序章 奪われた花嫁 「リリアナ!」  乾いた地面の上にうつ伏せに突き倒され、抑えられた格好で、エアは叫んだ。顔を地面に押し付けられた今、叫ぶと同時に土の味がしたが、今エアを襲う悲劇と比較すれば問題にすらならない事だ。 「リリアナ!」  情熱と渇望を秘めたエアの声は、喉を引き裂かん勢いで辺りに響き渡る。だからその叫びを聞いた者は、合わせて百を上回るはずであったが、その内の誰ひとりとしてエアの望みを叶えてくれようとはしなかった。  エアは多くを望んでいるわけではない。エアの体を捕らえる者から、解放してもらえればそれで良かった。あとの事は、自分ひとりでやってみせる。はじめから他人などあてにしていない。奪われた大切なものを奪い返すのは、自分自身でやり遂げねば意味がないのだから。 「どけ! 離せ!」  願いを直接的に口にしてみたものの、何の効果もなかった。エアが地に縛り付けられている間に、誰よりも愛した少女はどんどん遠ざかっていく。 「――リリアナ!」  行かないで欲しいとの願いを込めて呼んだ。エアが何よりも強く焦がれたものを与えてくれるはずだった、三日後に神の名の下に永遠を誓い合うはずだった、これから先の一生を共に生きていくはずだった、愛しい少女の名を。  だが、叫びは誰にも届かない。エアを拘束する者たちにも、エアに哀れみの視線を向ける村人たちにも、悲しげな瞳を反らしてエアに背を向けたリリアナ本人にも。 「リリアナ……!」  車輪が回る音を重苦しく響かせながら、リリアナを乗せた馬車が遠ざかる。やがて姿が見えなくなると、残された轍を視界に入れる事に耐えきれず、エアは硬く目を瞑った。  そうして闇と絶望に飲み込まれたエアの中で、悲哀、嫌悪、愛情、憎悪と言った感情が、熱く火花を散らしはじめた。どれが勝利を治めるかは、エア本人にも予想がつかない。全てが勝利者と成り得るし、全てが敗者と成り得るのだ。  しばらくして双眸から涙が滲み出ると、エアは結果を悟った。激しい戦いの果て、全ての感情は複雑に融合し、膨れ上がったのだと。  その感情は、エアを内側から徐々に蝕んでいった。この場に居る全ての人間が、空から地上を見下ろしているだろう偉大なる神エイドルードが――全てが呪わしく、憎らしかった。世界中の、全てが。 「返してくれ」  エアは涙に濡れた目を開いて空を睨み、涙で震える声で言った。 「……返……せ……」  一体何をしたと言うのだろう。  約束された幸福を乱暴に奪われ、けれど抗う事も許されない。そんな罰を与えられるほどの罪を、自身やリリアナが犯していたとは、エアにはどうしても思えなかった。  もし犯していたと言うならば、何をしたのか教えて欲しい。自覚していなかった事を恥じ、心から謝罪しよう。大切な者と引き裂かれる以外の全ての方法をもって贖おう。  だから、返してほしい。 「リ――」  再び愛しい少女の名を呼ぼうとして、胸の中の熱が喉に詰まった。声にならない願望はエアの中を駆け巡り、甦ったリリアナの笑顔が、胸と脳裏を支配する。  滂沱たる涙がこぼれ落ちたが、それを恥じる気にはならなかった。みっともないと笑うなら笑えばいい。それでリリアナが戻るならば、いくらでも道化を演じてやる。 「手荒な真似をして申し訳ない」  静かな美声で紡がれる謝罪と共に、エアを地面に押し付ける力が失われた。  自由を手に入れた瞬間、エアは立ち上がった。馬車を追おうと地面を蹴ったが、それまでエアを捕らえていた青年が前に立ちふさがり、それ以上進む事はできなかった。人の足で馬の足に追い着けるはずもないのに、無駄な努力もさせないつもりらしい。  エアが腕をがむしゃらに振り回し、体当たりをしたところで、鍛え上げられた青年はびくともしなかった。どうしようもなく、エアは首だけを少し動かして、青年を見上げた。  彼こそが、大陸中の誰ひとり逆らえない権力を笠に着て、エアからリリアナを奪った張本人だった。  人々の視線と女性の執着を一身に集められるほどに美しい青年で、黒い髪は上質の漆を思わせる滑らかさ、そこから覗く紫色の瞳は大粒の宝石のように輝いている。繊細な美の持ち主だったが、だからと言ってか弱さはどこにも無く、瞳の鋭さや立派すぎる上背、無駄な肉をすべて削り落として鍛え上げられた体躯は、農民の目から見ても判るほどに一流の戦士の風格を漂わせていた。  大して難しい仕事ではないとは言え、王や大司教の書状を手に遣わされたのだから、それなりに身分も高いのだろう。平民には縁遠い絹の外套や、宝石の埋まった剣を身に着けられるほどに、金も持っているのだろう。彼が引き連れてきた部下たちの態度を見る限り、人望がある事も判る。 「どうして……俺から奪うんだよ」  エアは呟いて、頭半分は高い位置にある紫水晶の瞳を睨みつけた。 「どうして……」  目の前の青年のように、エアよりも恵まれている者が、この国にいくらでも居るだろう。そう言う奴らから奪えばいいではないか。  エアには特別美しい容姿も、豊かな財力もない。背は村にいる誰よりも高かったが、青年に比べれば低い。母はエアを産んですぐ、父は二年前に事故で死んだ。兄弟も親戚もなく、父が残した畑を耕しながら、ひとりで生きてきた。  だから、エアにはリリアナだけだったのだ。  リリアナだけが、エアに許されたものだったのだ。 「返せよ!」  よろける体の背筋をぴんと伸ばし、エアは噛み付く勢いで青年に迫ると、彼に掴みかかった。  戦闘に長けているだろう青年がエアの腕から逃れられないわけがなく、ならばエアの手の中にある上質の絹の手触りは、青年があえて避けなかった証。施しを受ける虚しさを認めるわけにも行かず、エアは青年を突き飛ばすように素早く手を離した。 「すまない」  言葉だけの謝罪でない事は、悲痛が色濃く浮かぶ表情を見れば明らかだが、だからと言って許す気にはなれなかった。 「うるせえよ。なんでリリアナなんだよ。女なんていくらでも居るだろ。ここにだって何十人も居るんだ。アンタや……王様の周りには、もっと美人が沢山居るだろ? なんでリリアナなんだよ!」 「代わりは居ない」  エアが続けて投げかけた問いに、青年は無機質な声で簡素な答えを返してきた。 「どれほど高貴な女性でも、どれほど美しい女性でも、どれほど心清らかな女性でも、リリアナ様の代わりにはなれないのだ」  そうだ。  誰ひとりとして、リリアナの代わりにはなれないのだ。  それが判っているならなぜ、俺からリリアナを奪う? 俺が辺境の田舎村に住むしがない農民だからか? リリアナを望む者が、この国で最も偉大なる存在だからか?  次々と胸に湧き上がる疑問を、青年に叩き付けようと、エアは口を開いて深く息を吸う。 「楽になりたければ、忘れるといい」  エアが声を出す前に、青年は表情ひとつ変えず、静かに言った。 「なっ……」 「今の君には酷な事を言った。だが、許しを乞うつもりはない。それが君のためにも一番良いと、私は確信している」  青年の目は冗談を言っている様子も、血迷った様子もなかった。あくまでも真剣で、真摯。  エアは体をくの字に曲げ、腹を押さえながら、笑い声を惜しみなく吐き出した。  リリアナを忘れる事が、許される中で一番の幸福だと言うのか?  リリアナのためにしてやれる事は、エアの居ないところで幸せであれと祈る事だけなのか?  では、今までリリアナと共に生きてきた日々には、何の意味も価値もなかったと言うのか――?  青年も自分自身も、滑稽でしかたがなかった。笑いはエアの口から勢いよく飛び出していき、同時に腹の底で形成しはじめた怒りを引きずり出していく。ひとしきり笑い終えたエアは、背を伸ばす勢いを借りて前に飛び出し、数歩の距離を一気に詰めて、青年の胸倉を再び掴んだ。 「……ふざけんな! どこから忘れろってんだ! 結婚の約束をした頃からか? あいつに惚れた頃からか? それともガキの頃、みんなで遊んでいた頃からか? それとも――」  エアは乱暴に涙を拭い、嘲笑を織り交ぜて言った。 「あいつの存在そのものを忘れろって言うのか?」  そんな事ができるわけがない。馬鹿げた事を言うな。そう言った意味を込め、青年を見上げながら見下して、エアは言ったのだ。  しかし青年は、エアの求めない答えを平然と告げた。 「その通りだ」  何もかもがどうでも良くなってくる。  己の生死すら意味のないものに思えた。リリアナが居ない世界は、全てがくだらなく価値のないものだった。 「――死ねって事か、俺に!」  吐き捨てると、エアの怒りに滾った心は、急速に静まっていった。  ああ、そうか。  死ねばいいのか。  今ならば苦しむ事もなく、笑いながら死んでいけるだろう。リリアナを奪った偉大なる存在の名と、知りうる限りの呪わしい言葉を残して死んでしまえば、きっと爽快だろう。  エアは青年の腰に下げられた長剣に手を伸ばした。手入れの行き届いたそれは、さぞ切れ味がいいだろうと思っての事だった。  しかしエアの手よりも青年の手の方が早い。あと少しで柄に指が届きそうなところで、青年の手はエアの手を払い除ける。エアの右手に鈍い痛みが走り、日に焼けた肌が赤く染まる。  他の選択肢を奪った男に、最後の道を奪われて、エアは途方に暮れた。僅かに痛みの残る右手を呆然と見つめた後、光のない瞳で青年を見上げた。 「じゃあ、どうしろって言うんだよ」  立っている事も億劫で、エアはその場に崩れ落ちた。 「生きる事も許されず、死ぬ事も許されず。俺は、どうすればいいんだ?」 「……」  青年は固く引き結んだ唇を解き、何か言おうとして、続きを言わずにエアの前に片膝を着いた。エアと視線の高さを等しくしてから、続ける。 「本当に、忘れられないのだと言うのなら」 「忘れられるものか」 「ならば、もう一度会おう。時が流れても、君の心がリリアナ様だけを叫んでいたのなら」  青年はエアにしか聞こえないように微かに囁いた。 「――手を組もう」 一章 約束の日 1  早朝に吹いた風は、温かで甘い香りを伴う風だった。  緩やかな風は時に草木を揺らし、水面に波紋を刻み、砂を舞い上がらせる。そうする事で、早朝から働く者たちに爽やかな感動を与えていく――僅かな温もりと花の香りによって冬の終わりを知った人々の表情に、柔らかな笑顔が浮かんでいく事で、風は己の使命を果たした事を知った。  だが風は、頑強な壁の前にはあまりに無力だった。太陽が昇りはじめたばかりの時分、未だ室内で眠りの中にある者たちに、春を伝える事ができないでいる。  何の力も及ぼせず、ただ跳ね除けられるしかなかった風は、やがて昨晩から閉じ忘れられたままの窓の隙間を見つけた。ここぞとばかりに隙間から忍び込んだ風は、未だ覚醒を知らない部屋の主の鼻腔を優しくくすぐった。  優しい甘さによって、青年の意識は夢の中から現実へと引きずり出される。  寝返りをうってから目を開けると、風と共に飛び込んできた光の眩しさに怯み、青年は慌てて目を閉じた。しばらくしてからゆっくりと目を開く。  眩しさと、花の香りと、風の温かさ。  それは、故郷に春の訪れを伝えてくれた、森の奥の花畑を思い出させた。胸を軋ませる、けれどとても優しい、少女の笑顔と共に。  青年はゆっくりと目を伏せた。今一度眠りに落ち、夢の世界へ旅立ちたいと望んだからだ。  温かな思い出が蘇った今ならば、幸せな夢が見られる。そんな予感があった。 「遠い昔に、本当にあったお話よ」  エアはリリアナの、幼い弟たちに語りかける優しい声が好きだった。  三人の弟と、弟の友人たちを狭い部屋に集めて、彼女はゆっくりと語りはじめる。大人、いや、ある程度歳を重ねていれば子供でも知っている、神話を。  エアも幼い頃、こうして自分より少し年長の者たちに幾度も語って聞かされた。今では自身で語れる程度に知っているが、当時の自分にとっては新鮮で、壮大で、何よりも興奮する物語だった。今リリアナを囲んでいる子供たちのように、目を輝かせながら聞き入っていただろう。もう一度聞かせてと話をせびったのも、一度や二度ではない。  子供たちの輪から離れ、部屋の隅から見守りながら、エアは懐かしい感情を思い出していた。幼い頃の自分が妙に恥ずかしくなり、誰も自分を見ていないと知りながらも俯いて顔を隠すと、耳朶をくすぐる優しい声が、別の記憶を呼び起こしていく。  この話を聞く時、いつも隣に居た少女の声。  懐かしさと愛しさが、同時に胸の中に湧き上がる。 「昔この大陸は、僅かな恵みのみの枯れた地で、人間たちは生きるために必死に働いて暮らしていたの。けれど、大地を荒らしてその僅かな恵みすら奪い、人間たちを傷付ける魔獣が、この大陸に現れてしまった。そうして人間たちは、立ち向かう事もできない強大な力を持つ魔獣を前に、命と未来を諦め、絶望に飲み込まれていったのよ」  ごくり、と、リリアナの弟は唾液を飲み込み、喉を湿らせる。彼が子供特有の果てしない想像力で、自分自身を恐怖に陥れたのだろうと想像したエアは、話の腰を折らないよう、気付かれないように笑った。 「そんな時、この大地を救ってくださったのが、今は天上におわす神、エイドルード!」  場を盛り上げるため、リリアナが声を大きくすると、話に聞き入る子供たち全員が目を大きく見開き、輝かせた。 「神と魔獣は、地上で死闘を繰り広げたわ。二十二日間も続いた激しい争いで、双方とも深く傷付いた。やがて勝利を治めたのは――」 「エイドルード?」  リリアナは力強く頷いた。 「もちろんよ。エイドルードはそうして私たち人間を、この大地に生きる全ての命を、お救いくださったの。けれど、エイドルードも長い争いに傷付き疲れていたから、魔獣を滅ぼすにはいたらなかった。代わりに、魔獣を地中深くに封印したのね。そうしてエイドルードは、魔獣に負わされた深い傷を癒すために、天上へと昇られた」  他人に安堵と温もりを与えるリリアナの笑みに力付けられたのは、エアだけではないようだった。魔獣が倒れたのみで命が潰えなかった事に恐怖していた子供たちも、ほっと息を吐き、満面の笑顔を浮かべている。 「でも、それじゃあ、封印が解けたら、大変だよね?」 「そうね。魔獣は再び地上に現れて、大地の恵みを奪い取り、私たちを傷付けるでしょう。明日食べるものも無くなって、苦しい思いをしなければならないかもしれない。特に、食いしん坊のカートはね」  名指しされたリリアナの一番下の弟は、辛そうな顔をして腹を抑えた。不安に輝く瞳が、救いを求めて宙を彷徨い、やがてエアを見つめる。  エアは小さく笑って頷き、視線をリリアナに向けた。リリアナの小さな弟は、エアにつられてリリアナに視線を向け、話を続けるリリアナの唇を凝視する事となった。 「心配しなくても大丈夫よ。エイドルードは天上に帰られたけれど、それでも地上の民を守ってくださっているの。地上の民からふたりの妻を選んで、彼女たちを通じて天上から地上に力を送り、魔獣を地中深くに縛り続けているのよ。それだけじゃなく、枯れかけていたはずの地上に、豊かな恵みをも与えてくださっている。だから、私たちは平和にのどかに、お腹いっぱいご飯が食べられるのよ」 「へー!」 「感謝しましょうね。天上の神エイドルードに」 「うん!」 「毎日しっかりお祈りするのよ。天上の神と――それから、地上の女神と呼ばれる人たちに」  リリアナが首を傾けて天を仰ぎ、目を伏せ、額の上で両手を組んで祈りはじめた。  子供たちも同じポーズを取ったが、リリアナのように純粋な祈りを捧げているわけではなく、今日明日の幸福を夢見ているだけだろう。それでも、同じ話を何度も聞き、同じ感謝を繰り返し捧げる事で、やがては聖なる祈りになっていくのだろう。  エアは姿勢を正してから、同じように祈った。今日までの幸せが永遠に続くよう――いや、更なる幸せが、自分たちに訪れるよう。 「じゃ、遊びにいこーぜ!」 「おう!」 「今日こそあの木、登ってやっからなー!」 「カートにはまだ無理だって」 「なんだと!」  エアの祈りは未だ終わっていなかったが、子供たちにはそんな事お構いなしのようで、はしゃいだ声と荒い足音を立てながら、次々と部屋を飛び出していった。  残されたエアは呆気に取られて、リリアナは不服そうに眉間に皺を寄せて、子供たちの背中を見つめていたが、やがて子供たちの気配が家の中から完全に消え去ると、顔を見合わせて笑った。  神への祈りをおざなりにするなど許される事ではなく、子供たちよりもいくらか歳を重ねたふたりは、彼らを追いかけ、注意し、叱りつける立場にあるのかもしれない。だが、無邪気で、身勝手で、当たり前に与えられるものへの感謝をおろそかにする――そんな時代の気持ちをすっかり忘れ去るには、ふたりはまだ若すぎた。 「もう。みんな、誰かさんの子供の頃みたいね」 「人の事言えるのか? 確か、最初に話を聞いた時、俺より先に飛び出したやつがひとり居たはずだけどな」 「……さーてと、じゃ、今夜の準備のお手伝いに行ってこようかな」  嫌味にも似たからかいの言葉を軽く流して、リリアナは立ち上がった。 「もうか?」 「あら。準備は早くからやるにこした事ないでしょ? 成人をお祝いする宴なんだし。それだけ丁寧に祝福してもらえるんだから、祝われる人は喜ぶべきじゃないの?」 「それは、そうなんだけど、な」  確かに今日はエアの十六歳の誕生日で、それはつまり、エアが大人として認められる日であるのだが、昨日までが子供で今日からは大人なのだと突然言われても、あっさり納得できるものではなかった。  陽が落ちて夜となり、宴の時を向かえれば緊張感が増し、自覚が生まれるかもしれない。だが宴の準備もはじまっていない今では、まだ難しかった。 「宴の最中は男の人たちの宴会がすごくて近寄れないかもしれないし、宴の後はお酒に飲まれてる可能性が高いし、だから今のうちに言っておくわね。成人おめでとう、エア」  リリアナはエアの前に立つと、にこりと笑ってエアに手を差し伸べた。  少し戸惑ってから、エアはリリアナの手を取り立ち上がった。掴んだ手は名残惜しく、なかなか手を離せない。ごまかすように、じっとリリアナを見下ろした。 「エアが成人なんてびっくりしちゃうけど、こうしてみるとやっぱり、大人になったよね。昔は同じくらいだったのに」  自身の頭に手のひらを置いたリリアナは、その手をゆっくりとエアの方へずらす。  白く柔らかな手がエアの唇に触れると、エアはどきりとした。 「大人になるのはあと三ヶ月たらずで追い着けるけど、身長は一生追い着けないなあ」 「……女がこれだけでかかったら気味悪いだろ。俺はもう、村で一番でかいんだぞ」 「そうでした」  くすくすと甘い笑い声が、耳を通ってエアの脳内に響き渡った。  甘美な誘惑にも似たそれを、受け入れるでもなく振り払うでもなく、エアは一瞬目を伏せてから、リリアナの手をぐっと握り締める。 「っつ……」 「あ、悪い」  リリアナが顔をしかめたので、エアは手を少しだけ緩めた。 「もう、何なの?」 「えっと……宴の準備なんて手ぇ抜いていいからさ、ちょっと付き合えよ」 「普通宴の主役がそんな事言う? まあ、女の人たちの集合時間はお昼過ぎだから、時間あるけど」 「よし」 「どこ行くの?」  エアはリリアナの手を引いて歩きはじめた。 「お前に見せたいものがあるんだ」  ふたりは部屋を、家を、村を飛び出して、森を進んだ。幼い頃よく遊んでいたあたりを越えて、森がいっそう深まると、リリアナは少し不安そうになる。そんな時、エアが手を握る力を少しだけ強めると、リリアナは小さな笑顔をエアに向けるのだった。  人が滅多に歩かない道は歩き辛く、リリアナはしょっちゅう木の根に突っかかったり、土に足をとられたりしていた。そんな彼女の手を引いて森を進むのは、正直言えば大変だったが、彼女の喜んだ笑顔と引き換えならば、苦労とは思えなかった。  リリアナが喜ばなかったらどうしようと言う不安は、少しある。だが、それをあっさりとかき消せるほどに、喜んでもらえる自信がエアにはあった。 「ねえ、どこまで……」 「ほら、見てみろよ」  リリアナが不満と不服を言葉に現しはじめたと同時に、エアは目的地に到着した。腕を使って藪を掃い、視界を開く。  リリアナは軽く首をかしげながら、隙間を縫って、エアが視線を向ける方向を覗き込んだ。  そこには、赤、桃色、橙色、黄色、白、紫、青――知っている限りの色が、太陽の光を心地よさそうに浴びながら存在していた。 「……すごい」  リリアナは一瞬だけ呆けた顔をして、それからすぐに、エアが期待した通り、満面の笑みを浮かべる。幾度も幾度も「すごい」を繰り返して、「近くで見よう」とエアが声をかけると、ためらわずに着いてきた。  甘い香りに誘われる虫たちように、ふたりは花畑の中に足を踏み入れる。そこだけが他の場所よりも明るく強く、エイドルードの恵みを与えられたかのようだった。 「どうして? 村の近くの花畑は、ようやくいくつかつぼみが膨らみはじめたばかりで」 「不思議だろ? 俺も昨日たまたま見つけてさ、びっくりしたんだ。びっくりして、んで、お前を思いだした。お前、春が好きだから、これ見たら喜ぶだろうなって」  頷いたリリアナは、花畑の中にしゃがみ込んだ。  さっきまで子供たちに神話を語って聞かせていた少女と同一人物とは思えない、幼女のように無邪気な笑顔を見せていた。摘もうとしたのか茎に手をやったかと思えばためらい、諦め、膝を抱えて花たちをじっくりと眺めている。 「連れてきてくれてありがと、エア」 「大した事じゃねえけどな」 「大した事だよ。すごく嬉しい」  眩しげに、愛しげに目を細めて、リリアナはそれだけ言った。その横顔は幸福に満ちていて、彼女はどれほど春を愛しているのかが、無言でも伝わってきた。  喜んでいる彼女を見られて嬉しい。だが、自分そっちのけで花と戯れている彼女が少し悔しい。  人間相手や動物相手ならばまだともかく、季節に対して僅かながらも嫉妬を抱く自分が滑稽で、エアは己の頭を抱えて思考をかき消した。 「どうして春が好きなんだ?」  常々抱いていた疑問を投げかけるのも、思考を切り替える方法のひとつだった。  もっとも春と言うのは、誰もが――もちろんエアもだ――愛する季節であるから、聞かなくとも何となく答えを想像する事はできたのだが。 「冬がね、あまり好きじゃないの。時折降る雪は真っ白で綺麗だけれど、寒いし、冷たい水で手が荒れてしまうでしょう。それに、枯れた木々や土の茶色とか、薄暗い空色くらいしか目に映る色がないのも、寂しいと思わない?」 「まあな」 「だから春が好きなの。冬の終わりを告げてくれる春。華やかで明るい世界を、みずみずしく色付いていく景色を見ると、楽しくて幸せな気分になれるし、吹き込んでくる隙間風に身を凍えさせる事もないし、それに――」  エアと私が生まれた季節だからかもね、と、はにかみながら続けるリリアナが愛しすぎて、エアはたまらず彼女を抱き寄せた。リリアナは頬を染め、身を強張らせたが、けしてエアの腕から逃れようとはしなかった。  互いの服を介して伝わってくる温もりが、胸に少しの苦さと、途方もない心地良さを与えてくれる。  夢のようだった。  エアに温もりを与えてくれる全ての存在が消えてから、焦がれ続けていた温もり。それが今、こうして胸の中にあるのだ。  無意識に笑みを口元に浮かべ、幸福に酔っていたエアは、しばらくしてようやくリリアナをここに連れてきた一番の目的を思い出した。  十六歳の誕生日、成人を向かえるその日に、逃れられない強い感情を彼女に伝えようと決めた。狭い村の中は何となく嫌で、どこで伝えようか悩んでいる時にこの花畑を見つけた時は、天の啓示かと思ったものだ。 「えっと、さ。リリアナ」 「何?」  覗き込むように見上げてくるリリアナの愛らしさに、言葉にする勇気が徐々に失われていく。エアは彼女から顔を反らし、気付かれないように静かに、深く深呼吸をした。  それでもはっきりと言えるだけの勇気は戻ってこない。昨晩寝る前、何度も何度も練習してみたと言うのに、あの練習の意味は何だったのか。 「えっと、その、来年もここ、ふたりで見に来ような」 「……うん」  来年まで引き伸ばすつもりがあるわけではない。エアは硬く目を瞑り、声の震えを必死に抑えて続けた。 「再来年も」 「うん」 「その次も、その次も……ずっとだ」  もっと直接的に判りやすい表現で伝える予定だった言葉は、ひどく湾曲的な言葉へと変わってしまった。これでは言葉に込めた真意が伝わらない可能性もあり、確かめるために恐る恐る目を開けて、エアはリリアナを見下ろした。  どうやらリリアナは、しっかりと理解してくれたようだった。いっそう赤く染まった顔を、両手で覆ってエアから隠している。  ずっと一緒に居たかったのだ。  性別の違いなどを意識する事もない幼い頃からずっと一緒に居たこの少女を、いつから愛しく想いはじめたのか、はっきりとは覚えていない。けれど、大切なものを失ってひとり泣いていたエアの手を、リリアナがずっと握り締めていてくれた時――温もりを与え続けてくれた時、この少女を好きで良かったと、心から思ったものだ。  彼女を選んだ自分が、誇らしいと。 「馬鹿みたい」  リリアナは顔を伏せたまま、震えた唇で言った。  求婚の返事としては最悪の部類に入るその言葉を聞いて、エアの心中は穏やかではなかったが、リリアナが可憐な唇で何かを紡ごうとしていたので、黙って続く言葉を待った。 「今日は貴方の誕生日じゃない。それもただの誕生日じゃないのよ。十六回目よ。貴方が成人したと認められる、大切な誕生日。夜には貴方の成人を祝って宴がひらかれる。村のみんなから、たくさんの贈りものを貰うんでしょう」 「ああ、そうだよ。だから」 「そんな日に、そんな日に……こんな素敵な贈りものをくれるなんて。私は一体何を贈り返せばいいのよ」  両手の隙間から覗く彼女の双眸は潤んでいた。少しの自惚れも手伝って、それが悲しみの涙では無いと確信したエアは、小さく吹き出して彼女の耳元に唇を寄せる。 「人に馬鹿って言っておきながら、お前の方がよっぽど馬鹿じゃないか」 「どうして」 「だって、そんなの簡単だろ。お前にしか言えない、俺が今一番欲しい言葉をくれればいいんだよ」  エアはゆっくりと不器用に、リリアナの髪を撫でた。それから緩慢な動きで、リリアナの背に両腕を回す。  優しい温もりと共に伝わってくる、早すぎる鼓動。もしかするとリリアナは、エア以上に緊張しているのかもしれなかった。 「花畑」 「ん?」 「来年も、一緒に見に来ましょう」 「ああ」 「再来年も」 「ああ」 「その次も、その次も、ずっと、ふたりで。ううん、子供が生まれたら、その子も連れてきてあげましょう」  エアはリリアナを包む二本の腕に、強い力を込めた。  他愛もない約束は、死が二人を分かつまで、果たされ続けると信じていた。  あの日、愛しい少女の温もりに酔いながら、まるで夢のようだと思ったのは自分だ。だから本当に夢だと知った時、生きる気力を失うほどに落胆してしまうのは、筋違いなのだろうか?  青年――エアは、寝台から身を起こし、首を振る事で、問いかける相手も答えもない問いを脳内から追い払った。  エアは自身の目元を指で軽く拭った。優しい思い出を引きずり出した夢は、エアの目に温かな涙を滲ませるだけの力がある事を、過去の経験で知っていたからだ。  だが、指先に液体の感触は無かった。  エアの手より幸福が零れ落ちてから何年もの月日が経っており、その間に繰り返し同じ夢を見て、繰り返し泣いた。だから、涙など遠い昔に枯れてしまったのかもしれない――そう考えかけて、あるいは過去を愛しく思う必要がなくなったからかもしれないと思い直したエアは、窓から差し込んでくる光の角度で大体の時間を察し、やや慌てて着替えはじめた。  愛しい事に変わりはない。だが、過去は過去なのだ。どれほど強く望もうとも、息苦しいほど平凡で退屈だった幸福の日々に戻る事は、もうできない。  だからこそ全てを振り切り、前へ進む事に決めたのだ。立ちはだかる無数の壁を、蹴破るように前へ進む、と。それ以外に、エアが生きる道は残されていなかったのだから。 「エア殿」  ちょうど身づくろいを終えたところで、部屋の扉が叩かれた。 「どなたです?」 「ルスターです。さすがエア殿。もう起きておられましたか。いつもより少し早いですが、そろそろ朝食を召された方がよろしいかと思い、迎えに来ました。エア殿には不要だったようですが」 「いいえ。ご親切に、どうもありがとうございます」  エアは扉にかかっていた鍵を開け、ゆっくりと扉を開けると通路に出る。わざわざエアを起こしにきてくれたらしい、エアよりも頭半分ほど背が低く、エアよりもいくつか歳若い少年に対して一礼した。  食堂に向けて歩みを進めるエアの隣にルスターは並んだ。少年が一歩歩くたびに少し癖のある蜂蜜色の髪が揺れ、細い輪郭を艶やかに撫でる。嫌味のない程度に整った顔に浮かぶ曇りのない緑の瞳に見上げられ、何となく居心地が悪くなったエアは、真っ直ぐ正面を見、できる限りルスターを視界に入れないようにした。 「いよいよ今日ですね。試合の事を思うと緊張してしまい、あまり眠れませんでした」  エアは「お前が緊張してどうする」と口にしかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。 「私が緊張する事ではないと判ってはいるのですが、つい。まさか入団一年目である自分と同期のエア殿が、御前試合に出る事になるとは夢にも思わなかったものですから。我ら聖騎士団の長い歴史において、過去に十人とおりません。もし優勝と言う事になれば、現団長アシュレイ様に続く、二人目の快挙です」 「入団一年目とは申しましても、私は遅い入団でしたから。普通の――まだ体ができ上がるか否かの年齢で入団される方々よりはいささか有利で当然です。御歳十六歳で入団され、その年に優勝なされたアシュレイ様と並ぶには、恐れ多く思います。しかもあの方は、歴史上類を見ない若さで聖騎士団長を就任なされた方ではないですか」 「確かにアシュレイ様は優れたお方です。あのお方は、エイドルードに選ばれた方なのでしょう。ですが私は、アシュレイ様と同じだけの光を、貴方からも感じます」  少年はエアを見上げる瞳をいっそう輝かせて言った。  エアは「お前の目は節穴か」と言いたい気持ちをぐっと抑えなければならなかった。そのように品のない口ぶりや相手を蔑む言葉は、栄誉ある聖騎士団の一員である自分が使っていいものではなかったからだ。  それに、ある意味でルスター言っている事は当たっている。自分も、エイドルードに選ばれた人間なのだろう――良い意味ではけしてないのだが。 「滅多な事をおっしゃるものではありません」 「……そうでしたね。聞く者が聞けば、貴方に歪んだ感情を抱くやもしれません。失礼いたしました」 「ですが、貴方のお気持ちは嬉しく思います。私の力でどこまで行けるかは判りませんが、少しでも上に行けるよう、全力を尽くしましょう」  エアは可能な限り優しく微笑んだ。 「見ている事しかできませんが、私たち同期一同はエア殿を応援しておりますよ。ぜひとも優勝し、アシュレイ団長と剣を交えてください」 「頑張ります」  エアが答えると、ルスターも微笑んだ。それからエアが鋭い視線で正面を見据えると、ルスターはそれ以上エアに何も言おうとはしなかった。エアは内心ほっとしたが、それを外に見せはしなかった。  当たり前だ。誰に言われなくとも、誰の応援がなくとも、勝ち進んでみせる。  それこそが、エアがここに居る意味。生きている理由に繋がるものなのだから。 2  天上の神エイドルードが魔獣を地中深くに封印したのは、人の一生の長さを考えて計れば、遥か昔の事となる。  魔獣との争いで傷付き、地上では傷を癒せなかったエイドルードは、大陸の北の果てにあるセルナーンと呼ばれる大地より天上へと旅立った。  聖職者たちは最も神の住まう地に近きセルナーンを聖地と呼び、そこでエイドルードへの祈りを捧げ続け、やがてひとりの聖職者がエイドルードの声を聞いた。  聖職者たちはエイドルードの言葉に従い、セルナーンに神殿を建築。また、大陸南西にある砂漠と南東にある森にも同様に神殿を建てる。大神殿、砂漠の神殿、森の神殿と呼ばれる三つの神殿はそれぞれ、神の代理人たる司教とふたりの妻の住居とされた。司教が神の言葉を授かり人々に伝える事で大陸の安寧が、神の妻がそれぞれの神殿で祈り神からの力を授かる事で魔獣の封印が、長く長く保たれてきたのだ。  つまりこの国において司教や神の妻――地上の女神と呼ばれる女性たち――は、国王と同様、いや、勝るとも言って良い重鎮であるため、彼らの守り手である聖騎士団員は、優秀な者であれば身分を問わないと言う門戸の広さと相まって、民の憧れの職業であった。  しかし門戸が広いと言っても、誰もが聖騎士団に入れるわけではもちろんなく、厳しい入団試験によって聖騎士団員に相応しい礼節と教養と武芸を身に付けた一握りの者のみが選ばれる。故に、聖騎士団員のほとんどは、幼い頃から相応の教育を受けつつも将来があまり明るくない、下級貴族や裕福な家に生まれた次男以下ばかりだった。  そんな彼らにとって、明らかに出自が異なるエアの存在が良くも悪くも目に付くだろう事は、入団する前から判っていた事だった。ましてそんなエアが、毎年三十歳未満の聖騎士団員全てが参加して行われる武術大会を決勝まで勝ち進み、王や司教までもが観戦する御前試合に出る事になったとなれば、注目せざるをえないだろう。  元々村で一番背が高く、一番足が早かったエアは、注目される事に多少慣れてはいたのだが、所詮は小さな田舎村での事である。育ちが違う者たちの視線を浴びるように受ける事は居心地が悪く、苦痛と言って差し支えがなかった――もっとも、三年前に受けた苦痛を思えば、この程度の事は痛みでも不快でもないのだが。  エアは伏せていた目を開いた。  視界と意識を閉じる事で遮断していた外部が、一気に迫り来る。興奮と好奇心が奇声混じりの声援となり、すり鉢状の闘技場の底辺に立つエアを、熱風のように襲った。  想像していたよりもはるかに見物客が多い。エアは御前試合と言う呼び名に勝手に高尚な印象を持っていたため、見物客は王や司教、せいせいが聖騎士団の者たち程度だろうと思っていたのだが、明らかにそれだけではなさそうだった。  もちろん、貴賓席には王や司教が座っている。その周りには貴族と思わしき煌びやかな格好をした者たちが居る。そして彼らを守るように聖騎士団や王宮騎士団の者たちが居たが、それ以外の席は王都にして国一番の商業都市セルナーンに住まう一般の民と思われ、騒いでいるのは主に彼らだった。  若き騎士たちが研鑽し更なる高みを目指すための武術大会と聞いていたが、上位二名まで勝ち進んだ者に与えられる栄誉は、「民への見世物」らしい。栄誉ある聖騎士団の一員の仕事が、王都の民の鬱憤晴らしなのかと思うとたまらず、エアは吐き捨てるように「馬鹿馬鹿しい」と呟いた。  ゆっくりと歩みを進める。エアと、エアの対戦相手が試合場の中心に近付くに連れて、見物人の興奮が徐々に高まっていく。  エアの対戦相手は、ディナス・オリンストと言う名の、エアよりも十ほど年上の青年だった。王都セルナーン一と言って過言ではない有力商人の次男で、いわゆる「幼い頃から相応の教育を受けた上流階級の息子」だ。一般的に高貴とみなされる貴族の血は流れていないらしいが、充分に品のある人物で、裕福な家庭で厳しく育てられたのだろうと予想できた。そうでもなければ、聖騎士団に入るだけの能力、あるいは能力不足を補えるだけの根性を持つ事はなかったのだろう。  エアはディナスが決勝に至るまでの、いくつかの試合を観戦していた。かなりのてだれで、強敵だと思った。過去に何度か御前試合に出たと言う実績は、伊達ではないようだ。 「……あと、一戦」  己を鼓舞するためにそう呟いたエアは、予め指定された場所に到達すると、直立して姿勢を正した。一歩遅れて到着したディナスが同じ姿勢をとると、同時に礼をし、同時に顔を上げる。そして腰に下げた、柄に紋章が刻まれた剣を同時に引き抜くと、切っ先を互いに向けあう。  歓声が静まった。彼らは待ち望む試合がはじまるその瞬間を、固唾を呑んで見守っているのだろう。  エアか、それともディナスか。どちらからともなく僅かに動くと、キン、と乾いた音を立てて、互いの刃が触れ合う。  それが試合開始の合図だった。  