序章 奪われた花嫁 「リリアナ!」  乾いた地面の上にうつ伏せに突き倒され、抑えられた格好で、エアは叫んだ。顔を地面に押し付けられた今、叫ぶと同時に土の味がしたが、今エアを襲う悲劇と比較すれば問題にすらならない事だ。 「リリアナ!」  情熱と渇望を秘めたエアの声は、喉を引き裂かん勢いで辺りに響き渡る。だからその叫びを聞いた者は、合わせて百を上回るはずであったが、その内の誰ひとりとしてエアの望みを叶えてくれようとはしなかった。  エアは多くを望んでいるわけではない。エアの体を捕らえる者から、解放してもらえればそれで良かった。あとの事は、自分ひとりでやってみせる。はじめから他人などあてにしていない。奪われた大切なものを奪い返すのは、自分自身でやり遂げねば意味がないのだから。 「どけ! 離せ!」  願いを直接的に口にしてみたものの、何の効果もなかった。エアが地に縛り付けられている間に、誰よりも愛した少女はどんどん遠ざかっていく。 「――リリアナ!」  行かないで欲しいとの願いを込めて呼んだ。エアが何よりも強く焦がれたものを与えてくれるはずだった、三日後に神の名の下に永遠を誓い合うはずだった、これから先の一生を共に生きていくはずだった、愛しい少女の名を。  だが、叫びは誰にも届かない。エアを拘束する者たちにも、エアに哀れみの視線を向ける村人たちにも、悲しげな瞳を反らしてエアに背を向けたリリアナ本人にも。 「リリアナ……!」  車輪が回る音を重苦しく響かせながら、リリアナを乗せた馬車が遠ざかる。やがて姿が見えなくなると、残された轍を視界に入れる事に耐えきれず、エアは硬く目を瞑った。  そうして闇と絶望に飲み込まれたエアの中で、悲哀、嫌悪、愛情、憎悪と言った感情が、熱く火花を散らしはじめた。どれが勝利を治めるかは、エア本人にも予想がつかない。全てが勝利者と成り得るし、全てが敗者と成り得るのだ。  しばらくして双眸から涙が滲み出ると、エアは結果を悟った。激しい戦いの果て、全ての感情は複雑に融合し、膨れ上がったのだと。  その感情は、エアを内側から徐々に蝕んでいった。この場に居る全ての人間が、空から地上を見下ろしているだろう偉大なる神エイドルードが――全てが呪わしく、憎らしかった。世界中の、全てが。 「返してくれ」  エアは涙に濡れた目を開いて空を睨み、涙で震える声で言った。 「……返……せ……」  一体何をしたと言うのだろう。  約束された幸福を乱暴に奪われ、けれど抗う事も許されない。そんな罰を与えられるほどの罪を、自身やリリアナが犯していたとは、エアにはどうしても思えなかった。  もし犯していたと言うならば、何をしたのか教えて欲しい。自覚していなかった事を恥じ、心から謝罪しよう。大切な者と引き裂かれる以外の全ての方法をもって贖おう。  だから、返してほしい。 「リ――」  再び愛しい少女の名を呼ぼうとして、胸の中の熱が喉に詰まった。声にならない願望はエアの中を駆け巡り、甦ったリリアナの笑顔が、胸と脳裏を支配する。  滂沱たる涙がこぼれ落ちたが、それを恥じる気にはならなかった。みっともないと笑うなら笑えばいい。それでリリアナが戻るならば、いくらでも道化を演じてやる。 「手荒な真似をして申し訳ない」  静かな美声で紡がれる謝罪と共に、エアを地面に押し付ける力が失われた。  自由を手に入れた瞬間、エアは立ち上がった。馬車を追おうと地面を蹴ったが、それまでエアを捕らえていた青年が前に立ちふさがり、それ以上進む事はできなかった。人の足で馬の足に追い着けるはずもないのに、無駄な努力もさせないつもりらしい。  エアが腕をがむしゃらに振り回し、体当たりをしたところで、鍛え上げられた青年はびくともしなかった。どうしようもなく、エアは首だけを少し動かして、青年を見上げた。  彼こそが、大陸中の誰ひとり逆らえない権力を笠に着て、エアからリリアナを奪った張本人だった。  人々の視線と女性の執着を一身に集められるほどに美しい青年で、黒い髪は上質の漆を思わせる滑らかさ、そこから覗く紫色の瞳は大粒の宝石のように輝いている。繊細な美の持ち主だったが、だからと言ってか弱さはどこにも無く、瞳の鋭さや立派すぎる上背、無駄な肉をすべて削り落として鍛え上げられた体躯は、農民の目から見ても判るほどに一流の戦士の風格を漂わせていた。  大して難しい仕事ではないとは言え、王や大司教の書状を手に遣わされたのだから、それなりに身分も高いのだろう。平民には縁遠い絹の外套や、宝石の埋まった剣を身に着けられるほどに、金も持っているのだろう。彼が引き連れてきた部下たちの態度を見る限り、人望がある事も判る。 「どうして……俺から奪うんだよ」  エアは呟いて、頭半分は高い位置にある紫水晶の瞳を睨みつけた。 「どうして……」  目の前の青年のように、エアよりも恵まれている者が、この国にいくらでも居るだろう。そう言う奴らから奪えばいいではないか。  エアには特別美しい容姿も、豊かな財力もない。背は村にいる誰よりも高かったが、青年に比べれば低い。母はエアを産んですぐ、父は二年前に事故で死んだ。兄弟も親戚もなく、父が残した畑を耕しながら、ひとりで生きてきた。  だから、エアにはリリアナだけだったのだ。  リリアナだけが、エアに許されたものだったのだ。 「返せよ!」  よろける体の背筋をぴんと伸ばし、エアは噛み付く勢いで青年に迫ると、彼に掴みかかった。  戦闘に長けているだろう青年がエアの腕から逃れられないわけがなく、ならばエアの手の中にある上質の絹の手触りは、青年があえて避けなかった証。施しを受ける虚しさを認めるわけにも行かず、エアは青年を突き飛ばすように素早く手を離した。 「すまない」  言葉だけの謝罪でない事は、悲痛が色濃く浮かぶ表情を見れば明らかだが、だからと言って許す気にはなれなかった。 「うるせえよ。なんでリリアナなんだよ。女なんていくらでも居るだろ。ここにだって何十人も居るんだ。アンタや……王様の周りには、もっと美人が沢山居るだろ? なんでリリアナなんだよ!」 「代わりは居ない」  エアが続けて投げかけた問いに、青年は無機質な声で簡素な答えを返してきた。 「どれほど高貴な女性でも、どれほど美しい女性でも、どれほど心清らかな女性でも、リリアナ様の代わりにはなれないのだ」  そうだ。  誰ひとりとして、リリアナの代わりにはなれないのだ。  それが判っているならなぜ、俺からリリアナを奪う? 俺が辺境の田舎村に住むしがない農民だからか? リリアナを望む者が、この国で最も偉大なる存在だからか?  次々と胸に湧き上がる疑問を、青年に叩き付けようと、エアは口を開いて深く息を吸う。 「楽になりたければ、忘れるといい」  エアが声を出す前に、青年は表情ひとつ変えず、静かに言った。 「なっ……」 「今の君には酷な事を言った。だが、許しを乞うつもりはない。それが君のためにも一番良いと、私は確信している」  青年の目は冗談を言っている様子も、血迷った様子もなかった。あくまでも真剣で、真摯。  エアは体をくの字に曲げ、腹を押さえながら、笑い声を惜しみなく吐き出した。  リリアナを忘れる事が、許される中で一番の幸福だと言うのか?  リリアナのためにしてやれる事は、エアの居ないところで幸せであれと祈る事だけなのか?  では、今までリリアナと共に生きてきた日々には、何の意味も価値もなかったと言うのか――?  青年も自分自身も、滑稽でしかたがなかった。笑いはエアの口から勢いよく飛び出していき、同時に腹の底で形成しはじめた怒りを引きずり出していく。ひとしきり笑い終えたエアは、背を伸ばす勢いを借りて前に飛び出し、数歩の距離を一気に詰めて、青年の胸倉を再び掴んだ。 「……ふざけんな! どこから忘れろってんだ! 結婚の約束をした頃からか? あいつに惚れた頃からか? それともガキの頃、みんなで遊んでいた頃からか? それとも――」  エアは乱暴に涙を拭い、嘲笑を織り交ぜて言った。 「あいつの存在そのものを忘れろって言うのか?」  そんな事ができるわけがない。馬鹿げた事を言うな。そう言った意味を込め、青年を見上げながら見下して、エアは言ったのだ。  しかし青年は、エアの求めない答えを平然と告げた。 「その通りだ」  何もかもがどうでも良くなってくる。  己の生死すら意味のないものに思えた。リリアナが居ない世界は、全てがくだらなく価値のないものだった。 「――死ねって事か、俺に!」  吐き捨てると、エアの怒りに滾った心は、急速に静まっていった。  ああ、そうか。  死ねばいいのか。  今ならば苦しむ事もなく、笑いながら死んでいけるだろう。リリアナを奪った偉大なる存在の名と、知りうる限りの呪わしい言葉を残して死んでしまえば、きっと爽快だろう。  エアは青年の腰に下げられた長剣に手を伸ばした。手入れの行き届いたそれは、さぞ切れ味がいいだろうと思っての事だった。  しかしエアの手よりも青年の手の方が早い。あと少しで柄に指が届きそうなところで、青年の手はエアの手を払い除ける。エアの右手に鈍い痛みが走り、日に焼けた肌が赤く染まる。  他の選択肢を奪った男に、最後の道を奪われて、エアは途方に暮れた。僅かに痛みの残る右手を呆然と見つめた後、光のない瞳で青年を見上げた。 「じゃあ、どうしろって言うんだよ」  立っている事も億劫で、エアはその場に崩れ落ちた。 「生きる事も許されず、死ぬ事も許されず。俺は、どうすればいいんだ?」 「……」  青年は固く引き結んだ唇を解き、何か言おうとして、続きを言わずにエアの前に片膝を着いた。エアと視線の高さを等しくしてから、続ける。 「本当に、忘れられないのだと言うのなら」 「忘れられるものか」 「ならば、もう一度会おう。時が流れても、君の心がリリアナ様だけを叫んでいたのなら」  青年はエアにしか聞こえないように微かに囁いた。 「――手を組もう」 一章 約束の日 1  早朝に吹いた風は、温かで甘い香りを伴う風だった。  緩やかな風は時に草木を揺らし、水面に波紋を刻み、砂を舞い上がらせる。そうする事で、早朝から働く者たちに爽やかな感動を与えていく――僅かな温もりと花の香りによって冬の終わりを知った人々の表情に、柔らかな笑顔が浮かんでいく事で、風は己の使命を果たした事を知った。  だが風は、頑強な壁の前にはあまりに無力だった。太陽が昇りはじめたばかりの時分、未だ室内で眠りの中にある者たちに、春を伝える事ができないでいる。  何の力も及ぼせず、ただ跳ね除けられるしかなかった風は、やがて昨晩から閉じ忘れられたままの窓の隙間を見つけた。ここぞとばかりに隙間から忍び込んだ風は、未だ覚醒を知らない部屋の主の鼻腔を優しくくすぐった。  優しい甘さによって、青年の意識は夢の中から現実へと引きずり出される。  寝返りをうってから目を開けると、風と共に飛び込んできた光の眩しさに怯み、青年は慌てて目を閉じた。しばらくしてからゆっくりと目を開く。  眩しさと、花の香りと、風の温かさ。  それは、故郷に春の訪れを伝えてくれた、森の奥の花畑を思い出させた。胸を軋ませる、けれどとても優しい、少女の笑顔と共に。  青年はゆっくりと目を伏せた。今一度眠りに落ち、夢の世界へ旅立ちたいと望んだからだ。  温かな思い出が蘇った今ならば、幸せな夢が見られる。そんな予感があった。 「遠い昔に、本当にあったお話よ」  エアはリリアナの、幼い弟たちに語りかける優しい声が好きだった。  三人の弟と、弟の友人たちを狭い部屋に集めて、彼女はゆっくりと語りはじめる。大人、いや、ある程度歳を重ねていれば子供でも知っている、神話を。  エアも幼い頃、こうして自分より少し年長の者たちに幾度も語って聞かされた。今では自身で語れる程度に知っているが、当時の自分にとっては新鮮で、壮大で、何よりも興奮する物語だった。今リリアナを囲んでいる子供たちのように、目を輝かせながら聞き入っていただろう。もう一度聞かせてと話をせびったのも、一度や二度ではない。  子供たちの輪から離れ、部屋の隅から見守りながら、エアは懐かしい感情を思い出していた。幼い頃の自分が妙に恥ずかしくなり、誰も自分を見ていないと知りながらも俯いて顔を隠すと、耳朶をくすぐる優しい声が、別の記憶を呼び起こしていく。  この話を聞く時、いつも隣に居た少女の声。  懐かしさと愛しさが、同時に胸の中に湧き上がる。 「昔この大陸は、僅かな恵みのみの枯れた地で、人間たちは生きるために必死に働いて暮らしていたの。けれど、大地を荒らしてその僅かな恵みすら奪い、人間たちを傷付ける魔獣が、この大陸に現れてしまった。そうして人間たちは、立ち向かう事もできない強大な力を持つ魔獣を前に、命と未来を諦め、絶望に飲み込まれていったのよ」  ごくり、と、リリアナの弟は唾液を飲み込み、喉を湿らせる。彼が子供特有の果てしない想像力で、自分自身を恐怖に陥れたのだろうと想像したエアは、話の腰を折らないよう、気付かれないように笑った。 「そんな時、この大地を救ってくださったのが、今は天上におわす神、エイドルード!」  場を盛り上げるため、リリアナが声を大きくすると、話に聞き入る子供たち全員が目を大きく見開き、輝かせた。 「神と魔獣は、地上で死闘を繰り広げたわ。二十二日間も続いた激しい争いで、双方とも深く傷付いた。やがて勝利を治めたのは――」 「エイドルード?」  リリアナは力強く頷いた。 「もちろんよ。エイドルードはそうして私たち人間を、この大地に生きる全ての命を、お救いくださったの。けれど、エイドルードも長い争いに傷付き疲れていたから、魔獣を滅ぼすにはいたらなかった。代わりに、魔獣を地中深くに封印したのね。そうしてエイドルードは、魔獣に負わされた深い傷を癒すために、天上へと昇られた」  他人に安堵と温もりを与えるリリアナの笑みに力付けられたのは、エアだけではないようだった。魔獣が倒れたのみで命が潰えなかった事に恐怖していた子供たちも、ほっと息を吐き、満面の笑顔を浮かべている。 「でも、それじゃあ、封印が解けたら、大変だよね?」 「そうね。魔獣は再び地上に現れて、大地の恵みを奪い取り、私たちを傷付けるでしょう。明日食べるものも無くなって、苦しい思いをしなければならないかもしれない。特に、食いしん坊のカートはね」  名指しされたリリアナの一番下の弟は、辛そうな顔をして腹を抑えた。不安に輝く瞳が、救いを求めて宙を彷徨い、やがてエアを見つめる。  エアは小さく笑って頷き、視線をリリアナに向けた。リリアナの小さな弟は、エアにつられてリリアナに視線を向け、話を続けるリリアナの唇を凝視する事となった。 「心配しなくても大丈夫よ。エイドルードは天上に帰られたけれど、それでも地上の民を守ってくださっているの。地上の民からふたりの妻を選んで、彼女たちを通じて天上から地上に力を送り、魔獣を地中深くに縛り続けているのよ。それだけじゃなく、枯れかけていたはずの地上に、豊かな恵みをも与えてくださっている。だから、私たちは平和にのどかに、お腹いっぱいご飯が食べられるのよ」 「へー!」 「感謝しましょうね。天上の神エイドルードに」 「うん!」 「毎日しっかりお祈りするのよ。天上の神と――それから、地上の女神と呼ばれる人たちに」  リリアナが首を傾けて天を仰ぎ、目を伏せ、額の上で両手を組んで祈りはじめた。  子供たちも同じポーズを取ったが、リリアナのように純粋な祈りを捧げているわけではなく、今日明日の幸福を夢見ているだけだろう。それでも、同じ話を何度も聞き、同じ感謝を繰り返し捧げる事で、やがては聖なる祈りになっていくのだろう。  エアは姿勢を正してから、同じように祈った。今日までの幸せが永遠に続くよう――いや、更なる幸せが、自分たちに訪れるよう。 「じゃ、遊びにいこーぜ!」 「おう!」 「今日こそあの木、登ってやっからなー!」 「カートにはまだ無理だって」 「なんだと!」  エアの祈りは未だ終わっていなかったが、子供たちにはそんな事お構いなしのようで、はしゃいだ声と荒い足音を立てながら、次々と部屋を飛び出していった。  残されたエアは呆気に取られて、リリアナは不服そうに眉間に皺を寄せて、子供たちの背中を見つめていたが、やがて子供たちの気配が家の中から完全に消え去ると、顔を見合わせて笑った。  神への祈りをおざなりにするなど許される事ではなく、子供たちよりもいくらか歳を重ねたふたりは、彼らを追いかけ、注意し、叱りつける立場にあるのかもしれない。だが、無邪気で、身勝手で、当たり前に与えられるものへの感謝をおろそかにする――そんな時代の気持ちをすっかり忘れ去るには、ふたりはまだ若すぎた。 「もう。みんな、誰かさんの子供の頃みたいね」 「人の事言えるのか? 確か、最初に話を聞いた時、俺より先に飛び出したやつがひとり居たはずだけどな」 「……さーてと、じゃ、今夜の準備のお手伝いに行ってこようかな」  嫌味にも似たからかいの言葉を軽く流して、リリアナは立ち上がった。 「もうか?」 「あら。準備は早くからやるにこした事ないでしょ? 成人をお祝いする宴なんだし。それだけ丁寧に祝福してもらえるんだから、祝われる人は喜ぶべきじゃないの?」 「それは、そうなんだけど、な」  確かに今日はエアの十六歳の誕生日で、それはつまり、エアが大人として認められる日であるのだが、昨日までが子供で今日からは大人なのだと突然言われても、あっさり納得できるものではなかった。  陽が落ちて夜となり、宴の時を向かえれば緊張感が増し、自覚が生まれるかもしれない。だが宴の準備もはじまっていない今では、まだ難しかった。 「宴の最中は男の人たちの宴会がすごくて近寄れないかもしれないし、宴の後はお酒に飲まれてる可能性が高いし、だから今のうちに言っておくわね。成人おめでとう、エア」  リリアナはエアの前に立つと、にこりと笑ってエアに手を差し伸べた。  少し戸惑ってから、エアはリリアナの手を取り立ち上がった。掴んだ手は名残惜しく、なかなか手を離せない。ごまかすように、じっとリリアナを見下ろした。 「エアが成人なんてびっくりしちゃうけど、こうしてみるとやっぱり、大人になったよね。昔は同じくらいだったのに」  自身の頭に手のひらを置いたリリアナは、その手をゆっくりとエアの方へずらす。  白く柔らかな手がエアの唇に触れると、エアはどきりとした。 「大人になるのはあと三ヶ月たらずで追い着けるけど、身長は一生追い着けないなあ」 「……女がこれだけでかかったら気味悪いだろ。俺はもう、村で一番でかいんだぞ」 「そうでした」  くすくすと甘い笑い声が、耳を通ってエアの脳内に響き渡った。  甘美な誘惑にも似たそれを、受け入れるでもなく振り払うでもなく、エアは一瞬目を伏せてから、リリアナの手をぐっと握り締める。 「っつ……」 「あ、悪い」  リリアナが顔をしかめたので、エアは手を少しだけ緩めた。 「もう、何なの?」 「えっと……宴の準備なんて手ぇ抜いていいからさ、ちょっと付き合えよ」 「普通宴の主役がそんな事言う? まあ、女の人たちの集合時間はお昼過ぎだから、時間あるけど」 「よし」 「どこ行くの?」  エアはリリアナの手を引いて歩きはじめた。 「お前に見せたいものがあるんだ」  ふたりは部屋を、家を、村を飛び出して、森を進んだ。幼い頃よく遊んでいたあたりを越えて、森がいっそう深まると、リリアナは少し不安そうになる。そんな時、エアが手を握る力を少しだけ強めると、リリアナは小さな笑顔をエアに向けるのだった。  人が滅多に歩かない道は歩き辛く、リリアナはしょっちゅう木の根に突っかかったり、土に足をとられたりしていた。そんな彼女の手を引いて森を進むのは、正直言えば大変だったが、彼女の喜んだ笑顔と引き換えならば、苦労とは思えなかった。  