出るには、緩いとは言え坂道である事と、毒が全身に回る可能性が、大きな障害だった。時間をかければなんとか外に出られるだろうが、封印が完成する前に間に合うだろうか?  カイ個人の生存本能や人としての尊厳を差し引いても、地上の未来を考えれば、洞穴の内側に閉じ込められるわけにはいかなかった。いや、そもそも、聖騎士たちはカイを見捨てる事を良しとしないだろう。カイが外に出なければ、封印の完成を阻止し、今回の戦いそのものを無駄にしてしまうかもしれない。よりによって自分自身が皆の足を引っ張るのかと思うと、頭が痛かった。 「仕方ない」  カイは諦め混じりに呟きながら、残った選択肢を迷わず選んだ。あまり好ましい選択ではなかったが、迷惑をかけるよりはずっとましだった。  カイがとった行動は、ただ静かに念じるだけだ。それだけで、腫れあがった足を優しい熱で包み込む力が生まれた。力は微かな光として目に見えるものだったが、瞼を伏せたカイには見えなかった。  光はすぐに消え失せる。同時にカイは目を開けたが、それは力の消失と連動したものではなかった。一時的とは言え視覚を閉ざす事で、研ぎ澄まされた聴力が、小さな音を捉えたからだ。  カイは自然な動作で立ち上がった。左足の腫れも、体に纏わりつくような熱も、魔物の牙が残した小さな傷も、カイの身を脅かす全てが失われていた。  光に背を向けたまま、音を立てないよう、後退する形で歩き出した。途中、左右の足にかかる重さが違う不安定感に耐えきれず、右足の脛あてを外して捨てたが、その作業中でも前方に注意を払うのを忘れなかった。  洞穴の奥に何かが居る。少しずつ、少しずつ、這うように進む重い音は、徐々にカイに、入り口に、近付いて来ている。  悪い予感がした。いや、もはや、予感ではなく確信だった。毒による微熱は下がっているはずだが、カイの額には汗が滲みはじめていた。  するように下げた左足が、小さな水音を立てる。恐る恐る足元を覗き見ると、小さな血だまりができていた。すぐ近くには、先程対峙した角を持つ魔物の死骸が。  大量の魔物が集う洞穴の入り口。洞穴の中に漂う、只人など簡単に飲み込めるほどの、濃い魔の気――ああ、考えてみれば、至極単純な事だった。どうしてもっと早く違和感を覚えなかったのか、答えに気付かなかったのか。カイは自身の愚かさに呆れていた。  魔獣の気を求める魔物たちが、なぜ入り口付近に集まっていたのか。中にはもっと質の良い餌があると言うのに、なぜ入ろうとしなかったのか。答えはひとつだ。入れなかったのだ。魔物たちですら身の危険を感じるほどのものが、洞穴の中に存在していたから。それはおそらく、魔獣の力を糧とする仲間でありながら、魔物たちに畏怖される、より上級の――  光が届かない闇の向こうで何かがうごめいた。直後、空気の流れが変わった事に気付いたカイは身構えた。剣を構えたわけではない。届く距離ではないからだ。ただ、いかなる攻撃が来ようとも自分の身を守ろうと決意し、集中した。  薄い光がカイの全身を包み込む。やや遅れて、魔物と思わしき生き物の掠れた声が洞穴内を響き渡り、天井を伝わり炎が進んできた。避けきれるものではなく、炎は道の途中に立つカイの上半身を丸ごと飲み込んだ。 「カイ様!?」  カイは倒れなかった。業火によって皮膚が焼かれる痛みには苛まれたが、ほぼ同時に、火傷を癒す力が働いたからだ。炎が消えた時、カイの服は焼け焦げ、鎧は熱を持ったままだったが、カイ本人はまるで何事もなかったかのように、道の真ん中に立っていた。  カイは入り口に振り返る。カイの名を呼んだ聖騎士の影がそこに見えた。戦いに戻れと言ったはずだが、心配で見守り続ける者も居たと言う事か。 「見ただろう。俺は大丈夫だ。俺だからこそ大丈夫なんだ。判ったら、そこを離れろ」  鋭く言い捨て、カイは炎を出した生き物に向き直った。  魔物はすでにかろうじて光が届くところまで歩みを進めていた。進行の邪魔をする障害物を焼き尽くしたつもりだったのだろう、道の途中にカイが居る事に気付くと、色濃い動揺を乗せた呻き声を吐き出した。  逆の立場を想像したカイは、鼻で笑う。動揺して当然だなと思いながら、魔物の気持ちに同調する自身が、やや滑稽に思えたからだ。 「焼き尽くして排除しようとしたくらいだ。俺を喰らうために出てきたわけじゃない、だろうな」  問いかけに近い言葉でカイが独白すると、魔物は毛を逆立て、鋭い爪を地面に食い込ませながら、低く唸った。 「封印に感付いて外に出てきたか、封印そのものを阻止するつもりか」  どちらにせよ、させるわけにはいかなかった。目の前の魔物が吐く炎は、普通の者ならばまず耐えられない。聖騎士たちの優勢は簡単にひっくり返り、逃げ遅れた全ての者が、その身を焼かれる事だろう。やがて魔獣の気によって更なる力を得た魔物は、ザールやその先まで辿り着き、更なる命を焼き尽くすかもしれない。  カイは背後を覗き見た。洞穴を包み込む光の力が増し、入り口を塞いでいた光の膜が、扉の形を取りはじめていた。 「悪いが時が来るまで、魔獣と共に引っ込んでいてくれ。時が来れば、アストが魔獣と一緒にお前も消してくれる」  カイは剣の柄を両手で強く握りしめた。柄も熱を持っていたが、全身に張り巡らせた力が、痛みを相殺してくれた。  すぐに治るとは言え、痛みを一度は味わう。常に力を保ちながら、闇に飲まれないよう気を張るのも忘れてはならない。時の流れの緩やかさに似合わず、カイの精神は急激に磨耗していくが、耐える以外の道はなかった。  魔物が大きく口を開く。飛びかかってくる様子がない事から、再度炎を吐こうとしていると察したカイは、魔物に素早く駆け寄り、開かれた口に強烈な一撃を食らわせた。  他の魔物と同様に硬い皮膚を持っていたが、口の周辺は若干柔らかいようで、魔物の口が少しずつ裂けていく。吐き出された炎の中に、魔物の奇声が混じった。  炎の中で剣を片手に持ち直したカイは、更なる一撃を加えながら、腰に差していた短剣を手探りで探した。鞘も剣帯も、皮で作られた部分は半分近く燃え落ちていたが、一部に金属を使っていた事が幸いし、手を伸ばした近くに短剣があった。  カイは短剣を手繰り寄せ、逆手に持つと、魔物の口の中から喉へと押し込んだ。  魔獣の体が仰け反る。叫び声は、空気だけでなく洞穴中を震わせた。  炎が消え、残った熱気の中で、カイは再度剣を両手に持ち直し、地面を強く掴む魔物の足に狙いを定めた。全ての力と、勢いと、自身の体重を込めた一撃は、魔物の足を貫き、地面に届く。カイは最後まで力を抜かず、鍔が魔物の足に接触するまで埋め込み、魔物を地面に縫いつけた。  あとは剣を手放し、一目散に駆けるだけだった。顔だけ振り返り、魔物の様子を確認しながら、カイは入り口に向けて疾走した。  魔物は暴れたが、その場から動く様子はない。カイはひと息吐き、洞穴から飛び出す。 「カイ様!」 「近寄るな。俺にも、洞穴にもだ」  周囲の魔物の殲滅はほぼ終わっていた。カイは安心して洞穴に向かい、視線を落とす事ができた。  封印の扉が完成に近付くにつれ、魔物を封じ込める瞬間が近付く事に安堵する一方、視界が霞み、魔物の現状の把握がし辛くなる事に、一抹の不安を覚える。  錯覚だと判っていたが、時の歩みが遅く感じはじめていた。魔物のその場で暴れ回る様子も、寝返りをうつかのようにゆっくりしたものに見えていた。吐き出された炎も、子供の歩みよりもゆったりと、カイの目の前に迫った。  熱風がカイの頬を撫でたが、炎は外まで届かなかった。ようやくカイは、勝ち誇った笑みを浮かべる。もう大丈夫だ。魔物はもうすぐ見えなくなる。  熱風よりも鋭く、魔物の咆哮が飛び出してきた。ほとんど完成した扉の向こうで、魔物の体が浮いたように見えた。  魔物は力一杯暴れる事で剣を弾き飛ばし、足の自由を取り戻すと、恨みがましく叫びながら、カイを目指して前進する。カイは慌てて腰に佩いた剣を探した。確かもう一本、短剣が残っているはずだ。短剣一本でどこまでできるか判らないが、やるしかない。  正面から見える場所で一番柔らかそうな場所を狙い、カイは短剣を投げつけた。狙いは寸分違わず、カイの短剣は魔物の眼球に突き刺さり、魔物は呻く事でいくらか歩みを止めた。  目の前で光が溢れた。強い光だが、目を覆う事も、目を伏せる事も、カイには必要なかった。  光が消失すると、カイの目の前には扉が現れていた。繊細な装飾が施された、見た目は鉄だがただの鉄とは比べものにならない強度を誇る金属製の扉が、洞穴の入り口にできあがったのだ。  終わった。封印は、完成したのだ。  カイは深く長い息を吐きながら、その場に膝を着いた。 13  特殊な光が辺りを包んだのは、ハリスが元の持ち場に戻ってきた瞬間だ。  目を腕で覆い隠し、しっかりと目を伏せても、両目が受ける衝撃を防げない。ハリスはしばし視力を失い、その場に立ち尽くす。  戦場の中で目が見えないとの状況にありながら、ハリスに不安はなかった。光は、アストとリタが儀式をはじめたばかりの時に溢れ、聖騎士たちを優位に導いた光と同じものだと、感覚で理解したからだ。おそらく封印の完成と共に放たれた光は、先ほどと同様に、地上の民を優しく守る事だろう。  ただ一点、すぐにでも確認したい事を確認できない事実だけが、ハリスの心を駆り立てた。洞穴に落ちたカイがどうなったのだろう。もし落ちたままであれば、封印か完成する事によって、洞穴の中に閉じ込められてしまったのではないだろうか。  ハリスは視力を取り戻すまでの時を、不安や苛立ちを抱きながら待った。やがて薄目を開けられるようになると、狭いハリスの視界に、洞穴の入り口に出来上がった扉と、扉の前に立つ男の背中が映った。  あの立ち姿は見間違いようがない。紛れもなく、カイその人だ。  封印の前に洞穴から出られたのだと、ハリスは一瞬安心しかけたが、一瞥し、けして安心できるものではないと知った。カイの状態は遠くから見ても判るほどに酷いものだったのだ。上半身の服は大半が焼け焦げており、壊れたのか自ら捨てたのか、鎧が一部失われている。それらに比べれば可愛いものかもしれないが、足元には血の染みが広がっていた。 「カイ様!」  ハリスは名を叫びながら主に駆け寄った。  しかしいざ近寄ってみると、カイの体に全く傷が見つからなかった。事態を瞬時に把握できなかったハリスは、延ばしかけた手の行き場を失い、立ち尽くす。  身に付けた服や鎧をここまで痛めながら、身体には傷ひとつ残さない芸当が可能な人間が居るとは思えない。可能だとしても、戦場においてそのような事をする必要性がないだろう。ならば、一度は傷付いたが、すでに傷を癒したと考えるべきだろうか。  瞬時に傷を治せる人物がこの場に存在するのだと思い出したハリスは、リタの姿を探す。だが、リタは封印をはじめた時から一歩も動いておらず、疲れきった様相で肩を落としていた。  封印以外の事に力を割いた様子は見えなかった。それは勝手な思い込みかもしれないが、ハリスにとって確信だった。ではどうしてと疑問に思いながら、上手く言葉にできないままカイを見下ろすと、カイは深く息を吐いてから、ハリスに向き直る。 「望むだけで治るんだよ。俺の体の傷は」  笑っているのか困っているかも判断しにくい複雑な表情が、正直に語る事は本位でないと物語っていた。だと言うのに、ハリスが訊ねるよりも前に真相を語りはじめたのは、晒してしまった明らかに不自然な様相を、ごまかす言葉が見つからなかったからだろう。 「言っただろう。俺は死なないって」 「私は――」  シェリアやリタやアストの力を目の当たりにしてきたハリスにとって、新たに明らかになったカイの力は、エイドルードが自らの血族に与えた奇跡のひとつと考えれば、驚くほどではないものだった。しかしハリスは確かに驚いて、しばらく言葉を失った。 「もっと違う形でと、思っておりました。そう、エイドルードは運命によって、貴方をお守りしているのだと」  言葉の自由を取り戻したハリスは、正直な告白に応えようと、正直な言葉で返す。すると、カイは皮肉混じりの幼い笑みを浮かべた。 「エイドルードがそこまで万能だったら、俺はジークの元で育たなかったし、リタだって魔物狩りにはならなかっただろうさ」  冷たい言葉は、自身やリタの生い立ちを呪っているようにも聞こえたが、違うのだとハリスは理解していた。目の前の青年が、ジークと名乗った男と過ごした日々を、呪うわけがないと知っていたからだ。 「エイドルードは地上の民から見れば絶対的な力を持っていたが、それでも、本当の意味で運命を定めるほどの力は持っていなかった。ただ理想の運命を考えて、理想を叶えるのに必要な力を、理想を叶えるのに最も相応しいと思う者に押し付ける、それだけの存在だった」  エイドルードを軽視するカイの発言に、色々と思うところはあったが、ハリスは何も言わなかった。 「俺はエイドルードが理想とする運命を辿るために必要な存在だから、簡単に死なれたら困るからと、こんな力をよこしたんだろう。最強の魔物狩りジークや、聖騎士たちに守られる中では、必要の無い力だったがな。はっきり言って、役に立ったのは今日が初めてだ。意味のない、無駄な力にならなくて良かった」 「なぜ、今日まで隠されたのです」  深い意味がある事で、はぐらかされるかと覚悟していたハリスだが、答えは意外なほどあっさりと返ってきた。 「言いたくなかったからだ。エイドルードがわざわざ残した力が、自分ひとりだけしか助けられない、しょうもない力だった、なんてな」  皮肉混じりの笑みに言葉通りの照れ臭さを付加しながら、カイはハリスから目を反らす。  だが、ハリスはけしてカイから目を反らさなかった。どうしようもない力だと言うカイに反し、ハリスは別の、神の意図を感じとったからだ。カイはつい先程、自分で言ったではないか。エイドルードは、理想を叶えるのに必要な力を、理想を叶えるのに最も相応しいと思う者に押し付ける、と。 「エイドルードは、リタ様より、アスト様より、カイ様の生存を最優先している、と言う事でしょうか」  思いついた事を率直に口にすると、カイは顔を反らしたままの状態で目を伏せた。  返答は無い。この沈黙を、肯定として受け取るべきだろうか? 「考えすぎだ」  しばし間をおいて紡がれた短い言葉の中に、否定の意味を見つけたハリスは、身を包む緊張を僅かに解した。 「皆が果たすべき役割を果たさなきゃ、地上が辿る運命はひとつだ。俺だけ生き残れば良いって話じゃない――そうか、さっきは言い方を間違えたんだな。エイドルードは、死なれたら困る者全てに、こんな力を与えたわけじゃないのだから。俺がこの力を持っているのは、おまけみたいなもんだと思えばいい」 「おまけ?」 「さっきも言った通り、エイドルードは俺たちにそれぞれ役目と、役目を果たすために必要な力を押し付けた。力なんていくらあっても困らないが、残念な事に俺たちの体は、地上の民と変わらない。だから、限界ってものがある。アストは、必要な力だけで限界だった。リタとシェリアは、結構な余裕があったから、色々と便利な力を貰えた。でも俺は中途半端だったんだろう。少しだけ余裕があったから、意味があるのかないのか判らないような、しょうもない力がおまけについてるんだよ」 「意味はございます。エイドルードの、偉大なるお力です」  ハリスが言うと、カイは鼻で笑った。 「誰ひとり救えない神の力に、意味を見出せと言われてもな」  自嘲ぎみの冷たい瞳に見据えられ、ハリスは会話を切り上げた。会話ひとつ上手くできないものだなと、ひとり自虐気味に笑いながら、カイが咄嗟に目を向けた方向を見つめる。  光の剣を手にしたアストが立っていた。空に向けていた目を閉じ、俯くと、儀式の間中少年の体を包み込んでいた淡い光が、急に輝きを失った。  小さな体がよろめく。カイは咄嗟にアストに駆け寄り、土の上に倒れ込む前に体を受け止めた。 「アスト」  カイは優しく息子の名を呼び、軽く体を揺すったが、アストの目は固く伏せられたままだった。  外傷はどこにも見当たらないので、疲労によって気を失っただけだろう。小さな子供に倒れるほど重い使命を強制しておきながら、安堵する事はおかしいと思いながら、やはりハリスは安堵し、目を細めてアストを見下ろした。 「少しの間、アストを頼む」  カイに乞われるまま、ハリスは腕を伸ばす。濃い疲労を浮かべるアストの寝顔は、とても安らかには見えないが、せめて存分に休んでもらおうと、優しく抱きとめた。  アストのそばを離れたカイは、役目を終えた鞘へと歩み寄り、地面から引き抜いた。纏わりついた土を払う手付きは、相変わらず優しいものだった。  風の流れが変わる。ハリスは顔を上げ、カイは振り返った。封印は完了したが、魔物たちが消えたわけではない。剣を喪失したカイは、迷う事なく鞘を構え、応戦の意志を見せた。  しかし、カイと魔物が接触するよりも、聖なる雷が魔物の体を打ち抜くのが速い。振り返ると、勝気な笑みを浮かべたリタが、魔物へ向けて白い腕を伸ばしていた。 「洞穴の封印は完成した。即座に撤退の準備を」  アストの眠りを妨げないよう、落ち着いた声で周囲の聖騎士たちに指示すると、彼らはハリスの意志を全ての者に伝えるために散開した。残って魔物たちの足止めをする役の者たちは、勇猛に魔物たちに向かい、アストたちを護衛し真っ先に後退する役を追った者たちが、ハリスの周囲に集まりだす。  人の輪を押しのけてカイの姿が現れた。カイはアストの腕を掴み、アストが握りしめている光の剣を、苦戦しながら鞘に納める。  ひと息吐き、立ち上がったカイの手から、鞘を奪い取る手があった。  伸ばされた手の主が誰か、ハリスの位置からは見えなかったが、アストが眠っている今、カイの手から平然と鞘をもぎ取れる存在は、ひとりしか居ない。 「リタ」  カイが名を呼びながら振り返ると、リタは鞘を肩に担ぐ。 「今は荷物持ちはいらないぞ」 「知ってるわよ」 「じゃあ何のつもりだ。当初の予定通り、おとなしく撤退しろ」  首を振る動きに合わせて、金色の髪が細かく振るえ、輝いた。 「そうするつもりだったけど、今の様子を見たら、ちまちま戦いながら後退するより、相手を全滅させた方が手っ取り早い気がするのよね。だから私、とりあえず残ろうかと思って」 「正気か」 「正気よ。思ってたより余力あるし。いざと言う時に身を守るために、シェリアを貸してもらえれば完璧かなって」 「駄目だ」  カイは慎重な手付きで、鞘に手を伸ばす。 「人の妻を勝手に便利な道具扱いしないでくれ」  優しい声だった。優しいからこそ震えるほどに冷たい言葉で、鞘を受け取る静かな動作は、奪い取るように乱暴に見えた。  シェリアであったものを介して触れ合ったふたりの間に走る緊張。過去を知るがゆえにか、敏感ゆえにか、気付いてしまったハリスは、一瞬だけ固く目を閉じた。 「ごめんねと言っておくわ。特別な道具扱いしている貴方に言われるのは癪に障るけど」 「それはもっともだな。俺も、すまんと言っておく」  リタは勝気な微笑みを見せる。あたかも、謝らせた事に満足したかのように。  だが、真実は別のところにあるのだと、気付いている者はいくらか居た。それは緊張に気が付いたハリスや、同様に察したジオールであり、リタ本人や、笑みを投げかけられたカイでもあった。 14  大粒の汗が白い肌を急ぎ足で滑ると、地面へと零れ落ちていく。土は湿る事で一瞬だけ色を濃くしたが、すぐに水分を吸収し、他と変わらない色へと戻った。 「リタ様。何度も申しますが、無理はなさらないでください」  リタの手から放出していた光は、リタの目の前に横たわる男の傷を治しきるよりも前に消えた。それでも、太腿の肉を食い破って外へと飛び出した骨は正しい位置に収まり、出血や痛みがなくなった事で、男の顔色は明らかに良い方へと変わっていた。 「私だって限界は弁えてるわよ。全員治そうなんて思っていないし、全部の傷を治そうとも思っていないもの」 「骨の一、二本折れたところで人は死なないとも、理解していただけると助かります。この程度でしたら、彼らにとっては名誉の負傷、言わば勲章代わりです。リタ様のお手を煩わせる方が辛いのですよ」 「そんなものなの?」と目の前の聖騎士に訊こうとして、やめた。聞いたところで、リタに正直な想いを答えてくれる聖騎士など、そうそう居ないだろう。正直にものを言うジオールの言葉を丸ごと信じた方が、よほど信憑性がある。  リタは自身に残された力を計り、望まれようと望まれまいと、これ以上無差別に治すのは無理だと悟ると、大人しく立ち上がった。ジオールに従っているようで気に入らなかったが、無言で彼の隣に並び、歩きはじめる。 「でもね、小さな怪我で死ぬ人も居ると思うのよ」 「ほう」 「だから、名誉の負傷とか言われても、できる限り放置したくないのよね。若ければ治りも早いだろうけど、違うし」  リタはジオールの腹部に手をかざし、小さく唱える。最後に残った力は、リタの持つ全ての力の前には僅かと言えるものだったが、ひとりの人間が鎧の奥に隠した負傷を癒すには充分だった。  最後の光が消えると、ジオールは自身の腹に手を置いて、リタに小さく微笑みかけた。 「お気付きでしたか」 「貴方が歳を取るごとに意地っ張りになってる事くらいはね。あの程度の魔物たち相手に怪我した自分が不甲斐ないとか思った?」 「多少は思いましたが、歳を取る事で痛覚が鈍った事が一番の理由かと」 「それが意地っ張りだって言うのよ」と言ってやるのも面倒で、リタは肩を竦めながら顔を反らした。 「まだまだ引退できないと思うなら、自分の体を労わりなさい」  リタは鎧を軽く小突くと、小走りでジオールのそばを離れた。ジオールが隊の現状を細かく確認するために様子を見て回っている事は知っていたが、それに付き合う気力も体力も残っていなかったのだ。  リタは自分たちのために用意された休憩場所に戻った。用意されたと言っても、所詮は露営だ。しかも、宿泊する予定はないため、他よりも柔らかで平らな土の上を選び、上等な敷物を敷いてあるだけである。  敷物の中心に、折りたたんだ毛布を枕代わりにしたアストが横たわっていた。その傍らには当然、カイが腰を下ろしている。  カイは時折、静かな寝息を立てる息子の髪を撫でていた。大きさの割りに繊細な手つきに、途方もない愛情を込めて。  疑いのない強い愛情の奥に隠れる苦痛が見て取れた。他に手がないからと、誇り高い役割だからと、言い訳じみた慰めはあっても、結局のところ子供を酷使しているだけとの事実に、思うところがあるのだろう。 「ちっとも変わってないのね」と、嫌味っぽく言い捨ててやりたい気分を必死に押さえ込んだリタは、アストの足元付近に腰を下ろした。カイとは、アストを間に挟んだ配置になる。  カイは当然リタの帰還に気付き、一度はリタを見たが、それだけだった。慈愛を込めた眼差しを、息子に捧げ続けている。 「ねえ、カイ」  抱えた膝に顔を埋め、何も見ないようにしながら、リタはカイの名を呼んだ。返事はなかったが、気配の変化を肌に感じる。リタを見てくれたか、少なくとも、意識は向けてくれたのだろう。 「ずっとね、貴方に訊きたかった事があるの」 「ずっと、か」 「うん。ずっと。具体的に言うなら、十年くらい」  空気が少しだけ張りつめた気がした。  カイは察しただろうか。リタがこれから口にしようとしている質問の内容を。察する事で、動揺したのだろうか。  もしそうならば、リタにとって嬉しい事だった。少なからず動揺できる程度に、引きずっているのだとすれば。 「今の貴方が、他の誰よりも多くを知っているのは判ってる。選定の儀の晩に、エイドルードから言葉を得たって事も人伝に聞いた。その上で私が訊きたいのは、ある運命についてよ」  リタは膝から顔を離した。  明るくなった視界には、少し離れた場所でせわしなく動く聖騎士たちの姿が映る。それから、寝転がるアストの足や、脱いだっきり放り出されたままの靴。カイがどんな顔をしているのか確かめるには、まだ勇気が足りなかった。 「選定の儀の前に知っていたの? アストの母親となる人が辿る運命を」  知っていてシェリアを選ぶ事と、知らずにシェリアを選ぶ事。そのふたつの意味が大きく違う事は、誰にでも判る。  カイはあの夜何を選んだのだろう。先の人生を共に生きる相手であったのか、近い死別を内包しながらも今を共有したい相手であったのか――抗えない運命の犠牲にする相手であったのか。  リタは答えを知りたかった。知って、胸の中心に濃く広がる霧を晴らしたかった。選定によってカイの心にどのような変化が起こったのか。もしその変化に、激しい痛みを伴ったのだとすれば―― 「今更答えを知ってどうするんだ?」 「今更、ねえ」 「違うか?」 「違わない。ただ、私の問いに答える前に新たな問いを重ねてくる貴方の態度が気に入らないだけ」  リタはからかうように小さく笑った。 「いいわ、答えてあげる。『今更どうもしない』わよ。今の私には、貴方の答えが何であろうと、関係ないもの。貴方の言葉に何の意味もないからこそ、単純な好奇心で訊けるんじゃない」  ひと息で言い切り、深呼吸をすると、リタはカイに振り返った。  突然目が合った事に驚いたカイが、細めていた目を急に見開く。息を飲み、無言でリタを見下ろす様には、リタが知る少年の頃のカイの面影が強く残っていた。 「私にだけ答えさせるなんて、卑怯な真似はしないわよね?」  カイは固く目を伏せ、僅かな困惑とためらいを見せた後、真摯な眼差しをリタに向けた。 「その時は知らなかったよ」  乾いた声が、リタの問いに簡潔に答える。 「俺の妻になる人が辿る運命を、エイドルードは教えてくれなかった」 「だからこそシェリアを選んだんだ」と、「知っていたら君を選んだ」と、残酷な言葉をあっさり吐きだしそうな口調でカイが言った。昔の事を穿り返すリタを責めるような、呆れ混じりのため息と共に。 「そう」  だからリタは、「それは良かった」と軽く続けても違和感のない、淡白な相槌を打った。  長い間、ふたりは無言で見つめ合っていた。リタには何の意図もない。体が自由に動かせず、目を反らせなかった、それだけだ。  全てを笑い飛ばしたいのに、唇を動かす事すらできない自分自身に、リタは腹を立てていた。答えに意味がないなどと、よく言えたものだ。こんなにも心を揺らして、無様な姿を見せていると言うのに。  時間をかけ、ようやく詰まっていた息を吐き出したリタは、意志によって体を動かせるようになった。真っ先にした事はカイから顔を反らす事で、次に選んだ行動は素早く立ち上がる事だった。 「どうした?」 「少し休んだらだいぶ楽になったから、また行ってこようかと思って。何人かは治せる気がするから」 「そうか。気を付けてな」  労りの言葉は嘘臭く感じるほど気楽で、けれど本当に労わってくれている事が判った。振り返る事なく強く肯いたリタは、乱暴なほどに強く大地を踏みしめながら、カイを背中の向こうへと遠ざけていく。  俯きながら歩くうちに、目頭が熱くなっていったが、気付かないふりをした。顔を上げられないぶんしっかりと足元を見て、聖騎士たちにぶつからないよう気を付けて突き進む。何度か呼び止められた気がしたが、無視をした。足を止めたところで、何もしてやれないのだ。力が戻ったなどと、あの場を離れるためだけの方便でしかないのだから。  やがてひとりの聖騎士が現れ、リタの進行方向を塞ぐように立ち止まる。リタは逃げ道を失い、聖騎士の前で立ち尽くした。  顔を上げて確かめなくとも誰だか判った。ジオールだ。ご丁寧に、リタの顔が他の聖騎士たちから見えない位置にさりげなく立っている。妙な所に気が回る男だと思いながらも、他に甘えられる場所が見つからず、リタは両手で顔を覆うと、我慢する事をやめた。  溢れる涙が両手を濡らし、その熱さに驚いた。とめどなく流れる感情は、こんなにも熱いものだったのか――自分はまだ、カイのせいで泣けるのか。 「カイ様に……?」  リタは涙を拭わず、震える声で答えた。ジオールには十一年前にもさんざんみっともない所を見られている。今更隠す気にはならなかった。 「ええ。訊いたわよ。訊いたらしれっと、『知らなかった』って言われた。それでこのざまよ。情けない」 「カイ様が素直に真実を言葉にされたとは」  リタは強く首を振り、ジオールの言葉を遮った。 「嘘とか本当とかは、関係ない。どっちだってよかった。私はただ、『知っていた』って言って欲しかっただけなんだから。それで、シェリアを殺した罪を共有したつもりになって、納得したかっただけなのに……」  自身に失望したリタは、声を飲み込む。  質問を投げかけたのはリタで、答えを出すのはカイだ。カイがどのような答えを出すか、リタが決める権利などどこにもない。それを判っていながら、勝手に答えを期待し、期待に沿わない答えが返ってきたから泣くなどと、あまりにも情けなさすぎる。  いつからこんなに弱くなったのだろう。  リタは嗚咽を飲み込みながら、己の内に問う。  明日の事ではなく過去の事ばかり考えるようになったのは、いつからなのだろう―― 15  耳に届くのは、聞き慣れたふたつの心地良い声。  離れようとしない上下瞼の固い意志に逆らえず、アストはまどろみながら、枕元で交わされる会話を聞く。半ば閉じかけた意識では、温かみのある声の主が父カイであり、柔らかな声の主がザールの領主ルスターである事を理解するまでに、ずいぶんと時間を必要とした。  どうしてふたりは朝から俺の部屋に居るんだろう。  アストは疑問に思いつつも、とりあえず朝の挨拶を先にしようと考えた。しかし、思い通りに声が出ず、愕然とする。慌てて何度か挑戦するうちに、少しずつ判ってきた。声が出ないのではなく、口が動かないのだと。  動かないのは口だけではなかった。重りが乗っているのか、あるいは見えない誰かに押さえつけられているのではと疑うほど、体の自由がきかなかった。起き上がるどころか、腕を持ち上げる事すらできない。ならばせめて目を開けてみようと考えたが、瞼は重く、なかなか思い通りにいかず苛立つばかりだった。  ようやく薄目を開けたアストは、鈍い動きで何とか首を傾ける。頭の重みを利用して横を向くと、天井の白さだけが際立つ視界が変わった。新たに目に入ったのは、寝台のそばに置かれた椅子に腰掛けるカイと、父の傍らに立つルスターの姿だ。  横を向いた勢いで、頭が枕から転げ落ちた。引きずられて体が動くと、衣擦れの音がする。  カイとルスターの声が止んだ。ふたりは会話を止め、同時にアストを見下ろした。 「目が覚めたか」  父の声はいつも優しいが、今日は特別優しい気がして、アストはくすぐったく感じながら応じた。 「おはよう、父さん。ルスターさんも、おはようございます」  まだぎこちない動きしかできなかったが、どうにか硬直状態から解放されたアストは、かすれ気味とは言え声を出す事に成功する。安堵したアストは存分に息を吐き、浮かれた勢いで無理矢理上体を起こすと、父と目を合わせた。 「おはよう、アスト」 「おはようございます」  少し間を開けてからアストに応えるふたりが、驚いているようにも見え、アストは窓の外を見た。おはようとの挨拶が不似合いになる時間まで寝過ごしてしまったかと疑ったからだ。  しかし太陽はさほど高くは昇っていなかった。いつもの朝より若干高い位置にあるので、多少寝坊した事は間違いないようだが、異常と言えるほどではなさそうだ。 「俺、変な事言った?」 「いや、別に」 「あ、そうだ。父さんたちはどうして俺の部屋に居るの?」  最初に抱いていた疑問を思い出したアストは、矢継ぎ早に問いを投げかけた。 「は?」 「急ぎの用があるわけじゃないよね? だったら起こすだろうし」 「お前、何も覚えてないのか?」  両手で挟み込むようにアストの頭を抑えたカイは、至近距離からアストの目を見る。空色の瞳は真剣で、冷静を装いながら、やや落ち着きのない動きでアストの意識を捉えた。  カイが見せるあからさまな動揺が、視線を交わす事でアストに移り、湧き上がる不安は、アストの記憶を刺激する。  疲労が塞き止めていたものが、次々と蘇ってきた。多くの聖騎士に守られて向かった北の洞穴や、初めて振るった光の剣、なぎ倒されていく魔物たち、たどたどしく紡いだ封印の呪文。体の中から溢れる熱い力と光によって、自分はやはりエイドルードの血族なのだと、本当に救世主なのだと、自覚せざるをえなかった――ところで、アストの記憶は途切れている。 「何で俺、部屋で寝てるんだ!?」  咄嗟に叫ぶと、カイは緊張に満ちた表情を解した。 「そうそう、それでいいんだ」 「良くないよ! 俺、儀式の途中から記憶がないんだけど! 封印は!? 魔物は!? 皆は!?」 「こら。少し落ち着け」  掴みかからん勢いで身を乗り出すアストの肩を、父が優しく叩いてくれた。興奮に乱れた呼吸がいくらか整い、アストは浮いた腰を寝台に戻す。  父は柔らかな微笑みを浮かべ、アストの頭を撫でた。 「お疲れ様、アスト。よくやってくれたな」  捻りのない、素直にアストの心に浸透する賞賛は、アストの努力が望んだ結果に繋がった事を教えてくれた。 「封印は成功だ。昨日今日と様子を見た限り、魔物も弱体化して、結界の外側にいくらか押し戻せたと考えて問題ないだろう」 「じゃあ」 「ユーシスの屋敷も安心だ」  アストは父の言葉を、頭の中で三回繰り返した。嬉しすぎて回転が鈍った頭では、そうしなければ理解できなかったからだ。  理解すると居ても立ってもいられなくなり、毛布や枕を投げ飛ばす勢いではしゃいだ。父は再度「落ち着け」と言ったが、今度は従う気になれなかった。 「そうだ! 俺、ユーシスの所に行ってくる!」  ひとしきり騒ぎ、肩で息をするようになった頃、寝台の上に立ち上がったアストは、胸を張って宣言する。 「今からか?」 「うん。この事、ユーシスに教えてやらなきゃ」 「お前が丸一日以上寝ていた間に、伝えてあるぞ」 「そうなの? でも、俺の口から言いたいし」 「気持ちは判るが……」  カイは腕を組み、難しい表情でいくらか考え込んでから続けた。 「とりあえず、今日一日くらいは休んだ方がいいんじゃないか。お前は儀式の直後に倒れたっきり、今までずっと眠っていたんだ。お前の身体にはそれだけの負担がかかっていたって事だろう」 「平気だよ。疲れなんてすっ飛んだから」  ついさっきまで体が動かなかった事などすっかり忘れ、アストは強く言い切った。 「だがな」 「あ、でも、さすがに腹減ったや。何か食べてから行こっと」 「おい、アスト」  寝台から飛び降りたアストは、もう父の声に耳を貸さなかった。体を心配してくれる事はありがたいと判っているが、欲求を阻止しようとする言葉たちが、今は煩わしかったのだ。  すぐにでも飛び出したい気分だったが、人目を浴びる立場にある事を熟知しているアストは、とりあえず着替える事にした。素早く身繕いを終えると、父親たちの存在を無視し、部屋を横切って扉に手をかける。  扉を開ける前に、両親の肖像画が目に飛び込んできた。  父親たちに見せるのは少し気恥ずかしいため、日課である母への挨拶は心の中に止めたが、母に良く似た人物の事を思い出すのは止められない。  アストは逸る気持ちを押さえ、部屋の中に振り返った。 「リタさんはどこに居るかな?」  頬杖をついて呆れ混じりの視線をアストに向けていたカイは、アストの質問に反応し、背筋を伸ばす。 「彼女は……」 「今朝、王都へ向けて発たれましたよ。最後にアスト様にご挨拶できず、残念だと言っておられました」  言い淀むカイの声に、ルスターの声が重なる。はじめから準備されていたかのように、淀みない答えだ。 「俺だって残念だよ! なんでそんなに急いで帰っちゃったのさ!」  アストは唇を尖らせ、意味が無いと判っていながら、父親やルスターに対して不満の意を表した。  リタと話したい事は沢山あったのだ。協力しあい、ひとつの大事を成し遂げた事。彼女が祝福を与えた、赤子の頃の自分の事。若かりし日の母や父の事。それから、王都での生活――彼女自身の事。問題が片付いたらゆっくり聞こうと決めていたのに。 「王都に急ぎのご用事を残しておられたのではありませんか?」  ルスターが立てたごく常識的な仮説を、アストは強く首を振って否定した。 「ないと思うな。どうしても自分がやらなきゃいけない事ないから来たって言ってたよ。大抵の事は大司教を代わりにすればいいとも言ってたし」  ザールに到着した日にリタが口にした言葉を告げると、ルスターは目を丸くした後、苦笑する。リタの発言に呆れたか、大司教に同情したようだ。 「なら、ザールに滞在したくない理由があったんじゃないか」  何も言えなくなったルスターに代わって父が立てた仮説は、他に考えられないとは言え、素直に納得できるものではなかった。 「そうなのかなあ」 「俺はここの落ち着いた町並みが好きだが、王都に住み慣れた彼女に合わなくてもしょうがないと思うぞ」 「王都に比べれば、ザールはただの田舎ですからね」 「いや、俺は、そんな事思ってませんよ」  慌てて取り繕うカイに、ルスターは優しく微笑みかけた。 「それも違う気がするなあ。前に呼ばれた時に来なかったのは、会いたくない人が居たからだって言ってたから。それって、ザール自体は嫌じゃないって事だよね?」  父親の困惑混じりの笑みと、ルスターの穏やかな笑みが、凍りついたように見えた。  何かまずい事を言ったかと不安になったアストは、ふたりの顔を見比べる。しかし表情は今まで通り、種類はそれぞれだが、自然な笑みを浮かべていた。 「じゃあ、何日か滞在するうちに飽きたんだろう」 「さほど楽しみのない田舎ですからね」 「だから、俺はそんな事思ってませんってば」  会話も調子も相変わらずだ。変化を感じ取ったのは気のせいだったのだと結論付けたアストは、扉にかけたままにしていた手に力を込めた。 「ま、帰っちゃったもんはしょうがないや。そのうちまた会えるんだよね?」 「もちろんだ」  肯く父の言葉は予言とも思えるほど力強く、どんな約束よりも信頼できるものだった。  ならば、楽しみに待とう。その時――リタと再び会える日が来るのを。できなかった沢山の話は、再会した時の楽しみに取っておこう。  アストは力強く扉を開け、部屋の外へと飛び出した。 16  乱暴に扉を開けたアストは、同じだけ乱暴な足取りで、通路を駆けていく。辿る通路は外に繋がるものではなく、食堂へ繋がるものだ。宣言通り、何か腹ごしらえをしてからユーシスの屋敷に向かうのだろう。  カイは扉に歩み寄り、顔を覗かせる格好で、走り去るアストの背中を見送っていた。万全ではない体でそんなに走って転びはしないかと、少しずつ遠ざかる小さな背中を目を細めて見守る。  思いの外しっかりとした足取りだ。安心して息をついたカイの脳内に、少年独特の高い声が勝手に再生された。しかも一度きりではない。何度も、何度もだ。まるでカイの心を抉り、流血を誘うように。 「大丈夫ですか?」  カイはルスターの声に振り返り、困惑を見せてから肯いた。 「すみません。忙しい中わざわざアストを心配して来てくださったのに、あいつと来たら」 「お気になさらずともよろしいですよ。私はアスト様のお元気な姿を拝見できただけで、充分なのですから」  ルスターの温かな言葉や微笑みに、いたたまれない気になり、カイは再度「すみません」と口にして頭を下げた。 「その上でカイ様のお元気な姿を拝見できれば、なお嬉しいのですが」  柔らかな口調がふいに確信を突き、カイは一瞬息を止める。  やはり誤魔化せるわけもないか。カイは俯く事で表情を隠し、ため息を吐いた。 「何があったのか、それなりに存じております。皆さん、ある程度事情を知っていながら、今は直接の関係者でないために多少距離を置いている私には、色々言いやすいようです。語らずとも、油断して表情に出される事もあり――さすがの私でも察してしまうと申しますか」  便利扱いをしているつもりはなかったが、間違いなく代表格は自分だと自覚し、カイは自嘲気味に笑った。 「リタもですか?」 「さすがにリタ様は」 「じゃあ、ジオールか」  ルスターは言葉で肯定する事も頷く事もしなかったが、変わらない笑みから、カイは肯定だと理解した。  リタと共に王都に残ったジオールは、十年以上の長きに渡り、リタに仕え続けている。きっとリタの感情を一番近くで受け取っているのだろう。選定の儀の後も、一昨日も。 「リタにとっての『会いたくない人』が、またザールの中にできてしまったんだろう、って思ってしまうのは、俺のうぬぼれですかね」  ルスターの微笑みが曖昧なものに変わった。 「いえ、知ってても知らなくても、答えなくていいです。考える事や感じる事に疲れるくらいには、堪えてますから」 「それでもカイ様は、考える事や感じる事を放棄されないのでしょう」 「今まさにリタの事を考えるのを放棄しようとしてたつもりですけど」 「つもりなだけでは?」  再びルスターの言葉に鋭く突かれたカイは、自身の胸を押さえる。乱れた気を落ち着けて、静かに、ゆっくりと呼吸を繰り返した。 「そうそう、ハリス殿にお聞きいたしましたよ。カイ様がけして役割半ばで亡くならないと断言された理由を」  ようやく落ち着いて息ができるようになったのを見越したように、ルスターが話題を変えたが、新たな話題もカイの心臓にとって優しいものではなく、カイはわざとらしく咳ばらいをした。 「ルスターさんは、さりげなく多くの情報源を押さえてますよね。実は一番情報通なんじゃないですか?」 「とんでもない」 「いいえ、絶対そうですよ。ハリスの事とか王都組の事とか、俺には判りませんからね」 「ですが私は、カイ様がご存知な事のほとんどを存じませんよ」  嫌味ですかと返事をしかけて、カイは必死に言葉を飲み込んだ。ルスターは嫌味のつもりで口にしたわけではないと、すぐに理解したからだ。彼が笑顔で語る、単純な真実を嫌味に感じてしまうのは、話を聞く方にやましい事があるからに他ならない。 「ハリス殿の味方をするわけではありませんが、カイ様がなぜこれまで隠されておられたのか、少々疑問に思います」 「何をです?」 「カイ様のお力の話です。事前に教えていただければ心構えも変わりますし、ハリス殿の負担は幾分軽くなったのでは、と思いまして」 「そうですかね? 俺が死なないからって、彼らの仕事は変わらないじゃないですか。後で治せるからいいやって、俺を放置したりはしないでしょう?」 「おっしゃる通りなのですが……いえ、守り手の感情はこの際置いておきましょう。なぜカイ様が秘密になさったのかが、私は気になるのです。カイ様のみご存知の他の多くとは違い、私たちが知ったところで、さほど問題はないように思えるのですが」  カイはルスターから目を反らし、再びわざとらしい咳ばらいをした。 「何と言えばいいのか。あえて言うなら、情けないと言うか、恥ずかしかったと言うか、そんな感じです」 「なぜです」 「アストやシェリアやリタの力と比べると、利用価値が低いと言うか、使えないと言うか、格好悪いじゃないですか。だから、どさくさに紛れて隠してしまおうと思って、十年以上も黙ってきたんです。今更言うにももったいぶった感じがしますし、もったいぶったくせにこの程度かよ、と思われる事は確実ですし」 「そのような事、誰も思いません。素晴らしいお力です」 「誰ひとり守れない力ですよ?」 「カイ様をお守りするではありませんか」  真剣な目で言い切られ、返す言葉に詰まったカイは、またも咳ばらいをして、椅子に腰掛けた。 「そんな台詞を嘘偽りなく即答できるのは、ルスターさんくらいですよね」 「そうですか?」 「そうです」  皆油断するわけだと妙に納得しながら、脱力したカイは、椅子のそばにある小さな円卓に肘を着き、重くなりはじめた頭を支える。  色々な事が馬鹿馬鹿しくなってきた。それがいい意味でなのか悪い意味でなのかは即座に判断できず、カイは深い息を吐き出す。 「色々、選び間違えたのかな」  アシェルの町でリタと出会い、トラベッタでシェリアと出会った時から、大きく変化した境遇の中で、重要なものから些細なものまで、繰り返された選択は数え切れないほどだ。その中から特に印象的な――僅かなりとも後悔が伴う――ものが頭から放れなくなったカイは、自問するために呟いた。 「いいえ」  ルスターには聞こえないように言ったつもりだったが、呟きに反応したルスターが首を振った。意外に耳聡いようだ。 「選択によって導かれた結果から逃げずに向かい合う限り、その選択は誤りとは言えないと、私は思います。ですからカイ様は、何ひとつ間違えてはおりませんよ」  カイはルスターに振り返り、小さく微笑んだ。 「ルスターさんって俺に甘いですよね」 「そうですか?」 「そうです。なんて、俺も人の事は言えないんでしょうけど。アストが飛び出したから、ルスターさんはもうこの部屋に用事なんてないのに、引き止めてすみません」 「いいえ。私が勝手にとどまったのですから」  カイの言葉で思い出したように、ルスターは礼をし、部屋を出て行こうとする。  扉を開くと同時に、通路を走る軽い足音が聞こえはじめた。かと思うと、小さな影がルスターの目の前を通り過ぎる。  アストだ。どうやら朝食を短時間で食べ終え、ユーシスの元に向かうらしい。 「お元気そうですね」 「あれだけ走れるのなら、心配する必要はないでしょうね」  目覚めたばかりのアストは、動く事すらままならない様子に見えた。その調子のままであれば、ひとりで町外れに行かせる事など、けして許可しなかっただろう。しかし今のアストは、普段と変わりない、元気な子供にしか見えない。  短時間で全快したとは考えにくい。ならば気力がアストを支えているとしか考えられず、気力を補充する存在に会いに行きたいと言うならば、強くは止められなかった。 「アストなら、万が一どこかで倒れても、すぐに誰かが見つけて拾って城まで届けてくれるでしょうしね」 「確かに、アスト様を放っておく者はいないでしょう」 「それに俺は、良い事だと思っているんですよ。アストが、ユーシスのために頑張ろうって思って動いた事が。使命感以外にもあいつを動かすものがあるって事実は、大切だと思うから」  ルスターは穏やかな眼差しでカイの語りを見守った後、小さく声を上げて笑った。何か笑われるような事を言っただろうかと、カイは慌てて己を振り返ったが、特には見つからない。 「どうして笑うんですか」 「カイ様のおっしゃる事はごもっともだと思いまして」 「それ、答えになってます?」 「ですから、カイ様が使命感だけではなく、大切に想うもののために動いておられる事が、とても良い事だと思うのです」  いっそう優しい微笑みで言い切られ、カイは言葉を詰まらせた。ルスターが本音を言っている事は判っているのだが、からかわれているような気がしてしまう。 「アスト様が友人を得た事、喜んでおられるのですね」 「そりゃぁ……」 「ですが私の目には、少々お寂しそうにも映ります」  若草の瞳が、穏やかさはそのままに少しだけ感情の色を変えた事に、カイは気付いていた。  カイは無意識に同じものを空色の瞳に浮かべ、微笑み返す。 「ええ。寂しくないと言ったら、嘘になるんでしょうね――」 三章 絆 1  自分を迎え入れた若い聖騎士に脱いだ外套を預けると、引き寄せられるように椅子に近付き、腰を下ろす。樫の木で造られた椅子の固い座りごごちを恋しく感じると、ジオールは自身を蝕む重い疲労を認めざるをえなかった。  昨日一日は事務仕事のみのほぼ休養状態だったとは言え、一昨日に魔物と激しい戦いをしたばかりであるし、今朝早くにザールを発つと言う強行であったから、疲れているのは当然だ。しかし、昔の自分ならば同じ状況でもここまで辛くは感じなかったのではないか、と思ってしまうと、仕方ないとは言え、年齢を重ねた事実が少々虚しくなってしまう。  王都への迅速な帰還は、「唐突に飛び出して大神殿の皆に迷惑かけちゃったから、できるだけ早く帰りましょう」などと、リタが珍しくしおらしい事を口にしたためだ。言っている事はもっともだと納得しつつ、同行した聖騎士たち、特に普段から年寄り扱いしているジオールを労わるとの発想はないのだろうかと、ジオールは一瞬考えたのだが、結局は反論せず黙って従った。