再び会場内は熱狂した歓声で支配された。ディナスの息遣いや足音はまったく聞こえず、彼の動きを察知するには目に頼るしかない。自然、片時も目を反らすまいと相手を睨みつける形になる。  エアはディナスの刺すような視線を遮るように剣を振るった。今までの対戦相手ならば確実に脇を捕らえたはずの一撃だが、さすがにそう簡単にはいかない。エアの剣ははじき返され、歓声を裂くように金属音が響いた。  ディナスは続けざまに剣を振るった。幾度も打ち付けられる剣を全てはじき返す、あるいは避けるのは至難の技で、エアは防衛に意識の全てを集中せざるを得ない。形勢を立てなおし反撃に出る事は難しく、しばらく防戦一方の状態が続いた。  十を越える回数切り結んだ後に来た一撃は、体重の全てを一点に集中したかのように重かった。かろうじて受け止めたエアだったが、剣を握る両手が震えてしまう。押し返そうと力を込めると、震えは強まる一方だった。  エアは静かに息を吐くと同時に、刃を傾けた。二本の剣は互いの中ほどで重なる事で膠着しており、傾く事で一方の力の流れが変わると、もう一方の力の流れも強制的に変わってしまう。  ディナスの剣はエアの剣の上を滑り落ち、その切っ先を地面に埋めた。  そこでうろたえなかったのだから、ディナスは冷静な剣士なのだろう。彼はすかさず剣を引き抜き、その勢いを借りて振り返り、剣を頭上に構える。  エアが振り下ろした剣と、ディナスが振り上げた剣とが、火花を散らした。  攻撃手を失ったのは、今度はディナスの方だった。不利な体勢で剣を構えるディナスに、エアはもう一度、万全の体勢から重い一撃を食らわせる。  ひときわ大きな金属音が会場中に響き、歓声が途切れた。  音と同時に、ひと振りの剣が宙を舞った。重苦しく風を切りながら幾度か回転し、ふたりから少し離れた地面に突き刺さる。  会場中の人間の視線が剣に集中したが、それは一瞬の事だった。すぐさま、本人以外の全ての人間の視線が、ひとりの男に注がれたのだから。  視線を集めた主――エアは、素手となったディナスの喉元に剣の先を突きつけていた。 「勝者、エア・リーン!」  審判を勤める聖騎士団長、アシュレイ・セルダの声が響き渡ると、鼓膜が破れそうなほどの喝采がエアに注がれた。  エアは剣を鞘に収め、ディナスとの礼を終えてから、エアの勝利を叫ぶ観客たちに振り返り、手を上げて応えた。どこを見渡してもエアの名を呼び、エアを称える者ばかりで、これまで冷静に勤めていたエアも思わず動揺し、息を飲んだ。 「おめでとう、エア殿」  未だ歓声が鳴り止まぬ中で、ディナスはエアに言った。ディナスは敗北が確定したその時こそ大きく落胆していたが、今はそのそぶりも見せず、純粋な眼差しを傾けてエアを祝福している。  その絵に描いたような好青年ぶりは、エアの好むところではなかったが、拒絶する事のできない魔力のようなものがあった。 「私は今回が最後の機会だったものでな。今年こそはと思ったのだが、君のような人物に敗北したのならば、悔いはない」 「ディナス様……」 「アシュレイ様との試合も頑張りたまえ。君ならば、あるいは」  ディナスが右手を差し出して来たので、エアはその手をしっかりと握り、堅い握手を交わす。 「自信はありませんが……敗北したとしても、全力を持っての事だと胸を張って報告できるよう勤めます」 「観客席で応援しているよ」  試合中はけして見せる事のなかった穏やかな微笑を残し、ディナスは踵を返して試合場を立ち去っていった。  選手入り口の扉が閉まるその時まで、エアはディナスの背中を見送る。彼が視界から完全に消え去るのを確認してから、視線を動かした。  エアが睨むように見つめた相手は、今現在観客の視線をエアと二分している人物だった。  王や司教が腰を下ろす貴賓席よりいくらか段を降りたところに立っている青年――アシュレイ・セルダは、聖騎士団長の証である絹で織られた藍色の外套を脱ぎ、無言で階段を降りてくる。そして観客席と試合場を遮る重厚な扉を開き、エアと同じ場に立った。  やや長めの黒髪がゆるい風に揺れ、品のある端整な顔を撫でる。客席に数多く見られる女たちは、戦いそのものよりもこの男が目当てなのだろうと、エアは漠然と理解した。  エアは体ごと向き直り、無言で近付いてくる団長を迎えた。  観客たちの無言の期待がのしかかる息苦しさに耐えるため、意図的に周りを遮断した今、エアの意識の中には自分とアシュレイのふたりきりしか存在しなかった。不要な緊張が治まる代わりに、感情の底に沈めていたものが目を覚ましてざわめくのを感じたエアは、無意識に剣の柄に手をかけていた。 「まずは礼だ」  穏やかな笑みを口元に浮かべ、アシュレイは窘めるように言う。 「武術大会の優勝者と聖騎士団長の手合わせは、本日一番の余興だ。注目も一番集まる。これまでの努力を無駄にしたくなければ、聖騎士団員として恥じない態度で臨め」  従う事は悔しかったが、逆らうために不利を負うほど愚かではなく、エアは美しい姿勢で直立し、深々と礼をした。  二本の剣の切っ先が触れ合う。  小さいが歓声を縫って人の耳に届くその音が試合の開始を会場中の者に伝え、逃れようのない熱が再びエアたちを襲った。  エアが素早く切りかかり、アシュレイがそれをはじく。ほとんど間を空けずに鳴り響く金属音は、音楽を奏でているかのようだった。 「よくここまで来たな」  アシュレイに剣を受け止められ、それ以上進む事も引く事もできなくなったのは、ちょうど十撃目の事だ。膠着した二本の刃がぎりぎりと鈍い音を立てる。 「来いと言ったのは、お前だろう」  エアは言葉遣いも気にせず、冷たい声で吐き捨てるように言った。  試合会場と客席には大きな距離があり、通常の状態でも大声を出さなければ声は届かない。その上、今は観客のほとんどが唸っている。この状態ではアシュレイ以外の誰に聞かれるわけでもないのだから、これで構わないだろう。アシュレイは不愉快かもしれないが、彼の機嫌を取る気などエアには毛頭なかった。  忘れもしない。この男こそが、エアの幸福を、エアが最も大切にしていた存在を、奪い取ったのだ。  実際にエアからリリアナを奪ったのはアシュレイではない。だが、エアの目の前でリリアナを連れ去った実行犯は紛れもなくアシュレイであり、呪いに似た憎悪を抱かずにはいられなかった。手合わせ中の事故と称して命を奪っても、罪悪感など湧かない自信があるほどだ。 「お前、言ったよな。三年前。忘れるといい、って」 「ああ」 「悔しいがお前の言う通りだった。忘れれば楽になれるって、この三年間何度も何度も何度も考えたよ。でも」 「忘れられなかったか」  剣の刃から柄、柄からエアの手に伝わる感覚の変化に戸惑い、エアは後ろに跳ねてアシュレイから離れた。その判断が正しかった事は、それまでエアが居た場所にアシュレイの剣が振り下ろされている様子を見れば明らかだ。  あと一瞬遅くなっていればどうなっていたか。 「本気で殺す気か」  アシュレイは答えず、次の一撃を振り下ろす。エアは素早い動きでそれを避け、アシュレイの頭に向けて剣を薙ぐ。 「それはこちらの台詞ではないか」  エアの一撃を受け止め、アシュレイは言った。避けられなかったら死んでいたのは、彼も同じだったからだ。  再び膠着状態に入り、観客の興奮で空気が震えた。  苦痛にも苦労にも歪む事のない嫌味なほど端整な顔を、どうしたら歪ませてやれるのかとエアは考える。エアに不幸と言う単純な言葉だけで片付けられない不幸をもたらしたのは、この聖人ぶった男であったから。 『忘れるといい』と言った男。そして、『忘れられないのならば、もう一度会おう』と言った男。  この、世界中で最も憎い人間に再び出会うために三年を費やした事実は、エアにとって屈辱以外の何者でもなかった。傷付けられないのならば、殺せないのならば、二度と会いたくない人物であったのだから。 『――手を組もう。私の力があれば、君は大切な人を取り戻せる。会いに来るのだ、私に』  三年前の記憶は、今でも鮮明に残っている。涙に歪んだ視界に、悲哀の輝きを秘めた紫水晶の瞳が映った時の事も。  あれほど不愉快に思っていた男の言葉をなぜ信じられたのか、今になってもエアには判らない。だがあの瞬間、錯覚かもしれないが、エアは思ったのだ。この男は、エアの苦しみを理解しているのかもしれない、と。  その日からエアにとってアシュレイは、深い憎悪を抱く相手であると同時に、残された唯一の希望となった。忘れる事も許す事もできないまま、ただこの男に会うために、言葉では語りつくせないほどの努力を重ねた。肉体を限界以上に駆使して剣技を会得し、礼節と勉学を学び――そうして難関と言われている聖騎士団の入団試験を通ったのだ。  それが聖騎士団の歴史上、農民出としては三人目の快挙であると言う事は、入団してしばらく経ってから知った。アシュレイ・セルダ聖騎士団長が、聖騎士団に入団した程度では会えない人物であると言う事実と共に。 「見違えたな。背も伸び、逞しくなった。顔つきもまるで違う。別人のようだ」 「三年前鍛え続けたんだ。嫌でも変わる。それより、先に言っておけ」 「何を?」 「お前に会うには奇跡を起こさなければいけないと言う事を、だ」  アシュレイがエアの剣をはじき、ふたりは後方へ身を下げて距離をおく。互いに正眼に構えるが、その刃が触れるためには、あと一歩詰めなければならないだろう。  エアは動けなかった。アシュレイはおそらく、動かないだけだ。そこにふたりの実力差が見えた気がして、エアは悔しさを堪えるために自身の唇を軽く噛んだ。 「先に言えば、君は諦めていたかもしれないだろう。言わなかった事を感謝してほしい」  すう、と静かに息を吸ってから、アシュレイは動いた。瞬時に一歩の距離を埋め、しっかりと構えたはずのエアの剣を薙ぎ払う。  構えと共にエアの体勢は崩された。アシュレイにわき腹や背中を晒す事にもなりかねず、これ以上身を崩すわけにはいかないと脚に力を込めて耐える。反動を利用し、アシュレイが居ると思わしき方向へ剣を振り上げた。  そこにアシュレイは居た。だが、不自然な体勢から繰り出されるエアの攻撃に驚く様子も怯む様子もなく冷静に対応し、エアの剣を軽く受け流した。その勢いを利用してエアの体を倒し、肩を打ち付けたばかりのエアの首筋に剣を突きつける。  完璧だ。どう体勢を立て直そうとしても首が切れる。反撃の術を思いつかず、エアは静かに目を伏せた。 「勝負あり、のようだな」  今日一番の歓声が、アシュレイに降りそそいだ。  アシュレイは剣を納め、客席に向けて手を上げながら歓声に応える。ディナスとの試合では男たちの野太い声が強かったが、今は女性の金切り声が強く主張し、彼の女性人気の高さを証明する事となった。  エアは身を起こし、剣を鞘にしまった。  エアにとってはアシュレイに会う事そのものが目的であり、武術大会で優勝する事も、彼と手合わせをする事も、特に望んでいたわけではない。だが、この男に敗北したと言う事実は純粋に悔しく、吐き捨てたい気分になった。 「奇跡が必要だったのだ」  アシュレイは振り返り、エアと向き合う。  向けられた瞳に輝く感情は三年前に彼が見せたものと同じ、悲哀。  エアは無言で言葉の続きを待った。 「聖騎士団に入団し、武術大会に優勝すると言う功績。君がそれを得られなければ、条件は整わない。ここまで来られたからこそ、君は大切な人を取り戻す機会を得られたのだよ、エア」 「……は?」 「詳しい事は今夜話そう。夕食後、私の執務室に来てくれ」  気軽に言うアシュレイに、エアはすぐさま反論した。 「無理だ。俺のような末端の団員がお前の部屋に近付こうとしても、止められる」  エアは入団直後の経験から真実を語ったが、アシュレイは意味ありげに微笑んで流した。 「今までの君であればそうだろう。だが今日からの君は違う。武術大会の優勝者を労う程度の事は、過去の聖騎士団長は皆がやってきている事だ。誰も君を追い返したりはしないし、私の部屋に近付く事を疑いはしない。それに、君はもうすぐただの団員ではなくなる」 「……は?」 「伝統だよ。武術大会の優勝者には小隊長の地位が与えられる。小隊とは言え隊長格ならば、私と会う事は難しくない。しかも君には、尊い役目を担ってもらう事になるのだから、なおさらだ」 「尊い役目?」 「それも今夜話す事になるだろう。さあ、とりあえず礼だ」  窘められ、エアは慌てて直立し、アシュレイに深々と頭を下げる。しばらくして顔を上げると、アシュレイはそばで見なければ判らないほど小さく肯いてから、その場を立ち去った。 3  通路のところどころに備え付けられた燭台に灯る小さな炎は、暗闇を照らすには役者不足で、慣れない道を歩むには心許ない。だが戻って灯りを取りに行くのも面倒で、エアはそのまま進む事を選んだ。どうせ目的の部屋はこの通路の最奥で、間違えようがないのだから。  聖騎士団の中でも上位の役職を持つ者たちに与えられた部屋が並ぶその通路は、伝達役などでもない限り、エアのような新人騎士が通れる道ではない。伝達ですらよほど緊急の用でない限り隊長格を通すのだから、エアの同期でここを歩いた事がある者は居ないだろう。  今から半年前、入団して間もなくのエアは、通路に足を踏み入れようとした瞬間引き止められた。アシュレイ団長に合わせてほしいと言っても取り合ってもらえず、苦い思いをしたものだ。  それが今は、顔を見ただけであっさりと通してもらえるのだから、変われば変わるものである。「武術大会の優勝者」と言う肩書きは、少なくとも聖騎士団の中では絶大な威力を発揮するものらしく、その現実に半ば呆れながら、エアは暗い道を進んでいた。  響き渡る自身の足音を耳にしながら進むと、やがて突き当たりに到着した。そこには扉がひとつあり、はめられたプレートに名前が刻まれている。もちろん、アシュレイ・セルダの名だ。  エアは静かに息を吐き出してから、扉を叩いた。間もなく、「どうぞ」と返事がきたので、扉を開ける。  部屋の主は広い机の前に座っていた。机上には数枚の書類が広げられており、何らかの仕事をしていたようだ。  アシュレイは手にしていたペンを置き、広げていた書類のうちの二枚を手にとって席を立つと、小さなテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている応接用のソファの片方に座るよう、エアに進めてきた。  言われるまでもなくソファに歩み寄っていたエアは、深々と腰を下ろす。傍若無人なエアのありように呆れたか、僅かに苦笑を浮かべたアシュレイがエアの向かいに座るまで、少し間があった。 「それで?」  アシュレイと向かい合って座っている事はエアにとって苦痛でしかなく、その状況から一刻も早く逃れるために、エアは颯爽と話を切り出した。 「そう急くな」 「こっちとしては、早く用件を済ませて出て行きたいんだ。お前がリリアナを取り返す術を知っていなければ、会話もしたくないし顔も見たくないくらいなんだからな」 「それは申し訳ないな。では、もうしばらく我慢してもらおうか」  エアがあからさまに不快を示しても、アシュレイは機嫌を損ねる様子は見せなかった。何とも無いかのように大らかに受け入れてしまう。  その聖人ぶった態度がエアを余計に苛立たせるのだが、本人はおそらく自覚していないだろう。常に自分が正しいと思い込んでいるに違いないのだ――エアからリリアナを奪ったあの日さえ。 「君の想い人が今どこに居るのか、それはもちろん知っているな?」  エアは無言で肯いた。 「砂漠の神殿、だろう」 「そうだ。リリアナ様は砂漠の女神として、国の安定のため尊い職務を全うされている」  アシュレイの口から語られた無常な真実に、エアは自身の心臓が跳ねる音を聞いた。胸元に走る鈍い痛みと息苦しさに耐え切れず、自身の胸倉を掴み、動悸を沈めようとする。  砂漠の女神。天上の神エイドルードの妻の別称。  何度耳にしても慣れないその呼び名は、エアに途方もない苦痛を与えてくる。自分の妻になるはずだった少女が、神の妻として人々に崇められている現実を、受け入れられるはずがないのだから。  受け入れられれば、忘れられれば楽なのだと、判っていても。 「我々聖騎士団には年に一度、砂漠と森の神殿に物資を届けると言う任務がある。その際結果報告が私の元に来るのだが、リリアナ様はご息災のようだ。儚げな微笑みを浮かべながら、『大陸を守るために祈るこの役目を、誇りに思います』と、言っていたそうだよ」 「……そうか」  エアは静かに目を伏せた。  三年前、大きな瞳に大粒の涙を浮かべ、震える手で縫いかけの花嫁衣裳を手放したリリアナを、今でも鮮明に思い出せる。逆らう事をせず、己の運命を享受し、アシュレイの導きにしたがって迎えの馬車に乗り込んだリリアナを。  彼女は判っていた。エアの元を離れなければ、地上の女神として祈り続ける任務を背負わなければ、エアを含めた国そのものを失う事になるのだと。だから約束していた未来を諦め、運命に従った。  そんなリリアナを立派だと思う。彼女がその道を選んだのならば、認め、諦め、故郷の小さな村でひとりで暮らすべきかもしれないと思う。  けれどやはり、認められないし、許せないのだ。多くの人間の幸せのために、自分たちだけに犠牲を強いた存在が。 「さて、本題に入ろう。君の想い人たるリリアナ様を取り返す方法はひとつしかない。砂漠の神殿に行って、力ずくで奪い返す。それだけだ」  エアは咄嗟にアシュレイを睨みつけた。 「そんな子供でも考えつくような事を聞くために、俺は三年間も費やしたのか」 「話を最後まで聞いてほしい。これは、誰にでも考えつくような事ではあるが、誰にも不可能な事なのだ」  エアは口を噤んだが、視線を緩める事はしなかった。 「砂漠は天然の要塞だ。常に嵐が吹き荒れ、侵入者を迷わせて命を奪う。物資輸送隊以外の何人たりとも、砂漠の神殿に到達した者はいないのだ」 「それで?」 「言い方を変えようか。輸送隊ならば、砂漠の神殿に辿り着けると言う事だ。そして天然の要塞であるからこそ、武力での守りは薄い。神殿には女神の世話をする女たちが二十数人居るだけで、彼女たちのほとんどは武術の心得がない」  アシュレイの言わんとしている事を漠然と理解したエアは、アシュレイを睨むのをやめて言葉の続きを待った。 「砂漠の神殿に無事に辿り着くためには、合言葉たる二つの神聖語と、複雑に入り組んだ迷宮を越えるための地図が必要だ。これは絶対的な機密事項であるが、任務を果たすために必要な事であるから、当然輸送隊の隊長には司教様より伝えられる」 「つまりお前は、俺を砂漠の神殿への輸送隊の隊長に任命してくれるのか」  自覚なく、エアは身を乗り出していた。  それならば合点が行くのだ。アシュレイがエアに奇跡を強要した意味が、それならば理解できる。  例年に習えば武術大会の優勝者は小隊長に任命されるとの事であるから、エアもそうなるのだろう。物資輸送ならば小隊程度に任せるべき任務であるから、団長であるアシュレイはエアに砂漠の神殿に行くよう命じる事ができる。つまりエアは、アシュレイに会うために研鑽を重ねる事によって、リリアナに会う権利を得たのだ。  もちろん、エアはリリアナに会うだけで満足する気はない。砂漠の神殿に辿り着けたなら、そのまま連れ帰るつもりだ。そのためには共に任務に向かった聖騎士たちや砂漠の神殿でリリアナに仕える者たちを振り切らなければならないが、武術大会に優勝できるだけの剣術は、そこでも役に立つだろう。 「期待に沿えず申し訳ないが、そこまではできない」  アシュレイの告げた事実は、輝きを取り戻したエアの瞳を再び陰らせた。 「なっ……」 「砂漠の神殿への道は森の神殿への道よりも険しい。それ故に、いくら武術大会に優勝したとは言え、新人の君に任せる事はできない。砂漠の神殿への輸送は長年聖騎士団に所属する者に隊長を任せ、武術大会の優勝によって新たに隊長に昇格した者には、森の神殿への輸送を任せるのが暗黙の了解となっている」 「……それじゃあ、意味がない」 「ところが、そうでもない」  アシュレイはテーブルの上を滑らせ、二枚の書類をエアの前に広げた。  一枚目は任命書だ。来月の頭付けでエアを第十八小隊長に任命する事が記されたそれの最後には、嫌味なほど流麗な筆跡で聖騎士団長の署名が入っている。  もう一枚は命令書。第十八小隊を率い、森の神殿への輸送任務を遂行するようにと指示が記され、こちらもやはりアシュレイの署名が入っていた。 「私は君が国の平穏を保つための被害者である事を知っている。君が世を呪い、神を呪う事は当然と考えるし、君が結果として国の崩壊に繋がる望みを抱いている事も仕方がない事だと考える。だから君を責めるつもりはないと先に言い訳をしておこう」 「前置きが長い」 「そうだな。では聞くが、君は、君とリリアナ様以外の人間が背負った運命について、考えた事があるだろうか。君たちと同じだけの苦しみを知る者たちの存在に、気付いているだろうか」  エアは眉をぴくりと動かした。口元に置いた手が強く拳を握り、喉まで出かかった言葉を口内で押さえ込む。 「自身の不幸に酔うなと言いたいわけではない。ただの事実だ。そのくらいの事は判るだろう?」  エアは無言で肯こうとしたが、首は動かず、代わりにゆっくりと目を伏せた。  地上の女神と呼ばれる存在は、ふたり。砂漠と森にひとりずつ。  言われるまでもない、当たり前の事だった。それでも、今まで気付かなかった。エアは自身を愚かだと思ったが、反省する気や笑い飛ばす気にはならなかった。 「この国には、森の神殿への道を知りたがっている者が居る」  エアは乾いた笑みを浮かべた。 「忘れる事ができなかった、哀れな男か」 「そうだ。だが、忘れられなかったからこそ、君の望みは断たれなかったのだ、エア」 「……どう言う事だ」 「その人物はかつて輸送隊を率いる任務を果たした事があり、砂漠の神殿への道を知っている」  反射的に、エアは両目を見開いた。今度こそ、アシュレイが言わんとすべき事を知り、エアに残された道を理解するに至ったからだ。 「交換条件、か」 「多少遠回りになるが、他に道はない」 「そうみたいだな」 「奇跡を強いた私に、感謝する気になったか?」  得意げに微笑むアシュレイを喜ばせる返事をする気にはなれず、エアは二枚の書類を手に取ると席を立った。  リリアナを失った事を嘆いているだけでは耐えられず、ならばリリアナを取り返すべく前に進もうと、三年前にエアは誓った。だから、誓いにもとる事のない道を示してくれたアシュレイに、感謝の念がないと言えば嘘になる。  だが、この男にだけは本心を伝える事は許されない。他の誰でもない、エア自身が許せなかった。 「地図は任務が終わり次第司教様に返還しなければならない。つまり写しを作ってもらう事になるが、その作業を誰かに見られれば、疑いがかかってそこで終わりだ」 「判っている」  そっけない返事だけをそこに残し、エアはアシュレイの部屋を出ようと扉に歩み寄る。  しかしその扉を開けるためには、まだ胸の奥にわだかまりがあった。 「どうした?」 「アシュレイ。ひとつ、聞く」 「……なんだ?」  エアは労わるような手つきで扉に手を置いた。  ひんやりと冷たい温度が手のひらに伝わり、それは三年前にエアを襲った闇を思い起こさせる。 「お前はなぜ、俺を止めない? 俺が望みを叶えれば、大陸の崩壊がはじまるかもしれないと知っていて」  アシュレイからの返事はすぐに来なかった。  部屋の中に訪れた沈黙は、問いかけた事を後悔させるほどに冷たかったが、エアはその場を逃げ出さずに答えを待った。 「そうだな。君の知らないふたつの事柄を、私が知っているからだろう」  思わせぶりにそう言ったきり、アシュレイは再び沈黙した。  しばらくは扉を見つめたまま待っていたエアだったが、沈黙の長さに待ちきれず、振り返る。  アシュレイはエアを見ていなかった。エアとは反対側にある窓の方に視線を向け、目を細めながら夜空に輝きはじめた星を眺めていた。 「ひとつは、君がリリアナ様を連れて逃げたとしても、大陸が崩壊しないであろう事」  語られた予想外の事実に驚き、エアは息を飲んだ。それは、エアからリリアナを奪った人物が言って良い事ではなかったからだ。  ならばなぜ、エアからリリアナを奪った? 「ああ、勘違いしないでほしい。女神が必要ないと言っているわけではないのだ。女神が祈りを捧げなければ魔獣は復活し、神の恵みも、生きる大地も、命すらも、私たちは全てを失うだろう」 「ならば」 「だが、二百年ほど前にこういった事例がある。司教様がエイドルードよりお告げを受け、聖騎士団は新たな森の女神ランディア様を探したが、一年ほど見つからなかったのだ。しかし大陸は崩壊しなかった。それまでミルラ平原と呼ばれていた地が裂け、ミルラ峡谷と呼ばれるようになったが」 「それは大事じゃないのか」 「もちろん大事だ。だから君が今すぐリリアナ様を取り戻そうとするのならば、私は止めるだろう。もう少し待ってほしいと願うだろう。君も、リリアナ様と共に生きる世界を失いたくはないだろう?」  そこまで言われては、エアも素直に肯くしかなかった。  アシュレイの語る真実は、女神の祈りがなくとも平和の崩壊がすぐにはじまるわけではないとエアに教えてくれた。だがそれと共に、女神の存在はやはり魔獣を封印するために必要不可欠なものだとも教えてくれたのだ。  世界が果てしなく広いと言う真実を言葉でしか知らず、自分たちが暮らす農村とそこから見える山や森だけが世界の全てであったリリアナが、今は何と重いものを背負っているのだろう。それを思うと胸が軋み、アシュレイの目さえなければその場に崩れ落ちたいほどだった。 「もうひとつは、なんだ」  恐怖でも高揚でも嘆きでもなく、なぜか震える体を抑え、エアは問うた。  アシュレイは眼差しを細める。引き締めた唇は、エアと同様に震えを抑えているようだった。 「任期を終えた女神は、けして生還しない事」  エアは返す言葉もなく、無言で立ちつくした。 「五年の任期を終えて帰ってくるならば、私は君に『忘れるといい』とは言わなかっただろう。こんな事に協力しようとも考えなかっただろう。彼女を想う気持ちが本当ならば五年待てと、それだけを君に強いたはずだ」 「どうなるんだ。任期を終えた女神は」 「私が知る限りは全員、骨になって帰ってきた」  アシュレイは細めた目を伏せ、それまでけして歪める事のなかった端正な顔に深い苦悩を刻み、静かにため息を吐いた。腹の中に眠らせていた闇を、静かに搾り出すかのようだ。  だがエアは、アシュレイが吐き出した闇の中から感じとれる強い嘆きや罪の意識に、同調する気にはならなかった。 「なぜ、それを早く言ってくれなかった。もし俺が、忘れる事を選んでいたら」  独白のように言葉を漏らすと、アシュレイは目を開けてエアを見上げる。  エアがもしも、リリアナを忘れていたら。奇跡を起こせないと諦めて、ここに立っていなかったら、リリアナは。 「強い熱意と覚悟を見たかった。彼女のためでなく、自分の願いのために奇跡を起こそうとする意思を。誇るといい、エア。君は神と対峙する権利を得た」  エアは怒鳴りつけてやろうと口を開けて息を吸ったが、それをせずに乱暴に扉を開けた。  逃げるように部屋を出、乱暴に扉をしめると、半ば駆け足で通路を進む。  頼りない蝋燭に僅かに照らされただけの、暗い道を。 二章 森の神殿へ 1  突き当たりの扉にはめられたプレートには、アシュレイ・セルダの名が刻まれている。  だが、扉の向こうにその名の主は居ないだろう。夜も更け日付が変わってからしばらく過ぎたこの時分、勤務を続けているのは夜警を任された者たちがほとんどで、聖騎士団の頂点に立つ男にはそのような役目が下されるわけもない。  人目を忍び、足音を殺してここまでやってきた男は、蝋燭の炎に照らされる団長の名前を横目に、突き当りよりひとつ手前の扉に手をかけた。その扉にもやはりプレートがはまっており、こちらにはロメール・イルタスとの名が刻まれている。この聖騎士団において、アシュレイ・セルダに次ぐ地位を持つ人物だ。  男は扉を叩く事も声をかける事もせず静かに扉を開け、暗い通路よりもなお濃い闇の中でぽつりと輝く蝋燭に、視線を落とした。  蝋燭一本だけでは、広い部屋を照らし出すには明らかに光量が不足している。足元は未だ暗いままで、部屋の構造や家具の配置を詳しく知らない男は、不安を覚えながら歩むしかなかった。唯一頼りになるのは、蝋燭の向こうにぼんやりと浮かび上がる人影のみだ。  慎重に一歩ずつ、手探りで、足を擦るようにして、男は人影へと近付いて行った。蝋燭の灯りが自身の顔を照らすようになって、ようやく男は足を止める。寒々しい闇の中で、僅かに感じる炎の熱は、身を焦がす熱にも感じられた。 「お呼びですか」  一礼してから問いかけると、人影は無言で肯いた。僅かに身じろぎし、影は男に背中を向ける。 「来月出立となる森の神殿への物資輸送任務の件だが」 「はい」 「隊長であるエア・リーンと、彼が率いる第十八番隊の中から三名が選ばれた。その中にお前の名も入っている」  振り返った影は叩きつけるように、自らの手と羊皮紙を机に置いた。  揺らめく橙色の灯りは、歳を重ねた男の手と、その下に刻まれた文字を照らし出す。補給任務に関する命令書には、堅苦しくかつ簡素な文章の下、四名の名前が記されていた。  その中に、隊長であるエア・リーンと自分の名前を確認した男は、ゆっくりと顔を上げる。闇の中に浮かぶ影の表情は見えないが、視線が交錯したような気がした。 「約二ヶ月ほどの行程となるが、その間、エア・リーンの監視を怠らぬよう心がけよ」  男は静かに息を飲んだ。炎に炙られ熱を持った空気に、胸を内側から焼かれる感覚がした。 「エア・リーン隊長に、何か不審な点がございましたか」 「逆に聞こう。数ヶ月間部下として過ごす間、何かしら気付いた点は無かったか?」  男は命令書を指先で撫でながら、闇の中に視線を投げた。  今年入団したばかりのエア・リーンが武術大会で優勝し、隊長に任命されたのは今から四ヶ月ほど前の事で、その間特別な任務は無く――輸送任務への準備期間のようなものであったので――大神殿の警備や訓練の中でのみ時間を共にした。その短い時間で男がエア・リーンに対して抱いた印象は、「少々口下手な所はあれど面倒見の良い人物」と言ったところだ。  彼に剣技の稽古を受けて、みな一様に腕を上げた。真面目だが歳若い事もあってか部下に息苦しさを与えるほどではないし、出自のせいか突然の出世に気取る事もない。逆にこちらに気を使っているのではないかと思うふしもあるほどだ。  良い上司を得たと同僚たちが話しているのを幾度か聞いた事もある。男も同僚たちに同意しており、不審に思った事など一度としてない。 「特にありませんが」 「そうか」  影の指は不機嫌そうに机を叩いた。爪と木が奏でる音は、闇色に染まる部屋の中に響き渡る。 「杞憂であれば良いのだが……気になる点があるのだ」 「ライラ様に関わる件、でしょうか?」  影は重苦しく肯いて男に応えた。 「エア・リーンの出身はレータ村となっている。調べさせたところ、確かにエアと言う名の農夫が三年半ほど前までレータ村に居た事になっている。だが」  影は一息置いてから続けた。 「ギィ村を知っているな?」 「リリアナ様ご生誕の地――リリアナ様が砂漠の女神に選ばれるまで過ごされていた地ですね。聖騎士団がリリアナさまのお迎えに上がった際、私も隊の一員として赴きましたので、覚えております」 「実は、そのギィ村からも三年半ほど前、エアと言う名の少年が消えている。少年は、リリアナ様の婚約者だったそうだ」 「まさか……あの少年が?」  蘇る記憶の中から、影が語る少年を探し出す事は容易だった。当時少年の名を聞いたわけでも、婚約者だと説明されたわけでもないが、リリアナが迎えの馬車に乗るまで、いや、馬車が走りはじめてもなお、泣き叫んでいた少年の印象は強く残っている。  少年は生命の全てを声に託し、命を燃やしながら泣いているようだった。許される事ならば駆け寄り、助け起こしてやりたいと思った。馬車を止め、リリアナを彼に返してやりたいと。男だけではなく、あの場に居た全ての者が、一度はそう考えたに違いない。けして許される事ではないために、誰ひとりとして彼を助けようとはしなかったが。  意図的に忘れようとしていた苦い感情が蘇り、男は胸を押さえた。できる限り早くもう一度記憶を封印しようと、記憶の中の少年と直属の上司とを素早く比べ、首を横に振る。  やはり、同一人物とは思えなかった。まだ成長の余地を残した少年であった事を考慮しても、たった三年半でこれほど変われるとは思えない。 「雰囲気も体格もまるで違います。エア・リーン隊長に比べればはるかに小柄でしたし、他の農民たちとまったく差のない、剣も振るった事のないような少年でした。三年半の時間が経過しているとは言え、同一人物とは、とても」 「その少年の顔は覚えているか」  否定の言葉に上乗せされた問いかけに、男は再び記憶を呼び起こす。  泣き叫ぶ少年。声は覚えている。擦り切れそうな叫び声だった。常に静かなエア・リーンからも想像もつかない、感情の強い声だった。  しかし顔は思い出せない。彼の慟哭は痛々しく、振り返る余裕がある限りは、けして目を離せなかったというのに――そもそも、あの泣き叫ぶ少年の顔を、自分は見たのだろうか? 「申し訳ありません。あの少年の顔は思い出せませんが……やはり違うと思います」 「そうか。三年半では、ただの農民を聖騎士団に入れるよう鍛えるに時間が足りなかったのかもしれんな。ならば、無関係な人物を利用しているのか……」 「エア・リーン隊長が関っている事は、間違いないのですが?」  男は素直な疑問を口にした。 「レータ村に、『彼』の手がかかっている事は間違いない」  男は喉を鳴らし、それまで羊皮紙に触れていた手で己の唇を撫でた。  闇の向こう、窓の向こうから、強い風の泣き声がする。風は深い闇と共に、男の不安をかきたてた。 「リリアナ様の元婚約者の経歴を査証するためかと考えたが、確かに無理がありすぎるかもしれんな。本当に誤魔化す気があるのならば、出身地だけではなく名前も変えるか」 「そう思います。ですが、おっしゃる事は了解いたしました。隊長の動向にはできるかぎり注意いたします」 「頼んだぞ。これは大陸の未来のためなのだ。そして――」  男は肯いた。みなまで言われなくとも、判りきっている事だった。  深く礼をし、影に背を向ける。闇に慣れはじめた目で扉までの道を迷わず辿り、扉を開いた。  往路では薄暗かったはずの蝋燭の明かりが、不思議と眩しい。男は目を細め、再び足音を殺し、道を進む。  胸元で作った拳に、自然と力が篭った。 2  一昨日一日中振り続いた雨が未だ残っているのか、それともこの地方が元よりみずみずしいのか。  幌付き馬車の荷台に腰を下ろしたエアは、自身が乗る馬車が渇きを知らない柔らかな土に残していく轍を見送りながら、静かにため息を漏らしていた。  エアは轍が嫌いだった。終わりが見えないほど長く続く轍は、リリアナが奪われた日の事を嫌でも思い起こさせたからだ。  しかし、リリアナを取り戻せるかもしれないと判った今では、眺めていても以前ほど辛くはない。自分たちが進んで来た道の長さ、帰るための道の長さを思い知らされ、億劫になっているだけだ。  長い道のりだった。エアたちが王都セルナーンを発って、すでにひと月余りが過ぎている。旅は順調で、目的地にほど近い所まで来ているが、まだ片道。帰りも同じだけの時間がかかるのだ。それを思うと、ため息は自然と漏れていた――むろん、自身の目的やリリアナの事を思えば、この任務を投げ出す気も嘆く気も起こらないのだが。  通り過ぎる景色の変わり映えの無さに辟易したエアは、静かに目を伏せた。  視覚を閉じると、優しく身を包む風の流れや、噎せ返るような草の香り、車輪が回る音が、より強く感じられる。それら全てが単調で、目を閉じたところで退屈から救われる訳ではないのだと思い知ったエアは、ゆっくりと目を開けた。と、ほぼ同時に、片側の車輪が土の柔らかさに取られて余分に沈んだ。  馬車が僅かに傾き、崩れかけた体勢を保とうと腕を張ったエアの背後では、積んだ荷物同士がぶつかる音がした。