リリアナが喜ばなかったらどうしようと言う不安は、少しある。だが、それをあっさりとかき消せるほどに、喜んでもらえる自信がエアにはあった。 「ねえ、どこまで……」 「ほら、見てみろよ」  リリアナが不満と不服を言葉に現しはじめたと同時に、エアは目的地に到着した。腕を使って藪を掃い、視界を開く。  リリアナは軽く首をかしげながら、隙間を縫って、エアが視線を向ける方向を覗き込んだ。  そこには、赤、桃色、橙色、黄色、白、紫、青――知っている限りの色が、太陽の光を心地よさそうに浴びながら存在していた。 「……すごい」  リリアナは一瞬だけ呆けた顔をして、それからすぐに、エアが期待した通り、満面の笑みを浮かべる。幾度も幾度も「すごい」を繰り返して、「近くで見よう」とエアが声をかけると、ためらわずに着いてきた。  甘い香りに誘われる虫たちように、ふたりは花畑の中に足を踏み入れる。そこだけが他の場所よりも明るく強く、エイドルードの恵みを与えられたかのようだった。 「どうして? 村の近くの花畑は、ようやくいくつかつぼみが膨らみはじめたばかりで」 「不思議だろ? 俺も昨日たまたま見つけてさ、びっくりしたんだ。びっくりして、んで、お前を思いだした。お前、春が好きだから、これ見たら喜ぶだろうなって」  頷いたリリアナは、花畑の中にしゃがみ込んだ。  さっきまで子供たちに神話を語って聞かせていた少女と同一人物とは思えない、幼女のように無邪気な笑顔を見せていた。摘もうとしたのか茎に手をやったかと思えばためらい、諦め、膝を抱えて花たちをじっくりと眺めている。 「連れてきてくれてありがと、エア」 「大した事じゃねえけどな」 「大した事だよ。すごく嬉しい」  眩しげに、愛しげに目を細めて、リリアナはそれだけ言った。その横顔は幸福に満ちていて、彼女はどれほど春を愛しているのかが、無言でも伝わってきた。  喜んでいる彼女を見られて嬉しい。だが、自分そっちのけで花と戯れている彼女が少し悔しい。  人間相手や動物相手ならばまだともかく、季節に対して僅かながらも嫉妬を抱く自分が滑稽で、エアは己の頭を抱えて思考をかき消した。 「どうして春が好きなんだ?」  常々抱いていた疑問を投げかけるのも、思考を切り替える方法のひとつだった。  もっとも春と言うのは、誰もが――もちろんエアもだ――愛する季節であるから、聞かなくとも何となく答えを想像する事はできたのだが。 「冬がね、あまり好きじゃないの。時折降る雪は真っ白で綺麗だけれど、寒いし、冷たい水で手が荒れてしまうでしょう。それに、枯れた木々や土の茶色とか、薄暗い空色くらいしか目に映る色がないのも、寂しいと思わない?」 「まあな」 「だから春が好きなの。冬の終わりを告げてくれる春。華やかで明るい世界を、みずみずしく色付いていく景色を見ると、楽しくて幸せな気分になれるし、吹き込んでくる隙間風に身を凍えさせる事もないし、それに――」  エアと私が生まれた季節だからかもね、と、はにかみながら続けるリリアナが愛しすぎて、エアはたまらず彼女を抱き寄せた。リリアナは頬を染め、身を強張らせたが、けしてエアの腕から逃れようとはしなかった。  互いの服を介して伝わってくる温もりが、胸に少しの苦さと、途方もない心地良さを与えてくれる。  夢のようだった。  エアに温もりを与えてくれる全ての存在が消えてから、焦がれ続けていた温もり。それが今、こうして胸の中にあるのだ。  無意識に笑みを口元に浮かべ、幸福に酔っていたエアは、しばらくしてようやくリリアナをここに連れてきた一番の目的を思い出した。  十六歳の誕生日、成人を向かえるその日に、逃れられない強い感情を彼女に伝えようと決めた。狭い村の中は何となく嫌で、どこで伝えようか悩んでいる時にこの花畑を見つけた時は、天の啓示かと思ったものだ。 「えっと、さ。リリアナ」 「何?」  覗き込むように見上げてくるリリアナの愛らしさに、言葉にする勇気が徐々に失われていく。エアは彼女から顔を反らし、気付かれないように静かに、深く深呼吸をした。  それでもはっきりと言えるだけの勇気は戻ってこない。昨晩寝る前、何度も何度も練習してみたと言うのに、あの練習の意味は何だったのか。 「えっと、その、来年もここ、ふたりで見に来ような」 「……うん」  来年まで引き伸ばすつもりがあるわけではない。エアは硬く目を瞑り、声の震えを必死に抑えて続けた。 「再来年も」 「うん」 「その次も、その次も……ずっとだ」  もっと直接的に判りやすい表現で伝える予定だった言葉は、ひどく湾曲的な言葉へと変わってしまった。これでは言葉に込めた真意が伝わらない可能性もあり、確かめるために恐る恐る目を開けて、エアはリリアナを見下ろした。  どうやらリリアナは、しっかりと理解してくれたようだった。いっそう赤く染まった顔を、両手で覆ってエアから隠している。  ずっと一緒に居たかったのだ。  性別の違いなどを意識する事もない幼い頃からずっと一緒に居たこの少女を、いつから愛しく想いはじめたのか、はっきりとは覚えていない。けれど、大切なものを失ってひとり泣いていたエアの手を、リリアナがずっと握り締めていてくれた時――温もりを与え続けてくれた時、この少女を好きで良かったと、心から思ったものだ。  彼女を選んだ自分が、誇らしいと。 「馬鹿みたい」  リリアナは顔を伏せたまま、震えた唇で言った。  求婚の返事としては最悪の部類に入るその言葉を聞いて、エアの心中は穏やかではなかったが、リリアナが可憐な唇で何かを紡ごうとしていたので、黙って続く言葉を待った。 「今日は貴方の誕生日じゃない。それもただの誕生日じゃないのよ。十六回目よ。貴方が成人したと認められる、大切な誕生日。夜には貴方の成人を祝って宴がひらかれる。村のみんなから、たくさんの贈りものを貰うんでしょう」 「ああ、そうだよ。だから」 「そんな日に、そんな日に……こんな素敵な贈りものをくれるなんて。私は一体何を贈り返せばいいのよ」  両手の隙間から覗く彼女の双眸は潤んでいた。少しの自惚れも手伝って、それが悲しみの涙では無いと確信したエアは、小さく吹き出して彼女の耳元に唇を寄せる。 「人に馬鹿って言っておきながら、お前の方がよっぽど馬鹿じゃないか」 「どうして」 「だって、そんなの簡単だろ。お前にしか言えない、俺が今一番欲しい言葉をくれればいいんだよ」  エアはゆっくりと不器用に、リリアナの髪を撫でた。それから緩慢な動きで、リリアナの背に両腕を回す。  優しい温もりと共に伝わってくる、早すぎる鼓動。もしかするとリリアナは、エア以上に緊張しているのかもしれなかった。 「花畑」 「ん?」 「来年も、一緒に見に来ましょう」 「ああ」 「再来年も」 「ああ」 「その次も、その次も、ずっと、ふたりで。ううん、子供が生まれたら、その子も連れてきてあげましょう」  エアはリリアナを包む二本の腕に、強い力を込めた。  他愛もない約束は、死が二人を分かつまで、果たされ続けると信じていた。  あの日、愛しい少女の温もりに酔いながら、まるで夢のようだと思ったのは自分だ。だから本当に夢だと知った時、生きる気力を失うほどに落胆してしまうのは、筋違いなのだろうか?  青年――エアは、寝台から身を起こし、首を振る事で、問いかける相手も答えもない問いを脳内から追い払った。  エアは自身の目元を指で軽く拭った。優しい思い出を引きずり出した夢は、エアの目に温かな涙を滲ませるだけの力がある事を、過去の経験で知っていたからだ。  だが、指先に液体の感触は無かった。  エアの手より幸福が零れ落ちてから何年もの月日が経っており、その間に繰り返し同じ夢を見て、繰り返し泣いた。だから、涙など遠い昔に枯れてしまったのかもしれない――そう考えかけて、あるいは過去を愛しく思う必要がなくなったからかもしれないと思い直したエアは、窓から差し込んでくる光の角度で大体の時間を察し、やや慌てて着替えはじめた。  愛しい事に変わりはない。だが、過去は過去なのだ。どれほど強く望もうとも、息苦しいほど平凡で退屈だった幸福の日々に戻る事は、もうできない。  だからこそ全てを振り切り、前へ進む事に決めたのだ。立ちはだかる無数の壁を、蹴破るように前へ進む、と。それ以外に、エアが生きる道は残されていなかったのだから。 「エア殿」  ちょうど身づくろいを終えたところで、部屋の扉が叩かれた。 「どなたです?」 「ルスターです。さすがエア殿。もう起きておられましたか。いつもより少し早いですが、そろそろ朝食を召された方がよろしいかと思い、迎えに来ました。エア殿には不要だったようですが」 「いいえ。ご親切に、どうもありがとうございます」  エアは扉にかかっていた鍵を開け、ゆっくりと扉を開けると通路に出る。わざわざエアを起こしにきてくれたらしい、エアよりも頭半分ほど背が低く、エアよりもいくつか歳若い少年に対して一礼した。  食堂に向けて歩みを進めるエアの隣にルスターは並んだ。少年が一歩歩くたびに少し癖のある蜂蜜色の髪が揺れ、細い輪郭を艶やかに撫でる。嫌味のない程度に整った顔に浮かぶ曇りのない緑の瞳に見上げられ、何となく居心地が悪くなったエアは、真っ直ぐ正面を見、できる限りルスターを視界に入れないようにした。 「いよいよ今日ですね。試合の事を思うと緊張してしまい、あまり眠れませんでした」  エアは「お前が緊張してどうする」と口にしかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。 「私が緊張する事ではないと判ってはいるのですが、つい。まさか入団一年目である自分と同期のエア殿が、御前試合に出る事になるとは夢にも思わなかったものですから。我ら聖騎士団の長い歴史において、過去に十人とおりません。もし優勝と言う事になれば、現団長アシュレイ様に続く、二人目の快挙です」 「入団一年目とは申しましても、私は遅い入団でしたから。普通の――まだ体ができ上がるか否かの年齢で入団される方々よりはいささか有利で当然です。御歳十六歳で入団され、その年に優勝なされたアシュレイ様と並ぶには、恐れ多く思います。しかもあの方は、歴史上類を見ない若さで聖騎士団長を就任なされた方ではないですか」 「確かにアシュレイ様は優れたお方です。あのお方は、エイドルードに選ばれた方なのでしょう。ですが私は、アシュレイ様と同じだけの光を、貴方からも感じます」  少年はエアを見上げる瞳をいっそう輝かせて言った。  エアは「お前の目は節穴か」と言いたい気持ちをぐっと抑えなければならなかった。そのように品のない口ぶりや相手を蔑む言葉は、栄誉ある聖騎士団の一員である自分が使っていいものではなかったからだ。  それに、ある意味でルスター言っている事は当たっている。自分も、エイドルードに選ばれた人間なのだろう――良い意味ではけしてないのだが。 「滅多な事をおっしゃるものではありません」 「……そうでしたね。聞く者が聞けば、貴方に歪んだ感情を抱くやもしれません。失礼いたしました」 「ですが、貴方のお気持ちは嬉しく思います。私の力でどこまで行けるかは判りませんが、少しでも上に行けるよう、全力を尽くしましょう」  エアは可能な限り優しく微笑んだ。 「見ている事しかできませんが、私たち同期一同はエア殿を応援しておりますよ。ぜひとも優勝し、アシュレイ団長と剣を交えてください」 「頑張ります」  エアが答えると、ルスターも微笑んだ。それからエアが鋭い視線で正面を見据えると、ルスターはそれ以上エアに何も言おうとはしなかった。エアは内心ほっとしたが、それを外に見せはしなかった。  当たり前だ。誰に言われなくとも、誰の応援がなくとも、勝ち進んでみせる。  それこそが、エアがここに居る意味。生きている理由に繋がるものなのだから。 2  天上の神エイドルードが魔獣を地中深くに封印したのは、人の一生の長さを考えて計れば、遥か昔の事となる。  魔獣との争いで傷付き、地上では傷を癒せなかったエイドルードは、大陸の北の果てにあるセルナーンと呼ばれる大地より天上へと旅立った。  聖職者たちは最も神の住まう地に近きセルナーンを聖地と呼び、そこでエイドルードへの祈りを捧げ続け、やがてひとりの聖職者がエイドルードの声を聞いた。  聖職者たちはエイドルードの言葉に従い、セルナーンに神殿を建築。また、大陸南西にある砂漠と南東にある森にも同様に神殿を建てる。大神殿、砂漠の神殿、森の神殿と呼ばれる三つの神殿はそれぞれ、神の代理人たる司教とふたりの妻の住居とされた。司教が神の言葉を授かり人々に伝える事で大陸の安寧が、神の妻がそれぞれの神殿で祈り神からの力を授かる事で魔獣の封印が、長く長く保たれてきたのだ。  つまりこの国において司教や神の妻――地上の女神と呼ばれる女性たち――は、国王と同様、いや、勝るとも言って良い重鎮であるため、彼らの守り手である聖騎士団員は、優秀な者であれば身分を問わないと言う門戸の広さと相まって、民の憧れの職業であった。  しかし門戸が広いと言っても、誰もが聖騎士団に入れるわけではもちろんなく、厳しい入団試験によって聖騎士団員に相応しい礼節と教養と武芸を身に付けた一握りの者のみが選ばれる。故に、聖騎士団員のほとんどは、幼い頃から相応の教育を受けつつも将来があまり明るくない、下級貴族や裕福な家に生まれた次男以下ばかりだった。  そんな彼らにとって、明らかに出自が異なるエアの存在が良くも悪くも目に付くだろう事は、入団する前から判っていた事だった。ましてそんなエアが、毎年三十歳未満の聖騎士団員全てが参加して行われる武術大会を決勝まで勝ち進み、王や司教までもが観戦する御前試合に出る事になったとなれば、注目せざるをえないだろう。  元々村で一番背が高く、一番足が早かったエアは、注目される事に多少慣れてはいたのだが、所詮は小さな田舎村での事である。育ちが違う者たちの視線を浴びるように受ける事は居心地が悪く、苦痛と言って差し支えがなかった――もっとも、三年前に受けた苦痛を思えば、この程度の事は痛みでも不快でもないのだが。  エアは伏せていた目を開いた。  視界と意識を閉じる事で遮断していた外部が、一気に迫り来る。興奮と好奇心が奇声混じりの声援となり、すり鉢状の闘技場の底辺に立つエアを、熱風のように襲った。  想像していたよりもはるかに見物客が多い。エアは御前試合と言う呼び名に勝手に高尚な印象を持っていたため、見物客は王や司教、せいせいが聖騎士団の者たち程度だろうと思っていたのだが、明らかにそれだけではなさそうだった。  もちろん、貴賓席には王や司教が座っている。その周りには貴族と思わしき煌びやかな格好をした者たちが居る。そして彼らを守るように聖騎士団や王宮騎士団の者たちが居たが、それ以外の席は王都にして国一番の商業都市セルナーンに住まう一般の民と思われ、騒いでいるのは主に彼らだった。  若き騎士たちが研鑽し更なる高みを目指すための武術大会と聞いていたが、上位二名まで勝ち進んだ者に与えられる栄誉は、「民への見世物」らしい。栄誉ある聖騎士団の一員の仕事が、王都の民の鬱憤晴らしなのかと思うとたまらず、エアは吐き捨てるように「馬鹿馬鹿しい」と呟いた。  ゆっくりと歩みを進める。エアと、エアの対戦相手が試合場の中心に近付くに連れて、見物人の興奮が徐々に高まっていく。  エアの対戦相手は、ディナス・オリンストと言う名の、エアよりも十ほど年上の青年だった。王都セルナーン一と言って過言ではない有力商人の次男で、いわゆる「幼い頃から相応の教育を受けた上流階級の息子」だ。一般的に高貴とみなされる貴族の血は流れていないらしいが、充分に品のある人物で、裕福な家庭で厳しく育てられたのだろうと予想できた。そうでもなければ、聖騎士団に入るだけの能力、あるいは能力不足を補えるだけの根性を持つ事はなかったのだろう。  エアはディナスが決勝に至るまでの、いくつかの試合を観戦していた。かなりのてだれで、強敵だと思った。過去に何度か御前試合に出たと言う実績は、伊達ではないようだ。 「……あと、一戦」  己を鼓舞するためにそう呟いたエアは、予め指定された場所に到達すると、直立して姿勢を正した。一歩遅れて到着したディナスが同じ姿勢をとると、同時に礼をし、同時に顔を上げる。そして腰に下げた、柄に紋章が刻まれた剣を同時に引き抜くと、切っ先を互いに向けあう。  歓声が静まった。彼らは待ち望む試合がはじまるその瞬間を、固唾を呑んで見守っているのだろう。  エアか、それともディナスか。どちらからともなく僅かに動くと、キン、と乾いた音を立てて、互いの刃が触れ合う。  それが試合開始の合図だった。  再び会場内は熱狂した歓声で支配された。ディナスの息遣いや足音はまったく聞こえず、彼の動きを察知するには目に頼るしかない。自然、片時も目を反らすまいと相手を睨みつける形になる。  エアはディナスの刺すような視線を遮るように剣を振るった。今までの対戦相手ならば確実に脇を捕らえたはずの一撃だが、さすがにそう簡単にはいかない。エアの剣ははじき返され、歓声を裂くように金属音が響いた。  ディナスは続けざまに剣を振るった。幾度も打ち付けられる剣を全てはじき返す、あるいは避けるのは至難の技で、エアは防衛に意識の全てを集中せざるを得ない。形勢を立てなおし反撃に出る事は難しく、しばらく防戦一方の状態が続いた。  十を越える回数切り結んだ後に来た一撃は、体重の全てを一点に集中したかのように重かった。かろうじて受け止めたエアだったが、剣を握る両手が震えてしまう。押し返そうと力を込めると、震えは強まる一方だった。  エアは静かに息を吐くと同時に、刃を傾けた。二本の剣は互いの中ほどで重なる事で膠着しており、傾く事で一方の力の流れが変わると、もう一方の力の流れも強制的に変わってしまう。  ディナスの剣はエアの剣の上を滑り落ち、その切っ先を地面に埋めた。  そこでうろたえなかったのだから、ディナスは冷静な剣士なのだろう。彼はすかさず剣を引き抜き、その勢いを借りて振り返り、剣を頭上に構える。  エアが振り下ろした剣と、ディナスが振り上げた剣とが、火花を散らした。  攻撃手を失ったのは、今度はディナスの方だった。不利な体勢で剣を構えるディナスに、エアはもう一度、万全の体勢から重い一撃を食らわせる。  ひときわ大きな金属音が会場中に響き、歓声が途切れた。  音と同時に、ひと振りの剣が宙を舞った。重苦しく風を切りながら幾度か回転し、ふたりから少し離れた地面に突き刺さる。  会場中の人間の視線が剣に集中したが、それは一瞬の事だった。すぐさま、本人以外の全ての人間の視線が、ひとりの男に注がれたのだから。  視線を集めた主――エアは、素手となったディナスの喉元に剣の先を突きつけていた。 「勝者、エア・リーン!」  審判を勤める聖騎士団長、アシュレイ・セルダの声が響き渡ると、鼓膜が破れそうなほどの喝采がエアに注がれた。  エアは剣を鞘に収め、ディナスとの礼を終えてから、エアの勝利を叫ぶ観客たちに振り返り、手を上げて応えた。どこを見渡してもエアの名を呼び、エアを称える者ばかりで、これまで冷静に勤めていたエアも思わず動揺し、息を飲んだ。 「おめでとう、エア殿」  未だ歓声が鳴り止まぬ中で、ディナスはエアに言った。ディナスは敗北が確定したその時こそ大きく落胆していたが、今はそのそぶりも見せず、純粋な眼差しを傾けてエアを祝福している。  その絵に描いたような好青年ぶりは、エアの好むところではなかったが、拒絶する事のできない魔力のようなものがあった。 「私は今回が最後の機会だったものでな。今年こそはと思ったのだが、君のような人物に敗北したのならば、悔いはない」 「ディナス様……」 「アシュレイ様との試合も頑張りたまえ。