リタの事情や心情を考えれば、帰還までにあった丸一日の猶予が、精一杯の気遣いなのだと思えたからだ。 「ザールへの遠征、お疲れ様でした」  遠征と言うには少々大げさすぎる気がしつつも、若い部下の気遣いに水を注す気にはならず、ジオールは薄い笑みを浮かべながら手を上げて答える。表情を引き締めたのは、その直後だ。 「当初の予定より長く留守にしてしまったが、何か問題は?」 「大きな問題は特にありませんでした。王都も大神殿も、相変わらずの平和が保たれております」 「小さいものでも構わない。誰かが騒いでいた、嫌味を言っていた、文句を言っていた、などでもな」  戸惑い気味に唇を引き結ぶ聖騎士の様子から、彼が真相を口にする前に、予想していた通りの展開になっていたのだとジオールは悟った。 「まず大司教様ですが、あまり良い顔をしておられませんでした」 「そうか。それは良かった」 「良いのですか?」 「非常識な行動を取った事に対してそのような反応をされる大司教様は、常識的な思考をお持ちの上で、常識的な行動を取ってくださると言う事ではないか? お守りするがわの人間にとって、これ以上ありがたい事はない」  少なくともジオールの部下ならば、今のジオールが暗に誰の事を語っているのか、判らないはずがない。目の前に居る若い聖騎士も例外ではなく、答え辛そうに戸惑ってから、「なるほど」と肯いた。 「そ、それからですね、副団長が激昂しておりました。その、リタ様の突然の行動、と……」  青年が口ごもる。リタの事ですら口にした彼がためらうとしたら、彼の目の前に居るジオールの事しか考えられなかった。 「リタ様の唐突で無茶な行動をお止めするのも私の仕事だ、と?」  言い辛そうにしている青年に代わってジオールが口にすると、青年はすかさず肯く。 「は、はい」 「もっともな言い分だな。反論の余地はどこにもない。後でおとなしく小言を聞くとしよう」 「ですが、調査が進めば結局は、リタ様がザールに赴き、封印を施す事になったのです。結果的には事が迅速に進み、聖騎士団やザールが受けるかもしれなかった被害が抑えられたわけですから、リタ様や隊長のご判断は正しかったと言えるのでは……」 「結果的にはそうなるかもしれんが、副団長は経過を重んじる方だ。私もな」  ジオールが力強く言葉を吐くと、青年は口を閉じ、それまで以上に背筋を伸ばして姿勢を正した。 「私はリタ様をお守りする立場にある者として、まずザールからの詳しい調査結果を待ち、どうしてもリタ様のお力が必要だと判断されるまで、大神殿に待機すべきだった。小言くらい受けて当然ではないか」 「ですが」 「なに、それ以上の大事にはならんよ。結果的に事が迅速に進み、被害が抑えられたとの功績を、丸ごと無視する方ではない。仮に無視されたとしても、私には強力な味方が居る。現聖騎士団長は、かつての私の部下で、この隊で副長を務めた事もある。こちらの事情をよく理解している彼は、激昂する副団長を宥めこそすれ、文句の類は口にしなかっただろう?」 「は、はい、確かに」  それに、味方は他にも居る――青年が何度か肯き、瞳に宿す不安の色を消し去ったのを確認してから、ジオールは青年から目を反らし、整然とした部屋の様子を捉える。目に映るものに意味はない。目に映る場所に居ない存在、リタの事を思い出していたのだ。  相当落ち込んでいた様子であったし、ジオールたちと同様、あるいはそれ以上に疲労しているはずであるから、問題がない限りしばらくは部屋でおとなしくしているだろう。だが、万が一今回の事でジオールに処分が下る、との話になれば、飛び出してきて庇ってくれるはずだ。口では色々と言っているが、ジオールが護衛隊長となってから十一年、隊長の交代を拒否し続けたのはリタ本人で、それゆえにジオールの更なる出世が閉ざされた事を、彼女は多少気にしている。かつてのジオールの部下が聖騎士団長になってからはなおさらで、今以上に不利益を与えないよう、できる限り気を使ってくれているようなのだ。 「隊長はなぜリタ様をお引き止めせず、ザールへお供したのです?」  ジオールは背もたれによりかかり、明後日の方向に向けていた視線を青年に戻した。  彼の疑問は最もだ。リタがザールに向かうと言い出した時のジオールは当然、結果を知らなかった。リタと自分自身を守る事を考えるなら、先ほど説明した通り、リタを無理矢理にでも引きとめ、大神殿で待機するべきだっただろう。 「リタ様は常に無茶をしているように見えるかもしれんが、選んで無茶をされる方だ。選ぶ基準がご自身の勘でしかない所が、一見たちの悪いところだが、私はリタ様の勘をある程度信用している。結果的に良い展開になるだろうと信じて従った」  青年は感嘆の息を吐いた。 「素晴らしいですね。それも、エイドルードのお力でしょうか」 「いや、以前、魔物狩りをなされていた頃の経験だろう。現役を退いてから十年以上経過しているが、リタ様は結界の外で、魔物と隣り合わせで生きてこられた方だからな――さて」  ジオールは机に手を付いて立ち上がった。 「どちらへ?」 「何から片付けるべきか迷っていたが、とりあえず副団長の小言を聞きに行く事にした。首を長くしてお待ちだろうからな」  若い聖騎士は苦笑する。それから、「お気をつけて」と、場に相応しいのか相応しくないのか判断が難しい言葉を口にしながら、深々と頭を下げた。 「あの!」  青年が突然表情を変え、ジオールを呼び止めたのは、ジオールが扉を目の前にした瞬間だ。  ジオールは扉に手をかける前に振り返る。去りゆく上司を呼び止めた自分自身に驚き、うろたえる青年がそこに居た。 「どうした」 「その……隊長は、ザールの領主とお知りあいだとお聞きしたのですが」 「ルスターはかつての同僚であり、友人だが」 「此度の遠征で、お会いする機会は?」 「もちろんあった」 「では、ナタリヤとも会われましたか? 彼女は元気に?」  まさか王都で聞くとは思っていなかった名が飛び出し、ジオールは一瞬だけ言葉に詰まる。  そう言えばナタリヤは言っていた。ついこの間まで王都に滞在し、多くの者に師事し、学んでいたと。王都出身の若い聖騎士とどこかで顔を合わせていたとしても、不思議な事ではない。 「知り合いか?」 「はい。幼馴染のようなものです」  なるほど、まだ彼らが王都で暮らしていた頃の知り合いかと、ジオールは余計に納得した。幼いナタリヤは活発で、近所の子供たちの中心人物だったと記憶している。親であるルスターですら「把握しきれない」と言い切るほど、多くの友人を持っていたのだ。彼はその中のひとりと言う事だろう。 「そうか。二年半の滞在は、懐かしい者たちと再会するにも、良い機会だったのかもしれんな」  何気なく紡いだジオールの言葉に、若い聖騎士の表情が一瞬にして陰った。 「何か?」 「いえ、再会とは言っても、私は一度顔を合わせただけなのです。王都に来てからの彼女は、脇目も振らずに勉学に励んでいたようですし……何より、私は彼女にすっかり忘れ去られておりましたから。友人が数多くいた彼女に、全員覚えていろと言っても無理だと判っているのですが、割と親しいつもりでいただけに、どうにも気まずく、そのままになってしまいました。ただ、かなり根を詰めていたようですので、どこか体を壊していないかと、気になっていたのです」  寂しそうに照れ臭そうに笑いながら頬をかく青年を、ジオールは強い眼差しで見下ろす。  割と親しいつもりでいたが、忘れられていた――青年の告白は、つい先日にジオールが抱いた想いとまったく同じで、少々気にかかったのだ。 「君だけか?」 「はい?」 「王都で暮らしていた頃のナタリヤには、友人が数多く居たのだろう? 誰か他にも、ナタリヤに忘れられていた者は居るのか」  青年はしばし考え込んでから答えた。 「あの頃の友人全てと今も繋がりがあるわけではありませんので判りませんが、私の周りの者たちは皆……まあ、いつも忙しそうにしていたナタリヤと、再会すら叶わなかった者も多かったのですが」  そうか、と生返事をしたジオールは、鈍い動作で肯く。  思い返せばルスターは、ナタリヤの話をした時に、戸惑いを見せていた。本来のナタリヤならばジオールの事を忘れなかっただろうと言った後に、何か言おうと口を開きかけていた。  会話の先には何があったのだろう。気にかかったジオールだが、話ができる相手はザールの空の下だ。今になってできる事は、後悔しかない。 「ルスターには子がナタリヤしか居ない。ただひとりの跡継ぎとしての責任が、過去を振り返る事を許さなかったのかもしれんな」  憶測で語る事ははばかられたが、何も言わないのは怪しいかと、ジオールはあたり触りない予想を語った。 「やはり、未来の領主様となると、色々大変なんでしょうね。無理をしてなければいいんですが」 「良き領主となるためには、しなければならない無理もあるのだろう。だが、少なくとも私の目には、望まぬ無理はしていないように見えた。安心していいのではないか」  ザールで出会ったナタリヤの素直な印象を語ると、青年は僅かにためらってから、満足げに肯いた。 「そうですね。ありがとうございました」  礼をした青年が頭を上げるのを待ち、隠しきれない安堵の笑顔を確認すると、ジオールは彼に薄い笑みを返し、部屋を出る。  副団長が待つ部屋へ向かう間に考えた事は、報告や弁解ではなく、ザールに住む者たちの事ばかりだった。 2  ザール城の裏庭に、金属音が幾度も響き渡る。音の中心で剣を構えるアストは、肩で激しく息をしながら、自身の正面に立つ父を見上げた。  先ほどから何度も切りかかっているが、全て涼しい顔で受け流されしまい、今のところ一撃も加えられていない。父が大人でアストが子供である以上、体格差や力の差はどうしようもないものであるし、何より父には長年戦い続けた経験がある。元より勝てるとは思っていなかったが、やはり圧倒的な差は悔しいものだった。  いくらか呼吸が落ち着き、周囲に注意を払う余裕が出てくる。アストはそうなってはじめて、父の足元の異常に気付く事ができた。  この場にやって来た時につけたもの以外、足跡がない。  どうやら父は、ただアストの攻撃を受け流しているだけでなく、稽古をはじめた瞬間に立った場所から一歩も動いていないらしい。一撃が無理ならば、せめて表情くらいは崩したかったが、無理なのだろうとアストは悟った。そして、洞穴絡みの騒動のせいでほとんど訓練できていなかったのだから仕方ないともの判りよく諦めると、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。今日最後の一撃と決めたそれは、容易く父の剣に受け止められた。  ひときわ大きな音が響き渡った。  アストは深い息を吐き、肩を落とす。剣の切っ先を地面に埋めると、小刻みに震える形で腕が悲鳴を上げはじめたた。アストの筋力に合わせて父が選んでくれた剣だが、長時間振るい続ければ、やはり負担は大きいようだ。 「最後の一撃、なかなか良かったぞ」 「ほんと?」 「ああ。力が入ってたのもあるが、気迫が違ったな」  父の称賛に嘘はなく、アストは得意げに笑った。調子に乗るなと言われるかと覚悟したが、父は笑い返してくるだけで、特に叱咤する事はなかった。  おもむろに「今日はここまでにしておくか」と言い出した父に、アストは素直に従った。光の剣で魔物たちを一掃した時に比べればましだが、疲労は重く、全身の筋肉が軋んでいる。明日はあちらこちら痛むかもしれないと覚悟しなければならなかった。 「しまった」  剣を鞘に納め、空を見上げた父は、太陽の傾きを確認して低く唸った。 「どうしたの?」 「今日は昼過ぎに王都からの使者と会うんだった」 「大切な話なの?」 「いや。定期的に来るご機嫌伺いだから、綺麗な格好して笑っていれば何事もなく終わるだろう」 「なんだ、そんな事」  父は温い息を吐き出しながらアストの肩を優しく叩く。 「そう言うな。俺たちがきちんとしている所を見れば、皆安心するんだから。魔獣の不安と隣り合わせでもな」  言った父はアストの頭を乱暴に撫で回し、城の中に戻るために歩き出した。  歩きながらも度々振り返り、「ちゃんと汗を拭けよ」だの、「ゆっくり休めよ」だのと心配そうに言葉を投げかけてくるのが父らしいと思いつつ、背中を見送ったアストは、軽く反り返って体を伸ばしながら、青い空を見上げた。  風で雲が流されていき、一面の青の中に輝く太陽が眩しい。もうすっかり雨の季節は終わったようだ。  大きく、ゆっくりと息を吸い込んだアストは、同じだけゆっくりと息を吐く。すぐそばにそびえる太い幹を持つ木に寄りかかると、土の上に座り込んだ。  長閑な時間だった。緩やかな風と揺れる葉の音がなければ、時が止まっているのではないかと錯覚してしまうほどに。気だるさも手伝い、このまま昼寝してしまえば気持ち良いかもしれないと一瞬考えたが、風邪をひいてしまいそうなので諦めた。  しばしの休憩の後、立ち上がったアストが体に付着した土埃をはたいていると、遠くから軽い足音が近付いてくる。顔を上げたアストの目にまず飛び込んできたのは、太陽の光を浴びて煌めく蜂蜜色の髪だった。  ナタリヤだと判ると、アストは体ごと向き直る。魔物による被害状況の調査と、被害者を慰問するために、ザール各地を回っていると聞いていたが、ようやく帰ってきたのだ。 「おかえりナタリヤ。いつ戻ったの?」 「つい先ほどです」  よく見るとナタリヤは、旅装姿のままだった。帰ってきて着替える時間もとらず、ここに来たのかもしれない。 「セルナーンから戻ってきたばっかだったのに今度はザール廻りなんて、大変だったね」 「疲れなかったと言えば嘘となりますが、平気です。本当に大変なのは、被害を受けた者たちですから」  笑顔で答えたナタリヤは、周囲を見回しはじめた。  もう少し場所を移せば、整えられた緑や花畑、魚たちが泳ぐ池など、目で楽しめるものがあるにはあるが、アストたちが今居る場所は、小規模な訓練場となっている一角だ。綺麗に均された土の地面と、ところどころに生えた木以外、特に何もない。 「カイ様とアスト様が裏庭で剣の稽古をしていると聞いていたのですが、誤った情報でしたでしょうか」 「ううん、父さん、さっきまでは居たよ。何か、昼過ぎに王都から人が来るからって、その準備に行っちゃったけど」 「そうですか……残念です。せっかくの機会ですから、私も稽古をつけていたこうかと思っていたのですが」  ナタリヤは寂しそうに呟いた。 「ナタリヤも剣を使えるの?」 「はい。次期ザールの領主として、いざと言う時魔物から身を守れる程度の剣術は身に付けておかないと困りますし、格好もつきません。ですからいざと言う時は、私もアスト様をお守りするために戦いますね」  歓迎すべきなのか、嫌がるべきなのか。どう反応して良いか判らくなったアストが曖昧な表情を浮かべると、ナタリヤは可愛らしく笑った。どうやらからかわれていたようだ。 「セルナーンに行く前までは、カイ様に剣を教えていただいて……」  最後まで語り終えるよりも早く、声が掠れ、消える。ナタリヤは少しだけ見開いた瞳で、一点を凝視していた。  ナタリヤが見下ろす先にあるのは紛れもなく自分で、アストは戸惑ったが、初々しい春の若草を彷彿させる緑は、アストの目も、顔も、見ていないようだった。もっと下――肩や胸? いや、もっと下だ。  探るように動かしたアストの指先に、冷たいものが触れた。驚きと共にナタリヤの視線の意味を知ると、アストは鞘を腰から外し、両手に握りしめて自身の視線の高さまで掲げる。 「これ、気になるの?」 「え……あ、はい」 「封印に行く時に必要だからって、父さんが俺にくれたんだ。くれたって言い方はおかしいのかな。元々俺のものだって言ってたから」  ナタリヤは両のてのひらを小さく叩き合わせた。 「アスト様の素晴らしいご活躍、お聞きしております。多くの魔物を一瞬にして倒し、洞穴の封印を完成させたと」 「凄いのは俺じゃなくて、剣の方なんだけどさ。エイドルードの守護を受けないものだけを斬るんだって父さんが言ってた」  だからナタリヤを傷付ける事はないと判っていたが、気分的に嫌だったので、アストは数歩後退し、ナタリヤとの間に距離を作る。腕を伸ばす事で、再度距離を詰めようとするナタリヤの足を止めてから、光の剣に手をかけた。  黒い鞘の中から、輝かしい光が生まれる。明るい空の下を更に明るく照らす、力の象徴が。  アストには何の影響もない光だが、ナタリヤにとっては眩しいはずだった。目を背けているかもしれないと、確かめるように再度ナタリヤに視線を送ったアストは、ナタリヤがいっそう目を見開いて凝視している姿に驚愕し、息を飲んだ。 「どうかした?」  不審に思ったアストは、掲げていた剣を下ろす。光源の位置が下がったが、ナタリヤの視線は凍りついたかのように動かなかった。優しいはずの緑色は、色は変わっていないはずであると言うのに、濁っているように見える。 「ナタリヤ?」  不安になったアストは、もう一度目の前の人物の名を呼ぶ。  ナタリヤの様子がおかしいだけならば、動揺はしただろうが、ここまで心細い想いはしなかったかもしれない。異変が起こった瞬間、彼女の視線がただ一点、アストとアストが手にする光の剣を捉え、見つめていたからこそ、アストは途方もない不安に支配された。ナタリヤをおかしくしたのは、自分なのかもしれないと。 「ナタ――」  胸中を支配するものから解放されたい一心で、アストは光の剣を鞘に納めると、名を呼びながらナタリヤに向けて手を伸ばした。彼女が何かを恐れているならば、そうして安心させてやりたかったし、震えていると言うならば、震えを止めてやる事ができると思った。  だが、アストの声も手も、ナタリヤには届かなかった。  ようやく動き出したナタリヤは、叫ぶ。きちんとした言葉をなしてはいなかった。強い動揺と恐怖を、意味を持たない言葉に託し、空気を震わせた。  静かな世界を一瞬にして破壊したナタリヤは、目の前に迫るアストの手を払いのけようと、右腕を思い切り振るう。悲鳴の中に、弾ける音が混じりこんだ。  アストの手に衝撃が走る。ナタリヤの体から出たとは思えないほどの強い力で、アストの体が揺らいだ。戸惑いが強く、半ば呆けていたため、自身の体を支えようと言う意識が働かない。もつれた足は何の役にも立たず、アストは尻から地面に倒れ込んだ。  腕で上体を支えるアストの体に、影が覆い被さった。ナタリヤのものだ。ようやく悲鳴を断ち切ったナタリヤが、太陽を背にした状態で、アストの前に立ちはだかったのだ。アストは一瞬、ナタリヤが落ち着いたのかと思ったが、彼女がアストに向ける目は未だ、優しさを取り戻してはいなかった。  むしろ、動揺と言うには甘い、狂気にも似た揺らぎが強まっているようだった。ナタリヤはアストからけして目を反らさないまま、彼女自身を救うものを探していた。周辺には何もない、ならば身に付けているものの中から――ナタリヤが選び取ったのは、腰から下げていた細身の剣だった。  鞘から抜かれた刃が光を浴びて輝いた瞬間、アストはそれまで何とか保っていた冷静さを失った。どこか他人事のように見ていた状況が、急に身近なものとなり、唐突に身の危険を感じ取ると、瞬時に肌が粟立つ。  本能的に身を守ろうとし、左手が握りしめていた棒状のものを、力任せにナタリヤにぶつけた。  アストの右腕に熱が生まれるとほぼ同時に、ナタリヤの短い悲鳴が上がった。女性とは言え、子供であるアストよりは大きな体が、いとも簡単に吹き飛び、激しい衝撃音と共にいくらか後方にあった木に叩きつけられた。  小さく呻き声を上げたナタリヤは、そのまま意識を失い、木の肌の上を滑り落ちるように地面に崩れ落ちる。  アストの体は大きく震えた。自分が何をしたのか判らないまま、土に塗れる蜂蜜色の髪を見下ろし、手にしていたものに縋りついた。  冷たい。ああ、父さんに渡された剣だ。神の一族以外はけして触れられない、触れれば罰が下ると言っていた――それでナタリヤに触れてしまったんだ。だから、ナタリヤは吹き飛んでしまったんだ。  震えが強くなる。恐怖が増したからだ。己の力に対する恐れと言うよりは、己の力によって引き起こされた最悪の状況を目の前にしながら、自分自身が助かった事へ安堵する気持ちの方が勝つ、己の心への恐れだった。 「ナタ、リヤ……?」  力無く名を呼ぶが、ナタリヤの返事はない。  アストは震える足を拳で叩き付けながら、剣を杖にして立ち上がる。誰か人を呼ばなければと思い、踵を返してその場を後にした。  走る中で、右腕に刻まれた切り傷が、痛みを訴えだす。血が流れる事による脱力感と合わせて、倒れ込んでしまいたい気分になったが、アストは必死に走り続けた。  逃げたかったのだ。地面に転がり落ちた細身の剣の鈍い光と、刃に纏わりつく赤から――ナタリヤの居る場所から。 3 「申し訳ございませんでした」  彼の事だ。倒れた娘の代わりに謝罪するため、即座に駆けつけてくるだろう。  そう予想していたカイだったが、いざ当のルスターが駆けつけて来た途端、てのひらと膝を床に着けるほど低く頭を下げたのは、さすがに予想外だった。 「ちょっ……ルスターさん、頭を上げてください」  謝罪の言葉は受け取ってもいいかと考えていた。ナタリヤは未だ気を失ったままだが、アストは掠れた声で、カイがアストと別れて城内に戻ってからの僅かな間に裏庭で何が起こったのかを、語ってくれたからだ。  アストの証言は、アストにとって都合のいい、一方的なものだった。通常ならば鵜呑みにするべきではないだろう。しかし今回は素直に信じられたし、疑う気にもならなかった。ふたりの関係を考えれば、起こるべくして起こった事件だと言ってもいい。  かと言って、土下座はいくら何でもやりすぎだろう。慌てたカイは何度か「顔を上げてください」と頼んだが、今日のルスターは頑固で、カイの言葉に従おうとしない。仕方なくカイの方が床に膝を着き、できる限りルスターと視線の高さを合わせる。 「ルスターさん、もういいですから」 「良いはずがありません。大人が子供に剣を向け傷を負わせた。それだけでも充分、罰せられるべき罪です。しかもアスト様は、エイドルードがこの大地のために残された唯一の希望。神そのものと言っても過言ではない、偉大なる存在ではありませんか。一歩間違えば、ナタリヤがこの大地を滅ぼす事になったかもしれないのですよ」 「アストが特別な子供である事は忘れましょう。いや、忘れても、ナタリヤが責めを負うべき事をしたのは間違いないんでしょうから、俺だって、謝るなとは言いませんよ。本音を言うならば、うちの息子に何て事してくれたんだ、ちゃんと謝れ、と思ってます。ただそれは、ルスターさんが俺に対してする事ではなく、ナタリヤがアストに対してするべき事と言うか……何より俺は、この件について、一概にナタリヤの責任だとは言えないと思っているんです。きっと彼女は、アストの存在か無意識の行動によって、思い出してしまったんでしょうから」  カイの言葉の中に気になるものを見つけたのか、ルスターはゆっくりと顔を上げ、カイの目を見た。  空色と緑が重なると、カイはとりあえず安堵し、ルスターの腕を引いて立ち上がる。ふたりの前にある寝台には、ナタリヤが横たわっていた。  裏庭に倒れている姿を発見した直後よりはだいぶ良くなっているが、未だに顔は青白く、悪い汗をかき、時折辛そうに息を吐いている。痛ましい姿だった。きっとうなされ、苦しんでいるのだろう。恐ろしい悪夢――辛い記憶に。  カイもルスターも、ナタリヤがこのように苦しむ様子を見るのは初めてではなかった。遠い記憶、遠ざけたかった記憶の中にある、幼い頃のナタリヤを蘇らせ、カイは眉間に皺を寄せる。見ると、ルスターもカイと同じように、苦痛に耐えるべく唇を引きつらせていた。 「まず謝るべきは俺です。十年前の俺は、あまりにも浅はかすぎました」 「いいえ、カイ様。十年前の件は、カイ様と交わした約束を忘れたナタリヤが」 「当時のナタリヤはまだ七歳だったんです。約束をするだけで終わらせていいわけがなかった。城の誰かに、部屋に閉じ込めてでもナタリヤを城から出さないようにしてくれと、頼んでおくべきだったんです」  そして、今回も。 「浅はかなのは十年前だけじゃありません。俺は失われたものが永遠に戻ってこないと疑いもなく信じていた。そして、取り戻すための扉を開ける鍵を、ナタリヤの目の付くところに置いてしまったんです」  避けられなかった事とは思わない。ナタリヤが受けた衝撃を和らげる方法はすぐに思い浮かばないが、考えれば何か見つけられたかもしれない。見つからなかったとしても、ふたりの間に起こった諍いを、自分の目の前で起こす事は可能だった。そうすれば、ふたりが傷を負う前に止める事ができたのではないだろうか。  カイは拳を握り締めた。どこかに叩き付けたい気分だったが、叩き付けるに相応しい場所が手近には見当たらなかった。 「ナタリヤにとっては、途方もなく恐ろしい光景だったはずです。ナタリヤより九つも年上で、全てを知った上で覚悟を決めていた俺だって、現実を目の前にした時は、まるで心が途切れるかと思うほど――」  カイは強く首を振った。 「すみません。ナタリヤは、本当に心を千切ってしまったのに」  十年前、血まみれの家の中、自分自身も血まみれになりながら産まれたばかりのアストを抱いていたカイは、家の外に倒れていたナタリヤを見つけた瞬間、驚愕して息を飲んだ。外傷も何もない彼女が倒れた理由はひとつしか考えつかず、余計な人間には見せないと決めていた光景を、最も見せたくない人物が目の当たりにした事を知ったからだ。  まだ八つにもなっていなかった彼女にとって、母体を引き裂いて産まれてくるアストの姿は、家中を赤く染めて死んでいったシェリアの躯は、明らかに異常な妻の最後と子はじまりを黙って受け止めるカイの存在は、どれほど恐ろしかっただろう。  ナタリヤが、地中奥深くに眠る魔獣よりも、神の一族の方を恐ろしいと感じたとしても、仕方のない事かもしれない。そこまで覚悟していたカイは、何日も眠り続け、悪夢にうなされ続けたナタリヤが、目覚めた時には全ての記憶を失っていたと知った時、心から安堵した。ルスターたち夫妻の痛みや、記憶を失くしたナタリヤの不安を、労わる事も忘れて。  ナタリヤはもう、おぞましい記憶に苦しむ事はないだろう。  そして、カイたち大人が口を噤む限り、アストは自身が産まれた状況を知らずにすむだろう―― 「ナタリヤは全てを思い出したのでしょうか」 「判りません」  カイもルスターも、失った記憶が一時的に刺激されただけである事を祈っている。たが真実は、ナタリヤが目覚めるその瞬間まで、判るはずもなかった。 「まだ思い出していないならば、これ以上ナタリヤの記憶を刺激しないよう、アストがナタリヤの前で何をしたのか、確認する必要がありますね。光の剣を抜いて見せびらかしたとかなら、この先アストが彼女の前で光の剣を抜かないよう注意し、アストが魔物と対峙する際にナタリヤを同行させない、ですむのですが」 「もしすでに、全てを思い出しているのだとすれば」  ルスターは横たわる娘の傍に歩み寄ると、優しい手を伸ばし、額にいくつも浮かぶ汗を拭った。 「同じ光景を見ていない私には、ナタリヤの苦しみを知る事はできませんが……この子はもう、子供ではありません。たとえ全てが恐怖でしかない記憶なのだとしても、乗り越えさせましょう。カイ様が乗り越えたものなのですから」  カイは様々な感情を逡巡させた後、導き出した結論がルスターと同じである事に絶望し、苦悩を眉間に刻みながら息を吐いた。 「そうしてください、としか言えない自分が腹立たしいです」  ルスターは目を細めて笑った。 「『救世主誕生の瞬間に立ち合えた事を光栄に思え』とおっしゃってくださればいいのです。カイ様がお心を痛める必要はございません」  次はカイが笑う番だった。 「それでナタリヤが救われるなら、何度でも言いますけどね。とてもじゃないですが言えませんよ……」  カイが唇を引き締めるのと、ルスターが素早く視線を動かして娘を見下ろしたのは、ほぼ同時だった。  唸り声が止んだのだ。寝台に横たわるナタリヤが、ゆっくりと息を吐きながら、緑色の瞳を覗かせると共に。  空ろに天上を見上げるナタリヤの端整な顔を覗き込みながら、カイは言葉を模索した。まず何と声をかけるべきなのか。何を、確かめるべきなのか。 「気分はどうだ?」  ルスターが柔らかな声音で娘に語りかけると、ナタリヤは首を動かし、ルスターとカイを見つけたようだった。 「私は――」  痛むのか、頭を抱えながら起き上がるナタリヤの動きは、壊れた機械のように緩慢だった。  黙って見ているには痛々しく、彼女の体を支えようと手を伸ばしたカイは、流した汗によるものか、触れた背中の恐ろしいほどの冷たさに、小さく息を飲む。 「頭の中に靄がかかったような気持ち悪さがありますが、大した事はありません」 「では、眠りにつく前に何をしていたかは思い出せるか?」  ナタリヤは頭を抑えたまま、考え込むそぶりを見せる。 「城に帰還し、洞穴の封印に関する簡単な報告を受け、カイ様とアスト様が稽古をしているとの情報を聞き、裏庭に、行って――」  緑の瞳が大きく見開かれた。  先ほどまでの動きが嘘のように、素早くカイに振り返ったナタリヤは、困惑に震える唇を自身の意志に従わせるためにいくらか時間を費やした後、掴みかからん勢いでカイに迫る。 「アスト様は、どうされておられますか」 「落ち着け、アストなら大丈夫だから」 「ですが私の手は覚えております。確かに手ごたえが」 「ちょっとした切り傷を作ったが、それだけだ。今は自分の部屋で静養している」 「それだけって……」  カイはナタリヤの額に手を置くと、軽く力を込めて押した。  弱った体は加えられた力に耐えられなかったのだろう。ナタリヤの体は驚くほどあっさりと、再び寝台に横たわった。 「今日はとにかく休め」 「ですが!」  再度起き上がろうとするナタリヤを、カイは無言で制止してから続けた。 「言いたい事があるなら明日聞く。今日はルスターさんに沢山謝ってもらって、うんざりしているから、君の謝罪を聞く精神的な余裕がない」 「うんざりですか」 「うんざりです」  カイは返事と共にルスターに笑いかけると、ナタリヤに向き直った。 「ただ、休む前に、ひとつだけ訊かせてほしい。なぜ、アストに剣を向けたのかを」 「なぜ……?」  力のない言葉で呟いたナタリヤは、伏せた目をカイから反らした。  何かを思い出そうと考え込んでいる様子は、見守るカイたちの不安を煽るばかりだ。カイはすかさず手を伸ばし、思考に耽るナタリヤの肩を軽く叩いた。 「無理に思い出さなくていい。理由が聞きたかったわけじゃないんだ」  言葉と、触れた部分から、温もりが伝わったのだろうか。ナタリヤはゆっくりと開いた目や小さく動かす唇で、謝罪の意志を示す。  カイは可能な限り優しく微笑みかけながら、強く肯く事で、彼女の意志を受け取った。 4  窓から入り込んでくる明かりは、いつの間にか赤く染まっており、徐々に弱まっていく。  寝台に横たわるアストは、半ば空ろな瞳で窓の外を眺めながら、ああもうすぐ夜なのだと、時間の流れを受け止めていた。単調な時の流れを見守るには、アストはまだ幼く、退屈に思うばかりだったが、どこかに出かけるどころか、寝台から這い出る気にすらならなかった。  健康な左手を、そっと包帯の上にかざす。アストの傷を診た医者は「傷は浅く、骨などに異常はないでしょう」と言っていたが、大した事ないとは言え痛い切り傷である事に変わりはない。軽く指先が触れるだけ、温もりが伝わるだけで、痛みが強まってしまう。  包帯に触れる直前に手を止めて、アストはゆっくりと息を吐いた。  陽が完全に落ち、部屋の中が闇に包まれた。物音ひとつしない暗黒の中で、痛みよりも強くアストの脳を刺激するものは、記憶だった。  冷静さどころか、理性そのものを欠いたとしか思えないナタリヤの形相は、忘れたくても忘れられない。彼女は、何もかもを忘れ去っているかのようだった。感情の表し方、言葉の紡ぎ方、落ち着いた呼吸の仕方までも。  恐れ、怯え、本能のままに剣を振ったナタリヤの瞳が見ていたものが何であったのか、どれほど考えてもアストには判らなかった。血走った瞳に映していたものは、確かに自分自身であったが、ナタリヤを混乱させた相手が自分だとの自信がない。他に考えられないのだが、どうして自分が、と思ってしまう。ようは信じたくないのだ。  アストは両手を顔の真正面まで持ち上げる。白いてのひらは震えていて、物悲しい気持ちになった。  扉を叩く音が、静かな部屋に響き渡る。驚いたアストは無意識に身を捩り、扉の向こうの人物に応えた。  おそらく父だろうと思っていた。ひとりにしてほしいとさんざん頼んでようやく部屋から追い出してから、さほど時間が過ぎていないように思えるが、ひどく心配していた父ならば、様子を見に来るのもありえると――しかし、開いた扉の隙間から灯りと共に表れた人物は、父でなく、アストの頭の中を占領していた女性だった。 「ナタリヤ……」 「アスト様、具合はいかがですか」  ナタリヤ自身が手にする灯りが照らし出す、アストを労わる表情も、温かな眼差しも声も、アストが良く知るナタリヤのものとまったく同じだった。  いつものナタリヤだ。昼間のナタリヤがちょっとおかしかっただけなのだ。  強い安堵によって、生々しく残る恐怖が緩やかに融解しはじめると、アストは喜びのあまり、自覚なく笑みを作る。 「大丈夫だよ。なんともない。傷も大した事ないし」  目を細めたナタリヤは、噛む事で唇の震えを止める――そう、彼女の唇は震えていた――と、寝台のそばまで歩み寄り、傍らに置いてあった丸椅子に腰を下ろした。 「ナタリヤこそ気分はどうなの? もう動き回っても大丈夫なの?」 「ええ……」  ナタリヤはぶっきらぼうに答えると、口を噤んだ。  無言で何かを伝えようとしているわけではないだろう。乾いた瞳は彼女自身の手元に向けられているだけであったし、その両手も、手を組んだり緩めたりを繰り返すばかりで、特に意味のある動作をしていない。  この部屋に来た意味を果たすためには、無為な時間が必要なのだろうか。そう考えると、静かな空気が重苦しいものに感じられ、アストは緊張のあまり小さく喉を鳴らしたが、ナタリヤがアストの様子に気付く事はなかった。  やがてナタリヤの両手は硬く組まれ、手を見下ろしていた両目がアストに向けられる。  静かな、けれど強い眼差し。何かを強く訴えかけてくるかのようだ。 「アスト様のお誕生日の朝、こちらでお話した内容を、覚えておられますか?」  アストは口内の空気を飲み込んでから答えた。 「ナタリヤが王都から帰ってきたのが早すぎるとかって話?」 「いえ、そちらではなく、アスト様のお母上――シェリア様のお話です。『もし知っているなら話を聞きたい』と、私にそうおっしゃいましたよね?」 「うん、言ったけど」  確かに言ったが、「会った事がない」とナタリヤが答えた事で、片付いたはずだった。元よりアストは母親に対してさほど強い執着がない。情報がないならないで、終わらせられる話だった。 「何を今更」と返そうとして、ナタリヤの眼差しが思いの他鋭い事に気付いたアストは、吐き出しかけた言葉を飲み込む。 「もしかして、会った事があるの?」  恐る恐る訊ねると、ナタリヤは視線を泳がせた後、僅かに肯いた。  組まれたナタリヤの手に、更なる力が込められる。短く整えた爪が食い込みそうな勢いで、互いの手を傷付けあっていた。 「思い出したのです。私はシェリア様と、毎日のようにお会いしておりました。ですが、話した事はほとんどありません。シェリア様は冷たささえ感じるほどに高貴で美しく、同時に近寄りがたい方でしたから、子供であった私の目には怖いくらいに映ったのです。カイ様は昔から気さくな方でしたので、まったくと言って良いほど生反対なおふたりがなぜご結婚されたのか判らず――正直なところ、不釣合いだとと思っておりました」 「へぇ」 「けれど、おふたりはいつも一緒でした。とても判りにくい形でしたが、シェリア様はカイ様を心から信頼されておられるのだと、何ヶ月も共に過ごすうちに理解できるようになりました。カイ様は、どうしてそこまで尽くされるのかと不思議に思うほどシェリア様を大切にされており、理想的とは言いがたかったかもしれませんが、それもひとつの夫婦の形なのだろうと納得できるものでした。アスト様、貴方のご生誕の瞬間まで」  小さな灯りに照らし出された、アストの両親の肖像画を見上げたナタリヤは、一度固く目を伏せる。再度開いた目を、今度はアストに向けた。 「アスト様。私は、貴方が産まれた日を知っています」  空気が鳴った気がした。  同時に、ナタリヤの手が軋み、小刻みに震えだす。薄暗い部屋の中で最も明るく輝いていた蜂蜜色の髪が、呼応して震えはじめると、アストは言葉にできない、剣を向けられた時に感じたものとはまた違う、恐怖に似たものが湧きあがる感覚に襲われた。  小さな手で耳を塞ぐ。咄嗟の行動だった。判断すらしていない。ただ、そうしなければいけないと言う本能が、アストの体を勝手に動かしたのだ。 「逃げないでください」  ナタリヤの手がアストの手を柔らかく包み込み、耳からはがし取る。代わりに耳もとに寄せられたナタリヤの唇が静かに囁くと、アストの中に産まれたものが勢いを増した。  腹の奥から飛び出そうとする悲鳴が、喉の途中でつかえる。声が出ない。息が吸えない。 「八歳の誕生日に目覚めた私には、何もありませんでした。それ以前の記憶を失っていたためです。全てが空白と言う不安の中で、私は周りにあるものに縋るしかなく、私を労わる夫婦が両親なのだと信じるしかありませんでした。母は言いました。目覚めるまでの数日間、重い熱病に苦しみ、何日も何日も、寝ても覚めてもうなされていたのだと。父は言いました。それほどの苦しみを忘れ去る事ができた事は、むしろ幸福なのかもしれないと。私はふたりの言葉を受け入れるしかなかった。信用し、思い込み、今日まで生きてきた――」  ナタリヤの唇がアストの耳を解放する。代わりに彼女の瞳は、アストの瞳を見下ろした。 「全てを取り戻した今なら判ります。失くしていい記憶など、ひとつもないのだと」 「ナ……」 「シェリア様が亡くなったのは貴方のせいです、アスト様。貴方が、シェリア様を殺したのですよ」  冷たい告白に、アストの小さな心臓が大きく跳ねた。直後、握りつぶされるような痛みが生まれ、追い立てられるかのように鼓動が走りだす。  貴方――俺――が、シェリア様――母さん――を殺したのですよ。 「何、言って……」  掠れて消えかけた声を絞り出したものは、軸を失い崩れかけたものを支えようとする意志の力だった。 「突然、おかしな事、言わないで」 「おかしな事ではありません。ただの事実です。この先、誰ひとりとして貴方に伝える事なき真実です」 「違う。嘘だ。だって父さんは違うって」 「嘘ではありません。私はこの目で見ました。貴方が、生まれながらに持っていた剣、そう、あの光の剣で、内側からシェリア様の腹を引き裂く様を。氷像のように凍りついていたシェリア様の美しい顔が歪んだのは、あの日が最初で最後だったでしょう。叫ぶ事を知らなかった唇は大きく開かれ、可憐な声は空気を切り裂きました。あっと言う間に悲鳴は途切れ、惨い、悲惨な死体だけが残りました。貴方が産まれてきたから。シェリア様を殺すために、産まれてきたから」 「違う」 「よく言えたものです。自らの手で己の母の命を奪っておきながら、『母の死が悲しくない』などと――」  否定するために強く振ろうとした頭を、ナタリヤの手がしっかりと抑えつける。  身動きが取れなくなったアストは、滲みはじめた視界の中に、歪んだ輝きを秘めた瞳を見つけた。優しかったはずの春色の瞳は、今はただ冷たい。 「アスト様。貴方は本当に、神の後継者なのですか?」 「そうだよ! だって、皆がそう言って」 「皆が気付いていないだけかもしれません。信じたいだけなのかも。貴方が神の後継者でなければ滅びを待つしかないために、藁にも縋る思いで。けれど本当は、違うかもしれない――何にせよ、はっきりと言える事がただひとつあります」  ナタリヤの手から力が抜け、解放されたアストは、腕の痛みも忘れ、ナタリヤに掴みかからん勢いで身を乗り出した。ナタリヤの突然の言葉に、幼い心は動揺し、深く傷付いていたが、全てを否定すれば守れる事を本能的に察していたため、言い返そうと口を開く。 「ナタリヤ、俺は」 「貴方は人から遠く離れた、化け物です」  短く吐き出された言葉は鋭く強く、刃向かおうとする意志が、一瞬にして霧散した。ナタリヤに向けて伸ばした手は力を失い、膝の上に崩れ落ちる。  後を追うように、アストの体そのものが崩れはじめ、意識の崩壊がはじまった。頭の中で糸が切れるような音がしたかと思うと、混乱を諌めるかのように黒一色に染まりだす。  痛みだけがアストを支えていた。腕に刻まれた小さな傷の――いや、それとも、心の方だろうか。アストはすでに、自分の体を責めるものの正体を判別できなくなっていた。 「両親も、カイ様も、私が思い出さない事を望んでいたのでしょう。けれど私は、思い出せた事を嬉しく思います。幼い頃の私は恐ろしいからこそ忘れたのでしょう。けれど今の私は、忘れていた事を恐ろしいと思うのです」  微かな音が聞こえる。遠ざかる足音と、扉が開く鈍い音。  ナタリヤが立ち去ったのだと理解するだけの余裕もなかった。仮に理解できたとしても、どうでもいい事だったかもしれない。  寝台の上で、アストは縮こまる。淀んだ意識と涙が歪めた視界に、放り投げた自身の手が映った。  変わらぬ、いつもの自分の手だ。しかし今は、赤く染まっているように見えた。 5  曲がり角の向こうからでも聞こえるほどの乱暴な足音は、何かしらの異常事態を告げていた。  魔物たちにとっての聖地を目の前にしたザールにおいて、魔物が出現する程度の異常は日常茶飯事だ。特にエイドルードが空から失われてからは、出現率も増している。また何か出たのかと、報告を受ける態勢を整えたルスターは、角を曲がって現れた者がザールの兵士や大神殿から派遣された聖騎士たちではなく、カイであった事に少々意表を突かれた。まさか彼を伝令に使う者は居ないだろう――彼自ら伝令を買って出る事はあるが。 「いかがなされました」  声をかけると、カイはルスターに気付いたようだった。  遠くから見ても明らかなほど動揺している。ただ魔物が出ただけではすまない、大きな問題でも起こったのかと、ルスターは気を引き締める。 「ルスターさん、アストを見ませんでしたか」 「いいえ。お部屋にいらっしゃらないのですか?」 「はい。大事に至らなかったとは言え、だいぶ痛そうにしていたので、今日くらいはよほどの事がない限りおとなしくしていると思ったんですが」  どこに行っちまったんだ、と唸るように吐き捨てたカイは、落ち着かないのか、あたりを見回した。ふたりが居る通路には、いくつか人影が見えたが、アストのような幼い子供のものはない。 「城の者に探させましょうか」 「いえいえ、俺が気にしすぎているだけなのに、皆に迷惑をかけるわけには。城の中をふらついているくらいなら、何の問題もないわけですから」  ここで「気になさる必要はございません」と返したところで、彼はやはり気に病むのだろう。十一年の付き合いで、半ば諦め混じりに理解しているルスターは、相手に気付かれないよう息を吐きながら微笑んだ。 「では、目撃した者が居るかどうかだけ確認しておきましょう。今のアスト様はお怪我を負われておりますし、もう夜ですから、万が一城を出ておりましたら危険かもしれません。放っておくには少々心配ですから」 「ありがとうございます。あと、もしかしたらナタリヤの所に行っているかもしれないので、また部屋を訪ねても良いですか?」 「私に許可を取らずとも、どうぞご自由に。この時間ならばまだ眠ってはいないでしょう。眠っていたとしても、叩き起こしてくださってかまいませんから」 「それはかまいましょうよ」  多少は緊張が解れたのか、カイは僅かに強張った肩をほぐす。  ナタリヤの部屋はすぐ近くであったので、ルスター自らカイを案内する事にした。カイが城で暮らすようになってから十年が経過しており、わざわざ案内をする必要はないと判っているのだが、娘の異変を常に気にかけていたルスターにとって、部屋を訪れる理由ができた事は都合がよかったのだ。  扉を叩くと、さほど間を開けず、ナタリヤの声が返ってくる。どうやらナタリヤ以外の人物は部屋の中に居ないようで、カイは残念そうに息を吐きだした。  扉を開ける。寝台に腰掛けるナタリヤがひとり居るだけで、やはりアストの姿はなかった。 「このような時間に、何のご用ですか?」  ルスターは、未だ顔色が優れない娘に微笑みかけた。 「このような時間なのだが、アスト様がお部屋にいらっしゃらないようなのだ。もしかするとお前のところを訪ねているかと思ってな」 「アスト様、ですか。いいえ、こちらにはいらしておりませんが」 「そうか。ゆっくり休めと言っておきながら、邪魔をして悪かったな」  カイは落胆を押し隠して納得し、部屋を出ようとしたが、ルスターはナタリヤの手元に視線を落としたまま動かなかった。  組み合わされた両手には、力がこもっている。手の甲に爪が食い込まん勢いで――それは、ナタリヤが考え込んでいたり、悩んでいたり、戸惑っている時に見せる手癖だった。  幼い頃のナタリヤの手の甲に爪の痕を見つけた時は、その手を包み込み、できる限り優しく、胸の内にあるものを問うたものだ。ナタリヤが成長するにつれ、ルスターの方から問いかける事はなくなっていたが、昼の出来事や交わしたばかりの会話の内容を思うと、放っておけないような気がした。 「お前の部屋には来ていなくとも、どこに行ったか、心あたりはないか?」 「いいえ、ございません」 「ならば、先ほど目覚めた後、アスト様に会ったか?」  ナタリヤが一瞬戸惑いを見せる。すでに部屋を出ていたカイが、再びルスターの隣へと戻ってきた。 「父上は何がおっしゃりたいのです?」 「深い意味はない。お前ならば、アスト様の現在のご様子を知っているかもしれない、と思っただけだ。ないならないと答えればいい」  答えは沈黙だった。それは肯定と同意で、カイはルスターを押しのけるように一歩前に出た。 「なぜアストに会った」 「朝の件の謝罪をしようと思いました。カイ様は今日はいいとおっしゃいましたが、やはり、早い方が良いと考えましたので」  ナタリヤの爪が、いっそう強く皮膚に食い込んだのを、ルスターは見逃さなかった。 「それで? アストに謝ったのか?」  答えは沈黙。だが今回は、肯定の意味を込めた無言ではなかった。  ルスターはカイの横顔を見つめる。鬼気迫る、けれど何かを恐れている眼差しは、ルスターに振り返る事なく、ナタリヤだけを見ていた。  続く沈黙に言葉で割って入る事ができず、けれど外から見ているだけでは耐え切れなくなったルスターは、娘の前に膝を着くと、固く結ばれた両手を包み、絡み合う指を解いた。  ナタリヤの体から、僅かに力が抜けた気がした。 「久しぶりですね」 「何がだ?」 「父上がこうして、私の手を労わってくださる事がです」  ルスターは僅かな間、両目を固く伏せた。  心から、娘のためを思って行動したつもりだった。だが結局自分がした事は、娘から言質を取る事でしかなかったと気付くと、やりきれない気持ちになったのだ。 「ナタリヤ、私はお前にとって、あまり良い父親ではなかっただろう。突然ザールの領主になる事となり、慣れない仕事で忙しいと言い訳ばかりして、お前の事は妻や城の者に任せてばかりだった」 「突然何をおっしゃって……」 「全て、思い出しているのだな」  ナタリヤの手がルスターの手を強く払いのけた。自分が何を言ってしまったのか、気付いたのだろう。  自分がナタリヤの父として、父親らしく触れ合う事ができたのは、セルナーンに居た頃までだとルスターは思っている。手の甲に刻まれた小さな痕に気付き、労り、悩みを真摯に聞いてやれた日々は、十年以上も前――ナタリヤが、衝撃的な記憶と共に失った昔にしか存在しないはずなのだ。 