それから、女神たちに届ける予定の物資が無事か確認する部下の声。梱包してある荷物がこの程度の衝撃で痛むなどとエアには到底思えず、一時は「無駄な事はよせ」と止めようかとも考えたのだが、万が一の事もあるので見守る事にした。  とは言え、荷物がひとつふたつ壊れたところで、大した問題ではない。中身は香油や香水、宝石類と言った、女神の身を飾るものがほとんどで、生活必需品と言えるものは新しい服や食器と言った、ごく僅かなものだけなのだ。その服とて、女神のために織られた上質の絹に、色鮮やかな絹糸で刺繍を施されたと言う高級品であり、生きていくために最低限必要なもの、と言うわけではなさそうだ。  森の神殿や砂漠の神殿は、神の許しのない者を跳ね除けるため、人の領域を超えた過酷な自然の中にある。故にそこで祈る女神や、女神に仕える者たちの生活環境は苛酷なのだろうと、エアは勝手に想像していた。だからこそ重要な任務で、リリアナの奪還に必要か否かを抜かしても、誇らしいかもしれないと思っていたのだ。  しかし、実際のところは全く違うらしい。森、砂漠の両神殿は、「天を頂とする」と伝えられるほどの高い壁に囲われているのだが、苛酷な環境にあるのは壁の外側までで、壁の内側は長閑で快適なのだそうだ。自然災害は皆無の上、神から妻へと贈られた豊かな自然の恵みがあるため、数十人程度ならば問題なく自給自足ができる。森はもちろん、砂漠の神殿でも、飲み水に困る事はない。  だからエアたちが運ぶのは、森では作れないか、作るのに大きな手間がかかるもの、あるいは大都市でしかつくられない高級な嗜好品と言った類なのである。  明らかに失敗したところで人命に関わるような仕事ではない。どうりで、自分のように多少腕が立つだけの新人に任せるわけだ。  エアの胸に湧いた誇りは何処かに消え去ったが、部下たちにとってはそうではないようだった。国の安寧のために生きる女神のために働ける尊い任務だと、必要以上に張り切っているほどだ。  その女神が元は田舎娘――森の女神はどうだかエアは知らないが――で、田舎の農夫と結婚するはずだったと知れば、彼らは驚くのだろうか。それとも失望するのだろうか。 「エア隊長。ディミナ山がもうこんなに近いですよ」  名を呼ばれ、エアは振り返る。背の高い木々の向こうに、雲にも届きそうなディミナ山が聳えていた。  大陸一と言われている高山が視界に入るようになったのは何日も前の事だが、いつの間にここまで迫っていたのか。後方ばかりを見ているのも問題だなと反省したエアは、しかし長い旅の苦労が実った喜びを膨らませる事を優先し、唇に小さく笑みを作る。 「ようやくだな」 「はい。もうすぐ、任務の折り返し地点ですね」 「みんな、慣れない長旅は疲れただろう。この調子ならば夕刻前にはディミナ山の麓の宿場町に着くはずだから、体をよく休めてくれ。明日の昼前には発つ事になるから、ゆっくり……とは言えないがな」 「はい」  心なしか普段よりも力強い返事に肯いて応えると、エアは再び遥か高みのディミナ山を見上げた。 「森の女神ライラ様はどのような方なのでしょうね」  突然言い出したのは、話好きのルスターだった。蜂蜜色の髪が風に揺れ、好奇心に輝く瞳を演出している。  隊長であるエアが新人である事が考慮されたのか、それとも大して難しくない任務だからか、エアが引き連れている部下はエアとさほど年の変わらない者ばかりだった。それでもエアにとっては先輩ばかりなので、部下として使うのは少々気が引けるのだが、同期で年下であるルスターならば少しは気が楽だ。  もっとも気が引けているのはエアだけで、使われる方はあまり気にしていないようだった。農民出の後輩に使われるのは矜持が傷付きやしないかと思うのだが、武術大会の優勝者と言う肩書きは、ここでも力を発揮しているらしい。彼らは全員尊敬の眼差しをエアにそそいでいる。 「気品に満ち溢れた、お美しい方だと聞いているが」 「確か、王都セルナーンの出身のはずです」  エアの言葉に続けたのは、一番古株の青年ジオールだ。  古株とは言ってもまだ入団五年目で、エアより二つ年上なだけだ。彼はさる高名な貴族の息子だと噂で聞いているが、本人が出自について触れられる事を拒否している事から、嫡子ではないだろうと想像するのは容易かった。  少々浅黒い肌や短い黒髪、少々太めでつり上がった眉が、真面目で頑固そうな印象を与え、実際その通りの性格と言う、実に判りやすい男である。 「私が入団してはじめての女神の選出でしたから、よく覚えております。王都セルナーンのライラ様とギィ村のリリアナ様を探せと、全団員に指示がありました。もっともライラ様は次の日には大神殿へ召されておりましたから、捜索の必要はなかったのですが」 「ああ、そう言えば……」  御者台に座る青年、ハリスが呟くように言った。後ろでひとつに縛られた少し長めの髪が、風に揺れている。  入団四年目の彼はエアと同い年で、言動に特に難があるわけでは無いのだが、穏やかな空気を纏った青年だ。鞍や鐙や鞭と言った馬術関連の道具を扱って大きくなった商家の息子であるからか、馬を操るのが一行の中で群を抜いて上手く、御者台に座らされる回数が一番多いのが彼だった。 「噂に聞いた事がありますよ。ライラ様は聖騎士団員の家族で、だから見つかるのが早かったのだと」 「家族?」 「ええ。その聖騎士団員が誰なのか、姉君だったのか妹君だったのかは判りませんが。まあ噂ですから、真実ではないのかもしれませんね」  そうだな、と軽く返しながらも、エアはハリスが聞いた噂はほぼ真実だろうと確信を持っていた。そうでもなければ、危険な取引をエアに持ちかけてはこないだろう。  しかも、砂漠の神殿に派遣される程度に信頼が置かれている人物。大神殿から砂漠の神殿への距離は、森の神殿への距離とほぼ同じとエアは聞いており、これほど長く王都を離れる事から考えるに、少なくとも当時はさほど要職には就いて居なかっただろうと予想ができた。体力的な事を考慮すれば、歳もそれほど上ではないはずだ。  それでいて、森の神殿へ派遣された経験がない者。つまり、武術大会で優勝した経験がない人物。 「家族が女神に……それは、誇らしいのでしょうか。それとも、辛いのでしょうか」  積み上げた荷物に背中を預け、膝を抱えながらルスターは言う。  真剣に悩むその表情に邪気はない。エアの背景を知っているわけでも、疑っているわけでもないのだろう。だが、エアの胸が痛みを訴えるきっかけとなり、エアがルスターを恨む原因となりえた。 「辛いと思う。何よりも近しい存在が手の届かない存在になってしまう事が、悲しくないわけがない」 「自分も同じです」  ハリスにジオールが続く。  ふたりが紡いだのはエアの想いを代弁する言葉であったが、不思議とエアの心は軽くはならなかった。おそらく、彼らの言葉には実感がこもっていないからだろう。 「国を支える存在が自分の家族であると言う事実に、誇りはあるでしょうが……」 「きっと、な」  エアが肯定する言葉をこぼすと、三人は満足そうに微笑んだ。  もちろん嘘だった。エアの中に誇りなど欠片もない。リリアナを失った空虚と、リリアナを奪われた呪いばかりが、エアの中で息衝いている。  だが、真実を吐露せず自然に振舞うには、嘘を吐くのが一番楽だった。  エアがやろうとしている事が気付かれては制止されてしまう。だから、誰にも気付かれてはならないのだ。  自分の目的も、願望も。 3  傾いた陽の明かりを背に浴びながら、町の入り口から伸びる道をしばらく進む。すれ違う者はひとりとして居なかったが、賑やかな笛や太鼓の音、人々の歌声や笑い声が、遠くから風に乗って届いた。  先頭を進むルスターは、振り返りながら「何事でしょうね?」と問うてみたが、上司であるエアも、先輩であるジオールやハリスも、首を傾げるのみで明確な答えを返してはくれない。唯一エアだけが、「悪い様子ではなさそうだな」との、感想を返してくれた。  どうやら現状を理解できないのは、知識不足のせいではないようだ。ルスターは安堵の息を吐きながら、歩みを進めた。  やがて人の姿がまばらに見えはじめる。大陸の果てにほど近い宿場町において、明らかに毛色の違うルスターたちは浮いているのか、ほぼ全員がすれ違いざまに視線を投げかけてきた。 「あれが原因じゃないか?」  居心地の悪さに肩を竦めるルスターの背中を、ハリスが優しく叩く。ルスターは顔を上げ、ハリスの笑顔を確認した後、彼が見つめる先に目を向ける。  ルスターの視界に、町の中心と思わしき賑やかな広場が映った。  そこに居る人々は一様に明るい色の服を着ていた。ある者は歌い、ある者は笛を吹き、ある者は弦楽器を爪弾き、ある者は太鼓を叩いて、明るく騒がしい曲を奏でていた。残りの者たちは、少女たちは黄色の、少年たちは緑、夫婦は青の長いリボンを手首に結び、曲に合わせて軽快な足取りで楽しそうに踊っていた。  よく見てみれば、黄や緑や青のリボンは、町のあちこちに結び付けられていた。広場の中心に立つ高い柱からも同色の布が伸び、複雑に絡みあい、広場中を鮮やかに飾っている。 「やはり、祭のようだな」  エアは静かに呟いた。懐かしいものを見るように目を穏やかに細めて、楽しそうに時を過ごす若者たちを見守りながら。 「祭、ですか」 「おそらくはな。秋の終わりも近いから、収穫祭の名残だろう。青は空、黄色は太陽、緑は大地の実りを象徴しているのではないか」 「よくご存知ですね」 「私の育った村ではそうだった」  なるほど、と頷きながら、ルスターは再び風に舞う三色を眺めた。  鮮やかに踊る三色は幻想的な光景で、ルスターの感情に優しく溶け込んでくる。不思議と楽しい気持ちになり、表情は自然と笑顔に変わってしまった。  ルスターの記憶に最も濃く残る祭と言えば、昨年の夏に王都で行われた国王の生誕五十周年を祝う祭で、それと比べてしまうと規模が小さく質素な祭だが、これはこれで美しく、楽しく、尊いものだと思える。規模が小さいからこそ、心からの感謝や祈りと言った、人の姿が垣間見える気がするのだ。 「ちょうど祭の日に当たるってのは、息抜きには良くても、運が悪かったかもしれませんね」 「そうですか?」 「外から人が集まってくるような祭だと、宿が埋まってしまうだろ? 俺たちが泊まる余地がないかもしれない」 「確かにそうだな。先に行って宿が開いているか確認して来よう」  ハリスの予想に同意したエアは、荷台に乗せていた自身の荷物を担いだ。 「いや、隊長」 「っと、すまない」  ハリスに呼ばれて気付いたエアは、荷物を肩から下ろし、中から小さな袋を取りだす。それから三人の部下たちの顔を順番に見た後、ルスターに向き直った。 「行ってくれるか、ルスター」 「はい!」  ルスターはエアから受け取った財布を両手でしっかりと握り締めた後、懐に忍ばせ、満足げに肯くハリス――なかなか人を使う事に慣れないエアに、「何でもかんでも自分でやらないでください」と注意するのはいつもハリスの役目だった――や「頼んだ」と短く告げるジオールに目で合図してから、三人に背を向けて近くを通り過ぎようとしていた町人に近付く。 「もうひと息ですかね、隊長」 「この程度の事も頼まないとならないか? わざわざ人にやって貰うような事でもないと思うのだが」 「だから、『この程度』で、『わざわざやってもらうような事でもない』からこそ、俺たちがやるんですよ。遠慮なんてしないでくださいね」 「遠慮しているつもりはないのだが」 「じゃあ、ご自分の立場を理解してください」  宿の場所を聞いている間中、エアとハリスのやりとりが背後から聞こえてくる。本人たちは真面目なのかもしれないが、傍で聞いている自分やジオールにとっては面白い会話で、いつも笑いを堪えるのが大変だった。  忍び笑いを飲み込みながら、親切に道を教えてくれた町人に礼を言い、ルスターは人ごみに向けて突き進む。この宿場町は大きいとは言えず、人口もせいぜいが数百人と言ったところだろうが、その数百人が一箇所に集まれば、人の壁が越える事の難しい荒波にも思えた。  はじめは腰が引けたが、ルスターの使命は大げさに言ってしまえば隊長の命令である。先輩たちの期待を背負っていると言えなくもない。慣れない人ごみ程度で挫けるわけにはいかず、ルスターは突進した。  動く余裕もないと言うほどではないのだが、すぐそこの広場で踊っている者たちが居る事も手伝って、人の流れが読めず、前後左右から前触れもなく圧力がかかってくる。体のあちこちをぶつけてしまい、周りの人々に何度も「すみません」と謝りながら歩いていたルスターは、ふと過ぎる悪寒に一瞬足を止めた。  悪寒は、悪い予感とも言い変えられるもので、気のせいだと振り払う前に、ルスターは自身を確認した。あちこちぶつかってはいるが、怪我と言う怪我をしたわけではないし、服が汚れたり破損したりもしていない。荷物は馬車の荷台に置いてきた事を考えると、残りはひとつしかなかった。  さりげなく懐をさぐると、やはりあるべきものがそこにはなかった。  人が大勢集まり、かつ人々の懐具合が温かい祭において、他人の財布を狙う輩が出没する事は知識としてあったが、まさか自分が、しかも仲間たちと離れてすぐに獲物となるとは予想しておらず、ルスターは自身の運の悪さと情けなさに腹が立った。苛立ちに顔が歪んで行く様子が、鏡を見ずとも判る。  慌てて振り返った。財布を失ってからさほど時は経っていない。この人ごみでは、相手もそれほど遠くには逃げられまい。そう考えながら視線を巡らせると、ルスターは自分とさほど年の変わらない少年と目が合った。  少年があからさまに目を反らし、人ごみをかきわけようと慌てて動き出すのを見て、ルスターは彼を追う。人の波の越える術は少年の方が心得ているようで、じわじわと距離が開いていった。  先に人ごみを抜けた少年が、地面を蹴って走りだす。続いてルスターの身が解放された時、少年の影はすでに遥か前方へと走り去り――隊長であるエアの横を通りすぎようとしていた。 「エア隊長!」  叫ぶと、エアは即座にルスターに振り返った。ルスターが言葉を続ける前に、ルスターが指し示す方向へと視線を送り、察してくれたようだ。荷台に戻そうとした荷物をジオールに放り投げ、「それでルスターの代わりに頼む!」と簡素な指示を出し、ハリスの名を呼ぶ。  ハリスは肯いて返し、ルスターに振り返った。 「こいつを頼んだ!」  一ヶ月余の旅の間に愛着を抱いた馬の手綱を手放し、ハリスはエアの後を走り出した。  少年との距離やふたりの足の速さを鑑みれば、すぐに追いつく事だろう。安堵したルスターは、馬に駆け寄って手綱を取るとしゃがみこみ、深く息を吐いた。 「何をしている」  ジオールの口調はルスターを責め立てるものではなかったが、それが余計に辛く、ルスターは硬く目を伏せる。 「すみません。油断していたつもりは無かったんですが……もし捕まえられなかったら、帰りの路銀がなくなっちゃいますよね。どうしましょう」 「隊長とハリスに追われて逃げられる者がそう居るとは思えんが、仮にあの財布を失ったとしても、何とかなるだろう。それぞれ個人の財布は残っているのだし、先ほどの隊長の口ぶりから察するに、元々路銀を複数に分けておられたようだ」 「そうなんですか?」 「この荷物を投げてよこして『ルスターの代わりに頼む』とおっしゃったのは、そう言う事だろう」  ジオールは「失礼します」と呟いてから、エアの荷物を開けた。本人が居ないのだから言ったところで意味はなさそうだが、それでも礼を尽くすところが彼らしい、とルスターは思う。  あまり中を見たり漁ったりしては失礼だと思っているのだろう、慎重に探るジオールを見上げたルスターは、やがてジオールの表情に困惑が浮かび、探る手の動きが大きくなっていく事に気が付いた。 「どうしたんです?」 「それらしいものが見つからない」  ジオールが渋い顔をして言った。  ルスターは立ち上がり、ジオールの手の中にある荷物を探ってみる。着替え、剣の手入れをするための道具、羊皮紙などの筆記用具など、基本的な旅の道具が小さくまとめられているだけで、確かに財布のようなものは見つからない。 「もうひとつの財布も取られたとか、ですかね」 「まさか。隊長に限ってそれはないだろう」 「すみません」 「いや、そう言う意味では……こちらこそすまない」  ジオールは気まずそうにルスターから目を反らし、エアの荷物の口を閉じると、荷台の上に戻した。  ルスターはジオールに気付かれないよう、小さく笑った。ジオールに悪気がない事は判っていたし、悪気があったとしても、ルスターが間抜けだった事実は否定できない。だから彼が気にやむ必要などないのだが、やはり真面目なのだろう。 「エア隊長って、家族とか恋人とか居ないんでしょうか」  話を反らそうと、ルスターは思い付いた事を口にした。 「突然どうした」 「いえ、エア隊長の荷物の中に入ってた羊皮紙、あれって宿舎の近くの雑貨屋で五枚まとめて売ってるやつですよね。それなのに一枚も減っていなかったので」 「何束か持ってきていて、きりのいい所まで使い切った、と言う事では?」 「でも、相部屋になった時とか、隊長が手紙を書いている所なんて一度も見た事ないんですよ。ジオールさんはあります?」 「言われてみれば確かに、ない」  ジオールは納得した表情を見せた。 「私たちは故郷が王都やその周辺であるから、故郷に向かう商人などを見つけて手紙を託す事は容易いが、隊長の場合は簡単にはいかないのだろう。そう言う事情もあっての事かもしれんぞ」 「ああ、そうか。そうかもしれないですね」  ジオールは肯いて、彼自身の荷物を手繰り寄せる。中から自分の財布を取り出すと、それをしっかりとしまい込み、服の上から確かめるように手をおいた。 「とりあえず自分の金で宿を取ってくる。隊長たちの方が早く帰ってきたら、そう伝えておいてくれ」 「はい、判りました。よろしくお願いします」  去りゆく背中が人ごみの中に消えるまで見送ってから、ルスターはようやく気が付いた。気まずい空気をごまかすために選んだ話題が、間違っていた事に。  ジオールは自分の事をあまり語りたがらない。そんな彼が、上司の事情を探るような事を好むわけがないのだ。 「失敗だらけだな……」  共に残された馬の顔を撫でた後、紅く染まりはじめた空を見上げ、ルスターはひとりごちた。上司が、同僚が戻ってきた時に紡ぐべき、謝罪の言葉を模索しながら。 4  前を走る少年がちらりと後を覗き見た。後を追うふたりの男との距離が若干縮んでいる事に気付いたようで、前方に向き直ると同時に急な方向転換をした。  持久力や体力は圧倒的に自分たちの方に分がありそうだが、代わりに少年には地の利がある。このまま追い続ける事ができれば、いずれは体力を失った少年を捉える事ができるだろうが、地元民しか判らないような複雑な道に逃げ込まれては撒かれる可能性が高い――持久戦よりも短期決戦が吉と見たハリスは意を決し、一度斜め前を走っていたエアに並び、軽く手を上げて合図してから、少年が曲がった角よりもひとつ手前の角を曲がった。  離れていく気配に、エアがためらう事なく少年と同じ道を進んだ事を知ったハリスは、自分が進む道が少年の走る道に繋がる事を祈りながら、次の角を曲がった。  祈りは神に通じたのかもしれない。上手く挟み込めないまでも、影や足音を捉えて動揺を誘えればと企んでいたハリスの目に映ったのは、こちらに向かって走ってくる少年の姿だった。  彼も自分に地の利がある事は判っていたのだろう。知り尽くした道を複雑に出入りし、後方からの追っ手の目を眩ませようとしたのだろうが、残念な事に曲がるべき角を間違えた。運が悪かったのだ。 「なんでっ……!」  ハリスが前方に居る事に戸惑った少年は、悪態を吐きながら一瞬足を止め、後方に振り返る。その瞬間、角を曲がってきたエアが姿を現した。  少年は意を決した様子で、ハリスに突進してきた。エアかハリスのどちらを相手にするかと言う二択を急に迫られ、正しくハリスを選べた事は褒めてやるべきかもしれないが、ハリスとて聖騎士団の厳しい試験を通り、この四年間鍛錬を怠らなった人間である。地方都市のこそ泥程度にやられるような腕ではなかった。  駆け寄ってきた少年は、ハリスの右を通り過ぎる振りをして、ハリスの前に着いた足を軸にし、急に方向転換する。しかしハリスは騙されなかった。左を通り過ぎようとする少年の腕を掴み、足を引っ掛け、地面の上に引き倒す。  素早く少年の両手首を取り、背中を押さえつけた。少年は力の限り暴れてハリスの手を逃れようとするが、力の入れにくい体勢にしているし、元より力でもハリスの方が上である。少年にできる事と言えば、土埃を立てるだけだった。その土埃の被害を受けるのは主に少年で、咳き込むのも彼ひとりだ。 「大丈夫か」 「俺の事ですか? それとも、この子の事ですか?」 「……両方だな」 「俺は何の問題もありませんが、この子はちょっと苦しそうですね」 「誰が苦しくしてるんだよ!」  頭上で交わされる暢気な会話に苛立ったのか、少年が怒鳴った。埃を吸い込んでしまったのか、再び噎せはじめる。 「長旅で疲れていて早く宿に入ってのんびりしたいと思ってる俺たちを無理やり追いかけっこに巻き込んだお前が文句を言うな」 「お前らが勝手に追いかけてきたんだろ!」 「元はと言えばお前がルスターの持っていた財布をすったのが悪いんじゃないのか」 「しょ、証拠でもあんのかよ」  あくまでも強気を貫く少年の姿勢は清々しくもあったが、押さえつけられた状態で暴れたせいか、懐からエアの財布が半分覗いている。ハリスはそれをつまみ上げ、少年の目の前にちらつかせた。 「俺たちのものだって証拠が欲しいなら、いくら入っているか当ててやろうか?」  さすがの少年も言葉を失った。ハリスは勝ち誇った笑みを浮かべ、財布を手の中で弄んだ後、エアに投げ渡した。  エアは自分のものである事、減っていない事を確認すると、頷いて自身の懐にしまいこむ。 「隊長。こいつ、どうします」 「さて、どうするかな。官憲に突き出すが無難なのだろうが」  言って、エアは少年の前に膝を着く。それまでハリスを睨み続けていた少年は、鋭い眼差しを向ける相手をエアに変えた。 「すった相手にすぐに気付かれる程度の腕と言う事は、素人同然だな」  ハリスは、言葉を失ってエアから目を反らす少年の襟首を掴み、引き起こす。地面の上に座らせ、背中を少し強めに叩いた。 「隊長が聞いているだろう。答えろ」 「悪かったな。初めてだよ。明らかによそ者で、とろくさそうな奴狙ったってのに、意外とカンが良くて失敗したよ」  ハリスは苦笑した。後輩の事を「とろくさそう」となどと言われては否定したいところだが、上司に託された財布を直後に盗られてしまった事を思うと、否定の言葉は紡ぎ難い。  しかもルスターは普段から、「素直すぎる」「注意力が足りない」等性格面の問題点を指摘される事が良くある少年だった。彼がこの任務に選ばれたのも、剣技・礼儀作法・語学・学問全般などの能力はけして悪くないのだから、王都の外の世界を見たり、冷静なエアや真面目でもの静かなジオールと共に行動したりする事で、性格面の改善を期待しての事だろうとハリスは読んでいる。  その試みは上手くいっていると言えるだろう。根が素直な少年であるから、周囲の影響を受けやすい。旅立つ前の彼ならば、財布をすられた事にも気付けなかったかもしれない。 「ああ見えて、彼は剣の達人だ。こうしてお前を易々と捕らえた俺だって三本中一本は取られる」 「嘘吐け!」 「嘘じゃない。聖騎士団の昨年の新人の中でも、優秀な方なんだ」 「聖……騎士団?」  訝しげに聞き返す少年に、エアは首から下げていた銀のメダルを服の下から取り出した。天と地を繋ぐ剣の柄に空色の宝石が埋め込まれたそれは、聖騎士団の中でも隊長格の者に与えられる聖印だ。  施された図案の意味を知らずとも、空と空色の宝石を同時に使用すればエイドルードを意味する事くらいは、この地に生きるものならば誰でも知っている。少年も誰を敵に回したか理解したらしく、息を飲んでから喉を鳴らした。斜め後ろから見るハリスにも、緊張に口元がゆがんでいる事がはっきりと見て取れた。 「金が、欲しかったんだよ」 「どうしてだ」 「生活費に決まってんだろ! あんたたちみたいな坊ちゃんには判らないだろうけどな、食ってくには働かないとなんねーんだよ!」  少年の言葉にハリスは反論できなかった。ハリスは少年の言う通り、それなりに裕福な商家に生まれ、それなりの贅沢を知って育った「坊ちゃん」だからだ。十を過ぎた頃、成人して家を継ぐために仕事を手伝うようになった兄の背中を眺めながら、自分の将来を模索した結果、聖騎士団に入る道を選んだ。運か実力か、成人する直前に入団でき、充分な給金を貰っているので、生まれてから今日まで金に困った事など一度もない。  ハリスはエアを見た。エアは目を伏せ、静かに息を吐いている。その顔に表情は浮かんでいない。 「人の財布を盗る事が仕事か。楽に儲けられそうだな。私は以前生活のために、朝早く起きて夕方まで畑仕事をしていた事があるが、なかなか大変な上、金銭的な余裕はほとんどなかった。お前のように知恵を回せば良かったな」  痛烈な嫌味に、少年が顔を顰める。エアはそれに気付かず――いや、気付かないふりをしているだけかもしれない――財布の紐を開け、中から一枚の金貨を取り出し、少年の前に投げた。 「何だよ、これ」 「生活費に困窮する辛さは判らんわけではない。可哀相だから恵んでやろうと思ったのだが」 「っざけんな!」  エアに掴みかからん勢いで立ち上がろうとする少年を、ハリスは力尽くで押さえつける。横目で覗くと、エアは表情ひとつ変えず、少年を見下ろしていた。 「どうして怒る。お前が欲しがっていたものだろう」 「恵んでくれなんて頼んでねえだろ!」 「だから、奪うのか。これからも奪い続けるのか。お前の下手な腕に気付かないような、弱者から」  ハリスの手を逃れた少年の左腕は、エアに向けて振り上げられたまま硬直した。 「『仕方がない』などと言えると思うな。たとえお前自身が弱者であったとしても、本当に他に道が無いかを考え、実行し、それでも駄目だった時以外に使ったところで意味の無い安い言葉だ――ハリス、放してやれ」  頷き、ハリスは少年から手を放す。  少年は俯き、膝の上で拳を震わせていた。エアに何かをぶつけたくとも、何の言葉も浮かんでこないと言った様子だ。 「『仕方がない』からこれからも犯罪を続けると言うのならば、今度こそ官憲に突き出してやる。覚悟をして臨むのだな」  それだけを残し、エアは静かに歩きはじめる。ハリスが走ってきた道を辿り、ルスターの元へ戻るために。  ハリスはエアの背を追いかけながら、一度だけ振り返る。悔しげに瞳を潤ませながら、けして涙はこぼさずに、落とされたままの金貨を睨みつけている少年を。 「たいちょ――」 「一応断っておくが、あの金貨は経費から出すつもりはない。後で補填しておく。自分の財布には細かい金しか入っていなくてな」 「そんな事で隊長を疑ってませんよ。それより、あの子、許してあげるんですか?」 「許しているように見えるのか」  刺々しい口調と視線で言われても、ハリスは恐ろしいとは思えず、小さく笑ってしまった。 「ははっ、確かに。成人してるかどうかも判らない少年相手に、大人気ない苛め方しているようにも見えますね。でも彼は、救われると思いますよ」  睨み付けるような視線が、一気に和らいだ。優しくなったと言うわけではなく、呆気にとられた様子だ。  何を驚いているのだろう。この程度の真意に気付けないほど鈍いと思われていたのだろうか。だとしたら少し悲しい事だ。 「初犯って言うのに嘘は無さそうですし、意地もありそうですから本当に行き詰らない限り次も無さそうですし、あれで良いんじゃないかと俺も思います。仕事の世話までしてやるのはどうかと思いますしね。ただ最初の嫌味は本気だと思ったので、つい変な事聞いてしまいました。すみません」 「何の事だ。私は、大人気なく苛めただけだぞ」 「またまた」  ハリスは笑ってみたが、エアは唇を硬く引き結び、応えてはくれなかった。不愉快そうに見えたが、腹を立てている対象は少年でも、ハリスでもない、別のもののように見え、あるいはエア自身に対してなのかもしれないと、ハリスは漠然と感じ取った。  同時に不可解な人だとも思った。奪われた財布は取り返し、道を誤りかけた少年に漠然ととは言え正しい道を示した自身の一体どこに苛立てると言うのだろう。 「隊長に救われたのは、あの少年だけではないですよ。あの少年を捉えるために真っ先に走り出した隊長の背中に、ルスターだって救われてます。細かい事を言えば、俺だって隊長に稽古を付けてもらうようになってから腕が上がりましてね……」 「判ったから、黙れ」 「何が判ったんです?」 「お前は要注意人物だと言う事がだ」 「こんなに善良な人間に向かって、酷い事言いますね」  今度こそエアは完全に黙り込み、返事をくれなかった。  ハリスは肩を竦め、エアには聞こえないよう「難しい人だな」と呟いて、自身も無言を貫いた。馬車と共に残されたルスターの元に辿り着くまで。  馬の背を撫でながら、ルスターはひとつため息を落とす。失態を犯したのは事実だが、生命の危機に陥った訳でもあるまいに、端正な横顔には強い悲壮感がにじみ出ている。元々大柄ではない少年の背中はいつも以上に小さく見え、話を聞く限り安穏としていた彼の十六年の人生の中で、最大の絶望が今なのかもしれない、とハリスは察した。  弱々しく丸まった背を軽く叩き、振り返ったルスターに微笑みかけてみる。多少なりとも力付けられないかと思っての事だが、あまり効力はなさそうだった。 「どうでした?」 「隊長と俺が追いかけて、捕まえられないわけがないだろう?」 「では――」  エアがルスターに見えるように財布を掲げる。ルスターは安堵に胸を撫で下ろした後、手綱をハリスに託してエアの前に進み、深く頭を垂れた。 「申し訳ありませんでした。隊長からお預かりした財布を奪われるなどと」 「無事に返ってきたのだから問題はない。他のふたりに頼んだからと言って結果が変わっていたか判らんしな。だが、次からはもう少し注意を払うように」 「……はい」  会話は途切れるが、ルスターは顔を上げようとしない。  これ以上叱る気も責める気も無いエアは、ルスターの背を見下ろしながら薄く唇を開く。だが、言葉は出てこない。かける言葉を探し出そうとして、焦っているのだろう。  ハリスはルスターの肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。困惑を色濃く浮かべた瞳が、ハリスを責め立てるように見上げてくる。 「じゃあ、今日の夕食はルスターの奢りと言う事で。遠慮なく腹一杯食べて飲みましょう」 「えっ」 「任務中の飲酒は禁止だぞ、ハリス」 「……宿に入って休んでいる時も任務中に含めますか。隊長は硬すぎますよ」  ハリスの長いため息に被さるように、ルスターの笑い声が漏れた。ルスターはすぐに口を押さえて笑い声を飲み込んだが、エアやハリスが笑みを浮かべている事が判ると、再び笑い出した。  エアが視線をハリスに移し、軽く会釈する。音を出さずに唇が「助かった」と模った。満たされた気になったハリスは、満面の笑みで返した。 「そうでした、隊長。隊長はジオールさんに荷物を預けておられましたが、財布のようなものが見つかりませんでしたので、とりあえずはジオールさんが立て替えておくとの事です」 「ああ、そうだったな。ジオールには悪い事をした」 「そちらも盗まれたと言う事では、無いのですよね……?」  信頼と疑惑を半々ずつ秘めた瞳が、エアに問いを投げかけた。 「心配するな。万が一財布を失った時の事を考えて、出立前に忍ばせておいたのだ。誰にも言ってなかったのだから、判るわけがなかったな」  ハリスはエアの荷物に近付いて、興味深く覗き込んだ。 「忍ばせておいたって、この何の変哲もない荷袋のどこにです」 「底にだ。少し仕掛けをしてな」 「……変なところに凝ると言うか、用心深いですね、隊長は」 「褒められていると思っておこう」 「もちろん、褒めてますとも――と」  眉間に皺を寄せたエアの向こうに、近付いてくるジオールの姿が見える。ハリスが手を振ると、エアとルスターも振り返った。  どうやら宿は無事に取れたようだ。妙に疲れた一日だったが、これでようやく休める。  安堵したハリスは馬のたてがみを撫でながら、寝台でゆっくり眠る事を夢見た。 三章 女神ライラ 1  その日、ディナス・オリンストが街外れの墓地に足を向けたのは、ただの偶然だった。たまの休みに何をしようかと前日から考え続け、「そう言えば最近は母の墓参りに行っていなかったな」と思い出したのだ。  秋の終わりが近付き、朝晩は随分冷え込む日々が続いているが、この日はあまり寒いとは思わなかった。冷たい風はゆるやかであったし、空にはほとんど雲が浮かばず、暖かな陽光が惜しみなく降りそそいでいたからだろう。母との再会に相応しい日かもしれないと、ディナスは朝早く家を出た。  母が病気で命を落としたのは、今から十年ほど前になる。それから数年は足しげく墓参りに通っていたものだが、出世と共に「忙しい」を言い訳にするようになってしまった。聖騎士になるために家を出た自分が行かなくとも、家族の誰かが行ってくれる、と言う甘えがあったのかもしれない。  久方ぶりに訪れた母の墓は、寂しいものだった。元々墓場など寂しいものだが、それが理由ではない。墓前に添えられた花が、すでに色を失っていたからだ。  滅多に足を運ばないのはディナスだけではなく、父や兄も同様らしい。商売に追われている彼らは自分以上に忙しいのだろうと想像したディナスは、心の中で父たちを責める事はせず、「親不幸ですみません」と母に謝りながら苦笑した後、「今度からもう少し頻繁に来るようにします」と付け足した。  以前は――四年前までは、こうではなかった。頻繁に、丁寧に手入れされた母の墓は、同様の聖十字が立ち並ぶ中で、輝いて見えるほどだったのだ。  失われたもうひとりの家族を思い、ディナスは唇を噛む。痛みは胸中を巣食う虚しさを、少しだけ和らげてくれる気がした。  深く息を吸い、聖十字の前に跪く。母のために祈る前に首を振り、安らかな眠りを妨げかねない暗い感情を振り切った。  墓に新たな花を添え、長い祈りを捧げると、緩やかな風が優しくディナスを撫でる。  風の温もりは、幼き日の思い出の中にある母の柔らかな手に似ていて、親不幸な息子が訪れた事に母が喜んでくれているのかもしれないと、少しだけ楽な気持ちになった。 「また、来ます」  再会の約束を残し、ディナスは踵を返す。石造りの聖十字の中に、奥深い黒を見つけたのはその時だった。  黒髪の青年は、無数の聖十字の中から選ばれた聖十字の前に跪き、目を伏せ、静かに祈り続けている。緩やかな風が吹くと、青年の少し長めの黒髪が揺れ、青年自身の輪郭を撫でたが、神聖な祈りは途切れる事はなく、青年をとりまく静謐な空気に変化は現れなかった。  まるで神像だ、とディナスは思った。永遠に美しく、永遠に変わらない、世界の至宝のようだと。  違うと言う事は知っていた。青年の美は永遠ではない――それ以前に、はじめから美しい存在ではないのかもしれない。  風が再び強まった頃、青年は目を開けた。細めた眼差しが聖十字に向ける愛情は、痛々しいほど悲しい。  青年は聖十字に何かを囁くと立ち上がり、顔を真上に向け、高くに広がる空を見上げる。紫水晶の瞳が抱く感情は、先ほどまでとはまるで違う、鋭いものに変わっていた。  憎悪だと気付くまでに、さほど時間を必要とはしなかった。彼の眼差しを見れば、事情を知らない者でも判るだろうが、ディナスは知っていたのだ。彼が聖十字に注ぐ愛情と、空に向ける憎悪の理由を。  ディナスは硬く目を伏せた。青年と空と聖十字を闇の中に飲み込み、胸の内で渦巻く感情の整理をしようとした。  自分も青年と同じ想いを知っている。彼と同じように、憎悪を宿らせた瞳で空を見上げる権利を持っている。だが、自分も青年と同じように、愛情を盾に空を恨むべきなのか、答えを出せずにいた。  いや、気付いていないふりをしているだけで、答えはすでに出ているのかもしれない。