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空に歌う


 ぱきり、と音がして、私はどきりとする。
 どこからか獣でも現れたのかと思って、周りを見回してみた。けれど、何も居なかった。
 見下ろせば、私が履く靴の下で枯れ枝が折れていて、なんだ、私が出した音だったんだ、って、少し安心する。
 私は胸を撫で下ろして、歩きはじめた。
 歩きながらときどき空を仰ぐと、細い枝を伸ばす木々の向こうで、真っ黒な雲に覆われた暗い空が見える。
 遠くからゴロゴロと音がする。いつ雷が落ちるか解らない。雨だっていつ降りだすか解らない。
 ただひとつだけ解るのは、このままでは、太陽が顔を見せる日などけして来ないだろうって事。
 この山に足を踏み入れてから――ううん、山に限らず、この地方の土は常にぬかるんでいて、歩いているといつ転んで怪我をしてしまうか判らなくて、歩き続ける事は少し怖かった。
 けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
 私は行かなければならない。
 もしかしたらあの人は、この上で待っているかもしれない。喪失の痛みを忘れられる日を、待ち続けているのかもしれない。



 永遠に、共に歌おう。
 春に輝く芽吹いたばかりの新緑を、夏に輝く遠い遠い海の蒼を、秋に輝く麦の黄金色を、冬に輝く雪の純白を。
 時に青く、時に白く、時に暗く泣き喚く、優しい空の下で。

 あの方は、そう言ってくれた。その言葉が、わたしはとても嬉しかった。
 あの方とわたしは根本的な所から違っていて、あの方が語る永遠は本当に永遠で、だからわたしは、あの方と永遠に共にある事なんてできないと解っていたのだけれど、それでも嬉しかった。
 あの方はとても綺麗な人だった。長い髪は真っ青で、ふんわりと踊ると空に解けてしまうから、いつも突然現れてびっくりしてしまう。ううん、本当は、あの方がわたしに会うためだけに来てくださる事こそが奇跡で、びっくりするべき事なのだけど。
 今日も来てくれたのですね。
 わたしが声にならない声を風に溶かして届けると、あの方はにっこり笑って、わたしを抱きしめて、優しいキスをくれた。
 照れ臭そうに微笑みながら、あの方は、歌声を空気に響かせた。
 聴いていると気持ちよくて、私も微笑んでしまった。体だって、自然と揺れてしまう。体の自由が利くならば、踊りだしてしまいたいくらいだけれど、それは叶わない事だから、わたしは音にならない歌声をあの方の声に重ねた。
 澄んだ声が広がって行くと、雲が流されて消えていく。痛いくらいに大地を照りつける太陽が姿を見せて、眩しいほどの晴天の元、わたしたちは見つめあい、笑いあった。

 美しくて、優しくて、素晴らしい日々の終わりは、思いの他はやく訪れた。
 その日もわたしはあの方が訪れるのを待ちわびながら、山の頂上で待っていたのだけれど、現れたのはあの方ではなくて、ふもとの村に住む男たち。みんな険しい顔をしていて、恨みや憎しみを込めた目を、わたしに向けていた。
「俺らを恨むなよ」
 そう言ったのは斧を担いだ男の人。
「悪いのはお前だ」
 そう言ったのは一番年老いた、白いひげのお爺さん。
 わたしはずっと山に居て、ふもとの村やそこの村人を見た事もなかったから、何か悪い事をした覚えなんてなくて、はじめはただ戸惑う事しかできなかった。
 けれど、彼らの言葉を聞くうちに、少しずつ解ってきた。
 あの方が、わたしと共に歌ってばかりいるから。
 あの方が、楽しそうに笑ってばかりいるから。
 だから、この人たちは困ってしまったのだわ。生きていく事も難しくなるほどに。
「消えてくれ」
 何人かの男の人が、斧を振り上げた。
 怖いけれど、痛いのだろうと思ったけれど、わたしには抗う事なんてできなかった。
 ううん、たぶん、できたとしても、しなかったと思う。

 ごめんなさい。わたしだけが、あなたのそばにいられたのに。
 空気に溶ける声を持っていない事だけが幸いだわ。斧をこの身に受けた時の悲鳴を、あなたに届けずにすんだのだから。

 山の頂上で力無く横たわり、間もなく訪れる終焉を待つ中で、わたしは聞いた気がした。
 綺麗な泣き声。
 怒りが呼んだ鋭い雷鳴。
 そして、大地を抉るほどに強くふりそそぐ雨の音。