君ならば、あるいは」  ディナスが右手を差し出して来たので、エアはその手をしっかりと握り、堅い握手を交わす。 「自信はありませんが……敗北したとしても、全力を持っての事だと胸を張って報告できるよう勤めます」 「観客席で応援しているよ」  試合中はけして見せる事のなかった穏やかな微笑を残し、ディナスは踵を返して試合場を立ち去っていった。  選手入り口の扉が閉まるその時まで、エアはディナスの背中を見送る。彼が視界から完全に消え去るのを確認してから、視線を動かした。  エアが睨むように見つめた相手は、今現在観客の視線をエアと二分している人物だった。  王や司教が腰を下ろす貴賓席よりいくらか段を降りたところに立っている青年――アシュレイ・セルダは、聖騎士団長の証である絹で織られた藍色の外套を脱ぎ、無言で階段を降りてくる。そして観客席と試合場を遮る重厚な扉を開き、エアと同じ場に立った。  やや長めの黒髪がゆるい風に揺れ、品のある端整な顔を撫でる。客席に数多く見られる女たちは、戦いそのものよりもこの男が目当てなのだろうと、エアは漠然と理解した。  エアは体ごと向き直り、無言で近付いてくる団長を迎えた。  観客たちの無言の期待がのしかかる息苦しさに耐えるため、意図的に周りを遮断した今、エアの意識の中には自分とアシュレイのふたりきりしか存在しなかった。不要な緊張が治まる代わりに、感情の底に沈めていたものが目を覚ましてざわめくのを感じたエアは、無意識に剣の柄に手をかけていた。 「まずは礼だ」  穏やかな笑みを口元に浮かべ、アシュレイは窘めるように言う。 「武術大会の優勝者と聖騎士団長の手合わせは、本日一番の余興だ。注目も一番集まる。これまでの努力を無駄にしたくなければ、聖騎士団員として恥じない態度で臨め」  従う事は悔しかったが、逆らうために不利を負うほど愚かではなく、エアは美しい姿勢で直立し、深々と礼をした。  二本の剣の切っ先が触れ合う。  小さいが歓声を縫って人の耳に届くその音が試合の開始を会場中の者に伝え、逃れようのない熱が再びエアたちを襲った。  エアが素早く切りかかり、アシュレイがそれをはじく。ほとんど間を空けずに鳴り響く金属音は、音楽を奏でているかのようだった。 「よくここまで来たな」  アシュレイに剣を受け止められ、それ以上進む事も引く事もできなくなったのは、ちょうど十撃目の事だ。膠着した二本の刃がぎりぎりと鈍い音を立てる。 「来いと言ったのは、お前だろう」  エアは言葉遣いも気にせず、冷たい声で吐き捨てるように言った。  試合会場と客席には大きな距離があり、通常の状態でも大声を出さなければ声は届かない。その上、今は観客のほとんどが唸っている。この状態ではアシュレイ以外の誰に聞かれるわけでもないのだから、これで構わないだろう。アシュレイは不愉快かもしれないが、彼の機嫌を取る気などエアには毛頭なかった。  忘れもしない。この男こそが、エアの幸福を、エアが最も大切にしていた存在を、奪い取ったのだ。  実際にエアからリリアナを奪ったのはアシュレイではない。だが、エアの目の前でリリアナを連れ去った実行犯は紛れもなくアシュレイであり、呪いに似た憎悪を抱かずにはいられなかった。手合わせ中の事故と称して命を奪っても、罪悪感など湧かない自信があるほどだ。 「お前、言ったよな。三年前。忘れるといい、って」 「ああ」 「悔しいがお前の言う通りだった。忘れれば楽になれるって、この三年間何度も何度も何度も考えたよ。でも」 「忘れられなかったか」  剣の刃から柄、柄からエアの手に伝わる感覚の変化に戸惑い、エアは後ろに跳ねてアシュレイから離れた。その判断が正しかった事は、それまでエアが居た場所にアシュレイの剣が振り下ろされている様子を見れば明らかだ。  あと一瞬遅くなっていればどうなっていたか。 「本気で殺す気か」  アシュレイは答えず、次の一撃を振り下ろす。エアは素早い動きでそれを避け、アシュレイの頭に向けて剣を薙ぐ。 「それはこちらの台詞ではないか」  エアの一撃を受け止め、アシュレイは言った。避けられなかったら死んでいたのは、彼も同じだったからだ。  再び膠着状態に入り、観客の興奮で空気が震えた。  苦痛にも苦労にも歪む事のない嫌味なほど端整な顔を、どうしたら歪ませてやれるのかとエアは考える。エアに不幸と言う単純な言葉だけで片付けられない不幸をもたらしたのは、この聖人ぶった男であったから。 『忘れるといい』と言った男。そして、『忘れられないのならば、もう一度会おう』と言った男。  この、世界中で最も憎い人間に再び出会うために三年を費やした事実は、エアにとって屈辱以外の何者でもなかった。傷付けられないのならば、殺せないのならば、二度と会いたくない人物であったのだから。 『――手を組もう。私の力があれば、君は大切な人を取り戻せる。会いに来るのだ、私に』  三年前の記憶は、今でも鮮明に残っている。涙に歪んだ視界に、悲哀の輝きを秘めた紫水晶の瞳が映った時の事も。  あれほど不愉快に思っていた男の言葉をなぜ信じられたのか、今になってもエアには判らない。だがあの瞬間、錯覚かもしれないが、エアは思ったのだ。この男は、エアの苦しみを理解しているのかもしれない、と。  その日からエアにとってアシュレイは、深い憎悪を抱く相手であると同時に、残された唯一の希望となった。忘れる事も許す事もできないまま、ただこの男に会うために、言葉では語りつくせないほどの努力を重ねた。肉体を限界以上に駆使して剣技を会得し、礼節と勉学を学び――そうして難関と言われている聖騎士団の入団試験を通ったのだ。  それが聖騎士団の歴史上、農民出としては三人目の快挙であると言う事は、入団してしばらく経ってから知った。アシュレイ・セルダ聖騎士団長が、聖騎士団に入団した程度では会えない人物であると言う事実と共に。 「見違えたな。背も伸び、逞しくなった。顔つきもまるで違う。別人のようだ」 「三年前鍛え続けたんだ。嫌でも変わる。それより、先に言っておけ」 「何を?」 「お前に会うには奇跡を起こさなければいけないと言う事を、だ」  アシュレイがエアの剣をはじき、ふたりは後方へ身を下げて距離をおく。互いに正眼に構えるが、その刃が触れるためには、あと一歩詰めなければならないだろう。  エアは動けなかった。アシュレイはおそらく、動かないだけだ。そこにふたりの実力差が見えた気がして、エアは悔しさを堪えるために自身の唇を軽く噛んだ。 「先に言えば、君は諦めていたかもしれないだろう。言わなかった事を感謝してほしい」  すう、と静かに息を吸ってから、アシュレイは動いた。瞬時に一歩の距離を埋め、しっかりと構えたはずのエアの剣を薙ぎ払う。  構えと共にエアの体勢は崩された。アシュレイにわき腹や背中を晒す事にもなりかねず、これ以上身を崩すわけにはいかないと脚に力を込めて耐える。反動を利用し、アシュレイが居ると思わしき方向へ剣を振り上げた。  そこにアシュレイは居た。だが、不自然な体勢から繰り出されるエアの攻撃に驚く様子も怯む様子もなく冷静に対応し、エアの剣を軽く受け流した。その勢いを利用してエアの体を倒し、肩を打ち付けたばかりのエアの首筋に剣を突きつける。  完璧だ。どう体勢を立て直そうとしても首が切れる。反撃の術を思いつかず、エアは静かに目を伏せた。 「勝負あり、のようだな」  今日一番の歓声が、アシュレイに降りそそいだ。  アシュレイは剣を納め、客席に向けて手を上げながら歓声に応える。ディナスとの試合では男たちの野太い声が強かったが、今は女性の金切り声が強く主張し、彼の女性人気の高さを証明する事となった。  エアは身を起こし、剣を鞘にしまった。  エアにとってはアシュレイに会う事そのものが目的であり、武術大会で優勝する事も、彼と手合わせをする事も、特に望んでいたわけではない。だが、この男に敗北したと言う事実は純粋に悔しく、吐き捨てたい気分になった。 「奇跡が必要だったのだ」  アシュレイは振り返り、エアと向き合う。  向けられた瞳に輝く感情は三年前に彼が見せたものと同じ、悲哀。  エアは無言で言葉の続きを待った。 「聖騎士団に入団し、武術大会に優勝すると言う功績。君がそれを得られなければ、条件は整わない。ここまで来られたからこそ、君は大切な人を取り戻す機会を得られたのだよ、エア」 「……は?」 「詳しい事は今夜話そう。夕食後、私の執務室に来てくれ」  気軽に言うアシュレイに、エアはすぐさま反論した。 「無理だ。俺のような末端の団員がお前の部屋に近付こうとしても、止められる」  エアは入団直後の経験から真実を語ったが、アシュレイは意味ありげに微笑んで流した。 「今までの君であればそうだろう。だが今日からの君は違う。武術大会の優勝者を労う程度の事は、過去の聖騎士団長は皆がやってきている事だ。誰も君を追い返したりはしないし、私の部屋に近付く事を疑いはしない。それに、君はもうすぐただの団員ではなくなる」 「……は?」 「伝統だよ。武術大会の優勝者には小隊長の地位が与えられる。小隊とは言え隊長格ならば、私と会う事は難しくない。しかも君には、尊い役目を担ってもらう事になるのだから、なおさらだ」 「尊い役目?」 「それも今夜話す事になるだろう。さあ、とりあえず礼だ」  窘められ、エアは慌てて直立し、アシュレイに深々と頭を下げる。しばらくして顔を上げると、アシュレイはそばで見なければ判らないほど小さく肯いてから、その場を立ち去った。 3  通路のところどころに備え付けられた燭台に灯る小さな炎は、暗闇を照らすには役者不足で、慣れない道を歩むには心許ない。だが戻って灯りを取りに行くのも面倒で、エアはそのまま進む事を選んだ。どうせ目的の部屋はこの通路の最奥で、間違えようがないのだから。  聖騎士団の中でも上位の役職を持つ者たちに与えられた部屋が並ぶその通路は、伝達役などでもない限り、エアのような新人騎士が通れる道ではない。伝達ですらよほど緊急の用でない限り隊長格を通すのだから、エアの同期でここを歩いた事がある者は居ないだろう。  今から半年前、入団して間もなくのエアは、通路に足を踏み入れようとした瞬間引き止められた。アシュレイ団長に合わせてほしいと言っても取り合ってもらえず、苦い思いをしたものだ。  それが今は、顔を見ただけであっさりと通してもらえるのだから、変われば変わるものである。「武術大会の優勝者」と言う肩書きは、少なくとも聖騎士団の中では絶大な威力を発揮するものらしく、その現実に半ば呆れながら、エアは暗い道を進んでいた。  響き渡る自身の足音を耳にしながら進むと、やがて突き当たりに到着した。そこには扉がひとつあり、はめられたプレートに名前が刻まれている。もちろん、アシュレイ・セルダの名だ。  エアは静かに息を吐き出してから、扉を叩いた。間もなく、「どうぞ」と返事がきたので、扉を開ける。  部屋の主は広い机の前に座っていた。机上には数枚の書類が広げられており、何らかの仕事をしていたようだ。  アシュレイは手にしていたペンを置き、広げていた書類のうちの二枚を手にとって席を立つと、小さなテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている応接用のソファの片方に座るよう、エアに進めてきた。  言われるまでもなくソファに歩み寄っていたエアは、深々と腰を下ろす。傍若無人なエアのありように呆れたか、僅かに苦笑を浮かべたアシュレイがエアの向かいに座るまで、少し間があった。 「それで?」  アシュレイと向かい合って座っている事はエアにとって苦痛でしかなく、その状況から一刻も早く逃れるために、エアは颯爽と話を切り出した。 「そう急くな」 「こっちとしては、早く用件を済ませて出て行きたいんだ。お前がリリアナを取り返す術を知っていなければ、会話もしたくないし顔も見たくないくらいなんだからな」 「それは申し訳ないな。では、もうしばらく我慢してもらおうか」  エアがあからさまに不快を示しても、アシュレイは機嫌を損ねる様子は見せなかった。何とも無いかのように大らかに受け入れてしまう。  その聖人ぶった態度がエアを余計に苛立たせるのだが、本人はおそらく自覚していないだろう。常に自分が正しいと思い込んでいるに違いないのだ――エアからリリアナを奪ったあの日さえ。 「君の想い人が今どこに居るのか、それはもちろん知っているな?」  エアは無言で肯いた。 「砂漠の神殿、だろう」 「そうだ。リリアナ様は砂漠の女神として、国の安定のため尊い職務を全うされている」  アシュレイの口から語られた無常な真実に、エアは自身の心臓が跳ねる音を聞いた。胸元に走る鈍い痛みと息苦しさに耐え切れず、自身の胸倉を掴み、動悸を沈めようとする。  砂漠の女神。天上の神エイドルードの妻の別称。  何度耳にしても慣れないその呼び名は、エアに途方もない苦痛を与えてくる。自分の妻になるはずだった少女が、神の妻として人々に崇められている現実を、受け入れられるはずがないのだから。  受け入れられれば、忘れられれば楽なのだと、判っていても。 「我々聖騎士団には年に一度、砂漠と森の神殿に物資を届けると言う任務がある。その際結果報告が私の元に来るのだが、リリアナ様はご息災のようだ。儚げな微笑みを浮かべながら、『大陸を守るために祈るこの役目を、誇りに思います』と、言っていたそうだよ」 「……そうか」  エアは静かに目を伏せた。  三年前、大きな瞳に大粒の涙を浮かべ、震える手で縫いかけの花嫁衣裳を手放したリリアナを、今でも鮮明に思い出せる。逆らう事をせず、己の運命を享受し、アシュレイの導きにしたがって迎えの馬車に乗り込んだリリアナを。  彼女は判っていた。エアの元を離れなければ、地上の女神として祈り続ける任務を背負わなければ、エアを含めた国そのものを失う事になるのだと。だから約束していた未来を諦め、運命に従った。  そんなリリアナを立派だと思う。彼女がその道を選んだのならば、認め、諦め、故郷の小さな村でひとりで暮らすべきかもしれないと思う。  けれどやはり、認められないし、許せないのだ。多くの人間の幸せのために、自分たちだけに犠牲を強いた存在が。 「さて、本題に入ろう。君の想い人たるリリアナ様を取り返す方法はひとつしかない。砂漠の神殿に行って、力ずくで奪い返す。それだけだ」  エアは咄嗟にアシュレイを睨みつけた。 「そんな子供でも考えつくような事を聞くために、俺は三年間も費やしたのか」 「話を最後まで聞いてほしい。これは、誰にでも考えつくような事ではあるが、誰にも不可能な事なのだ」  エアは口を噤んだが、視線を緩める事はしなかった。 「砂漠は天然の要塞だ。常に嵐が吹き荒れ、侵入者を迷わせて命を奪う。物資輸送隊以外の何人たりとも、砂漠の神殿に到達した者はいないのだ」 「それで?」 「言い方を変えようか。輸送隊ならば、砂漠の神殿に辿り着けると言う事だ。そして天然の要塞であるからこそ、武力での守りは薄い。神殿には女神の世話をする女たちが二十数人居るだけで、彼女たちのほとんどは武術の心得がない」  アシュレイの言わんとしている事を漠然と理解したエアは、アシュレイを睨むのをやめて言葉の続きを待った。 「砂漠の神殿に無事に辿り着くためには、合言葉たる二つの神聖語と、複雑に入り組んだ迷宮を越えるための地図が必要だ。これは絶対的な機密事項であるが、任務を果たすために必要な事であるから、当然輸送隊の隊長には司教様より伝えられる」 「つまりお前は、俺を砂漠の神殿への輸送隊の隊長に任命してくれるのか」  自覚なく、エアは身を乗り出していた。  それならば合点が行くのだ。アシュレイがエアに奇跡を強要した意味が、それならば理解できる。  例年に習えば武術大会の優勝者は小隊長に任命されるとの事であるから、エアもそうなるのだろう。物資輸送ならば小隊程度に任せるべき任務であるから、団長であるアシュレイはエアに砂漠の神殿に行くよう命じる事ができる。つまりエアは、アシュレイに会うために研鑽を重ねる事によって、リリアナに会う権利を得たのだ。  もちろん、エアはリリアナに会うだけで満足する気はない。砂漠の神殿に辿り着けたなら、そのまま連れ帰るつもりだ。そのためには共に任務に向かった聖騎士たちや砂漠の神殿でリリアナに仕える者たちを振り切らなければならないが、武術大会に優勝できるだけの剣術は、そこでも役に立つだろう。 「期待に沿えず申し訳ないが、そこまではできない」  アシュレイの告げた事実は、輝きを取り戻したエアの瞳を再び陰らせた。 「なっ……」 「砂漠の神殿への道は森の神殿への道よりも険しい。それ故に、いくら武術大会に優勝したとは言え、新人の君に任せる事はできない。砂漠の神殿への輸送は長年聖騎士団に所属する者に隊長を任せ、武術大会の優勝によって新たに隊長に昇格した者には、森の神殿への輸送を任せるのが暗黙の了解となっている」 「……それじゃあ、意味がない」 「ところが、そうでもない」  アシュレイはテーブルの上を滑らせ、二枚の書類をエアの前に広げた。  一枚目は任命書だ。来月の頭付けでエアを第十八小隊長に任命する事が記されたそれの最後には、嫌味なほど流麗な筆跡で聖騎士団長の署名が入っている。  もう一枚は命令書。第十八小隊を率い、森の神殿への輸送任務を遂行するようにと指示が記され、こちらもやはりアシュレイの署名が入っていた。 「私は君が国の平穏を保つための被害者である事を知っている。君が世を呪い、神を呪う事は当然と考えるし、君が結果として国の崩壊に繋がる望みを抱いている事も仕方がない事だと考える。だから君を責めるつもりはないと先に言い訳をしておこう」 「前置きが長い」 「そうだな。では聞くが、君は、君とリリアナ様以外の人間が背負った運命について、考えた事があるだろうか。君たちと同じだけの苦しみを知る者たちの存在に、気付いているだろうか」  エアは眉をぴくりと動かした。口元に置いた手が強く拳を握り、喉まで出かかった言葉を口内で押さえ込む。 「自身の不幸に酔うなと言いたいわけではない。ただの事実だ。そのくらいの事は判るだろう?」  エアは無言で肯こうとしたが、首は動かず、代わりにゆっくりと目を伏せた。  地上の女神と呼ばれる存在は、ふたり。砂漠と森にひとりずつ。  言われるまでもない、当たり前の事だった。それでも、今まで気付かなかった。エアは自身を愚かだと思ったが、反省する気や笑い飛ばす気にはならなかった。 「この国には、森の神殿への道を知りたがっている者が居る」  エアは乾いた笑みを浮かべた。 「忘れる事ができなかった、哀れな男か」 「そうだ。だが、忘れられなかったからこそ、君の望みは断たれなかったのだ、エア」 「……どう言う事だ」 「その人物はかつて輸送隊を率いる任務を果たした事があり、砂漠の神殿への道を知っている」  反射的に、エアは両目を見開いた。今度こそ、アシュレイが言わんとすべき事を知り、エアに残された道を理解するに至ったからだ。 「交換条件、か」 「多少遠回りになるが、他に道はない」 「そうみたいだな」 「奇跡を強いた私に、感謝する気になったか?」  得意げに微笑むアシュレイを喜ばせる返事をする気にはなれず、エアは二枚の書類を手に取ると席を立った。  リリアナを失った事を嘆いているだけでは耐えられず、ならばリリアナを取り返すべく前に進もうと、三年前にエアは誓った。だから、誓いにもとる事のない道を示してくれたアシュレイに、感謝の念がないと言えば嘘になる。  だが、この男にだけは本心を伝える事は許されない。他の誰でもない、エア自身が許せなかった。 「地図は任務が終わり次第司教様に返還しなければならない。