世界を敵に回そうとする青年に嫌悪を抱かず、同種としての哀れみを覚え、彼の非常識な願いに抗わなかったのだから。 「ディナス」  名を呼ばれ、ディナスは闇を掃って顔を上げる。  青年は、聖十字に向けた愛情とも、空に向けた憎悪とも違う、親愛の情を持ってディナスを見つめていた。 「アシュレイ様」  ディナスが頭を下げようとすると、アシュレイは即座に腕を伸ばして静止し、「よしてくれ」と言った。 「私は藍色の外套を身につけてはいない。ここは大神殿からも離れているし、人目があるわけでもない。私たちが『団長と第二中隊長』である必要はないだろう。ただの同期であった頃のように、普通に話してくれないか」 「しかし」 「何より、『義兄と義弟』として話したい事があるのだ」  ディナスは小さく肩を震わせた。アシュレイの言葉に、表面上以外の意味がある事を、すぐに察したからだった。  無言でアシュレイに歩み寄ると、アシュレイの前の聖十字が、嫌でも目に入った。石で作られた聖十字は綺麗に手入れされてはいるものの、時の流れを止める事はできない。この美しい男が、生まれてはじめて悲しみにくれた日から過ぎた時間を思い知らされ、ディナスは息を飲んだ。  十年は過ぎていないが、それに近い時が流れているだろう。ディナスが母を失ってからと、ほぼ同じだけの時だ。しかしアシュレイは、そこからはじまる呪いの運命と、心を引き裂くような痛みを、けして忘れようとはしなかった。  忘れられるはずもないか。ひとり納得したディナスは、自身の息苦しい喉元に触れる。 「御前試合の時はありがとう」 「何の事です」  アシュレイは無言のままディナスを見下ろした。 「何の事だ、アシュレイ」  言い替えると、アシュレイは微笑みを浮かべて話を続けた。 「エア・リーンの成長には目を見張るものがある。数年であれほどの剣術の使い手になれるとは、正直思っていなかった。だがそれでも、現状では君に勝てる確率は三割にも満たなかったはずだ」 「ああ、その事か」  ディナスは小さく笑った。  そう言えばそうだった。ディナスにとって最後の機会であった御前試合の前日、アシュレイは忙しい時間の僅かな隙を突いてディナスと接触を持ったのだ。 「『エア・リーンに負けてくれないか』と言われた時は、君の正気を疑ったよ。あるいは、私が入団した時からずっと武術大会の優勝に焦がれていた事を、忘れてしまったのかと」 「忘れるわけがない。君が入団してはじめての武術大会で、優勝と言う夢を語っていた日の事も、しっかりと覚えている」 「その夢は二回戦であっさりと君に砕かれたがな。そして私の代わりに君が夢を叶えた時は、複雑な思いだった」  聖騎士団に入団してからこちら、ディナスは数え切れないほど「君は運が悪かった」と言われ続けた。剣技の腕も、人望も、出世の早さも何もかも、聖騎士団の中で上位に位置しながら、けしてアシュレイには敵わなかったからだ。  アシュレイと同期でなければ、もっと目立てたのかもしれない。同期の期待の星とされていたかもしれない。優秀な人間だと褒められる機会が格段に増えたのかもしれない――そう思った事が無いと言えば嘘になる。しかしディナスは不思議と、この男と同じ年に入団した事を後悔はしていないし、運が悪かったとも思わないのだ。手の届かない目標であるこの男が目の前にいたからこそ、自分はここまで来られたのだと判っているから。 「ならば、優勝を何度も目前で逃し続けてきた私が、最後の機会である今回に賭けていた事も、知っていただろう?」  アシュレイは力強く肯くだけで、しばらくは無言を貫き、やがて言い辛そうに口を開いた。 「それでも、ライラを喪失した痛みを共有する君ならば、頼めると思ったのだ」 「本当に」  言いかけて、ディナスは言葉を飲み込んだ。紡ぐ意味の無い問いである事は、アシュレイの強い瞳を見れば明らかだったのだ。  アシュレイの目の前にある聖十字が、アシュレイと共にディナスを攻め立てるようだった。その下に眠るアシュレイの姉、二代前の森の女神エフィールの代わりに。  ディナスは覚えている。エイドルードに選ばれた美しき姉を誇りに思っていた少年時代のアシュレイも、変わり果てた姿での姉の帰還に嘆くアシュレイも。  全てにおいて優れた彼が持つ、見る者全てを魅了する煌びやかな光は、悲しみゆえに完全に陰っていた。並外れた容姿も、知識も、剣技も、何ひとつ衰えていなかったと言うのに、彼は周りの者たちに埋没していたのだ。 「姉を失った時、私は何も知らずに喜んでいた自身の愚かさに失望した。そして次は、妹を」 「もういい。それ以上、言うな」  過去の苦しみが怨念となって彼を前に向かせているからと言って、その苦しみを彼自身が掘り起こし、傷を抉る必要はない。今更語られずとも、彼の苦痛、覚悟、繰り返される喪失によって曇りゆく信仰を、ディナスは理解しているのだから。 「私もつい先ほど、墓参りをしたのだ、アシュレイ。十年前に病死した、母の墓だ」  アシュレイは何かに気付いたように、視線をディナスから反らす。彼が見る方向には、ディナスの母の墓があった。 「やはり男所帯は駄目だな。あれほど世話になった母の墓すらろくに面倒が見られない――いや、男だ女だは関係ないか。毎日のように通っていたライラが、優しかったのだな」 「ディナス……」 「なぜ、ライラが、犠牲にならねばならないのだろう」  以前のディナスは、アシュレイの中で育っていく、憎悪や悲哀や汚れていく信仰を傍から見つめながら、惜しいと思っていた。それは完璧にほど近い男だったアシュレイが、ゆっくりと完璧から遠ざかっていく光景で、世界の至宝が失われていく様に似ていたからだ。  だが、今なら思える。誰よりも強くあったからこそ、彼はゆっくりと蝕まれていったのだと。  痛みを真正面から受け止める事など、自分には耐えられそうにない。忘れるふりをして目を反らす事で、痛みを和らげようとするが精一杯だ。 「ライラは犠牲になどならない」  アシュレイは力強く言い切った。ディナスを力付けるそれは、神の言葉のようだった。 「ディナス。私は今度こそ、大切な家族を失いたくないと思っている」 「ああ。ああ、そうだ、アシュレイ。私も本当はそれを望んでいるとも」 「ならば良かった。君にもうひとつだけ頼みたい事があったのだ」  ディナスは無意識に俯いていた顔を上げた。  本当に、本気なのだ、この男は。神の定めた運命に立ち向かい、失われたものを取り返そうとしている。  同じだけの覚悟を、自分も決めねばなるまい。 「どんな無理難題だ?」  問い返すと、アシュレイは僅かに目を細めて思考に耽った。 「大した事ではないが――それに関してはまた今度話そう。こんな所で会うとは思っていなかったものでな、準備ができていない」 「そうか。では、また次の機会に」 「……内容を聞かないのか?」 「必要ない」と短く返すと、アシュレイは満足そうに肯いた。ディナスは微笑みで彼に返すと、アシュレイに背を向け、その場を立ち去ろうとする。  二、三歩歩いたところで、大切な事を言い忘れていた事を思い出したディナスは足を止め、振り返らずに言った。 「私の名誉のために言っておく。武術大会での優勝は、エア・リーン自身の実力だ。私は手を抜いてなどいない」  再び歩き出す。ため息混じりにアシュレイが、「そう告白する事が名誉だと言うのか。まったく、君らしい」と言うのが聞こえたが、振り返る事も足を止める事もしなかった。彼ひとりをこの場に残して早く退散する事が、アシュレイにしてやれる唯一の事の気がしたからだ。  去り際に、母の墓がディナスの視界を掠めた。  優しい笑みを持つ美しい女性が、聖十字の前に立っていた。慌ててそちらを凝視するも、女性の姿は消えていて、ディナスは願望を幻覚として見た自分の青さを笑った。  そして思う。もう二度とこんな笑い方をしなくてもすむようになればいい。今見た幻覚が願望などではなく、ライラが再びこの街で日常を過ごせる時がくればいい―― 2  ディミナ山の麓、西方から南方にかけて広がる深い森の中心に、エアたちが目指す森の女神の神殿がある。  大陸一の樹海は途方もない広さで、奥深くまで足を踏み入れようとする者はまず居ない。地元の者曰く、あるかもしれない豊富な獲物や資源を夢見る者、最高峰の芸術品とも言われる森の神殿をひと目見ようとの野望を抱く者などが、ごく稀に森の奥へと向かうそうだが、年に一度やってくる聖騎士の一行を除けば誰ひとりとして帰還しないそうだ。  森の入り口を目の前にして、空を見上げるように背の高い木々を見上げたエアは、荷物の中から古い羊皮紙を取り出した。自分と、三人の部下たちと、まだ見ぬ協力者の命を支えるそれを、緩やかに吹く風に攫われないよう、強く胸に押し抱く。  エアは傍らで息を荒くする馬の手綱を引き、森に足を踏み入れた。入り口近くの木々はそれほど密集しておらず、馬を連れる事も難しくなかった。  四人はそれぞれ、一頭ずつ馬を引いている。その背には、町まで乗ってきた馬車の荷台に乗せていた荷物を分けて積んでいた。馬車のままでは森や神殿へと続く迷宮には入れないので、町で荷台をはずし、馬だけを連れて行くのが伝統なのだ。  木々の隙間から降りてくる陽の光を頼り、冷たい空気の中、まばらに積もる枯葉を踏みしめながら進む。少し歩くと、エアが目指していた一本の木が見つかった。  立ち並ぶ木々の中で一際目立つその木は、大の男二、三人が腕を回さなければ届かないほど太い幹で、人の目の高さ――エアは見下ろさなければならないが――に金属板が埋め込まれている。天と地を繋ぐ剣が模され、剣の柄に空色の宝石が埋まったそれは、森の神殿に向かう聖騎士のためにある目印だ。  エアは聖印の下に手を着き、木のそばに広がる地面を見下ろした。元より木はまばらにしか生えていなかったが、それでも違和感を覚える程度に広く土色が見えている。 「少し下がっていろ」  後ろで控える部下たちを手で制し、エアは静かに息を吸った。 『神の寝所はただひとつ天のみに』  流麗な神聖語を口にすると、部下たちの尊敬の眼差しが一斉にエアに注がれた。 「さすがエア隊長。これほど美しい発音で紡がれた神聖語、私ははじめて聞きました」  嘘偽りなどどこにも見られない素直な表情でジオールが言う。「そうです」「私も」とハリスやルスターが続き、エアはどう反応してよいか判らず、無言で肯くだけだった。  神の言語である神聖語は、文法もさながら特に発音が難しいと言われている。肌に合うのかそれとも別の理由があるのか、エアはこれが得意で、特に発音にいたってはいささか自信があった。一年も学んだ頃には、師事した人物よりもエアの発音の方が美しくなっていたからだ。  実のところエアは、入団試験を受けた折、歴史の知識に対する評価があまり良くなかったらしい。アシュレイ曰く本来ならば入団試験に落ちてもおかしくなかったらしいのだが、剣技と神聖語の成績が正団員を軽く凌げるほど優秀であったため、なんとか合格となったのだそうだ。  つまりエアの神聖語は、他の欠点を補って余りあるほどなのである。これで謙遜しては、逆に嫌味だろう。 「あ……」  エアにとって気まずい沈黙が流れかねない展開だったが、すぐにその状況から免れる事ができた。  積もった枯葉同士が擦れあう音がしたかと思うと、地面が小刻みに揺れて居る事をエアたちは体感する。揺れが徐々に強まっていくと、目の前の大地は割れはじめ、やがて四人の前に巨大な扉が姿を現した。  人間の背丈の二倍はある重厚な扉。鍵穴も取っ手もなく、押してもけして開かないこの扉こそが、森の神殿に続く唯一の道だった。  普段は土の下にその姿を隠しているが、合言葉たる神聖語に反応し、こうして姿を現す。神聖語はそれなりの教育を受けたものでなければ発音できるものではないし、合言葉自体司教から教わった者しか知らないため、森に入り込んだものや迷い込んだものがこの扉を見つけだす心配はまずないと言って良かった。  そして万が一見つける者が居たとしても、扉の向こうに続く迷宮にある無数の道の中から、たったひとつだけの正しい道を探り当てて神殿に辿り着く事は無い。 「エア隊長、これはどうやって」  開けるのですか、と続けようとしたのは明らかだったが、ルスターがその問いを最後まで紡ぐ前に、扉は鈍い音をたててゆっくりと開いた。  扉の向こうには深い暗闇が続いている。入り口付近は外部の明かりが届くのでまだ薄明るいが、五歩も内に入れば全く見えなくなるだろう。  誰か灯りを、と指示する前に、ハリスとジオールがランタンを取り出していた。手馴れた動きでふたつのランタンに火を灯し、温かな明かりが暗闇を掃っていく。 「順に中に入ってくれ」 「隊長は?」 「私は最後に行く。扉を閉めなければならないからな」  同じ合言葉で、と続けると、三人はおとなしく前を行った。エアの発音を聞いた後では、いつものように自分たちがやっておきますと言う気にもならないようだ。  エアの横にいる馬が小さく唸る。未知の場所へ連れ込まれる事に恐怖しているのかもしれない。エアは馬を優しく撫で、気を落ち着かせてやると、手綱を引いて三人に続いた。 『神の寝所はただひとつ天のみに』  再び同じ合言葉を紡ぐと、扉は開いた時と同じようにゆっくりと閉じた。木々の隙間を縫って天から届いていた太陽の明かりは完全に消え失せ、ハリスとジオールの持つ明かりのみが四人の進む道を照らしている。  エアの目が届く限りの場所は、床も壁も天井も石造りだった。灰色のような薄紫のような不可思議な色を持つ石の名を、エアは知らない。他の三人も珍しそうにしているので、恐らくその辺りに転がっているような石ではないのだろう。  エアは司教より託された地図を広げた。古ぼけた羊皮紙に描かれた迷宮が、ランタンの明かりを浴びてぼんやりと浮かび上がった。  ここに到着するまで何度も取り出し、脳内で進むべき道を辿っている。だが、いざ本当にここに来ると、いささか緊張した。侵入者を延々と迷わせるつくり、容赦無く襲い来る罠。どこかで道を誤り、正しき道を見失えば、エアたち四人の生命は絶望的となるのだ。 「ここに到着するまで約一月の態度を見ていれば問題はないと思っているが、念のため言わせてもらおう。ここから先は一歩間違えれば命の危険に晒される場所だ。かならず私の指示に従うよう」 「もちろんです」 「はい」 「承知しました」  エアは三人の顔を順に見回してから肯いた。 「そう緊張しなくてもいい。正しい道を行けば、森の神殿まではさほどかからないからな」  エアの一言が功を奏したか、多かれ少なかれ青年たちの表情に浮かんでいた不安が消えて行く。同じように怯えている馬をなだめながら、エアが指示する方へとゆっくりと進んで行った。  最初は右、それから左、次も左、その次の三叉路は真ん中、再び左。  分かれ道から正しい道を選び、少し進むとまた新たな分かれ道が現れる。延々とその繰り返して、これでは地図を持っているエアでもくたびれずにはいられなかった。運良く――この場合、運悪くかもしれないが――この迷宮に迷い込んでしまった者の絶望を思い、エアはつい同情してしまう。  そして森の女神ライラを求める人物の事を考えた。  砂漠の神殿へ至る迷宮がどんなものであるかエアにはまだ知るよしもないが、おそらく同程度に複雑で、凶悪な罠が散らばっている所に違いない。  はじめエアは、会った事もない――もしかするとすれ違ったり軽く言葉を交わしたりした事はあるのかもしれないが――エアに取引を持ちかけてきた人物を疑っていた。女神はこの国にとって必要不可欠な存在であり、その女神を奪おうとする計画が少しでも洩れれば、即処刑されてもおかしくない。そんな危険な橋を渡るための相棒に、全くの他人を選ぶのは、あまりに不注意すぎると思ったからだ。  だがこの迷宮を通った後では、相手の気持ちがよく判った。エアが逆の立場だったとしても、誰かを頼らざるを得ない。同じ痛みを知り、同じだけの情熱を持つエアであれば、取引を持ちかける事で裏切る可能性は下がるだろうと踏んだ上での選択なのだろうと考えれば、至極納得が行った。 「隊長、次は二股のようです」  先頭を行くハリスのうんざりした声音で、エアは顔を上げた。  四人分の命がエアの持つ地図一枚にかかっていると思うと責任は重く、緊張のせいか、予想以上に疲労の蓄積が早かった。だからと言って、僅かな時間とは言え集中を途切れさせ、思考の深みにはまった己を許す理由にはならないのだが。 「ああ、次は……」 「ここは左ですよね。間違いなく」  エアが地図を確認するよりも早く、二番目を行くルスターが明るい声で答えた。 「いや、右だ」 「え?」  左の道に体を向けたルスターが、ゆっくりと振り返る。疑いもしなかった答えがあっさりと否定された事に、驚いている様子だった。 「なるほど。確かに右の道は避けたくなるかもしれないな」  地図に記された正しい道には、人骨と思わしきものが横たわっていた。時間が風化させたと思わしき、くたびれた服を着たその骨は、胸の位置を古びた槍に貫かれている。この道には罠があり、誤って通った者がその罠に命を奪われたと考えやすい。 「指示に従えと自分で言っておいて、指示が遅れてすまなかったな」 「そんな。自分が指示の前に勝手に動こうとしただけですから」 「いや、集中力と注意力を欠いていたのは事実だ。すまん」  エアは目を伏せて静かに長く息を吐き、自身の頬を軽く叩いて、気合を入れ直す。部下たちの命を預かっている身なのだから、失敗は許されない。  息を吐ききった後、深く息を吸った。肺に空気を溜め込むと同時に目を開き、再び息を吐き出すと、意識が新たに生まれ変わった気がした。  はっきりとした思考が興味を持ったものに視線を移す。四人が進むべき道に横たわる、人骨に。 「心理的な罠、でしょうかね」  エアと同じものを見据えたハリスは眉間に皺を寄せ、僅かに唇を尖らせた。それが思考する時の彼の癖である事を、これまでの旅でエアは知っていた。 「おそらくそうだろう」 「あ……そうだったのですか」  ルスターが大きな目を更に大きく開き、エアとハリスを交互に見た。 「こんな風に死体を置けば、何も知らずにここに来た人間はこの道を避けたくなる、と言う寸法だろう」 「ここまであからさまに罠があるように見せられては、俺なら逆に疑いますけどね」 「意外に捻くれているな」 「いや、思うのは自由ですけど、できれば口に出す言葉を選んではもらえませんかね。『思慮深い』とか」 「『意外に思慮深い』の方が失礼な言い草ではないか?」 「いや、『意外に』を抜いてくれればいいんじゃないですかね……」  突然ルスターが小さく噴き出した。原因は今のハリスとのやりとり以外には考えられず、笑わせるつもりも笑われるつもりもなかったエアとしては不本意だ。しかし、見ればジオールも咳払いをして何かをごまかそうとしており、しぶしぶ納得して話を元に戻した。 「お前のように疑うとしても、ルスターのように素直に信じるとしても、多かれ少なかれ侵入者は迷うだろう。迷いは混乱を産み、混乱は誤りを産む。おそらくはそれが狙いだ」  エアは横たわる人骨に歩み寄った。  骨が着ている古びた衣服も、骨を貫いて床に刃先を埋め込んでいる錆びついた槍も、間違いなく本物だ。だが人骨そのものは精巧に作られた紛い物である事が、近くで確認すれば判る。 「神殿が造られた後、女神を守るための迷宮と樹海を造ったのはエイドルードだと聞いていたが」 「そのはずです」  神のくせに小賢しい真似をしやがる、と口にしそうになり、エアは慌てて言葉を探した。 「よほど女神を大切になされているのだろうな。あらゆる手を尽くし、誰にも奪われないように守り――」  エアはそう呟いてから、三人に振り返った。 「行こう」  エアが言うと三人は肯き、偽の遺体を乗り越えた。  道はまだ続いている。 3 「次は右から四番目だ」 「右から四番目ですね」  エアの指示を復唱してから、ジオールは指差し数えて道を確かめた。続くルスターの確認を得ると、ようやく歩き出す。地図以外の情報を信じないよう、彼らが自分たちで定めた決め事だった。  ハリスが額に滲んだ汗を拭いながら続く。エアは静かに深呼吸し、彼らの後を追った。  どれほどの時間を迷宮に費やしているのか、エアには判らなくなっていた。迷宮に足を踏み入れたのは確か昼を少し過ぎた頃で、歩いた距離から考えるに、陽はおそらく今もまだ青空の中で輝いているだろう。せいぜい、西の空を茜色に染めはじめた頃のはずだ。  だがエアは、もう丸一日以上迷宮の中に居るような錯覚に囚われていた。  それは他の三人も同じようだ。元々寡黙の傾向があるジオールは判りにくいが、ルスターやハリスの口数が明らかに減っている。彼らが疲弊しきっている事が判る。  エアが持つ地図のおかげで罠は全て回避できているし、ランタンの明かりもある。それでも、閉鎖された暗闇に追い込まれたような緊張感が、エアたちを襲うのだ。歩き続ける事による体力の消耗よりも、精神的な消耗の方が辛かった。 「次は左から三番目だ」 「左から三番目ですね」  これまで一番多いところでは十にも分かれた分岐を、百近い回数通り抜けてきた。確認を幾度も繰り返す事に嫌気がさし、それでも部下の手前ため息だけは吐くまいとずっと気を張り続けていたエアだったが、今回ばかりは我慢できず、堂々と深い息を吐いた。  不満を示すものではなく、安堵のため息を。 「これで最後だ」  ため息の後にエアが告げると、三人はエアに振り返る。  くたびれた表情が一瞬にして明るい表情に上塗りされる様子がおかしく、エアが思わず笑みをこぼすと、自分たちの油断に気付いたのか、三人が三人とも表情を引き締めて歩きはじめた。  それで隠したつもりなのかもしれないが、進む足取りはどことなく軽く、迷宮を進むにつれて減っていた口数が戻りつつある。ごまかそうとしている分いっそうおかしく、エアが忍び笑いをもらすと、ハリスが振り返ってエアを見上げた。 「隊長、笑わないでくださいよ」 「そう言われてもな」 「ようやくここから出られると思えば、誰だって浮かれますよ」 「だから叱ってはいないだろう」 「そうですが……」  ハリスは肩を竦め、それ以上は何も言わなかった。  ジオールとルスターの話し声に、人や馬の足音が混じり、通路中に響き渡る。その音の中、ランタンの明かりに照らされ壁や天井が不思議な色に輝く様子を眺めながら、エアは歩いていた。これで終わりだと思うと、エアたちを閉鎖した空間に押し込めていた色が、幻想的で美しいものに思えてきたのだ。  やがて足音が少しずつ減った。前を行く者たちが足を止めたのだ。エアも前方に習って足を止めると、正面に大きな扉があるのが判った。  三人の部下たちは、期待に輝かせた瞳を向け、エアの言葉を待っている。エアは部下たちの横をすり抜けると、扉の前に立った。 『全ての恵みは天上より授けられる』  司教に教わったふたつめの神聖語を発生すると、エアの前にある巨大な扉は、淡く発光した。  重く引きずる音を立て、扉はゆっくりと開いていく。少しずつ広がっていく隙間からは、西に傾きはじめた太陽の光が惜しみなく降りそそぎ、薄暗い空間に馴れたエアたちの目を容赦無く攻め立てた。  エアは腕を掲げて光から目を守ったが、それでも耐え切れず、極限まで目を細める。そうして狭まった視界に映ったのは、溢れんばかりの緑だった。  少し長めの芝が生えた大地が、どこまでも続いていく。遠くには湖があるのか、水面に光が反射してちらちらと輝いている。あまり背の高くない瑞々しい木々には、鮮やかな色を持つ実がたわわに生っている。  エアはゆっくりと歩き、迷宮を出ると、豊かな自然を踏みしめた。硬い石ばかりを感じていた足が、柔らかな土の感触に喜びの悲鳴を上げる。新鮮な空気を取り込む事で、肺が大きく膨れ上がる。 「ここが、森の神殿ですか……」  感嘆のため息を交え、ルスターが言った。 「綺麗ですね。事前に聞いていた通り、住み心地も良さそうだ」  きょろきょろと辺りを見回しながらハリスが言う。  ハリスの言葉に、エアは無意識に肯いていた。どこまでも広がる大地の恵み、緩やかに流れる風、暑くも寒くもない気温と、全てが生活に最適と言えるものだった。おそらくその辺りを掘り起こせば、驚くほど肥沃な土が出てくるのだろう。  エアは歩みを進めた。左手の方向を真っ直ぐ眺めると、畑が広がっていた。収穫はすでに終わっている時期だが、春から夏にかけて野菜が生き生きと育っていただろう事は、容易に予想できる。  更に奥を見上げると、ようやく外壁を見つけられた。高い壁に囲われていると言うのは実に閉鎖的で息苦しさがあるだろうと思っていたのだが、壁の中の面積が広大となれば話は別だ。おそらく、大都市――たとえば王都セルナーン――並の広さはあるだろうと予想され、遥か遠くにある壁は、充分以上の高さがあると言うのに、敷地内のほとんどの場所に影を届けられずにいる。  右手を眺め、エアはようやく白亜の神殿を見つけた。  たとえば空から舞い降りたばかりの雪など、エアの知る限りの白よりもなお白い。丸みを帯びた形状は女性的な柔らかさを見る者に伝えながら、洗練された孤高の美しさを同居させていた。 「王都より参られた聖騎士様ですね」  若草を踏みしめる音と共に、四人の前に人影が現れる。  エアより少し年若い、可愛らしい少女だった。衣服は基本的に白だが、腰紐や肩掛けなど要所に使われた明るい緑色が印象深く、少女の茶色の髪や若草色の瞳によく映えている。 「はい。王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。王都より物資補給の任務のため、派遣されて参りました」 「遠く険しい道をお疲れ様です。ようこそいらっしゃいました。神殿の方で森の女神ライラ様がお待ちです。どうぞこちらへ」  少女は会釈するとエアたちに背中を向け、神殿へ向けて歩きだした。エアたちを先導してくれるのだろう。  エアたちは馬を引き、少女の後を追った。一見ごく普通の少女だが、さすがに女神に仕えるだけあって、一流の教育を受けているだろう事が一目で判る。優雅な立ち振る舞い、正しい姿勢、滲み出る気品といい、文句の付け所がない。 「お迎えありがとうございます。しかし、どうして私たちが来た事を?」 「迷宮の扉が開かれた事を、ライラ様はご存知なのです。時期的にも一年に一度いらっしゃる補給隊の方々で間違いないでしょうと、ライラ様はわたくしに迎えの任をお与えくださりました」 「なるほど。そうですか」  適当に肯きつつ、これは重要な情報かもしれないと、エアは脳内で噛み締めた。  この類の機能は森の神殿も砂漠の神殿もほとんど同じであろう。変える意味が無い。と言う事は、エアが砂漠の神殿に侵入した時、最初に気付くのはリリアナだ。  事前に伝える術が無い以上、まさかエアが自分を奪い返しに来るなどと思ってもいないであろうリリアナは、普通の対処をするに違いない。女官たちを動員して警戒させ、侵入者であるエアを排除しようとするはずだ。  ほとんどの女官に武術の心得は無いとのアシュレイの言を信じるのならば、肉体的な負担は大きな問題ではない。問題なのは―― 「こちらでは何人の方が生活しているのですか?」  好奇心に瞳を輝かせて、ハリスが少女に問うた。 「女神様にお仕えする女官たちが二十一名おります」 「そんなに!」 「お仕えする、と申しましても、おそらくは皆様が想像する、優雅な仕事ばかりではございません。田畑の手入れをし、木の実を取り、獣を狩り、料理、洗濯、掃除と言った、生活するために当たり前の仕事がほとんどです。ここは女だけで生活する、小さな村なのだと思っていただければよろしいかと」 「ははあ、なるほど」  納得して肯くハリスを横目に、エアは右手で口元を隠し思考に耽った。 「女神様を含めると二十二名……これは天上の神エイドルードが魔獣と戦った日数と同じですね」  エアが思いつきを口にすると、少女は振り返って肯く。 「二十二は、偉大なる神エイドルードが地上におられた日数。故に、聖なる数字とされておりますから」  少女は誇らしげに微笑んでエアに答えた。  ならば、砂漠の神殿に居る女官の数も、同じと考えて間違いない、か。  エアはさりげなく肯きながら、新たな情報を脳に焼き付けた。  森の神殿に来る意味は取引の材料にするため以外にないはずだったが、自分の役に立つ情報もこうしていくつか手に入っている。エアは内心喜んだが、この任務をエアに与えた人物の顔が蘇ると、喜びはあっさりと霧散した。  それきりエアは少女に何も聞かず、ただその後ろを着いて行った。本当ならば入手できる限りの情報を彼女から聞き出したいところだったが、あまり根掘り葉掘り聞いて疑われでもしたら元も子もない。焦りは禁物だ。  少女はエアたちが何も問いかけないと、無言で歩みを進めるだけだった。長い距離を歩く事に馴れているのか、変わらない足取りで四人を先導して行く。  遠くに見えていた神殿がやがて目の前に迫ると、エアはその大きさに圧倒された。美しさだけでなく大きさも、王都セルナーンの大神殿に勝るとも劣らない。思わずごくりと息を飲み、視線を巡らせた。  神殿の入り口近くに、複数の人影が見える。エアたちを案内してくれた少女と同じ服を来た女たちが、間を広く開けて二列になって並んでいた。老女と呼べる者から少女と呼べる者まで様々な年代の女性が揃っており、数えてみると、それぞれが十名。案内人の少女を含めると、女官の全員がそこに集まっている事になる。  少女は振り返り、エアたちに礼をすると、先に行くように促しながらエアが引く馬の手綱を手に取った。左右の列の後ろの方に並ぶ女性が三名、エアの部下たちに歩みより、同じように馬を預かってくれる。  エアは僅かに戸惑いつつもそれを隠し、女性たちの列が造った道を進んでいき――その先に立つひとりの女性に対面した。  楽園の女神。森の女神ライラは、そう称する事に何のためらい抱かずにいられる女性だった。  色素の薄い肌は抜けるように白く、小さな顔にはまる目も鼻も口も、全て造詣が完璧と言って過言ではない。優しく輝く緑色の瞳が彼女の美に温かみをもたらし、完璧と言う言葉がもたらす冷たさを完全に払拭している。その顔を覆う髪は、まるで上質の繭から紡がれた金糸で、西日を浴びて柔らかく輝いている。  小さな薄桃色の唇が、ゆっくり笑顔を象る。その華やかな微笑みは、瞬きする間も惜しみたくなるほどだ。 「ようこそ、森の神殿へ」  声も心地良いものだった。優しく耳朶を震わせ、胸に安らぎを与えてくる。長い旅路で積み重ねた苦労も、一瞬にして吹き飛ぶ勢いだ。 「お、王都聖騎士団第十八小隊隊長、エア・リーン以下三名です。物資補給の任務のため、王都より派遣され参りました」  エアは女性を凝視していた自分に気付き、慌ててその場に跪くと、深く礼をした。エアの後ろに並んでいた三人もそれに続く。 「王都よりの長い道のり、ご苦労様でした。今宵のお食事やご入浴の準備もさせてありますので、ごゆっくりくつろがれ、疲れを癒してくださいませ」 「は……お心遣い、心より感謝いたします」 「もしお邪魔でなければ、ぜひ私もお食事をご一緒させてください。外のお話をお聞きできる機会は、あまりありませんので……」 「ライラ様さえよろしければ、お断りする理由などございません。至上の光栄にございます」  森の女神はいっそう深く笑った。まるで子供のように無邪気な笑みだった。 「楽しみにしております」  軽く一礼すると、森の女神は軽やかに踵を返して神殿の中へと姿を消していく。  どちらかと言えば小柄で細身の体は、実態を伴わない存在のように思えた。  まさに、女神。同じ人間であるとは到底思えない、不思議な雰囲気を持つ女性だ。 「どうぞこちらへ。お部屋にご案内いたします」  女官のひとりに声をかけられ、エアは慌てて立ち上がる。  それから振り返ってみると、三人の部下たちは魂が抜けたかのように未だ呆然とし、膝を着いたままだった。 4  まずは風呂に入って埃や汚れを落とし、用意された服に着替える。形こそ男性用だが色使いは女官たちが着ているものと同じで、白と緑の二色だけが使われていた。  旅先でも聖騎士の名に恥じないよう身なりを整えていたエアたちだったが、広い浴場でたっぷりの湯や香りの良い石鹸を使って体を洗う機会や、綻びも僅かな皺もない真新しい服を着る機会はまずなかったので、妙な緊張感に包まれていた。与えられた客室なのだからそれなりにくつろいでも良いはずなのだが、ついつい背筋が伸びてしまう。 「自分の部屋で休んだらどうだ。食事の時間になったら迎えに来ると女官長が言っていただろう」  エアは寝台に深く腰を下ろすと、なぜかエアの部屋にやってきた部下たち三人を見回した。  彼らは長い旅の最中、ずっと上官と顔を突き合わせねばならなかった。いくらその上官が年若く、細かい事を気にしないエアだからと言え、やはり気を使わずにはいられなかったはずだ。ひとりひとり部屋が与えられ、エアと離れて行動する事が許された今は、心身ともにゆっくり休む絶好の機会ではないか。 「いや、そうなんですけど、どうも落ち着かなくて、ですね」  ハリスが言うと、他のふたりも肯いた。 「現実離れしていると言うか、とにかく不思議な雰囲気ですよね、ここは」 「確かにそうだが……とりあえず、座ったらどうだ」 「あ、失礼します」  部屋に備え付けてあった椅子をエアが進めると、まずハリスが腰を降ろし、他のふたりも続く。  本音を端的に言われる事で、エアは彼らがエアの部屋に滞在したがる理由を薄々理解した。エア自身、彼らと同じ気持ちを抱えているのだ。  普通の人々が暮らす大地よりも遥かに富んだ土地、美しくそびえる神殿。加えて人の領域を超えたとしか思えない神秘的な美しさを持つ、女神ライラ。  ひとりで思い起こしていては夢や幻だったのではないかと疑ってしまうそれらを、現実のものであった事を確かめるに、同じものを見た者たちと語り合おうと言うのだろう、ハリスたちは。 「噂通り、美しい方でした。外見だけでなく、内からにじみでる光までもが」  半ばひとり事のようにジオールが言った。起きながら夢を見ているような眼差しで。 「噂通りと言うか、噂以上と言うか」 「想像以上だったな。非礼かどうかなどと考えもせず、思わず見惚れてしまった」 「ええ、ええ、そうです!」  興奮しているのか、必要以上の大声で答えながら、ルスターがしきりに肯く。膝の上におかれた拳が、力強く握り締められる。 「まさに女神と言うべき、神々しい雰囲気の方でしたね。さすが天上の神に選ばれる女性です」 「……と言う事は」  何か驚くべき発見をしたのか、ハリスは真顔で虚空を見つめる。ルスターは律儀にハリスの視線を追っているが、当然その先には何もない。 「砂漠の女神様も、同じくらい美しい方なんでしょうか」  ハリスの発言のせいで、部屋の中には沈黙が訪れた。特に森の女神の美しさに一番衝撃を受けたらしいルスターは、目を見開いてハリスを凝視する。ジオールは表情には出さないが、内心うろたえているようだった。  彼らがそう期待するのは当然の事だった。同じように神に選ばれ、同じように厳重に守られた女神ならば、同じように美しいに決まっていると、何も知らなければ思い込んでしまうだろう。エアとて彼らと同じ立場ならばそう考えていたはずだ。  だがエアは、砂漠の女神リリアナがどんな容姿であったかを知っている。けして醜くはなく、むしろ可愛らしいと言える顔立ちをしていたが、あくまで片田舎の村での話だった。森の女神ライラと並んでしまえば、容姿の点では明らかに見劣りする。  それを事実として認識しているからこそ、どう反応して良いか戸惑ったエアは、無表情のまま硬直するしかなかった。 「隊長?」  沈黙の長さを不審に思ったか、ルスターが首を傾げてエアの顔を覗き込む。 「いや。叶うならばいつかお会いしてみたいものだなと、考えていただけだ」 「エア隊長なら、いつか行けるんじゃないですか?」 「しかし現女神リリアナ様の代での補給任務は、来年と、次代の女神様の護衛と兼ねた再来年の二回がしか残されていないからな。難しいだろう」 「そうか。仮に将来派遣される事になっても、リリアナ様の代ではない可能性が高いって事ですね。それは残念」  自分の事でもないと言うのに、心底無念そうにハリスが肩を落とした。  その様子が愉快で、ルスターが小さく笑い声をもらす。