「アスト様に、何を言った?」  見開かれたナタリヤの瞳は、ルスターを通り抜け、カイに向けられた。 「お前が記憶を失った日の事を?」  カイが床を強く蹴り出す気配がした。  ルスターは立ち上がり、カイとナタリヤの間に自らの身を滑り込ませる。背後で足を止めたカイが、何かを言いだす前に、手を上げて娘の頬を叩く。  ナタリヤの体が揺れ、背後のカイは息を飲んだ。ルスターは目を細めて娘を見下ろすと、静かに息を吸い込んだ。 「幼いお前にとって、全ての思い出を巻き添えにしてでも捨てなければならなかったほど、そうしなければ生きていけないほどの、恐ろしい記憶だったのだろう? それだけの痛みを知っているお前が、なぜ、他人に同じ痛みを強いた」  ナタリヤは熱を持った頬を押さえ、俯いた。 「いいや、同じではない。アスト様が負われた痛みは、お前が負ったものよりもなお強いはずだ。自らの生が、母の死を呼んだと知れば」 「あれは本当に、神の子なのですか?」  ナタリヤは立ち上がる。目に再び光を宿し、近い位置からルスターをきつく睨み上げた。 「父上はご存知無いのでしょう? あれがどれほどおぞましい形で誕生したか。父上だけではなく、皆、知らないからこそ疑わないのです。見方を変えれば、あれは地上から、カイ様から、シェリア様と言う光を奪い去った生き物でしかない。人々の信仰を隠れ蓑に利用した、魔獣が放った刺客でないとどうして言えます」 「落ち着け、ナタリヤ」 「私は落ち着いております。その上で、違った視点からの意見を」 「ごめんな、ナタリヤ」  カイの声が静かに浸透し、ナタリヤは口を噤む。  ルスターも同様だった。声を失い、カイに振り返った。  不思議な事に、カイの表情にも、眼差しにも、拳にも、先ほど床を蹴った時には確かに存在していたはずの怒りが、僅かにも宿っていなかった。短時間で感情に整理をつけた彼は、生前のシェリアを思わせるほどに静かな空気を纏いながら、悲哀を秘めた目でナタリヤを見下ろす。 「俺ははじめから知っていた。アストが俺とシェリアの子で、間違いなく、救世主なんだって。でも君は違うんだよな」  囁くようにこぼれた言葉の痛々しさから、目を反らす事ができればどれほど楽だろうと思いながら、ルスターは微動だにせずにカイを見守った。 「違います、カイ様、私は」  ナタリヤは小さく、しかし何度も首を振った。 「せめて俺が、君と同じ不安や痛みを背負う事ができれば、今の君をひとりにしないですんだのに」 「私は、カイ様にそのような顔をして欲しかったわけではありません……!」  カイはしばらくの間、無言で続ける言葉を探したが、見つからなかったようだ。ナタリヤに対して深く頭を下げた後、部屋を飛び出していく。  今の彼にできる精一杯の謝罪だったのかもしれない。ルスターは歯を食いしばり、視線の行き先をナタリヤへと移行する。力を失ったナタリヤは、崩れ落ちるように、元通り寝台に座った。 「違います」と、届けたい相手に届かない言葉を、ナタリヤは繰り返し産み出し続けた。やがて祈るように固く目を伏せ、きつく唇を噛みしめるまで。 「嘘では、なかったのです」  カイの姿が消えてからしばらく過ぎた後、色を失った唇がゆっくりと動きはじめた。 「アスト様の部屋を訪ねた時は、心から謝罪しようと思っていたのです。許されようと、許されまいと、『動揺のあまりに剣を抜いて申し訳ありませんでした』とだけは伝えようと、そう思って――けれど私は、いざアスト様を目の前にすると、謝罪するどころか、化け物と言い放つ事しかできず」  両の手を傷付けあうために、ナタリヤの両手は再び組み合わされた。小さな自傷に悔恨と贖罪の意志を感じ取ったルスターは、今度は何もしなかった。 「お叱りはもっともです、父上。私は、あまりに情けなく、弱く、無様な人間です。子供相手に、本心を隠しきれないほどに。私は、ただ、恐ろしくて――」  ルスターは空ろな目で何もない空間を見つめるナタリヤの隣に腰を下ろすと、娘がしていたように両手を組み合わせ、皮膚を食い破るほどに爪を立てる。痛みが走った。だが当然、ナタリヤやアストが感じた痛みには及ぶものではなかった。 「私は、カイ様やアスト様のおそばに生き、仕える事が、この時代に産まれた我が一族の使命だと思っている。エイドルードより授かった、尊い運命なのだと」  大神殿でカイと出会ってから今日この日まで、カイやアストと共に築いた記憶は、容易く思い返す事ができる。優しい日々だった。楽しい日々でもあった。血を分けた家族とは別に、もうひとつの家族を得たような――恐れ多いあまりに、誰にも言えない想いであったけれど。 「私はこの運命に感謝し、幸福に思っている。レイシェルも、はじめは違っていたかもしれないが、最期の瞬間は幸福に思っていただろう。しかし、この大地に生きる者の中には、自身に課せられた運命が重く、恐ろしいと考える者も居る。逃げ出したいと思う者、実際に逃げ出す者も居る。不快だと投げ捨てる者も居る。お前がそちらがわの人間だったとしても、私はけしてお前を責められまい」  ルスターは一呼吸おいてから続けた。 「だが、覚えておきなさい。私たちが仕える方々は、お前よりもよほど重い運命を、エイドルードに与えられているのだと。そしてどれほど望んでも、逃げる事など叶わないのだと」  眠りについた赤子の横で、かつて妻であった鞘を抱きしめながら、「ごめん」と繰り返し言い続けた少年の小さな背中を、ルスターは生涯忘れないだろう。偉大なる存在に惨い選択を強いられた少年の、声にできなかった悲痛な叫びを、忘れられるはずもなかったし、忘れたいとも思わなかった。  だから心の内で輝くのだ。痛みを伴う運命を受け止めて生きる神の子のそばで、彼らのために生きる事を許された幸福が。 「それからもうひとつだけ。カイ様は、全てを事前にご存知だった。アスト様ご生誕の際、シェリア様が辿る運命……どのような形で命を落とされるかもだ。だからこそカイ様はお前と約束をした。ご自分は運命の元、悲劇を受け止める覚悟を決めながら、無関係であるお前だけは守ろうとしてくださったのだ。結果的に叶わなかった時からは、お前を巻き込んで申し訳ないと、常に悔やみ続けておられた」  立ち上がったルスターは、部屋を出る前に一度だけ、娘に振り返った。 「いつか、お前も誇りに思ってほしい。あの方々の一番近くで生きる自分自身を」  ナタリヤは傷付いた両手で自身の顔を覆う。  その奥でどのような表情を浮かべているのか、ルスターには判るべくもない。少しでも心が軽くなる事を、ただ祈るしかできなかった。 6  月や星の光が明るい晩だ。ふと窓の外を眺めたユーシスは、数多くの星たちに囲まれて輝く中天の月の眩しさに目を細める。  ユーシスは読みかけの本を挟んで閉じると、肩にかけているだけだった上着に腕を通し、寝台から出た。先日、強い雨が降っていた時に窓を開けたせいで体が冷え、軽く熱を出してしまい、使用人のモレナに怒られたばかりなのだが、言い付け通り上着を着ているし、今日は天気がいいようだから、窓際に寄るくらいならば許されるだろう。  窓に近付いて見上げた夜空は、寝台から見たものよりも近く、明るいものに見えた。ユーシスは無意識に口元を緩め、飽きる事なく空を見上げ続けていた――母の眠る場所に、子供の影を見つけるまで。  こんな所にひとりで現れる子供など、アスト以外には考えられないのだが、ユーシスは一瞬誰だか判らなかった。月明かりと同じ色の金髪を目にしてもだ。  ユーシスにとってアストの背中とは、強い雨風の中でもけして揺らがず、魔物が現れても勇気を持って立ちはだかってくれる、強く頼もしいものでしかなかった。しかし今日の、ユーシスの母の墓の前で膝を抱えて座る少年の背中には、頼もしさも強さも見当たらない。無防備な赤ん坊よりも弱々しい生き物にさえ見えたのだ。  大きさは変わっているはずもないのに小さく見える背中は、けして無視できないもので、ユーシスは窓を開けたくてたまらない衝動に駆られた。不注意で風邪をひいたばかりだと言うのに、冷える時刻に窓を開けた事が知れたら、後にくどく叱られるだろうとは考えたのだが、結局理性は欲望に勝てず、とうとう窓に手をかけた。 「何をしているんだい?」  勇気を出して声をかけると、窓の向こうの少年は、僅かに反応を見せるだけで振り返るなどの行動を取ろうとはしなかった。  声に反応した以上、聞こえていないわけではないだろうから、ならば自分と話をしたくないのだろう。せっかく勇気をひねり出したと言うのに、無駄であった事は悔しく、恥ずかしいとさえ思った。  やはり窓を閉めようと思い至った頃、アストが振り返ると、ユーシスは窓に手をかける事も忘れ、少年に見入ってしまった。  生気のない顔、とでも言えば良いのだろうか。なぜ生きているのか、ほんとうに生きているのか疑問に思うほど力の無い表情は、鏡や窓に映して見るユーシス自身のものよりも酷いものだった。  アストの空ろな瞳は、残された僅かな力でユーシスを捉えると、少しだけ明るくなったように見えた。希望を見つけたと言っては大げさだが、何かしら、縋るものを見つけたような。  立ち上がったアストの足取りは、はじめて立ち上がった赤子のように――ユーシスは人のそれを見た事がなかったが――たどたどしい。その割に、剣を抱く手に込められた力は強そうで、その不均衡さが見る者の不安をかきたてた。  アストの手が窓枠にかかると、彼の右腕に巻かれた包帯に、ユーシスははじめて気が付いた。転んだりぶつけたりした傷にしては範囲が広いし、大げさな気がするそれが何なのか。気になったユーシスだが、質問を投げかけようとしたその時、力の無い目に貫かれ、何も言えなくなってしまう。 「何か、悲しい事でもあったの?」  ユーシスが語りかけると、アストは僅かに目を見開いてから、目を反らすように俯いた。  何も言わないアストに対し、ユーシスは僅かに苛立った。顔を見るだけで、アストにとって辛い事があっただろうと容易に予想できたが、辛そうな様子だけ見せられても、なぜ辛いのかを教えてくれなければ対処のしようがない。それに、母の死後、辛い日々をひとりで乗り越えてきたユーシスにとって、他者に苦痛を見せるアストの姿は、嫉妬の対象にもなりえた。  苛立ちにまかせて追い返してもよかったのだろう。だが、ユーシスはそれをしなかった。結局のところユーシスに何を言う事もできず、ただひとりで震える少年の姿に、かつての自分を重ねてしまったからかもしれない。 「なんで、悲しくない、なんて、思えたんだろう」  窓枠と剣を掴む手に更なる力がこもり、指先が赤く染まりはじめた。 「俺の、せいで――俺のせい、なのに。どうして……」  短く区切られて吐き出される言葉は聞きとれないほどではなかったが、事情を知らないユーシスに理解できるほどには意味が通じていなかった。しかしユーシスは、急かす事をせず、時に相槌を打ちながら、アストが語り終えるの静かに待つ。  アストは元々説明が上手いほうでは無いのだろう。加えて、頭がまともに働かなくなるほど衝撃を受けた状態のようだ。幾度も区切りながら語られる言葉全てに耳を傾けても、詳しい事は判らなかった。  だが、いくつかの重要な事は理解できた。生まれてくるために母を殺してしまった事。その様子があまりに凄惨であったために、目撃した人の記憶を奪うほどに心を傷付けた事。仲が良いと思っていた相手に、化け物と罵られた事。  アストが語る痛みは、ユーシスには理解しやすいものだった。神の子として人々に崇められる彼と、魔物の子として人々に忌み嫌われている自分は、ほとんど全てが違っているようでいて、結局の所同じなのではないか、と錯覚してしまいそうだ。  悲しむ原因が判ったからと言って、対応策が浮かぶわけではない。むしろ、ますますかける言葉を見失った。傷付いた心を癒す言葉など、今までほとんど受け取った事がない。あったとすれば、それはアストから貰ったもので、そのまま彼に返すのはおかしい気がした。  自分ならどうして欲しいだろう。考えてみても、思いつかなかった。自分ならば、はじめから誰かに頼ろうとせず、暗い部屋の中でひとりきり、時が過ぎるのを待つだろうから。  助けを求めて辺りを見回したユーシスは、亡き母の墓標を見つけた。一瞬にして蘇る、今よりも更に幼き日の思い出は、良い事ばかりではなかったが、抱きしめてくれる母の柔らかな体や、頭を撫でてくれる柔らかな手の心地良い思い出は、今のユーシスに投げかけられた難問の、ひとつの答えに思えた。  恐る恐る手を伸ばす。俯いたアストが無防備にさらけ出す頭に触れ、ぎこちない手付きで撫でてみると、アストは驚いて顔を上げ、ユーシスを見つめた。大きく見開かれた空色の瞳は、数瞬呆けていたが、やがて細められ、大粒の涙をとめどなく溢れさせた。  自分が泣かせてしまったのかと、ユーシスは慌てて手を背中の後ろに隠し、声を上げて泣きはじめたアストの様子を見守った。謝るのも何かおかしい気がするし、何より今の彼にユーシスの声が届くとは思えない。ではどうするべきだと、こんな事になるなら何もしなければ良かったと、ユーシスはいっそう困惑した。  一緒に泣いてしまいたい気分だった。ユーシスとて、母を殺した罪悪感を忘れたわけではない。今真実を知ったばかりの少年に比べれば、上手く気持ちの整理を付けられるが、音もなく訪れる深い闇の中で、悲しみに押し潰されそうになる日は、けして少なくないのだ。 「アスト!」  呼ばれた名は自分のものではなかったが、ユーシスは声に振り返る。同時に、アストは身を強張らせた。 「やっぱりここか」  闇の中に見つけた青年の顔を、ユーシスは知らなかったが、アストによく似ていると思った。おそらくは彼も神の一族で、だとすれば、ユーシスには青年が何者であるか心当たりがあった。きっと、いや、間違いなく、『神の御子』と呼ばれる男、アストの父親であるカイだ。  カイの存在に気付くと、アストは泣き声を飲み込み、目元や頬を乱暴に擦って涙の跡を消す。隠しきれるわけが無いと判ると、逃げ出そうとしたが、その前にカイがアストの体を捕らえた。  カイは何も言わずにアストを抱き寄せた。逃げられないようにとの意図も含んでいたのだろうが、一番は、泣き顔を見せたくないと思っているアストの意志を尊重しての事なのだろう。 「こんな時間に、邪魔をしたな」  カイの腕の中で嗚咽を堪えるアストを見下ろしていたユーシスは、自身にかけられた声に振り返った。 「いえ。気にしないでください」  ユーシスが返すと、カイは一瞬だけ驚いたそぶりを見せる。 「立派と言うか、しっかりしているな。さすがだ、ユーシス……っと」  カイは咳払いを挟み、アストを抱えた状態の中でできうる限り姿勢を正してから続ける。 「一方的に名前を知っているのはずるいよな。俺は」 「カイ様、ですね」 「俺を知っているのか? アストに聞いたとか?」  咄嗟に訊ね返すカイに、ユーシスは肯いて答えた。 「それもありますが、お母さんが生きてた頃、よく話してくれましたから」  神の子カイ。ザールに住む全ての神官たちが拒む中で、ユーシスに生誕の祝福を与えた男。  彼が祝福を与えてくれなければ、ユーシスは今以上に、人として扱われなかったかもしれない。魔物の子として始末されていたかもしれない――生きている事すら疎ましく思う日々の中で、ユーシスは彼に対して恨みに似た感情を抱き続けてきた。  だから、もし本人と会う時が来たら、ぶつけてやろうと思っていた言葉がいくつかあるはずだった。しかしそれらは、なぜかユーシスの口から飛び出してこなかった。  探しても見つからないのだ。以前アストに向けて全て吐き出したからだろうか。あるいは―― 「ずっと秘密にしておけるわけがないのに、無駄な嘘を吐くから、アストは余計に傷付いたんですよ」  待っていても浮かんでこない恨み言の代わりに、今沸きあがったばかりの小さな怒りを冷たく言い放つと、カイは苦笑した。 「手厳しいな」 「子供の言葉は素直だから、的確に痛いところを突くんだと、この間読んだ本に書いてありました」 「子供が読む本じゃないな、それは」  続いてカイは、静かな微笑みを浮かべた。  神の子としての慈愛の眼差しだろうと思ったユーシスだが、よく見ると、彼自身の息子であるアストに注がれているものと全く同じで、単なる人としての情なのだと理解せざるをえなかった。  理解してしまったからこそ、ユーシスは余計に混乱する。なぜ、そのような優しい笑みを、自分に向けるのか。 「以前俺はアストに言った。レイシェルさんは、子供を産んだ事とは関係なく病にかかって亡くなったんだってな。それからシェリアが――こいつの母親なんだが、彼女が亡くなったのも、アストを産んだ事には関係ないって」 「以前、彼の口から聞きました。結局は丸ごと嘘だったんですね」 「真実を知らない人にとっては、そうかもしれない」  カイの腕の中に居るアストの体が硬直する。自分も同様だとユーシスが気付いた頃、カイは続けた。 「俺は本当の事を知っている。シェリアを殺したのは、こいつに光の剣を与えた存在だと」  他の者が口にしようものなら直ちに首を刎ねられかねない危険な台詞を、カイは平然と口にした。 「シェリアを殺したのはエイドルードだ。アストに罪はない。アストが傷付く必要なんて、どこにもないんだよ」  神の残酷さを告げる声は、光に溢れていた。無関係のユーシスがそう感じたのだから、アストにとってはもっと力のある言葉なのだろうか? 答えは、父親にしがみつく手により強く込めらた力に、現れているような気がした。 「とは言え、傷付いてしまった今現在にとって、嘘か本当かなんて、あまり関係無いのかもしれないな」 「そうですか?」 「そうじゃなけりゃ、アストも君も、今頃けろっと笑ってるんじゃないか?」  自分はともかく、アストに関してはその通りかもしれないと納得し、ユーシスは肯いた。 「まあ、真実もアストにとってはけして優しい事じゃないし、他にも色々とあるだろうからな」  未だ泣き続けるアストを抱え上げたカイの大きな手が、アストの頭を、肩を、背中を撫でる。触れられないユーシスには判らない事だが、きっと温かいに違いない。手から伝わる体温だけでなく、心が――今はもう亡くしてしまった、母の優しい手のように。  母に抱かれていた自分も、こうだったのだろうか。心から頼り、全てを任せてしがみついていたのだろうか。くすぐったい想いと、今もまた抱き付ける相手が居るアストへの軽い嫉妬が混じりあい、ユーシスは俯きがちになる。 「ところでユーシス」  カイに名を呼ばれ、ユーシスは再び顔を上げた。 「はい?」 「実は君に、頼みがあるんだが」 7  美味しそうな匂いがする。  焼きたてのパンや、沢山の具が煮込まれたスープの香りが、緩やかにアストの鼻に届き、空腹を訴える腹を刺激しはじめた。しかしアストの中ではまだ僅かに、眠気の方が勝っている。睡眠の邪魔をするものを遮ろうと、肩までかかっていた毛布を引き上げようとしたアストは、追い討ちをかけるように何かを焼く音がすると、諦めて薄目を開けた。  アストの部屋は全体的に白か、白に近い灰色で統一されているはずなのだが、目の前に広がる色は、なぜか濃い目の茶だった。不審に思ったアストはもう少しだけ目を開け、色の正体を確かめる。  どうやら木目の壁のようだ。ますます怪しいので、今度は精一杯目を開いた。もしかすると寝ぼけて夢と現実が混じっているのかもしれないと疑っていたのだが、はっきりと目を覚ましても、やはり壁は茶色かった。  ひとつ疑いを持つと、他にもおかしいところに気が付く。まず寝台が固いし、かかっている毛布が若干重く、肌触りも劣っている。だいたい、アストの部屋まで調理場の匂いが届いた事など、過去に一度としてなかったはずだ。  アストは上体を起こし、部屋の中を見回して、更なる違いを探した。住み慣れた自室に比べて明らかに狭いし、外からの陽の光の入り方も違っていた。 「起きたの?」  突然声がかかり、アストは大げさに反応した後、身を強張らせる。  声の主はユーシスだった。部屋の扉が開けっぱなしになっているので、入ってきたばかりなのだろうか。アストが驚いた事に驚いた様子で、一瞬拍子抜けした顔を見せた後、すぐに小さく笑いはじめた。  ああ、そうか。  アストはようやく現状をはっきりと理解した。  昨日の晩のアストは、城の中に居場所を見つけられず、無意識のうちにユーシスの屋敷まで来てしまったのだ。そして父の提案で、一晩泊めてもらう事となり、今朝に至るのである。 「朝食がもうすぐできるみたいだけど、食べる?」  言葉で答えるよりも早く、アストの腹が鳴った。そう言えば、昨晩夕食前に城を飛び出してから、何も口にしていない。  ユーシスは派手な音をひとしきり笑ってから、「食べるみたいだね」と言った。 「誰が作ってるんだ?」 「伯父さんが手配してくれてるらしい使用人の人。毎日通いで来てるんだ。朝早く来て、一日分の食事作りとか、掃除とか洗濯とかして、昼前には帰る。僕が寝込んだ時とかは、少し変わるみたいだけどね」 「じゃあお前、朝以外は温かいもの食べられないのか?」 「うん。でも別にこだわりはないから、困ってないよ。どうしても温かいものが食べたかったら、自分で温められるし。やった事はないけど、できないわけじゃないから」  そうなのか、と相槌を打ちながらアストは寝台から這い出した。 「ところで、俺の分ってあるのか? 普通、お前の分しか作らないだろ?」 「寝る前に朝食はふたり分お願いしますって手紙書いて台所に置いておいたから、多分大丈夫だと思うけど、もし駄目でも、どっちかが昼食分を食べればすむ話だよ」 「そしたらお前の昼飯がなくなるじゃないか」 「何かしら食材は備蓄されてるから、いざとなればそこから何か食べるよ」 「お前、料理できるのか!」  生まれてから今日まで、身の回りの事を何もしてこなかったアストにとって、同い年のユーシスができると言う事実は驚くべき事だった。思わず尊敬の眼差しを注ぐと、ユーシスは歪んだ口元に困惑を浮かべた後、小さく首を振って否定する。 「料理と言うほどのものはできないよ。けど、生で食べられる野菜とかがいくらかあるだろうし。それがなくても、大抵のものは煮るか焼くかして火を通せば食べられるものに変わるから。美味しいかどうかは別にしてね」  繊細な容姿に似合わない台詞を堂々と言われると、アストはどう反応するべきなのだろうとひとしきり悩んだ後、ごまかすような笑みを浮かべながら、正直な感想を口にした。 「お前、見た目と違って、結構大雑把なんだな」  ユーシスは眉間に皺を寄せ、深いため息を吐く。何か言おうとして口を開き、押しとどめようと唇を引き締める、との行為を数回繰り返すと、一文だけ言葉を落とした。 「そんなのしか食べられない日があったから、仕方なくね」  重苦しい言葉だった。笑みが急激に引きつると同時に、ユーシスが魔物の子として忌み嫌われていた事実を思い出したアストは、胸と声を詰まらせる。  アストの緊張を解すように、ユーシスは静かに微笑んだ。 「そんな顔しなくてもいいよ。昔の事だし。今の人は二年くらい前から来てくれてるんだけど、ちゃんとした人で、今のところ一日も仕事をさぼってない。食欲がある時は、毎日ちゃんと食べてるよ」 「でも」 「前の人だって、別に僕を飢え死にさせようとしたわけじゃないと思う。食材は屋敷に残しっぱなしだったし、一度に放置されたのは長くても二日くらいの事だから、何も食べられなかったとしても死ねなかったよ。そもそも僕を殺したいなら、毒を盛るとか、もっと簡単な方法がいくらでもあるじゃないか。僕が怖いせいでここに来るのが嫌で休みがちになったとか、本当は僕を殺したいくらいだったけど、僕よりもカイ様や伯父さんの方が怖くって、嫌がらせするのがせいぜいだったとか、そんな所じゃないかな」  ユーシスにしては軽妙な語り口で紡がれる言葉の数々は、軽妙だからこそ余計に痛々しく、アストの心に突き刺さる。  痛みは、アストの記憶の中から昨日のナタリヤを引きずり出した。向けられた冷たい目や、吐き捨てられた冷たい言葉は、今でもアストの胸を握りつぶす。たった一日の出来事でも、アストにとっては耐えがたい苦痛だった。  だがそれは、ユーシスにとっては日常だったのだ。しかも彼には、アストのように逃げ場はなかった。ただ耐えて、大した事じゃないと言いたげに語れるようになるまで耐えて、今日まで生きてきたのだろう。 「今更だけど、不思議だね」  情けないような、恥じ入るような気持ちで俯いていたアストは、心ここにあらずと言った様子のユーシスが発した突然の呟きに顔を上げる。 「な、何が?」 「僕さ、君に言っただろう? 守って欲しくなんかなかったって。それって、死んだ方が良かったって言ってるのと同じで、実際僕は、死んだ方が良かったって思ってた。それなのに、いざ死を目の前にした時の僕は、わざわざおいしくないもの作って食べて、生きようとしてたんだなって、今更気付いたんだよ。嘘を言ったつもりはないし、やりたくない事をしたつもりもない。凄い矛盾しているのに、僕の中に当たり前のようにあって、それが不思議だなって思ったんだ」  言葉で説明されると不思議な事に思えたアストだが、意味が心まで浸透すると、それは不思議な事でもなんでもなく、単純な、当たり前な事にしか思えなかった。  少なくとも、アストにとっては当たり前なのだ。自分の出生の瞬間を知り、全身が引き裂かれそうな痛みを心に感じ、いっそ楽になるために引き裂かれてしまいたいと考えながら、無意識に救いを求めたアストにとっては。普段の生活環境から切り離されたユーシスの館に逃げ込んだのも、無茶苦茶としか言いようのない、無条件でアストを許す父の言葉を受け入れたのも、崩壊から自分を守るためだ。可哀想な母の死を悼み、苦しむナタリヤに心を裂きながらも、あたりまえのように最優先にしているのは自分が生きる事で、その事実に罪悪感を抱く事があっても、究極の逃亡や償いのために死を選ぶなどと、考えられない事だった。  思い出の強さか、元来の性格か、自分ほど薄情ではないだろうユーシスは、違うのかもしれない。アストの何倍も、何十倍も苦しみんでいるのかもしれない。けれど―― 「不思議か不思議じゃないかはどうでもいいけど」 「よくないよ」 「良い事なのは間違いないよ」 「そうかな」 「そうなんだ」  アストを見下ろすユーシスの瞳が、僅かに見開いた後、優しく細められた。 「俺は、お前が今も生きていて、あの雨の日に会って、今こうして目の前に居てくれて、凄く助かってるから」  音にしてから、あまりに自分勝手な発言だと自覚したアストは、羞恥のあまり固く目を伏せた。 「それじゃあ、僕は君のために今日まで生きてきたみたいじゃないか」 「うん、ごめん、勝手な事言った」 「自覚してるんだ」 「うん。その、俺、今、すごく弱ってるから、許してくれると助かる」  言い訳にもならない無様な逃げ口上を述べて、アストは頭を下げる。謝罪のためと言うよりは、ユーシスの視線から少しでも逃れるためだったが、その程度で逃げきれるわけもなかった。  苦い沈黙は、ユーシスの笑い声によって破られた。結局ユーシスは「許す」と言った類の言葉を一度も口にしなかったが、アストにはその優しい笑い声が、全てを受け止めてくれているように感じた。 「そうだね。どうでもいいって言うのは、意外と当たっているかもしれない」  ユーシスは笑いながら言った。 「気付かなかったり、気付いていても考えないでいた矛盾が、僕の中には他にもあったんだ。でもそれって、考える必要がないからなんだろうね。やっぱり、どうでもいいのかな」  アストは勇気を出して目を開き、ユーシスの表情を覗き見た。 「アスト、僕はね、五年ぶりに誰かと一緒にご飯を食べる事を、とても楽しみにしているみたいなんだ。昨日君がひどい顔で現れた時どうしていいか判らなくて、なんで来たんだろうって少し思っていたし、僕にできない事を素直にしてみせる君に、ちょっと腹を立てていたのにね」 「うん?」 「でも、どうでもいい事みたいだから、考えるのやめた。さ、君も早くおいで。せっかくの温かいご飯が冷めないうちにね」  ユーシスは彼にしては素早い動きでアストに背を向けると、やや小走りで部屋を出て行く。  ユーシスの言葉の真意を測りかね、落ち込むべきか喜ぶべきか判断つかなかったアストは、ユーシスの足音が聞こえなくなるまで、呆然としたまま部屋の中で立ち尽くしていた。 8  気が付いた時には、窓の外から薄い明かりが差し込んできており、小鳥のさえずりが耳に届いていた。  もう朝が来てしまったのか。ナタリヤは何度か瞬きを繰り返した後、頭を抱えて体を起こす。  朝までの時間を短く感じたわけではない。それどころか、途方もなく長かった。結局一睡もできなかったこの一夜は、勉学や訓練に身をやつし、寝台に入って目を伏せればすぐに朝が来ていた日々と比べれば、永遠とも感じられる時の流れだったのだから。  古い記憶や新しい記憶は、ない交ぜとなってナタリヤを責め続け、拷問のような強い痛みは、疲労を訴えるナタリヤの身体や精神をけして休ませてくれなかった。頭が重く、息が苦しい。ナタリヤはその場に止まったまま、幾度か深呼吸を繰り返したが、肺に広がる空気の、生暖かく絡み付いてくるような不快感に眉をひそめ、部屋を飛び出した。  通路の空気は、部屋の中の空気よりは新鮮に感じられたが、まだ重々しかったので、ナタリヤは更なる新鮮な空気を求めた。乱暴な足取りで城内を着き抜ける途中、早朝から働く者たちと何回かすれ違ったが、全てを無視して庭に出た。  水音がする。発生元は、庭の中心にある小さな噴水だった。  歴史だけがとりえのザール城はどちらかと言えば無骨で、洗練されたものはあまり存在しない。噴水も例に漏れず、質素な装飾が施されただけのものだが、流れる水が朝の光を反射する様子は清然としており、ナタリヤの呼吸を随分楽にしてくれた。  獲物に引かれる動物のごとく自然に、ナタリヤは噴水へ近付く。縁に腰を下ろし、しばらくは緩やかな水音に耳を澄ませていたが、やがて波打つ水面を覗き込んだ。  一晩眠れなかったせいか疲れた顔に、陰気すぎる表情が浮かんでいる。歪んで映っていてもはっきり判るほどに醜い顔だった。いつもはきつく結い上げている髪を、櫛も通さずに背に下ろしたままにしているのも、拍車をかけているかもしれない。急に老けたようにも見え、年頃の娘として恥ずべきなのだろうと考えながらも、ナタリヤは現状から目を反らす事しかしなかった。  膝を抱え、考える。ナタリヤは今の自分に、容姿に構うよりも先にやるべき事がいくつもあり、そのうちのひとつが考える事だと判っていた。  一晩かけても何も進展しなかった行為を繰り返す事に意味があるのかどうかは、考えなかった。意味など考えてはいけない。やらなければならない事を、ただやるだけだ。人が生きるために呼吸をし、食事を摂り、排泄するのを考えないのと同じように、今のナタリヤに必要なのは、ただそれをする事なのだ。たとえ無為だとしても――いや、もしかすると、無為な行為自体が、ナタリヤに課せられた罰なのかもしれない。 「罰……」  ナタリヤは自身の口内で小さく呟いた。  この困惑、胸に湧く罪の意識が、昨日自分がした事への罰だと言う事は、漠然と理解していた。カイが言うのだ、アストは間違いなく大陸の救世主であり、そんな少年の心にも体にも切りかかったナタリヤが罪を負うのは、当然なのだろう。ならば甘んじて受けようと思うからこそ、ナタリヤはただじっと痛みを抱え込んでいた。  だが、同時に思うのだ。世にも恐ろしい光景を見せられ、倒れ込み、何日もの間熱病にうなされたのは。挙句記憶を失った、寄る辺の無い不安は。家族を家族として受け入れるため、新たな絆を作るために必要とした時間は。久方ぶりに足を踏み入れた王都に何の感慨も湧かなかった空しさは。懐かしいはずの友人たちに、薄情者だとでも言いたげな視線を向けられた痛みは――この十年、あらゆる形で苦しんできた事実は、何の罰だったのだろうかと。  カイとの約束を違えた事への罰が、そんなにも重いとは思えない。ならば今ナタリヤが負うべき罰は、今の万倍も心と体に苦痛を及ぼす、残酷で屈辱的なものであるべきであるから。  答えが導き出せずに悩むうちに、ナタリヤは知る。ナタリヤの運命に課せられたものの意味など、神の御子ですら判らないのだろうと。  長いため息を吐く。乱れはじめた心を少しだけ落ち着けたナタリヤは、水音の中にひとの足音が混じるのに気が付いた。  活動をはじめた庭師だろうかと考えたが、すぐに違う事を知った。力強い足音は戦いを知る男のもので、こもる力の割に音が小さく、辺りへの配慮が窺える。  見回りの兵士や、朝の訓練を控えた聖騎士たちなど、選択肢はいくらでも広げられたはずだが、ナタリヤの直感は迷わずひとりを選び出していた。  元より今の顔は誰にも見せたくなかったのだが、中でも一番見せたくない人物だ。ナタリヤは抱えた膝に顔を埋めた。  足音が止まる。数歩離れたところに立ち止まっている人の気配を感じ、ナタリヤは目を伏せた。想像通りの人物ならば、深い憐憫を湛えた瞳をこちらに向けているに違いなく、それは吐き気がするほどの苦痛だった。 「ナタリヤ」  やはり、そうだ。ナタリヤの名を呼ぶ掠れかけた声の中に、強い哀れみを感じ取ったナタリヤは、いっそう体を縮めた。抱えた膝に爪を立てるほど、強く。 「放っておいてください」  見られたくない事と同じくらい、何も言いたくなかった。だが、何も言わなければ彼はずっと立ち尽くしたままだろうと、容易に予想できたので、ナタリヤは仕方なく口を開いた。膝の間から漏れるくぐもった声は、彼に届いているだろうか? 「君が放っておける態度を取ってくれれば、そうできるんだけどな」 「貴方には私よりも構うべき相手がいらっしゃるはずです」  男――カイが、ナタリヤよりいくらか離れたところに腰を下ろす気配がした。静かに息を吐く音が、水音に混じりながら、しかしはっきりと聞き取れた。 「君が記憶を失うと共に、俺はザールで得た、たったひとりの友人を失ってしまったよ。八歳以降の君は、以前のように接してくれなくなったからな」  古い話を突然ふられ、ナタリヤは羞恥に頬を染めた。七歳の頃とは言え、カイが寛大だったからとは言え、とんでもない事をしていたものだ。 「正直言って寂しかったが、それ以上に喜んだよ。君が全てを忘れていたから」 「昨日のように、私がアスト様を傷付ける事がなくなると思ったからですか」 「ああ」  心のどこかで否定してくれる事を期待していたナタリヤは、即座に肯定されて息を詰まらせた。 「俺は、あの時点で一番傷付いていたはずの君よりも、アストの事ばかり考えてた」 「し、仕方のない事だと、思います。貴方はアスト様のお父上なのですし、そうでなくとも、大陸の未来を考える立場にある方なのですから、救世主であるアスト様を最優先すべき……」 「俺の事は恨まないのか」  ナタリヤは両目を見開く。目に映るのは、濃い影のかかった自身の膝だけだった。 「君はアストの事を恨んでいるだろう?」  返す言葉は、自分の中をどれほど探しても見つからなかった。カイの指摘はこれ以上無いほど的を射ており、ナタリヤが必死になって隠そうとしていた本音を掘り起こしたのだ。  カイの言う通りだった。一晩中考える中で、ナタリヤは自覚していた。自分はアストを恨んでいる。自身の身に降りかかった、不幸との言葉であっさりと片付けたくない数々の出来事の根源が、彼の誕生にあるがために。だからこそアストに対して酷い言葉を投げ付けたのだ。化け物だの魔物だのと言った認識は、小さな子を苛める自分を正当化するための思い込みだったのだろうと、一晩中考えた今では判っている。  それらを知ると同時に、理解した事もある。ナタリヤが苦しんできたのはアストのせいではなく、単なる逆恨みなのだと言う事だ。だからこそ今のナタリヤの中には罪悪感と、反省する心が生まれているのではないか。 「私は、貴方を恐れた事があります」  シェリアの死の瞬間に感じたものを、ナタリヤは正直に吐き出した。礼儀を欠いているとは判っていたが、彼ならば受け入れてくれるだろうとの信頼があったのだ。 「けれどそれ以上に、私は貴方が大好きでした。幼い私にとっての貴方は、ザールで見つけた、唯一の、友でしたから。貴方は幼く我がままな私を疎まず、毎日構ってくれた。私を守ろうとしてくれた。記憶を失った後も、貴方は私に優しかった。両親の子として、次代のザールを背負うものとして、立派になりたいと願う私の想いを汲み取り、剣を教えてくれたのは貴方です。そんな貴方を、どうして――」  途中で言葉を飲み込んだナタリヤは顔を上げる。膝を抱えていた手をゆっくりと動かし、唇の上で重ねた。強く、強く、息もできないほど押し付けると、感情は代わりに両目から溢れ出した。 「どうして恨めると言うのです」と叫ぼうとして、ナタリヤは戸惑った。  ああそうだ、私はけしてカイ様を恨めまい。  ならば、どうしてアスト様は恨めるのだ。あの子とて、優しかったではないか。寂しさのあまり他人の中に自分の居場所を見つけようと一生懸命で、私のそばに僅かながらもそれを見つけ、必死にしがみついていたではないか。照れ臭そうに愛らしく笑う彼を、愛しいと思った心に嘘はない。そうだ、私は。  アスト様の事も、大好きだった――  息が詰まったナタリヤが震えていると、数歩分の足音が響いた。無言で腰を上げたカイが、ナタリヤの隣に座り直したのだ。  カイは少し戸惑い気味に手を伸ばす。無骨な指は、蜂蜜色の髪に絡んだかと思うと、ナタリヤの頭をやや乱暴に引き寄せた。  ナタリヤの目の前にカイの胸が迫った。温もりを感じてしまえば、もう止められない。ナタリヤの精神は一瞬にして逆行し、今この瞬間、七歳の子供になっていた。少年時代のカイにじゃれついていた時のように、ためらいもなくカイにしがみつき、大声を上げて泣いた。泣き続ける間、じっと待っていてくれたカイの腕は、両親のものに勝るとも劣らない頼もしさで、思う存分甘えられるものだった。  早朝で良かった。滅多に人が通らないから。噴水のそばで良かった。多少は泣き声を隠してくれるから。  長い時間をかけて感情を吐き出しきった時には、涙も声も涸れかけていた。ナタリヤは目尻に残った涙を指で拭うと、カイから離れる。水面に映して見なくとも、醜い顔がいっそう酷くなっているだろう事は判っていたので、俯いたままカイの顔を見ようとはしなかった。 「今からアストを迎えに行こうかと考えているんだが、一緒に来るか?」  頭上から届くカイの声が胸に染み入る。ナタリヤは無言でしばし考えてから、首を振った。 「私はまだ、私自身を信用できません。感情が理性の指揮下を外れた時に、何をするか……また、アスト様を傷付けてしまうかもしれません」 「だから、君に任せるんじゃなく、一緒に行こうと言ったんだけどな。君が傷付く前に、アストが傷付く前に、止める事ができるように」  再度涙が滲み出しそうになり、ナタリヤは必死に堪えた。これ以上泣いてしまったら、今度こそ確実に涙が枯渇してしまうだろう。  声を出しては涙が抑えきれないと本能で察したナタリヤは、再び無言で首を振ると、僅かな沈黙の後、優しいため息が頭上から届いた。 「まあ、無理強いはしないよ」  声色に残念そうな響きが篭っているのを知ると、ナタリヤはまたも首を振る。  違う。カイ様が受け取ったものは、私が意図したものではない。 「この格好じゃ、こんな顔じゃ、行けません」 「へ?」 「身支度を整える時間を下さい」  勇気を出して伝えると、カイが頷く気配がする。直後、「判った。ここで待ってる」と、改めて言葉での返事が届く。  ナタリヤはすぐさま立ち上がり、カイの横を通り過ぎた。  あまり待たせてはいけないと、全力で走りながら、ナタリヤは一瞬だけ振り返る。覗き見たカイの破顔した様子は、地面を蹴る足に強い力をくれた。 9  ふたり分の食事を広げるだけで余裕がなくなる食卓は、アストの感覚からすると小さすぎるものだった。  おそらくは館が建ってから今日この日まで、来客などひとりもなかっただろう屋敷なのだ。この食卓の利用者は、一番多い時でも、母と幼子のふたりだけだったに違いない。ならば充分なのかもしれないと思いつつも、寂しさがより浮き彫りになった気がして、アストは軽く唇を噛む。用意された食事から立つ湯気の向こうで待つユーシスが、いっそう歪んだ。 「どうしたの? 座りなよ」 「あ、うん」  妙な緊張を覚えながら席に着いたアストは、居心地の悪さをごまかすために周囲を見回した。  食卓から数歩離れたところに台所が見える。やはりアストの感覚からするとありえない事だったが、今度は特に寂しいとは感じなかった。生前のレイシェルは使用人を雇う事なく、家事を全てひとりでこなしていたと聞いているので、むしろ良い事だと思ったほどだ。腹を空かせて食卓に着くユーシスが、ここから母の背中を見守っていた姿を想像すると、とても微笑ましい。 「アスト様?」  ユーシスのものではない声に突然名を呼ばれ、アストは笑顔を凍らせる。一度深呼吸して、小さく跳ねた心臓の鼓動を落ち着けてから、声に振り返った。  ユーシスの世話をしている使用人はザールの民なのだから、アストの顔、あるいは外見的特長を知っているのは当然と言えるだろう。故に、アストが知らない相手がアストに気付いたとしても、驚くべきではないのだが、それによってアストとユーシスの扱いにあからさまに差が付けられる事を、アストは望んでいなかった。せっかく近付いたユーシスとの距離が、また離れてしまうような気がして。  だが、空色の瞳に見知った人物が映った時、アストの中に生まれていた心労は霧散した。不安になる必要がなくなったと言うよりは、純粋な驚きによって、思考能力を手放したからだった。 「女官長……?」  隠しきれない強い動揺を見せる、背筋が伸びた老女の名を、アストは知らなかった。仕方なく、今は違うと知っていながら過去の役職名で呼ぶと、彼女は息を飲んでから深々と礼をする。 「失礼いたしました。ユーシス様のご友人がアスト様とは存じ上げず」 「いや、俺も……」  アストとて、彼女がこの屋敷で働いているとは知らなかった。二年前、アストのせいで城を追い出されるはめになった彼女は、どこかで余生を送っているのだろうと、漠然と思っていたのだ。 「モレナを知っているの?」  食事前の祈りを捧げようと手を組んでいたユーシスは、大きな目を更に大きく見開いてアストに問いかけた。 「うん。以前、城で女官長をしていた人なんだ」  思いがけない再会は、アストの胸に温かな光を生み出した。年齢を忘れさせるほど毅然としたモレナが、舞台を変えても仕事を続けていた事が嬉しかったし、彼女にならば安心してユーシスを任せられると思ったからだった。  アストは未だ戸惑うユーシスを引きずるように祈りの言葉を述べると、不安そうなモレナが見守る中で、目の前の食事に口を付けた。城の料理長の作るもののように洗練されてはいなかったが、人の温かみを感じる素朴な料理は、嘘偽りなく美味しいと言えるものだった。  アストたちが順調に食を進めるのを確認したモレナは、黙って部屋を出て行く。  残されたふたりは他愛ない会話を重ねながら、食事を口に運んだ。見た目からして細いユーシスは食も細いようで、アストが驚くほどに食べるのが遅かった。次第にアストが一方的にまくしたてるような会話の形になっても、アストの方が食べ終わるのが早かったほどだ。  何やら不思議な感覚だったが、楽しい時間であった事に間違いはなかった。時折思い出したようにアストの中に影が差し込むのだが、それはユーシスと話をしているうちに徐々に薄まり、どこかへ消えていった。ずっとここにいれば完全に忘れられるのではないか、ここで暮らすのも悪くないのではないか、などと言った、現実逃避としか言えない思い付きがアストの頭の中を占領しはじめるまでに、さほど時間はかからなかった。  ユーシスが食事を終えると、空になった食器を片付けはじめたので、アストもそれに倣う。誰かがやってくれる環境が当たり前になっているアストにとって、食器を下げるだけでも貴重な体験だった。毎日やるには面倒くさい事かもしれないが、何も知らないアストは、楽しいとさえ感じていた。 「モレナは今何しているんだろう」 「さあ? 僕らが部屋に居ない隙に、掃除でもしているんじゃないかな」 「なるほど――」  頷きかけて、アストは固まる。 「ごめん」  詳しい説明をする時間も惜しく、一言だけ残したアストは走り出した。  大股で十数歩駆ければ辿り着く目的地は、昨晩から借りている部屋だ。部屋に繋がる通路に投入した時点で、開け放たれた扉が目に入り、一瞬にして血の気が引く。アストは慌てて飛び込んだ。やはり、部屋の中にはモレナが居た。  掃除用具を手にしたモレナは、寝台の傍らで、腰を屈めていた。掃除の障害となるものを片付けようとしていたのだろう、しわがれた指の先に、昨晩アストが立てかけておいた剣が倒れているのを見つけると、アストは思わず叫び、モレナの動きを静止させた。  アストはすかさずモレナのそばまで駆け寄り、拾い上げた剣を固く胸に抱き寄せる。背中が壁にぶつかるところまで後退し、モレナとの距離を開けた。  間に合って良かった。アストは焦りが乱した呼吸を整えながら、必要以上に力が入った肩を落として体を解す。 「触れてはならないほど大切なものだったのですね。失礼いたしました」  姿勢を正して謝罪するモレナに、アストは慌てて首を振った。 「そう言う訳じゃないんだ。いや、大切なものなのは間違いないんだけど、大切だから触らせないんじゃなくて、モレナがこれに触ったら、大変な事になるんだ。怪我をしたり、死んでしまうかもしれない」  たどたどしい説明だったが、モレナは理解してくれたようで、深い皺を刻んだ優しい笑みを浮かべる。  間に合って良かった。ナタリヤのように酷い目にあわせずにすんで。懐かしい笑顔を前に、アストは強く思った。 「良かった。今度は守れた」 「今度は?」  呟きに問い返されて、アストは僅かに困惑を見せた。 「えっと、その……二年前は、辞めさせられるの、止められなかったから」  一瞬間を空けてから、モレナは細めていた目を開く。 「私の事を気にかけて下さっていたのですか」 「え? あ、うん。いや、思い出した時にで、ずっとって訳じゃないんだけど」  モレナは再び目を細めて笑い、アストに礼をした。 「ありがとう存じます。この上なき光栄です」 「お礼を言ってもらえるような事じゃないよ。忘れてた時の方が長いし、元々俺のせいだし」 「とんでもない。アスト様の責任ではございませんよ。誤解があるようですが、私は自ら女官長を辞したのです」 「そうなの?」と問いかける代わりに凝視すると、モレナは頷く。部屋の中に満ち溢れた、静かながら力強い空気が、彼女は嘘を吐いていないのだとアストに教えてくれた。 「隠した所で判ってしまうでしょうから、きっかけであった事は否定いたしませんが――かつての私ならばけして犯さなかった失態を犯してしまった時、急に老いを感じたのです。そして、後進に譲る事を決意いたしました。ありがたくも、多くの方々が引き止めてくださったのですが、私はどうしても自分を許せず、息子夫婦に頼って静かに暮らそうと決意したのです」  モレナの告白は、二年間信じ続けていた事を完全に否定するものであったが、アストはすんなりと受け入れられた。いくらアストが大事とは言え、長年ザールに仕えてきた彼女を、たかが窓を閉め忘れた程度で切り捨てるなどと、不自然だと思っていたからだ。そんな不自然な事をさせてしまったのは自分なのだと言う事も含めて、アストは思い悩んでいたのだが。 「ですが、私が未練を残していた事を、領主様はお気付だったようで、こうして新たなお仕事をお与えくださりました。形は変われど、領主様のご一族にお仕えする機会を得られ、幸福な事だと思っております」 「怖くはなかったの?」  ザールの民の目から見たユーシスを知っているアストが間髪入れずに訊くと、モレナは唇を引き結び、僅かな間を空けた。 「私はユーシス様のお父上が何をなさったか知っております。