つまり写しを作ってもらう事になるが、その作業を誰かに見られれば、疑いがかかってそこで終わりだ」 「判っている」  そっけない返事だけをそこに残し、エアはアシュレイの部屋を出ようと扉に歩み寄る。  しかしその扉を開けるためには、まだ胸の奥にわだかまりがあった。 「どうした?」 「アシュレイ。ひとつ、聞く」 「……なんだ?」  エアは労わるような手つきで扉に手を置いた。  ひんやりと冷たい温度が手のひらに伝わり、それは三年前にエアを襲った闇を思い起こさせる。 「お前はなぜ、俺を止めない? 俺が望みを叶えれば、大陸の崩壊がはじまるかもしれないと知っていて」  アシュレイからの返事はすぐに来なかった。  部屋の中に訪れた沈黙は、問いかけた事を後悔させるほどに冷たかったが、エアはその場を逃げ出さずに答えを待った。 「そうだな。君の知らないふたつの事柄を、私が知っているからだろう」  思わせぶりにそう言ったきり、アシュレイは再び沈黙した。  しばらくは扉を見つめたまま待っていたエアだったが、沈黙の長さに待ちきれず、振り返る。  アシュレイはエアを見ていなかった。エアとは反対側にある窓の方に視線を向け、目を細めながら夜空に輝きはじめた星を眺めていた。 「ひとつは、君がリリアナ様を連れて逃げたとしても、大陸が崩壊しないであろう事」  語られた予想外の事実に驚き、エアは息を飲んだ。それは、エアからリリアナを奪った人物が言って良い事ではなかったからだ。  ならばなぜ、エアからリリアナを奪った? 「ああ、勘違いしないでほしい。女神が必要ないと言っているわけではないのだ。女神が祈りを捧げなければ魔獣は復活し、神の恵みも、生きる大地も、命すらも、私たちは全てを失うだろう」 「ならば」 「だが、二百年ほど前にこういった事例がある。司教様がエイドルードよりお告げを受け、聖騎士団は新たな森の女神ランディア様を探したが、一年ほど見つからなかったのだ。しかし大陸は崩壊しなかった。それまでミルラ平原と呼ばれていた地が裂け、ミルラ峡谷と呼ばれるようになったが」 「それは大事じゃないのか」 「もちろん大事だ。だから君が今すぐリリアナ様を取り戻そうとするのならば、私は止めるだろう。もう少し待ってほしいと願うだろう。君も、リリアナ様と共に生きる世界を失いたくはないだろう?」  そこまで言われては、エアも素直に肯くしかなかった。  アシュレイの語る真実は、女神の祈りがなくとも平和の崩壊がすぐにはじまるわけではないとエアに教えてくれた。だがそれと共に、女神の存在はやはり魔獣を封印するために必要不可欠なものだとも教えてくれたのだ。  世界が果てしなく広いと言う真実を言葉でしか知らず、自分たちが暮らす農村とそこから見える山や森だけが世界の全てであったリリアナが、今は何と重いものを背負っているのだろう。それを思うと胸が軋み、アシュレイの目さえなければその場に崩れ落ちたいほどだった。 「もうひとつは、なんだ」  恐怖でも高揚でも嘆きでもなく、なぜか震える体を抑え、エアは問うた。  アシュレイは眼差しを細める。引き締めた唇は、エアと同様に震えを抑えているようだった。 「任期を終えた女神は、けして生還しない事」  エアは返す言葉もなく、無言で立ちつくした。 「五年の任期を終えて帰ってくるならば、私は君に『忘れるといい』とは言わなかっただろう。こんな事に協力しようとも考えなかっただろう。彼女を想う気持ちが本当ならば五年待てと、それだけを君に強いたはずだ」 「どうなるんだ。任期を終えた女神は」 「私が知る限りは全員、骨になって帰ってきた」  アシュレイは細めた目を伏せ、それまでけして歪める事のなかった端正な顔に深い苦悩を刻み、静かにため息を吐いた。腹の中に眠らせていた闇を、静かに搾り出すかのようだ。  だがエアは、アシュレイが吐き出した闇の中から感じとれる強い嘆きや罪の意識に、同調する気にはならなかった。 「なぜ、それを早く言ってくれなかった。もし俺が、忘れる事を選んでいたら」  独白のように言葉を漏らすと、アシュレイは目を開けてエアを見上げる。  エアがもしも、リリアナを忘れていたら。奇跡を起こせないと諦めて、ここに立っていなかったら、リリアナは。 「強い熱意と覚悟を見たかった。彼女のためでなく、自分の願いのために奇跡を起こそうとする意思を。誇るといい、エア。君は神と対峙する権利を得た」  エアは怒鳴りつけてやろうと口を開けて息を吸ったが、それをせずに乱暴に扉を開けた。  逃げるように部屋を出、乱暴に扉をしめると、半ば駆け足で通路を進む。  頼りない蝋燭に僅かに照らされただけの、暗い道を。 二章 森の神殿へ 1  突き当たりの扉にはめられたプレートには、アシュレイ・セルダの名が刻まれている。  だが、扉の向こうにその名の主は居ないだろう。夜も更け日付が変わってからしばらく過ぎたこの時分、勤務を続けているのは夜警を任された者たちがほとんどで、聖騎士団の頂点に立つ男にはそのような役目が下されるわけもない。  人目を忍び、足音を殺してここまでやってきた男は、蝋燭の炎に照らされる団長の名前を横目に、突き当りよりひとつ手前の扉に手をかけた。その扉にもやはりプレートがはまっており、こちらにはロメール・イルタスとの名が刻まれている。この聖騎士団において、アシュレイ・セルダに次ぐ地位を持つ人物だ。  男は扉を叩く事も声をかける事もせず静かに扉を開け、暗い通路よりもなお濃い闇の中でぽつりと輝く蝋燭に、視線を落とした。  蝋燭一本だけでは、広い部屋を照らし出すには明らかに光量が不足している。足元は未だ暗いままで、部屋の構造や家具の配置を詳しく知らない男は、不安を覚えながら歩むしかなかった。唯一頼りになるのは、蝋燭の向こうにぼんやりと浮かび上がる人影のみだ。  慎重に一歩ずつ、手探りで、足を擦るようにして、男は人影へと近付いて行った。蝋燭の灯りが自身の顔を照らすようになって、ようやく男は足を止める。寒々しい闇の中で、僅かに感じる炎の熱は、身を焦がす熱にも感じられた。 「お呼びですか」  一礼してから問いかけると、人影は無言で肯いた。僅かに身じろぎし、影は男に背中を向ける。 「来月出立となる森の神殿への物資輸送任務の件だが」 「はい」 「隊長であるエア・リーンと、彼が率いる第十八番隊の中から三名が選ばれた。その中にお前の名も入っている」  振り返った影は叩きつけるように、自らの手と羊皮紙を机に置いた。  揺らめく橙色の灯りは、歳を重ねた男の手と、その下に刻まれた文字を照らし出す。補給任務に関する命令書には、堅苦しくかつ簡素な文章の下、四名の名前が記されていた。  その中に、隊長であるエア・リーンと自分の名前を確認した男は、ゆっくりと顔を上げる。闇の中に浮かぶ影の表情は見えないが、視線が交錯したような気がした。 「約二ヶ月ほどの行程となるが、その間、エア・リーンの監視を怠らぬよう心がけよ」  男は静かに息を飲んだ。炎に炙られ熱を持った空気に、胸を内側から焼かれる感覚がした。 「エア・リーン隊長に、何か不審な点がございましたか」 「逆に聞こう。数ヶ月間部下として過ごす間、何かしら気付いた点は無かったか?」  男は命令書を指先で撫でながら、闇の中に視線を投げた。  今年入団したばかりのエア・リーンが武術大会で優勝し、隊長に任命されたのは今から四ヶ月ほど前の事で、その間特別な任務は無く――輸送任務への準備期間のようなものであったので――大神殿の警備や訓練の中でのみ時間を共にした。その短い時間で男がエア・リーンに対して抱いた印象は、「少々口下手な所はあれど面倒見の良い人物」と言ったところだ。  彼に剣技の稽古を受けて、みな一様に腕を上げた。真面目だが歳若い事もあってか部下に息苦しさを与えるほどではないし、出自のせいか突然の出世に気取る事もない。逆にこちらに気を使っているのではないかと思うふしもあるほどだ。  良い上司を得たと同僚たちが話しているのを幾度か聞いた事もある。男も同僚たちに同意しており、不審に思った事など一度としてない。 「特にありませんが」 「そうか」  影の指は不機嫌そうに机を叩いた。爪と木が奏でる音は、闇色に染まる部屋の中に響き渡る。 「杞憂であれば良いのだが……気になる点があるのだ」 「ライラ様に関わる件、でしょうか?」  影は重苦しく肯いて男に応えた。 「エア・リーンの出身はレータ村となっている。調べさせたところ、確かにエアと言う名の農夫が三年半ほど前までレータ村に居た事になっている。だが」  影は一息置いてから続けた。 「ギィ村を知っているな?」 「リリアナ様ご生誕の地――リリアナ様が砂漠の女神に選ばれるまで過ごされていた地ですね。聖騎士団がリリアナさまのお迎えに上がった際、私も隊の一員として赴きましたので、覚えております」 「実は、そのギィ村からも三年半ほど前、エアと言う名の少年が消えている。少年は、リリアナ様の婚約者だったそうだ」 「まさか……あの少年が?」  蘇る記憶の中から、影が語る少年を探し出す事は容易だった。当時少年の名を聞いたわけでも、婚約者だと説明されたわけでもないが、リリアナが迎えの馬車に乗るまで、いや、馬車が走りはじめてもなお、泣き叫んでいた少年の印象は強く残っている。  少年は生命の全てを声に託し、命を燃やしながら泣いているようだった。許される事ならば駆け寄り、助け起こしてやりたいと思った。馬車を止め、リリアナを彼に返してやりたいと。男だけではなく、あの場に居た全ての者が、一度はそう考えたに違いない。けして許される事ではないために、誰ひとりとして彼を助けようとはしなかったが。  意図的に忘れようとしていた苦い感情が蘇り、男は胸を押さえた。できる限り早くもう一度記憶を封印しようと、記憶の中の少年と直属の上司とを素早く比べ、首を横に振る。  やはり、同一人物とは思えなかった。まだ成長の余地を残した少年であった事を考慮しても、たった三年半でこれほど変われるとは思えない。 「雰囲気も体格もまるで違います。エア・リーン隊長に比べればはるかに小柄でしたし、他の農民たちとまったく差のない、剣も振るった事のないような少年でした。三年半の時間が経過しているとは言え、同一人物とは、とても」 「その少年の顔は覚えているか」  否定の言葉に上乗せされた問いかけに、男は再び記憶を呼び起こす。  泣き叫ぶ少年。声は覚えている。擦り切れそうな叫び声だった。常に静かなエア・リーンからも想像もつかない、感情の強い声だった。  しかし顔は思い出せない。彼の慟哭は痛々しく、振り返る余裕がある限りは、けして目を離せなかったというのに――そもそも、あの泣き叫ぶ少年の顔を、自分は見たのだろうか? 「申し訳ありません。あの少年の顔は思い出せませんが……やはり違うと思います」 「そうか。三年半では、ただの農民を聖騎士団に入れるよう鍛えるに時間が足りなかったのかもしれんな。ならば、無関係な人物を利用しているのか……」 「エア・リーン隊長が関っている事は、間違いないのですが?」  男は素直な疑問を口にした。 「レータ村に、『彼』の手がかかっている事は間違いない」  男は喉を鳴らし、それまで羊皮紙に触れていた手で己の唇を撫でた。  闇の向こう、窓の向こうから、強い風の泣き声がする。風は深い闇と共に、男の不安をかきたてた。 「リリアナ様の元婚約者の経歴を査証するためかと考えたが、確かに無理がありすぎるかもしれんな。本当に誤魔化す気があるのならば、出身地だけではなく名前も変えるか」 「そう思います。ですが、おっしゃる事は了解いたしました。隊長の動向にはできるかぎり注意いたします」 「頼んだぞ。これは大陸の未来のためなのだ。そして――」  男は肯いた。みなまで言われなくとも、判りきっている事だった。  深く礼をし、影に背を向ける。闇に慣れはじめた目で扉までの道を迷わず辿り、扉を開いた。  往路では薄暗かったはずの蝋燭の明かりが、不思議と眩しい。男は目を細め、再び足音を殺し、道を進む。  胸元で作った拳に、自然と力が篭った。 2  一昨日一日中振り続いた雨が未だ残っているのか、それともこの地方が元よりみずみずしいのか。  幌付き馬車の荷台に腰を下ろしたエアは、自身が乗る馬車が渇きを知らない柔らかな土に残していく轍を見送りながら、静かにため息を漏らしていた。  エアは轍が嫌いだった。終わりが見えないほど長く続く轍は、リリアナが奪われた日の事を嫌でも思い起こさせたからだ。  しかし、リリアナを取り戻せるかもしれないと判った今では、眺めていても以前ほど辛くはない。自分たちが進んで来た道の長さ、帰るための道の長さを思い知らされ、億劫になっているだけだ。  長い道のりだった。エアたちが王都セルナーンを発って、すでにひと月余りが過ぎている。旅は順調で、目的地にほど近い所まで来ているが、まだ片道。帰りも同じだけの時間がかかるのだ。それを思うと、ため息は自然と漏れていた――むろん、自身の目的やリリアナの事を思えば、この任務を投げ出す気も嘆く気も起こらないのだが。  通り過ぎる景色の変わり映えの無さに辟易したエアは、静かに目を伏せた。  視覚を閉じると、優しく身を包む風の流れや、噎せ返るような草の香り、車輪が回る音が、より強く感じられる。それら全てが単調で、目を閉じたところで退屈から救われる訳ではないのだと思い知ったエアは、ゆっくりと目を開けた。と、ほぼ同時に、片側の車輪が土の柔らかさに取られて余分に沈んだ。  馬車が僅かに傾き、崩れかけた体勢を保とうと腕を張ったエアの背後では、積んだ荷物同士がぶつかる音がした。それから、女神たちに届ける予定の物資が無事か確認する部下の声。梱包してある荷物がこの程度の衝撃で痛むなどとエアには到底思えず、一時は「無駄な事はよせ」と止めようかとも考えたのだが、万が一の事もあるので見守る事にした。  とは言え、荷物がひとつふたつ壊れたところで、大した問題ではない。中身は香油や香水、宝石類と言った、女神の身を飾るものがほとんどで、生活必需品と言えるものは新しい服や食器と言った、ごく僅かなものだけなのだ。その服とて、女神のために織られた上質の絹に、色鮮やかな絹糸で刺繍を施されたと言う高級品であり、生きていくために最低限必要なもの、と言うわけではなさそうだ。  森の神殿や砂漠の神殿は、神の許しのない者を跳ね除けるため、人の領域を超えた過酷な自然の中にある。故にそこで祈る女神や、女神に仕える者たちの生活環境は苛酷なのだろうと、エアは勝手に想像していた。だからこそ重要な任務で、リリアナの奪還に必要か否かを抜かしても、誇らしいかもしれないと思っていたのだ。  しかし、実際のところは全く違うらしい。森、砂漠の両神殿は、「天を頂とする」と伝えられるほどの高い壁に囲われているのだが、苛酷な環境にあるのは壁の外側までで、壁の内側は長閑で快適なのだそうだ。自然災害は皆無の上、神から妻へと贈られた豊かな自然の恵みがあるため、数十人程度ならば問題なく自給自足ができる。森はもちろん、砂漠の神殿でも、飲み水に困る事はない。  だからエアたちが運ぶのは、森では作れないか、作るのに大きな手間がかかるもの、あるいは大都市でしかつくられない高級な嗜好品と言った類なのである。  明らかに失敗したところで人命に関わるような仕事ではない。どうりで、自分のように多少腕が立つだけの新人に任せるわけだ。  エアの胸に湧いた誇りは何処かに消え去ったが、部下たちにとってはそうではないようだった。国の安寧のために生きる女神のために働ける尊い任務だと、必要以上に張り切っているほどだ。  その女神が元は田舎娘――森の女神はどうだかエアは知らないが――で、田舎の農夫と結婚するはずだったと知れば、彼らは驚くのだろうか。それとも失望するのだろうか。 「エア隊長。ディミナ山がもうこんなに近いですよ」  名を呼ばれ、エアは振り返る。背の高い木々の向こうに、雲にも届きそうなディミナ山が聳えていた。  大陸一と言われている高山が視界に入るようになったのは何日も前の事だが、いつの間にここまで迫っていたのか。後方ばかりを見ているのも問題だなと反省したエアは、しかし長い旅の苦労が実った喜びを膨らませる事を優先し、唇に小さく笑みを作る。 「ようやくだな」 「はい。もうすぐ、任務の折り返し地点ですね」 「みんな、慣れない長旅は疲れただろう。この調子ならば夕刻前にはディミナ山の麓の宿場町に着くはずだから、体をよく休めてくれ。明日の昼前には発つ事になるから、ゆっくり……とは言えないがな」 「はい」  心なしか普段よりも力強い返事に肯いて応えると、エアは再び遥か高みのディミナ山を見上げた。 「森の女神ライラ様はどのような方なのでしょうね」  突然言い出したのは、話好きのルスターだった。蜂蜜色の髪が風に揺れ、好奇心に輝く瞳を演出している。  隊長であるエアが新人である事が考慮されたのか、それとも大して難しくない任務だからか、エアが引き連れている部下はエアとさほど年の変わらない者ばかりだった。それでもエアにとっては先輩ばかりなので、部下として使うのは少々気が引けるのだが、同期で年下であるルスターならば少しは気が楽だ。  もっとも気が引けているのはエアだけで、使われる方はあまり気にしていないようだった。農民出の後輩に使われるのは矜持が傷付きやしないかと思うのだが、武術大会の優勝者と言う肩書きは、ここでも力を発揮しているらしい。彼らは全員尊敬の眼差しをエアにそそいでいる。 「気品に満ち溢れた、お美しい方だと聞いているが」 「確か、王都セルナーンの出身のはずです」  エアの言葉に続けたのは、一番古株の青年ジオールだ。  古株とは言ってもまだ入団五年目で、エアより二つ年上なだけだ。彼はさる高名な貴族の息子だと噂で聞いているが、本人が出自について触れられる事を拒否している事から、嫡子ではないだろうと想像するのは容易かった。  少々浅黒い肌や短い黒髪、少々太めでつり上がった眉が、真面目で頑固そうな印象を与え、実際その通りの性格と言う、実に判りやすい男である。 「私が入団してはじめての女神の選出でしたから、よく覚えております。王都セルナーンのライラ様とギィ村のリリアナ様を探せと、全団員に指示がありました。もっともライラ様は次の日には大神殿へ召されておりましたから、捜索の必要はなかったのですが」 「ああ、そう言えば……」  御者台に座る青年、ハリスが呟くように言った。後ろでひとつに縛られた少し長めの髪が、風に揺れている。  入団四年目の彼はエアと同い年で、言動に特に難があるわけでは無いのだが、穏やかな空気を纏った青年だ。鞍や鐙や鞭と言った馬術関連の道具を扱って大きくなった商家の息子であるからか、馬を操るのが一行の中で群を抜いて上手く、御者台に座らされる回数が一番多いのが彼だった。 「噂に聞いた事がありますよ。ライラ様は聖騎士団員の家族で、だから見つかるのが早かったのだと」 「家族?」 「ええ。その聖騎士団員が誰なのか、姉君だったのか妹君だったのかは判りませんが。まあ噂ですから、真実ではないのかもしれませんね」  そうだな、と軽く返しながらも、エアはハリスが聞いた噂はほぼ真実だろうと確信を持っていた。そうでもなければ、危険な取引をエアに持ちかけてはこないだろう。  しかも、砂漠の神殿に派遣される程度に信頼が置かれている人物。大神殿から砂漠の神殿への距離は、森の神殿への距離とほぼ同じとエアは聞いており、これほど長く王都を離れる事から考えるに、少なくとも当時はさほど要職には就いて居なかっただろうと予想ができた。体力的な事を考慮すれば、歳もそれほど上ではないはずだ。  それでいて、森の神殿へ派遣された経験がない者。つまり、武術大会で優勝した経験がない人物。 「家族が女神に……それは、誇らしいのでしょうか。それとも、辛いのでしょうか」  積み上げた荷物に背中を預け、膝を抱えながらルスターは言う。  