エアがつられて笑みを浮かべると、ハリスは不服そうな視線をエアとルスターの間で泳がせた。  笑う事で緊張がほぐれると、緊張で忘れかけていた疲労が押し寄せてきた。体を起こしている事も億劫になり、エアはそのまま寝台に倒れこむ。  上体が羽布団に埋もれた。柔らかな感触とシーツの爽やかな肌触りが心地良く、思わず目を伏せる。 「珍しいですね」  ハリスが短くそう告げる。  はじめ、それはルスターかジオールに対して投げられた言葉だと思っていたエアは、構わずそのまま横になっていた。しかしふたりから返事が行く様子がなく、エアは身を起こした。  三人の視線はエアに集中していた。どうやら、ハリスの言う「珍しい」は、エアの事だったらしい。 「私が、か?」 「はい。大神殿を出てから今日までけっこうな日数一緒に居るのに、隊長が姿勢を崩すところ、見た事ないですから」 「そうだったか?」 「自覚してないんですか。それじゃあ疲れるでしょう」  ハリスは穏やかな笑みを浮かべ、ルスターが小さく繰り返し肯く。  どうやらエアは、自分で思っていた以上に神経を張り詰めさせていたようだった。神に対する裏切り行為を企んでいる事を悟られないために、真面目で立派な聖騎士を装っていた事が原因だろう。 「隊長はこんな事で怒らないと思いますから、正直な気持ちを言わせてもらいますけど、結構不安だったんですよ。入団一年目、まだ二十歳にもならない方の下に就けって辞令をもらった時は。隊長は武術大会に優勝されましたが、それで証明されるのは剣の腕だけですからね。むしろ剣術が優秀だからこそ、それ以外のところで頼りない可能性もある」 「ハリス!」  ジオールが声を荒げて窘めようとするが、ハリスはやめなかった。 「でも隊長はすぐにそんな不安を払い除けてくれました。使命を果たす事に迷いがないですし、俺たちの事を考えてくれてるってのも判るし、頼りがいがあります。ちょっと無愛想な所があるし、凄く優秀な方なのに、人使いが下手だったり親しみやすいところもあって」 「すまないが、ハリス。ひとつ聞く」 「はい」 「もしかして俺は今、褒められているのか?」 「あ、隊長って、本当は自分の事俺って言うんですね」  エアの問いに答える事なく、からかうような口調でハリスがそう言うので、エアは慌てて自分の口を手で抑える。  そんなエアの様子を真っ直ぐに眺め、ハリスは勝ち誇った笑みを口元に浮かべた。 「もしかしても何も、全力で褒めてるじゃないですか。どうして疑問に思うんですかね」 「……ところどころに皮肉がこもっているように思えたからな」 「あれ? そうですか? そんなつもりはなかったんですが」  ハリスは困惑を顔に浮かべる。表情がめまぐるしく変わる男だなと半ば呆れたが、残りの半分は正直で気さくなこの男に好感を抱いていた。 「何が言いたかったんだったかな、そうそう、俺は……俺たちは?」  ルスターとジオールの顔を覗き込み、二人が肯くのを確認してからハリスは続ける。 「隊長の事信頼して着いて行きますから、あんまり無理しないでくださいねって、そう言う事です。命かかっているところならともかく、普段はもう少し油断したっていいと思いますよ」  再びハリスが穏やかな笑みを浮かべた。  エアは一瞬戸惑った後、深い息を吐く。  立派な聖騎士であるためには、聖騎士になると決めてから四年足らずと言う短い時間と、出自が農民である事実は、少なからず不利だった。それを覆すために無理をして、その結果部下に心配されてしまうとは、なんとも情けない。 「そうだな。そうさせてもらおう」 「はい」 「と言う事で、出ていけ」 「……はい?」  エアは再び羽布団に身を沈めた。 「疲れたから、迎えが来るまで少し休む。お前たちが居るとうるさくて眠れないから、出ていけ」 「冷たい命令ですね」 「命令じゃない。願いだ」  エアが寝台の上を転がり、部下たちに背中を向けると、小さく吹き出す笑い声や、気の抜けたため息が耳に届く。 「そう言う事なら、了解です」 「失礼しました!」 「ごゆっくりお休みください」  背中の向こうから、三人が立ち上がり部屋を出て行く音が聞こえた。できる限り音を立てまいとする、静かな足音と扉の開閉の音。  扉の向こうから微かに聞こえていた遠ざかる足音が消えると、エアの胸の内に苦い想いが広がりはじめた。  苦痛に耐えようと、エアはゆっくりと目を伏せた。無意識に眉間には皺が寄っていく様子が、触れずとも、鏡を見なくとも判る。  まったく忌々しく、腹立たしい。部下たちではなく、自分自身が。 「くそっ……」  エアは頭から布団をかぶり、吐き捨てた。  彼らがエアに寄せる信頼に偽りは無さそうだった。同様に、エアも彼らを信頼しはじめている。ジオールは真面目で融通が聞かないがその分頼んだ事は思った通りにやってくれるし、ルスターは少々間の抜けた所もあるがいつも一生懸命で、周りの気分を明るくする。ハリスは誰よりも周りを気遣ってくれていて、空気を損ねる事なくこの長旅を続けられたのは、彼の存在あっての事だろう。徐々に本性を現してきたせいで度々こちらの調子を崩され、扱い辛くなってきているが、本心から不愉快と思った事は無い。  隊長と言う、僅かながらも人の上に立つ者としては、こうして下の者と信頼を築ける事は喜びなのだろう。しかしエアは素直に喜ぶ事などできそうになかった。そう遠くない未来、彼らを裏切ると決めているから――彼らの命を奪うわけでも、その身から流血を誘うわけでもないが、彼らがエアを隊長として信頼する心を傷付ける事になるだろう。  いちいち気に病んでどうする。と、エアは自分に強く言い聞かせた。  部下たちを裏切る。砂漠の神殿に勤める二十一人の女官たちと戦う。そんなものは一角にすぎない。地上に生きる者にとって大切な女神を奪う以上、目に見える形でも、見えない形でも、恨みも憎みもしていない相手を傷付ける事はこの先いくらでもあるはずで、はじめから判っていた事だ。それらをいちいち気にして胸を痛める自分の甘さが、エアは不愉快で仕方がなかった。リリアナを失った日に決めた覚悟は、それほど脆弱なものではないはずだ。 「リリアナ」  忘れられない、忘れるつもりもない少女の姿は、エアの想い出の中で十六より成長する事はない。蘇る彼女の笑顔はいつも明るいと言うのに、徐々に歳が離れていく事が悲しくて、エアの内にある願いをより強く燃え上がらせた。 「リリアナ……」  幾度も幾度も繰り返し、愛しい少女の名を呟く。その名前こそが、苦痛を和らげる優しい呪文。  部下たちを、聖騎士団を、国中を裏切って、それでも望みを果たすために、必要な力だった。 5  少し眠ってしまったようだ。部屋の扉を叩く軽い音で意識を覚醒させたエアは、慌てて飛び起きる。  転がる事で乱れた髪や服を急いで直し、扉を開けると、女官のひとりがそこに立っていた。最初に案内してくれた少女ではなく、エアよりも幾つか年上と思わしき女性だ。 「お待たせいたしました。お食事の準備が整いましたので、ご案内いたします」 「どうもありがとうございます。他の三人は?」 「他の者がすでに呼びに言っておりますのでご安心ください」  こちらへどうぞ、と事務的に言ってから、女性はエアを先導する。やはりエアが話しかけない限りずっと無言で、ぴんと背筋を伸ばしたまま進んで行った。  少し力を抜いた方がいいと部下に言われたばかりのエアだったが、同じ言葉を彼女たちにかけてやりたい気がした。おそらく長い時間礼儀作法の教育を受け、意識的にではなく自然に美しい姿勢を作れている彼女たちは、エアほどの疲労は溜まっていないかもしれないが、ずっとこの調子では息が詰まりそうだ。二十数名が暮らすには充分すぎる広さとは言え、壁の内側と言う閉鎖された場所となればなおさら。  女神を連れ去る事によって、彼女たちには自由と言う解放が与えられるのだろうか。  無意識に思考が導き出した結論に腹を立てたエアは、軽く唇を噛む事で考えを消し去った。  これから行おうとしている世紀の大犯罪を、正当化しようとする自分があまりに情けない。そうでもしなければ実行に移せない程度の覚悟しかないなら、はじめからやらなければいいのだ。 「こちらです」  しばらく通路を進むと、エアたちに与えられた客間にあるものよりも遥かに大きな、両開きの扉が目の前に現れた。  年若い少女がふたり扉の前に立って待っており、エアたちが近付くと当時に扉を開く。感謝の意を込めてエアが会釈をすると、少女たちは深々と頭を下げた。  中には長方形の食卓があった。備え付けられてある椅子の数は五つだが、十人くらいならば余裕を持って座れる大きさがある。すでに温度を気にしない料理がいくつか並べられている卓には、ジオールたち三名が着いており、エアに気付くとそれぞれが小さく会釈した。  エアを案内してくれた女性が、空席ふたつの内、エアの席と思わしき椅子を引いた。エアが椅子に座ると、女性は深く礼をして、部屋を去っていく。広い部屋に見慣れた顔だけが揃い、エアは静かに息を吐く。  至れり尽くせりとはまさにこの事なのだろうと感心しつつも、エアはどうにも居心地が悪かった。食事を取ると言うのは誰にとっても当たり前の行為に、なぜこうして緊張を強いられねばならないのか。 「待たせたか?」  エアが訊ねると、エアの隣に座るハリスが首を振った。 「いえ、そうでもありません。待たされたとしても、隊長のせいではありませんし」 「そうなのか?」  次に答えたのは、エアの斜向かいに座るルスターだった。 「多分、位の順なのだと思います。私が最初で、次がハリスさん、続いてジオールさん、で、隊長が今入られましたから」 「女神をお待たせするわけにはいかないのは判るが……」  隊長のエアを区別するところまでも何とか理解してやったとして、あとの三人にまで格式順位を付ける必要はあったのだろうかと、エアは思わずため息を漏らしていた。 「だいたいお前たち、年齢だの入団して何年だのと聞かれたのか?」 「いえ、聞かれてはおりません」 「隊長が聞かれたんだと思ってましたけど?」 「私は聞かれた覚えなどないぞ。ずっと寝ていたしな」 「はあ。まあ、俺たちなら見た目通りに判断すれば当たりますけどね。見た目通りじゃなかったらどうするつもりなんでしょう。あとでジオールさんはこう見えて十六歳なんですとか、ルスターはこう見えて最年長なんですとか、言ってみましょうか」 「……やめておけ」  ハリスの案に興味は無いと言えば嘘になるが、見るからに生真面目な女官たちをからかってもろくな結果にはなるまいと想像したエアは、ハリスを嗜める言葉を口にした。ハリスも思う事は同じようで、黙って頷いた。  四人はそれきり無言のまま、食卓に着く最後のひとりを待つ。  幸いにも、次に扉が開くまで、それほど間は空かなかった。エアが入って来たものとは卓を挟んで反対側にあった扉が開き、神々しい美貌を持つ女性が姿を現した。  部屋の中を満たしていた静かな空気が、一瞬にして華やいだ空気へと変化する。僅かな髪のなびきが、表情の変化が、男たちを容易に魅了する。  そんな女性とこれから一緒に食事をするのだと、エアには到底信じられなかったが、最後の一席に彼女が腰を下ろしたのだから信じないわけにはいかなかった。  女神が席に着くと、温かな料理がすぐに運ばれてくる。女性ばかりだからか、閉鎖された森の中では食材が限られてしまうのか、野菜や木の実、果物を中心とした質素な料理が多いが、肉や川魚も使われている。豪勢と言えるほどの料理ではないが、充分手が込んでおり、見た目も香りも食欲をそそった。 『天上の神エイドルードの恵みに感謝を』  ライラが神聖語で祈りの言葉を口にする。四人も同じ言葉を復唱してから、ようやく食事がはじまった。  見た目や香りから期待した通り、料理は充分以上に美味しいものだった。あまり舌が肥えていないエアでも、料理人の腕や食材の良さが判る。特に、香辛料を軽く付けて焼いた肉に果物をふんだんに使って作られたソースがかかったものがエアのお気に入りで、味が良いだけでなく空腹もしっかり満たしてくれた。 「皆様、ずいぶんお若いのですね」  四人の顔を順々に見回しながら、ライラは可憐な声を響かせた。 「私を神殿に送ってくださった方々も含めて、補給部隊の方々を拝見するのは今回で四度目になりますが、今年の皆様が一番お若い気がします」 「そうですか?」 「ええ。少なくとも外見は。そちらの方は、まだ十代ではありません?」  ライラは首を傾げ、ルスターを見つめる。すると、ルスターの頬は一瞬にして朱に染まった。 「彼は最年少でまだ十七です。私とこちらのハリスは今度二十になります。ジオールが最年長になりますが、それでもまだ二十一です」 「まあ、では、ジオール殿以外は十代と言う事なのですね。本当にお若い」 「とは言え、私が十代でいられる時間は限られておりますが。セルナーンに戻る頃には二十歳になってしまいます。隊長も、あと数ヶ月足らずですよね?」  ハリスの言葉にエアは肯いた。 「十代で隊長になられるなんて……エア殿はとても優秀な方なのですね」  どう返して良いやら言葉に詰まったエアは、ハリスが勝手に話を続けてくれた事に心の中で感謝した。 「ライラ様はセルナーンご出身とお聞きしてますからご存知かと思います。毎年一回、三十歳未満の聖騎士団員全てが参加して行われる剣術大会の事を」 「ええ、もちろん存じております。決勝は闘技場で行われ、民に開かれるのですよね。王都に居た頃はよく見に行っておりました」 「それで優勝したんです、エア隊長は。入団一年目の団員としては、歴史上二人目の快挙なんですよ」 「こら、ハリス」  そこまで言わなくてもいい、との意味を込めてハリスの名を呼んだが、ハリスは微笑んでごまかすだけだった。 「そう、ですか。それは……たいへん素晴らしいですわね」  ライラは目を細め、少し陰りのある微笑でエアを見つめてきた。  悲しみや切なさと言った類の感情を伝えてくるその微笑みは、郷愁の念が産みだしたものだろうと、エアは漠然と理解していた。だからこそ美しい微笑みに対して覚えるのは思慕の念や美への感動ではなく、同情や同調と言ったものだった。  この美しい女性が、セルナーンでどのような生活を送っていたのか、エアは知らない。街に住む娘だったのかもしれないし、貴族の令嬢だったのかもしれないが、どちらにせよ、天上の神の突然の気まぐれに運命を定められ、狂わせられたのだ。生まれ育った地を捨てる事を強要され、家族や、友人や、居たとすれば恋人と引き裂かれた胸の痛みは、どれほどのものだっただろう。 「それにしても、少々驚きました。セルナーンご出身とは言え、ライラ様のような女性が剣術大会をご見学なされた事があるとは」  ルスターの問いかけに、ライラは笑みから悲哀の感情を消し去ってから答えた。 「セルナーンの民ならば性別など関係なく、一度は見たいと望むものです。単なる殴り合いでしたら恐ろしくて目を背けていたかもしれませんが、聖騎士様たちの剣技は剣舞のようにお美しい。それに……」  ライラは一瞬言葉に詰まってから、意を決し、と言った様子で続けた。 「わたくしが想いを寄せていた方が、試合に出ておられましたから」  視線をライラに向けているために視覚で確認できなかったが、三人が息を飲んだ事が判った。この美しい女性に思いを寄せられた幸せな男は一体どのような男なのだと、思考を巡らせているのだろう。 「ライラ様の想い人が、御前試合に」 「ええ。遠くからでも良いのでひと目見たいと、脚を運びました。それまでは武術など野蛮なものだ、と偏見を持っていたのですが、あまりの美しさにすっかり魅了されてしまって、それ以来毎年足を運ぶようになりました」  ライラははにかんで、いたずらを成功させた子供のように、愛らしい笑い声を上げた。 「ふふ。神殿でこんな事を言ってしまって、エイドルードに怒られてしまうかしら」  さりげなく紡がれた言葉だった。  だが、いや、むしろさりげなかったからこそ、隣に座って食事をしている女性が神の妻なのだと、エアは思い起こす事となった。  自分が今どのような表情を取っているかが判らなくなり、エアは食べ物に向き直る事で顔を隠す。 「お美しいライラ様のお心が他の男にあったと知れば、偉大なる天上の神も嫉妬なさるかもしれませんね」 「まあ、お上手ですこと」  自分を挟んで往来しているはずの会話が、遠くに聞こえた。  いや、ハリスの声は近い。隣から発せられている事が判る。ただライラの声だけが、遠ざかったのだ。まるで人の声ではないように。  森の女神ライラ。エイドルードの妻として、森の神殿での日々を送る女性。元はエアたちと同じ人でありながら、人ではない空気を纏う女性。  では砂漠の女神リリアナは、砂漠の神殿において、どのような心構えで日々を送っているのだろうか。  リリアナが神の妻となってからも、エアはリリアナの事を想っている。失ったあの日から少しも変わらず――いや、神の不条理な行いに対する憎悪の分だけ、より想いは増していると言っていい。  リリアナは?  彼女は今でもエアの事を想ってくれているのだろうか。時々でも思い出し、嘆いてくれているのだろうか。それとも今のライラのように、エアの事を過去の思い出と化し、笑顔で語っているのだろうか。  今までエアは、リリアナの想いを疑った事などなかった。自分と同じように、彼女もエアを想い続けてくれていると、疑いなく信じていたのだ。  急激に、自信が揺らいだ。  なぜこれまで、根拠のない自信を抱き続けていられたのだろう。  エアはリリアナを失う事で全てを失ったが、リリアナは違うのではなかろうか。エアを失い、家族を失ったが、神の深い愛と恵み、誇らしい役職を手に入れた。失った空虚を、新たに手に入れたもので埋める事ができなかったと、なぜ言い切れる? 「エア隊長?」  隣に座るハリスの、不安を色濃く含んだ声が、エアを呼ぶ。 「具合でも悪いんですか?」  エアは小さく首を振った。 「いや、大丈夫だ」  ありきたりの言葉を返し、から笑いを浮かべる事だけが、その時のエアにできた全てだった。  胸が重くなると、体の全てが重い。ほとんど残り少ない食事を口に運ぶ事が、ひどく疲れる。  食事を終え、女神ライラが席を立つまでの時間が、永遠のように長かった。 6 「やっぱりさっきからおかしいですよ、エア隊長」  与えられた部屋までの帰り道、案内役を断ってひとり帰路に着くと、すぐにハリスが追いかけてきた。元々周りへの気遣いができる男であるし、隣に座っていた分、エアの変調を察しやすかったのだろうが、今はその気遣いが鬱陶しい。 「疲れが出て体調を崩したとか、ですか?」 「大丈夫だ。問題ない」  エアが冷たく返すと、ハリスは静かな笑みを浮かべた。 「放っておいてほしそうな顔してますね」  一度はエアの隣に並んだハリスだが、歩む速度を緩める。速度を変えずに歩き続けたエアは、後方にハリスを置き去りにした形になるが、今は彼を気遣う余裕などなかった。放っておいてくれた事への感謝の言葉すら紡げそうにない。 「なぜ、今更」  エアは自身を嘲るように言葉を吐き出した。  そうだ、今更だ。リリアナの気持ちはどうなのかなどと、リリアナを奪い返したいと望んだその時から、考えはじめるべき問題だったのだ。だと言うのにどうして今まで一度たりとも考えなかったのか。  誰に問わずとも答えは判りきっていた。エアは理由が欲しかったのだ。生きるために、立ち上がるための理由。それがエアには、リリアナしか存在しなかった。  だからこそ、リリアナと自分の想いが食い違っているかもしれないなどと言う仮定は、あってはならなかった。彼女が求めてくれなければ、エアは生きる理由を失ってしまう。理由を失えば、内に抱く憎悪さえも意味を無くし、生きる事ができなくなる。アシュレイの剣を奪い、自分の命を絶とうとしたあの時のように。  通路に響き渡る自身の足音が、暗い闇の足音に聞こえた。追いつかれてはならない闇。捕まればエアの内側も全て闇に染め上げらる。あとは終末を迎えるだけだ。自分で、自分の終わりを呼び込むしか――  声にならない悲鳴を上げたエアの視界に、与えられた客間の扉が映る。背後から迫る暗い影から逃れようと部屋の中に逃げ込み、急いで扉を閉めると、そのまま扉に寄りかかった。食堂から歩いてきただけだと言うのに呼吸は激しく乱れ、全身から冷たい汗が吹き出ていた。  体から力が抜けていく。扉に背中を預け、エアは力なく座り込んだ。  食事中は森の女神ライラや部下の手前、無意識に虚勢を張っていたのだろう。だがもう限界だ。存在そのものが否定される可能性は、思考も感情も空虚にし、立ち上がる力すら奪い去っていく。 「リリアナ……」  愛しい少女の名は、今のエアの力にはならなかった。名を紡ぐ事によって脳裏に蘇る少女の姿だけが、かろうじてエアを支えてくれる。  エアは静かに目を伏せた。  窓から差し込んでくる月明かりが、瞼の向こうから届いた。その眩しさが、完全な闇に包まれていない安堵感をエアに与えてくれる。  黒と言うには明るく、灰色と言うには暗い闇の中で、涙するリリアナが蘇り、エアは息が詰まる思いをした。  まだ十六歳だったエアは、アシュレイの手に取り押さえられながら、リリアナ、と叫んだ。  聖騎士団の者に導かれて馬車に乗り込もうとしたリリアナは、錆びついた蝶番のように緩慢な動きで、エアに振り返った。涙に潤んだ瞳が真っ直ぐにエアだけを見つめ、悲しみに震える唇が、音を出さずに「エア」と呼ぶ。そして唇が引き締められると、一筋の涙がリリアナの頬を伝った。  何かに耐えるように顔を反らし、それきりエアが何度名前を呼んでも、リリアナは振り返らなかった。馬車に揺られて徐々に遠ざかり、二度とエアの視界の中には戻ってこなかった。  あの時ならば、けして迷いはしなかったのに。 「なあ、リリアナ」  ここには居るはずのない愛しい少女に、エアは語りかける。 「帰りたいと、言ってくれ」  それが駄目ならば、せめて「死にたくない」と。  エアの中のリリアナは、エアの言葉に答える事をしなかった。否定する事も肯定する事もなく、ただエアを見つめ続けている。  エアが自分の中で答えを出せるようになるまで、いつまで待っても答えは返ってこないのだろう。判っていて、エアは待ち続けた。リリアナが自分を見つめてくるのと同じように見つめ返し、ただ、待った。  どれほどの時間そうしていただろう。気付けば窓の向こうの月の位置が動き、月光が差し込んでくる角度が変わっている。真っ直ぐにエアの顔を貫こうとする光の優しさに涙しそうになり、エアは立ち上がって窓際に寄った。  高価な硝子がはめ込んである窓の向こうに、大きな池が見えた。綺麗に円を描いた月を写した水面が、風に揺られて微かに波立つ。円が乱れるのと同時に、エアの心も乱れる。  目を反らそうとしたエアは、その時視界の隅に映った影を見逃さなかった。  細く小柄なその人物は、月と星の明かりのみの薄暗い世界でも、圧倒的な存在感を持っていた。広がる草原、咲き誇る花、萌える木々、広い池とそよぐ風の中にあっては、明らかに彼女の方が異物であると言うのに、彼女のみが自然で、あとの存在に違和があるかのようだ。  導かれるようにして、エアは部屋を出た。最初に部屋に案内された時の記憶を頼りに神殿を出、さきほど見た光景を探す。  豊かな緑と、月を写す大きな池と、その傍らに立つ寂しげな美女――森の女神、ライラ。  月の輝く方向を頼りにすれば、ライラを探し出す事はそう難しくなかった。しばらくしてエアは、ライラの姿を見つけた。  ときおり長い金糸の髪が風に揺れて、ライラの美しい面を隠そうとする。  エアはしばらく立ち尽くし、幻想的に美しいその光景を眺めていた。美の中心的存在であるライラが、エアの存在に気付き振り返るその時まで。 「エア殿」  ライラは微笑み、エアの名を呼んだ。その笑みは儚く、今にも消えてしまいそうだった。 「どうなされました? こんな夜分に」 「いえ、私の部屋からライラ様のお姿が見えたもので……。ライラ様こそ、いかがなされました?」  ライラは口を開かず、ただ視線だけをエアに向ける。その視線が何かを伝えようとしているように思えたが、エアが意図を理解するよりも早くライラは目を伏せ、エアから顔を反らしてしまった。 「どうしてしまったのでしょう。一年ぶりに王都から来られた方々をお迎えしたから、懐かしい気持ちになったのかもしれません」  誘われるように、エアはライラに歩み寄った。  するとふたりの距離をこじ開けるように、冷たい風が通り抜けていく。エアはライラから二、三歩離れたところで足を止めた。  女神の眼差しに映る郷愁の念。  本当に、それだけだろうか。故郷を懐かしむだけなのだろうか。もっと強い感情が、彼女の中に眠っているのではないのか? 「無礼を承知でお訊きいたします」  いてもたってもいられず、エアは口を開いていた。 「ライラ様は、帰りたいと……この神殿から、森の女神の役目から、逃れたいと望まれる事はございませんか」  ライラはゆっくりとその場に膝を着く。白く細い指を水面に向けて伸ばし、静まりかけていた水面に波紋を広げる。  くっきりと映っていた月が再びその円を揺らがせ、エアの心を急かした。 「貴方はとても残酷な方なのですね」  エアからは背中しか見えないはずのライラの顔が、波紋が治まった水面に映った。  今にも涙しそうでありながら、何の感情も浮かべまいとする、作られた無表情。それは号泣されるよりもよほど胸を打つ泣き顔だった。 「わたくしには、貴方の問いに肯定で答える事など許されておりませんのに」  それは、紛れもない肯定であった。  天上の神エイドルードの妻として、誰よりも相応しい物腰と容姿を持つ女性は、女神として相応しくない答えを口にした――それは、エアが望んでいた答えだったかもしれなかった。 「お食事の時に、わたくしがセルナーンに居た頃の、想い人の話をいたしましたね」 「はい」 「想い人、とわたくしは言いました。誤りはありません。わたくしは心からあの方を想い、あの方を愛しました。けれど本当は、それだけではないのです」  ライラは目を伏せ、その瞳の輝きは、水鏡ごしにも消え失せた。 「あの方もわたくしを愛してくださいました。わたくしがまだ十九の春、今から五年前に、わたくしたちは結ばれたのです」  ライラの告白は、エアに予想以上の驚愕を与えるもので、すぐに受け入れられるものではなかった。  脳にゆっくりと浸透していく事実を、ようやく理解するに至るまで、いくつの呼吸を繰り返しただろうか。風に揺られてざわつく草は、エアの代わりに騒いでくれているかのようだ。  エアは見開いた目でライラを見下ろすが、動揺した思考ではかけるべき言葉を見つけられず、唇を薄く開いたきり硬直してしまった。  神の妻たるライラが、以前は人間の男の妻だった。  エアは神に婚約者を奪われ、人に恵みを与えるはずの神にこれ以上ない裏切りをされたと神を恨んだものだが、エア以上に手酷く裏切られた者た居たと言う事だ。  誰にも逆らえない絶対の権力に、妻を奪われた男。それが、エアのまだ見ぬ協力者。  エアと言う不確定な存在に協力を求めてでも妻を奪い返したいと望む彼の願いが、彼の呪いが、手に取るように伝わってきた。 「もし」  呆然としたまま、エアは言葉を紡いでいた。 「貴女の前の夫が、貴女を迎えに来たとすれば――」 「まだ残酷な問いを重ねるのですね。本当に酷い方」  麗しい響きを持つ声に、暗い感情が混ざり込む。素直に音にされた言葉以上に強く、エアを責め立てようとして。 「あの方はとても真面目で、責任感の強い方です。わたくしの事をとても大切にしてくださいましたが、だからと言って他の方々への優しさを忘れるような方ではなかった。人々が生きるために必要不可欠な存在であるわたくしを迎えに来る事など、あるわけがないのです」 「ライラ様」 「仮に、あの方が全てを投げ打ち、国中の人々を見捨てる事を決意したとしても、わたくしの元に来られないのでしょう。あの方はここまでの道を知らないのですから」 「ライラ様、私は」 「そして万が一にもあの方がこの場所に辿り着き、わたくしを連れ帰ろうとしてくださっても……わたくしがあの方の手を取る事は、けして許されない事です」  悲しみにくれるライラの細い肩が、震える。  ライラは自身の肩を抱きながら、中点に輝く黄金の月を見上げた。昼の太陽に代わって夜空に輝く存在を。 「わたくしはエイドルードの妻となった今でも、あの方を想っております。けれど、この想いを貫くために国中を敵に回す勇気などありません。神に与えられた聖地において、あの方の名を呼ぶ勇気すらないのですから」  全てを犠牲にする勇気があるならば、はじめからこんなところには来なかった、か。  月明かりを照り返す水面の眩しさに、エアは目を細めた。  ライラは怯えている。神の妻となりながらも、未だ人間の男を想い続けている自分が恐ろしいあまりに。それは世界の理に逆らう事と同じであるから。  アシュレイから聞いた話を彼女にしてやれば、彼女の恐怖は消えるのだろうか。いざ迎えが来た時、夫の手を取る勇気が湧いてくるのだろうか。  しばし考えて、エアは彼女に何も伝えない事を決めた。  本当にライラの救いになるのは、彼女の想い人だけだろうと、漠然と感じたのだ。たとえ真実でも、エアの口から語られる言葉は、彼女の救いにはならないだろうと。 「私はときどき考えます。貴女のような女性たちを犠牲にして成り立つこの国こそが、誤りなのではないかと」  今のエアが彼女に告げられるのは、エアの中から生まれる言葉のみだった。 「それは地上の守人たるエイドルードに対する侮辱です。神にお仕えする聖騎士様が口になさるお言葉ではありません」 「そうかもしれません、ですが」 「何もおっしゃらないで。何も……聞きたくありません」  エアは口を噤んだ。ライラの心は硬く閉ざされ、エアの言葉は何ひとつ届かないだろう事を悟ると、何も言えなくなった。 「数々のご無礼、申し訳ありませんでした」  深く頭を下げて謝罪の言葉を述べるが、ライラから返事はなかった。 「壁の内側がいかに楽園と言えども、やはり夜はいささか冷えます。すぐに神殿内に戻り、ご自愛ください」  やはりライラは応えず、その場から動く様子はない。ならば自分が去るしかなかろうと、エアは踵を返してその場を立ち去った。  強い風が吹き、長く伸びた草をなぶる。ざわついた音が響き渡り、女神の気配は音の向こうに遠ざかった。  乱れた心は落ち着きそうにない。今宵は眠れそうにないとの予感を胸に、エアは部屋に戻った。 四章 取引 1  王都セルナーンを発ってからはやふた月、エアたちの旅の終わりが近付いていた。  最後に宿を取ったのは王都セルナーンから一番近い小さな宿場町で、朝一番に宿を出れば、昼には大神殿へ帰還できるだろうと言う距離だ。無理をすれば宿泊せずにセルナーンに帰る事もできたが、宿場町に着いた時点で空が茜色に染まりはじめており、セルナーンに到着するのは日付が変わってからだろうと予想された。そんな時間に戻っても迎える方に迷惑がかかるだけであるし、旅立つ前にアシュレイから預った路銀に余裕がある事も手伝って、エアたちは宿を手配する事にした。  セルナーンを発った頃は秋だったが、もうすっかり冬になっている。さほど時を待たずして、本格的な積雪が訪れる事だろう。その準備のためか、王都には行商人が数多く出入りしているらしく、王都にほど近い宿場町の宿はどこも埋まっていた。ようやく取れた宿は古びた安宿で、「旅の終わりを飾るには寂しいですね」とこぼしたハリスに、エアは素直に同意してしまった。  空いていたのは三人部屋とひとり部屋で、当然隊長であるエアがひとり部屋となったのだが、それでも贅沢とは程遠い。体重をかけるたびに音がする寝台と、備え付けの小さな机があるだけだと言うのに、部屋はいっぱいになっている。狭苦しい部屋は息が詰まりそうで、あまりくつろげる様子ではなかった。  だが、この方が都合がいいかもしれない。エアは机の上に置いてあったランプに火を点けると、荷物から二枚の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。一枚は真新しく何も書きこまれていないもので、もうひとつはひどく古びて変色しているものだ。  続いてエアはインクとペンを取り出し、古びた羊皮紙を見ながら、新しい羊皮紙に書き写していった。森の神殿へと至る、迷宮の地図を。  その作業は、苦い思い出を蘇らせるものだった。馬を引いて歩ける程度に広い道だったと言うのに、抑圧されて息苦しかった事を思い出さずにはいられない。  リリアナの元へ行くにはおそらく、同じような道をひとりで辿る事になるのだろう。考えるだけで喉と胸につかえるものがあったが、道の先でリリアナに会えるのならば、それは苦痛ではないと思えた。  道の先で、彼女が笑ってくれるならば。  自身を追い詰めるものから逃げるため、考えないようにしようとしていた事を思い出してしまい、エアは地図を書き写す手を止めた。  彼女がエアを拒絶するならば、この作業自体意味がないものとなる。なぜ来たのだと、罵られるような事になれば――自分はどうするのだろう。  エアは強く首を振った。そうする事で考えを脳から消し去り、作業を再開した。  たとえ、彼女がエアを恨んでも、呪っても。それでも、リリアナの元に辿り着く事に価値はある。そう信じたい。  その先は無心だった。黙々と作業を続け、写し終えると、エアはペンを傍らに置いた。羊皮紙を交互に見比べ、誤ったところがないかを確認する。  ルスターが引っかかりかけた罠の事を思い出し、忠告してやろうかとも考えたが、細かい地図にこれ以上書き込みを入れると見辛くなるだろうと判断しやめておく。だいたい、あの程度の罠にひっかかるような人物ならば、忠告があろうとなかろうと結果は同じだろう。  三度見直し、間違いがない事を確かめたエアは、司教から預かった羊皮紙をしまった。そして揺らめく炎の明かりに照らされる羊皮紙を眺めながら、インクが完全に乾くのを待った。  行きと、帰り。たった二度だけ通った道を、地図上で何度も辿る。はじめは視線だけで、インクが乾くと、指でなぞりながら。  エアは何十回とそれを繰り返した。自身が納得できるだけやると、羊皮紙を折りたたみ、荷物の中にしまおうとした。  無造作に突っ込みかけて、手を止める。一度荷物を全部取り出して、底を露にした。  エアの荷物袋は底に仕掛けがしてある。底の上に同じ布を縫い付けてあり、二重底になっている。だがそれはすでに部下たちの知るところであるし、気付く人間は気付くであろうから、隠し場所としては適さない――が、本当は更にもう一重底がある。つまり、三重底なのだ。  しばらく考えた後、エアは一番底に地図を隠してから、再び荷物を詰め込んだ。荷物を探される可能性は低かったが、念には念を入れなければならない。 「隊長、いらっしゃいます?」  計ったように、エアが全ての作業を終わらせた直後、扉が叩かれた。 「どうした」  逸る鼓動を沈めようと胸元を押さえ、平然を装った声で扉越しに応える。 「夕食に行きました? なんか、俺が転寝している間にジオールさんとルスターは食堂に行ってしまったみたいで。良ければ一緒にどうです?」 「今行く」  エアは部屋の中を見回し、不審な点を残していないかどうかを確認してから扉を開け、ハリスと合流した。  ハリスはどことなく元気のなさそうな表情でエアを見上げたが、それは一瞬の事った。すぐに明るい――けれどどこか人を食ったような――笑顔を見せる。もしかすると、元気がなさそうに見えたのは、ちらちら揺れる炎が作りだした影のせいだったのかもしれない。 「隊長、その……」  並んで歩きはじめると同時に、ハリスは呟いた。 「どうした」 「いや、とうとう最後ですね。顔つき合わせて食事を取るの。この先、ジオールさんやルスターはともかく、隊長と肩を並べて食事を取る事なんてなかなかないんでしょうね」 「そうかもしれないな。お前たちが同じところまで出世してくれない限り」 「まあ頑張りますけど、何年後かに自分が隊長になれたとしても、その頃にはエア隊長はもっと上に行ってて、結局追い着けないんじゃないでしょうかね」 「そうか?」 「そうですよ、絶対」  ハリスは肩を竦めて笑った。