魔物たちは大挙し、ザール城を襲いました。仲間の命や骸は、乱暴に使い捨てられてました」  重く垂れ込める不安を隠そうと目線を下げるアストの表情を覗き込むモレナの瞳は、先程までと変わらない温もりに溢れていた。 「ですが……アスト様、私は、それはもう長い事、ザールのお城に勤めていたのですよ。ちょうど、レイシェル様がお産まれになった頃からでしたか。幼き日の、ルスター様のお背に隠れて、恥ずかしそうにお顔を覗かせていたレイシェル様の可愛らしい事と言ったら――ええ、アスト様。私はユーシス様のお父上より、お母上がどのような方であったのかを、より存じていたのです。そんな当たり前の事を、こちらの屋敷でユーシス様にお会いするまで、忘れていたのですよ。そして、お世話係を務める中で知ったのです。ユーシス様の孤独を」  なんだ。安心してユーシスを任せられる人物は、こんなにも近く居たのか。  その幸運に、アストは感謝した。神に、では少しおかしい気がしたので――天上の神がもう居ない事を知っていたし、自分や父やリタは関係がないのだから――モレナ自身に。 「俺が言う事じゃないかもしれないけど」  先程とは別の意味で目線を上げられなくなったアストは、モレナから目を反らしたまま言った。 「はい?」 「これからもユーシスをお願いします」  モレナは小さく、しかし頼もしく頷いた。 「はい、誠心誠意お世話させていただきます。ユーシス様が在るべき場所に帰られるその日まで」  今度はアストが頷き返す番だった。  深みのある輝きを秘めた老女の目と向かい合い、手を伸ばす。年輪を刻んだ手を取ると、固く握り合った。 10  飛び出して行く様子に驚き呆然としたユーシスは、アストの背中を見送る。  正気に戻ったのは、落ち着きの無い足音が聞こえなくなった頃だった。「何をそんなに慌ててるんだろう」と呟いてから、ユーシスはアストの後を追う。  通路に出ると、開け放たれた扉が見えた。生前の母が使っていた部屋だ。片付けてしまうと母の思い出ごと消えてしまう気がして、五年間も放置――モレナは度々掃除をしていてくれたようだが――していた部屋の主は、昨晩からアストになっている。  拘り続けた部屋をあっさりと許した自分に、ユーシスはひどく驚いていた。他に人が宿泊できる部屋がないのは確かだが、自分の部屋に泊めるなり、自分の部屋をアストに貸して自分が母の部屋に泊まるなりの方法があったのだから。どうしてなのか、自分の事ながら未だに判っていないのだが、不快でなければ別にいいと、無理やり納得する事にした。  部屋に近付くと、中から物音や人の声が聞こえた。どうやらアストもモレナも部屋の中に居るようだ。元々知り合いだった彼らがふたりで会話したとしても不思議ではないが、何を話しているのか気になって、ユーシスは部屋の中を覗き込んだ。  手前にはアストが、奥には掃除用具を持ったモレナが立ち、言葉を交わしている。アストが居ないうちに掃除をしようとしたのだろう、空気の入れ替えのために開け放たれた窓から外の空気が流れ込んできて、ふたりの髪を揺らしていた。  その光景の中に気になるものを見つけたユーシスは、アストたちの会話に対する興味を一瞬にして失った。すぐにその場を離れ、ユーシスにしては乱暴な足取りで、通路を戻る。もはやふたりの声が耳に届かないのは、声が小さいからでも遠ざかったからでもなく、意識から排除してしまっているからか。  食堂の前を通り抜け、館の外に繋がる扉に手をかけた。ためらったユーシスは、一度深呼吸をする。息を吐き出すと共に、以前館が魔物に襲われた時、ここでアストに庇われた事を思い出すと、腹の奥から勇気が湧き上がった。  ユーシスは扉を開いた。外と空間が繋がると、言いようのない不安に襲われたが、細い足に力を込めて立ちはだかる。  目の前には、突然扉が開いた事に驚く者たちが立っていた。ひとりは知っている。「落ち着くために時間が必要だと思うから、ひと晩泊めてやってくれないか」と言って、昨日アストを置いて去った男、カイである。  もうひとり、カイに隠れるような位置に立つ、少女と女性の間を彷徨う年代の人物は、はじめて見る顔だったが、誰なのか予想をつけるのは容易だった。長く伸ばして結い上げた蜂蜜色の髪や瞳の若草色は、ユーシスが持つものと同じ。亡き母やアストの話に幾度か登場した事がある、従姉妹のナタリヤだろう。  ごく近い親族だが、記憶に残る中では初めて会う彼女に対して、昨日までのユーシスは、何ら感情を抱いていなかった。目の前に現れた事に驚いても、それだけで終わったはずだ。  だが、今日は違う。彼女がここに現れた事が、不愉快で仕方がなかった。昨晩のアストのたどたどしい語りの中に登場した名の持ち主だからである。  アストよりも先に彼女の来訪に気付いた幸運を、ユーシスは喜んだ。今のうちに追い返せば、アストは彼女に会わなくてすむ。 「何しに来たんですか」  ユーシスはカイとナタリヤのふたりを睨み付け、刺々しい口調で問う。  悪意が向けられている事に気付いたか、ナタリヤが身を強張らせると、カイが一歩前に出て、ユーシスに微笑みかけた。 「もちろん、アストを迎えにだ」 「貴方が来るのは当然です。でもどうして、その人も一緒に?」 「俺が連れ戻したんじゃあ、帰る意味が無いと思ったから」 「その人が迎えに来たら、アストは帰りたがらないんじゃないですか」  歯に衣着せぬユーシスの物言いに、ナタリヤは萎縮する。カイの背中に隠れているだけでは足りないのか、ユーシスから顔を背けた。  まるで被害者のような態度に、ユーシスはますます苛立つ。何の権利があって、ナタリヤはそのように振舞うのだろう。アストに酷い言葉を浴びせて自失状態に追いやった加害者は、確かに彼女であるはずなのに。 「私……アスト様に、謝罪を」 「自己満足のために?」 「そんなつもりは」 「自分が悪いと思っているなら、帰ったらどうですか。少なくとも今のアストは、貴女に謝られても嬉しくないと思います。貴女がアストにしてあげられる一番の事は、傷を抉らないために、会わないでいる事ですよ」  辛らつに言い切ると、ナタリヤは返す言葉を失ったようだった。胸元で固く組んだ両手を震わせ、きつく唇を噛んでいる。  見かねたカイがユーシスの真正面に立つと、ユーシスの視界からナタリヤが消えた。 「ありがとうな、ユーシス。アストのために怒ってくれて」  肩に大きな手が置かれ、仕方なくユーシスはカイを見上げる。浮かべる穏やかな表情は、ユーシスのためなのか、ナタリヤのためなのか。答えがどちらにせよ、ユーシスは納得がいかなかった。この男が今一番気遣うべき相手は、アストではないか。  感情がこもる事で、カイを見上げる視線が勝手に厳しくなっていくのを自覚していながら、ユーシスは抑えようとしなかった。 「でもこれは、昨日今日だけの問題じゃなくて……」  ユーシスはカイの言葉を遮るように行った。 「アストは以前、僕を守ると言ってくれました」  それだけではない。今朝は、「生きててくれて良かった」と。  どちらの言葉も言われた直後、気恥ずかしいあまりにからかうような口調で返してしまったけれど、存在していてもいいのだと温かに受け止めてくれた言葉が、母亡き今も自分を必要としてくれる人が居るのだと知れた事は、とても嬉しかった。泣きたくなるほどに――そうだ、泣かなくてすむように、笑ってごまかそうとしたのだ。  ユーシスの胸中には願望が生まれていた。いつからなのかはっきりとは判らないが、アストと出会ってはじめて生まれたものなのは確かだった。  何もかもを諦め、ひとり寂しく朽ちていく未来しか想像できなかったユーシスにとって、抱いた願いは未知のものでしかない。正しいのか過ちなのかさえ定かではなかったが、手放してはいけないとの確信があった。 「僕も、アストを守りたいんです」  ユーシスにはアストのような力は無く、できる事などたかが知れているが、だからこそ、できる限りの事をしてやりたいと思った。母が残してくれたユーシスのための空間に匿う事は、今ならば、アストの力になるだろう。 「私も、アスト様をお守りしたかった。かつての父がカイ様を守ったように、私がアスト様をお守りしたいと」 「よくもぬけぬけと」  ユーシスがなおも厳しい言葉を吐き捨てる中、近付いてくる足音が響いた。卑怯にもカイの向こうに隠れていたナタリヤは、ようやく顔を出す気になったらしい。 「ザールの民にとって、ここは魔物の巣窟でしょう。貴女の言葉を借りるなら、化け物まで居る。アストのためを考えなくても、自分の身が可愛いなら、早く帰った方がいいんじゃないですか」  ナタリヤは悲壮な顔付きでありながら、強く首を振った。 「私は恐れていません。貴方も」  ナタリヤはユーシスに落としていた視線を上げ、ユーシスの数歩後ろを見る。 「貴方も」  彼女が誰に語りかけたかを瞬時に察したユーシスは、慌てて振り返る。予想通り、そこにはアストが立っていた。  全く気付かなかった。いつから居たのだろう、どこから話を聞いていたのだろう――いや、そんな事はどうでもいい。彼がここに現れては、何の意味もないではないか。  ユーシスは扉を閉める事によって外と中を分断しようと試みたが、それを止めたのは、よりにもよってアスト本人だった。動揺と怯えの影に隠れた力強さを覗かせた表情で、ユーシスの隣に並び立ったのだ。 「大丈夫なの」と訊こうとして、止めた。訊ねる前に、アストは頷いて答えたのだ。そして彼は、けして弱くない眼差しでナタリヤを見上げる勇気を取り戻した。縋るようにユーシスの腕を掴んでいたけれど。 「昨日はたいへん失礼いたしました」  先に声を発したのはナタリヤだった。何を今更、とユーシスは失笑したが、もはや口を挟める雰囲気ではなかった。 「信頼を失った今、謝罪に何の意味も無いのかもしれませんが、それだけはお伝えせねばと思い、参りました」  アストは否定も肯定もせず、ナタリヤの言葉をただ受け止めていた。ユーシスの腕を掴む手にこもる力が強まったのは、不安の表れだろうか。 「俺は怖いんだよ、ナタリヤ」  囁くような告白には、アストの中で燻ぶる痛々しい想いが溢れていた。 「昨日の事を俺に謝ろうと思ったならなおさら、ナタリヤがはきっとこれからも、ずっと……ずっとじゃなくてもしばらくは、俺を見るたびに、嫌な事を思い出すよね」 「それは――ですが」 「多分、俺もなんだ」  アストの指先からユーシスの腕へ、震えが伝わる。しかしそれは、彼が言葉にしている恐怖によるものではない事を、ユーシスは感覚で理解した。隣に立つ少年は、昨晩やってきた時の小さな彼ではなく、はじめて見た日の頼もしさを幾分取り戻していた。 「父さんは俺のせいじゃないって言った。同じように、ナタリヤのせいでもないんだと思う。そうなると、悪い人は居ないのに、悪い事が起こった事になる。不思議だけど、きっと珍しい事じゃないんだ。それを一番よく判ってるのは、多分ユーシスだ」  突然自分の名前が飛び出した事に動揺したユーシスは、自分へと降りそそぐ、ナタリヤやカイの視線から逃れるため、アストを見上げる。 「だから俺はユーシスを見習う事にする」  儚く微笑む空色の瞳に、ユーシスは身を硬直させた。 「ユーシスは偉いよ。ザールの人たちを恨んだりなんかしてない」  それは、違うよ。  ユーシスの頭の中に咄嗟に浮かんだ反論は、触れる温もりに溶けて消えた。 「ナタリヤも、そうしようとしてくれてるんだよね。だから、俺は頑張る。上手くできるかどうか判らないけど、なかった事にできるようにする。いつかまた、前みたいに笑いあえる日が来るように」 「信頼を取り戻す機会を、私にお与えくださいますか」 「うん。ナタリヤがそれを望んでくれるなら」  ナタリヤはアストの前に跪き、深々と礼をした。微動だにしない姿は彫像のように美しく、アストの笑みと合わさる事で溜飲が下がる思いがしたユーシスは、意識的に呼吸をする事で緊張を解した。  未だユーシスの腕を掴み続けるアストの手を剥がす。どうやら彼は無意識にユーシスを掴んでいたようで、自身の手の行方に驚いていた。 「帰りなよ」  精一杯の微笑みでユーシスが言うと、アストは頷いた。 「辛くなったらまた来る」 「やめてよ。面倒くさい」 「でも、守ってくれるんだろ?」  やっぱり聞かれていたのか!  頬が急激に熱を持ちはじめたのを自覚して、ユーシスは腕を上げて顔を隠す。  感情に任せて吐き出した言葉たちを、アストにだけは聞かれたくなかった。嘘はひと言も口にしていないが、偽りなき本音だからこそ、余計に恥ずかしい。  カイやナタリヤにまで笑われているような気がして、ユーシスはアストの背の後ろに周り、力いっぱいアストを押した。  押されるまま歩き出したアストは、顔だけ振り返る。いくらか明るさを取り戻した笑顔が意地悪く見えたのは、気のせいだろうか? 「辛くなくても来るけどな」 「いいから早く帰れ!」  怒鳴りつけると、アストはしぶしぶと言った様子で歩き出す。何度も何度も振り返り、ユーシスに向けて手を振り続けた。  鬱陶しいなと思いながら、アストの姿が木々の向こうに見えなくなった時に感じた寂しさに気が付いて、ユーシスは苦笑する。扉を閉じ、外の世界を遠ざける事で孤独を呼び込むと、両目を伏せ、扉に額を預けた。 「違うよ、アスト」  ユーシスは言いそびれた言葉を思い出し、呟く。音にする必要がない事に気が付くと、続きは心の中だけで呟いた。  違うんだ、アスト。  僕がザールの人々を恨んでいないのは、僕が優しいとか、ザールの人々を許しているからとかじゃないんだ。  ただ、他人を恨めるほど、自分を大事だと思っていなかったから――いっそ僕を消してくれればいいのにと思っていたから、それだけだよ。  今はもう、違うけれど。  蕾が綻ぶように優しく、ユーシスは微笑んだ。  君が、僕の前に現れてくれたから。 四章 芽生えたもの 1 「ナタリヤ、聞いているのか?」  視線がいつの間にか窓下へと向かっていた事に、父親の声によって気付いたナタリヤは、慌てて顔を上げる。叱られる事を覚悟しながら、恐る恐る振り返った。  予想に反し、ルスターは呆れの混じった笑みを浮かべていただけだった。無言で席を立つと、ナタリヤの隣に並び、先程までナタリヤが見ていた光景を眺める。  窓の下には、飾り気のない庭が広がっていた。訓練場だ。兵士や聖騎士たちも利用するそこは、入れ替わり立ち代わり人が居る場所であるだが、今の時間帯に利用する者は、アストとカイに限られている。  ナタリヤひとりで見守っていた時は激しく剣を打ち合わせていたふたりだが、今は少し距離をおき、剣を構えたまま睨みあっていた。落ち着いた様子のカイに対して、乱れた呼吸を整えるアストと、どちらの方が分が悪いかはひと目で判るほど明らかだったが、それでも「随分成長したものだ」と感心するばかりだ。剣を習いはじめたばかりの頃のアストは、どんなに必死に打ち込んでも、カイに軽くあしらわれていたのだから。 「大きくなられたな」  見下ろす眼差しや語る声からは、まるで実の子や孫を慈しんでいるかのような心を感じる。  ナタリヤは普段、自分の父親は年齢の割に若く見えると思っていたが、この時ばかりは急に老け込んだように感じた。 「そうですね」  奥底から静かにこみ上げる笑いを噛み殺したナタリヤは、父に素直に同意する。  父の言う通り、アストが成長したのは剣の腕だけではなかった。背が伸びる勢いなどは、ナタリヤがそろそろ追い抜かれる事を覚悟しなければならないほどであったし、日々の訓練によって鍛えられた体は、戦士のそれに近付いてきている。今でも軽々とアストの相手をできるのはカイだからこそで、ナタリヤならばいい勝負になってしまうかもしれない。 「今、おいくつだったか」 「アスト様でしたら、十四歳です」 「十四……」 「お祝いをしたではありませんか。もうお忘れになったのですか?」  からかい気味の口調で言うと、ルスターは困惑気味に笑った。 「忘れたわけではないのだが――改めて聞くと、時の流れの早さをしみじみ感じると思ってな」  呟いてから、ルスターはナタリヤのそばを離れ、元通り椅子に座り直した。  広げていた書類を再度手に取ったルスターが、柔らかな表情を神妙なものへと変えたので、ナタリヤも同様に気を引き締め、ルスターの正面に立ち、書類を覗き込む。  昨日までのひと月の間にザールが受けた魔物の被害一覧だった。ほとんど全てが些細なもので、一番被害が大きいものでも数名怪我人が出た程度だが、問題なのは件数だった。洞穴の入り口を封じると同時に多くの魔物を掃討した四年前には、ほぼ皆無と言えるほどに減少していたのだが、徐々に増えてきている。今では五日に一度程度の頻度で、魔物が問題を起こしているのだ。 「また洞穴の封印が壊れたのかと訊かれました。先日ロブの村を訪ねた時の話です」 「あの村はまだ魔物の被害はなかったのでは?」 「ええ、ありません。ですが、魔物が活発になる事によって、通常の動物の居場所が失われているためか、人里に近付いてきているようです。それによって畑などにいくらか被害が」 「そうか……そうだな」  一度は背中を浮かせ、僅かに前のめりになったルスターだが、特に何も言わないまま、再び椅子にもたれかかった。 「エイドルードの不在を知らない民にとって、魔物が活性化する理由は他にありませんからね」 「アスト様にかかる期待が日々大きくなるわけだな」  ルスターは手にしていた書類を机上に戻すと、膝の上で軽く手を組み、ため息を吐いた。  兵士たちを従えてザールを巡回した数日間の内に、民の口からアストの名が数え切れないほどに上がった事を思い出したナタリヤは、父に同調し、同様に息を吐く。  エイドルードの真実を知らない者たちでも、救世主アストの存在は知っているし、アストの持つ剣の威力も噂で聞いているだろう。彼らはアストが具体的にどうやってこの地を救うか知らない――実の所、ナタリヤも詳しい話を聞いていないためにやはり知らない――が、魔物を根絶やしにし、恒久的な平和をもたらしてくれる事は信じて疑わない。  アストに救済を求めていると言う点においては同類であるナタリヤであるから、被害が増えるにつれ民の気が逸るのも、判らないではなかった。しかし、アストの近くで生きる者としては、急かすような物言いで、祈るように縋るようにアストの事を語る民の願いは、重く感じてしまう。  彼はどう思っているのだろう。今もまだ窓下で剣を振るっているだろう少年を思い返し、ナタリヤは苦い感情を胸に広げた。 「巡回中、アスト様に関する、良くない噂話などは耳にしなかっただろうか」  突然父が発した言葉は聞き捨てならず、ナタリヤは睨むようにルスターを見つめた。 「私は特に聞いておりませんが、父上のお耳には、何か?」 「いいや、特には」 「父上!」  机に両手を付いて身を乗り出し、視線を近付けると、ルスターは観念したとばかりに続きを口にした。 「ハリス殿からな。ハリス殿も、部下の聖騎士から報告を受けたのみで、直接聞いたわけではないようだが――『アスト様が未だ魔獣を滅ぼさないのは、魔物と親しくしているからではないか』と言っている者も居るらしい」 「魔物」と言う言葉が何を指しているのか、瞬時に理解したナタリヤの頭に、急激に血が昇った。真っ赤になった顔で、素直な想いを吐露する。 「くだらない事を……」  ルスターは苦い笑みを浮かべながら、静かに息を吐いた。 「そう言うな。アスト様とユーシスが親しくなった時から、多少は危惧していた事だ。実際に起こると、少々堪えるがな」 「その件、アスト様はご存知なのですか?」 「言えるわけもあるまい。黙っているわけにもいかないだろうと、カイ様にはお話したが」  ルスターは一度深呼吸を挟んだ。 「『アストから友人を奪わないで下さい』と懇願されてしまった」 「それで? 父上は何とお答えしたのです?」 「『元よりそのつもりはございません』と」  返答に安堵したナタリヤは、強く頷いた。いつの間にか拳を握っていた両手を机から離し、胸を撫で下ろす。  ユーシスと出会ってから、アストは変わった。胸いっぱいに息を吸い、縮こまっていた四肢を存分に伸ばし、生き生きとしはじめた。彼が十歳にしてようやく、血の繋がった家族であるカイのそば以外に息がつける場所を見つけた事は、アストをごく近い場所で見ている者ならば、誰にでも判る。  この大地に生きる誰よりも大きな重圧を背負わされた少年にとっての、安らぎの場所。ナタリヤにも、誰にも作る事ができなかったものを、ようやくユーシスが作ってくれたのだ。それを奪うなどと、あまりに非道な行いではないか。 「ユーシスはいつまで魔物の子と言われ続けるのでしょう」  生まれてから十四年以上もの間、誰に害を与えるでもなく生きてきた従兄弟に押し付けられた不名誉な称号が忌々しく、ナタリヤは唸る。それさえなければ、アストとユーシスが同じ時間を過ごす事に、誰も文句をつけないはずだった。 「魔物がこの大地から消える時が来れば、皆もユーシスを受け入れてくれるだろうか」 「この件もアスト様頼りだと?」 「お前の言葉ほど私の無能さを浮き彫りにするものはないな」 「そんなつもりで言ったわけではありません」 「私が勝手に言われたつもりになっているだけだ。気にするな」  気にするなと言われても気になってしまう。ナタリヤは居心地悪く、口を噤む。 「もしザールの民がユーシスを受け入れたとして、ユーシスは館を離れる気になるだろうか」  父が新たに提示した問題は思いの他難解で、ナタリヤはすぐに答えを見つけられなかった。  なんだかんだとユーシスの問題をいつも後回しにしてきた一番の原因は、まさにそれだった。どうやらユーシス本人は、今の生活を不満に思っていないどころか、楽しんでいるようなのである。 「考えなさそうですね」 「お前もそう思うか。とは言え、選択肢を与えた上で現状を選ぶ事に意味があるのであって、現状しか選べないと言うのは、やはり良くないだろうな」 「それに、ユーシスの安全も気になります。あまり領民の事を悪く言いたくはありませんが、彼らは自分たちに都合が悪い時だけユーシスを思い出し、自分たちに都合良くユーシス悪人にしたてあげるのです。今は何も起こっておりませんが……」  再び魔物たちが力を増し、ザールに深刻な被害が及んだとすれば、民の抱く憎悪は悪意となって、ユーシスに押し寄せるだろう。感情だけですんでいる内はまだ良いが、暴力へと変化する可能性は否定しきれず、その時に町外れの館に住むユーシスを守る事は、とても困難に思えた。 「厳しい言い方だな」 「私は知っております。罪の無い者に罪を被せて救われようとする人の弱さを」  ユーシスを魔物の子として恐れ蔑む者たちの心を、ナタリヤは知っていた。理解したのではない。はじめから知っていたのだ。  誰もが弱く、誰もが自分と同じなどと思ってはいない。だが、この件に関しては、同じだと言う確信があった。 「ならば、それを乗り越える人の強さを信じる事もできるだろう」  自傷じみたナタリヤの発言に、ルスターはひと呼吸置いて続ける。途方もなく優しい、強い言葉を。  ずるい、と思いながら、ナタリヤは一度目を伏せ、こみ上げるものに耐えた。緩やかに呼吸を繰り返しながら、いつの間にか力みすぎていた肩から力を抜くと、乱れた気が落ち着いていく。  再び目を開けた時には、気丈なナタリヤに戻っていた。 「ユーシスを普通の子として受け入れてもらうためには、相互理解が不可欠です。そのために、まずユーシスの方から歩み寄る事が必要でしょう。そうして少しずつ人と触れ合って……あの子はそれを望んでいなさそうですが」 「やはりそうなるか」 「そうなります」  ルスターは困惑を眉間に刻んだ。 「他の者が干渉しにくい部屋を用意するから来てくれ、と言ったところで無理なのだろうな」 「無理でしょう。完全に隔離した部屋を用意したところで、動くかどうか。そもそも、動こうかと考える事すらしないのでは?」 「私たちが言ったならば、間違いなくそうだろうな」 「どう言う意味で……」  返す問いを全て発する前に、父の意図するところを察したナタリヤは、口を閉じる。そう言う事か、と、心の中で叫びながら。  ろくに会いにも来ない親族の言葉は無力だろう。しかし、心を開いた友の言葉ならば、ユーシスを動かす力になるかもしれない――父の言葉は、打つ手が無い現状の中ではこれ以上無いと断言できるほどの名案に思え、ナタリヤは胸の前で手を組み合わせた。 「では後ほど、昼食の時にでも、アスト様にお話してみます」 「そうだな。結局アスト様頼みになっている点が少々気になるが」 「細かい事を気にしてはなりませんよ、父上。全てはユーシスのため、そしてアスト様のためです」  実際は細かい事などと思っていなかったナタリヤだが、強気で言い切る事によって、父や自身の中にある不安や不満をいずこかへと押しやった。 2  刃引きした剣を振ると、沈黙の空間に風を切る音が響き渡る。その音が、アストは大好きだった。気が引き締まる思いがするからだ。  振り下ろした剣の切っ先が胸の高さになる所で制止し、再び振り上げる。繰り返すうちに剣の軌跡がぶれないように集中すると、周囲から音が消えていく気がする。何十と続けるうちに筋肉が熱を持ちはじめ、全身から汗が滲み出てくるが、その倦怠感すらも心地良かった。  素振りが百を越えた頃だったろうか。自分は今ひとりきりではないのだと、アストが思い出したのは。  アストは剣先を地面に下ろして動きを止めた。額に滲む汗を雑に拭い、開かれた窓に振り返る。  ユーシスはいつも通り、窓際に置いた椅子に腰掛けていた。アストがここにやって来た当初は会話を交わしていたし、アストが素振りをはじめていくらかは様子を見守ってくれていたはずだが、今は小難しそうな本に視線を落とし黙々と読み進めている。他人の基礎訓練を見学するのに飽きたか、単純に興味が移ったのだろう。 「あれ? もう止めるの?」  視線は完全に本に向いているが、意識のいくらかと耳はアストの方に向けていたようだ。アストが動きを止めた事にすぐに気付いたユーシスは、アストに向き直る。 「さっき、打倒カイ様って言ってなかったっけ?」 「言ってたよ」 「百回や二百回素振りしたくらいで勝てる相手なんだ?」 「勝てないよ。勝てないけどさ。訓練はここじゃなくてもできると言うか、わざわざここで訓練するのもおかしいかなって思ってさ」  アストが剣を鞘に納めながら言うと、ユーシスは小さく笑った。 「別におかしくないと思うけど。だって君、腕が上がって、カイ様にまともに相手をしてもらえるようになったのが、嬉しくて楽しくてしょうがないんだろう?」 「まあな。でも、こんなのひとりの時でもできるし」 「ひとりの時じゃなきゃできない事でもない……と言うか、本当の意味でひとりの時なんて、君にはないんだろう?」  痛い所を的確に突かれ、アストは苦笑いを浮かべた。  ユーシスの言う通りだ。ザールの城や町の中では、常に他者が向ける祈りや感情が纏わりついてきて、息苦しい思いをする。父がそばに居てくれればいくぶん楽になる気がするが、ずっとそばに居てくれるわけではないし、だからと言って人目を避けるために自室に閉じこもるのは、もっと息苦しい。だいたい、広い部屋があてがわれているとは言え、室内で剣を振り回すのは、常識はずれにもほどがあるだろう。  本当の意味でアストが開放される場所は、ここだけかもしれなかった。ユーシスのための場所であるから、やはりひとりにはなれないのだが、城でひとりになるよりも、気分的にはよっぽど自由になれる。 「俺さ、ここが好きなんだよなぁ」  ため息と共に、少々気恥ずかしい本音を吐き出したアストに、ユーシスが返してきた言葉は、至極冷静だった。 「知ってるよ」 「そ、そうか」  さも当然のように言われると、照れ臭いと思っていた自分の方が恥ずかしく思え、アストはユーシスに背中を向ける。外壁にもたれると、体中から力が抜けだす感覚に引き摺られ、地面の上に座り込んだ。 「知っているから、好きなだけここに来て、好きなだけ楽にしていればいい」  ユーシスの声が頭上から届くのは、妙な気分だった。はじめて出会った四年前と比較して、ユーシスの身長もそれなりに伸びているが、アストの比ではない。しかも、体があまり丈夫でないユーシスは、椅子や寝台に座っている事が多いため、ここ最近では見下ろされる機会はほとんど無かったのだ。 「話したい事があるなら話しかけてきてもいいし、ひとりでやりたい事があるなら、勝手に没頭すればいいよ。僕もそうするから」  圧倒されたアストが、「それはいくら何でも傍若無人すぎると言うか、場所を共有する意味が無いんじゃないか」と言い返す前に、ユーシスは続けた。 「僕は君と違って、ここがあまり好きではなかったけどね」 「そうなのか?」 「うん。暗くて、静かで、もの言わぬ母が居ても、やっぱりひとりぼっちで。果てしない自由があるのに、息苦しくてたまらない、変な居心地の悪さを感じる世界だった」  ユーシスは手の中にあった本を閉じた。乾いた音が、深い呼吸に重なる。  音につられて顔を上げたアストの目に映ったのは、春の色をしたユーシスの瞳が、遠くを見つめる様だった。 「今は違うけどね。前に比べると、少し明るくて、少し賑やかで……体が軽く感じる」 「そうか」と生返事したアストは、ほぼ真上を見上げる事に疲れて俯いた。  片手で首をさすりながら、自身の足元を見下ろす。沈黙の中、気分が穏やかになると、あえて思考の奥に押し込んでいた考え事が、急激に蘇ってきた。  昼食の時に話題に上がった件だ。アストが食事を終えた頃、ナタリヤはまだ食事の途中だったが、手を止めて突然語りはじめた。ユーシスの今後の事を考えるなら――と。 「あのさ」 「ん?」 「つまりお前は、この館そのものに特に愛着があるとかではないわけだ」 「まあ、そうなるね。それなりに思い出はあるけれど」 「じゃあ、城に来ないか?」  予想通り、一瞬にして空気が変わった。緊張の中に、攻撃的な雰囲気が僅かに混じっている。  ユーシスがどんな顔をしているのか確かめるのが恐ろしい。だが、自ら話を振っておきながら逃げるのは卑怯な気がして、迷った末にアストは立ち上がり、ユーシスとの距離を縮めた。振り返る勇気は未だ持てず、背は壁に預けたままだったが。 「ここが好きだって言い出したのは君なのに、いきなりそう来るんだ」 「俺だって、ほら、大切なのは空気感であって、館そのものってわけじゃないから」  アストは目を伏せ、大きく空気を吸い込んだ。 「お前の居場所がいつまでもここだけなのは、やっぱり良くないと思うんだ。最近魔物がまた活性化しはじめて、魔物がここまで来る危険性も出てきたらしいから、より安全な所で暮らしてくれた方が、やっぱり安心できるし。あ、レイシェルさんの墓の事なら気にするな。お前が城に移るなら、同時に一族の墓地に移すって、ルスターさんが約束してくれた」  覚悟を決めて振り返ると、ユーシスは難しい顔をして考え込んでいた。あからさまに不機嫌な顔をされる事を覚悟していたアストにとって、それは想像よりも遥かに穏やかな表情で、よい兆候に思えた。  いくらかの時間が過ぎた後、ユーシスの目がレイシェルの墓を見据える。それから、アストを。 「そうだね。一族として受け入れてもらえるなら、母さんの墓を移してもらうって言うのは、嬉しい話かもしれない」  期待はずれの返事に肩透かしをくらったアストは、重く感じはじめた頭を片手で支える。 「あのな……言い方は悪いけど、レイシェルさんの件はおまけであって、本題はお前の方なんだぞ」 「僕はいいよ。このままで」 「お前は良くても」 「僕はここを出てはいけないんだ」  穏やかな顔付きで、穏やかな眼差しで、穏やかな口調で、しかしきっぱりと言い切られ、アストはためらいがちに口を閉じた。  儚く弱々しい外見とは対照的な、強い意志を感じる。その意思は、亡き家族への愛情や、十年以上も暮らした場所への執着や、彼を疎む者たちへの怯えから生まれたものには見えず、ならばどこから生まれてきているのか、アストは疑問を抱かずにはいられなかった。 「なんで出ちゃいけないんだ?」 「出ては駄目と言われているからだよ」  ためらいもなくユーシスの口から飛び出してきた返答に対して、アストは新たに疑問を抱く。まず眉間に寄せた皺で表現してから、数瞬遅れで言葉にした。 「何か、前もそんな事言っていた気がするけど、誰がお前に館を出ちゃ駄目だって言ったんだ?」  今度もためらいのない返答が来ると予想していたアストは、ユーシスが随分長く言葉に詰まった事に驚いた。 「誰に言われたんだろう?」 「は?」  アストは間抜けに開いてしまった口を一度閉じてから、続ける。 「いや、俺が訊いてるんだけど」 「そうだよね。うん、判っているんだけど。言われてみれば、僕はどうしてこんなに頑ななんだろうと不思議に思ってしまって。小さい頃母さんに言われたからかな?」 「だとしたら、忘れちまえよ。レイシェルさんなりにお前を守ろうとして言い付けたんだろうけどさ、当時と今とでは、状況が違うんだから」 「うん……」  ユーシスは生返事をしたきり黙りこんで、再度彼自身の母の墓を見つめた。  いつ事態が悪化するか判ったものではないのだから、アストとしては、できる限り早く返事をもらい、行動に移したい。だが、単純に割り切れないユーシスの想いも理解できないではないため、急かす事はしなかった。  代わりに、腰に佩いた、訓練用ではない方の剣に手を伸ばす。手袋ごしにでも伝わる冷たさは、アストが唯一縋る事ができる母の温もりだった。 「考えておくよ」  予想外の回答であった事も手伝って、風の音に紛れたユーシスの声を、アストは一度聞き流しかけたが、逃げ切られる前に何とか言葉尻を捉え、ユーシスに振り返った。 「……本当か?」 「うん。僕だって、いつまでもこのままでいたってどうしようもないって事くらいは判っているつもりなんだ。だからとりあえず、この先の選択肢のひとつとして、考えてみる」  他の者の口から聞いたならば、消極的な答えと思ったかもしれないが、相手がユーシスならば話は別だった。消極的どころか、革新的とさえ言える答えだ。 「大丈夫だ。いざ行ってみれば、想像していたよりもずっと気楽な生活になるって」 「そうかもしれないね。でも……」  続きの言葉を飲み込んで、ユーシスは遠い空を見上げる。  視線を追ったアストは、重なり合う木々の枝の向こうに、ザールの城の中で最も高い尖塔が、僅かに頭を覗かせている事を知った。 3 「ルスター、少しいいだろうか」  部屋に戻ろうと歩いていたルスターを呼び止めたのは、丸めた羊皮紙を手にしたハリスだった。 「何でしょう?」  ルスターが足を止めてハリスと向かいあうと、ハリスはおもむろに羊皮紙を広げる。  地図だった。ルスターにとってひどく見慣れたものであり、ひと目でこの地方のものだと判るそれは、素っ気ない黒いインクで何本も乱雑に線が引かれている。  何も知らない者が見れば子供のいたずら描きだと思うかもしれない書き込みだが、線はよく見ると、同じインクで描かれたいくつかの点を繋いでいた。その点の位置に覚えがあったルスターは、判断力がある大人が描いたものだとすぐに理解し、厳しい眼差しを地図に落とす。 「この線の意味は説明せずとも?」 「はい。魔物が出現する限界線ですね。日々更新されており、現状最も内側にあるものが、一番新しい情報によるもの」 「話が早い。では続けるが、先ほど兵士長と話をし、現状ではこう……」  地図上をなぞるハリスの指は、最もザールに近い線に沿ってゆっくりと移動したが、線の終わりに辿り着く前に停止した。 「なってる定期巡回路を、こう変更したいとの話になった」  ハリスの指が、直前になぞった時より先に進み、インクで描かれた線を越えたところで止まったので、ルスターは肯いて応じた。 「元より貴方がたにお任せしている件ですが、それでも私の意見が必要との事でしたら、異論ありませんとお答えします」 「ありがたいが、ひとつ問題がある」 「金銭面でしょうか。それとも人手の面で?」  即座に思い付いた予想を口にすると、ハリスは一瞬固まってから苦笑する。もはやこの場には不要となった地図を丸め直し、潰さないよう器用に腕を組んだ。 「人手だ。もっとも、その問題のほとんどは金銭で片付くであろうが」  予想が当たった事を素直に喜べない、頭の痛い問題だった。ルスターもハリスに倣って腕を組み、考え込む。個人の労力や財力を駆使してどうにかなる問題ならば喜んでそうするが、どうにかならないのは明らかだった。  特別肥えた土地でもなく、優れた名産品があるわけでもないザールは、裕福との言葉とほとんど縁が無い。ザールのそう短くない歴史上、金銭面の余裕があった事は皆無と言っても過言ではなく、大神殿から洞穴を守る役割と共に与えられる補助金によって、ようやく警備面が成立しているのが現実だった。  カイとアストがザールに居住してからは、彼らを守る名目で多くの聖騎士がザールに派遣されるようになり、より充実した警備ができるようになっていたのだが――その長であるハリスが「人手が足りない」と言っているのだから、間違いなく限界なのだろう。 「厳しいようなら、神殿に頼るしかないだろうな」  容易に返答しないルスターの態度で全てを察したらしいハリスは、ルスターの中に存在していなかった提案をした。 「今以上に、ですか? おそらく無理でしょう。少なくとも、ハリス殿や私の名で縋ったところで」 「つまり、カイ様やアスト様が縋れば可能だと」  ハリスが辿り着いた当然の結論を否定するため、ルスターは静かに首を振った。 「不可能とは思いませんが、カイ様の事です。ご相談したが最後、ご自身にかかるお金を節約するところからはじめてしまうのではないでしょうか」 「カイ様の生活費を減らして何が変わる」 「カイ様アスト様のために大神殿からいただいているお金は、おふた方の生活をお守りするために使うものです。大きな意味で。ザールに滞在する聖騎士たちにかかる経費もそこに含まれております。おふた方の安全のためにザールの安全を守ると言う理屈が成り立つがゆえに、貴方がたもザールの警備に携わっておられる」  ハリスは苦笑しながら頷いた。 「食費服飾費を節約して警備費に回す程度ならば可愛いものだが、あの方なら、身近の守りを排除して外部の警備に回しかねない、と言う事か。四年前の洞穴を封印に行った時、しきりに口にされていたように」 「ええ。これまでは、最後の砦が貴方であったからこそ、カイ様の無茶は通らなかったのですよ。その貴方がお金に困っていると言ってしまえば、最後で……」  静かな通路上で大きな靴音が響き、ふたりは素早く振り返った。十数歩離れた場所にカイが立っている事に気付くと、血の気が引く思いをする。  声を抑えて話していたが、今の話は彼に聞こえていただろうか。もし聞かれていたとすると、都合が悪い上に、なかなか気まずいものがあった。 「ちょうど良かった。どちらかに、頼みたい事が」  カイはまったく新しい会話を振ってきた。どうやら聞いていなかったようだと安心したルスターは、カイに気付かれないよう静かに息を吐く。 「何でしょう」  体ごと向き直ったハリスが訊ねると、カイは手にした二通の封書を目の高さまで掲げながら近付いてきた。 「大神殿に手紙を届けて欲しいんだ」 「判りました。すぐに使者を出しましょう」 「今から出たら夜中になってしまうだろう。大至急ってほどでもない、明日中に着けばいいから、明日の朝に発ってくれれば充分だ。ついでがあればいいと思ったんだが……」 「それでしたら、私がお預かりしましょう。私も明日、王都に使いを出す予定でしたから」 「そうですか。じゃあ、お願いします」  カイが気楽な笑みを浮かべ、軽い動作でルスターに手紙を差し出してきたので、ルスターもつい気軽に受け取った。親しい友人に宛てた、他愛ない内容の手紙を預るかのように――カイにとってのそのような手紙を送る相手が、王都に居ない事を忘れて。  故に、手紙の封にエイドルードの聖印が使われた上、外側から見えるようにカイの署名が刻まれている事に気付いた時は、自身の体が内側から凍りはじめたのかと疑うほど、急激に心が冷えた。  これは正式な形で、神の御子カイの名において出された文書だ。とてもではないが、気軽に扱えるようなものではない。  ついでで良いとカイは言ったが、自分の方をついでにする事を即座に決定したルスターは、脳内で使者の人選をはじめた。単なる使いに頼むわけにはいくまい。急だが、ナタリヤにでも頼もうか。 「どなた宛でしょうか」 「こっちが大司教宛で、こっちがリタ宛です。でも、内容は大して違わないので、間違えてもいいですよ」  宛先を聞く事で確証を得たルスターは、胸の奥から冷たい息を吐き出す勢いを借り、手紙に落としていた目線を上げてカイを見た。 「とうとう来てしまった、と言う事ですね」  ルスターの言葉から察したハリスも、カイを凝視した。 「『その時』が?」 「ええ」  カイは浮かべた薄い微笑みの儚さからは考えられないほど、力強く肯く。 「あと少しだけリタの力が必要なんです。ですから、リタへの手紙には、もう一度だけザールに来て、力を貸してくれ、と書いてあります。大司教への手紙には、リタが大神殿を離れるので後をよろしく、と」  淡々としたカイの語りをすぐにでも止めてしまいたいと気が逸っていると言うのに、動揺のあまりついてこない体に苛立ちを覚えたルスターは、何度か呼吸を繰り返すうち、ようやく問いを絞り出す事に成功した。 「まだ、早すぎるのではありませんか?」  カイは無言で首を振ってから口を開いた。 「早すぎるどころか、遅いくらいですよ。残された時間は半年程度だって、ルスターさんも知っているはずでしょう」 「ならば、半年先でもよろしいのでは」 「お気持ちは嬉しいですけど、これ以上待っても、ザールが受ける被害が増えるだけですよ。この先、人命に関わるような、深刻な被害が起きてしまうかもしれない。そうなってしまった時、苦しむのはアストでしょう? アストやユーシスを責める声が、俺たちで抑えきれないほど大きくなってしまえば、なおさら」  カイは少しだけ顔を背け、ルスターやハリスを直視するのをやめた。 「本当は、今日この日まで待ったのも、俺の我侭なのかもしれません。そうじゃなかったとしても、これ以上は確実に、俺の我侭でしょう」  反射的に「我侭なものですか」と言い返しかけたルスターだが、カイの微笑みが明るいものへと変化する様を見届けるうちに、声を失くした。見惚れるなどと言う生易しい言葉では片付けられない、けして目を反らせない力がそこにあり、ただ凝視するしかなかった。  運命を享受し、悲哀と苦痛を飲み込めば、人はこれほど温かく笑えるのだろうか。これほど、力強く。 「今のアストには、使命を果たすだけの力がある。俺は、それを信じます」  ルスターは黙って肯くしかなかった。  きっとそうなのだろう。カイがそう言うのならば、近い未来にアストはたったひとりで魔物と対峙し、使命を果たすのだと、信じるしかないのだろう。  けれど――けれど私は、使命を果たす神の子を見守る勇気がまだない。  けして口にできない言葉を飲み込み、ルスターは肯いた。手の中にある二通の手紙を破り捨てたい衝動と戦いながら。 「ま、そう言うわけだ、ハリス。あともう少しの辛抱だから、人手の件は、今ある中で何とか工面してくれ。先の長期休みをちらつかせるなりして、今だけ無理をしてくれと」  カイは軽い口調でハリスに語ると、小さく手を振りながらその場を後にする。  遠ざかる背中を見守ろうと顔を上げたルスターの目と、驚いたためか僅かに見開いたハリスの目が合うと、ふたりはどちらからともなく笑った。 「先ほどの話、聞かれていたようですね」 「人通りのある場所で話し込んだのは失敗だったな。まあ、いい。無茶を言われなかったのだから」 「……そうですね」  もしかすると、無茶を言う余裕が無かっただけかもしれないけれど。  確信に似た予感を自身の胸の中だけに秘めたルスターは、角の向こうに消えていくカイを見送った。 4  生温い風が鼻を撫でる。  熱っぽい体を寝台に横たわらせていたユーシスは、どちらかと言えば不快な感触に目を開けた。少しとは言え熱が出ていると言うのに、窓を開け放して寝ようとした自身の不注意に呆れながら。  ゆっくりと上体を起こしたユーシスは、窓の方に目をやった。閉めきった厚いカーテンは揺れておらず、寝起きゆえに正常に稼動していない思考で、風が吹き込んできたのは短い間だけだったのかと判断すると、つたない足取りで窓に近付いた。  カーテンをどかすと、しっかり締め切られた窓が現れたので、ユーシスは思わず首を傾げた。では、先ほどユーシスの上を通り過ぎたあの風は、どこから入ってきたのだろう。気のせいだったのか、隙間風だったのか――どちらかだと思い込もうとしても、風の感触が生々しすぎて、ユーシスは自身を納得させる事ができなかった。  ならば、現実味溢れる夢だったのだ。比較的納得のいく第三の予想を立てると、ユーシスは寝直す事に決める。すでに太陽は高く昇っており、昼が近付いている時間帯だったが、気だるい体は休息を求めていた。  睡眠の邪魔になりそうな、窓の外から入り込む光を遮断するため、手にしたカーテンを手放す。外の景色と部屋の中が切り離されゆく中、広がる木々の中に人影を見付けたユーシスは、再度カーテンを持ち上げた。ちらりと目にした人の背は小さく細く、アストではない事はすでに判っていたが、近付いてきているにしろ遠ざかっているにしろ、その人物が目視できる位置に居るのは間違いない。どんなもの好きなのだろうと、少しだけ興味が湧いたのだ。  もう一度見る事によって誰であるかを知り、そもそも興味を抱くような相手ではなかったのだと判ると、ユーシスは半ば落胆しつつも、変わらぬ日常が訪れた事に安堵した。  そう、この館に頻繁に足を運ぶ者は、アスト以外にもうひとり居る――モレナだ。  もう仕事を終えて帰る時間なのかと納得し、黙って寝台に戻ろうとしたユーシスは、迷った末、窓を開ける事にした。人生の半分ほど世話になっているはずの彼女と顔を合わせる機会はあまりなく、故に言葉を交わした日も少なかったが、今日は彼女と向かいあい、話をする必要があった。どうしても今日でなければいけないわけではないが、今を逃せば明日、もし体調が悪化して寝込む事になれば、何日も先になってしまう。できるだけ早い方がいい事なのだから、この機会を逃す手はなかった。 「おはよう、モレナ」  窓を開けて声をかけると、モレナはゆっくり顔を上げ、ユーシスを見る。  昼近くに朝の挨拶をするユーシスに驚いている様子はない。珍しい事ではないので、当然かもしれないが、ユーシスは少し残念な気持ちになった。 「おはようございます」 「もう今日の仕事は終わったの?」 「ええ」 「いつも早くからすまないね」とでも言った方が良いのか、ユーシスが悩んでいるうちに、モレナは新たな言葉を口にした。 「何かお気付きの点でも?」  モレナの問いかけの意味が判らず、ユーシスは無言を貫く。 「違うのですか? わざわざ窓越しにお声をおかけいただいたものですから」 「ああ、そう言う事? 大丈夫だよ」  言いながら、無意識に自身の鼻を撫でている事に気付いたユーシスは、背中の後ろに手を隠した。 「うん、大丈夫」  自分自身に言い聞かせるように繰り返すと、ユーシスは一度深呼吸する。妙に緊張する自分がおかしく、唇に小さな笑みを浮かべた。 「一昨日、アストが、うちに来た時にね」 「はい」 「多分、僕にとって重要な話を、されたんだ」 「はい」  短い言葉をひとつずつ、落とすように紡ぐユーシスを、モレナはけして急かさなかった。ひと言ひと言にいちいち肯きながら、ゆっくりと受け止めてくれた。 「また魔物の力が増しはじめたから、ここに居ては危険だろうって彼は言っていた。四年前のように魔物に襲われるかもしれないって意味しか彼は口にしなかったけれど、もっと別の意味も含んでいるんだろうと僕は思ったから――だから、彼が城に来ないかと誘ってくれた時、正直迷った。きっと今まで以上に、彼らに迷惑をかける事になる」  モレナは微笑んだ。