 山に入ってから、どれだけの時間が過ぎたか解らない。
 長雨と晴れる事の無い空によって弱った木々をすり抜けると、その先にはもう上がなくて、ようやく頂上にたどりついたんだと私は知った。
 あちこちに水たまりができている土に足を取られないよう気をつけながら、ゆっくりと歩みを進めて、探していたものを見つけると、心臓がかってにドクンと高鳴る。
 かつて山の頂上に立っていた、ふもとの村人に「神様の宿り木」と呼ばれていた木がそこにあった。今はもう立ってはいなくて、ぬかるんだ大地に横たわり、腐りかけた様子は、生々しくて、痛々しい。
 だけど私は目を反らさなかった。その腐りかけた大木に、寄り添うようにして眠る、青い男の人の姿が見えたから。
 私は彼のそばに近付いて、彼を見下ろした。
 小さな頃から繰り返し見続けていた夢に出てくる「あの方」と、そっくり同じ綺麗な顔。広がる青い髪は、この地域ではけして見る事のできない、晴天の空を思わせる。
 やっぱり、そうなんだ。
 あの夢に、意味はあったんだ。ただの夢では、なかったんだ。
「君は、誰? どこの人間?」
 綺麗な声が私に問いかけた。空色の長い睫が揺れて、やはり空色をした瞳が私を見つめる。氷のように冷たい眼差しは、まるで私を責めているよう。
 黒い雲が渦巻きはじめて、遠くで雷鳴が響いた。ああ、なんだ。話に聞いていたよりも空がおとなしかったのは、この人の心の傷が癒えたからじゃなくて、単に寝ていたからなんだ。
「今はもう、このあたりに人は住んでいないはずだ。太陽なくして、人は生きていけないのだから」
 私は無言で頷いてから、言った。
「母がよく語っていました。母の故郷は昔、とても住みやすい、美しいところだったと。けれど私が生まれるよりも前、数ヶ月も雨が降らない日々が続いて、大地は乾き、池は干からび、川の流れは力を失い、飲み水さえままならなくなったと」
 空の色の瞳は、黒い空を見上げて、私から目を反らした。
「ようやく雨が降るようになったと思えば、今度は降り止まなくなった。空は真っ黒な雲にもくもくと覆われて、冷たい雨がふり続け、夏に向けて育つはずの野菜の芽はくさり、川の水は溢れた。村近くの山は何度も土砂くずれを起こして形が変わり、飲み込まれて何人が死んだか解らなかった。仕方なく私の両親は移住を決めて――私は、母の故郷を、母に返してあげたくて、ここに来たんで……」
「僕のせいじゃない」
 震える声が、力強く語る。
「お前たちのせいだ。お前たちが、僕から、彼女を奪ったんだ」
 土に汚れていても、とても綺麗な白い手が、空色の目を覆った。肩が小さく揺れはじめると、空からぽつぽつと滴が落ちてくる。
 まるで泣いているよう。
 いいえ、まるで、なんかじゃない。本当に泣いている。いつまでも、いつまでも、悲しみに泣き暮れるのだ。
「人間たちが、彼女を殺したからだ」
 綺麗な声が、強い呪いの言葉を吐き捨てる。
 その声が生み出す悲しい言葉を、これ以上聞きたくなかった。その声が産み出すべきなのは、優しくて美しい歌なのだから。
 どう伝えれば、解ってくれるのだろう。
 どう伝えれば、信じてくれるのだろう。
 解らなくなって、私は、何も語れなくなっていた。
 だけど、大丈夫。夢の中の私は、声なんて出せなかったけれど、体も自由に動かせなかったけれど、想いを伝える事ができたのだから。
 青い髪に、私はそっと手を伸ばした。夢の中の私がしていたように、綺麗な青い髪をぎこちなく撫でた。
 すると白い手がどいて、驚いて丸くなった涙に濡れる青い目が、私を見つめた。
「君は……」
 私は歌いはじめた。
 夢の中の私にはできなかったけれど、今の私にはできる。はっきりと声に出して、歌を歌った。春に輝く芽吹いたばかりの新緑を、夏に輝く遠い遠い海の蒼を、秋に輝く麦の黄金色を、冬に輝く雪の純白を、優しいメロディーに乗せて、風に溶かした。
 いつしか、私のつたない歌に、綺麗な声が重なった。
 目を伏せると、夢の中の私が知らなかった光景が、イメージとなって頭の中に浮かびあがる。朝露できらめく緑の葉。打ち寄せる波の潮の香り。夕日が沈む麦畑。空気まで凍る汚れなき雪。ああ、どれも、何もかもが美しい。貴方はいつも空から、こんなにも美しいものを見ていたのね――
 私は目を開けた。雨はいつの間にか止んでいて、黒い雲は割れていき、雷鳴は聞こえなくなっていた。
「ごめんなさい、私の神様」
 私の両目から、涙が溢れ出した。
 ああ。今なら私は、この方と同じように、泣く事ができるんだ。
「ずっと一緒に歌おうと約束したのに、あなたが私を歌わせてくれたのに、私はあなたにさみしい想いをさせてしまいました」
「いいんだ。辛かったのは、君の方だ」
「人を許してあげてください。以前の私もなんとなく気付いていたけれど、今の私なら、もっとよく解ります。私のせいで、彼らは命の源を失いかけて、とても辛かったのですから。私は……」
「いいんだよ」
 首を振ると同時に、神様の青い髪が風に踊る。
 ああ、やっぱり、とても綺麗。
「僕はずっとここで待っていた。君の残骸に寄り添って、救われる日を待ち続けていた。だけど、もっと嬉しいものが来てくれた。だからもう、いいんだ」
 私は微笑みながら、かつての私に手を伸ばす。
 すると神様は、私の手に自分の手を重ねてから、私を抱き締めて、そっとキスをくれた。永遠を誓った、あの日のように。
 ああ。
 帰ってきて良かったんだ。
 故郷を失って嘆く母のためにも。
 悲しみ続ける神様のためにも。
 私に記憶を見せ続けた、かつての「わたし」のためにも。
 神様の腕の中で、空からふりそそぐ温かな光を肌で感じながら、私は笑っていた。神様の笑い声と混ざり合って、やがて歌に昇華された声は、空いっぱいに響き渡った。

 歌いましょう、ずっと。時に笑い、時に涙しながら、ずっと一緒に歌いましょう。
 春に輝く芽吹いたばかりの新緑を、夏に輝く遠い遠い海の蒼を、秋に輝く麦の黄金色を、冬に輝く雪の純白を。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.