真剣に悩むその表情に邪気はない。エアの背景を知っているわけでも、疑っているわけでもないのだろう。だが、エアの胸が痛みを訴えるきっかけとなり、エアがルスターを恨む原因となりえた。 「辛いと思う。何よりも近しい存在が手の届かない存在になってしまう事が、悲しくないわけがない」 「自分も同じです」  ハリスにジオールが続く。  ふたりが紡いだのはエアの想いを代弁する言葉であったが、不思議とエアの心は軽くはならなかった。おそらく、彼らの言葉には実感がこもっていないからだろう。 「国を支える存在が自分の家族であると言う事実に、誇りはあるでしょうが……」 「きっと、な」  エアが肯定する言葉をこぼすと、三人は満足そうに微笑んだ。  もちろん嘘だった。エアの中に誇りなど欠片もない。リリアナを失った空虚と、リリアナを奪われた呪いばかりが、エアの中で息衝いている。  だが、真実を吐露せず自然に振舞うには、嘘を吐くのが一番楽だった。  エアがやろうとしている事が気付かれては制止されてしまう。だから、誰にも気付かれてはならないのだ。  自分の目的も、願望も。 3  傾いた陽の明かりを背に浴びながら、町の入り口から伸びる道をしばらく進む。すれ違う者はひとりとして居なかったが、賑やかな笛や太鼓の音、人々の歌声や笑い声が、遠くから風に乗って届いた。  先頭を進むルスターは、振り返りながら「何事でしょうね?」と問うてみたが、上司であるエアも、先輩であるジオールやハリスも、首を傾げるのみで明確な答えを返してはくれない。唯一エアだけが、「悪い様子ではなさそうだな」との、感想を返してくれた。  どうやら現状を理解できないのは、知識不足のせいではないようだ。ルスターは安堵の息を吐きながら、歩みを進めた。  やがて人の姿がまばらに見えはじめる。大陸の果てにほど近い宿場町において、明らかに毛色の違うルスターたちは浮いているのか、ほぼ全員がすれ違いざまに視線を投げかけてきた。 「あれが原因じゃないか?」  居心地の悪さに肩を竦めるルスターの背中を、ハリスが優しく叩く。ルスターは顔を上げ、ハリスの笑顔を確認した後、彼が見つめる先に目を向ける。  ルスターの視界に、町の中心と思わしき賑やかな広場が映った。  そこに居る人々は一様に明るい色の服を着ていた。ある者は歌い、ある者は笛を吹き、ある者は弦楽器を爪弾き、ある者は太鼓を叩いて、明るく騒がしい曲を奏でていた。残りの者たちは、少女たちは黄色の、少年たちは緑、夫婦は青の長いリボンを手首に結び、曲に合わせて軽快な足取りで楽しそうに踊っていた。  よく見てみれば、黄や緑や青のリボンは、町のあちこちに結び付けられていた。広場の中心に立つ高い柱からも同色の布が伸び、複雑に絡みあい、広場中を鮮やかに飾っている。 「やはり、祭のようだな」  エアは静かに呟いた。懐かしいものを見るように目を穏やかに細めて、楽しそうに時を過ごす若者たちを見守りながら。 「祭、ですか」 「おそらくはな。秋の終わりも近いから、収穫祭の名残だろう。青は空、黄色は太陽、緑は大地の実りを象徴しているのではないか」 「よくご存知ですね」 「私の育った村ではそうだった」  なるほど、と頷きながら、ルスターは再び風に舞う三色を眺めた。  鮮やかに踊る三色は幻想的な光景で、ルスターの感情に優しく溶け込んでくる。不思議と楽しい気持ちになり、表情は自然と笑顔に変わってしまった。  ルスターの記憶に最も濃く残る祭と言えば、昨年の夏に王都で行われた国王の生誕五十周年を祝う祭で、それと比べてしまうと規模が小さく質素な祭だが、これはこれで美しく、楽しく、尊いものだと思える。規模が小さいからこそ、心からの感謝や祈りと言った、人の姿が垣間見える気がするのだ。 「ちょうど祭の日に当たるってのは、息抜きには良くても、運が悪かったかもしれませんね」 「そうですか?」 「外から人が集まってくるような祭だと、宿が埋まってしまうだろ? 俺たちが泊まる余地がないかもしれない」 「確かにそうだな。先に行って宿が開いているか確認して来よう」  ハリスの予想に同意したエアは、荷台に乗せていた自身の荷物を担いだ。 「いや、隊長」 「っと、すまない」  ハリスに呼ばれて気付いたエアは、荷物を肩から下ろし、中から小さな袋を取りだす。それから三人の部下たちの顔を順番に見た後、ルスターに向き直った。 「行ってくれるか、ルスター」 「はい!」  ルスターはエアから受け取った財布を両手でしっかりと握り締めた後、懐に忍ばせ、満足げに肯くハリス――なかなか人を使う事に慣れないエアに、「何でもかんでも自分でやらないでください」と注意するのはいつもハリスの役目だった――や「頼んだ」と短く告げるジオールに目で合図してから、三人に背を向けて近くを通り過ぎようとしていた町人に近付く。 「もうひと息ですかね、隊長」 「この程度の事も頼まないとならないか? わざわざ人にやって貰うような事でもないと思うのだが」 「だから、『この程度』で、『わざわざやってもらうような事でもない』からこそ、俺たちがやるんですよ。遠慮なんてしないでくださいね」 「遠慮しているつもりはないのだが」 「じゃあ、ご自分の立場を理解してください」  宿の場所を聞いている間中、エアとハリスのやりとりが背後から聞こえてくる。本人たちは真面目なのかもしれないが、傍で聞いている自分やジオールにとっては面白い会話で、いつも笑いを堪えるのが大変だった。  忍び笑いを飲み込みながら、親切に道を教えてくれた町人に礼を言い、ルスターは人ごみに向けて突き進む。この宿場町は大きいとは言えず、人口もせいぜいが数百人と言ったところだろうが、その数百人が一箇所に集まれば、人の壁が越える事の難しい荒波にも思えた。  はじめは腰が引けたが、ルスターの使命は大げさに言ってしまえば隊長の命令である。先輩たちの期待を背負っていると言えなくもない。慣れない人ごみ程度で挫けるわけにはいかず、ルスターは突進した。  動く余裕もないと言うほどではないのだが、すぐそこの広場で踊っている者たちが居る事も手伝って、人の流れが読めず、前後左右から前触れもなく圧力がかかってくる。体のあちこちをぶつけてしまい、周りの人々に何度も「すみません」と謝りながら歩いていたルスターは、ふと過ぎる悪寒に一瞬足を止めた。  悪寒は、悪い予感とも言い変えられるもので、気のせいだと振り払う前に、ルスターは自身を確認した。あちこちぶつかってはいるが、怪我と言う怪我をしたわけではないし、服が汚れたり破損したりもしていない。荷物は馬車の荷台に置いてきた事を考えると、残りはひとつしかなかった。  さりげなく懐をさぐると、やはりあるべきものがそこにはなかった。  人が大勢集まり、かつ人々の懐具合が温かい祭において、他人の財布を狙う輩が出没する事は知識としてあったが、まさか自分が、しかも仲間たちと離れてすぐに獲物となるとは予想しておらず、ルスターは自身の運の悪さと情けなさに腹が立った。苛立ちに顔が歪んで行く様子が、鏡を見ずとも判る。  慌てて振り返った。財布を失ってからさほど時は経っていない。この人ごみでは、相手もそれほど遠くには逃げられまい。そう考えながら視線を巡らせると、ルスターは自分とさほど年の変わらない少年と目が合った。  少年があからさまに目を反らし、人ごみをかきわけようと慌てて動き出すのを見て、ルスターは彼を追う。人の波の越える術は少年の方が心得ているようで、じわじわと距離が開いていった。  先に人ごみを抜けた少年が、地面を蹴って走りだす。続いてルスターの身が解放された時、少年の影はすでに遥か前方へと走り去り――隊長であるエアの横を通りすぎようとしていた。 「エア隊長!」  叫ぶと、エアは即座にルスターに振り返った。ルスターが言葉を続ける前に、ルスターが指し示す方向へと視線を送り、察してくれたようだ。荷台に戻そうとした荷物をジオールに放り投げ、「それでルスターの代わりに頼む!」と簡素な指示を出し、ハリスの名を呼ぶ。  ハリスは肯いて返し、ルスターに振り返った。 「こいつを頼んだ!」  一ヶ月余の旅の間に愛着を抱いた馬の手綱を手放し、ハリスはエアの後を走り出した。  少年との距離やふたりの足の速さを鑑みれば、すぐに追いつく事だろう。安堵したルスターは、馬に駆け寄って手綱を取るとしゃがみこみ、深く息を吐いた。 「何をしている」  ジオールの口調はルスターを責め立てるものではなかったが、それが余計に辛く、ルスターは硬く目を伏せる。 「すみません。油断していたつもりは無かったんですが……もし捕まえられなかったら、帰りの路銀がなくなっちゃいますよね。どうしましょう」 「隊長とハリスに追われて逃げられる者がそう居るとは思えんが、仮にあの財布を失ったとしても、何とかなるだろう。それぞれ個人の財布は残っているのだし、先ほどの隊長の口ぶりから察するに、元々路銀を複数に分けておられたようだ」 「そうなんですか?」 「この荷物を投げてよこして『ルスターの代わりに頼む』とおっしゃったのは、そう言う事だろう」  ジオールは「失礼します」と呟いてから、エアの荷物を開けた。本人が居ないのだから言ったところで意味はなさそうだが、それでも礼を尽くすところが彼らしい、とルスターは思う。  あまり中を見たり漁ったりしては失礼だと思っているのだろう、慎重に探るジオールを見上げたルスターは、やがてジオールの表情に困惑が浮かび、探る手の動きが大きくなっていく事に気が付いた。 「どうしたんです?」 「それらしいものが見つからない」  ジオールが渋い顔をして言った。  ルスターは立ち上がり、ジオールの手の中にある荷物を探ってみる。着替え、剣の手入れをするための道具、羊皮紙などの筆記用具など、基本的な旅の道具が小さくまとめられているだけで、確かに財布のようなものは見つからない。 「もうひとつの財布も取られたとか、ですかね」 「まさか。隊長に限ってそれはないだろう」 「すみません」 「いや、そう言う意味では……こちらこそすまない」  ジオールは気まずそうにルスターから目を反らし、エアの荷物の口を閉じると、荷台の上に戻した。  ルスターはジオールに気付かれないよう、小さく笑った。ジオールに悪気がない事は判っていたし、悪気があったとしても、ルスターが間抜けだった事実は否定できない。だから彼が気にやむ必要などないのだが、やはり真面目なのだろう。 「エア隊長って、家族とか恋人とか居ないんでしょうか」  話を反らそうと、ルスターは思い付いた事を口にした。 「突然どうした」 「いえ、エア隊長の荷物の中に入ってた羊皮紙、あれって宿舎の近くの雑貨屋で五枚まとめて売ってるやつですよね。それなのに一枚も減っていなかったので」 「何束か持ってきていて、きりのいい所まで使い切った、と言う事では?」 「でも、相部屋になった時とか、隊長が手紙を書いている所なんて一度も見た事ないんですよ。ジオールさんはあります?」 「言われてみれば確かに、ない」  ジオールは納得した表情を見せた。 「私たちは故郷が王都やその周辺であるから、故郷に向かう商人などを見つけて手紙を託す事は容易いが、隊長の場合は簡単にはいかないのだろう。そう言う事情もあっての事かもしれんぞ」 「ああ、そうか。そうかもしれないですね」  ジオールは肯いて、彼自身の荷物を手繰り寄せる。中から自分の財布を取り出すと、それをしっかりとしまい込み、服の上から確かめるように手をおいた。 「とりあえず自分の金で宿を取ってくる。隊長たちの方が早く帰ってきたら、そう伝えておいてくれ」 「はい、判りました。よろしくお願いします」  去りゆく背中が人ごみの中に消えるまで見送ってから、ルスターはようやく気が付いた。気まずい空気をごまかすために選んだ話題が、間違っていた事に。  ジオールは自分の事をあまり語りたがらない。そんな彼が、上司の事情を探るような事を好むわけがないのだ。 「失敗だらけだな……」  共に残された馬の顔を撫でた後、紅く染まりはじめた空を見上げ、ルスターはひとりごちた。上司が、同僚が戻ってきた時に紡ぐべき、謝罪の言葉を模索しながら。 4  前を走る少年がちらりと後を覗き見た。後を追うふたりの男との距離が若干縮んでいる事に気付いたようで、前方に向き直ると同時に急な方向転換をした。  持久力や体力は圧倒的に自分たちの方に分がありそうだが、代わりに少年には地の利がある。このまま追い続ける事ができれば、いずれは体力を失った少年を捉える事ができるだろうが、地元民しか判らないような複雑な道に逃げ込まれては撒かれる可能性が高い――持久戦よりも短期決戦が吉と見たハリスは意を決し、一度斜め前を走っていたエアに並び、軽く手を上げて合図してから、少年が曲がった角よりもひとつ手前の角を曲がった。  離れていく気配に、エアがためらう事なく少年と同じ道を進んだ事を知ったハリスは、自分が進む道が少年の走る道に繋がる事を祈りながら、次の角を曲がった。  祈りは神に通じたのかもしれない。上手く挟み込めないまでも、影や足音を捉えて動揺を誘えればと企んでいたハリスの目に映ったのは、こちらに向かって走ってくる少年の姿だった。  彼も自分に地の利がある事は判っていたのだろう。知り尽くした道を複雑に出入りし、後方からの追っ手の目を眩ませようとしたのだろうが、残念な事に曲がるべき角を間違えた。運が悪かったのだ。 「なんでっ……!」  ハリスが前方に居る事に戸惑った少年は、悪態を吐きながら一瞬足を止め、後方に振り返る。その瞬間、角を曲がってきたエアが姿を現した。  少年は意を決した様子で、ハリスに突進してきた。エアかハリスのどちらを相手にするかと言う二択を急に迫られ、正しくハリスを選べた事は褒めてやるべきかもしれないが、ハリスとて聖騎士団の厳しい試験を通り、この四年間鍛錬を怠らなった人間である。地方都市のこそ泥程度にやられるような腕ではなかった。  駆け寄ってきた少年は、ハリスの右を通り過ぎる振りをして、ハリスの前に着いた足を軸にし、急に方向転換する。しかしハリスは騙されなかった。左を通り過ぎようとする少年の腕を掴み、足を引っ掛け、地面の上に引き倒す。  素早く少年の両手首を取り、背中を押さえつけた。少年は力の限り暴れてハリスの手を逃れようとするが、力の入れにくい体勢にしているし、元より力でもハリスの方が上である。少年にできる事と言えば、土埃を立てるだけだった。その土埃の被害を受けるのは主に少年で、咳き込むのも彼ひとりだ。 「大丈夫か」 「俺の事ですか? それとも、この子の事ですか?」 「……両方だな」 「俺は何の問題もありませんが、この子はちょっと苦しそうですね」 「誰が苦しくしてるんだよ!」  頭上で交わされる暢気な会話に苛立ったのか、少年が怒鳴った。埃を吸い込んでしまったのか、再び噎せはじめる。 「長旅で疲れていて早く宿に入ってのんびりしたいと思ってる俺たちを無理やり追いかけっこに巻き込んだお前が文句を言うな」 「お前らが勝手に追いかけてきたんだろ!」 「元はと言えばお前がルスターの持っていた財布をすったのが悪いんじゃないのか」 「しょ、証拠でもあんのかよ」  あくまでも強気を貫く少年の姿勢は清々しくもあったが、押さえつけられた状態で暴れたせいか、懐からエアの財布が半分覗いている。ハリスはそれをつまみ上げ、少年の目の前にちらつかせた。 「俺たちのものだって証拠が欲しいなら、いくら入っているか当ててやろうか?」  さすがの少年も言葉を失った。ハリスは勝ち誇った笑みを浮かべ、財布を手の中で弄んだ後、エアに投げ渡した。  エアは自分のものである事、減っていない事を確認すると、頷いて自身の懐にしまいこむ。 「隊長。こいつ、どうします」 「さて、どうするかな。官憲に突き出すが無難なのだろうが」  言って、エアは少年の前に膝を着く。それまでハリスを睨み続けていた少年は、鋭い眼差しを向ける相手をエアに変えた。 「すった相手にすぐに気付かれる程度の腕と言う事は、素人同然だな」  ハリスは、言葉を失ってエアから目を反らす少年の襟首を掴み、引き起こす。地面の上に座らせ、背中を少し強めに叩いた。 「隊長が聞いているだろう。答えろ」 「悪かったな。初めてだよ。明らかによそ者で、とろくさそうな奴狙ったってのに、意外とカンが良くて失敗したよ」  ハリスは苦笑した。後輩の事を「とろくさそう」となどと言われては否定したいところだが、上司に託された財布を直後に盗られてしまった事を思うと、否定の言葉は紡ぎ難い。  しかもルスターは普段から、「素直すぎる」「注意力が足りない」等性格面の問題点を指摘される事が良くある少年だった。彼がこの任務に選ばれたのも、剣技・礼儀作法・語学・学問全般などの能力はけして悪くないのだから、王都の外の世界を見たり、冷静なエアや真面目でもの静かなジオールと共に行動したりする事で、性格面の改善を期待しての事だろうとハリスは読んでいる。  その試みは上手くいっていると言えるだろう。根が素直な少年であるから、周囲の影響を受けやすい。旅立つ前の彼ならば、財布をすられた事にも気付けなかったかもしれない。 「ああ見えて、彼は剣の達人だ。こうしてお前を易々と捕らえた俺だって三本中一本は取られる」 「嘘吐け!」 「嘘じゃない。聖騎士団の昨年の新人の中でも、優秀な方なんだ」 「聖……騎士団?」  訝しげに聞き返す少年に、エアは首から下げていた銀のメダルを服の下から取り出した。天と地を繋ぐ剣の柄に空色の宝石が埋め込まれたそれは、聖騎士団の中でも隊長格の者に与えられる聖印だ。  施された図案の意味を知らずとも、空と空色の宝石を同時に使用すればエイドルードを意味する事くらいは、この地に生きるものならば誰でも知っている。少年も誰を敵に回したか理解したらしく、息を飲んでから喉を鳴らした。斜め後ろから見るハリスにも、緊張に口元がゆがんでいる事がはっきりと見て取れた。 「金が、欲しかったんだよ」 「どうしてだ」 「生活費に決まってんだろ! あんたたちみたいな坊ちゃんには判らないだろうけどな、食ってくには働かないとなんねーんだよ!」  少年の言葉にハリスは反論できなかった。ハリスは少年の言う通り、それなりに裕福な商家に生まれ、それなりの贅沢を知って育った「坊ちゃん」だからだ。十を過ぎた頃、成人して家を継ぐために仕事を手伝うようになった兄の背中を眺めながら、自分の将来を模索した結果、聖騎士団に入る道を選んだ。運か実力か、成人する直前に入団でき、充分な給金を貰っているので、生まれてから今日まで金に困った事など一度もない。  ハリスはエアを見た。エアは目を伏せ、静かに息を吐いている。その顔に表情は浮かんでいない。 「人の財布を盗る事が仕事か。楽に儲けられそうだな。私は以前生活のために、朝早く起きて夕方まで畑仕事をしていた事があるが、なかなか大変な上、金銭的な余裕はほとんどなかった。お前のように知恵を回せば良かったな」  痛烈な嫌味に、少年が顔を顰める。エアはそれに気付かず――いや、気付かないふりをしているだけかもしれない――財布の紐を開け、中から一枚の金貨を取り出し、少年の前に投げた。 「何だよ、これ」 「生活費に困窮する辛さは判らんわけではない。可哀相だから恵んでやろうと思ったのだが」 「っざけんな!」  エアに掴みかからん勢いで立ち上がろうとする少年を、ハリスは力尽くで押さえつける。横目で覗くと、エアは表情ひとつ変えず、少年を見下ろしていた。 「どうして怒る。お前が欲しがっていたものだろう」 「恵んでくれなんて頼んでねえだろ!」 「だから、奪うのか。これからも奪い続けるのか。お前の下手な腕に気付かないような、弱者から」  ハリスの手を逃れた少年の左腕は、エアに向けて振り上げられたまま硬直した。 