彼女の顔にいくつも刻まれた、生きてきた年月を知らしめる深い皺は、いっそう深くなる事によって、ユーシスを柔しく包み込む。 「迷う必要はございませんよ」  表情に相応しい、懐深い言葉は、静かにゆっくりと、しかし確かに、ユーシスの中に浸透していった。 「きっと皆もそう言ってくれるんだろうね。でも、迷っているのはそれだけが理由じゃないんだ。僕はやっぱり、沢山の人に触れる事に不安を抱いてる。どんな目で見られて、どんな事を言われるんだろうって。だから僕は、この館を出てはいけないと強く言われた事を言い訳にして、必死に今の環境を守ろうとしてるんだ」  幼いよね、と続けてから、変な事を言ってしまったと気付いたユーシスは、照れ隠しに微笑んだ。もしユーシスが、理知的で頼もしい決断を下したとしても、ユーシスの何倍も生きているモレナの目には、幼く映るだろうに――ありがたくもモレナは、静かに首を振ってくれたけれど。  そうして今のユーシスを受け入れてくれる人が居たとしても、はじめから正しい答えはひとつしかなかった。判っていた事だ。判っていて、ユーシスは答えを出し渋り、アストは黙ってユーシスの答えを待ってくれている。  誰よりも、おそらくはユーシス自身よりもユーシスの事を心配してくれている人のために、できる事をしなければならない。それはきっと、早急な決断だ。 「僕は、城に」 「貴方のお父上は、かつて多くの種を蒔きました」  やんわりとユーシスの言を遮ったモレナが語ったのは、ユーシスが決断するために思考から排除しようとしていた存在だった。 「迷い込んでの事だったのか、自らそこを目指しての事だったのか、今となっては知る者はおりません。ただ、ユベール様が洞穴へと足を踏み入れ、魔獣の声を聞き、魔獣に力を与えられた事だけは、疑いようもない真実なのです」  なぜそのような、辛い話をするのだろう。自身の耳を塞ぐか、モレナの口を塞ぎたい衝動が、ユーシスの中に沸きあがる。  しかしユーシスはそれをしなかった。父がかつて魔獣の眷属と化した事を、嫌と言うほど知っているユーシスだが、父がどのようにして魔物になったのか、具体的にどのようにしてザールを脅かしたのか、詳しい事を知らなかったのだ。ユーシスを疎み近付いて来ない者たちや、ユーシスを愛し気遣ってくれた者たちは、けして教えてくれない事であったから――だからこそ、モレナの話は興味深く、最後まで聞こうと言う気になった。 「半分は魔物でありながら、半分は人のままでいたユベール様の存在は、エイドルードの結界を歪ませました。ユベール様はその存在によって、多くの魔物をザールの中に呼び込んだのです」 「その魔物たちが、『種』?」  モレナは首を振る。 「ユベール様はひとつの力を得ておりました。魔獣の力を、他の者たちに分け与える力です。その力によって、ただの人の亡骸が、魔獣の眷属として蘇りました。生者を魔の力で飲み込み、操る事もございました。そう、容易く人に紛れて動く彼らこそが、ユベール様の蒔いた種。エイドルードの子や聖騎士たちの手によって、芽のうちに摘み取られましたけれど」  しわがれた手を胸の上で重ねたモレナは、ゆっくりと息を吐き出す。その息は重く、ユーシスの心の重さを表現するかのようだった。  ユーシスが生まれる前に亡くなっているため、ユーシスの中には父との思い出がひとつとしてない。ザールに住む多くの民の身や心を傷付けた悪人であったと、話に聞いただけの人物だ。  けれど、ユーシスの中には確実に、実の父に対する執着が存在していた。時々しか思い出せないような、覚めた想いではあったが、それは間違いなく、肉親に対する情だった。  だが、いや、だからこそ、抱く。父の命を断ってくれた者たちに対する、感謝の心を。  かつて、「カイ様への感謝の心を忘れないようになさい」と語りながら微笑んだ母も、同じ気持ちだったのだろうか? 一度は父を愛し結ばれた母の事だから、ユーシスとは違い、多少なりとも恨みを抱いたかもしれないが――それを飲み込み、自身の中で消化して、ユベールと言う男の罪を断ってくれた存在に、感謝したのだろうか。 「ですが、芽吹くにも至らなかったものは、見逃したようです」  思い出に浸っていたユーシスは、咄嗟に顔を上げる。聞き捨てならないモレナの言葉に、体が強張っていった。  温い風が吹く。先ほどユーシスを目覚めさせたものと同じ風だった。顔や手と言った、数少ない露出した部分を、絡みつくように撫でるそれは気色悪く、払いのけようとしたユーシスは、必死に首を振った。  小刻みに揺れる視界の中に違和感を覚え、ユーシスは悪寒に耐えて動きを止めた。  風は未だユーシスを包み、蜂蜜色の髪は小さく揺れている。だが、目の前にある風景は、少しも風の影響を受けていない。やがてユーシスは、自分とモレナだけが風の影響下にあるのだと知った。  目の前の老女の白髪が自分と同様に揺れる事で、ひとりではないのだと知ったユーシスは、小さな安堵を抱く。しかしそれも、突如モレナが浮かべた、不安をかきたてる笑みによって、容易く霧散した。 「発芽せぬまま眠り、誰もその存在に気付かなかった小さな種。大気に満ちた豊潤な気によって、ようやく芽吹くに至ったようです。ああ、もっと早く目覚めていれば、良い機会はいくらでもあったと言うのに――いえ、それでも、嬉しゅうございますよ。志半ばで果てた方々に、ようやく報いる事ができるのですから」 「モレ……ナ?」  渇いた喉でようやくひねり出した声は、自身でも聞き取れないほどに掠れていた。 「ええ、ユーシス様。そうですとも。私は、ユベール様が未来を託した最後の種」  細い指が、ユーシスのまろやかな頬の上を滑る。冷たい、凍るように冷たい手だ。まるで、人の温かさを忘れてしまったかのように。  ふたりを包む風が強まると、ユーシスの胸の中が騒ぎだす。  風の温かさと、老女の手の冷たさは、人の不安をかき立てる魔法のようだった。 「そして貴方は、ユベール様が未来に残した種――」 5  ユーシスは咄嗟に走り出していた。  どうして走るのか、走ってどこに向かうのかは、まだ考えていない。考えなければ、と言うところまで、考えが至らなかった。とにかく今はこの場――モレナのそば――を離れたいとの願望に、従う事が先決だった。ただ逃げたかったのだ。本能的に察した危険がつき動かすままに。  モレナの手を振り払って窓際から離れたユーシスは、モレナに背を向ける。駆け出した先にある扉を、乱暴に開いた。  廊下に飛び出すと、左右に続く通路と、いくつかの扉が目に付く。それが自分の世界の全てだと気付いた時、ユーシスは愕然とした。  一体どこに逃げられると言うのだろう。屋敷の外に出る事すら恐れている自分が。  ユーシスは廊下の中心に立ち尽くし、呼吸をいくつか繰り返す間、こみ上げる絶望に震えた。しかし、その間にも恐怖は少しずつ近付いてきているのだと思い出すと、震える拳で震える膝を叩き付け、何とか勇気を奮い起こし、再度走り出した。  表の入り口はモレナの方が近い。ならば、勝手口か、どこかの部屋の窓から出るしかないだろう――いくつかの選択肢を並べたユーシスは、一瞬だけ思考し、勝手口を選んだ。床を蹴り、食堂に入ると、長い事モレナの場所となっていた台所に駆け寄り、その向こうにある扉に飛びつく。  開こうとした瞬間、扉は外側から突き破られた。突然の事に悲鳴を上げる事もできないまま、ユーシスは身を引いた。勢い余って戸棚の角に背をぶつけ、咳き込む。  扉を蹴破って現れたものは、黒光りする長い毛並みを持つ魔物だった。低く唸る様子や、鋭い歯の隙間から滴る涎は、獰猛に見えたが、体はユーシスよりもいくらか小さいかった。  大抵の魔物は人を軽く凌駕するほど大きいのだと、いつだったかアストが言っていた事を思いだす。それから、ただの動物に魔獣が放つ魔の気が宿り、魔物になる事もあるのだと。ならば、今ユーシスの目の前に居る魔物は、野犬の類が最近になって魔物化したものと考えるべきなのだろう。  何にせよ、この出口が使えないのは明らかだった。魔物は大小に係わらず、ユーシスのようなひ弱な子供が太刀打ちできる相手ではない。早急に別の逃げ道を探さなければ――新たな危機が迫り、恐怖に恐怖が重なる事で、ユーシスの思考は不思議と落ち着きはじめていた。  魔物を警戒しながら、魔物とは反対側にある脱出口である、食堂の入り口に目を配る。走り出そうとした瞬間、入り口に人影が現れた。  もちろんモレナだった。ユーシスは落胆しながらも、魔物とモレナ、どちらの方が突破しやすいか、考えなければならなかった。見た目の印象から心は勝手にモレナを選んだが、モレナの言が正しいならば、今の彼女は魔獣の力を得て魔物と化しているはずである。ただの老女だと侮っては、痛い目を見るだけだろう。  どちらにしても、素手でどうにかできる相手ではない。ユーシスは身近にあるものから、自身の身を守れるものを、素早く探りあてなければならなかった。  この点においてのみ言えば、台所に逃げ込んだ事は正しかったのだろう。一応は刃物である包丁を容易に見つけたユーシスは、刃を構えて魔物へ向ける。 「近寄るな」  ユーシスは精一杯睨み付け、精一杯の低い声で、魔物に対して言い捨てる。すると、魔物の唸り声が静まった。  少しだけ緊張が解れると、ユーシスは肩を上下させながら、ゆっくりと呼吸をする。短い距離だが全力疾走したために、息は激しく乱れていた。 「さすがです。ユーシス様」  乾いた拍手が小さな食堂内に響き渡ると、ユーシスはモレナをきつく睨む。  入り口近くの壁にもたれかかり、唇の端を吊り上げて笑う彼女の姿は、妖艶な悪女にも見え、どこからどう見ても気のいい、気品に満ちた老婆であったいつもの彼女とは、明らかに違っていた。 「小さきものとは言え、魔物を従える事が可能とは。現状でこれならば、真に目覚めた時には、どれほどの力を」 「なっ……何を言ってるんだ。こいつは、刃物に怯えているだけだろう」  乾いた声で怒鳴り付けると、モレナはまず無言で笑い、静かに否定した。 「まさか。いかに弱き魔物でも、貴方のように戦いを知らない少年を恐れる事はありません。たとえ貴方が、そうして武器を手にしていたとしてもです。本気で貴方を喰らうつもりがあるならば、今すぐにでも飛びかかり、貴方の腕を、足を、喉笛を、食い千切る事ができるのですから」  モレナの言う通りだった。ユーシスはただでさえひ弱な上、今日は少し熱があって動きが鈍い。戦いになれば、包丁を振るう間もなく、簡単に負けてしまうだろう。たとえ相手の魔物が、ただの凶暴な犬程度の力しか持ってなかったとしても。  しかしユーシスは、どうしても、モレナの言葉を認めるわけにはいかなかった。 「妙な事を言うな」 「何が妙なのです? 貴方がユベール様とレイシェル様の間に産まれた子である事は、誰もが認める真実。それ自体は、貴方自身も受け入れているのでしょう?」 「そうだ。僕は母上の子だ。そして父上の子でもある。けれど、ただの人間だ。エイドルードの、神の、誕生の祝福を受けた――」 「忌々しい」  モレナは吐き捨てるように言った。いつもの彼女が見せる、目じりに深い皺をいくつも刻んだ穏やかな眼差しはどこにもなく、強い眼差しには憎悪が秘められていた。 「エイドルードの子めが。やつが余計な事をしなければ、ユーシス様も私も、もっと早く目覚める事ができただろうに」  心臓に走る冷たい痛み。  呼吸するたび、氷でできた鋭い針に刺されるような気がして、ユーシスは息を止めてみたが、何も変わらなかった。ならばこの痛みに耐えるしかないのだと、胸元を押さえてみたが、痛みは緩和されない。  もどかしさのあまり、自身の胸倉を掴むユーシスの瞳に、迷いが浮かぶ。  知っていたのだろうか。神の御子と呼ばれる男は。知っていて、魔物の子の誕生を祝福したのだろうか。ユーシスはただの人だと世間に嘘を吐いて。魔物として目覚める日が来ないように願いながら。  もし、もしも、本当に、そうなのだとすれば。 「馬鹿な人だな……」  ユーシスは素直な感想を口にしていた。ごく稀にアストと共に現れる、アストの父親を思い出しながら。 「ええ、本当に、愚かな者たち。ユーシス様の中に眠る魔物の因子に気付かぬまま、今日まで守り続けていたなんて。気付いていたとすればもっと愚か。エイドルードの後継者や、人が生きるための大地を守りたければ、早急に始末するべきだったでしょうに」  概ね言う通りだと思ったので、ユーシスは肯き、モレナの言葉を受け入れた。  だが、受け入れられない点がひとつだけある。愚かだと言い捨てたモレナの心だ。馬鹿だと呟いた自分の心とは、対極にあるとユーシスは思う。  かつてのユーシスならば違っただろう。モレナと同じ意味で馬鹿だと言い、早く殺しておけば良かったのにと、虚しい言葉を吐いただろう。  だが、今は。  ユーシスは包丁を握りしめる両手に力を込める。律儀にユーシスの意志に従い、近寄る様子を見せない魔物を無視すると、手にした刃をモレナに向けた。  窓の向こうで素振りをしていたアストの姿を思い出す。彼が振るっていたものは、ユーシスが今手にしているものとは用途からして違うものだったが、他に見習うべき者を思い出せなかった。 「お願いだ。僕に……」  掠れた、しかし力強い声で、ユーシスは語りかける。この場には居ないが、記憶の糸を手繰るだけで充分に頼もしい、友に向けて。 「戦う勇気を」  以前の自分が何を考え、どう生きていたか、ユーシスははっきりと覚えている。自分はただのひ弱な人間だと信じ、同時に魔物の子として処分された方が楽だとも信じていた。  だが、ユーシスは変わっていた。モレナの言う通り、自分の中に魔物の部分があるのだとしても、その部分を今までのように眠らせ続けたいと願っていた。たとえ、この脆弱な体で戦う事になっても。  自分が魔物になる事によって、いくらかの優しい人たちと、多くの者たちを傷付けると言うのも、理由の一部だった。だがユーシスを突き動かす大部分は、自身の願望だった。ただの人のふりをして生きていきたいと言う、浅ましい望み。  いつの間にか、滑稽なほど貪欲になっているた自分自身に、ユーシスは驚かなかった。原因は判りきっていて、驚く必要などなかったのだ。 「力を貸して」  たったひとりの世界に、乱暴に踏み込んできた人が居る。真っ暗な世界に、光を差し込んできた人が。  当時の彼はそれを意図してやったわけではなかっただろうし、当時のユーシスにとっては全てが望ましい事ではなかったけれど――今なら胸を張って、陳腐な言葉を口にできる。「あの出会いは、僕にとって最も幸福な運命だ」と。  そうだよ、アスト。  僕は、君に出会ったから、変わる事ができたんだ。 「アスト――」  友の名を呼び、ユーシスは床を強く蹴る。両手で握りしめた包丁を振り上げ、ユーシスにできる限りの素早い足取りで、モレナの元へ駆け寄った。  よく砥がれた刃が、橙色の光を反射して輝く。 6  何かに呼ばれたような気がして、アストは顔を上げた。  とても聞き取れる声量ではなく、誰の声かも判別できなかったが、妙に気がかりだった。扉の向こうを歩く人の足音がうるさかったせいで聞こえなかったのだと、やつあたりしかけたアストだったが、すぐに思いとどめた。微かな音にかき消される程度の声など、はじめから無いも同然だ。きっと気のせいだったに違いない、と。  しかし、胸の中でざわめく何かは、とても抑えきるものではなかった。気のせいだと片付けてしまえばいつか後悔する予感がして、アストは見上げた壁の向こうを想像する。  アストが見た方向にあるのは、ユーシスの屋敷だった。  現在のアストたちが居る城の中から屋敷までの間には、何枚もの壁や、道や、家や、木々があり、おそらく人も何人か居るはずだが、アストは感覚で理解する。自分が目をやったのは、他のものではなく、森の入り口にひっそりと建つ屋敷なのだと。  ならば、自分を呼んだ声の主は、屋敷の中で生活する人物――ユーシスなのだろう。  アストは腰に下げた光の剣の柄を握り締めると、部屋を飛び出した。駆け出そうとして、進むべき通路の途中にハリスの姿を見つけると、一度は戸惑いつつも、すぐにハリスに駆け寄った。 「ちょうどよかった」 「いかがなされました」 「今から、ユーシスの屋敷に行こうと思ってる。悪いけど、一緒に来てくれないか?」  ハリスは心底意外そうな顔をした。自由と安寧を求めてユーシスの屋敷を訊ねる際のアストが、父以外の誰かに同行を求める事など、過去に一度としてなかったからだろう。 「私が……ですか?」  意外だからこそハリスは、不吉なものを感じ取ったに違いない。やや呑気にも聞こえる口調とは裏腹に、厳しい顔を見せ、すぐに行動を開始した。近くの聖騎士を呼び止めると、短く何かを指示する。聖騎士が走り出したのを確認してから、居ても立ってもいられず先に走り出していたアストを追いかけてきた。 「人を集めたのか? 何もないかもしれないのに?」 「念のためです。無駄足ならばそれで構いません」 「うん、俺もそれを願ってるよ」  会話はそれきりで、ふたりは走る事に専念した。  全力で駆けながら、アストはユーシスの名を心の中で呼ぶ。当然返事はない。呼ぶ事自体、意味はないのかもしれない。だが、心の叫びを止める事はできなかった。  アストの左右を、ザールの長閑な町並みが流れ去っていく。いつもならば心温まる光景だと思えただろうに、今のアストには、一刻も早く消え去ってほしいものとしか思えなかった。それほどまでにアストは、背の高い木々に包まれる事を熱望していた。  念願の森が目前に現れると、アストは口元を綻ばせたが、一瞬の事だった。強い風が拭き抜け、擦れ合う木々がざわめくと、空気が重みを増し、纏わりついてくるように感じたからだ。  今度はハリスも感じるものがあったようで、アストを守る人間として当然の行動を取ろうとした。アストをこの場に押し留めようとしたのだ。しかしアストの方が一足早く動き出しており、ハリスの手を振り切る事に成功した。 「アスト様!」  ハリスの声に振り返る事なく屋敷に近付くと、開け放たれたままの扉が目に付く。普段のユーシスやモレナがする事ではなかったので、悪しき侵入者の存在を予想したアストは、迷わず屋敷の中へ踏み込んだ。  引きずるような足跡が食堂へと続いていたので、アストはそれを辿った。やはり開かれたままの扉の向こうに、僅かなためらいもなく踏み込む。  ユーシスが倒れていた。それから、彼の上にのしかかる、得体のしれない、人の形をしたものも。  人の形をしたものは、背格好や服装はモレナを思わせたが、髪は黒々としてあたかも金属のように輝いていたし、土気色をした皮膚は皺ひとつなく固そうだ。そして、ユーシスの体を押さえつける手は、毅然とした老女の優しい手とはおよそ似付かず、暴力的なものだった。  魔物だ、とアストは即座に悟った。今まで見た事の無い、元々は人――おそらくはモレナ――であった魔物だろうと。 「ユーシス!」 「アス……」  アストの存在に気付いたユーシスが声を出そうとすると、魔物はユーシスの胸元を強く圧迫する。ユーシスは顔をしかめ、声を失い、激しく咳き込んだ。  ユーシスの、おそらく武器のつもりだろう包丁を握り締める手から力が抜ける様子を目の当たりにしたアストは、咄嗟に腰から剣を引き抜く。 「ユーシスを放せ!」  剣を構えたアストに、しかし魔物は怯む様子を見せず、引きつった笑みを浮かべる。大きく広げた小さな手を、ユーシスの胸の上に置いたまま。  従わないなら力ずくで従わせるまでだ。アストは光の剣を構え魔物に向けて振り翳した。  同時に、別方向から床を蹴る音がする。一見大きな犬にしか見えない魔物が、勝手口近くに待機していた事に、アストはその時はじめて気が付いた。  犬の魔物は涎が滴る鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってくる。避けられない。妙に冷静な脳が、素早くそう結論を出したので、アストは身構えた。迫りくる激痛に耐えるために。  しかし、いくら時間が過ぎても、アストの体のどこにも痛みは走らなかった。魔物が噛みついたものはアストの体ではなく、犬とアストの間に飛び込んできたハリスが構えた、鋼の刃だったのだ。  アストを守るために配慮するだけの余裕はなかったようで、ハリスの背は乱暴にアストの体を押した。よろけて膝を着いたアストは、慌てて体勢を立て直す。顔を上げた時にはすでに、犬の魔物は血を噴きながら床の上に崩れ落ちていた。 「アスト様、お下がりください!」  魔物の遺骸を尻目に振り向いたハリスは、左手でアストを押し下げながら、魔物の血を滴らせたままの剣を振り上げる。すると、金属が打ち合うような音がした。ハリスの剣が、人の形をした魔物が突き出した鋭い爪を、なぎ払った音だった。  一歩下がり、目の前で繰り広げられるハリスと魔物の争いから距離を置いたアストは、魔物から解放されたはずのユーシスの姿を探す。 「ユーシス……!」  ユーシスは床の上に倒れたままだった。  伏せられた目に光を探す事も、放り投げられた手に力を見つける事もできない。最悪の想像をして青褪めたアストは、ユーシスの薄い胸が僅かに上下する事に希望を見出した。  アストは激しい打ち合いを繰り返すふたり――ひとりと一体と言うべきか――を避けずに進む事は不可能と判断し、食堂を壁伝いに進んだ。多少遠回りでも、それがユーシスへの一番の近道だった。  アストの動きに気付いた魔物の咆哮が、部屋中に響き渡る。壁を越え、周囲にも響き渡っているだろうそれは、アストの耳を奥から痺れさせた。  ハリスはすかさず、大きく開かれた魔物の口に刃を埋め込んだ。人と変わらぬ太さの喉は、刃を飲み込むには細すぎたようで、魔物は口の端からだけでなく、引き裂かれた喉からも血を溢れさせた。  魔物の動きが止まる。ハリスが剣を引き抜くと、支えを失って倒れ込み、先に倒れた犬の魔物と共に、大きな血だまりを作りだした。  アストは肺の奥から息を吐き出しながら、一目散に、縋るように、ユーシスへと近付く。自分を守ってくれたハリスを労うだけの余裕が、今のアストにはなかった。  自ら動こうとしないユーシスの体を抱き起こし、軽く揺さぶりながら何度か呼びかける。答えはない。それでも、触れた場所から伝わる温もりと、静かに繰り返される呼吸が伝わってきたので、いくらか安心できた。 「ご無事ですか?」 「うん。気絶はしてるけど、怪我とかはないみたいだ」  ハリスは僅かに戸惑いを見せてから、納得して肯いた。  彼がアストに背を向け、魔物の様子を確認するためにしゃがみ込んだ時、アストはようやく質問の意図を察し、見当違いの答えを返した事に気が付いた。ハリスはアストが無事かどうかを訊いたのだ。彼にとっては、ユーシスの生死など、どうでもいい事に違いない。 「そいつら、死んでる?」 「はい」 「じゃあ、すぐにでもここを出よう。ユーシスを連れて」 「よろしいのですか?」  今度はアストが戸惑う番だった。戸惑ったのは一瞬で、すぐに頷いたが。 「ユーシスが自分の意志で決めてくれるのを待ちたかったけど、次の魔物がいつ来るか判らない状況なんだ、仕方ない。気を失っているうちに勝手にってのは、罪悪感があるけど……目が覚めた時に必死に謝るよ。きっと許してくれると思う」  アストはユーシスを背負うと立ち上がった。アストより背が低く、病的な細さである彼だが、背負ってみれば重く感じる。見かねたハリスは「私が運びましょう」と言ってくれたが、この役目を他の誰かに託す気などないアストは、静かに首を振った。  戦闘の跡をそのままに、アストとハリスは屋敷を出る。ユーシスを運んでいたアストは、ハリスの背中に着いてく事で精一杯で、ハリスが急に足を止めた時に上手く反応できず、彼の背中に思いきり鼻をぶつける事となった。 「どうしたんだ?」  ハリスの鋭い視線は、ザールの町がある方向とは真逆、森の奥深くに向いていた。  アストはハリスの視線を追おうとしたが、ハリスはアストの視線を遮るような位置に移動する。そして優雅に伸ばされた手が、言葉の代わりに「町へ戻れ」と語っていた。 「魔物が来ているのか」 「先ほどのようにお気付きにはなられませんでしたか?」 「ここは今、空気が淀みすぎているから、魔物が増えても気付けそうにない」 「そうですか。ならば尚更、早くお帰りください」 「俺も戦える」 「ご冗談を。敵が少数との保証はないのですよ。大軍に囲まれた中で放置すれば、その少年はどうなると思います」  アストは歯を食いしばりながら振り返り、肩の向こうに見えるユーシスの顔を覗き込んだ。 「俺が残って戦うから、ハリスがユーシスを連れて逃げてくれ、なんてのは、無いんだよな」  ハリスは間髪入れず、力強い肯きで応えた。 「もちろんです。アスト様がこの場に残るにしろ残らないにしろ、私はこの場に残り、先ほど手配した援軍が来るまでの間、時間を稼ぐつもりです。その少年を守りたいと思うのでしたら、アスト様は早急にこの場から立ち去ってください」  迷いながら肯いたアストは、小さく笑う。笑えるような状況ではないはずなのだが、自然とこぼれ出ていた。 「ハリスの言葉は鋭い。守られているはずなのに、脅されてるように感じる」 「まさに脅しております。貴方が大切に思うものを質に取って――それは私が得意とする事です」 「脅迫が?」 「はい」  それきりハリスは何も言わず、アストの肩を軽く押した。  アストはハリスに背を向ける。ユーシスと言う重い荷物を背負い、ハリスと逆方向に駆け出すために。  だが、すぐに地面を蹴ったハリスとは裏腹に、アストはその場に立ち尽くしたまま、伸びた木々の向こうに広がる青い空を見つめていた。  そこに輝く光に、目を奪われたがために。 7  雲の無い青空から轟音と共に鋭く落ちてくる光の正体を、アストは知っている。人が神の雷と呼んでいるものだ。  悪しき魔物を罰するための雷は、アストの母シェリア亡き現在、たったひとりにのみ許された力だ。その人物は、普段ザールに居ないはずであったが、今ここに来ているのだと、アストは素直に信じる事ができた。  かつて父はアストに断言したのだ。いつか再会する日が来るのだと。あの日語ったいつかが、今日だったと言う事だろう。  アストは空に向けていた視線を地上に戻す。すると、木々の向こうから次々と人が現れた。白き鎧を纏った十数名の男たちは、各々剣を構え、アストの左右をすり抜け、先に行ったハリスの後を追っていく。何人か懐かしい顔があったが、声をかけて引き止めるなどの無粋な事はしなかった。  男たちが背中の向こうに消えると、アストの目の前に残ったのはふたりの女性だった。ひとりは昨日、ザール領主ルスターの命を受け王都へ使いに出たナタリヤ。もうひとりは、王都の大神殿に居るはずの、神の娘リタ。  太陽の下で輝くためにあるような、長い金の髪を緩い風に揺らしながら、リタは勝気な微笑みを浮かべた。 「私って、いつもいい時に現れるわよね。感謝して欲しいわ」 「リタさん……!」 「久しぶり、アスト。大きくなったわね」  リタは軽やかな足取りでアストに近付いてくる。  間近に見る事によって、彼女が思っていたよりも小柄であった事をアストは知った。四年以上前の記憶では見上げなければならなかった彼女の顔が、いつの間にか見下ろす位置にあったのだ。  何となく大きい人だとの印象があったため、居心地が悪くやり辛かったが、屈んだり座ったりするのもおかしな話なので、アストは普通を装って語りかける。 「何しにザールに来たの?」  率直に訊ねると、リタは唇を歪めながら肩を竦めた。 「さあ? 私の方が聞きたいくらいよ。手紙でカイに呼ばれたの。私の力を借りたいって、それだけ書いてあってね。だから、何をやらされるかはまだ判らないんだけど――まさか、今出てきてる魔物の始末じゃないでしょうね」 「そうかもよ」 「だったらアスト、私の代わりにカイを殴ってやって。あのくらいなら、私が来なくたって、ザールに滞在している聖騎士をいくらか集めれば充分でしょう」  アストの横をすり抜けて戦いの場へと向かうリタの足取りの力強さには、小さな怒りが混ざっていた。  「自分で殴ればいいのに」  言いながら、アストはナタリヤに目配せし、リタの後ろを着いていく。頼もしい味方を得た今ならば、城に帰らず残る事を選んでも、誰も怒らないだろうと判断しての事だった。怒るどころか、帰路で何が起こるか判らない事を考えれば、安全で賢明な選択だと褒められるかもしれない。 「できる事ならそうしたいんだけど、無理だから」  リタは右手で作った拳を、左てのひらに打ちつけた。 「どう言う意味?」 「言葉通りの意味。大した事じゃないから、気にしなくていいわよ」  そう言われると余計に気になってしまうアストだったが、リタが暗に「訊くな」と言っているのを理解したので、黙って従う事にした。  屋敷の前を通り過ぎ、森のやや奥まで踏み込むと、激しい戦いの音が目前に迫った。聖騎士たちの剣が魔物の皮膚を断ち、魔物が聖騎士たちの鎧を打つ中に、草が踏みにじられる音や、木々が軋み、倒れる音も混じる。  その中から重要な音をひとつも聞き逃すまいとするリタの集中が、傍からでも見て取れた。ひとつでも多くの命を守るためには、自身の力を有効に活用しようとする意志が――リタは即座に、倒れる聖騎士にとどめの一撃を食らわせようとする魔物の上に雷を落とす。同時に駆け出し、地に伏した聖騎士の息がまだある事を確かめると、癒しの力を発動した。  アストの隣に立つナタリヤも、剣を抜いて戦いに備えた。 「ナタリヤも戦うのか?」 「今はジオール殿より、アスト様の護衛役を任されております。積極的に戦うつもりはありませんが、必要とあらば」 「俺はナタリヤに守られるのか」 「ご不満ですか?」  アストの呟きを聞き逃さなかったナタリヤは、素早く剣を回転させてから、再度構える。 「私がカイ様に師事した年月は、アスト様の倍以上ですが」 「そうだったっけ」  苦い笑みを浮かべながら、アストは背負ったユーシスを降ろすと、優しく地面の上に横たわらせた。  伏せられた目は未だ開く様子はない。呼吸も安定しているし、目立った外傷はないため、問題はないと思いつつも、こうなった状況が状況だけに、不安ばかりが募る。後でリタに診てもらおうと決めたアストは、眠るユーシスの前に立ちはだかった。 「戦うおつもりですか?」 「いいや。今俺が前に出たら、皆邪魔者扱いするんだろ。だから今は大人しく見てるよ。新手が来て、皆の手に負えなくなったら、俺が出る。それまで、力を温存しておく」  アストは剣の柄に手を置いて、目の前で繰り広げられる戦いを見守った。  四年前の、封印の儀式を行った日の事を、アストはあまりよく覚えていない。だが、ひと薙ぎで多くの魔物の命を奪った事と、激しく疲労した事だけは覚えている。  当時よりも身体的に成長したアストは、当時と比べてかなり体力がついているはずだが、それでも、同じ事を何十回も繰り返せるとは思えなかった。三度四度剣を振るえば、四年前と同じように倒れてしまう可能性が高い。  本当に必要な時に使うのだ。皆を、ユーシスを守るために。  誰かの役に立ちたいと、己の中に眠る力に憧れた日々は、さほど遠くない。今でもアストの中には、がむしゃらに光の剣を引き抜いて、聖騎士たちに混ざって戦いたいと言う願望がある。それを抑えられるようになったのは、四年間で成長したのが体だけではない証なのだろう――行き場の無い願いを抑え込むため、アストは自分自身を強く肯定した。 「アスト様、下がって!」  響くナタリヤの声に、アストは反射的に従った。  アストの頭上に広がる枝や生い茂った葉が、大きく揺れる。若い緑の葉が雨のように落ちてくると同時に、羽を持つ魔物が勢いよく現れ、アストやユーシスに飛びかかってきた。  直前までアストが立っていた場所に駆けつけてきたナタリヤは、高く剣を構え、魔物の脇腹を叩き切る。  魔物は腹から血を吹き出しながら、少し離れた地面に落ちた。衝撃で折れた羽をぎこちなく動かしながら、新たな攻撃の手を模索している様子を見せたが、鈍い動きではどうしようもない。ナタリヤの追撃を真正面からくらい、あっさりと命を散らした。 「ありがとう」  ナタリヤがひと息吐くのを確認してから、アストは素直な気持ちを口にする。 「必要ありません。アスト様をお守りする事は、私の使命です」 「そうだとしても、ユーシスを助けてくれた事は、使命じゃないだろ。だから、ありがとう」  ナタリヤは一瞬真顔になってから、少し寂しさを混ぜた華やかな微笑みを見せた。 「やはり、必要ありません」 「ナタリヤ、俺はさ」 「私は」  冷たくも聞こえる言葉だけ残して背中を向けるナタリヤに、アストは言葉で縋りついたが、振り払うように放たれた鋭い声が、アストの声を奪った。 「その子が産まれた日も知っています。ザールの城の一番端の暗い部屋で、ひっそりと産まれた赤子の事を。その誕生を祝ったのは、レイシェル叔母様と、私の両親と、カイ様くらい。幼心に、寂しい生だと思った事を覚えてます」  アストは無言で、ナタリヤの背中とユーシスの寝顔を見比べた。どちらも微動だにせず、アストの視線を受け止めるだけだ。 「一時は存在すら忘れさっていた薄情な親族である私の方こそ、お礼を言わなければならないのです、アスト様。ユーシスの生が寂しいものでなくなった、それは間違いなく、貴方のおかげなのですから」  ナタリヤがユーシスの存在を忘れてしまったのは、俺のせいじゃないか――言おうとして、アストは声を飲み込む。  代わりにナタリヤから目を反らし、前方で戦う聖騎士たちや、走り回るリタの横顔を見守った。自分の出番が来ない事を祈るのが正しいのだろうと思いながら、ただ立ち尽くすのはやはり少し息苦しく、救いを求めて時折ユーシスを見下ろした。  何度目かに見下ろした時、ユーシスの長い睫が僅かに震えた気がして、アストはその場に跪く。近付いて顔を覗き込むと、再度睫が揺れた。薄く開かれた唇から、呼吸に混ざって消えてしまいそうなほど小さな声が漏れ出る。 「ユーシス?」  声をかけ、肩に軽く置いた手でそっと揺さぶった。何度か繰り返すと、両目がゆっくりと開き、春の緑の色が現れた。 「起きたか?」  ひと呼吸挟んでから、ユーシスは肯く。動きが鈍く、本調子ではなさそうだが、アストの言葉が理解できる程度に意識がはっきりしているのは間違いないようだ。ようやく安心したアストは、ユーシスの肩から手を離した。  ユーシスは現状が受け入れられていないのか、しばらくは寝転がり、空ろに上を見上げたまま、呼吸を繰り返すだけだった。やがて少しずつ理解に至ったのか、緑の瞳に動揺を浮かべ、一度きりの深呼吸を挟むと、両手で体を支えながら上体を起こす。  ろくに動けないくせに、落ち着きの無さがまる判りと言う、不思議な状態だった。もしかするとユーシスは、屋敷の外に居る事実に怯えているのかもしれない。少なくとも彼は、アストと出会ってから昨日まで、一度として屋敷の外に出た事がないし、しきりに「屋敷の外に出てはいけない」と口にして、外の世界を拒絶している様子だった。 「安心しろ。大丈夫だから」 「うん……」  のろい動作で肯いたユーシスは、直後に響いた魔物の咆哮に反応し、顔を上げる。  彼の視界を阻もうと、アストはユーシスの顔の前に移動したが、すでに遅かった。ユーシスの目は、自分たちを取り囲む多くの魔物や、その魔物と戦う聖騎士たちの姿を、はっきりと捉えてしまっていた。 「魔物が、集まってきているね」 「まあな」  掠れた声が語る事実を肯定してから、アストはすぐに首を振った。 「お前の事だし、余計な事考えてるだろうと思うから、先に言っておくな。気にするなよ、お前のせいじゃないんだから」  アストは軽く握った拳で、ユーシスの胸を軽く叩く。そして今できる限りの力強い笑みをユーシスに見せつけると、立ち上がった。  リタや聖騎士たちの活躍のおかげで、魔物はだいぶ減ってきている。さっきまでと同じように、いざと言う時が来るまで見守る役に徹するべきだと判っていた。  しかし、目覚めたユーシスがこの光景を見てしまった今、願望が忍耐力を圧倒しはじめた。ユーシスの目に映る魔物たちを、一刻も早く消し去りたい。それが、今のアストの中で一番強い想いだった。 「違うよ、アスト」  ユーシスが立ち上がる気配がする。  土を踏む音がひとつ鳴るごとに、ユーシスの気配が近付いてきている気がした。アストはその場で足を止め、振り返るべきかで悩む。今の自分が、ユーシスを不安にさせるような表情をしているかもしれないと考えると、ユーシスに顔を見せるのが怖かった。  迷っているうちに、ユーシスの手が背中に触れた。左手だ。奇妙なほど冷たいそれは、力がこもっているのか、少し固い気がした。 「本当なんだ」 「何が」 「本当に、僕のせいなんだよ」  か細い、だがどこか力強いユーシスの声。  少し苛立ったアストは、「だから違うって言っているだろ」と言い返すために、振り返ろうとした。  その瞬間、アストの脇腹に生まれたものは、熱だ。 8  はじめナタリヤは、どこか具合を悪くしたか、単純に躓いたかで、体勢を崩したユーシスが、アストにもたれかかったのだと思っていた。  違うかもしれないと疑ったのは、アストの手がけしてユーシスを支えようとせず、ユーシスの手首を掴むだけにとどまっていたからだ。らしくないと思い視点を上げたナタリヤは、アストの表情が苦悶に歪んだまま強張っているのを目にする。愕然としながらも、立ち止まっている事はできず、アストの元へと駆けた。  血の気の引いたアストの顔が重く項垂れる。アストは一瞬だけ額をユーシスの肩に預けたが、すぐに地に崩れ落ちた。  すると開放されたユーシスの手がナタリヤの手に入る。その手は、アストの腹部ともども赤く染まっていた。 「アスト様!」  信じられない光景を目の当たりにし、自身も倒れ込みたい気分に支配されながら、それでも立ち続けて居られたのは、足元にアストを転がしたユーシスが、形良い唇を歪ませながら、禍々しい笑みを浮かべていたからだった。  ユーシスが倒れるアストに向けて血まみれの手を振り上げるので、ナタリヤはためらわず、ユーシスの手を蹴り上げた。そうして体勢を崩したユーシスに、勢い任せの体当たりを食らわせて突き飛ばすと、アストの傍らに両膝を着き、少年の体を胸に抱いた。  アストを刺したものは一体何なのだろう。ユーシスの姿を装った魔物だろうか。それとも、ユーシスがおかしくなったのか。生身の手で人の体を抉ったのだから、前者と考えるのが妥当か――自身のものと同色の瞳を睨みつけながら、ナタリヤはアストを抱く手に力を込めた。  不気味な笑みを顔面に貼りつけたものの正体が何であろうと、アストを渡してはならない事だけは確実だった。そのためには、けして離してはならない。たとえ、この身を盾にしようとも。  強く決意しながらも、ナタリヤの気は動転しはじめる。触れたアストからはまだ鼓動が感じられたし、浅い呼吸は温かくナタリヤの指に絡むのだが、傷の深さはけして安心できるものではない。もしこの若く幼く尊い命が散ってしまったとしたら――考えるだけで恐ろしい事だった。 「リタ様! 助けてください、リタ様!」  今のアストを助けられる人物の存在を思い出したナタリヤは、できる限りの大声で叫んだ。  さして間を空けず、軽い足音が駆け寄ってくる。伸ばされた白く細い腕がアストの傷の上にかざされると、ナタリヤはようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。 「どうなってるの? あれはユーシスじゃないっての? それとも、ユーシスはアストの友達なんだって思ってた私が間違ってるの? あるいは」 「わ、判りません、私も」  ナタリヤは喉を鳴らした。 「でも、できれば、ユーシスじゃない事を願ってます。そうでなければ、悲しすぎますから」  傷が塞がっただけのアストの体をリタに預けると、ナタリヤは立ち上がり、剣を構え直した。  ユーシスの形をしたものも、すでに立ち上がっている。頬に付着した土の汚れを拳で拭いさると、ナタリヤに対して不敵な笑みを浮かべた。  ユーシスとほとんど会った事がないナタリヤだが、アストが語るユーシスならばよく知っている。ユーシスは、冷めた口調でアストを傷付ける事があったとしても、素直に謝る事を知っている少年で、けしてアストを裏切ったりしないはずだ。アストを傷付けながら笑う事など、できる子ではない。  あれは偽者だ。  ナタリヤは構えたまま、ユーシスの形をしたものへと突き進む。アストを傷付け自分たちを惑わす不快な生き物を、早く消してしまわなければならないと思った。  間合いに入るよりもずっと早く、ユーシスの形をしたものは、透き通る声で歌うように声を紡いだ。聞き惚れたいほど綺麗な声だが、状況を考えれば何かしら良くない意味があるとしか考えられないのだから、油断はできない。  人であるナタリヤには意味が理解できないそれが、意志を疎通するための言葉のようなものであるのだと判ったのは、ユーシスの形をしたものを守るように、魔物が集まってきたからだった。  空を走る魔物たちは、木々を突き破って現れると、ユーシスの形をしたものの周囲を飛び回る。地上を駆ける魔物たちは、聖騎士たちに阻まれて自由がきかないためにまだ駆けつけてきていないが、勢いが増し、それだけで聖騎士たちを圧倒しそうな勢いだった。  当然ナタリヤが構えた刃は、ユーシスの形をしたもののところまで届かず、一番外側を飛び回る魔物の羽を傷付けるがせいぜいだった。一匹を傷付ければ、近くの魔物たちもこぞって反応し、まとめてナタリヤに飛びかかってくる。  草を刈るように乱暴に剣を振り回しながら後退する事が、ナタリヤにできる全てだった。その程度で追い払える程度にしか力のない魔物である事を幸いと思うべきなのか、後退を余儀なくされた事を悔やむべきなのか――はじめは前者が強かったナタリヤだが、魔物たちの隙間から、少年の姿をしたものの冷ややかな笑みが見えた時、後者の想いが力を増した。魔物たちの壁を追いやらなければ、あの生き物を消し去る事ができない。  もどかしい思いで剣を振るい続けるナタリヤの隣に、ハリスが駆けつけて来る。ハリスが振るった鋭い一撃は、小さな魔物を二体同時に叩き落とした。 「ハリス様。あちらの方は大丈夫なのですか?」 「ジオール殿たちに任せた。それより、無事か?」 「はい、私は。アスト様も、リタ様の癒しの力があれば、回復すると思います」  力を込めた一刀で、一匹の魔物を切り捨ててから、ナタリヤは続ける。 「申し訳ありません。力及ばず、アスト様をお守りできませんでした」 「ジオール殿に頼まれたそうだが、本来アスト様をお守りするは私の役目だ」  ハリスの言葉は会話を断ち切る事を望むかのように冷たく、彼が抱いた後悔の強さを如実に表していた。 「むしろ感謝しよう。君たちが現れたからこそアスト様はこの場に留まったのだから。もしあのままユーシスと共に城に向かっていたら、もっと恐ろしい事になっていたかもしれん」  確かにハリスの言う通りかもしれなかった。リタの手どころか、他の誰の手も届かないところでユーシスの形をしたものが行動に出ていたら、アストはされるがままだっただろう。その上、魔物たちがザールの町中に呼び込まれていたかもしれない。  ナタリヤたちはまとわりついてくる魔物を全て片付けると、肩を並べて構え、息を整えた――息を整えたのは、ナタリヤだけだったが。  重なり合う魔物たちの向こうから、再度美しい声が響くと、ナタリヤはハリスを見上げた。 「また魔物を呼んでいるのかもしれません」 「今の戦力でこれ以上は厳しいな。出かけに手配した増援が到着するはずだが、いつかは判らん」 「アスト様のお力に縋るわけにはいきませんか?」 「緊急事態だ、やぶさかではないが――アスト様に可能だろうか?」 「もちろん回復されてからの話です」 「いや、そうではない」  魔物たちの隙間からちらちらと蜂蜜色の髪が覗いて見え、ナタリヤはハリスが危惧するものの正体を察した。 「あれが、ユーシスの形をしているからですか?」  ナタリヤが問うと、ハリスは僅かに間を空けてから答えた。 「残念だが、あれはユーシスの形をしたものではなく、ユーシスだろう。アスト様と私は、彼が屋敷の中で魔物ともみあっているのを見ている。そこから演技だったとは考えにくい」  ハリスを見上げるナタリヤの視線にこもる力が増した。 「私には、あれは魔物に与しているようにしか見えません」 「そうだろう」 「では、ハリス様は、『ユーシスは魔物だ』とおっしゃるのですか。いわれのない差別だと否定してきたものが、真実であったと?」  ハリスは静かに首を振り、一瞬だけ後方を覗き見た。倒れたアスト――いや、その傍らに座るリタを探したようだ。 「ユーシスは少なくとも半分は人であり、カイ様が『魔物ではない』と認め祝福をお与えになった。ゆえに、ユーシスは魔物ではない。だが、魔物の味方をする者が、すべからく魔物なわけではない」  謎かけのような言葉が示す答えを、ナタリヤはすぐに導き出す事ができた。ユーシスが魔物の子と呼ばれた由縁を思い出せば、容易な事だった。  ユーシスの父ユベールが魔獣から与えられたもの。生者死者を問わず、人を操り、魔物に従わせる力。ユベールはすでに亡き者となっているが、同じ力を持つ者がザールのどこかに現れたのかもしれない。 「私もかつてはそうだったが、リタ様のお力で救われた」  隣に並ぶ男も叔父の犠牲者だった事を知った驚きに浸る余裕はなかった。ナタリヤは振り返り、視線だけでリタに縋る。  リタはふたりの会話を聞いていたようだ。手はアストの傷にかざされたままだが、顔はこちらを向いている。ナタリヤと目が合った事が気まずいのか、ハリスを見上げる事で目を反らしてしまった。 「私に、ユーシスを正気に戻せって言いたいの?」  ハリスは強く肯いた。 「相手がアスト様に害なすものならば、私は人であろうと魔物であろうと、切り捨てる事を厭いません。ですが、ユーシスに関しては、それを望まぬ方々もいらっしゃるでしょう」 「確かにね。私もその内のひとりなんだけど」 「周囲の魔物は我々が始末いたします」  ハリスは流れるような動きで構えを変え、警戒から攻撃へと切り替える。「待って」とリタが呼び止めるのが僅かに遅ければ、一瞬の間に何体かの魔物が地に伏していただろう。 「貴方はひとつ大切な事を忘れているわ。貴方が魔物に操られた時と今とでは、決定的に違うものがある」  素直に聞けば、単純に苛立っているように聞こえるリタの声。しかしナタリヤは、別の感情を感じとった。悲しげ、いや――寂しげな何か。  視線は魔物に向けたままのハリスが、意識だけをリタに向けた。 「あの日、私はカイに選ばれなかった」 「存じております」 「だから、力のひとつを失ったの。破邪の力を。だから、だから、私はもう、貴方を魔の気から解放した力を持っていない」  リタは唇を噛み締め、俯いた。 「私にはユーシスを救えないのよ」 9  意識を取り戻すと同時に聞こえたリタの声は、絶望を語っていたように思う。  体の内側に淀むものを吐き捨てようと、長い息を吐き出したアストは、眠り続けたい願望をどこかに押しやり、重い瞼を開く。  腹部に手をやった。熱の発生から一瞬送れて激しい痛みが走ったはずのそこから、傷は綺麗に消えている。悪い夢だったのだと都合よく思い込むには、自身が流した血で温く湿る服が邪魔をした。  ユーシスの手に脇腹を抉られたのは、現実だった。ならば、彼が恐ろしい事を語ったのも、現実だったのだろう。語られた内容はおそらく、巧みに練り上げられた嘘でも、口からでまかせでもなく、紛れもない真実なのだろう。  アストは血で汚れた手を握りしめ、拳を作った。 「本当に、お前のせいなのか……」  渇いた喉から吐き出す声は、震え、掠れていた。理性が認めた事を、感情がけして認めようとしないからだ。 「アスト」  いち早く目覚めに気付いたリタが、アストの名を呼ぶ。  悲痛な表情は、他にかける言葉が見つからない、と言った様子で、見ている方が辛い。たまらずアストは目を反らし、誰の手も借りずに立ち上がった。  厚い魔物の壁の向こうに、僅かにユーシスの姿が見える。