エアを持ち上げる言葉の中には憧れや嫉妬などの感情が入っている様子はなく、ただの予想を淡々と語っているだけに見えた。  もちろん、ハリスの予想ははずれている。もしエアにハリスが思う通りの力があったとしても、エアは聖騎士団に長居するつもりはない。リリアナの女神としての任期はあと二年もなく、それまでに今の地位を捨てて砂漠の神殿に旅立つつもりだからだ。 「別に二度と会えなくなるわけじゃないんですけどね。大神殿に戻ったって自分たちは第十八小隊の一員で、エア隊長の部下です。ほとんど毎日顔を合わせるでしょう。でも、二ヶ月も顔を付き合わせ続けた後だと、妙に遠い人に感じてしまいそうです」 「お前がそんな殊勝な男か?」 「失礼な。これでも隊長相手ですから遠慮してるんですよ」 「やはりそうか。そうだとは思っていたんだが」  エアは小さく声を漏らして笑った。  まったくもう、と不満げな言葉を漏らしながら、ハリスもまた笑みを浮かべている。そのハリスの笑みの中には、先ほどエアが感じた寂しげな空気が蘇っていた。  意識的に隠そうとして、けれど時折無意識にこぼれ出る表情は、ハリスの本音を浮き彫りにする。どうやらこの男は、旅の終わりが寂しくてしょうがないらしい。 「隊長。自分は上官がエア隊長で本当に良かったと思っているのですが、同時に、エア隊長が上官でなければ良かったなあ、とも思ってしまってるんですよ」 「……お前、私に何を言っても良いと思っているのか?」  問い詰めるためでなく確認のためにエアが訊ねると、「とんでもない!」と叫びながら、ハリスは左右に首を振った。 「思ってませんよ。思ってないから言っているんです。遠慮なしに何を言っても許される間柄だったらおもしろかっただろうなあと思ってるからこそ、こんな事言ってるんです」  反応に困ったエアは、救いを求めるようにあたりを見回したが、当然、エアを救ってくれる存在など近くにはなかった。 「つまり、なんだ。お前は私の友達になりたいのか」  ハリスは頬を僅かに赤らめつつ、深いため息を吐き出した。 「隊長、あまり恥ずかしい事言わないでください」 「……違ったか」 「いや、おそらくその通りなんですが、率直に言われると照れ臭いです」 「言い出したのはお前の方だろう。私が恥ずかしい事を言ったみたいな言い方をするな」  今度はエアが深いため息を吐き出す番だった。  ハリスはそのため息を眺めながら、言葉を模索している。相手を気遣っての事ではなく彼が言葉に詰まる様子は珍しく、エアの方が戸惑ってしまった。  迷った挙句、エアはハリスの背中を軽く叩く。 「仕方ないな。対等な役職まで出世しろ」  ハリスはもの言いたげな視線をエアに向けた。 「そこで『役職なんて関係ないぞ』と隊長が言ってくだされば、かなりの美談になるんですがね」  エアは肩を竦めて鼻で笑った。 「遠回しに断られているとは考えないのか?」 「え、そうなんですか!?」  ハリスはエアよりも一歩前に飛び出してから振り返り、エアの顔を凝視したが、エアはそ知らぬ顔でハリスの横を通り過ぎた。 「お前は要注意人物だからな」 「どう言う意味です」 「言葉通りの意味だ」  下へと続く階段が伸びる。それを降りた先が食堂であるからか、何かを煮込んだり焼いたりと言ったかぐわしい香りや酒の香りが漂ってきて、エアのすきっ腹を刺激した。音が鳴らないように、無意識に腹のあたりを抑える。 「ちょっと、隊長!」  エアの後を追ってハリスが階段を駆け下りてくる。  響く足音を聞きながらエアはひとりで微笑んだが、ハリスが再びエアの隣に並ぶ頃には、その笑みを消し去っていた。 ・  やはり、杞憂だったのだろうか。  男は直属の上司が泊まる部屋の前に立ち尽くしながら考えていた。  自分に輸送任務とは違ったもうひとつの任務を与えた人物の言葉を思い出す。彼は疑っていた。アシュレイ・セルダも、エア・リーンも。  家族を次々と奪われたアシュレイ・セルダが国家的大犯罪に手を染める可能性を、男は否定できなかった。自分がアシュレイと同じように家族を奪われれば、同じ事を考えるかもしれない。考えるだけ考えて、実行するだけの力が無く、結果的に諦める事になったとしても。  アシュレイが本気で女神の奪還を考えているのだとすれば、協力者が必要不可欠なのもまた事実だった。アシュレイは武術大会で優勝し、若干十六歳にして小隊長に任命されながらも、家族が森の女神であると言う理由から、森の神殿への輸送任務に就けなかった。何とかして、誰かの手から、森の神殿への地図を手に入れなければならないのだ。  過去に森の神殿へ派遣された者たちはすでに調べがついている。協力者が居るとすれば、これから派遣される者の中におり、その中でエア・リーン怪しいと睨んだのは必然だった。  だが、エア・リーンはこの任務中、決定的な行動を起こしていない。いくつか怪しい言動はあったが、疑う理由にはなっても証拠にはならない程度のものだ。  エア・リーンは本当に、記録通りの人物なのだろうか。アシュレイ・セルダは聖騎士団の長としての立場を弁えているのだろうか。弁えていなかったとしても、事を起こすは今年ではないのだろうか。  最後の確認をしよう。  男は扉に手をかけた。あたりを見回し、誰も居ない事を確かめて、すばやく部屋の中に身を滑らせる。今ならばエアは部屋に帰って来られないはず。時間は僅かしかないが、いい機会だ。  狭い部屋は整然としていた。寝台は全く乱れておらず、ならば使われていただろう椅子は、きちんとしまわれている。小さな机の横に置いてある荷物が無ければ、人が入っているとは誰も思わないだろう。  男は荷物に近付いた。開けると、以前覗いて見た時と変わらぬ、最低限の荷物しかなかった。  やはり、杞憂だったのだ。  男は安堵した。上司が糾弾すべき相手ではない事に、心から喜んだ。  袋を元通り閉じ、何事も無かったように部屋を出、明日を迎えよう。セルナーンの大神殿に戻り、何事も無く隊長と部下として日々をすごせばいい。そう心に決めかけた男は、違和感を覚えて手を止めた。  変わっている。僅かな違いだが、確実に。 「よりによって……」男は心の中で呟いた。  消し去ろうとしていた疑惑の炎を、再び燃え上がらせる。男は意を決し、決定的な物証を探ろうと再び荷物に手をかけた。  残された時間はさほど多くない。荷物をひっくり返しては、元に戻すまでに部屋の主が戻ってきてしまうだろう。  男は思考を僅かに逡巡させた後、腰に穿いた短剣を引き抜いた。 この二ヶ月間で、エア・リーンの人となりを多少は理解しているつもりだ。彼が重要なものを普通に隠している訳がない――ルスターの失態で財布を失いかけた日の事を思い出した男は、自信を持って荷物の底に短剣の刃先をあてた。  一見判り辛いよう、ほつれが出ないよう切れ込みを入れる。失敗は許されず、時間の余裕も無い事から、緊張で手が震えそうになったが、意志の力で押さえ込んだ。  指が入る程度に刃を入れると、男は短剣を鞘に戻し、祈りながら切れ込みに指を入れた。  そこから手を入れても、やはり先程目視した荷物には触れられなかった。底に細工をし、隠さなければならないものを入れているのは明らかで、男は目を硬く閉じ、指先に何かが触れるのを待った。  扉の向こうから小さく足音が聞こえたのは、指先が慣れ親しんだ紙の感触を得た時だった。  男は身を強張らせ、荷物から手を離す。深く息を吐き、早まる鼓動を押さえつけ、自身が落ち着くように促す。  足音は徐々に近付いてきた。うるさいと言うほどではないが静かでもない足音の主は、エアではない。他者への礼儀の一環なのか理由は判らないが、エアは普段、足音を静かに押さえているのだから。他の客か、仲間の誰かだとすれば間違いなくルスターだろう。  思っていたより時間を浪費したかもしれない。男は急に不安になり、足音が扉の前を通り過ぎてから、荷物を元通りにして立ち上がった。部屋の様子が入ってきた時と変わりない事を確認し、扉に耳を当てて通路に誰も居ない事を確かめてから、静かに部屋を出た。  再び人が存在しなくなった部屋の扉を眺める。直属の上司が宿泊する部屋を――いや、全てが明るみに出れば、彼は上司ではなくなるのだろう。それは寂しい事のように思えた。  視線を自らの手に落とす。指先を眺め、先程得た感触の記憶を忘れないように握り込む。  彼が厳重に隠したものの正体は、他に考えられなかった。違うと言うならば何だと言うのか、教えて欲しいくらいだ。  なぜ。  なぜ、貴方は―― 「どうしたんです? 隊長に用でも?」  後輩の声が突然かかり、一瞬身を強張らせてから、男は振り返った。無邪気な緑の瞳が、疑う事もなく男を真っ直ぐに見上げてくる。  この少年はどうするのだろう。長い旅を共にしてきた先輩が、敬愛する隊長の罪を暴くその時に。輝きを失わない大きな瞳は、悲しみに陰るのだろうか。  せめて、今日だけは。  男は微笑んだ。  緑の瞳は、男の笑みに応えるように優しく細まった。 2 「帰ってきましたねー」  二ヶ月前まで毎日見ていた街並みを眺めながら、ルスターが言った。いつもと同様に振舞っているつもりのようだが、誰の目から見ても明らかに表情は生き生きとしており、声が明るい。故郷に戻ってこられた事は素直に嬉しいのだろう。  エアはルスターと違って王都近辺の出身ではないし、聖騎士団に入団してからまだ一年強しか過ぎていないため、セルナーンで暮らした時間は長いとは言えず、街自体に強い思い入れがあるわけではない。だが不思議と、二ヶ月ぶりに大神殿を目にした時、嬉しい気持ちになった。中天に上る陽の光を浴びた真白き神殿は、眩しくも美しい。  田舎育ちであるエアがはじめてセルナーンに来た時は、不自然なほど平らに整備された道や、延々と続く商店、そこに賑わう人々に圧倒されたものだが、すでに馴れてしまったようだ。懐かしさが胸に溢れ、全身を支配していた疲労はどこかへと吹き飛び、穏やかな気持ちが胸中に満ちていった。 「ジオール、ご苦労だったな」  エアは御者台に座るジオールに近付き、労いの言葉をかける。 「いいえ。普段ハリスにかけている負担に比べれば、この程度」 「……そうだな」  エアは振り返り、行きに比べてほとんど荷物のない荷台の中から、ハリスの姿を探した。  少ない荷物に背中を預け、ほとんど動く様子は無い。寝ているのだろうとエアは考えた。よく考えてみれば、もし起きていたならば、彼が最初に故郷に辿り着いた喜びを述べるはずだ。 「ハリス。そろそろ着くぞ」 「あ、っは、はい!」  声をかけると、ハリスは慌てて背筋を伸ばし、振り返る。いつの間にか目前に迫った大神殿を眺め、目を細めた。 「第十八小隊長エア・リーン以下三名、森の神殿への物資補給の任よりただいま帰還した」  大通りを抜け、大神殿へと至る門の前に到達すると、エアは馬車を降りて門番に伝えた。門の左右に構えていた彼らはエアたちを優しく迎え入れ、門を開けてくれる。 「隊長、俺たちは馬車を置いてから行きますので、先にアシュレイ団長へのご報告に、どうぞ」 「頼んだ。団長への報告の後は司教様への報告があるはずだから、お前たちは大聖堂の前で待っ――」 「エア・リーン殿」  言葉を途中で遮られ、内心不愉快に思いながらも、エアは感情を表に出さずに振り返った。  振り返ったエアの視線の先に立っていたのは、顔に見覚えはないが聖騎士団員の制服と鎧を纏った青年だ。  エアよりいくつか年上だろう彼の眼差しは、何かを待っていた。返事を待っているのだろうか? と自分の中で結論付けたエアは、応えようと唇を開きかけたが、青年の声に再度遮られてしまう。 「ご案内いたします」 「いや、案内などされずとも、ひとりで行ける。二ヶ月離れていたとは言え、大神殿内の主だった構造を忘れるわけがないだろう」 「いえ、ご案内するよう言われておりますので。お三方も後ほどいらしてください」  エアが部下たちに振り返って目配せすると、ルスターは戸惑い気味に、ハリスは神妙な顔つきで、ジオールはいつもと変わらない無表情を見せながら、小さく頷いた。 「すまないが、私の荷物を」 「隊長、早く行った方がいいですよ。彼、睨んでます」  こっそり耳打ちするハリスの口ぶりから、エアの背中の向こうに立つ青年がただならぬ雰囲気を発している事を悟ったエアは、黙ってハリスに従った。  青年は素早く歩き出す。長旅から帰ってきた者の体を労わるつもりはないらしい。時折周りに視線を投げる様子と合わせると、まるで人目に付きたくない様子だ。  後ろめたいのだろうか。一瞬そう考えたエアだったが、彼がこの状況を見られる事に対して後ろめたく思う意味が判らなかった。実は彼は案内役などではなくライラの元夫で、できるだけ素早く、周囲に悟られないよう取引を成立させたいと望んでいる可能性も考えたが、これまで全てアシュレイを挟んできたと言うのに突然顔を見せるのは疑問だ。  青年は終始無言、早歩きのまま、アシュレイの部屋の前に到達した。しかし彼は、アシュレイの扉ではなく、その手前にある別の扉を開き、半ば押し込むようにエアを部屋の中に入れた。青年自身は入り口を潜らず、すぐに扉を閉める。  突然の事にエアは動揺した。なぜ、自分はアシュレイのではない部屋に通されなければならないのか。この部屋は確か―― 「エア・リーンだな」  エアは自身の名を呼ぶ声に向き直ると、五十近い痩身の男が座っていた。  部屋の主、ロメール・イルタス副団長だった。鍛えられた体躯と意志の強い眼差しが、実年齢よりいくぶん若く見せるこの男は、いかにも聖騎士団と言った真面目さと敬虔さを併せ持っており、他者への厳しさを持ちつつも悪い噂はほとんど聞かない人物だ。 「どう言う事でしょうか。帰還後はまずアシュレイ・セルダ団長に報告をするよう、出立前に言われております」 「団長への報告前に、聞いておきたい事があったのだ」 「……何でしょう」  エアは直立したままロメールに問うた。  ロメールは座ったまま、値踏みするような視線でエアを睨み上げる。  値踏みする、との言い方は、少し違うかもしれなかった。彼はエアの中に何かを探しているようだった。 「単刀直入に聞こう。君は二ヶ月前、森の神殿へ向けて発つ前に、アシュレイ・セルダ団長から何かを頼まれなかったかね?」  突然の問いの意図をすぐに理解できず、エアは瞬きするだけの時間、答えに詰まった。 「おっしゃる意味が判りません」 「本当かね。君は小隊長に任命される前日、アシュレイ団長の部屋を訪れたそうではないか」 「それは事実です。武術大会に優勝した件についてお褒めのお言葉をいただきました。それに何か問題でも?」 「褒め言葉をもらうだけにしては、滞在時間が長かったそうだが」 「……これは尋問でしょうか」  突然の切り返しに、ロメールは戸惑う様子もなく、鋭い眼光でエアを射抜いた。 「質問だ。今のところは、な」  低い声がエアの問いに答える事で、広い部屋の中に重い沈黙が垂れ込める。 「今のところは質問だ」と言われても、すぐにでも尋問に移る意向があるとの意味にしかとれない。どうやら彼は、何かしらの疑いを抱き、その疑いに対して確信に近いものを掴んでいるようだ。そしてエアから何かを引きだす事で、確信を得ようとしている。  彼が何を知ろうとしているのか、エアには判らなかった。エアには知られてはならない秘め事があるにはあるが、彼が求めているのはそれではない、と直感的に思ったのだ。  語り口から予想するにアシュレイの事だと思われるが――そう思わせる絡め手を使い、やはりエアを狙っている可能性は無ではない。 「優れた剣士であられるアシュレイ団長に、私の方から幾つか質問をさせていただきました。団長の剣技は剣を使う全ての者の見本となるべきものだと思いましたので。団長は向上心を持つ団員を無下に扱う事はなされません。快く私の話を聞いてくださいました。故に話が長引いてしまった事は認めます」  淀みなく、堂々と、エアは言い切った。ロメールの視線に負けじと、強い視線を返す。 「虚偽は罪となるぞ、エア・リーン」 「承知しております。故に、私は真実のみを答えております」  真実を隠す事は多々あれど、これほどまでに胸を張って嘘を言い切ったのは初めての経験で、エアは笑いたい気分になってきた。  しばらく状況が膠着し、無言のまま睨みあう状態が続く。だが、ロメールは引いたわけではなかった。後ろめたいものを持つ人間にとって、沈黙の重さがどれほど苦痛であるかを知った上で、エアを追い詰めようとしているのだ。  彼の望みは何か。視線を交錯させるだけでは、それは掴めない。しかし言葉を交わすだけの余裕が、今のエアにはない。ロメールから何かを探ろうとして、逆に探られてしまいそうだ。 「地図を、どうした」  心臓が跳ねる。それを伝えないように、静かな声で返す。 「森の神殿へ至る地図の事でしょうか」 「他にあるまい」 「司教様からお預かりし、私が常に携帯しております」 「それだけか?」 「不埒なものに奪われるような失態は犯しませんでした。部下たちにすら、見せておりません」 「写しは、どこにある」 「写し?」  思わず、鸚鵡返しをする――ふりをする。本当にはじめて聞く事のように、理解できていないつもりになって。  内心はこれ以上ないほど動揺していた。この男は、どこまで知っているのか。 「神殿へ至る地図は、司教様からお預かりした一枚きりと伺っておりますが」 「誰も作ろうとしなければ、そうなる」  ロメールは立ち上がり、ゆっくりとエアに近付いて来たが、エアの前で立ち止まる事なく、横を通りすぎた。  背中の向こうに立つロメールの奇妙な存在感に威圧され、エアは硬直した。振り返る事ができず、今では誰も座っていない椅子をぼんやりと見下ろす。 「家族を失った事に同情はしている。悲しく寂しく、辛い事だろう」  エアは全身から血の気が引いていく感覚を知った。  どこまで知っている、などと、愚問だった。この男は、全てを知っている――? 「だが、聖騎士団の者ならば、エイドルードに仕えるものならば、誤った願いを抱かず、誇らなければならない事だ」  何が、判る。  そう怒鳴りつけてやろうとしたが、俯いたままでは喉に詰まって声が出てこなかった。  顔を上げ、踵を返す。そうしてロメールを視界に捕らえ、エアは口を開く。  同時に、扉を叩く音がした。  乾いた音はエアが失いかけてきた理性を連れ戻してくれた。怒りと驚愕に冷えた体と熱くなった思考が、徐々に正しい熱を取り戻していく。  エアはロメールに気付かれないよう静かに息を吐いた。 「第十八小隊の者なら入りたまえ」  ロメールは扉に向けて冷たく投げかけた。  彼とふたりきりでなくなる事は、エアにとって安堵すべき事だ。しかし部下たちが入ってくると言う事は、地図の写しを隠した荷物もこの部屋の中に入ってくる事となる。  今のロメールの勢いならば荷物を探りかねない。一応隠してはあるが、徹底的に探られても絶対に見つからないと言う保障はない。  この場をどう切り抜けるか、僅かに与えられた時間の中で、エアは考えなければならなかった。 「第十八小隊の者ではないが、入れていただこう」  扉の向こうから聞こえてきた声は、エアが予想していた者たちの声ではなかった。  驚いたのはロメールも同様のようで、彼はエアの前ではじめて落ち着きのない様子を見せる。扉が開くと、エアがこの部屋に居る事をすっかり忘れ去ったかのように、入ってきた人物――アシュレイ・セルダだけを見ていた。  アシュレイもエアの事など眼中にないのか、ロメールを真っ直ぐに見据えていた。その表情に怒りは存在して居ないはずなのだが、なぜか冷たいものとして見る者の目に映る。 「エア・リーン」 「はい!」  しばし睨みあった――ふたりの目つきは穏やかだったが、エアには睨みあっているようにしか見えなかった――後、アシュレイはエアの名を呼んだ。 「帰還したならば私にその旨を報告すべきではないか? 司教様もお待ちしているだろう」 「はい。申し訳ありません」  言い訳はしなかった。潔い態度を美徳とする聖騎士団において言い訳は逆効果でしかないし、言い訳などしなくても、状況を見ればアシュレイには判るはずだ。 「ロメール・イルタス」 「はっ」 「報告も済んでいない、帰還したばかりの団員を、なぜ部屋に連れ込んだか聞かせてもらおうか?」 「……報告後では遅いであろうと判断したからです」  ロメールはアシュレイの静かなる迫力に臆する事なく、そう返した。 「それは近頃貴方が私の周囲を探っている事と関係しているのだろうか」 「やはり、お気付きでしたか」  アシュレイが静かに責めても、ロメールはうろたえなかった。その表情はどこか満足げで、気付かれていた事を喜んでいるかのようだ。  息を吐く音が、窓を叩く風の音によってかき消える。  ロメールはアシュレイに座るように促してから、自身もその向かいの席に腰を下ろした。 「古い話をさせていただきましょう。アシュレイ団長、十三年前、入団したばかりの貴方は私の部下でありました。私はその頃より、貴方の事を存じております」 「知っている。私も、貴方には世話になったと思っている。いや、過去だけではない。今も補佐役として、貴方の世話になっている」 「だからこそ気付きました。十三年前の貴方の中には、エイドルードへの真摯なる祈りが存在した。けれど今の貴方にはそれはなく、ただ形だけの祈りを捧げるのみだと。貴方は信仰を失われている」  聖騎士団に名を連ねるものとして、もっとも大事なものを否定され、しかしアシュレイは反論しなかった。否定できない真実であるからではなく、ロメールの話を遮らないために。 「十四年前、姉君が森の女神に選ばれた頃の貴方は、誇りに満ち溢れていたのでしょう。九年前、妹君が森の女神に選ばれた時のように。ですが貴方は変わられた。姉君の、エフィール様の遺骨が戻られた頃から。貴方の祈りは、徐々に枯れはじめた」 「私とて人の心を持っている。家族を失う事で私の心に悲しみが生まれた事を否定する気はない。だがそれと信仰を直接的に結びつける必要はあるまい」 「いいえ。貴方がいくら偽ろうとしても、祈りから光が失われている事を偽る事はできません。貴方は姉君の時にエイドルードへ不審を抱き、妹君の時にエイドルードを疑い、そして四年前――貴方の奥方が森の女神に選定されたその時、エイドルードを憎んだ」  世界が沈黙に支配されたかのようだった。  それはエアの錯覚でしかない。窓の向こうで風は流れ、草木は揺れ、誰かの呼吸や、身じろぎする時の衣擦れの音など、僅かな音は耐えず鳴っている。だがそれらの音は、エアの耳に届かなかった。ただロメールの声だけが、永遠に繰り返される。  アナタノオクガタガモリノメガミニセンテイサレタ――  それだけが、今のエアの世界に鳴り響く音だった。 「森の女神、ライラ様の、夫が……」  白く染め上げられた思考は、エアに無意識に言葉を紡がせた。  何も映そうとしなかった空ろな瞳がアシュレイを捕らえ、意思を取り戻しはじめる。  この男が、協力者。エアに取引を持ちかけた張本人。  それだけを考えるならば、驚くほどの事ではないのかもしれない。この男ならば、あの美しい森の女神ライラと並んでも見劣りはしないだろう。武術大会を勝ち上がり、御前試合に出る事も簡単だろう。聖騎士団長の座につくほどの人物ならば、もっと若い頃に砂漠の神殿への任務を任されていても不思議ではないだろう。それでいて森の神殿へ一度も訪れた事がない理由もつく。彼が聖騎士団員になってからずっと、森の女神が彼の関係者だったのだとすれば、万が一――今のエアたちのような企みを抱かれ実行される事――を考えて彼を森の神殿から引き離すは当然だ。  だが、ならば。  ならばなぜ、あんなにも平然と、エアからリリアナを奪えたのだ。  同じ痛み、いや、姉妹も同様に奪われたのだとすればエア以上の痛みを、彼は知っている。だからこそ、彼がエアにあのような痛みを強いた事が、エアには信じられなかった。  深い同調と同情を覆い隠すほどの闇が、エアの心を支配していく。 「貴方は四年近く平静を装い、企みなど何も抱いていない、立派な聖騎士団長であり続けた。私も危うく騙されるところでした。もしもあの御前試合で、貴方が手加減して戦っている姿を見なければ、気の迷いだったと片付けていたかもしれません」 「手加減などしたつもりはないが」 「いいえ。貴方が本気を出せば、エア・リーンなどすぐに倒せたはずです。貴方はわざと試合を長引かせているようでした。はじめは、あの試合が王や民への見世物としての意味がある事を意識した上での事かと思いましたが、貴方は彼に何かを語っていた。武術大会に優勝し、小隊長となり森の神殿へ向かう事がほぼ確定した者に、貴方が人に聞かれないよう試合中に語らなければならなかった事は何なのか」  そこまで言い切ってからロメールは、アシュレイに向け続けていた視線を、突如エアに向けた。 「思えば、エア・リーン。君の存在は異質すぎる。なぜ君は故郷での生活を捨て、聖騎士団を目指そうとした。幼い頃からの教育を受けていないはずの君が、なぜそこまでの剣術や礼儀作法、神聖語を身に付けられた。君ははじめから、アシュレイ様の手引きを受けて入団したのではないかね。アシュレイ様の望むように動けるよう、アシュレイ様とは無関係な者として――」 「失礼します!」  ロメールの言を遮るように、乱暴に扉が開かれ、部屋の中に居た三人は同時に振り返った。 3  見るとそこには眉間に深く皺を刻んだハリスが立っており、その後ろに青褪めた顔をしたルスターと、ハリスを止めようとしたのか彼の肩に手をかけたジオールが立っている。  ハリスはジオールの手を振り払い、沸き目もふらずにロメールの元に歩み寄った。普段よりも足音がうるさいのは、エアの気のせいではなさそうだ。  ロメールとアシュレイの間に、長旅で薄汚れた袋が置かれる。  どすり、と重い音がした。 「申し訳ありません、扉の向こうから、少々お話を聞かせていただきました」 「ハリス……」 「語り合うよりも確かめた方が早いでしょう。こちらが、エア隊長が旅から持ち帰った荷物の全てです。ご確認ください」  ハリスはロメールに対して静かに怒っているようだった。平静を勤めようとしてそれができず、表情や仕草に苛立ちが現れている。それはロメールがエアを証拠も無しに疑っているからだろうと考えてしまうのは、自惚れではない自信がエアにはあった。  彼がエアのために腹を立ててくれる事は、信頼ゆえ、なのだろう。  言葉にならない感情が湧き上がり、エアは目を細めた。歪んだ視界でもハリスを見るのは辛く、僅かに目を反らす。  エアはハリスの信頼に応えられる人間ではない。ロメールの言っている事は概ね事実で、神に仕える者たちやこの大地に生きる者たちを裏切るために、聖騎士団に入ったのだから。  これは、罰なのだろうか。  部屋の中心に置かれた自身の荷物を見つめながら、エアは思う。  エアを信じる者の行動によって、エアの罪が暴かれようとしている――彼を密かに裏切りながら、彼の隊長であり続けた自分への罰としては、何より効果的なものに思えた。 「ジオール」  ロメールは、エアの部下のひとりである青年の名を呼んだ。 「はい」  名を呼ばれた青年は、真っ直ぐな返事を返すと、ロメールのそばに寄る。荷物の前に立ったままのハリスをどかし、エアの荷物に手をかけた。 「ジオールさん!」 「ジオールさん、貴方は……」 「エア隊長に不審な点がないか調査する事も私の任務だった。黙っていた事を不愉快に思うならば、心から詫びよう」  名を呼ぶ仲間たちに振り返る事なく、ジオールは淡々と答える。 「二ヶ月も見てたら、判るでしょう! エア隊長に不審な点なんかなかったじゃないですか!」  ジオールはゆっくりと作業を続けた。エアの袋の中に入っている荷物を、順々に取りだしていく。いくつもの着替えや財布、剣を磨く打粉、未使用の羊皮紙、ペン、インク。どこにでもあるありふれだものが次々とテーブルの上に無造作に並べられていった。司教から預かった迷宮の地図だけは別格で、優しい手つきで取り出し、大切そうにテーブルの隅に置かれる。 「ハリス、ルスター。立場上私は君たちとほとんど常に行動を共にしなければならなかった。故に旅の最中にいくらかあった、エア隊長がひとりになる機会に、エア隊長を見張る事はほとんどできなかった。私自身、不審な行動をとる事ができなかったからな。だから決定的な証拠と言えるものを掴めてはいない」 「じゃあ……」 「しかし森の神殿で過ごしたあの晩、池のそばで交わされたライラ様とエア隊長の話を聞いた」  エアはいつの間にか俯いていた顔を上げた。 「エア隊長。過去に想いを馳せ悲しみにくれるライラ様に、貴方はこうおっしゃった。『もし、貴女の前の夫が、貴女を迎えに来たとすれば――』」 「それは単に、ライラ様をお慰めしようとしただけだ」 「二ヶ月間行動を共にしていれば、エア隊長は充分思慮深く、思いやりのある方だと判りました。そんなエア隊長が慰めの言葉として口にするに、ありえない仮定は無責任がすぎ、応しくないと私は思いました。もっとも、ありえる仮定として口にしたとすればあまりに軽率で、隊長らしくないとも思ったのですが」  ジオールの強い眼差しが、エアの揺れる眼差しを真っ直ぐに貫く。 「貴方はこうもおっしゃった。『貴女のような女性たちを犠牲にして成り立つこの国こそが、誤りなのではないか』と。エイドルードを疑うなど、聖騎士の行いとは思えません」 「あれは……確かに失言だった。ライラ様をお救いできれば、神も許してくれようと思っての事だったが、偽りの言葉ではライラ様のお力にはなれなかったのだから」  ジオールは全ての荷物を出し終えた。  当然、その中に彼やロメールが求める荷物はない。ここで、ロメールたちの疑いは杞憂だったのだと話が片付くのを祈ったが、祈りは神に届かなかった。 「エア隊長。私の記憶では、貴方がこの旅の最中に手紙を出した事はありません。何かを記した事も、なかったはずです。ですがこの羊皮紙、出発前から一枚減っておりますね」 「それはっ……旅の途中で故郷に手紙を送ろうとしたのだが、任務中に私用の手紙を送るのは問題かと、出さずに捨てただけだ」 「そうですか。本当にそうならば良いのですが」  彼は当然のように、袋の底に手をかけた。 「金貨、ですか」  ジオールはひとつめの底をめくり、そこに隠してあった数枚の金貨を取りだす。 「財布を落とした場合等、金が足りなくなった時の事を考えて、だ。幸いにも使わずに済んだが――それの事は、お前も知っているだろう」 「はい。そうでしたね」  揺れる炎の明かりを浴びて、テーブルの上に出された金貨が鈍く光る。  ロメールの表情が曇った。エアの荷物の中に何もなかった事に驚き半分、焦りが半分と言ったところだろう。当然だ。ここで何も見つからなければ、今度は彼が窮地に陥るのだから。 「もうよろしいかな?」  笑みを浮かべたアシュレイの問いかけに、ジオールは否と答え、腰に吊り下げた剣へ手を伸ばした。  鞘から抜いたのは、戦いの時に主に使う長剣ではなく、長剣を失った場合や接近戦で使うための短剣。その動作の落ち着きぶりからも、乱心して切りかかってくるわけではなさそうだ。  アシュレイはジオールに向ける視線を、不審者に向けるものへと変えた。ルスターは明らかに動揺してハリスの腕を掴み、ハリスは長剣の柄に手をかけている。  エアは――傍から見れば冷静にその場を見守っているように見えるのだろう。しかし内心は、この場の誰よりも動揺していた。 「何をしている? ジオール」 「エア隊長は用心深い方ですから。おそらく、底は二重ではありませんよ」  二ヶ月と言う時間は短いようで長かったようだ。エアもジオールも、他者との係りをあまり得意としない人種で、それほど慣れ親しんだわけではない。だが二ヶ月もあれば、わざと偽っていない限り、相手の性質を読み取るには充分なのかもしれない。  ジオールは短剣を誰に向けるでもなく、袋の底に向けた。刃先で器用に糸を切り、一見しても判らないよう巧妙に縫いつけたもうひとつの底を露にしようとした。  視界の端に映るアシュレイを探し、エアは息を吸う。それから、扉までの距離を目算で計る。  間もなくジオールの手によって地図の写しの隠し場所が暴かれるだろう。もう逃れられないと、エアは確信した。  計画を断念しないためには、この部屋から誰も出さず、余計な事を知ってしまった人間を始末するしかないだろう。部屋の中に居るのはエアとアシュレイを除けばたった四人で、聖騎士団で最も剣技に優れたアシュレイと武術大会に優勝できるだけの腕を持つエアが組めば、それは容易い事に思えた。後始末はどうしようもないので、アシュレイと共にすぐさまセルナーンを出、それぞれ目的地へ向かうしかない。  エアは視線を扉から部屋の中に戻した。途中、ハリスとルスターが視界に入り、軽く唇を噛んだ。 「これは」  剣に手を伸ばせずにいたエアは、ジオールが取りだした真新しい羊皮紙を凝視した。  袋の底に隠したために他の荷物に押し潰された羊皮紙をゆっくりと開いていくジオールを見つめながら、エアは強烈な違和感に襲われていた。それから、「違う」と言う予感に。  予感は的中した。開かれた羊皮紙には、エアが簡素化して記した地図が描かれていなかった。代わりに、エアではない他の誰かの筆跡による文章が書かれている。 「ライラ・セルダ……様……?」  掠れたジオールの声が紡いだ名に、いち早く反応したのはアシュレイだった。アシュレイは素早くジオールに歩み寄り、彼の手から羊皮紙を奪い取る。そして葛藤しながらも、目を通す事はなく、たたみ直してから握りしめた。  あれは、いったい何だ?  なぜ、あるはずのものが消え、ないはずのものがそこにある? 「エア・リーン」  アシュレイは厳しい声音で、エアの名を呼んだ。 「手紙にしろ、伝言にしろ、女神は外部と連絡をとる事を禁じられている。知らないわけはあるまいな?」 「も……申し訳ございません」  エアは咄嗟に謝罪の言葉を口にしていた。 「ライラ様が故郷に思いを馳せ嘆いておられたのを見て、思わず……手を差し伸べてしまいました。お気持ちを伝えるくらいならば、許されても良いと」  戸惑いと混乱に支配された思考の中から、エアが咄嗟に取りだせた言葉はそれだけだった。まともな言葉が取り出せただけでも充分立派だと、自分を褒めてやりたいほどだ。 「それすらも許されない高貴な存在こそが、女神なのだ」 「……はい。申し訳ございません」  エアは深く頭を垂れた。  もちろんエアは手紙の事など知らない。自分でない誰かが、地図を記した羊皮紙を抜き取り、代わりに手紙をしまいこんだのだ。その人物はおそらくアシュレイではないのだろう。  知られてはならない事実を、別の誰かに知られている。この場を逃れられたとは言え、いつ、誰に追い立てられるか判らない。  いや、そんな事はもうどうでもよかった。問題なのは、地図を失ってしまっては、アシュレイとの取引が成立しなくなってしまう事だ。  あらゆる罪を背負う覚悟で欲したものが、手に入らなくなる。それはエアにとって絶望だった。 「そんな……」  エアが必死になって内に押し隠した絶望を、ためらわずに表面に出しているのはジオールだった。彼はそれ以上袋を調べても何もない事を確認し、それでも諦めがつかないのか、大股でエアに近付いてくる。エアの体を探り、どこかに隠していないかを確かめるためだろう。  もちろんエアは地図を身に付けてはいない。ジオールの表情に浮かぶ絶望がより濃くなっていった。  そんなジオールに見せ付けるように、ハリスも自身の荷物を床の上に広げる。ルスターも、ハリスに続いた。当然、その中にも地図はなかった。 「納得したか?」  アシュレイの言葉に、ジオールもロメールも返す言葉がなかった。弱々しい声で「失礼しました」と謝罪し、頭を下げる事しかできないでいる。 「ロメール。未来ある罪無き若者を疑うような真似は、聖騎士として誇れる行為ではない」 「……おっしゃる通りです」 「だが、貴方の事だ。私やエア・リーンに悪意を抱いての事でなく、聖騎士団の未来に憂いを抱いての事だろう。故にこの度の件は不問とする」  ロメールは静かに顔を上げた。 「そもそも、私が貴方に心労を抱かせるような態度を取った事に原因があるのだろう。私自身、その点に関しては反省点がないとは言えない。