「『仕方がない』などと言えると思うな。たとえお前自身が弱者であったとしても、本当に他に道が無いかを考え、実行し、それでも駄目だった時以外に使ったところで意味の無い安い言葉だ――ハリス、放してやれ」  頷き、ハリスは少年から手を放す。  少年は俯き、膝の上で拳を震わせていた。エアに何かをぶつけたくとも、何の言葉も浮かんでこないと言った様子だ。 「『仕方がない』からこれからも犯罪を続けると言うのならば、今度こそ官憲に突き出してやる。覚悟をして臨むのだな」  それだけを残し、エアは静かに歩きはじめる。ハリスが走ってきた道を辿り、ルスターの元へ戻るために。  ハリスはエアの背を追いかけながら、一度だけ振り返る。悔しげに瞳を潤ませながら、けして涙はこぼさずに、落とされたままの金貨を睨みつけている少年を。 「たいちょ――」 「一応断っておくが、あの金貨は経費から出すつもりはない。後で補填しておく。自分の財布には細かい金しか入っていなくてな」 「そんな事で隊長を疑ってませんよ。それより、あの子、許してあげるんですか?」 「許しているように見えるのか」  刺々しい口調と視線で言われても、ハリスは恐ろしいとは思えず、小さく笑ってしまった。 「ははっ、確かに。成人してるかどうかも判らない少年相手に、大人気ない苛め方しているようにも見えますね。でも彼は、救われると思いますよ」  睨み付けるような視線が、一気に和らいだ。優しくなったと言うわけではなく、呆気にとられた様子だ。  何を驚いているのだろう。この程度の真意に気付けないほど鈍いと思われていたのだろうか。だとしたら少し悲しい事だ。 「初犯って言うのに嘘は無さそうですし、意地もありそうですから本当に行き詰らない限り次も無さそうですし、あれで良いんじゃないかと俺も思います。仕事の世話までしてやるのはどうかと思いますしね。ただ最初の嫌味は本気だと思ったので、つい変な事聞いてしまいました。すみません」 「何の事だ。私は、大人気なく苛めただけだぞ」 「またまた」  ハリスは笑ってみたが、エアは唇を硬く引き結び、応えてはくれなかった。不愉快そうに見えたが、腹を立てている対象は少年でも、ハリスでもない、別のもののように見え、あるいはエア自身に対してなのかもしれないと、ハリスは漠然と感じ取った。  同時に不可解な人だとも思った。奪われた財布は取り返し、道を誤りかけた少年に漠然ととは言え正しい道を示した自身の一体どこに苛立てると言うのだろう。 「隊長に救われたのは、あの少年だけではないですよ。あの少年を捉えるために真っ先に走り出した隊長の背中に、ルスターだって救われてます。細かい事を言えば、俺だって隊長に稽古を付けてもらうようになってから腕が上がりましてね……」 「判ったから、黙れ」 「何が判ったんです?」 「お前は要注意人物だと言う事がだ」 「こんなに善良な人間に向かって、酷い事言いますね」  今度こそエアは完全に黙り込み、返事をくれなかった。  ハリスは肩を竦め、エアには聞こえないよう「難しい人だな」と呟いて、自身も無言を貫いた。馬車と共に残されたルスターの元に辿り着くまで。  馬の背を撫でながら、ルスターはひとつため息を落とす。失態を犯したのは事実だが、生命の危機に陥った訳でもあるまいに、端正な横顔には強い悲壮感がにじみ出ている。元々大柄ではない少年の背中はいつも以上に小さく見え、話を聞く限り安穏としていた彼の十六年の人生の中で、最大の絶望が今なのかもしれない、とハリスは察した。  弱々しく丸まった背を軽く叩き、振り返ったルスターに微笑みかけてみる。多少なりとも力付けられないかと思っての事だが、あまり効力はなさそうだった。 「どうでした?」 「隊長と俺が追いかけて、捕まえられないわけがないだろう?」 「では――」  エアがルスターに見えるように財布を掲げる。ルスターは安堵に胸を撫で下ろした後、手綱をハリスに託してエアの前に進み、深く頭を垂れた。 「申し訳ありませんでした。隊長からお預かりした財布を奪われるなどと」 「無事に返ってきたのだから問題はない。他のふたりに頼んだからと言って結果が変わっていたか判らんしな。だが、次からはもう少し注意を払うように」 「……はい」  会話は途切れるが、ルスターは顔を上げようとしない。  これ以上叱る気も責める気も無いエアは、ルスターの背を見下ろしながら薄く唇を開く。だが、言葉は出てこない。かける言葉を探し出そうとして、焦っているのだろう。  ハリスはルスターの肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。困惑を色濃く浮かべた瞳が、ハリスを責め立てるように見上げてくる。 「じゃあ、今日の夕食はルスターの奢りと言う事で。遠慮なく腹一杯食べて飲みましょう」 「えっ」 「任務中の飲酒は禁止だぞ、ハリス」 「……宿に入って休んでいる時も任務中に含めますか。隊長は硬すぎますよ」  ハリスの長いため息に被さるように、ルスターの笑い声が漏れた。ルスターはすぐに口を押さえて笑い声を飲み込んだが、エアやハリスが笑みを浮かべている事が判ると、再び笑い出した。  エアが視線をハリスに移し、軽く会釈する。音を出さずに唇が「助かった」と模った。満たされた気になったハリスは、満面の笑みで返した。 「そうでした、隊長。隊長はジオールさんに荷物を預けておられましたが、財布のようなものが見つかりませんでしたので、とりあえずはジオールさんが立て替えておくとの事です」 「ああ、そうだったな。ジオールには悪い事をした」 「そちらも盗まれたと言う事では、無いのですよね……?」  信頼と疑惑を半々ずつ秘めた瞳が、エアに問いを投げかけた。 「心配するな。万が一財布を失った時の事を考えて、出立前に忍ばせておいたのだ。誰にも言ってなかったのだから、判るわけがなかったな」  ハリスはエアの荷物に近付いて、興味深く覗き込んだ。 「忍ばせておいたって、この何の変哲もない荷袋のどこにです」 「底にだ。少し仕掛けをしてな」 「……変なところに凝ると言うか、用心深いですね、隊長は」 「褒められていると思っておこう」 「もちろん、褒めてますとも――と」  眉間に皺を寄せたエアの向こうに、近付いてくるジオールの姿が見える。ハリスが手を振ると、エアとルスターも振り返った。  どうやら宿は無事に取れたようだ。妙に疲れた一日だったが、これでようやく休める。  安堵したハリスは馬のたてがみを撫でながら、寝台でゆっくり眠る事を夢見た。 三章 女神ライラ 1  その日、ディナス・オリンストが街外れの墓地に足を向けたのは、ただの偶然だった。たまの休みに何をしようかと前日から考え続け、「そう言えば最近は母の墓参りに行っていなかったな」と思い出したのだ。  秋の終わりが近付き、朝晩は随分冷え込む日々が続いているが、この日はあまり寒いとは思わなかった。冷たい風はゆるやかであったし、空にはほとんど雲が浮かばず、暖かな陽光が惜しみなく降りそそいでいたからだろう。母との再会に相応しい日かもしれないと、ディナスは朝早く家を出た。  母が病気で命を落としたのは、今から十年ほど前になる。それから数年は足しげく墓参りに通っていたものだが、出世と共に「忙しい」を言い訳にするようになってしまった。聖騎士になるために家を出た自分が行かなくとも、家族の誰かが行ってくれる、と言う甘えがあったのかもしれない。  久方ぶりに訪れた母の墓は、寂しいものだった。元々墓場など寂しいものだが、それが理由ではない。墓前に添えられた花が、すでに色を失っていたからだ。  滅多に足を運ばないのはディナスだけではなく、父や兄も同様らしい。商売に追われている彼らは自分以上に忙しいのだろうと想像したディナスは、心の中で父たちを責める事はせず、「親不幸ですみません」と母に謝りながら苦笑した後、「今度からもう少し頻繁に来るようにします」と付け足した。  以前は――四年前までは、こうではなかった。頻繁に、丁寧に手入れされた母の墓は、同様の聖十字が立ち並ぶ中で、輝いて見えるほどだったのだ。  失われたもうひとりの家族を思い、ディナスは唇を噛む。痛みは胸中を巣食う虚しさを、少しだけ和らげてくれる気がした。  深く息を吸い、聖十字の前に跪く。母のために祈る前に首を振り、安らかな眠りを妨げかねない暗い感情を振り切った。  墓に新たな花を添え、長い祈りを捧げると、緩やかな風が優しくディナスを撫でる。  風の温もりは、幼き日の思い出の中にある母の柔らかな手に似ていて、親不幸な息子が訪れた事に母が喜んでくれているのかもしれないと、少しだけ楽な気持ちになった。 「また、来ます」  再会の約束を残し、ディナスは踵を返す。石造りの聖十字の中に、奥深い黒を見つけたのはその時だった。  黒髪の青年は、無数の聖十字の中から選ばれた聖十字の前に跪き、目を伏せ、静かに祈り続けている。緩やかな風が吹くと、青年の少し長めの黒髪が揺れ、青年自身の輪郭を撫でたが、神聖な祈りは途切れる事はなく、青年をとりまく静謐な空気に変化は現れなかった。  まるで神像だ、とディナスは思った。永遠に美しく、永遠に変わらない、世界の至宝のようだと。  違うと言う事は知っていた。青年の美は永遠ではない――それ以前に、はじめから美しい存在ではないのかもしれない。  風が再び強まった頃、青年は目を開けた。細めた眼差しが聖十字に向ける愛情は、痛々しいほど悲しい。  青年は聖十字に何かを囁くと立ち上がり、顔を真上に向け、高くに広がる空を見上げる。紫水晶の瞳が抱く感情は、先ほどまでとはまるで違う、鋭いものに変わっていた。  憎悪だと気付くまでに、さほど時間を必要とはしなかった。彼の眼差しを見れば、事情を知らない者でも判るだろうが、ディナスは知っていたのだ。彼が聖十字に注ぐ愛情と、空に向ける憎悪の理由を。  ディナスは硬く目を伏せた。青年と空と聖十字を闇の中に飲み込み、胸の内で渦巻く感情の整理をしようとした。  自分も青年と同じ想いを知っている。彼と同じように、憎悪を宿らせた瞳で空を見上げる権利を持っている。だが、自分も青年と同じように、愛情を盾に空を恨むべきなのか、答えを出せずにいた。  いや、気付いていないふりをしているだけで、答えはすでに出ているのかもしれない。世界を敵に回そうとする青年に嫌悪を抱かず、同種としての哀れみを覚え、彼の非常識な願いに抗わなかったのだから。 「ディナス」  名を呼ばれ、ディナスは闇を掃って顔を上げる。  青年は、聖十字に向けた愛情とも、空に向けた憎悪とも違う、親愛の情を持ってディナスを見つめていた。 「アシュレイ様」  ディナスが頭を下げようとすると、アシュレイは即座に腕を伸ばして静止し、「よしてくれ」と言った。 「私は藍色の外套を身につけてはいない。ここは大神殿からも離れているし、人目があるわけでもない。私たちが『団長と第二中隊長』である必要はないだろう。ただの同期であった頃のように、普通に話してくれないか」 「しかし」 「何より、『義兄と義弟』として話したい事があるのだ」  ディナスは小さく肩を震わせた。アシュレイの言葉に、表面上以外の意味がある事を、すぐに察したからだった。  無言でアシュレイに歩み寄ると、アシュレイの前の聖十字が、嫌でも目に入った。石で作られた聖十字は綺麗に手入れされてはいるものの、時の流れを止める事はできない。この美しい男が、生まれてはじめて悲しみにくれた日から過ぎた時間を思い知らされ、ディナスは息を飲んだ。  十年は過ぎていないが、それに近い時が流れているだろう。ディナスが母を失ってからと、ほぼ同じだけの時だ。しかしアシュレイは、そこからはじまる呪いの運命と、心を引き裂くような痛みを、けして忘れようとはしなかった。  忘れられるはずもないか。ひとり納得したディナスは、自身の息苦しい喉元に触れる。 「御前試合の時はありがとう」 「何の事です」  アシュレイは無言のままディナスを見下ろした。 「何の事だ、アシュレイ」  言い替えると、アシュレイは微笑みを浮かべて話を続けた。 「エア・リーンの成長には目を見張るものがある。数年であれほどの剣術の使い手になれるとは、正直思っていなかった。だがそれでも、現状では君に勝てる確率は三割にも満たなかったはずだ」 「ああ、その事か」  ディナスは小さく笑った。  そう言えばそうだった。ディナスにとって最後の機会であった御前試合の前日、アシュレイは忙しい時間の僅かな隙を突いてディナスと接触を持ったのだ。 「『エア・リーンに負けてくれないか』と言われた時は、君の正気を疑ったよ。あるいは、私が入団した時からずっと武術大会の優勝に焦がれていた事を、忘れてしまったのかと」 「忘れるわけがない。君が入団してはじめての武術大会で、優勝と言う夢を語っていた日の事も、しっかりと覚えている」 「その夢は二回戦であっさりと君に砕かれたがな。そして私の代わりに君が夢を叶えた時は、複雑な思いだった」  聖騎士団に入団してからこちら、ディナスは数え切れないほど「君は運が悪かった」と言われ続けた。剣技の腕も、人望も、出世の早さも何もかも、聖騎士団の中で上位に位置しながら、けしてアシュレイには敵わなかったからだ。  アシュレイと同期でなければ、もっと目立てたのかもしれない。同期の期待の星とされていたかもしれない。優秀な人間だと褒められる機会が格段に増えたのかもしれない――そう思った事が無いと言えば嘘になる。しかしディナスは不思議と、この男と同じ年に入団した事を後悔はしていないし、運が悪かったとも思わないのだ。手の届かない目標であるこの男が目の前にいたからこそ、自分はここまで来られたのだと判っているから。 「ならば、優勝を何度も目前で逃し続けてきた私が、最後の機会である今回に賭けていた事も、知っていただろう?」  アシュレイは力強く肯くだけで、しばらくは無言を貫き、やがて言い辛そうに口を開いた。 「それでも、ライラを喪失した痛みを共有する君ならば、頼めると思ったのだ」 「本当に」  言いかけて、ディナスは言葉を飲み込んだ。紡ぐ意味の無い問いである事は、アシュレイの強い瞳を見れば明らかだったのだ。  アシュレイの目の前にある聖十字が、アシュレイと共にディナスを攻め立てるようだった。その下に眠るアシュレイの姉、二代前の森の女神エフィールの代わりに。  ディナスは覚えている。エイドルードに選ばれた美しき姉を誇りに思っていた少年時代のアシュレイも、変わり果てた姿での姉の帰還に嘆くアシュレイも。  全てにおいて優れた彼が持つ、見る者全てを魅了する煌びやかな光は、悲しみゆえに完全に陰っていた。並外れた容姿も、知識も、剣技も、何ひとつ衰えていなかったと言うのに、彼は周りの者たちに埋没していたのだ。 「姉を失った時、私は何も知らずに喜んでいた自身の愚かさに失望した。そして次は、妹を」 「もういい。それ以上、言うな」  過去の苦しみが怨念となって彼を前に向かせているからと言って、その苦しみを彼自身が掘り起こし、傷を抉る必要はない。今更語られずとも、彼の苦痛、覚悟、繰り返される喪失によって曇りゆく信仰を、ディナスは理解しているのだから。 「私もつい先ほど、墓参りをしたのだ、アシュレイ。十年前に病死した、母の墓だ」  アシュレイは何かに気付いたように、視線をディナスから反らす。彼が見る方向には、ディナスの母の墓があった。 「やはり男所帯は駄目だな。あれほど世話になった母の墓すらろくに面倒が見られない――いや、男だ女だは関係ないか。毎日のように通っていたライラが、優しかったのだな」 「ディナス……」 「なぜ、ライラが、犠牲にならねばならないのだろう」  以前のディナスは、アシュレイの中で育っていく、憎悪や悲哀や汚れていく信仰を傍から見つめながら、惜しいと思っていた。それは完璧にほど近い男だったアシュレイが、ゆっくりと完璧から遠ざかっていく光景で、世界の至宝が失われていく様に似ていたからだ。  だが、今なら思える。誰よりも強くあったからこそ、彼はゆっくりと蝕まれていったのだと。  痛みを真正面から受け止める事など、自分には耐えられそうにない。忘れるふりをして目を反らす事で、痛みを和らげようとするが精一杯だ。 「ライラは犠牲になどならない」  アシュレイは力強く言い切った。ディナスを力付けるそれは、神の言葉のようだった。 「ディナス。私は今度こそ、大切な家族を失いたくないと思っている」 「ああ。ああ、そうだ、アシュレイ。私も本当はそれを望んでいるとも」 「ならば良かった。君にもうひとつだけ頼みたい事があったのだ」  ディナスは無意識に俯いていた顔を上げた。  本当に、本気なのだ、この男は。神の定めた運命に立ち向かい、失われたものを取り返そうとしている。  同じだけの覚悟を、自分も決めねばなるまい。 「どんな無理難題だ?」  問い返すと、アシュレイは僅かに目を細めて思考に耽った。 「大した事ではないが――それに関してはまた今度話そう。こんな所で会うとは思っていなかったものでな、準備ができていない」 「そうか。では、また次の機会に」 「……内容を聞かないのか?」 「必要ない」と短く返すと、アシュレイは満足そうに肯いた。ディナスは微笑みで彼に返すと、アシュレイに背を向け、その場を立ち去ろうとする。  二、三歩歩いたところで、大切な事を言い忘れていた事を思い出したディナスは足を止め、振り返らずに言った。 「私の名誉のために言っておく。武術大会での優勝は、エア・リーン自身の実力だ。私は手を抜いてなどいない」  再び歩き出す。ため息混じりにアシュレイが、「そう告白する事が名誉だと言うのか。まったく、君らしい」と言うのが聞こえたが、振り返る事も足を止める事もしなかった。彼ひとりをこの場に残して早く退散する事が、アシュレイにしてやれる唯一の事の気がしたからだ。  去り際に、母の墓がディナスの視界を掠めた。  優しい笑みを持つ美しい女性が、聖十字の前に立っていた。慌ててそちらを凝視するも、女性の姿は消えていて、ディナスは願望を幻覚として見た自分の青さを笑った。  そして思う。もう二度とこんな笑い方をしなくてもすむようになればいい。今見た幻覚が願望などではなく、ライラが再びこの街で日常を過ごせる時がくればいい―― 2  ディミナ山の麓、西方から南方にかけて広がる深い森の中心に、エアたちが目指す森の女神の神殿がある。  大陸一の樹海は途方もない広さで、奥深くまで足を踏み入れようとする者はまず居ない。地元の者曰く、あるかもしれない豊富な獲物や資源を夢見る者、最高峰の芸術品とも言われる森の神殿をひと目見ようとの野望を抱く者などが、ごく稀に森の奥へと向かうそうだが、年に一度やってくる聖騎士の一行を除けば誰ひとりとして帰還しないそうだ。  森の入り口を目の前にして、空を見上げるように背の高い木々を見上げたエアは、荷物の中から古い羊皮紙を取り出した。自分と、三人の部下たちと、まだ見ぬ協力者の命を支えるそれを、緩やかに吹く風に攫われないよう、強く胸に押し抱く。  エアは傍らで息を荒くする馬の手綱を引き、森に足を踏み入れた。入り口近くの木々はそれほど密集しておらず、馬を連れる事も難しくなかった。  四人はそれぞれ、一頭ずつ馬を引いている。その背には、町まで乗ってきた馬車の荷台に乗せていた荷物を分けて積んでいた。馬車のままでは森や神殿へと続く迷宮には入れないので、町で荷台をはずし、馬だけを連れて行くのが伝統なのだ。  木々の隙間から降りてくる陽の光を頼り、冷たい空気の中、まばらに積もる枯葉を踏みしめながら進む。少し歩くと、エアが目指していた一本の木が見つかった。  