端整な顔立ちは見慣れたものと同じだが、そこに張りつく表情はいつもの彼と大きく違っていて、厳しい現実をより痛々しくアストに伝えてきた。  冷たい笑みだ。まるで、人ではない生き物のよう。  このまま放っておくわけにはいかないだろう。より多くの魔物を呼び込まれ、被害が広がるかもしれないのだ。しかし、具体的にどうしていいのか判らないアストは、呆然と立ち尽くし、ユーシスを見つめる事しかできずにいた。  後方からリタの声が響いた。聖なる雷を呼ぶ神の言葉。さほど間を空けず、魔物たちの肉が焼ける匂いが漂いはじめる。  遅いかかってくる魔物からアストを守るため、ハリスとナタリヤのふたりがアストの前に立ちはだかった。ハリスの素早い剣戟は迫る魔物を逃さなかったし、基本に忠実なナタリヤの剣も、魔物を確実に一体ずつ屠っていた。  せっかく傷を治してもらったんだ。立っているだけじゃ意味がない。俺も何かしないと。  頭では判っていた。気も逸った。しかし、何をしていいかが判らない。  魔物を倒すんだ。  少しは冷静になったのか、ようやく当たり前の答えに行きついたアストは、自身の力の象徴である光の剣の柄を握り締める。  ユーシスも一緒に?  自問によって、アストの全身は凍りついた。僅かな間の後、柄にかけた指が解け、腕は力無く垂れ下がった。  それだけは、嫌だ。  戦わなければならないと言う使命感と、戦いたくないと言う感情。己の中の矛盾を整理する事も抑える事もできず、アストは再び立ち尽くす。  守るためなら、救うためなら、いくらでも戦える。けれど、そのどちらでもないと言うのなら、戦いたくない。傷付けるため、滅ぼすためならば、戦えない。 「助けて」  アストは呟いた。対象を口にはしなかったが、もちろんユーシスの事であり、自分自身の事でもあった。  魔物の群れから、誰かユーシスを解放してくれないだろうか。神の娘であるリタですら、できないと言っていたけれど―― 「っ……!」  目の前から押し殺した悲鳴が聞こえ、アストは顔を上げる。ナタリヤの声だった。魔物の牙を食らったか、服の左袖が引き裂かれ、赤い血が滲み出ている。  アストを追い詰める葛藤が、いっそう強まった。このままでは、傷を負う者が増える一方で、最悪死者が出るかもしれない。 「力を、貸してくれる?」  弱々しい声でアストが言うと、戦い続けるハリスの意識が、ナタリヤの顔が、ナタリヤの傷を癒すリタの視線が、一斉にアストに集まった。 「どうする気?」 「とりあえず、ユーシスを引きずり出す。それで、ユーシスを拘束する。後の事は、それから考える」  リタは呆れたようでいて、安堵しているようにも見える笑みを浮かべる。 「まあ、いいでしょ。とりあえずはユーシスの口を塞いで、これ以上魔物が増えないようにできればいいんだし。外側の魔物は私に任せて。裁きの雷は力の制御がし辛くて、小さい魔物相手だと近くにいるユーシスも巻き込む可能性があるから、あとは剣でよろしく」 「判りました。私は落雷と共に突撃します――ナタリヤ」  名を呼ばれたナタリヤは肯き、傷が癒えた腕で剣を構えた。  カイも光り輝く刀身を持つ剣を構えた。剣の力を解放すれば、ユーシスの周囲に集う魔物たちなど容易に塵と化す事ができるが、それはしない。できない事だった。中心に居るユーシスまでもを巻き込んでしまう恐れがあるからだ。  神聖語が力強く放たれた。リタが雷を呼ぶ所を、アストはこれまでにも何度か見た事があるが、最も鋭い声だったかもしれない。地上に落ちる雷も同じだけ鋭く、魔物たちの断末魔の叫びが、何重にも重なって響き渡った。  間髪入れず、ハリスとナタリヤが進む。命を落とすまでには至らなかった魔物や、ユーシスのごく近い位置に待機していたために無傷の魔物たちが、ふたりの剣で次々と屠られていった。  アストもふたりの後を追いかけた。力の放出を抑えた剣は、目の前の魔物を無差別に葬る事はしないが、魔物に対してはどんなに研ぎ澄まされた刃よりも鋭い切れ味を持っている。虫を潰すよりも容易く、魔物たちを一匹ずつ両断していった。  突然の猛攻に戸惑ったのか、ユーシスの反応は鈍かった。思いの他容易にユーシスに近付けた事に、驚きながらも喜んだアストは、剣を鞘に戻すと、ハリスとナタリヤが切り開いた道に無理矢理体を押し込み、ユーシスに手を伸ばす。  ユーシスは避けようと身を捩るが、彼を守るために周囲に群がっていた魔物たちが、彼の足を引っ張った。彼には、逃げ道が存在していなかったのだ。  アストの手がユーシスの服を掴む。首元だ。アストはユーシスが苦しそうに表情を歪めたのに気付いていたが、力を緩める事をしなかった。我侭に付き合ってくれた者たちを、裏切るわけにはいかない。  細い体を力任せに押す。ユーシスは魔物としての力を得、普通の人間よりもいくらか硬い皮膚を得ているようだが、勢いを得たアストを押し返せるほどの力は得られなかったようだ。アストが加えた力に抗いながらも抗いきれず、背中から地面に倒れ込み、小さく咳き込んでいる。  アストはユーシスの腕を捕らえ、薄い胸を膝で押さえつけた。咽る様子は演技ではなさそうで、呼吸の自由を奪う事は可哀想に思ったが、手加減する事はやはりできなかった。  雷鳴が響く。リタの雷が再び落ち、残った魔物を撃ったのだ。ハリスやナタリヤも、未だ魔物と戦っている。アストとユーシスを守る壁になってくれている。 「ユーシス。俺が判るか?」  問いかけると、ユーシスは小さく肯いた。 「もちろんだよ、アスト」  名前を呼ぶ声は、いつもと同じ、親しみがこもったものに聞こえた。 「他の誰が判らなくなっても、君を見失う事だけは絶対にないよ」 「そうか」 「だって君は、人の世の救世主なんだから」 「……そうか」  はじめて言われる言葉ではない。同じ意味を持つ言葉なら、過去に飽きるほど繰り返されてきただろう。傷付いていた頃もあったが、今はもう慣れてしまっていて、いちいち痛みを覚える事はなかった。  だが、今こうしてユーシスの口から語られると、張り裂けそうな痛みに心が泣く。他の者の前では無理だとしても、ユーシスの前では、ユーシスの前だけでは、アストはただのアストで居たつもりだったのに。  いや、この傷付き方は間違っているのかもしれなかった。ユーシスはアストを崇め、距離を置くために、アストを救世主と呼んだわけではないのだ。魔獣の眷属として、最も憎き者を指す意味を持って、アストを救世主と呼んだに違いない――それは余計に悲しい事だけれど。 「俺はどうしたら、お前を救える?」 「どう言う意味で?」 「俺が望む形で」 「身勝手な言い分だね」 「ああ。勝手でいいんだ。俺たちがこれまでみたいに、アストとユーシスとして、生きていけるなら」  ユーシスは薄く、冷たく笑った。 「君は愚かだね。知っていたとして、僕が教えると思うのかい? 今の僕は、君と同じものを望んでないって言うのに」  アストは沈黙を挟んでから答えた。 「そうだな、教えてくれるわけがないよな」 「でも、その愚かさは嫌いじゃないから、本当の事を教えてあげるよ。判らないんだ。昔は神の娘の力によって解放できたみたいだけど、それも偶然見つけた方法だったみたいだしね」 「そうか」  ため息混じりに短い言葉を吐き出して、アストは目を細めた。  見下ろすユーシスは相変わらず笑っている。以前の自分ならば、笑うユーシスを見て悲しむ事などけしてなかっただろうと思うと、アストは泣き叫びたい気分になった。  本当にどうしようもないのなら、決断しなければならないのだろう――アストはユーシスの腕を押さえる手に力を込めた。  確かに今のアストたちは、生きたまま解放する方法を知らない。しかし、生きたままとの条件を排除すれば、話は変わる。ひとつだけ、確実に、ユーシスを止める方法がある。  アストはいざとなれば自分がその手段を取らなければならないと判っていた。人の世の救世主としても、ユーシスの友としても。それが正しい事なのだと頭では知っていた。  だが、どうしても諦めきれない。今は判らなくとも、すぐに名案が浮かぶかもしれないではないか。すぐには無理でも、何年、何十年も経てば、あるいは。 「アスト」  ユーシスがアストの名を呼ぶ。 「アスト」  まるで動揺を誘うかのように、もう一度。  友を呼ぶ、優しい声に聞こえた。だからアストは耐え切れず、ユーシスの口を塞ごうと、手を伸ばした。 「君が僕を殺すの?」  アストの手がユーシスの唇を押さえる直前、ユーシスは言った。  まるで相手の自由を奪い取る魔法の言葉のようで、すっかり捕らわれたアストは、身動きできなくなった。  できないよ、俺には。  アストは動かない唇ではけして紡げない言葉を、心の中で叫ぶ。  俺は、お前を殺せない。  俺自身からお前を奪う事なんて、できるわけがないだろう? 10  人の影がかかった。はじめは横たわるユーシスの上に。やがて、アスト自身の上にも。  長さや形から、よく知る人物の影である事を知ったアストは顔を上げ、影の主の瞳を見つめる。自身と同じ色を持つそれは、アストにとって最も頼もしいものだ。途方に暮れかけた今、縋るに最も相応しい相手が目の前に現れてくれた事が、たまらなく嬉しい。  どうしてここに居るのだろうと考えたが、周囲の喧騒が激しくなった事によって答えを知る。ハリスが後から来るように指示した援軍と共に現れたのだろう。城で聖騎士たちが派手に人集めをしている様を見れば、何かが起こったのだと気付いて当然だし、何かが起こっていると言うのに、黙ってじっとしている性質の人間ではない。ハリスがここに居る今、強気に制止できる者も城には居なかったのだろう。 「父さん」  アストは父を呼んだ。根拠は何ひとつなかったが、父ならば今の状況から自分たちを救ってくれるだろうと、アストは信じていた。  しかしカイはアストの声に返事をくれない。ひと目で状況を察したのか、厳しい眼差しでユーシスを見下ろすだけだ。  応じるユーシスの笑みは、相変わらずだった。 「父さ……」  再度呼びかけようとしたアストの声は、途中で途切れる。地響きが遠くから伝わってきたためだった。  はじめは雑草が微かに揺れる程度の小さなものだったが、ほぼ一定の間隔を空けて響くたびに強くなっていく。地面に着いた部分から全身へと伝わる振動も比例して強まり、アストは頭の中が痺れていくように感じていた。 「ようやく来たんだ。遅いよ」  ユーシスの呟きは気にかかったが、右手の方向を見上げた父に倣う事を優先し、アストは顔を上げた。それだけで、地響きの正体は明らかになった。  並の人間のゆうに五倍はあるだろう大きな生物が、一歩一歩近付いてきているのだ。何かに――おそらくはユーシスに――呼ばれて。  アストたちからはまだ距離があるが、前線で戦っている聖騎士たちは、巨大な魔物と接敵したようだった。アストは魔物の足音の中に、人の騒ぐ声が混じるのを聞きつける。  魔物が長い腕を乱暴に振る。障害物を排除しようとしたのだろうか。魔物の前に生える木が一斉になぎ倒され、逃げ遅れた者の体が宙を舞った。  リタは巨大な魔物を指差し、聖なる言葉を唱える。轟音が響き、魔物の上に雷が落ちた。雷は確実に魔物の皮膚を焼いたはずだが、何事もなかったかのように、魔物は平然としていた。 「何よ、あれ」  遠くの魔物を睨みつけながら、リタが不満げにこぼす。 「どう見ても魔物だな」 「そのくらいは判ってるわよ。何であんなに大きいのかって事」 「俺は巨大化して人よりも大きくなった蟻の魔物を見た事がある」 「私もよ。貴方と一緒にね」 「それを思い出せば、おそらく元は熊の類だと思われるあれが、あそこまで大きくなったとしても不思議はない」 「……判りやすい答えをありがとう」  雄叫びが聞こえる。多くの聖騎士たちが、魔物の巨体に群がり、一斉に切りかかった。  大きさと比例した耐久力があるのか、それとも単純に皮膚が厚いのか、魔物は聖騎士たちの攻撃によって致命傷を受ける様子はなかった。前に進む足を止める事なく、前方に居る者、あるものを、差別なく蹴散らした。  魔物は動き自体はさほど速くないのだが、巨体ゆえに一歩が大きい。驚くほど早く目の前に迫られ、アストは息を飲んだ。  逃げなければ、と思った。だがそれ以上に、ユーシスを逃がしてはならない、とも思った。  ユーシスの腕を捉えたまま立ち上がったアストは、ユーシスの腕を引いて走り出そうとする。しかし、強い抵抗によって、思う通りに動かなかった。 「アスト!」  カイの手が伸びる。アストとユーシスの両方に。だがここぞとばかりに小さな魔物がカイに体当たりをしたので、カイの左手は一瞬だけユーシスを逃してしまう。  たかが一瞬が、その後の全てを変えた。迫る巨体の一撃を避けるためにカイが引き寄せられたのは、アストの体だけになったのだ。  アストとユーシスの間を引き裂くように、大きな拳が空を裂き、地面を抉る。土が、草が、粉々に砕けた枝が飛び上がり、アストたちの上に雨のように降りそそいだ。  激しい土煙によって目の前すらろくに見えなくない状況の中、アストはユーシスの姿を探した。ようやく見つけた時には、舞い上がったもののほとんどが地上に戻っていて、ユーシスの体はすでに手の届かないところへと移動していた。  ユーシスが地面の上に置かれたままの魔物の前足を撫でると、魔物は一度頭を下げた後、アストの方に向き直った。前足を高く上げ、咆哮する。空気が震えるとはこの事だとアストは思った。耳が痛いだけではすまず、皮膚まで刺激を受けているような。  魔物の足が、アストたちを狙いながら、再び地面を突いた。避ける事は、相手に集中していればさほど難しくない。再度降りそそぐ事となった土や木切れの雨は鬱陶しかったが。  アストは光の剣を構えた。聖騎士たちが振るう、金属で作られた剣による攻撃の効果がほとんどないとすれば、まさしく自分の出番だと感じていた。このために力を温存していたのだと。  四年前のように、思う存分薙ぎ払って力を放出すれば、簡単に片付くのかもしれない。だが、アストの個人的な心情として、ユーシスを巻き込む事はやはりできなかった。となれば、先ほどまでと同じように、あくまで切れ味が鋭すぎる剣として使うしかないだろう。  緊張のあまり、自身の体の動きが鈍っているような気がして、アストは一度だけ、力を抑えた剣を振り払おうとした。  存分に振りきる前に手首を強く掴まれる。アストは驚いて動きを止め、剣は勢いを失った。 「邪魔をしないで……」  文句を口にしながら振り返ったアストは、途中で言葉を飲み込んだ。アストを止めたのは、カイだったのだ。妙に真剣な顔をしている。カイの隣に立つリタが、不審な目で凝視するほどに。 「無意味に振り回すな」 「意味が無いわけじゃないよ。体を慣らそうと思って」 「それでも、あまり乱暴に扱うな。途方もない力を持つものだ」  父の言い分はあまり納得できないものだったが、アストはおとなしく従い、魔物に向けて剣を構える。 「体力に余裕はあるか?」 「どう言う意味?」 「剣の力を解放できるか、と聞いている。以前、洞穴の封印を行う前にやったように」 「それは……」  アストは口を噤んだ。  父は体力的にできるかできないか、と問うている。ならば、答えは「できる」だ。しかしアストはそう答えたくなかった。できると答えてしまえばやらされるだろうが、アストはやりたくないのだ。 「できないよ」 「随分下手な嘘だな」  即座に看破され、アストは羞恥のあまり唇を歪めた。 「だって、俺がそうしてしまったら、ユーシスは……」  再度魔物の前足が迫った。素早く反応し、際どい位置で避けたアストは、剣をかざし、魔物に切りかかろうとする。  自分の考えがいかに浅はかであったか、アストは知った。魔物は攻撃の度に、アストの視界の大部分を塞ぐ。切りかかろうにも狙いを定める事ができないのだ。  相手が動くよりも先に切りかかるしかない。そう決心したアストが走り出そうとした瞬間、背後から声がかかった。 「落ち着いて思い出せ、アスト」  父の声は妙に冷静で、こんな状況で落ち着けるものかと腹が立ってくる。背中に触れた大きな手から伝わってくる温もりがなければ、怒鳴りつけていたかもしれなかった。 「何を思い出せって言うんだよ」 「お前の持つ剣の力だ。光の剣は、何を滅ぼす」 「魔物を」  即答すると、父は短い沈黙の後答えた。 「――まあ、そうだな」 「それが何だって言うの?」 「逆に考えてみろ。光の剣が滅ぼせないものは何だ?」  今度はアストが沈黙を呼び込む番だった。  父は、アストが最も欲していた答えを教えてくれている。アストはそれに気付きながらも、素直に受け止めて従う気にはなれず、落ち着きはじめた砂煙と魔物の巨体の向こうに隠れた、ユーシスの姿を探した。 「光の剣で、人は殺せない」  いつだったか、父が教えてくれた事を口に出してみる。だから、魔物と戦う際には周りを巻き込む事を恐れる必要はないのだと、父は続けたのだったか。  父の教えを忘れていたわけではない。だからこそアストは今日この日まで、剣を振るう事を、剣の持つ力を、恐れなかった。ただ魔物を倒す事に専念すればいいのだと、信じられたのだ。 「判っているじゃないか」  父の手が両肩に触れる。軽く押しているようだった。アストを勇気付けようとしているのかもしれない。 「お前が斬るものが魔物ならば滅ぶ。人ならば助かる」 「でも……」 「ユーシスは魔物か?」 「ち、違うよ」 「なら、人か?」  アストは即答できなかった。今のユーシスを目の前にして、ただの人だと言い切る自信がなかった。 「ユーシスが人である事を信じられないか?」  肩に触れる父の手に、力がこもる。 「俺は……俺は、たとえ人じゃなかったとしても、ユーシスに生きていてほしいよ。それに俺は、守るって約束をした」 「落ち着け、と言っただろう」  カイはアストの頭を柔らかく包み、俯きがちだった顔を上に向けた。 「周りを見ろ」  魔物が暴れている。狙いをアストだけに絞るのを止めたようだ。近付くものに対して手当たりしだい、乱暴な攻撃を加えている。乱戦になっていた。悲鳴があちこちから響いた。誰もが戦い、誰もが傷付いていた。  その中でただひとり、ユーシスだけが、涼しげな顔をして立っている。 「今のユーシスはほとんどの者の目に魔物として映っている。これまで表立ってユーシスを擁護してきた俺やナタリヤだって、今のユーシスをただの人だと主張して庇う事などできはしない。しても、誰も信じやしないだろう。アスト、判るか? もはや、ザールの領主の一族や、神の子の言葉が、力を持たない所まで来てしまっている」  父の手が離れると、アストはしぶしぶ肯いた。 「だが、お前の力は、ユーシスが人である事を証明できる。流れを断ち、変える事ができるかもしれない力を、お前だけが持っている」 「でも」 「このままでは、お前ではない誰かがユーシスを殺す。お前は、ユーシスを生かせる可能性を秘めている」  可能性などと言う不確かな言葉は嫌いだった。昨日までと同じ幸せな日々が、明日からも確実に続く事を望んでいた。だがそれは無理な望みなのだと、冷酷に感じてしまうほど冷静な父の声が語る。  自分はユーシスを救えるかもしれない。しかし、救えずに自らの手で殺してしまうかもしれない。  逃げ出したいと言うのが、アストの本音だった。自分ではない誰かによってユーシスが救われれば良いのにと、心から願っていた。それが自分の弱さだと気付いていながら、気付かないふりをして。 「無理強いはしない。どうするかは、お前が選べ」  父の言葉は突き放すように冷たい。 「選べ」などと、酷い言葉だとアストは思った。どう考えても、一方しか選びようがないではないか。アストに選べるのは、いつ迷いを断ち切り、決行するのか、それだけではないか。 「くそっ……!」  アストは唇を噛みながら光の剣の柄を強く握りしめ、ゆっくりとした動作で剣を振り上げた。  振り下ろせば、何かが大きく変わるのだろう。良い形になるのか、悪い形になるのかは、やってみなければ判らないが。 『僕だって、いつまでもこのままでいたってどうしようもないって事くらいは判っているつもりなんだ』  いつかに語った、ユーシスの声が聞こえてきた気がした。  あの時のユーシスも、今のアストのように、大いなる迷いの中に身を置いていたのだろうか。平然としていたように見えた彼に、自分はなんと返しただろうか。  『いざ行ってみれば、想像していたよりもずっと気楽な――』  ごめん、ユーシス。  俺は、とても無責任な事を言ったんだな。  アストは気楽とは縁遠い心境の中で、音にせず謝罪の言葉を繰り返した。  深呼吸をする。それから一瞬だけ目を伏せ、再度目を開ける。別人のように強い眼差しで、ユーシスを見つめるために。 「ユーシス!」  だって、こうするしかないんだ。  こうするしか。  言葉にならない音を叫びながら、アストは剣を振るう。  心に秘めて繰り返した言葉を、音にして伝えられる時が来る事を祈りながら。 11  暗い森に眩い光が溢れる。  光は一瞬にしてはじけて消えたはずだったが、森を永遠に照らし続けるのではと錯覚するほどの存在感を示した。神の光をはじめて見るわけではないリタですらそう感じたのだから、聖騎士たちやナタリヤの感動は大きかったようで、皆一様に呆然とし、立ち尽くしている。  直前まで魔物と戦っていた事を忘れてしまったのだろうか。周囲を見回したリタは、呆れてため息を吐いた。光によって魔物は全て消え去ったので、間抜けに突っ立っていても大きな問題にはならないのだが、それにしても間抜けすぎはしないか。  魔物は全て消え去った?  リタはふいに、蜂蜜色の髪を持つ少年の事を思い出した。どうやら、聖騎士たちを冷たい目で見る権利などなかったようだ。自分だって、光によって思考能力を奪われていたのだから。  ユーシスよりも先にアストを見つけた。疲れた顔をしている。当然か、とリタは思った。今日アストが放った光から感じた力は、四年前に一度だけ見た光を、遥かに上回っていた。意図的にそうしたのか、自身の力を制御できなかっただけかは判らないが、おそらくは後者だろう。先ほどまでの彼に、自分を抑えるだけの精神力を求めるのは、酷と言うものだ。  少し離れたリタにも聞こえるほど激しい呼吸を繰り返し、肩を上下させるアストは、細めた目で前方を見つめていた。彼の表情からは、どうなっているか予想がつかなかった。  アストのそばに立つカイを見てみる。顔には完璧と言えるほどの無表情が張り付いていて、状況を読むのは難しかった。  リタは仕方なく自身の目で確かめる覚悟を決め、ふたりが見つめる先に視線を送る。  人が倒れていた。この場に居る誰よりも小柄で、細い体の――ユーシスだ。  安堵のあまり体から力が抜ける。倒れ込みそうになったが、それはあまりにみっともないと、リタは手近に立つ者の肩を勝手に借りる事で、何とか立ち続けた。  リタの体重がかかる事で、ナタリヤは正気を取り戻したようだった。何が起こったのか確認するように周囲を見回し、よろけているリタを心配そうに見下ろした彼女は、ユーシスの無事――がはっきりと確認されたわけではないが、他の魔物と共に消滅しなかっただけでも少しは救われる――を知ると、両手で自身の口元を抑えた。そうして、勝手に飛び出そうとする感情を抑えているのだろうか? 声に出さなくとも、潤む瞳や震える体が、充分すぎるほど語っていると言うのに。 「ユーシス……」  剣を鞘に納めたアストが走り出した。力の無い足を無理に動かす、ぎこちない格好で。半ば転ぶような形でユーシスの傍らに膝を着き、うつ伏せに倒れるユーシスの体を抱き起こすと、顔を覗き込んだ。  ふたりに駆け寄るべきなのかもしれない。駆け寄って、癒しの力を使ってやるなり、両腕を貸してやるなりで、助けてやるべきなのかもしれない。しかしリタは、今のふたりに近付いてはいけないと感じていた。  皆、同じ事を考えているのかもしれない。カイも、ナタリヤも、ハリスも、他の聖騎士たちも、アストとユーシスに近寄ろうとせず、その場から一歩も動かないで、無言でふたりを見守っていた。  アストの腕から力が抜け、ユーシスの背中が地に触れると、見守る者たちの間に緊張が走る。  涙がアストの頬を伝いはじめた時、悪い結果になってしまったのだと、リタは覚悟した。強く唇を噛む。ナタリヤに頼るのをやめ、自由になった両手を、きつく組み合わせる。他の者が見れば祈っているように見えるかもしれないが、どちらかと言えば運命を呪っているのだと、リタは自覚していた。  だから、涙に濡れたアストの顔が、徐々に笑顔に変わりはじめている事に気付いた時、絡みあった指を解放した。  再び自由になって行き場を失った両手は、感激のあまりはしゃぎだしたナタリヤに掴まれ、振り回される事となった。無礼な、と振り払う事も許される立場にあるリタだったが、そうはしなかった。一緒になってはしゃぎ回るどころか、いっそ抱き付きたい気分だったのだから。 「あっ……し、失礼いたしました!」  しばらくしてから気付いたナタリヤは、慌ててリタの手を放し、しきりに頭を下げる。 「気にしないで」と返してナタリヤの背中を軽く叩くと、リタはもう一度辺りを見回した。ユーシスの無事を、泣いて喜ぶアストを、周囲の人間がどう受け止めているのかを見届けるために。  大なり小なり戸惑いを見せる聖騎士たちは放っておく事にした。おそらく、ユーシスがアストのそばに居る事に対し、不満や嫌悪を強く抱いている者も居るだろう。元々ユーシスを魔物の子として見ている者なら尚更だ。だが、アストが起こした奇跡を見た直後に、強行に出る者はさすがに居ないだろう。居たとしても、ジオールやハリスが抑えてくれると信じる事にした。ふたりとも、部下の管理ができないような人間ではない。  直立してアストを見つめていたカイが、視線をアストに向けたまま、少しだけ楽な姿勢を取った事に、リタは気付いた。彼もやはり不安を抱き、心配していたのだろう。そして、アストにとって良い結果が出た事に、安堵しているのだ。 「ちょっと冷たかったんじゃないの?」  からかうような口調でリタが話しかけると、カイは振り返った。 「何の事だ?」 「さっきの、アストに色々言っていたでしょう。黙って聞いていただけの私も同罪なんだろうけど――アストにとって間違いなく辛い選択だったんだろうなあ、って思ったのよ」  ユーシスは助かった。ならば、苦しみ悩んだ事実を、良い思い出として昇華する事は可能だろう。  だがそれはあくまで結果論だとリタは思う。もしもユーシスの命が失われるとの結果で終わっていたら、アストの心には、一生涯消えない傷が刻まれていたかもしれないではないか。 「誰のところにも、辛い選択を強いられる時が来るだろう」  何気ない口調で語られたカイの言葉は、リタの胸を少しだけ痛くした。 「貴方にとってそれはいつだったの」と訊いてやりたい。訊いたところで自分が傷付くだけだと判っていたので、必死に我慢をしたが。 「アストは今日だった。それだけの話だ」  リタはわざとらしく肩を竦め、唇を尖らせた。 「強いた本人に言われても、あまり説得力がないわね。はたから見ながら、小さな子をいじめなくても、って思ったし」 「アストは十四歳だぞ?」 「充分子供の範疇じゃない」  間髪入れずに反論すると、カイは緩く腕を組んでから続けた。 「君が魔物狩りとして生きる事を決断したのは、辛い選択ではなかったか? 当時の君の年齢は、今のアストより下だったと思うんだが」 「ひと括りにしていい話かしら。それに、私の場合は私が答えを出すしかなかったけど、アストの場合は違うんじゃない? 誰かが提示した答えをアストに強いれば、それで充分だったんじゃないかしら」 「悪い結果は全て俺が背負えと?」  落ち着いた声には特別な感情が入っているようには思えなかったが、不満が込められているように感じ取ったリタは、それをかき消すように力強く肯いた。 「貴方はアストの父親なんだから、それくらいしてあげてもいいじゃない」  カイは口を開く前に、まず苦笑いで答えた。 「そうしてやりたかったのはやまやまなんだが、あまり過保護すぎるのも問題だと、最近思いはじめたところなんだ」 「今更?」 「言われると思った。だが、今でこそ、でもある。俺がわざわざ君を呼び寄せた事で、判ってくれると思うが」  アストを見守るカイの視線が、愛しい息子を見守る優しく穏やかな眼差しから、真剣な眼差しへと変化する。  息を飲み、口を噤んだリタは、カイから目を反らした。  カイから届いた手紙の内容を思い出す。簡潔な文章で、最後にもう一度だけ力を貸して欲しいと書いてあったのだったか。  手紙には詳しい説明がなかったため、自分が何をすべきなのか、リタは未だに理解していない。しかし、「最後」の言葉が示す意味を理解していないわけではなかった。  とうとう時が満ちたのだとリタは知った。アストは神の剣を手に、魔獣を倒しに行かなければならないのだと。 「そうね。アストはもうすぐ、貴方を頼る事ができない場所に、ひとりで行かなければならないのよね」 「ああ」 「ひとりで決断して、ひとりで行動する事に慣れた方がいいのは確かだけど――やっぱり今更だわ」 「耳が痛いな」と小さく呟きながら、カイが笑う。  何でもないふりを装っているが、内心ではかなり堪えているようだ。そう察したリタは、長い息を吐く事によってくすぶる不満を片付けると、アストたちの様子に異常がない事を確認してから、踵を返した。 「リタ様、どちらに?」 「戦いが終わった後の私がやる事なんていつも同じ。怪我人の治療よ。被害を減らせば減らすほど、あの子たちが負うものも軽くなるだろうしね」  リタは歩きながら背中越しに小さく手を振る。すると、僅かな間を開けた後、小走りで近付いてくる足音が鳴った。 「微力ながら、私もお手伝いします」  横に並んだナタリヤに、リタは満面の笑みを見せる。 「ありがとう。助かるわ」 「リタ、俺も手伝お」 「貴方は邪魔だからいらない」  力強く、はっきり言い切る事でカイの言を遮ってからリタは振り返る。驚きのあまり目を見開いたまま立ち尽くしているカイの様子は、少しおもしろかった。 「邪魔はさすがに言いすぎたけど。でも、近寄りがたいとは言え、放置しておくのはどうかと思うからさ。そばに居てもおかしくないのは、やっぱり貴方でしょう」  リタは腕を伸ばし、迷いなく一点を指し示す。  そこにはアストとユーシスが居て、リタが言わんとした事を理解したらしいカイは、強い困惑を笑みに混ぜ込んだ。 12  冷たく静かで薄暗い、一面が灰色のみの世界の中に、押し殺した泣き声が響いていた。  時折ユーシスの名を呼ぶ、聞き覚えのある涙声は、間違いなく少年のものだ。しかし、自分自身のものではなかった。ならばアストだろうとユーシスは知った。ユーシスは、自分とアスト以外に、同じ年頃の少年の声を知らないのだから。  ユーシスは灰色の中にアストの姿を探そうとして、はじめて体が動かない事を知る。ただ、意識だけは妙にはっきりとしていた。そしてその意識が、灰色の世界を自由に見渡している事に気付いた時、この灰色の世界は現実ではなく、ユーシス自身が見ている夢なのだと、漠然と理解した。  暗くも明るくもない一色に塗りたくられた、意味のない夢。なのに、見えない場所から届く声だけが、強い意味を持っている気がする。それもまた、ユーシスが見ている夢なのだろうか。それとも、現実のものなのだろうか?  確かめるために、ユーシスは手を伸ばそうとした。夢の中の自分には体がなかったので、現実の体を。  全ての力を集中する事でようやく、手が僅かに動く。  意識の外に居る誰かが、ユーシスの動きに気付いたようで、ユーシスは自身の手を強く握る誰かの手を感じた。同時に、灰色がどこかへ流されて行く。意識は現実に戻り、固く閉じていた瞼は解放された。 「ユーシス!」  開いたばかりの目に最初に映ったのは、アストの顔だった。涙に濡れた表情は、四年ほど前に一度だけ見た彼の泣き顔とまったく同じだった。この四年間で随分成長したように思っていたが、外見だけの話だったのだろうか。微笑ましく思ったユーシスは、無意識に表情を和らげていた。  手を握る力が強まる。握り潰されるかもしれないと不安に思うほどに痛かった。だがユーシスは、痛みを訴える事をしなかった。今自分が感じている痛みは、アストの想いの強さなのだと知っているからだ。 「アスト……」 「ごめっ、ユーシス、ごめん」  ユーシスが名を呼ぶと、アストは即座に謝罪を口にした。  嗚咽を必死に飲み込みながら発する言葉は、幾度も途切れる。それでも先に続けようとするので、短い言葉がいくつも連なっていた。 「どうして君が謝るのさ」  ユーシスは精一杯の想いと力を込めて、アストの手を握り返す。  魔物と化したモレナによって、ユーシスの内に眠っていた黒いものがはじけた時、ユーシスの意志と体は魔獣の意志に支配された。だが、ユーシス自身の意識が完全に失われたわけではない。何が起こったのか、自分が何をしたのか、ユーシスははっきりと覚えていて、だからこそ、今謝罪するべきはアストでなく、ユーシスの方だと判っていた。  アストの事だから、ユーシスに剣を向けた事を謝っているのかもしれない。だとしたら、必要のない事だとユーシスは思った。アストが光の剣を振るってくれたからこそ、ユーシスは魔獣の意志から解放され、再びアストの前に戻って来られたのだ。それはユーシスにとって、何にも勝る喜びだった。  仮にアストの剣でユーシスが死んでいたとしても、やはり謝罪を受ける必要はないだろう。アストは、やるべき事をやっただけなのだから。 「君は約束通り、僕を守ってくれたんだ。ありがとう」  アストは強く首を振った。 「でも、俺は」  一度鼻をすすり、涙を拭う。 「お前は魔物じゃないと、信じていたつもりだったのに。そう、言い続けていたのに。なのに、俺は、さっきまで、お前が本当に魔物なのかもしれないって、疑ってた。俺の剣で、お前が死んでしまうかもしれないと思って、剣を振るうのをためらったんだ」  アストの告白によって、ユーシスの手から力が抜けた。いや、手からだけではなく、全身からだったのかもしれない。 「馬鹿だな」  小さく呟いたユーシスは、できる限りの笑みを浮かべる。ユーシスと同様に力が抜けたアストの手を振り解き、自身の手を自由にすると、涙に濡れたアストの頬に触れ、涙を拭った。流れる涙が多すぎて、ユーシスの手では足りなかったが。 「どうして疑ったりしたのさ」 「ごめん、ごめん……」 「疑う必要なんてはなかったんだよ。君は、僕が魔物だと信じて良かったんだ。僕は、それだけの事をしてしまったんだから」  ユーシスはアストに触れていた手を放す。生乾きの血液の染みが大きく広がった腹部まで手を下ろしてから、再び触れた。切り裂かれた服の向こうの傷は、綺麗に消えている。神の娘リタの、偉大なる力で。  もしリタがこの場に居なかったら、アストはどうなっていたのだろう。傷や失血によって、命を落としていたのだろうか――想像する事すら耐えられない悲しみに全身が震えだすのを感じたユーシスは、固く目を伏せた。  ユーシスの中で、罪悪感や後悔が渦巻く。同時に記憶は過去へと遡りはじめ、やがて自身を苛む感情が産まれた原点へと辿り着いた。  ユーシスの心は急速に冷え、感情の向かう先が変化する。自分自身でも、アストでもない、新たな人物へと。  運が良いと言えるのだろうか。その人物は、ゆっくりとユーシスの元に近付いてきていた。ちょうどアストの体が壁になっており、顔は見る事は叶わなかったが、力強い足取りは、間違いなく彼のものだった。  ユーシスはアストの肩を掴んだ。アストの体と自身の腕を支えにし、上半身を起こす。体は軋むように痛みを訴えたが、気力で耐えた。滲み出る汗だけは抑えきれなかったが。 「カイ様」  強い意志を込めて名を呼ぶ。すると、カイは足を止めた。 「僕を操ったのは、父が僕の中に残した種なのだと、モレナは言っていました」  顔を上に向けるのも辛い。せめて眼差しだけでもと、ユーシスは上目遣いで必死にカイを睨みつける。 「そうか」 「本当はもっと早く芽生えるはずだった種だとも言っていました」 「そうか」 「貴方が、僕に生誕の祝福を与えなければ、とも」  カイは神妙な顔をしてユーシスを見下ろしたまま立ち尽くしていたが、アストの肩を掴むユーシスの手に、徐々に力がこもっていくのを知ると、ユーシスにできる限り近付いてから、地面に膝を着いた。  手が届くところにカイが来ると、ユーシスは体勢を崩しながら、必死に腕を伸ばす。カイの胸倉を掴んだ。遠くに群がる者たちが騒然としたが、気にしていられなかった。 「貴方は知っていたんですか。父が、生まれる前の僕に何を仕込んでいたか」  カイは無言を貫いた。真実は判らないが、ユーシスにとっては肯定でしかなかった。 「詳しい事が判らなくても、貴方なら、僕が魔物のようなものだと知っていたはずでしょう。どうして――」 「ユーシス」 「どうして僕に祝福を与えたんですか。どうして、幼い僕を殺さなかったんですか。どうして僕は、この手で、アストを傷付けなければならなかったんですか……!」  汗で滑ったのか、体力の限界だったのか、ユーシスの手は滑り落ち、カイを手放す。両手は大地に着いた。その上に、熱い雫が零れた。  僕は、泣いているのか。  自分の状態を冷静に受け止めたユーシスは、俯く事でカイやアストから顔を隠す。嗚咽も必死に飲み込み、泣いている事を気付かれないよう勤めたが、濡れたユーシスの手の上に、アストの手が重なった。  アストの手にもユーシスの涙が落ちる。これでは、気付くなと言う方に無理があるだろう。 「かつての俺の行動が、今の君やアストに大きな苦しみを与えたんだな」 「ええ、そうですよ」 「だが、君やアストの元には、それ以上の喜びが訪れているんじゃないか?」  悔しい事に、カイの言う通りだと、ユーシスはすぐに理解してしまった。己の心を痛めつける苦しみや悲しみは、アストと出会う事がなければ、けして知りえないものなのだから――だからこそどんな痛みでも乗り越えられるのだろうと判っていながら、素直に認めるのは悔しかった。 「モレナの話を聞いた時、僕は、貴方を愚かだと思いました。けれど同じくらいに、感謝の念を抱きました。その時は、です。今は」 「ユーシス、俺は前にも言ったけど」  ユーシスの言葉を遮ったアストは、再び、ユーシスの手を強く掴んだ。  なぜ邪魔をするのだと、僅かに顔を上げたユーシスは、小さな恨みを込めた目をアストに向ける。  ユーシスの視線に怯む事なく、アストは微笑んでいた。まるで、全てを受け止めるかのように。 「お前が今も生きていて、あの雨の日に会って、今こうして目の前に居てくれる事を、凄く嬉しい事だと思ってる」 「あの時と今とは」 「変わらない」  声音は優しい。だが、何よりも力強く、ユーシスの心を真っ直ぐに貫く言葉だった。 「変わらないよ、ユーシス。俺がどんなに苦しんで、傷付いたとしても。たとえ死んだとしても、絶対に変わったりしないんだ」  こみあげてくるもの抑えようと、ユーシスは目を閉じる。  視界は暗い闇と化した。だが、指先から伝わる温もりは、どんな朝をも上回る清冽な明るさを秘めており、胸中に広がる苦い想いを、全て覆い隠してくれた。  僕もだ。  そう言わなければならないと思った。アストのためと言うよりは、ユーシス自身のために。しかし、声が喉で詰まって出て来ない。たった四文字の言葉すら自由に紡げない自分が情けなく、もどかしく、悔しかった。  胸が軽くなったのは、アストの優しい手が、ユーシスの肩をに触れた時だ。  その手は声の代わりに、「言わなくてもいい」と、「判っているから」と、言ってくれているような気がした。 五章 神の剣 1  冷たい水に浸された布が、ユーシスの額の上に置かれた瞬間、頭の熱が徐々に奪われていく。  気持ち良かった。この感覚がずっと続けばいいのにとユーシスは願ったが、儚い願いだった。布はユーシスの熱を奪う事で、すぐに温くなってしまう。小さく落胆したユーシスは、熱のこもった息を吐いた。  同時に、額から布が取り払われる。今日は随分こまめだなと気になったユーシスは、薄目を開けた。軽く見上げたところにあった顔が、よりによって従姉妹のものである事が判ると、慌てて飛び起きる。熱のせいか体に力が入らず、上体を僅かに起こすだけに留まったが。  水を汲んだ手桶の中に布を浸した後、絞っていた手が止まる。振り返った女性の顔は、正面から見てもやはりナタリヤのもので、ユーシスは無意識に身構えていた。 「具合はどうです?」  ユーシスの動揺とは対照的に、風の吹かない湖のように落ち着いているナタリヤは、ほのかな笑みを浮かべている。「随分汗をかいてましたから、喉が渇いているでしょう?」などと言いながら、水を差しだしてきた。  渇いた喉と体の欲求に逆らえなかったユーシスは、とりあえずおとなしく水を受け取り、飲み干す。 「どうして貴女が、こんなところに」  喉を潤したユーシスは、投げかけられた問いに答える事なく、別の問いを口にした。  あんな事件が起きてもなお、甥の面倒を見る事をやめようとしない伯父の人の良さは、今更驚く事ではなかった。モレナはもう居ないのだから、他の人物が代わりに館の中に居る事も、不思議ではない。  問題なのは、モレナの代わりがナタリヤである事だった。「従姉妹が」と言えばおかしくないかもしれない――これまでに自分と彼女がありきたりな従姉妹の関係を築いていたならば、だ――が、そこを「領主の娘が」に置き換えると、途端にありえなくなる。 「どうして、と問われると……」  ナタリヤは僅かに迷いを見せてから答えた。 「どさくさに紛れて、としか」 「どさくさ?」 「ええ。昨日の貴方は、疲労と熱で意識朦朧としていたので、すぐに休ませた方が良いだろうと、カイ様が貴方を館に運び込んだんです。それから、何が起こるか判らないし、病人をひとり放り出すわけにもいかないしと、誰かが貴方の世話をしなければ、との話になって――せっかくだからと、私が立候補しました。普段ならどなたかに止められていたかもしれませんが、見渡す限り目上の方ばかりだったせいか、特には」  ユーシスはとりあえず納得する事にして、再び寝台に横になる。  柔らかな枕に後頭部を埋めると、ふいに意識が晴れた気がした。回りはじめた思考は、ナタリヤによってはっきりと語られなかった現実を受け止め、少しだけ暗い気持ちになる。  つまり、ナタリヤより立場が下にある者で、ユーシスの世話をすると名乗り出た者が居なかったのだ。元より魔物の子として避けられていたユーシスであるから、望んで手を上げる者が居ないのは当然だろうが、領主の娘に雑用を押し付けて知らん顔をするとなると、よっぽどの事と言えるだろう。  口の中に広がる苦い感情に顔をしかめるユーシスの額に、水に浸した布が置かれる。相変わらず冷たくて気持ち良かったが、今回は照れ臭さと申し訳なさが混じってしまい、少しだけ居心地が悪かった。 「忙しくないんですか?」 「誰がです?」 「貴女が。ここで閉じこもって暮らしている僕には判らないけれど、領主って言うのは、色々仕事があるんでしょう?」  ナタリヤは浮かべる笑みを強くした。これまでの、ただ相手を労わるものとは雰囲気が変わり、やや意地悪そうに見える。 「まだ父は健在で、私はただの補佐ですから。居なくても問題はありませんよ」 「そうですか?」 「ええ。私が手伝えない分、父が忙しくなっているでしょうが」 「問題じゃないですか。後で叱られたりは……」 「大丈夫ですよ。昨晩城に戻ったカイ様やアスト様が、父に状況を伝えてくださったはずです。今頃父は、怒るどころか精力的に、ふたり分働いていると思います。そう言う人ですから」  何が大丈夫なんだかと言おうとしたユーシスは、しかし何も言わなかった。伯父とは会った記憶が無かったが、彼がユーシスのためにしてくれた数々の事を思い出すと、「本当に大丈夫なのだろう」と、素直に信じられたのだ。 「変な人たちばかりだ」  代わりに、率直な感想を口にする。すると、首を傾げたナタリヤが、興味と言う名の視線を向けてきた。 「アストの事は最初っから変なやつだと思ってました。でも、思い返してみると、アストだけじゃありませんでした。カイ様も、リタ様も、伯父さんも、貴女も、皆変だ。僕を恐れないんですから」  ユーシスは真実魔物の子だった。魔獣の手先として、傷を負わせる事もした。 「僕だって、僕自身が怖いくらいなのに」  小さな笑い声がユーシスの耳に届く。  それは忍び笑いと言えるほど微かなもので、本人は隠すつもりであったのかもしれない。だが、ふたりしか居ない静かで小さな部屋の中では、充分な音だった。  笑い声の主は、柔らかな手を伸ばす。先ほど起き上がった時に乱れた毛布を整え、冷えかけたユーシスの肩に温もりをくれた。 「私だって、私自身が怖いですよ」 「意味が違う」 「そうですか? 理性に勝るものが勝手に体を動かして、アスト様を傷付けた。同じだと思いますけど。突き動かしたものが自分の意志だったか他人の意志だったか、そのくらいの違いで――あら? 私の方がよっぽど悪質ですね」  ナタリヤは自虐的な事を口走りながら笑い、仕事を終えた両手の行き場を探した後、膝の上で重ねた。 「アスト様は私をお許しくださった」  罪の意識が宿る声音は、ユーシスの記憶を呼び起こす。  あの時アストは泣いていて、だからユーシスは、ナタリヤに対して怒りを抱いていた。本音を言えば今もまだ、彼女に対してわだかまりがある。アストが彼女を許したと言うなら、ユーシスにはもうあれこれ言う権利などないのだが。 「ありがたい事だと思っておりました。今も思っております。けれど、少しだけ悔しくなりました」 「どうして」 「アスト様は、貴方の事をお許しにならなかったから」  心臓が跳ね、ユーシスの中で、鼓動ばかりが鳴り響く。 「もちろん、悪い意味ではありません。許す前に必要なものを、アスト様ははじめから、貴方に対して抱かなかった、と言う事です」 「でも、それは」 「原因とか、動機とか、結果の問題ではなく、貴方だからなのだと思います。それが羨ましくて、少し妬けました」  言ってナタリヤは、彼女自身の唇に、立てた人差し指を押し付ける。「アスト様には内緒にしておいてくださいね」と言って、可愛らしく笑った。  何と返せば良いのか。迷うユーシスの救い主は、乾いた鈴の音だった。はじめは何の音か判らず戸惑ったユーシスだが、音に反応して立ち上がったナタリヤが部屋を出て行った時、客人が来たのだと知った。  小走りで遠ざかっていった足音は、すぐに戻ってくる。後に複数の足音を引き連れて――ユーシスの部屋の前に辿り着く頃には、足音のひとつがナタリヤを追い越していたが。 「ユーシス! 元気か!」  扉が開くと同時に、明るい声が響く。 「全然。だいぶ熱があるみたいだ」 「そっか……」 「お前が元気だからって、病人の周りであまり騒ぐなよ」  アストの後ろから現れ、アストの頭を上から押さえつけるのは、カイだ。 「食欲はあるか?」  カイに問われてはじめて、ユーシスは自身の空腹を自覚した。普段ならば、体調が悪い時はあまり食べる気がしないのだが、気分だけは晴れている事と、最後に食事をしたのが一昨日の夜であった事が手伝って、それなりに食欲が湧いていた。  ユーシスが肯くと、ナタリヤは慌てだす。 「ごめんなさい。そばに居たのに、ちっとも気が回らなくて。すぐに何か作ります」 「作れるのか?」 「はい。難しいものでなければ」 「何なら俺がやろうか?」  ナタリヤは目を見開いてカイを凝視した。 「カイ様はお料理がお上手なのですか?」 「子供の頃は父親とふたりだけで暮らしていたし、一時期城の外で暮らしていた事もあったから、それなりには――いや、どうだろうな。最後に作ったのは、十五年近く前だから」  ナタリヤは笑みの中に困惑を混ぜ込んだ。 「ならば、やはり私が。王都に居た頃は自炊しておりましたし、今も時々は母と菓子などを作りますから」  それでも料理は四年以上ぶりになるのではなかろうか。  ユーシスは出てくる料理に期待をかけるのをやめようと決めた。状況が状況だけに、元々贅沢を言うつもりはない。