エア・リーンも、部下に疑いを抱かせる不遜な発言を口にしたは事実であるし、こうして別の罪を犯している」  アシュレイは羊皮紙を胸のあたりまで持ち上げた。 「いえ、アシュレイ様。それはなりません。それでは示しがつきますまい」 「無かった事にすればいい。私も、エア・リーンも、彼らも、貴方の部屋には来なかった。それを事実にしてもらえないだろうか」  ロメールの机に置かれた燭台に歩み寄ったアシュレイは、手にした羊皮紙で蝋燭の炎を撫でた。さほど時を待たずして羊皮紙に火が移ると、瞬く間に燃え尽きていく。  罪を問わない代わりにこちらの罪も問うなと、アシュレイは無言で訴えていた。静かに、しかし誰にも逆らえない力でもって。  全てが灰となって姿を消すと、アシュレイはロメールたちの横を通りすぎ、扉に手をかけた。誰もがそのまま部屋を出て行くかと思ったが、彼は何かを思い出したように顔を上げ、振り返る。 「四年前、森の女神ライラ様がかつて私の妻であった事を、一部の聖騎士団の者が知ってしまった事がある。ライラ様が女神になられたのと、私が聖騎士団長に就任した時期がほぼ同時であったせいか、当時は悪い噂が流れたものだ。私が妻を売り、その代償として聖騎士団長の座を手に入れた、と」 「心無い噂です。貴方はいずれ聖騎士団長になられるだけの力をお持ちでした」 「いずれはそうだったのかもしれない。だが、二十半ばの若造のうちに聖騎士団長になる必要はなかった。妻を売ったつもりはないが、その代償に聖騎士団長の地位を与えられたのは間違いないのだろう。望んでいたわけではなかったが」 「ですが……!」 「貴方は私を疑わなかった。それだけではなく、噂を語る者を一笑し、説き伏せてくれた。私は貴方に救われたのだ」  アシュレイが微笑みかけると、ロメールはその場に跪き、深々と頭を垂れた。硬く目を伏せ、涙を堪えているように見える。 「それから名前を知らずに申し訳ないが、当時、若い騎士のひとりが私の名誉を守ってくれたとも聞いている。君だったのだろうか?」  ジオールもまた、ロメールに習って跪いた。アシュレイの問いに肯定の言葉を返す事はなかったが、態度で全てを語っていた。 「ありがとう」  最後にそれだけ言って、アシュレイは部屋を出て行った。  立ち尽くすハリスやルスターにアシュレイの後に続くよう指示すると、エア自身も荷物をかき集めて部屋を出る。  ロメールも、ジオールも、けして顔を上げようとしなかった。最後にエアは部屋を出て、扉が閉まるまでは。 4  ジオールを欠いた状態で司教への報告と地図の変換を終えたエアは、二ヶ月間離れていた自室に戻った。居ない間は誰かが時折掃除をしてくれていたのか、埃が厚く積もっていると言う事はなく、安心して荷物袋を床に投げ出す。  空気を入れ替えるためか開け放たれていた窓からは、明るい太陽の光が照りつけており、日が落ちるまでまだ充分な時間がある事をエアに教えてくれた。  だが、今日は仕事も訓練もせずゆっくり休めと、司教と団長双方に言われている。長旅で募った疲れを癒すため、ゆっくりと風呂に入っても良いし、寝台に飛び込んで貪るように睡眠をとっても良いだろう――ハリスやルスターは。  エアはそれどころではなかった。頭の中は、自らが書き写した地図の事で埋め尽くされている。地図はどこに行ったのか、行方をつきとめる事が、汚れを落とす事や休みを取る事よりも優先すべき事だった。  埃に塗れた外套や鎧を脱ぎ、身軽な格好になる。その間、いつ、誰ならば地図と手紙を交換できるかを考えていた。  地図と手紙を交換するには、まずエアが地図を隠した場所を知らなければならない。それを知っているのはエアだけのはずだが、まずはその仮定を捨て去る事とする。そうしなければ推理は進まない。エアは地図と手紙を入れ替えていないのだから。  誰もが地図の隠し場所を知っていたと仮定しなおす。  エアが荷物の底に地図を隠したのは昨晩だ。つまりその後、アシュレイの目の前で荷物が暴かれるまでの間、エアの荷物に触れる機会があった者。  エアは寝台の端に腰を降ろし、組んだ手を膝の上に置きながら、放り投げた荷物を眺めた。  荷物は荷台の上で揺られ続け、時には地面や床に投げ出される事もあった。埃に塗れているし、生地が痛んでいるところもあり、お世辞にも綺麗とは言えない。  袋の最も汚れている場所であり、最も大切なものを隠していた底面を眺めていたエアは、そこに自分が知らない異変を見つけた。袋の側面と底を繋ぐ一部分が、中からも外からも判りにくい形で切れていたのだ。  いてもたってもいられず立ち上がり、エアは部屋を飛び出した。この時分、ほとんど誰も通らない通路を突き進み、宿舎を出る。すれ違う聖騎士たちに会釈で挨拶し、早足で厩へと向かった。  この二ヶ月間、主たる生活の場と言っても過言ではなかった馬車が収められていた。僅かな期待を胸に荷台に乗り込んでみたが、荷物は何ひとつなく、紙切れ一枚落ちていなかった。  偶然地図が落ちた、と言う可能性は諦めた方が良さそうだった。だいたいこれでは、手紙が入っていた理由がつかないではない。  やはり人為的に行われた事なのだ。地図が失われ、手紙とすり返られていた事は―― 「やっぱり来ましたね、エア隊長」  荷台から降りたばかりのエアの目に、長く伸びる影が映った。  その影は、後ろでひとつにまとめた少し長めの髪を、緩やかな風に揺らしていた。 「……ハリス」  名を呼ぶと言う行為が、これほど辛いとは思わなかった。影を辿り、影の主を瞳に捕らえる事が、これほど辛いとは知らなかった。  今まで味わったものとは違う種類の恐怖に支配されながら影の主の表情を探ると、そこには何の感情も存在しておらず、ただ、疑問を色濃く浮かべた瞳がふたつ並んで、エアを見つめているだけだった。  柱に寄りかかったハリスは、自身の懐をまさぐる。そうして取り出されたものは、エアが捜し求めていた、地図の写しと思わしき真新しい羊皮紙だった。 「どうして」  どうしてお前がそれを持っているのだと聞きたかった。だが、言葉が上手く出てこない。  部下たちには何も知られたくなかった。だから、行動を起こす時は誰にも気付かれないように、静かに神殿を去ろうと決めていたのだ。それは弱さだと、信頼を傾けてくれる相手から逃げる行為なのだと、他の誰から責められても構わない。ただ彼らから軽蔑したと責められたくなかったのだ。 「別に、俺は何でもないですよ。家は長男が継ぐからって、俺は小さい頃から自由でした。自由に、聖騎士に憧れて、四年前に入団試験に合格して、晴れて聖騎士になった。そして辞令どおり第十八小隊の所属になり、エア隊長の部下になった。それだけです。ジオールさんのように特別任務を受けていたわけじゃなく、ただ輸送任務をこなしただけの、平凡な聖騎士です」  エアはハリスに近寄らなければならなかった。そうして、彼の手から羊皮紙を受け取らなければならなかった。  だが不思議と、体が動かない。ぽつり、ぽつりと語られる彼の言葉を、ただ聞いている事しかできなかった。 「これを見つけたのも偶然みたいなものです。ジオールさんがあからさまに隊長の荷物を気にしていて、おかしいなと思いましてね。気になって見てみたら、底の部分が切れていたでしょう? 多分、最初はジオールさんが切ったんだと思います。それを誰かがどこかに引っ掛けて、瑕が大きくなっていた。そこから羊皮紙の端が見えたんです」 「中を、見たのか?」 「はじめは見る気なんてありませんでしたよ。誰かに宛てたか誰かから来た手紙だろうと思ってましたから、そんなの勝手に見たら失礼じゃないですか。俺は見せてほしければ堂々と正面からお願いして見せてもらいます。だから、落ちたらいけないと思って、奥に押し込もうとしただけなんですよ。そしたら、端の方が少しだけ見えてしまって」  ハリスは羊皮紙を掴む手に少しだけ力を込めた。 「俺は本物の地図を見てません。でも、二度通った道ですから、もしかしてって思いました。紙の新しさからしてエア隊長が見ていたやつじゃないのはすぐに判りました。門外不出の地図の写しを持っているなんてどう言う事だと考えました。それから、ロメール副団長に呼ばれた事と合わせて、嫌な予感がしたので、ジオールさんの目を盗んでこれを抜き取ったんです。いかにも何かを隠してるって所に何もなかったら怪しいかと思って、代わりに俺がこっそり隠し持ってたライラ様の手紙を入れて。あれなら見つかっても致命的な事にはならないでしょうしね。多少痛い目を見る事になるかもしれないとは思いましたが、実際やっている事がばれた時に比べたら可愛いものでしょう」 「ありがとう」だの「助かった」だの、幾つかの感謝の言葉が口をつきそうになったが、そんな言葉をハリスが望んでいるようには到底見えず、エアは息を飲み込む事で無言を貫いた。  ハリスはエアを無条件で許そうとしているわけではない。エアの行動の意味と理由を知り、自身で判断しようとしているだけだ。そのためにはエアがロメールに拘束されては不都合であったために、エアを庇うような行動を取ったにすぎないのだろう。  ハリスに納得してもらえる自信がエアにはなかった。きっとハリスは、エアを軽蔑する事だろう。その手に握る動かしようもない証拠と共に、エアを突き出すべきなのだ。 「そうだ。言い忘れてました。俺の罪を押し付けてしまってすみませんでした」  ハリスは深く頭を下げる。 「いや。結局不問になったのだから、それはいい」 「俺は自分の罪を告白しました。後で真実を報告に行く事も考えています。だから、隊長も答えてください。貴方の罪の事。どうしてこんなもの持っていたのかを」  問い詰める口調も視線も穏やかで、エアを責め立てるものではなかった。だが、ロメールに問い詰められた時よりも遥かに息苦しく、遥かに重く、エアの心を抉った。 「ロメール副団長やジオールさんの言った通りなんですか? アシュレイ団長は、ライラ様を神殿から連れ去ろうとしてるんですか? 隊長はそれに協力するつもりで、これを?」 「それは……」 「これがどう言う事だか判ってるんですよね? この国は女神の祈りに支えられているんです。女神を連れ去ったら、この国は滅んでしまう。隊長は、国を滅ぼす気ですか!?」 「違う」 「なのに協力するんですか? そりゃ、あんな綺麗な奥さんが居て、突然神の妻になると言われて、アシュレイ団長は苦しんだと思います。俺が団長の立場だったとしたら、とても耐えられないかもしれない。だからって、同情できるからって、見逃していい事じゃないでしょう」 「ああ、そうだ」 「ライラ様は我慢してるんです。ご自分の運命を受け入れて、国のために尽くしてる。俺に手紙を託すだけだと言うのに、罪の恐ろしさに震えていました。その健気さを知ってもまだ、団長に協力しようと思えますか?」  エアは言い訳を探した。だが、苦痛で回転を遅めた思考からは、効果的な言い訳も虚言も引きずり出す事はできなかった。 「答えてくれないんですか」  答えを迫るハリスに、エアが何も答えられないでいると、ハリスは腰に下げた短剣を引き抜いて羊皮紙にあてがう。 「俺はこれを引き裂いたって構わない。部屋に戻って燃やしたって」 「やめろ。それだけは……!」 「じゃあ話してくださいよ。地位とか名誉とか金とか、そんな理由で団長に従ったわけじゃないんですよね?」  エアは力無く荷台に腰を下ろした。  静かに、ゆっくりと、息を吐き出す。顔が自然と俯き、両の瞳は行き場を失った手を見つめた。  地位も名誉も金も、エアには必要なかった。欲したのはたったひとつ――家族と言う温もりだけ。 「許してほしいとは言わない。望むつもりもない」 「隊長!」 「俺はあの日、この国が滅んでも構わないと思った。国があろうとなかろうと、俺は滅ぶんだ。ならば、憎んでも憎み足らないこの国ごと、滅んでもいいと」  エアは寂しかった。自分以外の誰の気配も無く、出迎えてくれる明かりの無い家が。子供のようだと笑われるかもしれないが、偽りきれない真実の想いだった。  エアは忘れない。たったひとりの家族だった父を失い、明かりも点けない暗闇の中、自身の膝を抱えていた苦しみを。そんなエアに触れてくれた少女の手の温もりを。エアの手を握り締め共に泣いてくれた優しさを。  忘れては、生きていけなかった。 「どうして、そんな。何をそんなに、憎んで……俺には、隊長が憎んでいるだけの人には見えなかったですよ」  掠れたハリスの声は、まるで泣き声のようだった。 「俺に希望を与えてくれたのは、俺から幸福を奪って行った張本人だった。あいつは、アシュレイは、俺に取引をもちかけた。俺がどうしても欲しいものをあいつは持っていた。だから俺は、あいつが欲しくても手に入れられないものを、渡す約束をした」 「それがこれ、ですか」  エアは小さく肯く。 「これをアシュレイ団長に渡して、それでどうなるか予想した上で、取引に応じたんですか?」  再び、エアは小さく肯いた。 「アシュレイは間違いなく、大切なものを取り返しに行くだろう」 「判ってるなら!」 「判っているからこそだ。女神たちは、任期を終えると死んでしまう事を知っているから!」  ハリスは言葉を失った。目を大きく見開いたままエアを凝視し、そのまま動けないでいる。 「お前はそれを知った上で、女神たちに尊敬の眼差しを向ける事ができるか? 俺には無理だった。俺は、ライラ様に同情の眼差ししか向けられなかった。あの人が、国の平穏を守るための、単なる生贄だと知っている今は!」  ハリスは唇を引き締めたままエアを見下ろした。その視線は苦渋に歪み、短剣を握る右手が重そうに沈んでいく。 「お前は女神たちに言えるのか? 国のために死ねと」  とうとうハリスは短剣を取り落とした。  鋭い刃は硬く踏みしめられた地面に突き刺さり、奥の柔らかな土を抉りだす。その様子は、エアの心に刻まれた傷のようだった。 「……すまない。お前の人の良さにつけ込む真似をした。お前はそうして迷うだろうが、俺だったら迷わず言っていただろう。本人に面と向かって言えなくとも、心のどこかで願ったはずだ。俺たちの幸せのために、犠牲になってくれてありがとう、と」 「エア隊長」 「だが、今は言えない。願えない」  願う相手こそが、誰より失いたくない、エアの幸せの象徴であるから。  震える手に、リリアナの温もりが蘇る。闇色に染められた脳裏に、リリアナの微笑みが。  懺悔にも似た告白をする事で、エアの中に淀んでいた迷いが晴れていくようだった。  もしリリアナがエアを忘れ、砂漠の女神として誇り高く生きていたとしても、エアはもう迷わないだろう。彼女が死を望まない限り、彼女の腕を引いて、どこにでも逃げるつもりだった。  エアは国の平穏よりも自身の幸福を望み、自身の幸福よりもリリアナの幸福を望んでいるのだ。 「隊長たちがやろうとしている事は、法によれば罪です」 「そうだ」 「だけど、人の命を救う事でもある」 「奇麗事で飾らなくていい。自分の女を取り戻したいだけなんだ」  エアが自嘲気味に微笑むと、ハリスは僅かに視線を反らした。 「ただ、これだけは言っておく。そのために国を滅ぼすつもりはないと言う事を」 「……本当に?」 「一年、数ヶ月、いや、数日でもいい。女神としての任期を終えるよりも早く、神殿から連れ出す。それだけならば、国は滅びない。神の封印は、そこまで脆くないのだから――だから見逃してくれと言う権利は、俺にはないが」  エアは立ち上がった。ゆっくりとハリスに近付き、ハリスが取り落とした短剣を拾いあげる。 「すまなかった」  刃に付着した土を掃い、ハリスの腰に吊るされた鞘へと戻した。  その間、動けないでいるハリスの手から、エアは羊皮紙を抜き取る。  ハリスは抗わなかった。羊皮紙を守ろうとも、処分しようともせず、エアの手に返してくれた。 「俺を隊長と慕ってくれたお前たちを裏切ってすまなかった。お前に余計な負担をかけてすまなかった……謝って済む問題では、ないのだろうが」  今なら少しだけ、アシュレイの気持ちが判る。  エアはリリアナを奪われたばかりの自分に「忘れるといい」と言ったあの男を、心の底から恨んだ。だと言うのに今のエアは、ハリスに忘却を願っていた。  エアと出会った事を、エアを隊長として旅した二ヶ月間を忘れてしまえば、ハリスの胸に広がった苦痛は消えるだろう。それはエアとの思い出も消えてしまう事になるが、彼ならばエアではない誰かと、新たな、優しい思い出を、いくらでも築いていけるはずだ。 「隊長」  ハリスの横をすり抜け、厩を出ようとするエアの背中に、ハリスの声がかかる。 「隊長の、望みは……?」  口調は弱々しく、問いかけの形を取っていた。だが彼の眼差しが見せる、労わりの奥に巧妙に哀れみを隠そうとする優しさは、彼が全てを悟っている事をエアに伝えた。 「お前の想像する通りだ」 「判りません」 「嘘を吐け」 「判ってはいけないんです。判ってしまったら、俺は」 「こんな馬鹿な真似をする俺を許してしまう、か?」 「――!」  ハリスは息を飲み、苦痛に耐えるかのように、両の拳を握り締めた。 「俺たちは自分たちが何をしているかを知っている。だから、許されようとは思わない。お前の好きにすればいい。馬鹿にしても、忘れたって――」 「忘れませんよ」  ハリスは思考に耽る時間を全く使わず、エアが与えた選択肢のひとつを、即座に取り消した。 「忘れません。知ってしまって、見逃してしまった以上、俺も罪の欠片くらいは背負います」 「お前がそこまでする必要はない」 「ありますよ。でも無くてもいいです。俺が背負いたいから背負うんです。だから約束してください。隊長は、隊長の大切なものを守るって。そしてできたら、その大切なものの片隅でいいんで、俺も置いておいてください」 「……ハリス」  目の前で柔らかく微笑む男を見下ろして、返さなければならない言葉があると言うのに、エアは名前を呼ぶ以外に何も言えなかった。今口を開いてしまったら、出てきてはならないものが溢れてしまいそうであったから。 「ちなみに俺は、この国に大切なものが沢山ありますし、この国自体、失ったり傷付いたりしてほしくないくらい好きなんで、そこんとこもよろしくお願いします。そしてもし隊長が約束を破ったら、俺は隊長を追います。追って、捕まえて、犯した罪を償わせます」  柔らかな口調と優しい微笑みでごまかしているが、この男は自分を脅迫しているのだと、エアは瞬時に悟った。  これほど重苦しく、それでいて心安らかな脅迫が、あって良いものだろうか。  エアはため息を吐いた。不思議と、口元には笑みが浮かんでいた。 「すまない」 「判ってないな、隊長は。俺が欲しいのは謝罪じゃないですよ」 「――ありがとう、ハリス。約束する」  エアが言葉を選びなおすと、ハリスは満足げに肯いた。 5  窓を叩く音が小さく鳴る。  外部から差し込んでくる光を一切遮断し、部屋の中心に置かれた燭台に灯した小さな火を唯一の光源とした薄暗い部屋の中、時が来るのを待ち続けていたエアは、その音に反応して俯きがちの顔を上げる。  そして自身の胸元に触れた。心理的には、服一枚隔てた向こうにある、大切な羊皮紙を。  瞬きをする間に決意を固めると、静かに立ち上がると窓に歩みより、窓を開ける。  窓の外に立つ人物の黒髪が、月明かりを浴びて怪しく輝いた。  アシュレイはエアに向けて微笑むと、何も言わずに窓枠に手をかけて部屋の中に入り込む。素早く窓を閉めると小さく咳払いをし、持ち前の美声をようやく響かせた。 「何を驚いた顔をしている」 「本当に来るのか疑っていたからな」 「私は必要のない嘘は吐かない」  穏やかな笑みをそのままに、アシュレイは平然と言ってのける。だからこそこの男は底が判らず気味が悪い、とエアは考えていた。  エアが元々座っていた寝台に腰を下ろすと、アシュレイは「失礼する」と断りを入れてから、部屋の中にひとつだけある椅子に腰を下ろす。意図的にアシュレイと向かい合わないように座ったエアとは違い、しっかりとエアを視界に捕らえられる場所を選んで座っている。 「普通、団長自ら人目を忍んで部下の部屋に来るか?」 「だから裏をかけるのだろう? ロメールたちはすっかり私を信じたようだが、信じたふりをしただけかもしれない。他にも私たちを疑う人間は居るかもしれない。用心に越した事はない」  確かに用心は重要だとエアも思う。だが、優雅な笑顔と毅然とした態度で嘘を並べ、自分を疑う人間をすっかり騙したこの男に、必要な事かどうかは謎だった。 「そうだ。ジオールの事だが、来月の頭付けで第十一小隊に異動させる事となった。異論は無いな?」  エアは一瞬戸惑った後に頷いた。 「ああなった後では、お互いやり辛いからな。仕方が無いだろう」 「不満そうな口ぶりだが?」 「真面目を絵に描いたような男で、一番頼りやすい部下だった。今でも、騙されていたのは冗談だったんじゃないかとどこかで思ってる」  嘘でも冗談でもない事は明らかであったが、それでも信じたいと言う想いがエアの胸の中に残っていた。ある意味では一番判りやすい男でもあったから――彼がエアに寄せてくれた信頼が、全て嘘であったとはどうしても思えないのだ。 「どうやら彼には色々複雑な事情があるようだ。詳しい事は知らないが、どこぞの貴族のお家騒動に巻き込まれかけ、そこから彼を救い上げた者がロメールらしい。ロメールは彼を養子にしようとしたが、迷惑をかけるわけにはいかないからと断ったそうだ」 「そうか。ジオールらしいな」  エアはアシュレイに気付かれないよう、隠した口元に笑みを浮かべた。  おそらく、エアとジオールが共に任務をこなす事は、もう二度とないだろう。彼が新天地で彼らしく生きていく事を祈りながら、エアは静かにため息を吐き、懐から羊皮紙を取りだした。  その動きに合わせるように、アシュレイも羊皮紙を取りだす。砂漠の神殿への道が記された地図を。 「なぜ、言わなかった」  誰にも気付かれてはならない取引は素早く終わらせるべきだ言う事も、互いの手の中にある羊皮紙を交換すれば取引は完了する事も、エアは知っていた。だが、取引を成立させる前に、それだけはどうしても聞いておかなければならなかった。 「何をだ?」 「とぼけるな。決まってるだろう。俺の取引相手が、お前だった事をだ」 「ああ」  アシュレイは再び温和な笑みを浮かべた。 「君は君からリリアナ様を奪った私を憎んでいるだろう。だから、取引相手が私だと知れば、拒否するかもしれないと考えた」 「まさか。腸が煮えくり返る思いをしても、我慢するさ。他に手はない」 「無用な心配だったか。失礼した」  エアは真面目な顔で謝罪の言葉を口にするアシュレイから目を反らした。  口ではそう言ってみたが、本当の事はエアにも判りかねていた。アシュレイに取引を持ちかけられたあの日、自分の行動がアシュレイを救う事になるのだと判っていたら――エアは別の道を探そうとしたかもしれない。砂漠の神殿への道が前人未到ならば、最初のひとりになってやろうと無茶をしたかもしれない。  そこまで自分の事を判っていながら、アシュレイの言葉を素直に受け止められないのは、単なるアシュレイへの反発心だった。 「そうだった。君は私を恨んでいるだろうが、それ以上に同志なのだったな」  言葉と共に淀んだ暗い感情がアシュレイの身から溢れ、辺りに漂いはじめる。  それはエアもよく知る感情であり、通常ならば恐れおののくべきなのだろうが、不思議と心地良かった。 「君にはすまない事をしたと思っている。私は君と同じ痛みを知りながら、悲しみに暮れる君を慰める事もせず、余計に傷付けるような真似をしたのだから」 「今更謝る気か。気持ち悪い」 「確かに今更だ。私は何も知らない君を賭けの対象にしたのだから」 「……賭け?」  エアは振り返り、細めた眼差しで小さく揺れる火を見つめるアシュレイを窺った。 「賭けと言うよりは、言い訳かもしれないな」 「は?」 「おかげで今はもう、罪悪感など微塵も抱いていない。恩ある上司を聖騎士団長の地位から追いやった事も、私に心酔する者たちを欺く事も」  アシュレイは手にした羊皮紙を机の上に置くと、慈しむように優しい手つきで羊皮紙を撫で、柔らかく微笑む。  何気ない動作と表情だった。先の台詞を聞いていなければ、優雅だとの感想を抱けたのだろう。だがエアが今の彼から感じ取れたものは、狂気以外の何ものでもなかった。 「ライラを奪われた夜、司教様は幾度も謝罪しながら、私にこうおっしゃった。エイドルードはこれまで、人の妻である女性を指名した事など、ただの一度もないのだと」  アシュレイは狂気を秘めた紫水晶の瞳をエアに向けた。 「君たちの事も気に病んでいたようだ。司教様がお告げを受けた日は、君の十六の誕生日の翌日。君たちは正式な夫婦にはなっていなかったようだが、婚約はすでに成立していたそうではないか?」 「それが、なんだ」 「エイドルードは人のものを無理矢理奪った。私たちがエイドルードを恨むは当然で、奪い返す事を望むも当然だ。だから私は思ったのだよ。もしかするとエイドルードは、女神を奪われたがっているのではないか、と」  紡がれた言葉はあまりに突拍子もなく、エアはしばらく彼の言葉を受け入れられなかった。 「思いはしたが、それは詭弁だと考え直した。神に逆らう願いを抱く自分自身を、正当化したいだけなのだと否定した。その時は、な」  エアは勇気を振り絞り、アシュレイの瞳を見つめ返す。  狂気に飲み込まれやしないかと恐れていたが、それは杞憂だった。彼が内包する狂気は、エアにとって心地良いほどだったのだ。  当然か、と、エアは心の中でひとりごちる。  まともな人間ならば、神に逆らおうなどと考えないだろう。つまりここまで来た時点で、エアもアシュレイと同じなのだ。  同じものに支配されているからこそ、ここまで来られたのかもしれない。 「そして私は君に会った。私と同じだけの喪失を強制され、私と同じだけの呪いを抱いた君を見た時、あるいは本当に神の意思なのかもしれないと考えはじめた。ならば、たとえ不可能に思えるほど困難だったとしても、神は何らかの道を与えてくださるに違いない――」 「だからお前は、俺に奇跡を強いた」 「そうだ。そして君は奇跡を起こした」  アシュレイは立ち上がり、エアに歩み寄る。  手にした羊皮紙をエアの目の前に差し出し、見た目は美しいが歪んだ感情を浮かべた笑みを見せる。 「本当に女神を守りたければ、エイドルードは私たちを再会させなければ良かった。いや、そもそも出会わせなければ良かった。金や地位を与えられる事で愛する人を諦められる人間から奪えば良かった。はじめから奪う必要のない、天涯孤独の娘を選べば良かった」 「……」 「そうは思わないか? エア・リーン。私たちは神の意思に従ったのだ。けして罪人ではない」  エアは無言でアシュレイが差し出してきた羊皮紙を受け取る。 「お前がそれで救われるなら、そう信じればいい。けどな」  エアは自分が写しを作った森の神殿への地図を、怒りや不愉快などの想いを全て込め、アシュレイに叩き付けた。 「俺は自分の意思でここまで来た。胸糞悪い神様に逆らいたくて、罪人になりたくて、ここまで這い上がって来たんだ。エイドルードなんぞの意思に従ったつもりはこれっぽっちもない!」  叫びは沈黙を生む。耳が痛むほどの、音の無い世界を、部屋の中に呼び込む。  その中で、エアはアシュレイを睨みつけた。エイドルードへ抱くものと同じ、もしかするとそれ以上に深い憎悪と失望を込めて。  アシュレイはエアからリリアナを奪った人物だった。だが、エアと同調できる唯一の同志でもあった。  認めたくはないし認めるつもりもないが、エアは心のどこかで、彼が理解者である事を望んでいたのかもしれない。しかし今、その望みがいかに無意味でくだらないものであるかを知った。  エイドルードを憎む同志とアシュレイは言ったが、結局この男は、本当の意味でエイドルードを憎んでは居ないのだ。妻を奪われた事も神の試練程度にしか考えておらず、神に従う事こそを喜びと感じているのだ。そうでなければ、神の意思に従う事を言い訳になどできまい。  だからと言ってエアは、彼を責める気は無かった。彼はエアと違い、元々聖騎士になる事を望んでいて、敬虔に神に仕えていたのだろう。はじめから生き方が違うのだ。 「君がそれで救われるなら、そう信じればいい」  アシュレイはエアが口にしたものと全く同じ意味の言葉を紡ぐと、窓へと近付いた。  窓を開けようと手をかけ、振り返る。  蝋燭の炎を映した瞳が、闇を広げていくかのようだ。 「君とこうして会うのもこれが最後だ。明日からは何事も無かったように、互いに聖騎士としての任務を果たそう。そして一年後の今日、それぞれが思う場所に旅立とう」 「……ああ」  掠れ声の返事を受け取ると、アシュレイは素早く窓を開けて部屋の外へと身を躍らせる。  エアは閉じられた窓に歩み寄って鍵をかけると、受け取った羊皮紙を懐に仕舞い込み、寝台に身を沈めた。  あと、一年。 「あと一年だ、リリアナ」  ようやく会える。思い出の中にしか居ない愛しい人に、生きる理由に。  胸元を抑えながら、エアは歪んだ笑みを浮かべる。  待ち望む日までまだ長い時が必要だと言うのに、心は驚くほどに安らかだった。 五章 砂漠の神殿へ 1  木剣が重なり合う乾いた音はどこか温かく、真剣が響かせる金属音とはまるで違う種類のものだ。可愛らしいと言えない事もなく、ハリスは口元に笑みを浮かべる。  くたびれた体を休ませながら、目の前に広がる光景を眺めた。聖騎士団第十八小隊に所属する者たちそれぞれが鍛錬を重ねている。やっている事は、訓練用の剣で打ち合っていたり、ひとりで素振りをしていたり、基礎体力をつけるために走り続けていたりとさまざまだ。  その中で目を引くのは、やはり隊長であるエアだった。二年連続で武術大会の優勝者となった――が、今年もまた騎士団長アシュレイに敗れていた――男の剣術は、他の者たちとひと味もふた味も違うのだ。  ハリスは一年ほど前、任務で森の神殿に向かった時の事を思い出した。  森の女神ライラは、『聖騎士様たちの剣技は美しい』と言っていた。その時ハリスは否定の言葉を口にする事は無かったが、本音では首を傾げたいところだった。全ての聖騎士の剣技が美しいとは言えないからだ。  だが、ライラが武術大会で決勝まで勝ち進んだ者の剣技しか見ていない事を考えれば、その誤解は当然だろうと、今更ながらに納得がいった。  エアは動きに無駄が無く、故に隙がない。洗練された動きは、美しいと言えるだろう。  今エアに稽古をつけてもらっているルスターは、何とかエアにひと太刀浴びせようとがむしゃらに飛びかかっていく。しかしエアは素早く、最小の動きで彼の剣を避け、手首を打ち、彼の剣をはたき落とした。  ルスターはあまり多くを望まず、まずエアに剣を使ってもらう事を目指すべきだろうなと考えて、自分も人の事は言えないか、と、ハリスは自嘲ぎみに笑った。  入団した時よりも、去年よりも、一月前よりも、自分の剣の腕が上がっている自信はある。しかし、エアに敵う気はしなかった。天性の才能と言う言葉はあまり好きではないが、そうとでも思わなければ納得できないほどの差が、自分とエアの間にはあるのだ。  つい先ほどまで稽古を付けてもらっていたのはハリスだった。エアに剣を使わせる事はできたが、一太刀浴びせる事はできなかった。これ以上ないほど打ちのめされ、自慢の体力も底をつき、少し休めと言われて今に至るほどだ――自分をそこまで突き落とした人物は、平然と次の者と稽古をしているのだから、どうにも釈然としない。 「もう休め。次!」  ハリスが貰ったものと同じ言葉を、ハリスよりも短い時間で受け取ったルスターは、愕然とした様子だった。自分とエアとの間にある目に見えない壁に、ハリスのように打ちのめされているのだろう。  打ちのめされてはいたが、不思議とハリスは、その壁が憎らしいとは思っていなかった。悔しい事は事実だが、それだけだった。エアに負ける事は、少し心地良かったのだ。 「本当に、お強い……ですね。エア、隊長は」  ルスターは息を切らせながら、それでも言わずにいられないのか、同じく休憩を取っているハリスを話し相手に選んだ。  自分の事でもないのに嬉しくなり、ハリスは満面の笑みで応える。 「ああ。凄い人だな、あの人は」  本当に、凄い。ハリスは心の底からそう思っていた。  五年前の彼は、どこにでもあるような田舎の農村で、畑を耕して生きていた。  ここに居る誰もが、彼が聖騎士を目指すよりも前から聖騎士となる事を心に決めていただろう。彼よりも長い時間修行し、学び、そうしてようやくここまで来たのだろう。  だと言うのにエアは、ハリスたちよりも遥かに短い時間で、ハリスたちの上を言った。天性の才能、それも確かにあるかもしれない。だがその才能を短期間で開花させたのは、紛れもなく彼の意思の力だった。  その意思を支えたものが、ひとりの女性だと言う事を、ハリスは知っている。それは一年前から抱え、誰にも言えない秘密だった。エア本人とさえ、この件については語り合った事はない。  エアは大切な女性のために旅立つだろう。彼を慕う者たちを置いて、いつの間にか姿を消しているだろう。それはある種の裏切りかもしれないが、他の者より少しだけエアを知っているハリスは、責める気にはならなかった。  エアは危うい人物だ。それが強いとか弱いとか、良いとか悪いとかを語るつもりはない。ただ危ういと言う事実を、ハリスは知っていた。  想う女性が居てこその、エアと言う存在。彼女だけが、エアを支えている。  支える事もできない人間が、エアと言う存在を望む事が贅沢なのだろうとハリスは思う。だからこそ自分は、エアを支える人間になりたいと望んでいたのかもしれなかった。彼に消えて欲しくないと、望んでいたから。 「今日はここまでにしよう」  更に短い時間で相手を屈服させ、稽古を終わらせたエアは、部下たち全員を見回して言った。  気付けば、橙色の陽の光が斜めに差し込み、夜の訪れを予言している。もうそんな時間になっていたのかと隊員全員が自覚すると、エアは部下たちを整列させ、挨拶し、その日の訓練を終えた。 「エア隊長、明日もよろしくお願いします」 「ああ。今日の最後の突き、悪くなかったぞ」 「ありがとうございます!」 「隊長、明日こそ一太刀!」 「本当か? 期待してるぞ。明日が楽しみだ」  圧倒的な力を持つエアに対し、大抵の者は大なり小なり嫉妬心を抱いているだろうが、それより敬愛が勝っていた。部下たちは皆、何かと面倒見のいいエアを慕い、届かない者として尊敬している。  そうして気軽に口にされる明日の約束に、エアは笑顔で答える。  それはあまりに恐ろしい行為で、ハリスは今まで一度として行った事はなかった。明日を約束していたと言うのに、いざ次の日になってみたらエアの姿が見えなかった、ではあまりに悲しく、立ち上がれない気がしたのだ。  だが今日は、皆と同じようにしなければならないと言う予感があった。  隊員たちがエアに一礼し、宿舎へと戻っていく。その背中を見送るエアに、ハリスは近付いた。 「稽古、ありがとうございます」 「どうした改まって。珍しいな」 「何となくです。今日の稽古、厳しかった気がしたので」 「気のせいだろう? いつも通りだ」  ハリスは微笑んだ。だが、上手く微笑みかけられた自信はなかった。 「隊長はいつもならもう少し手加減してくれますから、あんなに追い詰められたのは初めてですよ。でも、だからこそ、成長できる気がしました」 「そうか」  エアが微笑む。その微笑みは、腹が立つほど自然だ。 「明日も、よろしくお願いします」  勇気が必要な一言だった。偽りの笑みがいっそう作りにくくなり、沈黙を挟んだ後に僅かに震えた声で言うと、エアは苦そうに細めた眼差しでハリスを見下ろした。 「お前は、本当に……」 「何ですか」 「いや。その才能、大切にしろよ」  エアはそれ以上何も言わず、ハリスをその場に置き去りにして歩き出した。  何を言わんとしているのか、ハリスは理解に至らなかった。エアがハリスのどの辺りに才能を感じたのか、けして口にしてはくれなかったからだ。  だが、理解できなかった気持ち悪さよりも、無責任な明日の約束を貰えなかった喜びの方が遥かに大きい。  秋の終わりを告げる冷たい風の中、ハリスはひとり微笑んだ。今度は、心から笑えていた。  翌日の朝、聖騎士団第十八小隊隊長エア・リーンは、聖騎士団内に大いなる混乱をもたらした。