立ち並ぶ木々の中で一際目立つその木は、大の男二、三人が腕を回さなければ届かないほど太い幹で、人の目の高さ――エアは見下ろさなければならないが――に金属板が埋め込まれている。天と地を繋ぐ剣が模され、剣の柄に空色の宝石が埋まったそれは、森の神殿に向かう聖騎士のためにある目印だ。  エアは聖印の下に手を着き、木のそばに広がる地面を見下ろした。元より木はまばらにしか生えていなかったが、それでも違和感を覚える程度に広く土色が見えている。 「少し下がっていろ」  後ろで控える部下たちを手で制し、エアは静かに息を吸った。 『神の寝所はただひとつ天のみに』  流麗な神聖語を口にすると、部下たちの尊敬の眼差しが一斉にエアに注がれた。 「さすがエア隊長。これほど美しい発音で紡がれた神聖語、私ははじめて聞きました」  嘘偽りなどどこにも見られない素直な表情でジオールが言う。「そうです」「私も」とハリスやルスターが続き、エアはどう反応してよいか判らず、無言で肯くだけだった。  神の言語である神聖語は、文法もさながら特に発音が難しいと言われている。肌に合うのかそれとも別の理由があるのか、エアはこれが得意で、特に発音にいたってはいささか自信があった。一年も学んだ頃には、師事した人物よりもエアの発音の方が美しくなっていたからだ。  実のところエアは、入団試験を受けた折、歴史の知識に対する評価があまり良くなかったらしい。アシュレイ曰く本来ならば入団試験に落ちてもおかしくなかったらしいのだが、剣技と神聖語の成績が正団員を軽く凌げるほど優秀であったため、なんとか合格となったのだそうだ。  つまりエアの神聖語は、他の欠点を補って余りあるほどなのである。これで謙遜しては、逆に嫌味だろう。 「あ……」  エアにとって気まずい沈黙が流れかねない展開だったが、すぐにその状況から免れる事ができた。  積もった枯葉同士が擦れあう音がしたかと思うと、地面が小刻みに揺れて居る事をエアたちは体感する。揺れが徐々に強まっていくと、目の前の大地は割れはじめ、やがて四人の前に巨大な扉が姿を現した。  人間の背丈の二倍はある重厚な扉。鍵穴も取っ手もなく、押してもけして開かないこの扉こそが、森の神殿に続く唯一の道だった。  普段は土の下にその姿を隠しているが、合言葉たる神聖語に反応し、こうして姿を現す。神聖語はそれなりの教育を受けたものでなければ発音できるものではないし、合言葉自体司教から教わった者しか知らないため、森に入り込んだものや迷い込んだものがこの扉を見つけだす心配はまずないと言って良かった。  そして万が一見つける者が居たとしても、扉の向こうに続く迷宮にある無数の道の中から、たったひとつだけの正しい道を探り当てて神殿に辿り着く事は無い。 「エア隊長、これはどうやって」  開けるのですか、と続けようとしたのは明らかだったが、ルスターがその問いを最後まで紡ぐ前に、扉は鈍い音をたててゆっくりと開いた。  扉の向こうには深い暗闇が続いている。入り口付近は外部の明かりが届くのでまだ薄明るいが、五歩も内に入れば全く見えなくなるだろう。  誰か灯りを、と指示する前に、ハリスとジオールがランタンを取り出していた。手馴れた動きでふたつのランタンに火を灯し、温かな明かりが暗闇を掃っていく。 「順に中に入ってくれ」 「隊長は?」 「私は最後に行く。扉を閉めなければならないからな」  同じ合言葉で、と続けると、三人はおとなしく前を行った。エアの発音を聞いた後では、いつものように自分たちがやっておきますと言う気にもならないようだ。  エアの横にいる馬が小さく唸る。未知の場所へ連れ込まれる事に恐怖しているのかもしれない。エアは馬を優しく撫で、気を落ち着かせてやると、手綱を引いて三人に続いた。 『神の寝所はただひとつ天のみに』  再び同じ合言葉を紡ぐと、扉は開いた時と同じようにゆっくりと閉じた。木々の隙間を縫って天から届いていた太陽の明かりは完全に消え失せ、ハリスとジオールの持つ明かりのみが四人の進む道を照らしている。  エアの目が届く限りの場所は、床も壁も天井も石造りだった。灰色のような薄紫のような不可思議な色を持つ石の名を、エアは知らない。他の三人も珍しそうにしているので、恐らくその辺りに転がっているような石ではないのだろう。  エアは司教より託された地図を広げた。古ぼけた羊皮紙に描かれた迷宮が、ランタンの明かりを浴びてぼんやりと浮かび上がった。  ここに到着するまで何度も取り出し、脳内で進むべき道を辿っている。だが、いざ本当にここに来ると、いささか緊張した。侵入者を延々と迷わせるつくり、容赦無く襲い来る罠。どこかで道を誤り、正しき道を見失えば、エアたち四人の生命は絶望的となるのだ。 「ここに到着するまで約一月の態度を見ていれば問題はないと思っているが、念のため言わせてもらおう。ここから先は一歩間違えれば命の危険に晒される場所だ。かならず私の指示に従うよう」 「もちろんです」 「はい」 「承知しました」  エアは三人の顔を順に見回してから肯いた。 「そう緊張しなくてもいい。正しい道を行けば、森の神殿まではさほどかからないからな」  エアの一言が功を奏したか、多かれ少なかれ青年たちの表情に浮かんでいた不安が消えて行く。同じように怯えている馬をなだめながら、エアが指示する方へとゆっくりと進んで行った。  最初は右、それから左、次も左、その次の三叉路は真ん中、再び左。  分かれ道から正しい道を選び、少し進むとまた新たな分かれ道が現れる。延々とその繰り返して、これでは地図を持っているエアでもくたびれずにはいられなかった。運良く――この場合、運悪くかもしれないが――この迷宮に迷い込んでしまった者の絶望を思い、エアはつい同情してしまう。  そして森の女神ライラを求める人物の事を考えた。  砂漠の神殿へ至る迷宮がどんなものであるかエアにはまだ知るよしもないが、おそらく同程度に複雑で、凶悪な罠が散らばっている所に違いない。  はじめエアは、会った事もない――もしかするとすれ違ったり軽く言葉を交わしたりした事はあるのかもしれないが――エアに取引を持ちかけてきた人物を疑っていた。女神はこの国にとって必要不可欠な存在であり、その女神を奪おうとする計画が少しでも洩れれば、即処刑されてもおかしくない。そんな危険な橋を渡るための相棒に、全くの他人を選ぶのは、あまりに不注意すぎると思ったからだ。  だがこの迷宮を通った後では、相手の気持ちがよく判った。エアが逆の立場だったとしても、誰かを頼らざるを得ない。同じ痛みを知り、同じだけの情熱を持つエアであれば、取引を持ちかける事で裏切る可能性は下がるだろうと踏んだ上での選択なのだろうと考えれば、至極納得が行った。 「隊長、次は二股のようです」  先頭を行くハリスのうんざりした声音で、エアは顔を上げた。  四人分の命がエアの持つ地図一枚にかかっていると思うと責任は重く、緊張のせいか、予想以上に疲労の蓄積が早かった。だからと言って、僅かな時間とは言え集中を途切れさせ、思考の深みにはまった己を許す理由にはならないのだが。 「ああ、次は……」 「ここは左ですよね。間違いなく」  エアが地図を確認するよりも早く、二番目を行くルスターが明るい声で答えた。 「いや、右だ」 「え?」  左の道に体を向けたルスターが、ゆっくりと振り返る。疑いもしなかった答えがあっさりと否定された事に、驚いている様子だった。 「なるほど。確かに右の道は避けたくなるかもしれないな」  地図に記された正しい道には、人骨と思わしきものが横たわっていた。時間が風化させたと思わしき、くたびれた服を着たその骨は、胸の位置を古びた槍に貫かれている。この道には罠があり、誤って通った者がその罠に命を奪われたと考えやすい。 「指示に従えと自分で言っておいて、指示が遅れてすまなかったな」 「そんな。自分が指示の前に勝手に動こうとしただけですから」 「いや、集中力と注意力を欠いていたのは事実だ。すまん」  エアは目を伏せて静かに長く息を吐き、自身の頬を軽く叩いて、気合を入れ直す。部下たちの命を預かっている身なのだから、失敗は許されない。  息を吐ききった後、深く息を吸った。肺に空気を溜め込むと同時に目を開き、再び息を吐き出すと、意識が新たに生まれ変わった気がした。  はっきりとした思考が興味を持ったものに視線を移す。四人が進むべき道に横たわる、人骨に。 「心理的な罠、でしょうかね」  エアと同じものを見据えたハリスは眉間に皺を寄せ、僅かに唇を尖らせた。それが思考する時の彼の癖である事を、これまでの旅でエアは知っていた。 「おそらくそうだろう」 「あ……そうだったのですか」  ルスターが大きな目を更に大きく開き、エアとハリスを交互に見た。 「こんな風に死体を置けば、何も知らずにここに来た人間はこの道を避けたくなる、と言う寸法だろう」 「ここまであからさまに罠があるように見せられては、俺なら逆に疑いますけどね」 「意外に捻くれているな」 「いや、思うのは自由ですけど、できれば口に出す言葉を選んではもらえませんかね。『思慮深い』とか」 「『意外に思慮深い』の方が失礼な言い草ではないか?」 「いや、『意外に』を抜いてくれればいいんじゃないですかね……」  突然ルスターが小さく噴き出した。原因は今のハリスとのやりとり以外には考えられず、笑わせるつもりも笑われるつもりもなかったエアとしては不本意だ。しかし、見ればジオールも咳払いをして何かをごまかそうとしており、しぶしぶ納得して話を元に戻した。 「お前のように疑うとしても、ルスターのように素直に信じるとしても、多かれ少なかれ侵入者は迷うだろう。迷いは混乱を産み、混乱は誤りを産む。おそらくはそれが狙いだ」  エアは横たわる人骨に歩み寄った。  骨が着ている古びた衣服も、骨を貫いて床に刃先を埋め込んでいる錆びついた槍も、間違いなく本物だ。だが人骨そのものは精巧に作られた紛い物である事が、近くで確認すれば判る。 「神殿が造られた後、女神を守るための迷宮と樹海を造ったのはエイドルードだと聞いていたが」 「そのはずです」  神のくせに小賢しい真似をしやがる、と口にしそうになり、エアは慌てて言葉を探した。 「よほど女神を大切になされているのだろうな。あらゆる手を尽くし、誰にも奪われないように守り――」  エアはそう呟いてから、三人に振り返った。 「行こう」  エアが言うと三人は肯き、偽の遺体を乗り越えた。  道はまだ続いている。 3 「次は右から四番目だ」 「右から四番目ですね」  エアの指示を復唱してから、ジオールは指差し数えて道を確かめた。続くルスターの確認を得ると、ようやく歩き出す。地図以外の情報を信じないよう、彼らが自分たちで定めた決め事だった。  ハリスが額に滲んだ汗を拭いながら続く。エアは静かに深呼吸し、彼らの後を追った。  どれほどの時間を迷宮に費やしているのか、エアには判らなくなっていた。迷宮に足を踏み入れたのは確か昼を少し過ぎた頃で、歩いた距離から考えるに、陽はおそらく今もまだ青空の中で輝いているだろう。せいぜい、西の空を茜色に染めはじめた頃のはずだ。  だがエアは、もう丸一日以上迷宮の中に居るような錯覚に囚われていた。  それは他の三人も同じようだ。元々寡黙の傾向があるジオールは判りにくいが、ルスターやハリスの口数が明らかに減っている。彼らが疲弊しきっている事が判る。  エアが持つ地図のおかげで罠は全て回避できているし、ランタンの明かりもある。それでも、閉鎖された暗闇に追い込まれたような緊張感が、エアたちを襲うのだ。歩き続ける事による体力の消耗よりも、精神的な消耗の方が辛かった。 「次は左から三番目だ」 「左から三番目ですね」  これまで一番多いところでは十にも分かれた分岐を、百近い回数通り抜けてきた。確認を幾度も繰り返す事に嫌気がさし、それでも部下の手前ため息だけは吐くまいとずっと気を張り続けていたエアだったが、今回ばかりは我慢できず、堂々と深い息を吐いた。  不満を示すものではなく、安堵のため息を。 「これで最後だ」  ため息の後にエアが告げると、三人はエアに振り返る。  くたびれた表情が一瞬にして明るい表情に上塗りされる様子がおかしく、エアが思わず笑みをこぼすと、自分たちの油断に気付いたのか、三人が三人とも表情を引き締めて歩きはじめた。  それで隠したつもりなのかもしれないが、進む足取りはどことなく軽く、迷宮を進むにつれて減っていた口数が戻りつつある。ごまかそうとしている分いっそうおかしく、エアが忍び笑いをもらすと、ハリスが振り返ってエアを見上げた。 「隊長、笑わないでくださいよ」 「そう言われてもな」 「ようやくここから出られると思えば、誰だって浮かれますよ」 「だから叱ってはいないだろう」 「そうですが……」  ハリスは肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。  ジオールとルスターの話し声に、人や馬の足音が混じり、通路中に響き渡る。その音の中、ランタンの明かりに照らされ壁や天井が不思議な色に輝く様子を眺めながら、エアは歩いていた。これで終わりだと思うと、エアたちを閉鎖した空間に押し込めていた色が、幻想的で美しいものに思えてきたのだ。  やがて足音が少しずつ減った。前を行く者たちが足を止めたのだ。エアも前方に習って足を止めると、正面に大きな扉があるのが判った。  三人の部下たちは、期待に輝かせた瞳を向け、エアの言葉を待っている。エアは部下たちの横をすり抜けると、扉の前に立った。 『全ての恵みは天上より授けられる』  司教に教わったふたつめの神聖語を発生すると、エアの前にある巨大な扉は、淡く発光した。  重く引きずる音を立て、扉はゆっくりと開いていく。少しずつ広がっていく隙間からは、西に傾きはじめた太陽の光が惜しみなく降りそそぎ、薄暗い空間に馴れたエアたちの目を容赦無く攻め立てた。  エアは腕を掲げて光から目を守ったが、それでも耐え切れず、極限まで目を細める。そうして狭まった視界に映ったのは、溢れんばかりの緑だった。  少し長めの芝が生えた大地が、どこまでも続いていく。遠くには湖があるのか、水面に光が反射してちらちらと輝いている。あまり背の高くない瑞々しい木々には、鮮やかな色を持つ実がたわわに生っている。  エアはゆっくりと歩き、迷宮を出ると、豊かな自然を踏みしめた。硬い石ばかりを感じていた足が、柔らかな土の感触に喜びの悲鳴を上げる。新鮮な空気を取り込む事で、肺が大きく膨れ上がる。 「ここが、森の神殿ですか……」  感嘆のため息を交え、ルスターが言った。 「綺麗ですね。事前に聞いていた通り、住み心地も良さそうだ」  きょろきょろと辺りを見回しながらハリスが言う。  ハリスの言葉に、エアは無意識に肯いていた。どこまでも広がる大地の恵み、緩やかに流れる風、暑くも寒くもない気温と、全てが生活に最適と言えるものだった。おそらくその辺りを掘り起こせば、驚くほど肥沃な土が出てくるのだろう。  エアは歩みを進めた。左手の方向を真っ直ぐ眺めると、畑が広がっていた。収穫はすでに終わっている時期だが、春から夏にかけて野菜が生き生きと育っていただろう事は、容易に予想できる。  更に奥を見上げると、ようやく外壁を見つけられた。高い壁に囲われていると言うのは実に閉鎖的で息苦しさがあるだろうと思っていたのだが、壁の中の面積が広大となれば話は別だ。おそらく、大都市――たとえば王都セルナーン――並の広さはあるだろうと予想され、遥か遠くにある壁は、充分以上の高さがあると言うのに、敷地内のほとんどの場所に影を届けられずにいる。  右手を眺め、エアはようやく白亜の神殿を見つけた。  たとえば空から舞い降りたばかりの雪など、エアの知る限りの白よりもなお白い。丸みを帯びた形状は女性的な柔らかさを見る者に伝えながら、洗練された孤高の美しさを同居させていた。 「王都より参られた聖騎士様ですね」  若草を踏みしめる音と共に、四人の前に人影が現れる。  エアより少し年若い、可愛らしい少女だった。衣服は基本的に白だが、腰紐や肩掛けなど要所に使われた明るい緑色が印象深く、少女の茶色の髪や若草色の瞳によく映えている。 「はい。王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。王都より物資補給の任務のため、派遣されて参りました」 「遠く険しい道をお疲れ様です。ようこそいらっしゃいました。神殿の方で森の女神ライラ様がお待ちです。どうぞこちらへ」  少女は会釈するとエアたちに背中を向け、神殿へ向けて歩きだした。エアたちを先導してくれるのだろう。  エアたちは馬を引き、少女の後を追った。一見ごく普通の少女だが、さすがに女神に仕えるだけあって、一流の教育を受けているだろう事が一目で判る。優雅な立ち振る舞い、正しい姿勢、滲み出る気品といい、文句の付け所がない。 「お迎えありがとうございます。しかし、どうして私たちが来た事を?」 「迷宮の扉が開かれた事を、ライラ様はご存知なのです。時期的にも一年に一度いらっしゃる補給隊の方々で間違いないでしょうと、ライラ様はわたくしに迎えの任をお与えくださりました」 「なるほど。そうですか」  適当に肯きつつ、これは重要な情報かもしれないと、エアは脳内で噛み締めた。  この類の機能は森の神殿も砂漠の神殿もほとんど同じであろう。変える意味が無い。と言う事は、エアが砂漠の神殿に侵入した時、最初に気付くのはリリアナだ。  事前に伝える術が無い以上、まさかエアが自分を奪い返しに来るなどと思ってもいないであろうリリアナは、普通の対処をするに違いない。女官たちを動員して警戒させ、侵入者であるエアを排除しようとするはずだ。  ほとんどの女官に武術の心得は無いとのアシュレイの言を信じるのならば、肉体的な負担は大きな問題ではない。問題なのは―― 「こちらでは何人の方が生活しているのですか?」  好奇心に瞳を輝かせて、ハリスが少女に問うた。 「女神様にお仕えする女官たちが二十一名おります」 「そんなに!」 「お仕えする、と申しましても、おそらくは皆様が想像する、優雅な仕事ばかりではございません。田畑の手入れをし、木の実を取り、獣を狩り、料理、洗濯、掃除と言った、生活するために当たり前の仕事がほとんどです。ここは女だけで生活する、小さな村なのだと思っていただければよろしいかと」 「ははあ、なるほど」  納得して肯くハリスを横目に、エアは右手で口元を隠し思考に耽った。 「女神様を含めると二十二名……これは天上の神エイドルードが魔獣と戦った日数と同じですね」  エアが思いつきを口にすると、少女は振り返って肯く。 「二十二は、偉大なる神エイドルードが地上におられた日数。故に、聖なる数字とされておりますから」  少女は誇らしげに微笑んでエアに答えた。  ならば、砂漠の神殿に居る女官の数も、同じと考えて間違いない、か。  エアはさりげなく肯きながら、新たな情報を脳に焼き付けた。  森の神殿に来る意味は取引の材料にするため以外にないはずだったが、自分の役に立つ情報もこうしていくつか手に入っている。エアは内心喜んだが、この任務をエアに与えた人物の顔が蘇ると、喜びはあっさりと霧散した。  それきりエアは少女に何も聞かず、ただその後ろを着いて行った。本当ならば入手できる限りの情報を彼女から聞き出したいところだったが、あまり根掘り葉掘り聞いて疑われでもしたら元も子もない。焦りは禁物だ。  少女はエアたちが何も問いかけないと、無言で歩みを進めるだけだった。長い距離を歩く事に馴れているのか、変わらない足取りで四人を先導して行く。  遠くに見えていた神殿がやがて目の前に迫ると、エアはその大きさに圧倒された。美しさだけでなく大きさも、王都セルナーンの大神殿に勝るとも劣らない。