菓子が作れるならば、食べられないようなものは出てこないだろうから、それで充分だ。 「あ、俺も手伝うよ、ナタリヤ! ここに居たら、無駄に騒いじゃいそうだから」 「ですが……いえ、そうですね。急いだ方がいいでしょうから、お願いいたします」 「手伝うならいいが、邪魔はするなよ」 「しないよ!」 「そうか。せいぜい頑張れよ」  むきになって反論するアストを軽くあしらったカイは、台所に向かうふたりを見送った。  アストたちの到着で急にうるさくなった部屋が、また急に静かになる。突然の変化だけでも居心地が悪いと言うのに、カイとふたりきりと言う妙な顔合わせも合わさって、ユーシスはどうしていいか判らなくなった。  足音が鳴った。カイが少しだけ移動し、ナタリヤが部屋を出た事で空いた椅子に腰を下ろしたのだ。 「ちょうどいい。君だけに言いたい事があったんだ。昨日はアストがいい事を言っていたから、言いそびれてしまったんだが」  そこで一度言葉を切ったカイは、静かに深呼吸してから続けた。 「責めはおとなしく受けるつもりなんだ」  ユーシスは無言で、重い体を起こす。本当は寝ていたかったが、できる限りカイと目の位置を近付けたかった。 「正直に、本当の事を言うよ。俺の大切な人たちが君の生を望んだ事や、正義感が働いた事が、君を生かした理由である事に嘘はない。けれど、理由はもうひとつあったんだ。それは、幼くて我侭な卑しい心で――ちょうど君が生まれた頃、俺は、自分の無力さに嘆いていたんだ。そんな俺の目の前に、君と言う、俺の力で助けられる命が現れて」  ひと呼吸置いてから、カイは続ける。 「嬉しくてしょうがなかったんだよ」  くだらない。  一番初めに抱いた感想はそれだった。だがすぐに、ユーシスが産まれた頃の彼は、今のユーシスやアストとさほど変わらない年齢の少年だったのだ、と言う事実を思い出す。思い出してしまうと、正直な感想を口にする気にはならなかった。 「それはもう、いいです。昨日は取り乱していて、すみませんでした」 「……いいのか?」 「はい。アストが、僕が生きてて良かったと言ってくれたから。前にも言われたのに、僕は迷った。だからもう、迷いたくないんです。アストの隣に、胸を張って立つためにも」  カイの大きな手が、普段ならアストにするようにユーシスの頭に乗り、蜂蜜色の髪をくしゃくしゃに撫で回す。少し痛かった。ユーシスの髪は、アストのように細くて真っ直ぐではなく、癖がある。カイの指に絡みやすいののだ。 「俺は正しい事をしたんだろうな」  呟くカイの笑顔は、喜びに溢れていた。それはおそらく、ユーシスの責めを受けなかったからではないのだろう。 「アストの父親としてだけではなく、エイドルードの御子としても」  大げさな物言いに不安を覚えたユーシスは、睨み付けるようにカイを見上げた。 「どう言う意味です?」  問うと、カイは曖昧に笑い、ユーシスの頭から手を離した。 「すぐに判るさ。きっとな」 2  駄目だ。集中できない。  諦めたリタは、先ほどから一行も読み進められない本を閉じると、机の上に置いた。  無意識に手つきが乱暴になっていたようで、机と本がぶつかる瞬間、大きな音が鳴る。自分でやった事だと言うのに、少しとは言え驚いてしまったリタは、間抜けな自分に気付かれたくないと、平静を装ってみる。  さりげなく辺りを見回した。音に反応して振り返っていたジオールと目が合う。引き締まった口元と、普段と変わらない愛想の無い表情は、「全て気付いている」と言いたげだ。リタは瞬時に顔を反らした。 「まったく、あの男は、この私をわざわざ王都から呼び寄せておきながら、どこをほっつき歩いてるのかしらね!」  ごまかすように恨みを込めた言葉を吐き出すと、数歩離れたところに立つジオールが、首を振る気配がした。 「存じません」 「あのね、私だって、貴方が知らない事くらいは判ってるわよ。ひとりで時間潰しながら、おとなしく待ってあげるのに腹が立ってきたから、愚痴を言っているだけ。いちいち真面目に答えないでいいの!」  厳しい口調でジオールに言い捨てると、リタは腕を組んだ。少しだけ考え込んで、名案が重い浮かぶと、腕を解いて身を乗り出す。 「ハリスならカイの行き先を知ってるわよね」 「おそらくは。ですが……」 「が?」 「私はハリスが今現在どこに待機しているかを存じません」  リタは脱力し、椅子の背もたれに寄りかかる。当たり前の事に気付かず、得意気に発言した自分自身に呆れてしまった。  さて、どうしよう。リタは新たに考えはじめた。読書で時間を潰すのは無理だと身をもって知っている。かと言って、部屋の中でやる事なくじっとしているのは耐えられない。  リタはとりあえず立ち上がり、部屋を出る事にした。城の中を適当に歩き回れば、何かしら面白いものに出くわすかもしれないとの、微かな希望に縋ったのだった。  当たり前に着いて来るジオールを従えて、リタは適当に歩いた。苛立ちを隠そうとしないので、無意識に乱暴な足取りになる。たしなめるような口調のジオールに、「リタ様」と名を呼ばれたが、聞こえないふりをした。  すれ違う者たちはさほど多くなかったが、全員がいちいち立ち止まり礼をしてくるのは、少し面倒だった。自分の暇つぶしのために、城で働く者たちの仕事の邪魔をしているのではないかとの罪悪感も湧き上がり、困惑してしまう。  せめて目的地を決めようとリタは思った。そして考え付いたのは、ルスターの執務室だった。日中ならば基本的にそこに居るはずだし、何となくだが、彼ならばカイの居場所を知っている気がしたのだ。  目的地が決まると、少しだけ足取りが軽くなった気がした。長い階段を昇る事も苦にはならず、ルスターが待つ部屋に辿り着くまであっと言う間だ。  ルスターの部屋の扉は、開け放たれていた。部屋の中にもそうとうな人数が居そうだが、それでも納まりきらず、通路まで人が溢れ出ているために、だ。  大抵はリタよりも歳若い青年たちで、身なりからして聖騎士と考えて間違いなさそうだが、全員が全員、かろうじて見た事があるか、まったく見た事ない顔をしているので、おそらくハリスの部下だろう。  リタの立場なら、彼らを押しのけて部屋の中に入るのは簡単だった。しかし、聖騎士たちの顔の真剣さに圧倒され、ある程度近付くと歩みを止める。いっそ立ち去るべきか、とも考えたが、見えない状況に興味を抱いてしまったリタには、できない選択だった。 「何かしら、あれ」  リタは自身の隣に並んで足を止めたジオールに問うが、彼は無言のまま、何かを警戒しているように険しい視線を聖騎士たちに向けていた。 「『魔物の子』の事です」  人垣の向こう、部屋の中から、聞き捨てならない言葉が聞こえた。  リタは咄嗟にジオールに振り返る。ジオールも同じ事を感じた――いや、彼はもしかすると、声が聞こえる前から気付いていたのかもしれない――ようで、リタと目が合うなり小さく肯いた。 「誰の事だ?」  返事はハリスの冷たい声だ。  彼もここに居たのかと、冷静に現状を受け止めながらも、リタは自分の頭に徐々に血が上るのを感じていた。 「とぼけないでください。今もアスト様のおそばに居る、子供の事です」 「悪いが、とぼけたつもりはない。本当に判らなかったのだ。ユーシスは『魔物の子』ではないからな」 「ハリス様……!」 「それともお前たちは、アスト様のお力を、カイ様のお言葉を、信じられないのか?」  言われた聖騎士たちにとっては、ハリスの反論は卑怯に感じただろう。しかし、心情的にユーシスの味方であるリタにとっては、清々しいほどだった。握りしめた両の拳に力を込め、内心でハリスを応援してしまう。 「アスト様やカイ様を疑えるわけがありません。判りました、あの少年が人であると、我らも信じましょう。しかし、そうであっても問題がないわけではない。あの少年が魔獣の意志に従い、アスト様のお命を奪おうとしたのは、紛れもない真実なのですから」 「私は報告を聞いたのみだが」  次に反論したのはルスターだった。いつもの柔らかさの欠片もない、硬質な声だ。 「彼は自ら魔獣に従ったわけではなく、ただ操られたのでは?」 「それに何の違いがあると言うのです。あの少年がアスト様にとって危険である事に、変わりはないでしょう。新たな問題が起こる前に、早々に何らかの処分を――」  リタは黙って見ているつもりだったが、体が勝手に動き出した。足は力強く床を蹴り、数歩分だけ部屋に近付く。  まずは、部屋に入れなかった若い聖騎士たちが、リタに気が付いた。彼らは慌てて身を引き、リタが進むための道を作る。リタが進めば進むほど、部屋の内部にまでリタの存在が伝わり、やがてリタは、ハリスの前に辿り着いた。  ハリスも、ルスターも、その場に居る聖騎士たちも、全員がリタに注目した。後ろの方に隠れる若者の中には、気まずそうな顔をしているものも居たが、多くは堂々とした態度で、リタに礼をした。 「貴方たち、今の言い方は……」 「リタ様」  ハリスはリタの名を呼ぶだけでリタを諌めると、部下たちに背を向け、リタに歩み寄る。流れるような動作でリタの前に跪くと、頭を下げた。  無防備な首が、リタの前に晒される。 「どうかお許しを。彼らの発言に誤りはありません」  ハリスの言葉に、リタは僅かに動揺したが、静かに呼吸する事で気を落ち着かせた。そして、彼が態度と合わせてリタに伝えようとした真意を理解すると、小さく、しかし力強く肯いた。 「それを、貴方が言うのね」 「はい」 「もちろん意味は判っているわね?」 「はい」 「ジオール!」  リタは自身の護衛隊長をそばに呼び寄せると、目だけで合図をし、彼の腰に吊り下げられた剣を引き抜く。  ジオールがいつも片手で軽々と振り回しているからと甘く見ていた。リタにとっては、両手で構えても、少し重いくらいだった。腕が震えだしては情けないので、早々に事を片付けようと決めたリタは、ハリスの首に刃をあてがう。  「いい覚悟だわ」 「悔いはございません。あの時一度は覚悟いたしましたから――むしろ、長生きしすぎたくらいです」 「確かにそうかもしれないわね」 「リタ様!」  聖騎士たちは慌てた様子で、リタとハリスの元に駆け寄ってきた。みな一様に「何が起こっているのか理解できない」と言った面持ちだ。リタが神の娘でなければ、羽交い絞めにしてでも止めにかかったかもしれない。 「何をなさるおつもりですか」 「貴方たちが言ったんでしょう? 危険人物はさっさと処分しろって」 「それは、『魔物の子』の事です。なぜハリス様が!」  魔物の子。  その言葉に篭る差別的な感情が、リタは嫌いだった。自分がまだ神の娘だと判る前、得体の知れない力のせいで化け物扱いされていた時代、向けられていたものに良く似ているからかもしれない。  いっそう不愉快になったリタだが、動揺する聖騎士たちの滑稽さに、少しだけ溜飲を下げる。笑いたい気分にもなったが、笑ってしまっては意味がないと判っていたので、必死に堪えた。 「知らないなら教えてあげる。貴方たちの隊長であるハリスは、かつて魔獣の意志に操られ、神の娘であるこの私と、シェリアと、おまけにこのジオールにも剣を向け、命を奪いかけた前科があるの。どう? 処刑されて当然の、とても危険な男だと思わない?」 「そんな……!」 「リタ様」  ジオールが一歩身を乗り出し、その大きな左手で、リタの両手ごと柄を握った。  まさか邪魔をするつもりだろうか。リタは内心慌てて、ジオールを睨み付けた。いつもは妙なところで察しがいいくせに、こう言う時に限って鈍いのは困りものだ。 「リタ様のお手を煩わせるまでもありません。私が」  言ってジオールはリタの手から剣を奪い取った。  とうとう我慢できなくなったリタは、小さく吹き出してしまう。だが、その程度の笑いならば、今の雰囲気を壊すほどではなかった。むしろ、神の娘の厳しさが浮き彫りになり、青年たちに畏怖の念を与える役に立ったようだ。 「そうね。私が自ら手を下す必要は無いわ」 「リタ様!」  聖騎士たちの先頭に立つ、一番年上と思われる青年が、強くリタの名を呼んだ。 「大神殿でお過ごしのリタ様はご存じないかもしれませんが、ザールにてハリス様の下に勤めておりました我々は、見てきました。アスト様やカイ様の身の安全のため、ザールをはじめとする大陸全土の平和を守るため、ハリス様がどれほどご尽力なされていたか。ですからどうぞ、ご慈悲を」  リタは体ごと聖騎士たちに振り返り、空色の瞳でひとりひとりを真っ直ぐに見上げた。 「慈悲を、ハリスだけに与えろと言うの?」 「はい」 「あの子が、ユーシスが、何も守らなかったから?」  リタはまず、随分勝手な言い草だと、怒りを覚えた。だがすぐに怒りは冷めた。彼らの言う通り、ザールに居なかったリタはザールで起こった大抵の事を肌で感じていない。怒りを覚えるリタの心こそ、勝手なのかもしれないと思ってしまったのだ。  張りつめた空気の中、誰もが口を噤み、静かな時間が流れる。 「何も守らなかったわけではない」  その時を終わらせたのは、ルスターの声だった。 「ユーシスは、一番大切なものを守ってくれた。我々が殺し続けた、アスト様のお心をだ」  家族なり、友人なり、恋人なり、大切な人が居る者ならば、ルスターが語った意味を理解できない訳がない。  納得した者もいくらか居た。多くは困惑した。「だからと言って見逃せない」と言いたそうにしている者も居た。内心はそれぞれ違っていたが、皆一様に口を閉ざし、再び静かな時が訪れた。  沈黙には耐えられたが、己の内側から湧き出る感情を押さえ込む事には耐えきれず、リタは口を開く。だが、言いたい事が沢山ありすぎるせいか、何から語れば良いのか判らず、いたずらに時間が過ぎていった。  戸惑うリタの代わりに沈黙を破ったのは靴音だった。リタの周囲に居る男たちのものではない――彼らならばもう少し重い音を立てる――事は判っていたが、女性か子供のものだろうと予想を立てるがせいぜいで、誰のものかがすぐには判らなかった。  人をかき分けて現れた少年を目の前にしたリタは、口を閉じて息を飲む。彼が、話の中心に居た人物のひとりであったからだ。空色の瞳は憂いに満ちていて、今の話を聞いていたのだろうとリタは察した。聞いていなかったとしても、場の雰囲気からどんな話をしていたか、理解してしまったのだろう。 「アスト」  リタが名を呼ぶと同時に、今にも泣き出しそうに見えたアストの表情が変化した。太陽の光を浴びたかのように、陰りをどこかへと消し去った、強い眼差しだった。  アストは振り返り、戸惑う聖騎士たちの前に堂々とした態度で立つ。その姿は力強く、頼もしく、眩しく、「ああ、自分たちはこの少年に救われるのだ」と、見るもの全てを納得させるだけの説得力があった。 「心配かけてごめん」  立ち姿と同様に、声もまた力強い。迷い、泣いていた少年の姿は、どこにも見えなかった。 「皆の不安や心配事は、魔物や魔獣がこの大地に存在しているせいだと思う。他にも理由はあるだろうけど、一番大きいのは、そこだろう? だからもう、大丈夫」 「アスト様……」 「明日、俺は神の剣を手に入れる」  場が少しだけ騒がしくなった。  アストの言葉の意味を知る者ならば、感激して当然だった。リタとて、胸の奥の方が痺れ、体中に力が漲ってくる気がしたくらいだ。  リタはアストの顔を眺めた。小さく微笑む横顔は凛々しいものだった。 「そして魔獣を倒し、魔物たちを根絶やしにし、大地に平和を呼ぶ。約束するよ」 3  清々しい青空が広がっている。  雲に覆われる事のない太陽は、きつく地上を照らしており、これから寒くなる時期だと言うのが信じられないほど熱い。目を細めながら太陽を見つめていたアストは、やがて眩しさに負け、視線を地上に戻した。  地上にあるものの中で最初に目に入ったのは噴水だった。噴水が立てる水音は爽やかで、太陽の熱さを柔らかく中和してくれる。アストは心地良い水音に耳を傾けたまま、目だけはそばに立つ父の背中に向けた。 「で? その、神の剣とやらを手に入れるための儀式は、どこで、どうやってやるのよ」  カイから数歩離れたところに、何人か人が固まって居る。その中で一番手前に立っているリタが、いつも通りの強気な態度で発言した。 「場所は別にどこでもいい。余計な人間がそばに居てはいけないから、人気のない所がいいな」 「人ばらいをいたしますか?」 「いえ、いいです。森のどこか、ちょっと開けたところでも探します」 「ところで、余計な人間って、どこまでが余計なの?」  腕を組んで不満げに語ったリタの眉間に皺が寄った。 「安心してくれ。わざわざ呼び寄せるくらいに、君は必要な人だよ」 「それは良かったわ」 「残念ながら、君の後ろに居る人たちは、『余計な人間』の範疇になってしまうんだけどな」  カイが肩を竦めながら言うと、リタは振り返り、後ろに立つ者たちを見た。  彼女の護衛隊長であるジオールや、アストたちの護衛隊長であるハリスが、幾人かの聖騎士たちを従えて立っている。少し離れたところには、ザールの領主であるルスターの姿も見えた。  はじめから見送りの姿勢を取っていたルスターは驚く様子を見せなかったが、ジオールとハリスのふたりは、無表情ながらも多少反応を見せた。彼らの後ろの聖騎士たちは、若干の動揺を顔に出している。 「悪いな。今回ばかりは、三人で動く事を許してくれ」  落ち着いた声は、個人の我侭ではなく神の意志である事をはっきりと告げていて、だからハリスもジオールも、何ひとつ口にせずに受け入れた。 「じゃ」  手を上げ、まるで近所の商店に買い物にでも行くかのように気軽な口調で言うと、カイは歩き出す。  拍子抜けしながら、アストは父の背中を追った。リタも同様だった。何か言いたそうな顔をしているように見えたが、実際口に出して言うつもりはないらしく、黙って着いてきている。 「偶然にでも人が来ないところがいいよな」などと言いながら、カイは森へと続く道を選んだ。森へ向かうと言っても、ユーシスの屋敷を訪ねる時に進む道とは途中で分岐したので、アストにとっては初めて歩く道だった。  森に入ると、まずは背の高い草に驚いた。同じ森でも、少数とは言え人が出入りしている場所とは違うようで、ユーシスの屋敷周辺とは随分印象が違う。  少し奥に入ると、今度は木々に生い茂る葉に勢いが増してきた。太陽の光はまったくと言っていいほど地上まで届かなくなり、ところどころに木漏れ日が差し込むのみとなった。先ほどまでの眩しさが嘘のように薄暗く感じる。  その薄暗さの中、どれほど進んだ頃だったろうか。やがて、木の密集度が他のところよりも若干低い場所に辿り着いた。 「この辺でいいか」  木漏れ日に手を翳したカイは、呟きながら足を止めた。すぐに振り返ったので、続けて足を止めたばかりのアストと目が合った。  どきりと、アストの心臓が大きく鳴る。向けられた父親の優しい目に驚いたからだった。  アストに対してはいつも優しい人だから、驚く事ではないはずだが、普段よりも強い慈しみを感じる眼差しに、アストの息は詰まりそうになっていた。しかし、目を反らして楽になる事はできない。「父さんは俺が知らない不思議な力を持っているんだろうか?」と疑いながら、黙って見つめ返す事が、アストにできる全てだった。 「悪いが、リタは少し離れていてくれるか」  リタと会話をするためにカイが顔を反らすと、緊張が解れ、アストは安堵する。そんな自分に疑問を抱きつつも、考えたところで答えは判りそうもなかった。 「判った。で、何をすればいいの?」 「とりあえず、見てるだけでいい」 「何よそれ。本当に私が必要なんでしょうね」  疑う言葉こそ投げかけたが、リタは特に不満げな様子を見せず、大人しくカイの指示に従った。あまり離れすぎてしまうと、あちらこちらに生える木々によって視線が遮られてしまうためか、十歩程度の距離しか離れていなかったが、それで充分だと言いたげにカイが肯くと、太い幹に背中を預けた。  カイが再び振り返り、アストの正面に立ち尽くす。先ほどのように得体の知れない息苦しさこそ感じなかったが、鋭い眼差しは確実にアストを威圧した。 「剣を抜け」  素っ気ないほど短い指示に操られるように、アストは剣を抜く。  剣が放つ光が、薄暗い世界を少しだけ明るく照らした。眩しくはなかったが、アストは反射的に目を細める。  見ると、剣を見下ろす父の目も、アストと同様に僅かに細まっていたが、そうした理由は自分とは違うのだろうと、アストは肌で感じていた。カイを取り巻く空気が、妙に緊張しているのだ。 「構えろ」  次に来た短い指示にも、アストは無言で従った。光が形を持った柄を両手で握り、構える。アストの剣が光の剣でなければ、父も剣を構えていれば、いつもの手合わせと変わらないなと思いながら。  ここにきてアストは、自身を取り巻く空気が変わりはじめていると気付いた。小さな痛みが皮膚に触れ、軽く痺れるような感覚だった。その痺れが全身に伝わる頃には、手にした剣が放つ光が増していた――いや、光が増したからこそ、空気が攻撃的に変わったのだろうか? 「目を伏せて、集中しろ」  どうしてか、次の指示には素直に従う気になれなかった。  戸惑うアストが何もせずに立ち尽くしていると、カイはアストの正面から動き、アストに近付くと、大きな手をアストの目の前に翳した。  視界を遮る父のてのひら以外、何も見えなくなる。そんな状況に追い込まれてしまえば、目を伏せるしかなかった。  ひとつの感覚を閉ざすと、他の感覚が冴え渡る気がした。とりわけ、肌の痺れを強く感じる。指先の辺りは一番痛みが強く、集中して力を込めなければ、剣を取り落としてしまいそうだった。だからこそ父は集中するように言ったのだろうと、ようやくアストは気が付いたアストは、重く感じはじめた剣をいっそう強い力で握りしめる。  父の手が遠ざかるのが判った。軽く、土を踏み締める音。元の立ち位置に戻ったのだろうか? 目を伏せているアストには判らない事だった。 「エイドルードはまさしく神だった」  およそ父らしくないと言える、抑揚のない声が語る。 「偉大なる力で人と大地を救った存在だから?」  目を伏せたまま、アストは父の言葉に応えた。 「それも含めて、エイドルードは人が及びもしない存在だった。何もかもが、地上の民とは違いすぎたんだ」  疲れて下がりはじめたアストの手を支えるように、父の手が伸びる。大きな手が、アストの手に重なった。伝わる温もりと力が、アストを支えてくれた。 「エイドルードと比べると、俺たちは地上の民に近すぎるな。地上で、人に紛れて生きていたのだから、当然かもしれないが」 「うん」 「なあ、アスト。お前の母親は、シェリアは、俺たちの中で一番、神に近い存在だったと思うよ。彼女の心は、普通の人とは離れたところにあった。離れるように、作られたんだ。俺はそれが悲しいと思った。許されない事だとも。だから、お前をシェリアのようにはしたくないと願い、大神殿の者たちの影響をできるかぎり受けない場所で、共に暮らせるようにしたんだ。それがエイドルードの意志だと、もっともらしく嘘を吐いて」  やはり抑揚のない声の中に、感情が混じりはじめる。  様々なものが混在しており、正体を知る事は難しい。知る事を早々に諦めたアストの胸を、寂しさが占める。父の声が、アストの胸の奥から、切ない感情を呼び寄せるのだ。 「けれどそれは間違っているかもしれない。俺は俺自身の感情に従うあまり、大きな過ちを犯してしまったのかもしれない――俺は長い事、悩んでいたよ。お前は、お前自身にのしかかる運命に耐え、乗り越えなければならないのに、人の心で、それが可能なのかと」  アストの手を包む父の手に、更なる力がこもった。 「だが、今のお前なら大丈夫だと、俺は信じている。人に近い存在であっても、運命に耐えられるんだと。辛くて、苦しいかもしれないが、乗り越えられるだけの力を、支えを、今のお前は持っているはずだ」 「うん」  アストは自信を持って肯いた。  言われずとも判っている事だった。自分を支えるものの象徴が、アストの手を覆っているのだから。 「アスト」 「ん?」 「ごめんな」  突然の謝罪の意味を、はじめアストは理解できなかった。  父の手にこもっていた力が緩むと、更に意味が判らなくなる。半ば混乱したアストは、父の指示に逆らって目を開けた。  視界が開けると同時に、父の手に再び力が入る。未だ成長途上であるアストには抗えきれない、強い強い力。それが突然、アストの手を引いた。  手から伝わる力は、僅かな時間でアストの全身に働いた。体が浮くような感覚がしたかと思うと、アストの体は目の前に立つ父親の体に、吸い込まれるように引き寄せられた。  広い胸が、目の前に迫る――そこでアストはようやく、謝罪の意味をおぼろげに理解したのだった。 「父、さん?」  視線を少しだけ下げると、アストが手にする光の剣が、父の腹に深々と埋まっているのが見える。そこからは確かに血が滲み出ていて、アストは目を剥いた。 「何で」  アストは短い言葉に、瞬時に湧き上がった多くの疑問を込めた。  だってこの剣は、魔物しか傷付けないはずじゃないか――いや、違うのか? 何を滅ぼすかと問われ、「魔物を」と答えた時、父は「――まあ、そうだな」と、曖昧な肯定をしただけだった。  かつて父は厳密には何と言っていたのか――そうだ、確か、「エイドルードの加護を得ないものを滅ぼす」と。  では父は、エイドルードの加護を得ていないと言うのだろうか。彼はエイドルードの御子で、エイドルードに最も近い生き物であるのに?  そう言えば、アストの母は、この剣によって命を落としたのだった――  そもそも、なぜこんな事をする? 自ら滅びを選ぶような。いや、滅ぶ事は無いのか? 父は以前、誰かに言ったのだ。「役目を終える前に死ぬ事など絶対にない」と。  ならばこれはただの自傷だと?  それともこれが、役目、だとでも? 「っ……」  父の口から息と共に、押し殺した呻き声が漏れた。掠れ声だが、そばに居るアストの耳に届くには充分だ。  アストは動揺のあまり、咄嗟に剣を手放そうとした。  剣が手から完全に離れる瞬間、剣を伝って迫りくる力のようなものが、アストの中に侵入し、弾け、膨張する。それは、次々とめまぐるしく形を変えながら、アストの脳内に次々と知識を植えつけていった。 「嫌だ。そんなの嫌だ、父さん」  膨らんでいくもののせいで、頭が破裂しそうな気がしたアストは、両手で自身の頭を抑えながら、父に救いを求める。  しかし、ゆっくりと崩れ落ち、両膝を着き、苦しそうに蹲った父が、アストに応える事はなかった。 「父さっ……父さん、父さん!」  丸まった背中を貫く光の剣の切っ先が目に入ると、アストはただひたすら父を呼び、叫ぶ。  そうして父に縋りながらも、アストは現実から目を背けていた。いや、目だけではなく、全身で。  アストは地面を蹴り、走り出していた。その場から逃げ出すために。 4  空色の双眸が予想外の光景を映した時、リタは太い木の幹に預けていた背中を離して身を乗り出したが、それ以上動こうとはしなかった。目にした光景が信じられないあまりに、脳内が必要以上に冷静になってしまったのかもしれない。まずは現状を把握しなければならないと思いが先走り、ただ、見た。  見たところで、現実は変わらなかった。アストが手にした光の剣は、確かにカイの身に埋め込まれていたのだ。  ユーシスの一件を間近で見ていたリタは、その剣が人を生かし、魔物を切る剣だと信じて疑わなかった。故に、少しずつ体勢を崩しはじめたカイの表情が、徐々に苦痛に歪んでいく意味が、全く理解できなかった。痛いわけがないのだ。今までカイだと思い続けていたものが、魔物が化けたものでもない限り。  カイの体は、顔が青褪めていくと同時に沈んでいった。自分の意志でしているのではないだろう、勝手にそうなっているのだ。 「父さっ……父さん、父さん!」  やがてカイの膝が地面に着くと、アストが叫ぶ。裏返った、酷い声だった。状況が違えば、「変な声出さないでよ」などと軽口を叩きながら、笑いあっていたかもしれない。  だが今は、とてもではないが、笑えない。少年が父を呼ぶ声は悲痛で、カイの表情が演技ではないと、リタにも伝わってきたのだ。 「父さん……!」  アストは空気を震わせる声でもう一度叫ぶと、走り出した。まるで魔物に怯え逃走する幼子のように、振り返る事なく、がむしゃらに。  突然の事にアストが動揺しているのは明らかだった。さもなければ、混乱しているのだろう。放っておいてはどうなるか判らず、咄嗟にリタは「追わなければ」と思った。  しかし、剣を体に埋め込んだまま蹲る男は、もっと放っておけない。自分がもうひとり居れば良いのにと、歯がゆい思いをしながら、リタはカイの傍らに膝を着いた。 「私の役目がこんなくだらないものだとは思わなかったわよ」  リタはカイに手を翳し、癒しのための神聖語を紡ごうとした。  しかしカイは、震える手をリタに向けて伸ばす。制止しようとしているのだ。 「必要、ない」  拒否する声の弱さに、リタは抱く怒りを強くした。 「馬鹿言わないで。必要ないわけないでしょう」 「ないんだ」  カイは頑なに言い切ったが、リタは従わなかった。神聖語で素早く呪文を唱え、傷を癒そうとする。  だが、傷は癒えなかった。それどころか、リタの手から光が発生する事さえなかった。まるで、リタの中にある力が、カイを癒す事を拒否するかのように。  リタが拒否するわけがない。拒否するくらいならば、はじめから力を使おうとしないのだから。  ならば、どう言う事だろう。  まさか、エイドルードが――? 「どうして」 「これが、俺の、最後の、果たすべき、役目だから」 「やだ。やめてよ。このままじゃ貴方は」 「俺の魂と、俺の、抜け殻を、吸収し……光の剣は、神の剣へと、生まれ変わる」 「――!」  リタは声にならない悲鳴を上げる。体中から力が抜け、へたりこんだ。それでも必死に首を振った。カイが語る、カイと言うひとりの男が地上から消える未来を、否定するために。  力無く地面を見下ろしていたカイの目が、リタを見つめる。空色の瞳は、途方もなく優しく輝きながら、リタの感情を受け止めているようだった。 「剣を、どうか、アストの手に。君にしか……」 「嫌よ」 「もう少しで、全てが、終わる。俺を手にしたアストが、最後の役目を果たせば、自由に、なれる。運命から、解放される」 「嫌だって言ってるでしょう」 「アストも……君も」  力を失った、掠れはじめた声は、眼差しと同じだけ優しく、それでいて鋭く、リタの胸を貫いた。  これまで生きてきた中で受けた、あらゆる苦痛に勝るものが、強くリタの心を揺さぶり、かき乱した。痛いとか、苦しいとか、そんな単純な言葉では説明できないものが、リタを内側から執拗に責めるのだ。  やがて、驚愕に見開く事で乾きかけていた双眸から、静かに涙がこぼれ落ち、リタの頬を伝う。  カイの言葉の中には、リタが長い間強く望んでいながらも、けして得られないと諦めていたものが、確実に含まれていた。だが、こんな形で受け取る事を望んでいたわけではなかったリタは、溢れるものが悲しみなのか喜びなのか判らないまま、泣くしかなかった。 「嫌。私は絶対、こんなの、認めないから。何でも知って、隠している貴方だもの、本当は知ってるんでしょう? 言いなさいよ、貴方が助かる方法を。貴方が諦めるほどの苦難がそこにあっても、私は諦めずにやり遂げて見せるから。さあ、教えて!」  涙声でリタが叫ぶと、カイはゆっくりと目を細め、微笑み、同時に地面の上に倒れ込んだ。  アストやリタに心配をかけないためだろうか、これまで無理に飲み込んでいた息を、断続的に吐き出す。苦痛に耐えるのはもう限界なのだろう、切れ切れながら懸命に呼吸する音が、うるさいくらいにリタの耳に届いた。  その呼吸よりも、静かすぎる彼の表情の方が、リタにとっては辛いものだった。カイは他の手段など知らないのだと、少なくともカイ自身が生存したまま大陸を救う方法を知らないのだと、だからこそ神の御子としての使命に殉じる道を選び実行してしまったのだと、もはやリタがカイに対してしてやれる事は何ひとつないのだと、理解せざるをえなかったがために。  「何よ」  痛々しいカイを目前にしながら、優しい言葉がひとつも出てこない自分自身に嫌気がさしながらも、リタは正直な思いを吐露する事を止められなかった。 「ひとりで全部知って、ひとりで全部決めて。自分ひとりで苦しんで、自分ひとりで抱え込めば、それでいいとでも思ったの? 他の人を苦しめたくないとかって、格好つけてるつもり? だとしたら、貴方は馬鹿だわ。そうじゃなかったら、私たちを馬鹿にしてるのよ。私が……私が、何にも気付いてないと思ってるの?」  ひと息で言い切ったリタは、雑な動作で涙を拭い、続けた。 「あいにくだったわね。私はとっくに気付いてるわよ。貴方が全てを知った上でシェリアを選んだ事も、シェリアを殺した罪を償うために、神の子としての運命に黙って従った事も。知らないふりをしてきたのは、貴方自身に真実を語ってほしかったからよ」  小刻みに震えるカイの手が、突然伸びた。とうに力を失っているのか、鈍い動きで。だが確かに、リタに触れようとしていた。  できるわけがない。彼は十五年前、リタではない少女を、生涯の妻として選んだのだから。その日からリタとカイは、お互いだけには触れられなくなったのだから。  土と血に塗れた大きな手は、リタの頬のそばで制止した。それだけで、リタはカイが何をしようとしていたかを知った。彼はリタの涙を拭おうとしたのだ――自分たちを遮る力の事を忘れて。  縋りつきたかった。頬を寄せ、思う存分泣き喚きたかった。そんな些細な望みさえ叶わないもどかしさによって、涙は更に溢れ出た。 「だからもう、隠す意味はないの。言ってよ、カイ。正直に。私を助けるためにシェリアを殺したんだって、貴方の声で聞かせて。お願いだから、私を共犯者なんだって認めてよ」  ひとつになりかけたふたりの道が離れた夜を越えてから、リタはこれほどまでに素直な想いを口にした事はなかった。本音を口にすればするほど、自分が惨めになって行くような気がしたからだ。  だが今のリタにとって、自身の矜持など、無価値だった。ただ、欲しかった。縋れるものが。心の拠り所が。 「これ以上、私をひとりにしないで……!」  リタの叫びを受け止めたカイは、無言のまま、リタに届かなかった手を自身の胸元に引き寄せ、唇を引き締めた。  最後まで何も言わないつもりか。これほど懇願しても、想いに応えてくれないのか。  リタは絶望しかけた。その時、カイの喉が微かに動いた。何か言おうとしているのだと気付いたリタは、慌ててカイの口元に耳を寄せる。消え入りそうな声を、けして聞き逃さないようにと。 「自惚れるなよ……」  それがカイの、最後の言葉。  ひどく冷たい、突き放した言葉だった。しかし、カイが最後に浮かべた表情は、どんな言葉、どんな手よりも優しく温かく、リタを包み込んだ。 「カイ……!」  命の火が消え、完全に力を失ったカイの体は、光の剣と共に浮かび上がった。  リタは追いかけるように立ち上がったが、カイの体は懸命に手を伸ばしても届かない高さへと昇ってから静止する。  輝く光が弾けた。  強く眩しい光は、常人ならば目を開けていられなかっただろう。しかし、神の娘であるリタは違った。涙に濡れた両目を見開き、カイの行く末を見守る事ができた。  カイの体は緩やかに形を失い、光に溶けていく。 「ずるい」  光はカイを吸収する事で、より強い光へと変化し、光の剣を包み込む。 「ずるいよ。私も、一緒に――」  抱く望みを笑い飛ばすかのようにリタだけを置き去りにして、剣と光は融合をはじめた。明るい輝きは、リタをより寂しくさせた。  強烈な光の中で、リタは自分だけが人の形である事を嘆いた。もはや涙は溢れなかったが、涙していた時よりもずっと深い悲しみが、リタを打ちのめす。  やがてひとつとなった光は、実体を伴った。人の手では作りだせないほど滑らかな、鋼ではありえないほど明るい白銀の刃を持つ、美しい長剣。  リタは固く目を伏せ、頭を下げ、俯いた。頭の重みにつられて、自然と膝が地面に着くと、いっそこのまま地面の上に倒れ込みたいとの願望が湧き上がった。 『剣を、どうか』  崩れ落ちかけたリタの体と心を支えたのは、カイが残した言葉のひとつだった。 『アストの手に』  そうね。私にはまだ、やらなければならない事が残っている。  空虚と化しかけた思考がそこに至ると、リタは顔を上げた。未だ涙は乾いていなかったが、生まれたばかりの神の剣をきつく見上げる空色の瞳には、強い意志が宿りはじめていた。  シェリアもカイも、神の子としての運命に従い、人としての生を終えた。  ならば、ひとり生き残ってしまった私も、神の子としての役目を果たそう  立ち上がる力を取り戻したリタの意志に従うように、剣はゆっくりと地上へ降りてきた。放っておいても大地が優しく受け止めただろうが、リタは手を伸ばし、自身の両手で受け止める体勢をとった。  ようやく触れる事が許された、直前までカイであったたはずのものは、まるで空気のように、見た目から想像できないほど軽い。だと言うのに、見た目通り、金属そのものの冷たさだった。 「私の手と違って、貴方の手は、いつでも温かかったのに」  時の流れに埋もれて消えてしまいそうな記憶を手繰寄せたリタは、いびつな笑みを浮かべながら、手の中の剣を見下ろした。  銀色に縁取られた白い柄の中心には、空色の宝石が埋め込まれている。ささやかな木漏れ日を浴びる事で淡く輝くその様は、人であった時のカイの瞳の優しさに似ている気がした。 「ねえ、カイ」  リタは自身の瞳と同じ色を持つ宝石に微笑みかける。 「貴方はいつか、言っていたわね。今すぐ確実に後悔する道よりは、いつか後悔するかもしれない道を選ぶって」  ――ねえ、カイ。  貴方は今も、後悔してないの?  語りかける代わりに、リタは空色の宝石に唇を寄せる。  唇に触れる冷たさは、言葉にならないカイの答えのように感じられた。 5  激しい雨の音に促され、ユーシスは目を開ける。それとほぼ同時に、白く柔らかな手がユーシスの額に触れた。  ナタリヤの手だった。熱を計ろうとしたのだろうその手は、とても冷たい。だがおそらくは、彼女の手が過剰に冷たいわけではなく、ユーシスの熱が下がっていないだけだろう。  今回の熱は長引きそうだと受け止める冷静な自分と、惰弱な体を忌々しく思う幼い自分。その共生に気付くと、ユーシスは熱を持った弱々しいため息を吐いた。 「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」  ナタリヤは慌てて手を放すと、ユーシスの顔を不安げに覗き込んだ。 「今起きたのは偶然です。雨の音が聞こえて」 「ああ。朝は天気が良かったんですけど、お昼頃から急に降りだしたんですよ。それから、徐々に酷くなって。窓も雨戸も閉めているのに、こんなにはっきりと聞こえてくるなんて、また強くなったのかもしれませんね」  閉めきった窓を一瞥してから、ナタリヤは再度ユーシスを見下ろした。 「食欲はありますか?」 「……少し」 「よかった。では、何か作りますね」 「お願いします」  ユーシスは素直な気持ちで頼む事ができた。彼女の料理を食べたのは昨日が初めての事だったが、「美味しいです」と告げる言葉に嘘を交える必要がない程度に上出来なものが出てきたのだ。無論、手馴れていたモレナが作るものと比べれば劣ってしまうが、そこまで求めるのは酷と言うものだろう。  笑顔で肯いたナタリヤが部屋を出て行くのを見守ってから、ユーシスは柔らかな枕に深く頭を埋める。  目を伏せると、雨の音がよく聞こえた。叩き付けるような音だ。木々をなぶり、土を抉っているかもしれない。  あまりにも鋭い音であったため、ふいにユーシスは、母の墓の安否が気になった。基本的には木や土よりも丈夫なはずだが、倒れてしまっているかもしれない。  重い体を気力で起こした。ユーシスが寝台を出て歩き回った事に気付いたナタリヤが、きつく怒る姿を想像する事は容易かったので、間違っても物音が厨房まで届かないよう、慎重に、静かに、窓辺に近付いた。  窓を開ける。雨の音が強まった。雨戸を開ける。雨の音は更に激しくなった。雨以外の気配がまったく感じられなくなり、家の中に居ると言うのに、雨の中に取り残されたかのような心細さに支配された。  視界を濁らせる程に強い雨の向こうに、立ち続ける母の墓の輪郭が見える。とりあえず倒れてはいないようだし、大きな欠損も見えなかった。  目で確認できる範囲でとりあえず納得したユーシスは、閉じなおそうと、少しだけ身を乗り出して雨戸に手をかける。すると、ユーシスの視界は少しだけ外に広がった。その端に人影が映ると、ユーシスは慌てて振り返り、影を凝視する。 「アスト」  雨のせいではっきり見えなかったが、見間違えようのない人物だ。ユーシスは自信を持って友の名を呼んだ。  影ははじめ、僅かな反応も見せなかった。「間違えたのだろうか」とユーシスが自分を疑いはじめた頃、ようやく身じろぎし、顔を上げ、ユーシスを見下ろした。  大量の水を含んで顔に張りつく金の髪から、空色の瞳が覗いて見える。それは、雨に濡れているとは思えないほどの、乾いた瞳だった。  ユーシスはその目の暗さを覚えていた。忘れたくても忘れられなかったのだ。四年前、母を殺したのが自分自身だと知り、精神的に打ちのめされていたアストが見せた弱さを。  なぜまた同じ――いや、当時よりも酷いかもしれない――状態になっているのか、見ただけでは判らない。気落ちしている点を除くと、普段のアストと違っているのは、腰から吊るした黒い鞘に納まる光の剣がない事だが、何か関係があるのだろうか? 「どうしてそんな所に立ってるんだ。いくら君が僕に比べて頑丈だからって、無茶だよ。とにかく、家の中に入って、体を拭いて。そうだ、ナタリヤに、何か温かいものを用意してもらうよ」  ユーシスはごく当たり前の提案を投げかけたが、アストはゆっくりと首を振るだけだった。 「中に入るのが嫌だって言うなら、無理は言わないよ。でも、何も言わずに立っているのはやめてくれないかな」  アストの態度に、多少なりとも腹が立ったユーシスは、僅かに声を荒げる。 「この雨の中、わざわざここに来たって事は、君は僕に何かを望んでいるんだろう? じゃあ、それを言えばいい。包み隠さず、正直に。それともまさか、僕が拒絶するとでも思っているのかい?」  アストはもう一度ゆっくり首を振ってから、一歩踏み出した。二歩、三歩と続く。水を含んだ土を跳ねさせ歩く姿は、やはりか弱かった。  窓の前に立ったアストは俯いた。髪や顔から零れ落ちる水滴が、窓枠に落ち、跳ねた。  跳ねた雫はユーシスの手に触れ、はじける。冷たい。こんなにも冷たい雨を、彼はどれくらいの時間浴び続けていたのだろう。 「色々な事が、頭の中ではじけて伝わってきた――判ったんだ」 「何が?」 「俺の使命とか、運命とか、そう言うもの。エイドルードが、俺にさせたかった事だよ」  アストは緩慢な動きで右手を彼自身の左側面に伸ばし、納まるべきものが足りていない鞘に触れた。 「何も知らずに、凄い力を手に入れたって浮かれていた事が、今思い出すと、馬鹿みたいで、恥ずかしくて、しかたない」  アストが目を伏せると、空色に宿る暗い光が隠れた。 「光の剣は、魔物を倒すためのものじゃなかった。人を救うためのものでも。エイドルードは、俺に両親を殺させるために、俺に光の剣を与えたんだ」  ユーシスは小さく息を飲んでから、唇を噛む。その痛みと共に、目の前の少年が四年前以上に傷付いている理由を、ゆっくりと受け止めた。  記憶にない母を殺した事実に、あれほど苦しんでいたのだ。強く愛し、慕い、頼りきっていた父親を殺した痛みとなれば、どれほど強烈だろうか。  目を開けたアストは、震える自身の手を見つめていた。彼が悲しみを知った瞬間は、赤く汚れていたのだろうか。今は、雨に濡れているだけだけれど。 「父さんは、時が来たら、俺の剣は、神の剣に生まれ変わると言っていた。その剣を手に、魔獣を滅ぼせとも。俺は、肯いた。誇りを持って、そうするつもりだった。この大地を守るって使命を、果たそうと、思ってた」 「アスト」 「大事な人たちを守りたかったんだ。エイドルードの封印が完全になくなっても、皆が、普通に生きていける世界を作れるなら、俺にしか作れないなら、そうしなきゃいけないし、そうしたいとも思った。でも、でも――俺がこれから、そんな世界を作ったとしても、そこに父さんは居ない」 「ア……」  もう一度友の名を呼ぼうとして、ユーシスは息を詰まらせる。  恩人であり、つい昨日まで普通に会話していたカイの死が、単純に悲しかった事も原因のひとつだ。だがそれ以上に、語れば語るほどに絶望を呼び寄せるアストの心が、途方もなく悲しかった。 「ひとりきりで、洞穴に潜れって、父さんは言ったんだ。そうするつもりだった。だって、魔獣を倒して戻ってきたら、父さんがいつもの笑顔で、『おかえり』って、『お疲れ様』って、『よくやったな』って、そう言って、迎えてくれると思ってたから。でも、そんな事もう、望む事もできない!」  神や己への怒りを込め、固く握られたアストの拳が、強く窓枠を打つ。 「ユーシス、俺は怖いよ。行くのが怖い。もしかしたら俺は、使命を果たすために、他にももっと、大事なものを失うんじゃないかって……そんなの嫌だ。絶対、嫌なんだ」 「それは」 「そうだ。そんな事になるくらいなら、このまま何もせずに、魔獣の封印が解けるのを待った方がいい。そうして、俺も、皆と一緒に滅んでしまえば――」 「アスト!」  咄嗟に叫んだユーシスは、できる限り窓から身を乗り出すと、腕を伸ばし、アストの体を抱き寄せる。アストの肩に顔を埋め、首に強くしがみついた。  ユーシスの上にも冷たい雨が降りそそぐ。アスト同様、ユーシスの体も雨に濡れはじめた。 「ユーシス……?」 「駄目だ、アスト。そんな事を言っては。君の心が、もっと悲しくなる」  触れるアストの体は冷たかった。熱を出しているユーシスとは、そもそも体温差があるのだろうが、きっとそれだけではない。彼は、そうとう長い時間、雨に打たれ続けたのだ。少しでも己を罰しようと――それに気付かず眠り続けていた自分が悔しく、ユーシスは涙しはじめていた。 「ひとりが怖いって言うなら、僕も一緒に行く。僕は弱いから、戦う君の役になんて立てなくて、それどころか、足手まといになるかもしれないけど……でも、君が君であるために、そばに居て支えるよ。だからアスト、君は、使命を放り投げては駄目だ。君の父親が残した意志を、手放しちゃ駄目なんだ!」  ユーシスが叫ぶと、アストの体から徐々に力が抜けはじめた。  アストはユーシスの肩に顔を埋め、もたれかかってくる。それから、深く、深く、過去に吸い込んだ全ての息を吐き出すかのように、長い息を吐いた。その息は、彼の体の冷たさとは対照的に、ひどく熱かった。 「風邪、ひくぞ」  沈黙の後、アストが紡いだ言葉は、よりによってそれだった。 「今更、何を言ってるんだ。もうとっくにひいてるよ」 「そう言えば、そうだったな」 「ひいてなかったとしても、いいんだよ。そんな事より、ずっと大事だろう?」 「……そっか」  アストは一度深呼吸をしてから、ユーシスの両肩に手を置き、ゆっくりとユーシスを引き剥がす。そして真正面に向かいあうと、小さく笑った。  蒼白だったアストの顔に赤みがさしはじめる事に気付いたユーシスは、少しだけ嬉しくなった。すぐに雨で流されてしまうために涙は見えないが、アストは今、確実に泣いている。原因が、父の死に対する悲しみなのか、これからの自分への不安なのかは判らなかったが、彼が自分自身の心を取り戻した証に思えた。 「お前が居てくれて、本当に良かった」  先ほどまでの心の乱れはどこにもない、静かだが力強い声は、雨に負ける事なくユーシスの耳に届く。何よりもユーシスを喜ばせる、優しい言葉となって。 「俺、行くよ。ひとりで」 「ひとりで?」 「大丈夫。ひとりで行ける。守るよ。この大地を。皆が……お前が生きる地上を。だからお前は、待っていてくれ」  一瞬だけ戸惑った後、ユーシスは肯いた。