一切の痕跡を残さず、その姿を消してしまったからだ。  神殿内の空気は騒然となる。民の憧れであり、正当な理由さえあれば退団を拒む事のない聖騎士団から脱走する者など、過去にほとんど存在しなかったからだ。品行方正かつ優秀であった――装っていた、が正しいのだが――エアのような騎士に限定すれば、過去に全く存在していなかったかもしれない。  部下である十八番隊をはじめとする者たちにとりあえずの捜索命令が下されたが、ハリスは従うふりをして、神殿内に舞い戻ってきていた。ハリスはエアの行き先を知っていたが、捕まえる気など毛頭なかったのだ。  彼がなぜ旅立ったのかを、知っていたから。 「どれくらい前からかは知りませんけど、事前に今日だって決まっていたんでしょうに。それなのにさも同じような明日が続くふりをして完璧に姿を眩ませるのだから、酷い人ですよ、隊長は」  部屋の中心にひとり立ち尽くし、ハリスは呟いた。  静かで、冷たい空気。備え付けられていた寝台や机と言った最低限のもの以外、一切荷物がない。寝台に敷かれたシーツには皺ひとつなく、床には塵ひとつ落ちておらず、昨日まで人が住んでいたとは到底思えなかった。 「まるではじめから居なかったみたいですね」  そこにエアが居ない事は知っていたが、彼に語りかけるように言う。 「でも、隊長は間違いなく、ここに居た」  誰が知らなくても、自分が知っている。皆が彼に失望し、忘れるように勤めても、自分は忘れない。いつか真実を知り、彼を罪人と責める者が居ても、自分が彼の行動を否定する事はないだろう。  一年前の約束と、昨日の交わされなかった約束を胸に、ハリスは己に誓った。伝わる事のない決別の言葉を、口にしながら。 「さようなら、隊長」 2  凶暴な風が砂漠をかき乱し、赤い砂塵が視界を埋め尽くす。砂が目や口に入らないよう、風が流れ行く方向を追って見ると、自身の残した足跡がすでに消えているのが判った。  空に雲は無く、地には熱い砂以外見られない。強く照りつける太陽を遮るものは何ひとつなく、地上を歩むエアは容赦無く攻め立てられる。日の光を遮断するため、ゆったりとした外套で全身を覆っているが、刺すような痛みを抑えられるだけで、熱せられた空気から逃れる術はなかった。  エアは目を細めて太陽を見上げ、舌打ちをする。  畑仕事に従事していた頃は必要不可欠な存在であったし、王都で生活していた頃も嫌いな存在ではなかったが、今は何よりも忌々しい。空にあって地上に恵みを与える事から、エイドルードの化身と呼ばれている事実を知ってからはなおさらだ。  風が少し治まると、エアは腰につるした水袋を手に取り、ひと口だけ口に含んだ。  丹念に舌の上で転がしてから、喉を通した。ぬるいはずの水は灼熱の太陽に照らされた身には心地よい冷たさで、ゆっくりと体に浸透していく。無味無臭のはずの水が、今は何よりも美味いものに感じられた。  乾いた唇を舐めて湿らせると、地図を広げた。  大丈夫だ。おそらくはまだ、方向を見失っていない。  エアは自身にそう言い聞かせ、冷静さを保つ。  砂漠の中心にほど近いオアシスで、そこまで道案内をしてくれた砂漠の民と別れたのは半日ほど前だ。それまでもエアは、ただ彼らに着いて行ったわけではない。砂漠での歩き方、方向感覚の保ち方、水の効果的な配分法なども学んだ。学んだものを実践し、彼らと別れてから砂漠の中心にあるオアシスまで、迷う事なくひとりで辿り着けた。オアシスから目的地まで、迷わず進める最低限の力はあるはずだ。  砂嵐に負けないよう、エアは視線を巡らせる。自分が地図の示す場所に迷う事なく進めていたならば、そろそろ目的地に到着しているはずだった。  もし到着できなければ、広大な砂漠で迷ってしまったと言う事だ。つまり、よほど運が良くない限り、水を失い命を落とす道しか残されておらず、求める物を探す視線が厳しくなるは自然の事だった。  間近に迫る砂丘に怯んでいると、きらりと輝く何かに目を焼かれ、眩しさに目を細める。元々目元以外は全て覆っている格好だが、腕を翳して目元も覆う。焼き付いた残像を掃おうと硬く目を瞑り――慌てて両目を見開く。  エアはたまらず走り出していた。今の輝きは太陽から降りそそいだものではなく、光が何かに反射したものであったからだ。砂が反射させるものよりも強烈で、水か、人が持ち歩く何かの道具か、エアが求めているものどれかが先にあるとしか考えられない。いずれにせよ、エアの命を繋いてくれる可能性は高かった。  エアは気ままな風に導かれ流れていく砂を両足でしっかりと踏みしめた。  眼下に鈍くきらめくは、金属板に刻まれた聖印。  エアは無意識に笑みを浮かべていた。それこそが、エアが一番求めていたものだった。  一番近いオアシスからも随分離れているし、別の集落や都市に至る道の途中でも、獲物が取れるわけでもないため、砂漠の民すら滅多に近寄らない。そんな場所に、砂漠の神殿への入り口はあった。  すぐに合言葉を紡ごうとして、乾いた喉では上手く声が出せなかったため、エアは再度水を口に含む。先程水を飲んでからあまり間を空けていない事が多少気がかりだったが、水はまだ充分残っていたので、躊躇いはしなかった。陽の光が完全に遮られる迷宮の中ならば、砂漠を歩いていた時よりも楽であろうし、砂漠の神殿には水が豊富にあると言うから、帰りの分はそこでたっぷりと補給すればいい。 『神の寝所はただひとつ天のみに』  エアは咳払いをして喉の調子を整えてから、流麗な神聖語で紡いだ。  風が止んでいだが、砂だけが小刻みに震えていた。振動はやがて体にも伝わり、エアは砂に足を取られないよう気を付けなければならなかった。  盛り上がっていた砂が、低い場所を求めて勢いよく流れ落ちていく。砂に飲まれないよう少し距離をおいてから、舞い上がる砂煙に耐えるため、エアは顔を伏せる。  やがて、砂が滑る音や地面から伝わる振動がやんだ。  エアはゆっくり目を開く。目の前にあったはずの砂丘は消え失せ、代わりに背の高い重厚な扉がそこにあった。  合言葉だけでなく扉そのものも、森の神殿への道とまったく同じだ。もしや、と考えたエアは、素早く中に入ってから明かりを点けると扉を閉め、アシュレイから貰った迷宮の地図を取り出した。  人目に付く事を恐れ、完全に他者から切り離されるこの時まで一度も開く事のなかった地図を眺めると、言いようのない倦怠感に襲われ、エアは低い笑い声を上げていた。笑いでもしなければ、立っているのも億劫になった事だろう。 「手抜きか? エイドルード」  無意識に呟き、また笑う。  森の神殿への迷宮の地図はアシュレイ渡してしまったため、おぼろげな記憶だよりとなるが、エアが覚えている森の神殿への迷宮の道筋と、今エアが手にしている地図は、ほとんど一致していた。合言葉も同じなのだから、違うのはたったひとつ、最後の分岐のみである。  最後の分岐だけでも違っていたのはありがたかった。もし全く同じであったとしたら、人目を忍んで地図を交換した事は無駄になる。いや、エアが聖騎士となり、森の神殿へ派遣された事までもが、無駄になっていたかもしれない。  エアは深いため息を吐いてから、道を進んだ。はじめて歩く、しかし懐かしさを覚える、長い道を。 3  静かな空間に、自身の足音と油が燃える微かな音だけが響き渡る。  分岐のない真っ直ぐな通路を進んでいると、前も後もない永遠の道を進んでいる錯覚に陥る事もあった。一年前にハリスたちと共に迷宮を進んだ時も、何かしら息苦しさや重苦しさを感じたものだが、今の重圧はそれ以上だった。  理由は判っている。ひとりだからだ。ひとりきりで閉鎖された場所に居ると、忘れようとしている記憶が蘇るのだ。  夕食の支度を終え、食卓に腰掛けて父の帰りを待っていた幼少時代。その父がもう二度と帰ってこなくなった少年時代。朝から畑仕事に精を出し、くたくたの体で家に帰りついた自分が、誰に語りかけるでもなく「ただいま」と呟く苦さ。思い出すだけで胸を貫く痛みだ。  この道を抜ければその痛みを癒してくれる少女に会えるのだと思うと、自然に歩みは早くなった。  いや、もう少女とは言えまい。彼女を失った日から、五年近い時が流れているのだ。エアが変わったように、彼女も変わっているに違いない。  どんな顔をして、どんな眼差しで、どんな言葉で、迎えてくれるのだろう。強い不安と期待が入り混じり、一歩進む度に鼓動が早まった。 「次が、右から、二番目」  己に確認するために声に出し、正しい道を読み上げる。正しい道を視界に捕らえ、地図と確認し、歩き出した。  地図を見る際に目の端に映った剣の柄が、目に焼き付いて離れなかった。明かりが照らす先の闇を見つめながら、剣を振るう自身を想像してしまう。  森の神殿の少女が言っていた事が正しく、両神殿が共通しているならば、リリアナはもう気付いているはずだ。砂漠の神殿に向かう何者かが迷宮を進んでいる事に。  補給部隊は二ヶ月も前に砂漠の神殿を出ているはずであるし、事前に連絡の取りようもない。どう考えてもエアは不審人物であるから、すでに警戒態勢に入っているだろう。  剣を振るう事にならなければ良い。そう、心から願う。  善人ぶるつもりはない。リリアナを神殿から引きずり出すためならば、リリアナに仕える二十一人の女たちの命を、全て奪う事も厭わないだけの覚悟を決めている。それでも、叶うならばできるかぎり危害を加えずに事を済ませたいと思うのだ。  淡い期待は、迷いの表れかもしれなかった。そんな時にエアの脳裏にちらついたのは、今頃森の神殿に近付いているだろう、アシュレイだった。  悔しいが、あの男には迷いは無かった。それはエアがリリアナに向ける愛情が、アシュレイがライラに向ける愛情に劣っている、と言う事ではない。これが神の意思なのだと言う、傍から見れば信じられないような言い訳が、あの男の中で強く生きているからだ。  アシュレイのように受け止めれば自分も楽になれるだろう、と考える事もある。  だがエアは、エイドルードに従うくらいならば、辛い方がましに思えた。この身の全てが血に染まり、心が裂け泣き叫ぶ事になっても、神の使徒でなくただの人としてリリアナと対面したいのだ。 「次は――」  ひとりの寂しさを忘れたいのか、無意識にひとりごとが増える。道を進み、三叉路を目前にしたエアは、何度目か判らない地図の確認をする。  正しい道は真ん中。  それを確認すると同時に、エアは遠くから響く音を聞いた。  エアは右の道に歩み寄った。慎重に触れ、床や壁に罠が無いのを確かめ、ランタンを掲げて天井にも不審な点が無い事を確かめる。  その間にも、響く音は徐々に近付いて来ていた。エアは右の道に身を隠すと、明かりを遮断し、暗闇で息を潜める。  音が人間の足音だと判別がつくまで、そう時間は必要なかった。  エアの足音よりも軽い。エアよりも小柄な人物、おそらくは女性が、三、四人程度と言ったところだろう。  剣に手をかけた体勢で、エアは待った。彼女たちがエアに気付かずに通りすぎてくれる事を祈りながら。 「侵入者とは、本当でしょうか? 誰の案内もなく広大な砂漠の中から門を見つけだせる者が居るとは考えられません。それに、合言葉の件もあります。偶然言い当てる可能性など、万にひとつも無いと思います」  不安に満ちた少女の声が、暗闇の奥から届く。 「私もよ。でも、例年ならば誰かが来るような時期では無いの」 「急使か何かではありませんか? 司教様が代替わりなさったとか……」 「内容はともかく、そうである事を私も願っているわ。ともかく、万が一にも悪漢で、リリアナ様に危害を加えられたら一大事。神殿に辿り着く前に、相手が何者かを見極めましょう」 「はい」  暗闇の奥から光が近付いてくる。彼女たちが通路から出ては光が届いてしまうかも知れず、エアは音を立てないように後ずさった。  やがて光と共に、四人の少女たちが姿を現した。ひとりが地図を、ひとりが明かりを持ち、それぞれが剣や槍と言った武器を手にしている。  四人の内三人は、きょろきょろと視線をめぐらせてはいるものの、先――エアからすれば後だが――しか見ていなかった。だが、明かりを持った少女のみが、何か気にかかるのかじっくりと辺りを見回している。  少女の足音が近付き、掲げられた明かりが、エアの潜む道に入り込んだ。エアに光が届くまであと少しだった。  緊張にエアの鼓動が早まる。柄を強く握り締め、静かに息を吸う。 「それ以上奥は危険よ。罠に巻き込まれてしまうわ」  一番年かさと思われる地図を持った女性が、ランプを持った少女の腕を引いた。 「そうですね」 「先を急ぎましょう」 「はい」  道に差し込まれていたランプが、四人分の足音と共に離れていった。  エアは剣の柄にかけていた手をはずし、安堵のため息を吐く。足音が完全に聞こえなくなってから、立ち上がった。  エアが迷宮に足を踏み入れてから半分以上進んでいる。彼女たちはおそらく、入り口に行くまで引き返してこないであろうから、この迷宮を進むうちは完全に逃れたと考えて良いだろう。  あと十七人。楽観視はできないが、肉体的にも心理的にも負担が減ったのは間違いなかった。  エアは正しい道に戻り進みはじめたが、彼女たちのような集団が他にも居ないとは限らず、ランタンの光をあまり外に出さないようにした。足元と数歩先をおぼろげに確認できるようにしておけば、何とか進む事ができる。  分岐を二つ越えないうちに、再び足音が響いた。エアは先ほどと同じように、入り口付近に罠が無い事を確認してから誤った道に身を隠し、通りすぎるのを待つ事にした。  次も集団だ。先ほどよりもひとり多く、五人。先にひとつの集団が進んでいるからか、僅かに油断が見られる。さすがに正しい道は念入りに見ているが、罠のある道を覗きこむような事はせず、身を隠すのはより簡単だった。  あと十二人。この迷宮ですれ違う事で、半分近くをやり過ごした事になる。いつ見つかるか緊張を強いられる事となるが、事を構えずにすむ分楽だ。いっそ、二十一人全てが迷宮内に入ってきてくれれば良いのに、と望んでしまう。  足音が消えると、エアはまた正しい道に戻った。念のために通路を覗き、闇の向こうに小さな明かりを見つけると、息を飲んで身を強張らせた。  足音はしない。明かりが近付いてくる様子はない。つまり、何者かがそこで構えていると言う事だろう。  正しい道がひとつしかないこの迷宮では、動いていない者に近付かずに正しい道を進む事は不可能だ。  できる限り静かに進む。床に使われている石の材質上、足音を完全に消す事は不可能だが、足音を軽めに細工する事はできる。せめて顔の判別がつく距離になるまで、仲間だと誤解してもらえればありがたい。 「どなたです?」  明かりの持ち主は少女だった。今まで見た中で一番幼いかもしれない。 「侵入者は見つかりましたか?」  エアの狙い通り、引き返してきた仲間だと勘違いしてくれたようだ。道の途中に立っていた少女は、手にしていた松明をエアの方に掲げる――と同時に、エアは手荷物をその場に投げ捨て、地面を蹴っていた。  少女がひとりであった事は幸いだった。よほどのてだれでなければ何人居ても片付ける自身はあったが、複数居ればひとりを片付けている間に悲鳴を上げられる可能性が高い。女性の悲鳴は響くので、やり過ごしたばかりの集団が戻ってきてしまう可能性がある。  左手で少女の口を押さえ、右手で素早く鳩尾を突いた。少女は呻き声を上げる事もできず、その場に崩れ落ちる。  労わりに意味がない事を知りながら、エアは少女の体を抱きとめ、優しく横たわらせてやった。  床に転がり落ちた松明の火を踏み潰し、自身の荷物を拾うと、少女には見向きもせずにその場を通り過ぎる。  道を進みながら、減り続ける水を喉に流し込んだ。 4  周囲に気を配り、感覚――主に聴覚を駆使しながら道を進んだエアは、再び大扉と対面する事となった。  不幸にもなのか幸いにもなのか、気絶させた少女を最後に、迷宮内で見かけた者は居なかった。残り十一人の侍女たちは全て、神殿の敷地内で構えていると言う事だろう。  エアは深呼吸してから扉を仰いだ。 『全ての恵みは天上より授けられる』  神聖語を紡ぐと同時に、ランプの明かりを消す。  重々しく開いていく扉の隙間から、強い太陽光が差し込んできた。日差しは砂漠で浴びていたものと変わらないはずであると言うのに、不思議と柔らかく、刺すような痛みはない  エアは素早く剣を鞘から引き抜いた。自分ならば、この扉の前に武装させた侍女たちを待機させておくと考えたからだ。暗闇から明るい陽の元に出たばかりの、視力が弱ったところを狙った方が、事を有利に進められるだろう。  しかし扉が完全に開ききっても、誰かが飛び込んでくる様子はない。仲間である可能性を考慮しての事かもしれず、エアは警戒しながら扉の外に出てみたが、そこには誰ひとり居なかった。  エアは辺りを見回した。足元は砂ではなく、壁の向こうが砂漠である事を考えれば充分みずみずしいと言える土が広がっていて、植物たちがあちらこちらで成長している。身を隠す場所ならいくらもあり、何者かが身を潜めているかと疑ったが、その様子はなかった。  太い木に駆け寄って幹に身を隠し、一息つく。  少しだけ休もうと木に背中を預けたひょうしに、伸びた木々の向こうに白亜の建物が見えた。  光を浴びて眩しく輝く白に、捜し求めていた神殿が迫っている実感を得ると、体の中心からこみ上げてくる感情で息が詰まった。 「名を」  深い年輪が刻まれた声がエアの耳に届いたのは、木の幹から背を放した直後だった。  近付かれている事に気付かないとは迂闊だった。足場が土では、石畳であった迷宮より足音に気付きにくいのは確かだが、だからと言って接近を許すとは油断以外の何者でもない。  エアは静かに振り返る。声と同じように、年月の重みを身に刻みつけた老女が、毅然とした態度を持って立っていた。  相手が女性と言うだけでやり辛いと言うのに、年配者となれば余計で、エアは眉を顰めた。  老女の他には誰も居ない。老女までの距離は、駆けて十歩未満。素早く駆け寄って、意識を奪うが得策だろう。 「青年。名を、教えてはいただけませんか」  拳を握り締めたところで、エアは違和感を覚えた。  老女の周りには誰も居ない。誰かが隠れている気配もしない。名を尋ねてくると言う事は、エアが侵入者である事を察しているのだろう。  だと言うのに老女は、仲間を呼ぶ様子も、エアを糾弾する様子も見せないのだ。ただ純粋に名を知りたいと言った様子だった。  もちろん、そう油断させた上でエアを捕らえる作戦なのかもしれないし、容姿で油断させておいて何らかの力でエアを諌める自信があるのかもしれない。全面的に信用できるほどエアはお人好しではなかった。 「なぜ、名を聞く?」 「わたくしが存じ上げる名であればと、期待しておりますゆえに」  遠くからまっすぐにエアを見上げ、老女は言った。 「残念だが、俺は名が知れているような人間ではない。こんな辺境の奥地となれば、なおさらだ」 「……貴方がご高名な方と期待しての事ではありませんが」 「ならば、なぜ――」  駆ける複数の足音が、エアの声を遮った。  エアは反射的に木の幹に身を隠す。すでに老女に居場所が知れているのだから、隠れる事に何の意味もないのだと気付いたのは、隠れたすぐ後だった。 「メレディア様!」  中年の女性が呼んだ名の持ち主が老女である事はすぐに理解した。  メレディアは悠然とした態度で振り返り、落ち着いた視線を中年の女性に向ける。 「騒がしい事。どういたしました」 「先ほどリリアナ様が、ふたつめの扉が開いたとおっしゃりました。何者かがここを通られませんでしたか?」  エアは自身の心臓が跳ねる音を聞いた。  ちらりと向こうを覗き見る。老女以外には中年の女性がふたり、エアと同年代の女性がふたり。  最初の老女と合わせれば五人だが、若いふたり以外は武器も持っていない。飛び出すと当時に手前の女から槍を奪い取り、それで隣の女を叩く――脳内で取るべき行動を想像してから動こうとしたエアは、予想外の言葉を聞いた。 「わたくしが扉の前に居た事に驚いて、迷宮の中に戻って行きましたよ」 「まあ。では、本当に不審者だったのですね? 王都からの使いの者ではなく」 「ええ。今追えば先んじた者たちとで挟み撃ちにできるかもしれません」 「判りました。行きますよ、皆さん!」  先頭に立つ中年の女性の声に残りの三名が応え、四人は老女を残して扉へと向かって行った。彼女たちが合言葉を唱え、扉を潜ると、その場にはエアと老女だけが残される。  エアは木の影から姿を現すと、メレディアを睨むように見つめた。  老女はエアの視線に臆する事をしなかった。長い年月を生きた者だけが持つ、穏やかで柔らかな芯の強さでエアの眼差しを受け止め、小さく微笑むのみだった。 「名を、教えていただけますね」  静かな声はそれでいて抗えない力を持ち、エアを捕らえた。 「エア。エア・リーンだ」  偽名を名乗れば良かったのかもしれないが、エアは本名を名乗っていた。それが、エアを庇ってくれた老女に対する、せめてもの誠意に思えたからだった。  老女は浮かべる微笑みに深みを増した。エアに対する警戒心を薄れさせたように見え――同時に、乾いた瞳がうっすらと潤んだようにも見えた。 「お待ちしておりました」 「……誰を」 「貴方です。エア・リーン殿」  なぜ、と問いかける前に、メレディアはエアに背を向けていた。他の侍女たちと変わらない、加齢による衰えを感じさせない美しい姿勢で、ゆっくりと歩き出す。  エアは今一度辺りを警戒してから、なるべく人目に付かないよう木の陰に隠れながら、メレディアの後を追った。  土の表面に浮かぶ砂や落ち葉が、乾いた風に舞った。少し離れたメレディアを見失いそうになり、エアは足を速める。 「俺が何をしに来たか、知っているのか」  エアは老女に尋ねた。低く、静かに。 「司教様や聖騎士団長様、国王様やどこぞの領主様のお使いでいらっしゃったわけではありませんね。貴方は、貴方自身の意思にのみ従い、ここまで来られた」 「判っていて、なぜ」 「わたくしは貴方を待っておりました。もう、四十年になるでしょうか」 「四十年では、まだ俺が生まれる前だ」 「待っておりましたよ。貴方のような方を、ずっと」  それきりメレディアは、神殿を目の前にするまで、ただの一言も口にしようとはしなかった。  エア自身、老女の背中が語る途方もない悲哀に、問いかけを投げかける気力が湧いてこなかった。彼女が自分にとって敵か味方を冷静に判断する必要があるだろうに、それもできなかった。  おそらくエアは、頭で理解するよりも早く、心で知ったのだ。この老女が、エアの味方である事を。 「少し、ここでお待ちください」  神殿が目の前まで近付くと、木々に身を隠したエアに振り返り、メレディアは言った。 「リリアナ様をお守りする侍女が数名、神殿内に残っております。わたくしは彼女たちをリリアナ様から引き離しますので」  エアは表情を変えなかったが、手のひらが触れていた木に、動揺が伝わった。幹が僅かに揺れ、振動は枝先に伝わり、葉を揺らす。  擦れ合う葉を見上げて、メレディアは微笑んだ。 「敷地内の警戒にあたっている者もおりますから、中には三名しかおりません。三名程度ならば、少し腕に覚えのある方ならばものともしないのでしょう。ですがわたくしは、何も知らない娘たちの身を、できる限り傷付けたくないのです」 「それは俺も同じだが……」 「そうですか。ならば良かった。逸る気持ちもあるでしょうが、抑えていただけますね?」  エアが肯くと、返すように老女も肯き、エアをその場に置き去りにして神殿の中へと姿を消していく。  閉じられた扉は重く、暗く、待ち人であるエアに冷たかった。  やはり罠なのではないか、あるいは二度と扉は開かないのではないかと、不安に駆り立てられたエアは、自身の膝に爪を立て、緩慢な時の流れに対する苛立ちを解消する。僅かな痛みは、乱れる一方の思考を落ち着かせてくれた。  エアは静かに深呼吸を繰り返す。木に体重をかけ、目を伏せ、来るべき時を待った。  そうしているうちに扉が開いた。見覚えのない顔の女性たちが三名、武器を手にして神殿を飛び出していく。エアには見向きもせず、迷宮の入り口へ向けて一目散に走り去っていった。  三人が飛び出してから少々間をあけ、メレディアが扉から顔を覗かせる。真っ直ぐにエアを見つめるその視線が、「来い」と言っていた。  エアは、辺りに人気がない事を確認してから木の陰を飛び出し、神殿の入り口へと駆け寄った。 「……涼しいな」  神殿の中は、熱を帯びた体を心地よく冷やし、扉一枚向こうで燦々と輝く太陽の明かりを忘れさせてくれた。おそらく、ずっと生活をするには快適な温度なのだろう。外と違って程よい湿気を帯びた空気が、肌を優しく撫でてくれる。 「リリアナ様は一番奥の部屋におられます」  メレディアは簡潔にそれだけを言って、閉じた扉の前に直立したまま動かなかった。見張りの役目を請け負うつもりなのかもしれない。 「貴女も、狂っているのか?」  エアの脳裏を巡った問いの中から選ばれ、口をついたのは、最も礼儀を欠いたものだった。声になって響いた瞬間、口にしたエアの方が驚いてしまったほどだ。  だがメレディアは機嫌を損ねた様子を見せる事なく、微笑みを浮かべたままで肯いた。 「ええ。きっと、そうなのでしょう。わたくしが女神様にお仕えするようになって五十年近くの時が過ぎております。その間、何度女神様の代替わりを見た事か」  穏やかで優しく温かな、それでいて内に闇が溢れるその微笑みに、エアは懐かしさを覚えた。なぜだろうと少し考えて、アシュレイの浮かべていた笑みとよく似ている事に気が付いた。 「任期を過ぎた女神がどうなるかご存じないでしょう?」 「死を迎える事は知っている」 「なぜ命を落とされるかは?」  沈黙で知らない事を伝えると、メレディアは続けた。 「女神のお役目は、尊き祈りによって天上の神のお力を地上に届けるだけではありません。女神は天上の神の妻。その胎内に、神の子を宿すのです」  エアは目を細めてメレディアを凝視した。 「けれど人でしかない母体は、エイドルードの力を受け継いだ子に耐え切れず、臨月を待たずしてその身を醜き肉塊へと変えます。そして充分に育つ事なく母体を失った子は、母の後を追うのです」  メレディアは一呼吸挟んでから続けた。 「五年に一度、無残に果てた母子の遺体を始末する事も、わたくしたちの仕事のひとつなのですよ」 「ふざけるな!」  耐え切れず、エアは叫んでいた。老女の背中の向こうにある扉に、拳を叩き付けながら。 「そんな事……神ならば、人に何をしても良いと言うのか!」  腹の底から湧きあがり、全身を震えさせる怒りの矛先は、エイドルード以外にありえなかった。しかしエイドルードはここにはおらず、乱暴な言葉は、鋭い視線は、メレディアへと降りかかる。 「エイドルードは御子を欲しております。それは、この大陸の生きる我らのためであると。けれど、けれど――何も知らない女性たちを騙す事から逃れ、あの惨い屍から目を背けられるのならば、わたくしは……!」  堪えきれなくなったのか、メレディアは空ろな瞳から静かに感情を溢れさせた。深く皺が刻まれた頬を伝った涙が輪郭をなぞり、雫が床に落ちる頃、老女は力無く崩れ落ち、その場に膝を着いた。泣き崩れていると言うにはあまりに静かすぎ、声や嗚咽を上げるほどの気力が残って居ないのだろうと、エアは直感で理解した。  哀れだと、哀れな老女だと、エアは思った。  無残な未来を知っていながら歴代の女神たちを見捨て続けた彼女に、憎悪や憤怒を叩き付けても良かったのかもしれない。エアのような存在を待ち続けていたと言う事は、今回もエアが来なければ、リリアナとその子供の遺体を片付ける心づもりでいたのだろうから。  だが責められなかった。零れ落ちる涙が、神への反逆である事を知りながらエアを導く行動が、彼女もエイドルードの犠牲者である事を伝えてきたからだ。彼女も若き日は心から神に祈り、女神に仕える役職に憧れと誇りを抱いて、ここに来たに違いない。  エアは力強く拳を握り締めると、走り出した。  メレディアに礼を言う事も、詫びる事もしない。それらは、自ら罪に穢れる勇気がない老女の代わりに、彼女の望みを叶える事で充分だと知っていた。 「リリアナ……」  リリアナ。  リリアナ、リリアナ、リリアナ。  声に出して一度、心の中で何度も、砂漠の女神と呼ばれる女性の名を呼んだ。五年間、何よりも誰よりも求めた、大切な者の名を。 終章 女神リリアナ  城に匹敵する大きさである神殿の最奥に位置する部屋の扉は大きく、体を鍛えている男とは言えひとりで開くには重いはずだった。  しかし不思議と、羽根のように軽く感じた。  おそらく気分の問題なのだろう。いつもならば蝶番が立てる鈍い音は不快に感じる事が多いと言うのに、今は、心地よい音楽に聞こえたのだから。  押し開けた扉の向こうは、鮮やかな色彩に溢れる広い部屋だった。四方の壁と天井には壁画が広がっており、常若の緑広がる大地と、眩い青い空と、輝かしい太陽を伴う天上の神エイドルードが描かれている。  魔獣を地中深くに封印し、大陸に恵みをもたらした神を称える絵だ。絵心がないエアにも、今にも迫り来るようでいて、果てしない広大さを伝えてくる。よほど高名な画家によって描かれたのだろう。  部屋の奥には祭壇があった。祭壇の中心には、短くなった蝋燭に火が灯された銀の燭台が置かれている。エイドルードの居る空を象徴する水色の宝石や、この神殿がある砂漠を象徴する黄色い宝石がはめ込まれた、豪勢なものだ。  そして祭壇の前には、両膝を着いて熱心に祈る女性がひとり。  エアにとって呪わしい光景であるはずのそれは、美しい光景でもあった。祈りを捧げる女性も合わせて、一枚の絵であるかのように。  本能的にその美を破壊する事に戸惑ったエアは、部屋の中に入る事も、部屋の主に声をかける事もできずに、無言で立ち尽くしていた。 「メレディア、どうでした? 侵入者は捕まりましたか?」  発する声は、五年の歳月が僅かな深みをもたらしていたものの、エアの記憶に残る声とほぼ変わらなかった。  懐かしさに感動がこみあげる。あらゆる感情が混じり合っていたが、一番は間違いなく歓喜だった。 「メレディア……?」  女性は――砂漠の女神リリアナは、ゆっくりと立ち上がってから振り返る。そして両の瞳にエアを映すと、身を強張らせた。  呼吸すら忘れたかのように微動だにせず、真っ直ぐにエアを見上げてくる。まるで彼女の周りだけ時間が止まったかのように。 「リリアナ」  エアは全ての想いを込めて名を呼んだ。五年間、そばに居ない事を知りながら、何度も何度も呼び続けた名を。  呼ばれた事に驚いて瞬きをした女性は、エアの思い出の中に居る少女時代のリリアナと、少し違っていた。  五年もの間、祈り続けると言う役割を果たしてきたため、神の使徒らしい神々しさが内から滲み出ているせいかもしれない。五年の歳月が、彼女に大人の雰囲気をもたらしたのもあるだろう。  だがそれよりもエアの目に付いたのは、砂漠の神殿で暮らしながらも白く透き通った肌や、あかぎれやひびわれを知らないすべらかな手などだった。  上質な香油で丁寧に手入れされているだろう髪が、つややかに肩から滑り落ちていく。ささやかに光沢のある絹の服や、額・首・腕・指先に飾られた宝石たちが、蝋燭の灯りを照り返す。  高貴な人間のみに与えられるそれらは、エアと彼女の住む世界が違うのだと見せ付けてくるようだった。 「……エア?」  逃げ帰りたい衝動を掃うリリアナの呼び声。  その唇に、その声に。名を紡いでもらう事にどれほど飢えていたかを自覚する。  誘われるように、エアは一歩を踏み出した。 「本当に、エアなの? どうして」 「リリアナ」 「――エア!」  軽い足音が床を蹴った。  神のために祈る事を義務付けられた女は、神に振り返る事もなく、一目散にエアに駆け寄ってくる。涙を頬に伝わせ、しかしそれは悲しみによるものではない事を表情で伝えながら、エアの胸に飛び込んできた。  触れる温もりが、鼻先に触れる甘い香りが、エアの中で燻っていた不安や迷いを霧散させていく。  リリアナも、エアを求めてくれていたのだ。エイドルードの妻として与えられた誇りや贅沢は、彼女の感情を揺らがせる事はできなかった。神に祈り、そうして役目を果たしながら、彼女の心は今日までエアを呼び続けてくれた。  これほど喜ばしい事は、他にない。  エアはリリアナの頬に触れた。優しい手つきで彼女の涙を拭ってやるが、後から後から溢れ出るものを拭いきる事はできない。小さく息を吐くと、リリアナの背に手を回して強く抱き締めた。  リリアナは嗚咽を堪えようとはしなかった。エアにしがみつき、肩を震わせながら、子供のように泣きじゃくるだけだ。 「忘れられていると思っていたのに」 「忘れようと思った事もある。忘れた方がいいのかと迷った事も」  けれど忘れられなかった。忘れられなかったのだ。  自分自身が誇らしかった。迷っても、多くの者を切り捨てても、傷付けても、彼女を忘れ去らずに良かったと。  ここに来て良かったのだと、今ならば心から思える。 「帰りたかったわ。ずっと、帰りたかった。ここは寂しいの。冷たくて、静かで――私はまるで囚人のようだった。私を妻に選びながら、エイドルードは一度として声を聞かせてくれなかった。私、どれほど貴方に会いたかったか。すべて夢なら良かったって毎日思っていたわ。目が覚めたら、花嫁衣裳の続きを縫うの。あとは最後の仕上げだけだったのよ。そして貴方の奥さんになって……やだ、もう。何を言っているか、判らない」 「何でもいい。声が聞きたい」 「ずるいわ。私だって」 「俺は、後でゆっくり話す。色々あったんだ。ここに来るまで」  リリアナは疑問を色濃く浮かべた瞳でエアを見つめた。 「後でって、いつ?」 「いつでも」 「そのうち皆戻ってきてしまう。そうしたら、貴方は……」 「リリアナ」  エアは一呼吸吐いてから続けた。 「俺はお前に会いに来たんじゃない。迎えに来たんだ」  リリアナの瞳の中にあった疑問はそのままに、不安や恐怖と言った感情が瞬時に混じりあった。疑いの眼差しでエアを見つめていたかと思うと、逃れるように目を反らす。  恐れるのも迷うのも当然だった。エアとて、ここに辿り着くまでに何度も迷ったのだから。寂しい、帰りたいと強く思いながらも、五年近く役目を果たし続けたリリアナが、あっさりと女神の役目を放棄できるはずがない。迷わず放棄できるような人間ならば、はじめから女神になどならなかっただろう。  それでも、いや、だからこそ、選んで欲しい。エイドルードではなくエアを。国の平穏ではなく、自分自身の望みを。 「大丈夫だから。もう、お前が全てを背負う必要はないんだ」  エアは想いを込め、抱き締める腕に力を込める。そうする事で、甘い香りに逸る鼓動をリリアナに伝えた。  リリアナの混迷の深さを示す、長い長い沈黙。  酷な事を強いている自覚はある。だからこそ急かしも説得もせず、エアは愛しい娘の選択を待ち続けた。 「エア」  リリアナはエアの頬に手を添え、エアの視線をリリアナに導く。  潤んだ瞳が見せるひたむきな眼差しに惹かれ、エアはリリアナの可憐な唇にゆっくりとくちづけを落とした。  ただ触れ合うよりも深い熱が溶け合い、願いと祈りが熱と共に混じりあう。  離れると同時に、リリアナの手が優しくエアの頬を撫でた。涙を拭うような手つきで――いや、拭うような、ではない。彼女は真実、エアの両目から零れた感情を、優しく受け止めてくれたのだ。 「連れて行って。私を」  待ち望んでいた答えは、愛くるしい笑顔と共にあった。  リリアナの瞳を覗き込むと、強い望みによって迷いを奥底に隠した、新たな決意の色が見える。その色は視線を通してエアに伝染し、勇気を奮い立たせてくれた。  エアは優しくリリアナの手を取り、その甲にくちづけをしてから微笑みかけた。 「共に、生きよう」 「もう二度と貴方から離れない。たとえ、神の命令だろうとも」  ふたりは強く誓い合う。五年前、結ばれるはずだったふたりを引き裂いた、天上の神の御前で。 「行こう――」  繋いだ手をそのままに、エアはゆっくりと歩き出す。  重い足音に、軽い足音が重なった。