思わずごくりと息を飲み、視線を巡らせた。  神殿の入り口近くに、複数の人影が見える。エアたちを案内してくれた少女と同じ服を来た女たちが、間を広く開けて二列になって並んでいた。老女と呼べる者から少女と呼べる者まで様々な年代の女性が揃っており、数えてみると、それぞれが十名。案内人の少女を含めると、女官の全員がそこに集まっている事になる。  少女は振り返り、エアたちに礼をすると、先に行くように促しながらエアが引く馬の手綱を手に取った。左右の列の後ろの方に並ぶ女性が三名、エアの部下たちに歩みより、同じように馬を預かってくれる。  エアは僅かに戸惑いつつもそれを隠し、女性たちの列が造った道を進んでいき――その先に立つひとりの女性に対面した。  楽園の女神。森の女神ライラは、そう称する事に何のためらい抱かずにいられる女性だった。  色素の薄い肌は抜けるように白く、小さな顔にはまる目も鼻も口も、全て造詣が完璧と言って過言ではない。優しく輝く緑色の瞳が彼女の美に温かみをもたらし、完璧と言う言葉がもたらす冷たさを完全に払拭している。その顔を覆う髪は、まるで上質の繭から紡がれた金糸で、西日を浴びて柔らかく輝いている。  小さな薄桃色の唇が、ゆっくり笑顔を象る。その華やかな微笑みは、瞬きする間も惜しみたくなるほどだ。 「ようこそ、森の神殿へ」  声も心地良いものだった。優しく耳朶を震わせ、胸に安らぎを与えてくる。長い旅路で積み重ねた苦労も、一瞬にして吹き飛ぶ勢いだ。 「お、王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。物資補給の任務のため、王都より派遣され参りました」  エアは女性を凝視していた自分に気付き、慌ててその場に跪くと、深く礼をした。エアの後ろに並んでいた三人もそれに続く。 「王都よりの長い道のり、ご苦労様でした。今宵のお食事やご入浴の準備もさせてありますので、ごゆっくりくつろがれ、疲れを癒してくださいませ」 「は……お心遣い、心より感謝いたします」 「もしお邪魔でなければ、ぜひ私もお食事をご一緒させてください。外のお話をお聞きできる機会は、あまりありませんので……」 「ライラ様さえよろしければ、お断りする理由などございません。至上の光栄にございます」  森の女神はいっそう深く笑った。まるで子供のように無邪気な笑みだった。 「楽しみにしております」  軽く一礼すると、森の女神は軽やかに踵を返して神殿の中へと姿を消していく。  どちらかと言えば小柄で細身の体は、実態を伴わない存在のように思えた。  まさに、女神。同じ人間であるとは到底思えない、不思議な雰囲気を持つ女性だ。 「どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」  女官のひとりに声をかけられ、エアは慌てて立ち上がる。  それから振り返ってみると、三人の部下たちは魂が抜けたかのように未だ呆然とし、膝を着いたままだった。 4  まずは風呂に入って埃や汚れを落とし、用意された服に着替える。形こそ男性用だが色使いは女官たちが着ているものと同じで、白と緑の二色だけが使われていた。  旅先でも聖騎士の名に恥じないよう身なりを整えていたエアたちだったが、広い浴場でたっぷりの湯や香りの良い石鹸を使って体を洗う機会や、綻びも僅かな皺もない真新しい服を着る機会はまずなかったので、妙な緊張感に包まれていた。与えられた客室なのだからそれなりにくつろいでも良いはずなのだが、ついつい背筋が伸びてしまう。 「自分の部屋で休んだらどうだ。食事の時間になったら迎えに来ると女官長が言っていただろう」  エアは寝台に深く腰を下ろすと、なぜかエアの部屋にやってきた部下たち三人を見回した。  彼らは長い旅の最中、ずっと上官と顔を突き合わせねばならなかった。いくらその上官が年若く、細かい事を気にしないエアだからと言え、やはり気を使わずにはいられなかったはずだ。ひとりひとり部屋が与えられ、エアと離れて行動する事が許された今は、心身ともにゆっくり休む絶好の機会ではないか。 「いや、そうなんですけど、どうも落ち着かなくて、ですね」  ハリスが言うと、他のふたりも肯いた。 「現実離れしていると言うか、とにかく不思議な雰囲気ですよね、ここは」 「確かにそうだが……とりあえず、座ったらどうだ」 「あ、失礼します」  部屋に備え付けてあった椅子をエアが進めると、まずハリスが腰を降ろし、他のふたりも続く。  本音を端的に言われる事で、エアは彼らがエアの部屋に滞在したがる理由を薄々理解した。エア自身、彼らと同じ気持ちを抱えているのだ。  普通の人々が暮らす大地よりも遥かに富んだ土地、美しくそびえる神殿。加えて人の領域を超えたとしか思えない神秘的な美しさを持つ、女神ライラ。  ひとりで思い起こしていては夢や幻だったのではないかと疑ってしまうそれらを、現実のものであった事を確かめるに、同じものを見た者たちと語り合おうと言うのだろう、ハリスたちは。 「噂通り、美しい方でした。外見だけでなく、内からにじみでる光までもが」  半ばひとり事のようにジオールが言った。起きながら夢を見ているような眼差しで。 「噂通りと言うか、噂以上と言うか」 「想像以上だったな。非礼かどうかなどと考えもせず、思わず見惚れてしまった」 「ええ、ええ、そうです!」  興奮しているのか、必要以上の大声で答えながら、ルスターがしきりに肯く。膝の上におかれた拳が、力強く握り締められる。 「まさに女神と言うべき、神々しい雰囲気の方でしたね。さすが天上の神に選ばれる女性です」 「……と言う事は」  何か驚くべき発見をしたのか、ハリスは真顔で虚空を見つめる。ルスターは律儀にハリスの視線を追っているが、当然その先には何もない。 「砂漠の女神様も、同じくらい美しい方なんでしょうか」  ハリスの発言のせいで、部屋の中には沈黙が訪れた。特に森の女神の美しさに一番衝撃を受けたらしいルスターは、目を見開いてハリスを凝視する。ジオールは表情には出さないが、内心うろたえているようだった。  彼らがそう期待するのは当然の事だった。同じように神に選ばれ、同じように厳重に守られた女神ならば、同じように美しいに決まっていると、何も知らなければ思い込んでしまうだろう。エアとて彼らと同じ立場ならばそう考えていたはずだ。  だがエアは、砂漠の女神リリアナがどんな容姿であったかを知っている。けして醜くはなく、むしろ可愛らしいと言える顔立ちをしていたが、あくまで片田舎の村での話だった。森の女神ライラと並んでしまえば、容姿の点では明らかに見劣りする。  それを事実として認識しているからこそ、どう反応して良いか戸惑ったエアは、無表情のまま硬直するしかなかった。 「隊長?」  沈黙の長さを不審に思ったか、ルスターが首を傾げてエアの顔を覗き込む。 「いや。叶うならばいつかお会いしてみたいものだなと、考えていただけだ」 「エア隊長なら、いつか行けるんじゃないですか?」 「しかし現女神リリアナ様の代での補給任務は、来年と、次代の女神様の護衛と兼ねた再来年の二回がしか残されていないからな。難しいだろう」 「そうか。仮に将来派遣される事になっても、リリアナ様の代ではない可能性が高いって事ですね。それは残念」  自分の事でもないと言うのに、心底無念そうにハリスが肩を落とした。  その様子が愉快で、ルスターが小さく笑い声をもらす。エアがつられて笑みを浮かべると、ハリスは不服そうな視線をエアとルスターの間で泳がせた。  笑う事で緊張がほぐれると、緊張で忘れかけていた疲労が押し寄せてきた。体を起こしている事も億劫になり、エアはそのまま寝台に倒れこむ。  上体が羽布団に埋もれた。柔らかな感触とシーツの爽やかな肌触りが心地良く、思わず目を伏せる。 「珍しいですね」  ハリスが短くそう告げる。  はじめ、それはルスターかジオールに対して投げられた言葉だと思っていたエアは、構わずそのまま横になっていた。しかしふたりから返事が行く様子がなく、エアは身を起こした。  三人の視線はエアに集中していた。どうやら、ハリスの言う「珍しい」は、エアの事だったらしい。 「私が、か?」 「はい。大神殿を出てから今日までけっこうな日数一緒に居るのに、隊長が姿勢を崩すところ、見た事ないですから」 「そうだったか?」 「自覚してないんですか。それじゃあ疲れるでしょう」  ハリスは穏やかな笑みを浮かべ、ルスターが小さく繰り返し肯く。  どうやらエアは、自分で思っていた以上に神経を張り詰めさせていたようだった。神に対する裏切り行為を企んでいる事を悟られないために、真面目で立派な聖騎士を装っていた事が原因だろう。 「隊長はこんな事で怒らないと思いますから、正直な気持ちを言わせてもらいますけど、結構不安だったんですよ。入団一年目、まだ二十歳にもならない方の下に就けって辞令をもらった時は。隊長は武術大会に優勝されましたが、それで証明されるのは剣の腕だけですからね。むしろ剣術が優秀だからこそ、それ以外のところで頼りない可能性もある」 「ハリス!」  ジオールが声を荒げて窘めようとするが、ハリスはやめなかった。 「でも隊長はすぐにそんな不安を払い除けてくれました。使命を果たす事に迷いがないですし、俺たちの事を考えてくれてるってのも判るし、頼りがいがあります。ちょっと無愛想な所があるし、凄く優秀な方なのに、人使いが下手だったり親しみやすいところもあって」 「すまないが、ハリス。ひとつ聞く」 「はい」 「もしかして俺は今、褒められているのか?」 「あ、隊長って、本当は自分の事俺って言うんですね」  エアの問いに答える事なく、からかうような口調でハリスがそう言うので、エアは慌てて自分の口を手で抑える。  そんなエアの様子を真っ直ぐに眺め、ハリスは勝ち誇った笑みを口元に浮かべた。 「もしかしても何も、全力で褒めてるじゃないですか。どうして疑問に思うんですかね」 「……ところどころに皮肉がこもっているように思えたからな」 「あれ? そうですか? そんなつもりはなかったんですが」  ハリスは困惑を顔に浮かべる。表情がめまぐるしく変わる男だなと半ば呆れたが、残りの半分は正直で気さくなこの男に好感を抱いていた。 「何が言いたかったんだったかな、そうそう、俺は……俺たちは?」  ルスターとジオールの顔を覗き込み、二人が肯くのを確認してからハリスは続ける。 「隊長の事信頼して着いて行きますから、あんまり無理しないでくださいねって、そう言う事です。命かかっているところならともかく、普段はもう少し油断したっていいと思いますよ」  再びハリスが穏やかな笑みを浮かべた。  エアは一瞬戸惑った後、深い息を吐く。  立派な聖騎士であるためには、聖騎士になると決めてから四年足らずと言う短い時間と、出自が農民である事実は、少なからず不利だった。それを覆すために無理をして、その結果部下に心配されてしまうとは、なんとも情けない。 「そうだな。そうさせてもらおう」 「はい」 「と言う事で、出ていけ」 「……はい?」  エアは再び羽布団に身を沈めた。 「疲れたから、迎えが来るまで少し休む。お前たちが居るとうるさくて眠れないから、出ていけ」 「冷たい命令ですね」 「命令じゃない。願いだ」  エアが寝台の上を転がり、部下たちに背中を向けると、小さく吹き出す笑い声や、気の抜けたため息が耳に届く。 「そう言う事なら、了解です」 「失礼しました!」 「ごゆっくりお休みください」  背中の向こうから、三人が立ち上がり部屋を出て行く音が聞こえた。できる限り音を立てまいとする、静かな足音と扉の開閉の音。  扉の向こうから微かに聞こえていた遠ざかる足音が消えると、エアの胸の内に苦い想いが広がりはじめた。  苦痛に耐えようと、エアはゆっくりと目を伏せた。無意識に眉間には皺が寄っていく様子が、触れずとも、鏡を見なくとも判る。  まったく忌々しく、腹立たしい。部下たちではなく、自分自身が。 「くそっ……」  エアは頭から布団をかぶり、吐き捨てた。  彼らがエアに寄せる信頼に偽りは無さそうだった。同様に、エアも彼らを信頼しはじめている。ジオールは真面目で融通が聞かないがその分頼んだ事は思った通りにやってくれるし、ルスターは少々間の抜けた所もあるがいつも一生懸命で、周りの気分を明るくする。ハリスは誰よりも周りを気遣ってくれていて、空気を損ねる事なくこの長旅を続けられたのは、彼の存在あっての事だろう。徐々に本性を現してきたせいで度々こちらの調子を崩され、扱い辛くなってきているが、本心から不愉快と思った事は無い。  隊長と言う、僅かながらも人の上に立つ者としては、こうして下の者と信頼を築ける事は喜びなのだろう。しかしエアは素直に喜ぶ事などできそうになかった。そう遠くない未来、彼らを裏切ると決めているから――彼らの命を奪うわけでも、その身から流血を誘うわけでもないが、彼らがエアを隊長として信頼する心を傷付ける事になるだろう。  いちいち気に病んでどうする。と、エアは自分に強く言い聞かせた。  部下たちを裏切る。砂漠の神殿に勤める二十一人の女官たちと戦う。そんなものは一角にすぎない。地上に生きる者にとって大切な女神を奪う以上、目に見える形でも、見えない形でも、恨みも憎みもしていない相手を傷付ける事はこの先いくらでもあるはずで、はじめから判っていた事だ。それらをいちいち気にして胸を痛める自分の甘さが、エアは不愉快で仕方がなかった。リリアナを失った日に決めた覚悟は、それほど脆弱なものではないはずだ。 「リリアナ」  忘れられない、忘れるつもりもない少女の姿は、エアの想い出の中で十六より成長する事はない。蘇る彼女の笑顔はいつも明るいと言うのに、徐々に歳が離れていく事が悲しくて、エアの内にある願いをより強く燃え上がらせた。 「リリアナ……」  幾度も幾度も繰り返し、愛しい少女の名を呟く。その名前こそが、苦痛を和らげる優しい呪文。  部下たちを、聖騎士団を、国中を裏切って、それでも望みを果たすために、必要な力だった。 5  少し眠ってしまったようだ。部屋の扉を叩く軽い音で意識を覚醒させたエアは、慌てて飛び起きる。  転がる事で乱れた髪や服を急いで直し、扉を開けると、女官のひとりがそこに立っていた。最初に案内してくれた少女ではなく、エアよりも幾つか年上と思わしき女性だ。 「お待たせいたしました。お食事の準備が整いましたので、ご案内いたします」 「どうもありがとうございます。他の三人は?」 「他の者がすでに呼びに言っておりますのでご安心ください」  こちらへどうぞ、と事務的に言ってから、女性はエアを先導する。やはりエアが話しかけない限りずっと無言で、ぴんと背筋を伸ばしたまま進んで行った。  少し力を抜いた方がいいと部下に言われたばかりのエアだったが、同じ言葉を彼女たちにかけてやりたい気がした。おそらく長い時間礼儀作法の教育を受け、意識的にではなく自然に美しい姿勢を作れている彼女たちは、エアほどの疲労は溜まっていないかもしれないが、ずっとこの調子では息が詰まりそうだ。二十数名が暮らすには充分すぎる広さとは言え、壁の内側と言う閉鎖された場所となればなおさら。  女神を連れ去る事によって、彼女たちには自由と言う解放が与えられるのだろうか。  無意識に思考が導き出した結論に腹を立てたエアは、軽く唇を噛む事で考えを消し去った。  これから行おうとしている世紀の大犯罪を、正当化しようとする自分があまりに情けない。そうでもしなければ実行に移せない程度の覚悟しかないなら、はじめからやらなければいいのだ。 「こちらです」  しばらく通路を進むと、エアたちに与えられた客間にあるものよりも遥かに大きな、両開きの扉が目の前に現れた。  年若い少女がふたり扉の前に立って待っており、エアたちが近付くと当時に扉を開く。感謝の意を込めてエアが会釈をすると、少女たちは深々と頭を下げた。  中には長方形の食卓があった。備え付けられてある椅子の数は五つだが、十人くらいならば余裕を持って座れる大きさがある。すでに温度を気にしない料理がいくつか並べられている卓には、ジオールたち三名が着いており、エアに気付くとそれぞれが小さく会釈した。  エアを案内してくれた女性が、空席ふたつの内、エアの席と思わしき椅子を引いた。エアが椅子に座ると、女性は深く礼をして、部屋を去っていく。広い部屋に見慣れた顔だけが揃い、エアは静かに息を吐く。  至れり尽くせりとはまさにこの事なのだろうと感心しつつも、エアはどうにも居心地が悪かった。食事を取ると言うのは誰にとっても当たり前の行為に、なぜこうして緊張を強いられねばならないのか。 「待たせたか?」  エアが訊ねると、エアの隣に座るハリスが首を振った。 「いえ、そうでもありません。待たされたとしても、隊長のせいではありませんし」 「そうなのか?」  次に答えたのは、エアの斜向かいに座るルスターだった。 「多分、位の順なのだと思います。私が最初で、次がハリスさん、続いてジオールさん、で、隊長が今入られましたから」 「女神をお待たせするわけにはいかないのは判るが……」  隊長のエアを区別するところまでも何とか理解してやったとして、あとの三人にまで格式順位を付ける必要はあったのだろうかと、エアは思わずため息を漏らしていた。 「だいたいお前たち、年齢だの入団して何年だのと聞かれたのか?」 「いえ、聞かれてはおりません」 「隊長が聞かれたんだと思ってましたけど?」 「私は聞かれた覚えなどないぞ。ずっと寝ていたしな」 「はあ。まあ、俺たちなら見た目通りに判断すれば当たりますけどね。見た目通りじゃなかったらどうするつもりなんでしょう。あとでジオールさんはこう見えて十六歳なんですとか、ルスターはこう見えて最年長なんですとか、言ってみましょうか」 「……やめておけ」  ハリスの案に興味は無いと言えば嘘になるが、見るからに生真面目な女官たちをからかってもろくな結果にはなるまいと想像したエアは、ハリスを嗜める言葉を口にした。ハリスも思う事は同じようで、黙って頷いた。  四人はそれきり無言のまま、食卓に着く最後のひとりを待つ。  幸いにも、次に扉が開くまで、それほど間は空かなかった。エアが入って来たものとは卓を挟んで反対側にあった扉が開き、神々しい美貌を持つ女性が姿を現した。  部屋の中を満たしていた静かな空気が、一瞬にして華やいだ空気へと変化する。僅かな髪のなびきが、表情の変化が、男たちを容易に魅了する。  そんな女性とこれから一緒に食事をするのだと、エアには到底信じられなかったが、最後の一席に彼女が腰を下ろしたのだから信じないわけにはいかなかった。  女神が席に着くと、温かな料理がすぐに運ばれてくる。女性ばかりだからか、閉鎖された森の中では食材が限られてしまうのか、野菜や木の実、果物を中心とした質素な料理が多いが、肉や川魚も使われている。豪勢と言えるほどの料理ではないが、充分手が込んでおり、見た目も香りも食欲をそそった。 『天上の神エイドルードの恵みに感謝を』  ライラが神聖語で祈りの言葉を口にする。四人も同じ言葉を復唱してから、ようやく食事がはじまった。  見た目や香りから期待した通り、料理は充分以上に美味しいものだった。あまり舌が肥えていないエアでも、料理人の腕や食材の良さが判る。特に、香辛料を軽く付けて焼いた肉に果物をふんだんに使って作られたソースがかかったものがエアのお気に入りで、味が良いだけでなく空腹もしっかり満たしてくれた。 「皆様、ずいぶんお若いのですね」  四人の顔を順々に見回しながら、ライラは可憐な声を響かせた。 「私を神殿に送ってくださった方々も含めて、補給部隊の方々を拝見するのは今回で四度目になりますが、今年の皆様が一番お若い