こみ上げてくる感情を必死に堪えながら、何度も、何度も、力強く。  肯きながら決意した。彼が愛した、彼の父親の代わりにはけしてなれないと判っているけれど、それでも、『おかえり』と、『お疲れ様』と、『よくやったね』と、力強く言いながら、帰還する彼を迎え入れるのだと。 「ユーシス」 「ん?」 「ありがとな」  ユーシスは僅かな間、言葉を失った。 「何を言っているんだ。それは僕の、僕らの――」  アストは無言で首を振る事でユーシスの言葉を遮ると、名残惜しむようにユーシスの若草色の瞳を見つめてから、踵を返して走り出した。  アストの背中はすぐに暗い雨の向こうに消えてしまったので、代わりにしばらく残り続けた、泥に刻まれた足跡を、ユーシスは見つめ続けた。  激しい雨がなおも降りそそぎ、跡を消し去ってしまっても、ずっと。 6  雨はまだ止みそうにない。  ザールの城の中で、窓越しに空を見上げていたリタは、豪快なため息を吐いた。そうしたところで、天気もリタの心も晴れやしないのだが。 「失礼いたしました。何か、お飲み物を運ばせましょう」  声をかけられて、リタは視線を城内へ戻す。途中、柔らかな布に包まれて横たわる抜き身の剣が目に入り、少しだけ胸が痛んだ。  リタの前には剣の他に、空になった器がある。城に帰還してすぐ、使用人のひとりが用意してくれた茶の器だ。リタはそれを随分前に飲み干しているのだが、誰ひとり注ぎにも、片付けにも、来る気配がなかった。 「気にしなくていいわよ」  リタは声の主であるルスターを見上げ、答えた。 「皆、突然の事に結構動揺して、仕事にならないんでしょ。喉が渇いたら、自分で何か取りに行くわ」  ルスターが近付いてきていた事に、声がかかるまで気が付かなかった辺り、自分も相当動揺しているのだろうと思いながら、リタは言う。  そう、ザール城内は一時、大騒ぎになっていた。長年ザールで生活をしていた神の御子カイの死を、皆が知る事によって。  彼はただ死んだわけではなく、エイドルードの使命を果たすために死んだのだと、地上の民を守るための剣に生まれ変わったのだとリタが告げると、騒ぎはだいぶ収まった。神の子の死が事故や魔獣の意志でなく、神の意志なのだと知る事によって、恐怖や不安が薄れたからだろう。  しかし、深い悲しみだけは薄れる事はなかった。むしろいっそう濃いものとなって、城内を埋め尽くしている。 「カイは幸せ者ね。こんなに悲しんでもらえるんだから」  ルスターは儚く微笑みながら肯いた。 「ザールの民は皆、カイ様を慕っておりましたから。神の御子としてはもちろん、人としても」 「そうね、そんな感じ。皆、まるで友達が死んだみたいな悲しみ方。きっとカイの事だから、神の御子としてどーんと座ってればいいところで、ちょこまか働いたり、周りに気を使ってたりしてたんでしょう」 「ええ。アスト様ご生誕の後、城にお入りになった時は、いきなり『何か仕事をさせてください』とおっしゃりましたからね。放っておいては厨房の皿洗いや城の床掃除からはじめそうな勢いでしたので、さすがにそれは困ると、新人兵士たちへの剣術指南などをお願いしておりましたが」 「ああ、だからか。どっちかって言うと若い男の人の方が泣いていたのは」  リタの説明によって皆、カイの死はエイドルードの大いなる意志であり、大いなる喜びのために必要な事なのだと、理解した。悲しむ事は、大きな絶望を歓迎する事だとも。  だから皆、「神の御子」の死では嘆くまいとしていたが、それでも、堪えきれない悲しみに涙する者は、けして少なくなかった。「カイ」の死を嘆かずにはいられないのだ――リタ自身も、もちろんその中に含まっている。  いけない。また泣いてしまいそうだ。涙を堪えようと目を細めたリタは、そばに立つ男の笑みから目を反らす。  同時にひとつの疑問が湧き上がり、リタは再びルスターを見上げた。 「貴方、仮にも領主なのに、暇なの?」 「いいえ」 「こんな所で時間潰してて、いいの?」 「お邪魔ですか?」 「そうではないけど」 「ならば、もう少しだけおそばに置いていただけませんか。昨晩はどうにも眠れず、朝がたまで書類仕事をし、ある程度片付けておりますので、多少は時間に余裕があるのです。ですから今、己の感情に正直に浸るために、多少の時間を使ったとしても、許されるのではないかと」  リタは抱いた疑問の答えを聞いた気がした。少しだけ不機嫌になると、ルスターを見上げる視線を強め、軽く睨む。 「私、貴方が一番最初に泣くと思っていたわ」  儚い微笑みは、泣いているようにも見える時もある。だがけして泣いてはいないのだと、リタは感じていた。 「貴方、こうなる事を知っていたんでしょう」 「いいえ」 「見え見えの嘘を言わないで」 「本当に、存じ上げませんでした。カイ様のお姿が、このように変化されるとは」  神の一族のみが触れる事を許された、元はカイであったものに、ルスターは手を伸ばす。  布越しに触れるならばと、リタは黙って見守るつもりだったが、ルスターは自ら手を止め、けして剣に触れようとはしなかった。 「じゃあ、死んでしまう事は知っていたのね」  ルスターが無言によって肯定すると、リタは自身の目頭を押さえた。今度は悔しさのあまり泣きたくなった。  カイが自分ひとりで抱え込むために多くを隠していた事を、今更責めようとは思わない。彼の気持ちが理解できないでもないからだ。  だが、リタには隠していた事を、他の人物には教えていたとなると、話が違うと思ってしまう。カイがルスターを慕い、信頼していたのは知っているし、ルスターがリタよりも遥かに近い場所に居たのも判っているが、それでも悔しさは抑えきれなかった。 「ハリスも知っていたの?」 「どうでしょう。リタ様おひとりでご帰還された先ほどの反応からして、ご存知ではなかったと思いますが」 「じゃあ、貴方だけって事ね。ずるすぎるわ」  ルスターは困惑を笑みに混ぜ込み、肩を竦める。 「カイ様がお話くださったわけではありません。私が勝手に気付いたのですよ――少々卑怯な約束を投げかけたせいなのですが」 「何て?」 「確か、『もし貴方の死も運命によって定められているのならば、それを私にも教えてください』と」 「それでカイは、律儀に約束を守った……わけじゃないわよね?」  ルスターは無言で肯いた。 「その時は、答えに詰まっていらしただけです」  リタは小さく吹き出した。こんな状況で笑える自分に驚いたが、心から笑いたい気分だった。カイが必死になってひとりで抱え込もうとしていた秘密が、そんなにも簡単に明らかになっていたとは、思ってもみなかったのだ。  自分もルスターのようにすれば良かったのかもしれないと、リタは少なからず後悔した。意地を張らず、素直な気持ちで沢山話をしていれば、彼が隠していた事をいくらか知れたかもしれないと。そうすれば、今になってこんなに寂しい想いをしなくてすんだのかもしれないと。 「カイも貴方には勝てなかったって事ね。ざまあみろだわ」 「勝負したつもりはございませんが」 「お礼を言うわね、ルスター」  リタが礼を口にすると、ルスターは黙り込んだ。 「貴方が――約束された死を共に苦しむ人が居たなら、カイはきっと、本当の意味でひとりにならずにすんだと思うから」 「いいえ、リタ様」  ルスターは再び首を振った。 「私がおらずとも、カイ様はけしておひとりではございませんでした。アスト様と貴女の存在そのものが、カイ様の支えだったのですから。カイ様の思考も行動も、すべては」 「知ってるわ」  リタはか細い声で強い意志を示し、ルスターの言葉を遮った。 「アストの事はいいとしましょう。カイは、アストの保護者なんだから。でも、私の運命まで勝手に決める権利が、あの男にあったのかしら」 「それは」 「あったとしても、私は自分の事を自分で決めたかった。生きるにしても、死ぬにしても」  ルスターの目が同情による心の痛みを表した時、リタは迂闊な事を口走った事にようやく気付き、軽く唇を噛む。 「ごめんなさい、ルスター。私がこんな事を言った事は、誰にも内緒にしてね」 「リタ様……」 「私、二度とこんな事言わないから。だって、あの男は、最後に、私に、『自惚れるな』って言ったんだもの。言う通りにするわ。十五年前、あの男に選ばれると信じてた自分を恥じて、思いっきりふられて恥ずかしい想いをしたけど、そのおかげで生き残れたんだって、自分の幸運に感謝しながら生きて、『若い頃は綺麗だったのに』って言われちゃうくらいの、しわしわのおばあちゃんになって、周りの人に『ようやく死んでくれたか』って思われるくらい長生きして、それから、笑いながら死んでやるから」 「それをお聞きして安心いたしました」  春の陽だまりのように温かく微笑んだ男は、同じだけ温かな笑みを、神の剣に向けた。 「私は最後に、リタ様にお伝えしなければならない事がございます」  恐る恐る手を伸ばしたルスターは、かつてはカイであったものに、布越しに触れる。リタの心やカイの体を労わるような、優しい手付きだ。 「カイ様からのご伝言なのです。万が一、魔獣が消滅するよりも早く、リタ様の中にある、救世主たるアスト様に繋がる力が途切れた時には、と」  リタは自身の胸を押さえた。力の源は別のところにあるのだろうが、アストの存在を感じる場所は、心の中のような気がしていたからだ。  アストは今少しだけ遠いところに居ると、リタは感じていた。細かな距離までは計れないが、大まかな距離ながら、力の強弱で知る事ができる。そして、はっきりと判る方角。双方を合わせて思いつく場所は、ユーシスの屋敷しか考えられない。 「途切れる事なんてありえるの?」  ルスターは小さく肯いた。 「アスト様がお役目を果たす前に亡くなられた場合です」  膝の上で両の拳を握り締めたリタは、真剣な眼差しでルスターを見上げる。 「その時は、貴女が神の剣を手に魔獣と対峙し、救世の役目を果たさなければならないと、カイ様はそう――」 「私でも、いいの?」  リタは身を乗り出した。  まるで夢のような話だ。自分が行けるものならば行きたいと、リタはずっと思っていたのだから。 「剣は本来アスト様のものです。ですがリタ様もまた、エイドルードの御子。神の剣と化した後ならば、手にする事は可能だと、カイ様はおっしゃっておりました」 「じゃあ」 「ただし、正当な持ち主ではないリタ様が剣の力を解放するには、お命と引き換えにする必要があるとも」  リタの体は一瞬硬直したかと思うと、すぐに力が抜けた。ゆっくりと椅子にもたれかかり、息を吐く。 「今になってそれを言うのは、卑怯じゃない?」 「いざその時が来るまでは黙っていて欲しいと、カイ様に頼まれておりましたから」 「じゃあ、その時が来なかったんだから、黙っててよ」 「今ならば、カイ様が恐れていた事態にはならないだろうと思いましたので――いえ、単純に私が、カイ様がどれほどリタ様を想っていたのかを、リタ様にご理解いただきたいと、願ってしまったせいでしょう。アスト様は充分すぎるほどご存知でしょうから、私ごときが口出ししようとは思わないのですが」  リタは抑えきれない笑みを浮かべながら、ルスターを睨み上げた。 「貴方はカイを甘やかしすぎよ」 「以前、カイ様にも同じ事を言われました。自覚は無いのですが」  ルスターの困惑を受け止めると、リタは不敵に笑い、立ち上がる。瞳が潤みはじめているのを自覚すると、ルスターの目から逃れるように窓の外に目をやった。  瞬間、リタの中にある小さな力が変化を訴えた。その感覚の意味を知っていたリタは、横たわる神の剣に手を伸ばし、布ごと抱えあげる。 「ずっとユーシスのところでじっとしていたけど、ようやく動き出したみたい」 「アスト様ですか?」 「そう。やる気になってるかどうかは判らないけど、とりあえずこれ持って会いに行ってみるわ。私はそのために……そのためだけに、生き残ったんだからね」  ルスターの横をすり抜け、リタは部屋を出た。  自身の足音だけが響き渡る通路は、暗く、寂しい道だった。だがリタは、悲しい空気に飲み込まれる事も、負ける事もない。気持ちは充分すぎるほどに沈んでいる。これ以上、傷付きようがなかった。  部屋の入り口から数歩離れた通路の途中に、ジオールが待機していた。彼の後ろには、ハリスも。神妙な顔をして、ただ、立っていた。  彼らはもう判っているのだろう。自分たちの役目は終わっているのだと。それでも、終わっていないふりをして、リタを守る位置に居てくれたのだろう。 「思っていたより長い付き合いになったわね、貴方たちとは」  ふたりからいくらか距離を置いて足を止めたリタは言った。振り返ると、ルスターもそこに居たので、彼にも届く程度の声量で。 「でもきっと、貴方たちが私たちに付き合ってくれた時間は、私たちが認識している時間よりも、ずっと長いんでしょうね」  最初に動いたのは、ジオールだった。彼がリタの前に跪き、礼をすると、彼に続くように、ハリスとルスターも同じ姿勢をとった。 「シェリアとカイの分までお礼を言うわ。長い間、ありがとう」  感謝の言葉を述べても、けして頭を上げようとしない三人を順に見つめてから、リタは再び歩き出した。  もう振り返らなかった。足も止めなかった。静かな道と、その先にある雨が鳴り響く道を、ただひとりで進んだ。  会うべくして出会う少年と向き合う時まで。 7  アストは、父が倒れた場所に戻らなければならなかった。  ただ一度だけ歩いた事がある道を辿り、父が眠る場所に戻る事は、難しいだろう。だが、やらねばならない。取り乱し、何も考えず、ただ本能に従って父の元から逃げ出した事を、今更後悔しても仕方のない事だった。  全ての民が室内に避難するほどの豪雨の中、歩き続けたアストは、今朝がた父の背を追って歩いた道の途中に、人影を見つける。すぐに足を止めた。雨を除けるために深く被ったフードの中に、アストと同じ色の瞳が見えたからだ。  アストと今は亡き両親を除くと、その色の瞳を持つ人物は、この大地にひとりしか残っていない。もちろん、リタだ。  自分と共に父の最期の場所に居た彼女ならば、道を知っているだろうか? そう考えたアストは、雨の中でも声が届くよう、数歩リタに近付く。しかし、リタが何も言わず、手にした包みから布を剥いだ時、投げかけようとした質問が無意味なのだと知った。  真剣な眼差しで立つリタの手の中にある、ひと振りの剣。それこそが、アストが求めるものだった。  自ら光を放っているわけではないのに輝いて見える、白色と銀色が眩しい剣。柄の中心で静かに瞬く宝石は、失った父の瞳の色。  その剣がかつては父であったものだと、アストは知っていた。自分のために生まれた、生まれ変わった剣である事も。 「持ってきてくれてありがとう、リタさん」 「礼はいいわよ。これが私の役目なんだから」  リタが差しだす神の剣を、アストは受け取る。軽く、冷たい剣だ。かつて母であった鞘と対となるに相応しいと思った。  過去に手にしていた光の剣よりも、遥かに大きな力を感じた。当然なのだろう。光の剣はアストひとりの力だったが、この剣には、アスト以外の力も宿っているのだ。命ごと飲み込んだカイの力。そして―― 「リタさん、もう触れてくれたんだ」 「何に?」 「父さんの瞳に」  リタは僅かに戸惑ってから肯いた。  ならば、あとはひとりだけだ。アストはゆっくりと呼吸をしながら、白い剣を黒い鞘に納める。  冷たいふたつは一瞬だけ、強い熱を持った。  その瞬間に起こった事を、リタも感じたのだろう。リタの双眸はアストの手元に向けられたまま、動こうとしない。 「受け取ったよ。父さんと、母さんと、リタさんの力」  アストは神の血族の力が融合した剣を勢いよく引き抜くと、両手で強く握り、高く掲げた。  剣が放つ力は、切っ先に集まって光と化し、柱となって天へと昇っていく。光の柱は厚い雲を突き抜けると、強力な力へと戻り、空の中で広がった。  凄まじい力が、灰色の雲を裂いていく。雨がやみ、青い空が広がった。遮るものを失い姿を現した太陽が、柔らかな光を地上へとそそぐ。 「これは……」  太陽の光が秘める力に気付いたリタは、言葉を失う。ゆっくりと、だがめいっぱい、白い腕を左右に広げ、全身に光を浴びた。  地上の民やあらゆる動植物にとって、雨上がりを照らす、優しく清々しい太陽光でしかないそれは、魔獣の眷属たちにとってだけは、まったく違うものだった。けして逃れようのない、強烈な毒なのだ。  光は、やがて大陸全ての地上へ届くだろう。地上に届いた力は地中へと浸透し、全ての魔物の元へ。そして、今にも消えようとしているエイドルードの結界よりも確かに、魔物から地上を守るだろう―― 「凄いわね」 「そうだね」  リタが溢す感嘆に、アストが短い言葉で返すと、リタはフードを下ろしながら肩を竦めた。 「いくらなんでも感動が薄すぎない?」 「だって、凄くなかったら、死に損じゃないか。父さんも、母さんも」 「……その通りと言えば、その通りなんだけど」  リタは光を浴びた手を、アストの頬に伸ばす。  そこには、父を刺してからユーシスの屋敷に向かうまでの間、森の中をがむしゃらに駆けた時、木々の枝に擦れてついた小さな傷があった。同様の傷は、アストの体中にいくつもあるだろう。あの時は、自分の体に構う余裕などなかったのだから。  見送るしかできないリタは、アストの体を気遣い、万全の状態で送りだしてやろうと思ったのだろうか。しかし彼女の手は、何の力も産まないまま、アストの顔から離れていった。  リタの中にはもう、特別な力はないのだ。全てはアストの手の中にあるのだから。 「謝らないで」  小さく口を開いたリタが声を出すよりも早く、アストは彼女の言葉を奪った。 「今、『何もしてあげられなくてごめん』とか、言おうとした?」 「言おうとした」 「さっきリタさん言ったんじゃないか。これは自分の役目だから、お礼はいらないって。それと同じだよ。リタさんから力を奪うのは俺の役目なんだから、そのせいでリタさんが謝る必要は無いんだ――父さんだって、そうだったんだ」  アストの言葉に反応して、リタの表情が悲しみに陰る。乾いた瞳が潤みだす事はなかったが、充分すぎるほど痛々しい。  目の前の女性を包む悲しみの深さは、自分と同じか、それ以上かもしれないとアストは感じた。しかしその理由を探ろうとはせず、無言で太陽を見上げる。 「どこまでが、エイドルードの決めた運命だったんだろう」  アストが呟くと、リタもアストと同じように視線を空へと向けた。 「母さんの死と、父さんの死と、俺がこの剣を手にして、リタさんに見送られる事は、確実にそうだったって判るんだ。でも、それ以外はどうなんだろう。俺がザールで育った事や、ザールで色々な人に出会った事も、エイドルードが決めた運命だったんだろうか」  たとえば、ユーシスと出会った事は。  生まれてはじめて、義務感でなく誰かを守りたいと思った事は。  大いなる悲しみに負ける事なく、剣を手にし、今ここに立っている事は。 「全てが運命だったとしても、エイドルードは私たちの心までは操れなかったと思う」  太陽に向けた目を細め、リタは呟く。声は細かったが、自信に満ちていた。 「そうなのかな」 「そうよ。たとえば――カイとシェリアが結婚した時の話は、聞いた事ある?」  アストは念のため記憶を丹念に辿ってから、やはり覚えがないと確信を持ち、首を振った。 「無い」 「そう。まあ私もカイ本人じゃないから、カイの詳しい心情を知っているわけじゃないんだけど」  緩やかな風が、リタの髪を揺らした。太陽の光を浴びて瞬く金の髪は、アストのものと同じだったが、ずっと優しい色に見えた。 「シェリアと私は、出会うべくしてカイに出会った。多分、状況とかはエイドルードの思惑通りじゃなかったんだろうけど、出会った事そのものは、間違いなく、エイドルードが定めた運命だった」 「うん。それは、何となく判る」 「けれど、カイがシェリアと結婚するって決めたのは、エイドルードじゃない。カイは、自分自身の心だけで、シェリアを選んだの。私はそれを知っているわ」  ふと気が付くと、アストは自分自身の胸倉を掴んでいた。本当に掴みたいのはそこではなく、肉体の奥に隠れた、隠れていなかったとしてもけして触れられない、形を持たない場所だったのだが。  多くの感情が淀むそこは、アストの目に映る事はなかったが、暗い色に支配されているだろうと判っていた。けれど、ただひとつ――たったひとつだけ、小さく光る輝きが、アストの背を後押ししてくれる。 「もし、俺にとっての自由は心だけの話で、それ以外の全てが決められていたんだとしたら――俺は、エイドルードを恨みきれないよ」  リタは、全てを悟りきったと言わんばかりの穏やかな眼差しで、真っ直ぐにアストを見上げた。 「俺はやっぱり薄情だ。運命が俺の両親を殺したって知っているのに。俺が知らないところではきっと、もっと多くの人たちが亡くなってるんだって、判っているのに」 「私もよ」  力がこもるアストの拳に、リタの白い手が重なる。冷たい手だと言うのに不思議と温かく感じたアストは、ようやく手から力を抜いた。 「私は運命によって、ほとんど全てを失った。けれど、一時とは言え得た大切なもの、手元に残ったものも、やっぱり運命によって手に入れているの。それを思うと、運命を、エイドルードを、心から呪う事はできない。それでいいと私は思ってる。だって貴方や私たち、生き残った者は、失った大切なもののために生きるんじゃない。手元に残った大切なもののために、生きていくんだから」 「それを薄情って言うんじゃないかと思うんだけど」  リタは力強く肯いた。 「じゃあ、薄情でいいじゃない。少なくとも貴方の両親は、薄情な貴方を望んでるわよ」 「まさか」 「本当よ。私は貴方の両親じゃないけれど、これだけは自信を持って言える。貴方は、貴方が守りたいと思ったものを――それがユーシスただひとりだと思うなら、ユーシスを守るためだけに、行けばいいの」  発つ事への迷いを、ユーシスが掃ってくれた。  迷わず発つ自分を、リタが肯定してくれた。  ならばもう、立ち止まる意味はないのだろう。アストは強く肯く事でリタに応えると、歩き出した。  リタの横を通り過ぎ、リタを背中の向こうへと置き去りにする。すれ違いざまにアストの肩を軽く押したリタの手に、勇気を分けて貰った気がした。  振り返る事なく、アストは無言で歩き続ける。今よりもなお幼い頃、ただ一度だけ訪れた地を目指して。  当時アストと共にあった、父やリタや多くの聖騎士たちは、今のアストのそばにはなかったが、不思議と、心細さや不安はない。  ただ力強く、歩み続ければ良いだけだった。 8  枯れかけた短い草とところどころに木が生えているだけの平野に、アストはひとり立つ。  晴れ渡る空と弱々しい緑の香りがあるだけの場所は、ときおり風の音が聞こえる以外は、どこまでも静かだった。アスト以外の人間、動物、魔物に至るまで、全ての生命がここには存在していないせいだろう――かつてここで起こった争いが、夢や幻だったかのように。  魔獣に最も近い場所でもこうなのだ。全ての魔物たちは、もはや地上から消えている。剣の力を借りて放った力に確信を抱いてから、アストは歩みを進めた。いつかこの場所にも、人や動物たちが溢れる日が来るのだろうかと、遠い未来の事を考えながら、閉ざされた洞穴へ目を向ける。  この奥深くに封印されしものを滅する。それが、父や、聖騎士の誰かや、ザールの人々、時に大神殿から訪れた者たちに、飽きるほど聞かされ続けた、救世主の役割だった。今現在魔物であるものたちが、全て光によって果てようとも、魔獣が残っている限り、新たな魔物は産まれ続けるだろう。何より、エイドルードの封印が完全に消滅し、魔獣自体が解放されてしまえば、魔物などおらずとも、容易く地上は蹂躙される。アストはそれを止めなければならないのだ。  緊張している事を自覚していたアストだが、無理に解そうとはせず、そのまま洞穴を塞ぐ扉の前に立った。四年前、リタや母――当時はまだ母だと知らなかったが――と力を合わせて完成させた封印は、まだ力強い存在感を示していた。  アストは神の剣の柄に手をかけた。  金属が擦れる音が響くと共に、力ある剣が現れる。アストが意志を持って扱わない限り、ただの軽い剣でしかないはずだが、抑えきれない神聖な力が、空気に溶けてあたりに広がり、魔獣が放つ闇の力を浄化していくように感じた。  アストは右手に持った剣を正面で構え、左手を刃の上に翳す。空色の双眸で扉を見つめ、言葉を産み出すために息を吸った。  何も知らないはずのアストに、剣は教えてくれる。今アストは何をするべきなのか、どうしなければならないのか――それは正しくは、今は亡き神が残した教えだったのだろう。しかしアストは、両親やリタの支えなのだと、勝手に解釈した。 『封印よ、退け』  神聖語で短く命じると、扉を覆い支えていた力が霧散する。空気を震わせる、軋むような鈍い音を立てながら、ゆっくりと扉が開きはじめた。  無言で扉が開ききるのを待っていたアストの手の中で、神の剣の輝きが増す。  溢れる力を感じたアストは、扉ではなく洞穴の中を見つめる事によって、陽の光が届かない場所に居る魔物は、まだ消えていないのだと知った。  そう言えば、扉の封印を完成させた折、父が言っていたか。扉の封印をした時、洞穴の中に魔物を置き去りにしたのだと。並の魔物よりもはるかに手ごわい、強い力を持つ魔物を。  肌で感じ取れるほどに強い魔の気が、アストの所まで漂ってきていた。  光の剣しか持たない頃のアストならば、その気配に魔物の力を感じ取り、怯えていたかもしれない。しかし、魔物の力の強さに意味はないのだと理解しているアストは、堂々と立ち、落ち着いた眼差しで魔物を見つめるだけだった。  どれほどの魔物であろうとも、今のアストの歩みを止める事はできない。すでに魔物は、ただの扉と化した封印よりも意味のない障害でしかなかった。  剣を振るう必要もなかった。魔物は、剣が放つ光をひと目見るだけで怯え、縮こまった。アストが歩みを進めて魔物に近付こうものなら、狂乱し、汚らしい涎を溢しながら、悲鳴じみた大きな唸り声を出した。光が洞穴内に到達すると、苦しみ悶えながら地に伏し、そのまま動かなくなった。  アストは進むべき道を塞いだ魔物の遺骸の前に立ち尽くす。力尽くでどけようとも、乗り越えようとも考えなかった。そんな必要は無いのだと、アストは判っていた。やはり、剣が教えてくれるのだ。  魔物の遺骸に変化が現れたのはすぐだった。色が徐々に変わっていく。禍々しい黒が薄まり、灰色へと。やがて全身が灰色に染まると、大きな音を立ててひびが入り、砕け、灰よりも細かな粉と化した。  粉は崩れ去り、舞い散り、時には空気の流れに乗った。光を反射する粉は、自ら輝いているようにも見え、飛び去る様は幻想的で美しかった。少しだけ心が和むような気がしたアストは、全てが飛び去って視界から消えるのを見守る。  風の流れがなくなり輝きが落ち着くと、アストは神の剣が放つ光を跳ね返す別の物体がまだある事に気が付いた。  黒く、あるいは茶色く、ごく一部に鋼の色が見える、細長い物体。それは魔物と共に洞穴の中で眠り、手入れされる事なく錆びるだけ錆びた剣だった。  切れ味を失っている事はひと目で判り、使いものにならないだろう事は明らかだった――そもそもアストはすでに、人の手によって作られた剣など必要としていない――が、それでもアストは錆びた剣に歩み寄り、拾い上げる。 「父さん……」  それは父の剣だった。  錆や汚れによる変色によって、わずかに面影を見出せるのみだが、見間違えるはずもない。父はアストが物心付いた時にはすでにこの剣を愛用していた。戦いの中で手放し失う日まで、何年もの間。ゆえにアストにとってこの剣は、父の力の象徴なのだ。 「父さんもここで戦ったんだよな。地上の民を守るために」  多くの地上の民にとって、数年前にこの場で起こった小さな戦いと、より深き場所でこの後起こる戦いは、意味がまったく違う戦いなのだろう。  だがアストは同じものだと思っていた。そう思う事で、かつて父であった剣を手にする以上に、父の存在を感じられる気がしたのだ。  アストは少し離れたところに落ちている、同じように錆び、刃が大きく欠けた短剣の元に歩み寄る。それもやはり父が愛用していたものだとひと目で理解したアストは、手にしていた錆びた長剣と並べて置いた。 「俺は、俺が戦うところに行かないと」  アストは名残惜しむように、何度か錆びた剣に振り返りながら、洞穴の奥へと歩みを進めた。  暗い道だった。どんな明かりで照らそうとも、けして照らしきれない淀みがある。歩む者を精神的に圧迫し、飲み込み、喰らい尽くそうとする魔獣の意志で満ちている。  その道をアストが易々と歩けるのは、アストの意志が魔獣を凌駕しているからではない。アストを守ろうとする力の集合体が、アストのそばに存在しているからだった。  緩やかに下る長い道を、どこまでも、どこまでも、潜っていった。魔獣ではなく、大いなる自然に飲み込まれていくような感覚が、たびたびアストを襲った。そのたびにアストは、剣の柄を強く握り、両親やリタの温もりを求めた。あるいは、地上でアストを待っているだろう、ユーシスの事を思い出した。そうして、沈みゆく心を支えた。  やがて道は下る事をやめ、徐々に広がりはじめる。  ザールの町ごと入ってしまいそうなほど開けた場所へ到着したのは、どれほど歩き続けた後だっただろうか。思いの外短い時間だったような気も、何日も何日も歩き続けたような気もする。気にはなったが、答えを知る必要はないのだと、アストは判っていた。果てしない時を不動のまま過ごしたこの場所において、時間の概念などはあまり意味を持たないだろうから。  アストは一度足を止め、両足を揃え、深呼吸を数回繰り返してから、広間に足を踏み入れる。  他者を圧倒しようとする力が急激に増した。これまで歩いてきた道の比ではない。アストは対抗するため、剣を高く掲げ、力を解放しなければならなかった。  剣が放つ光が大きくなり、同時に光度も増した。地底に太陽が生まれたようだった。それは広間全てを照らし出したが、ただひとつを除くと、これまで歩いてきた道と同様、苔むした岩肌や湿った土、散らばった石を、アストに見せるだけだった。  ただひとつだけが、大きく異なっていた。その違いこそ、アストが目指していたものであり、地中に潜った目的そのものだった。 9  アストの目の前に広がったものは、これまでに見たもの全て――たとえば、ザールの城など――をも超越する巨体を持つ獣が、岩肌に溶けている光景だった。  岩と同化していないのは、顔の半分、すなわち口と、鼻と、片目と、片耳だけだった。それらの部分には、赤とも橙とも言えない色に銀が混じった、どことなく炎の芯を想わせる不思議な色の、艶やかな毛が生えていた。  アストが近付いている事に気付いたのか、それとも突然の明かりを疎ましく思ったのか、獣は閉じていた目を開ける。体に見合った大きな目だ。紫にも黒にも見える瞳は暗く、放つ力の象徴にも見えた。  その目に見つめられた時の威圧感は、洞穴内の空気から感じたものとは比べ物にならなかった。もしアストの手の中に神の剣が無かったならば、一瞬にして囚われ、魔獣の眷属と化すか、気がふれていたかもしれない。  これが自由に地上を駆け、力を振るっていた時があった。  それをエイドルードが止め、自由を奪った。  なるほど、エイドルードは確かに偉大な神だと、アストは今まさに実感していた。アストは自身が手にする剣の強大な力を理解していたが、この剣を持ってしても、解放された魔獣と対等に戦う事はできないだろうと感じていた。  アストが魔獣に対峙できるのは、今だけだ。かろうじてエイドルードの封印が残り、魔獣の自由を奪っている、今だけなのだ。 『何かと思えば……エイドルードの残骸がやってきたか』  声が聞こえた。耳を介さず、直接脳に届く不思議な声。魔獣のものだろう。  残骸とは酷い言い草だと一度は考えたアストだが、納得するしかなかった。二十二日もの間激闘を繰り広げ、こうして封印された魔獣は、エイドルードの力を身に染みて判っているはずだ。エイドルードの力と比べれば、アストの持つ力など、残骸と言うのも勿体ないほど小さなもののはずだった。 「そうだ」  声に出さずとも、アストの返事は魔獣へ届くのだろう。だがアストは、自分自身に聞こえるよう、声に出して答えた。  魔獣の耳は、アストの声を捉えたようだ。大きな目が、忌々しいとばかりに瞬きをする。赤銀の毛が揺れ、より強い黒き力が空気中に広がっていく。 「エイドルードとその一族の意志の元、地上の永遠の平和を守るため、お前を滅ぼすために、ここまで来た」  魔獣はアストに応えなかった。瞬きの後に見開いた瞳で、アストを鋭く見据えるだけだった。  アストのような小さな存在には不可能だと思っているのだろうか。それとも、可能だと理解した上で、覚悟を決めているのだろうか。  後者のような気がした。語ろうとしない魔獣の本心など、アストに判るはずも無いのだが、アストの中にある直感のようなものが、そう訴えていた。  潔く結末を待つ魔獣の姿は、アストの目に、凛とした美しいものとして映った。  もし魔獣が、地上に害なす事なく、ただ颯爽と駆けるだけの存在であれば、もっと美しい、陽の光に輝く赤い毛並みを見られたのだろうか――ふいにそう考えたアストは、首を振り、使命感で上塗りする事によって意味のない仮定を頭の中から消し去ると、両手で剣を構えた。  神の剣が持つ、全ての力を放出する。空色の宝石から溢れた力は、刃へと伝わって、空洞にふたつ目の太陽を産みだす。  明るかった。地面も、岩壁も、魔獣も、自分自身すらも、全てが光によって白く塗りつぶされ、何も見えなくなるほどに。  人の言葉とも、神の言葉とも違う言語を紡ぐ低い声が、アストの耳に届いた。  魔獣の言葉だった。脳に直接伝えるでなく、アストに判らない形で紡がれた言葉には、どんな意味が込められていたのだろう。エイドルードやその一族への、呪いの言葉だろうか? 深く暗い、苦しみを示す言葉だろうか? 理解できない事を少しだけ悲しく思いながら、アストは地面を蹴った。  視界は一面の白で、距離感も方向も掴めない状態にあったが、アストは向かうべき所を知っていた。アストの魂は自然と、魔獣に引き寄せられるのだ――魔獣を滅ぼすために、生まれてきたのだから。  アストは渾身の力で、剣を振り下ろす。  剣を跳ね返そうとする、強い抵抗を感じた。少しでも気を抜けば、体ごと吹き飛ばされて、倒れてしまうほどに強かった。封印に囚われた今、ただ存在する事しかできないはずの魔獣は、その生存本能だけで易々と、アストの体を痛めつけるのだった。  アストはがむしゃらに叫んだ。父を、母を、友の名を叫んでいるつもりだったが、はっきりと言葉になっていた自信はない。だが、叫びに宿る想いは間違いなく、力と化してアストの中にみなぎった。  岩に溶けた魔獣の体に、深々と剣を埋め込む。  その瞬間、光が消え、アストは音の無い闇に包まれた。  アストは寄り場ない孤独に耐えなければならなかった。永遠にすら感じた一瞬、呼吸する事も忘れ、手の中にある柄の冷たさに縋った。  まず生まれたのは音だった。岩が割れる音だ。はじめは小さい音だったが、続けて大きな音がした。連なるように、何度も何度も、遠ざかりながらも勢いを増していった。  次に生まれたのは光だった。ひび割れた岩の隙間から、剣が放つ光がもれ出し、再びあたりを照らしだした。  アストはこの時ようやく自身が生きている事を思い出し、肩を大きく上下させる呼吸をした。  目の前の岩壁に、神の剣が突き刺さった場所を発端とした、深く、鋭く、長い亀裂が刻まれている。アストはそれを目で追った。高く、高く、天井に到達するまで――その途中、引き裂かれた暗い瞳と邂逅し、アストはしばらくの間、視線を固定した。  咆哮が、空気を揺さぶった。アストには理解できない言語のそれは、魔獣の断末魔の叫びだった。  永遠を思わせるほどに長く長く続いた響きは、小さくなり、掠れ、やがて消え失せる。そしてアストは、見つめ合う瞳を失った。  魔獣の意志と、闇の力の消滅。  アストは自身が使命を達成した事を知った。エイドルードの後継者、救世主としての役目を、終えたのだと。  同時に役目を終えた剣が、ほぼ全ての光を失った。いや、光だけではなかった。砂が流れ落ちるような音を立てて少しずつ崩れ、淡く輝く空色の宝石だけを残して、力と共に形を失ったのだ。  腰に下げたままの黒い鞘も同様だった。剣と同様に崩れ落ち、最後に空色の宝石だけが残る。  土台をなくしたふたつの宝石は、地面に落ち、弧を描きながら転がった。アストはそれらを必死になって追いかけた。力を放出した体は、疲労のせいか思うように動いてくれなかったが、失うわけにはいかない。なんとか追いつき、拾いあげる。 「終わったね」  宝石を両手にひとつずつ、軽く握ったアストは、叫びすぎて掠れかけた声で、短く語りかける。亡くしたばかりの父と、肖像画でのみ知る母に向けて、微笑みかけながら。  同じ形で、同じ大きさで、同じように輝く宝石たちの、どちらが父で、どちらが母なのか、アストはすでに判らなくなっていた。  だが、どちらでもいいのだとは判っていた。空色の宝石は双方とも同じように淡く光を放ちながら、星の瞬きのように優しく、アストが進むべき道を照らしてくれるのだから。 終章 新たな世界  昨日の昼過ぎから降りはじめた豪雨が突然やんでから、一晩明けた今に至るまで、快晴が続いている。空に輝く太陽を遮るものは何ひとつなく、明るさは目に痛いほどだった。  しかし、今のユーシスの目に映る太陽の眩しさは、また違った明るさだ。  太陽そのものは何も変わっていないように感じる。ならば変わったのは大気か、あるいはユーシス自身だろう。どちらにせよ、原因はひとつしか考えられなかった。  何も情報が無い今は、まだ希望でしかないはずの予想。しかしユーシスにとっては、揺らぐことのない確信だった。  窓の向こうにある太陽を見つめながら、ユーシスは手を組む。目を伏せると、無心で祈り続けた。祈りの対象は神ではない。いや、神なのだろうか? 今は亡き神が、後継者として定めた者なのだから。 「ユーシス?」  三回ほど軽く扉を叩く音がしたかと思うと、扉の向こうから名前を呼ぶ声がしたので、ユーシスは絡みあった指を解きながら振り返る。「どうぞ」と応えると、扉が開き、従姉妹が姿を現した。  隠そうとしても隠しきれない、泣き腫らした赤い目が印象的だった。彼女も昨日、カイの死を知ったのだ。多くのザールの民と同様に悲しみに暮れた彼女は、ぞんぶんに泣く事によって、少しは癒されたのだろうか? 「今すぐ出かけられますか?」  ナタリヤの突然の問いに、ユーシスは戸惑った。  昨日のユーシスは、まだ熱を持つ体を雨に濡らしたせいで余計に体調を悪化させ、高熱のあまり倒れ込むように眠りについたのだ。それを知っているナタリヤが最初に紡いだ問いとしては、少々乱暴で、違和感がある。  ユーシスは思わず首を傾げた。 「貴方にお客様が来ています」  誰であるかを訊ねる前に、ナタリヤは扉を大きく開いて、客人を部屋に招き入れた。  ユーシスやナタリヤが持つものとは違う、優しい金色が、窓から入る光を浴びて淡く輝く。それはユーシスが待ちわびている友が持つものと同じ色だったが、残念ながら、友のものではなかった。 「起きてたのね。なら、ちょうどいいわ」  やはり淡く輝く空色の瞳を細めて微笑んだリタは、ユーシスの額に手を伸ばす。まだ下がりきっていない熱に気付くと、困惑を表情に出した。 「ちょっと心配だけど……少しくらい無理できる?」  口調こそ質問の形を取っていたが、語気や視線の強さは強制とほとんど変わらない。ユーシスは肯くしかなかった。 「そう。じゃあ行きましょう」 「ど、どこに」 「決まっているでしょう。アストが戻ってくる所によ」  ユーシスは顔を上げ、空色の瞳と真っ直ぐに見つめあった。 「アストを迎えに行くの。一番初めにアストを迎える役目に相応しいのは、貴方しか居ないって事くらい、貴方自身が一番良く判っているでしょう? 安心しなさい、途中で倒れたり道に迷ったりしないように、私が一緒に行くから。二番目に迎えるのは私の役目だって、勝手に決めているしね」  強く言い切られたリタの指示は、ユーシスが抱く願いに良く似ている。逆らう必要性を感じなかったユーシスは、急いで寝台を降り、立ち上がり、リタの隣に並んだ――途端、突然体が硬直した。  理由は判っていた。望みと違う場所に潜んでいた感情が、自身の体の自由を奪ったのだ。 「どうしたの?」  いぶかしんだリタが訊きながらユーシスを見るので、ユーシスはぎこちなくリタを見つめ返した。 「今更かもしれませんけど、良いんでしょうか」 「何がよ」 「僕が、一番に、なんて。いや、その前に、僕はここを出てもいいんでしょうか。アストは皆に歓迎されるべき人で、僕は」 「『皆に忌み嫌われる魔物の子』だとでも言うつもり?」  リタはふてぶてしく腕を組み、胸を反り、ユーシスに向ける視線に冷たさと厳しさを加える。  視点の高さはほぼ変わらないと言うのに、遥かに見下されているような気がして、ユーシスの体は縮こまった。 「地中で、地上で、大きな変化が起こった事に、貴方だって気付いているでしょう? じゃあ、判るはずよ。この世界にはもう、神の子も魔物の子も居ないんだって。貴方たちは、ただのアストと、ただのユーシスなの。それ以上でもそれ以下でもないのよ」  凛とした声が産み出した言葉は、疑う余地もないままに、ユーシスの中に容易く浸透していく。ユーシス自身の願望そのものであったからかもしれない。  いいのか、僕は、歩き出してしまっても。  未だ歩き出さずにいるユーシスの肩に、柔らかなものが触れる。突然の事に驚いたユーシスは、即座に自身の肩を見下ろした。そこにはユーシスが寒い時にいつも羽織っていた上着が乗っていて、温もりはユーシスの肩を後押ししてくれているようだった。  上着をかけてくれたのはナタリヤだ。見上げると、少しの意地悪を交えた、優しい顔をしている。 「貴女も行く?」  リタがナタリヤに問うと、ナタリヤは首を振った。 「私にはその資格がないと思います」 「そうかしら」 「そうなんです。ですから、アスト様が帰ってくる場所でお待ちしております。父や、聖騎士の皆さんと共に」  ナタリヤが穏やかに言い切ると、リタはこれ以上ないほど優しく微笑んだ。 「そうね。それも素敵よね」 「ここに待機する必要も、もうなさそうですし」  言ってナタリヤは、ユーシスの背中を押す。  リタは、ユーシスの腕を引いて歩きはじめる。  ふたりの力を借りて、ユーシスは歩き出していた。熱に責められ続けた体は、普段ならば重く感じると言うのに、不思議と軽かった。  通路の先にある、外に繋がる扉が、ユーシスの目の前に現れる。それを開いたリタは、ユーシスの手を放し、ひとりで扉の向こうへ行ってしまった。  立ち止まったユーシスは、このまま置いていかれるのだろうかと不安を感じたが、リタは扉をくぐった所で足を止め、振り返る。長い金の髪を外の風に揺らしながら、無言でユーシスを待っていてくれた。  後に続こうと思うユーシスだったが、足は床に縫い付けられたまま、少しも動かなかった。  情けなく、もどかしい。ユーシスは自身の足を見下ろしながら、固く拳を握りしめると、意識的に深呼吸を繰り返した。  十度目に息を吸った時だっただろうか。息を止め、意を決し、外への一歩を踏み出したのは。  一度でもこの屋敷を訪ねて来た者ならば、誰もが経験する当たり前の一歩。しかし、ユーシスにとっては、大きな意味を持つ一歩だった。ユーシスはこれまで、自分の意志で屋敷の外に出た事は、一度として無かったのだから。  ユーシスはゆっくりと目を開き、周りの景色を捉える。  それは窓越しに、時には窓から身を乗り出し、何度も見た事がある光景のはずだった。だが、とてもそうとは思えない。まったく違うものにしか見えないのだ。全てが色鮮やかで、新鮮で、眩しくて――そう、大きい。  世界は、本当に広いのだ。  今まで知識として知っていた当たり前の事実を、生まれて初めて、心から理解できたような気がした。 「これが、アストの生きている世界なんですね」  静かな感動を伝える言葉はとてもではないが見つからない。仕方なくユーシスは、清々しい空気を飲み込みながら、素直な感想を述べる。  すると、リタは小さく声を上げて笑いながら言った。 「これから貴方が生きる世界よ」  優しい声は柔らかな風に溶け、ユーシスの髪を撫でた。  リタが手綱を操る馬の背に乗り、ふたりは洞穴へと向かう。  ユーシスにとっては全てが知らない光景で、不安が無いと言えば嘘だった。同じ道を共に進んでくれるリタや、道の先に居るであろうアストの存在がなければ、とっくにくじけてしまっていたかもしれない。  森を抜け、広い平野に辿り着いたあたりで、リタは進行速度を緩める。ゆっくりと馬を進ませ、地中へと向かう道のはじまりにごく近いところで止めた。  先に馬から降りたリタの手を借り、ユーシスも地上の人となる。急に視点が低くなるのは不思議な気分だった。そして、何年か前、はじめて馬に乗った時の感動を熱く語っていたアストを思い出した。ユーシス自身は当時のアストほど楽しまなかったが、当時のアストが妙に興奮していた理由が理解できた事が嬉しかった。  ユーシスは洞穴の入り口に近付き、中を覗き込む。  太陽は今も明るく地上を照らしているのだが、差し込む角度的に、洞穴の中まであまり光が届かない。そのため、先はほとんど見えないのだが、ユーシスは必死に目を凝らし、何か動くものの気配を――アストの影を――探した。  何も見つけられないまま、長い時間が過ぎた。ユーシスたちが洞穴に到着した時の太陽は、空の一番高い所にあったのだが、今は緩やかに下降しはじめ、西の空に落ちようとしている。  温かみのある光が、地上全てを橙色に染め上げようとしていた。  高い木に囲まれた屋敷でのみ生活していたこれまでのユーシスでは、けして見る事のできなかったはずの、貴重な光景だ。しかし、振り返る事なく暗闇だけを見つめ続けているユーシスは、その美しさに気付かなかった。  夕陽が落ちきる直前、ユーシスは闇の向こうに、淡い空色の輝きを見つけた。  思わず身を乗り出したユーシスは、洞穴の中に転がり落ちそうになったが、咄嗟にリタが支えてくれたおかげで事なきを得た。「ありがとうございます」と礼を言うよりも早く、リタは声に出さずに笑うと、ユーシスのそばを離れて洞穴に背を向けた。  ユーシスはこちらを見ようとしないリタに会釈をしてから、再び洞穴の中に目を向ける。  一定の間を空けて繰り返し鳴り続ける、固い土を踏みしめる足音は、重く響き、痛々しいほどに強い疲労を伝えてくる。  その足音が突然消えた。歩みを止めたのだろう。  足音の主の姿はまだ暗闇の中にあり、空色の輝きが手元や輪郭をぼんやりと照らすのみだったので、ユーシスの目でははっきりと捉えられない。だが、疲れていてもなお頼もしい足音が誰のものか、ユーシスには判っていた。聞き間違えるわけもなかった。  再び足音が鳴りはじめる。今度は、先ほどよりもずっと早い。走っているのだ。くたびれているくせに――  淡い金の髪が現れた。地上を守る空と同じ色をした、大きな瞳も。瞳は、大きな驚愕と、大きな達成感と、大きな喜びが交わった、複雑な煌めきを秘めていた。 「ユーシス、お前、ここまで来たのか……?」  ユーシスの元まで辿り着いたアストは、疲れているせいか上手く勢いを止めきれず、足を縺れさせて転んだ。  体のあちこちを土で汚し、小さく起こった土煙に咳き込む様子は、地上を救ったばかりの救世主にはとても見えないほど間が抜けている。笑いそうになったユーシスだが、笑っては可哀想な気がしたので、必死に堪えながら片膝を着き、友と目線の高さを合わせた。 「おかえり、アスト」  そして言った。最初に言うべき言葉を。  アストははじめ、強烈な戸惑いを見せていたが、それを徐々に緩和させると、満面の笑みを浮かべて言った。 「ただいま」