幸せの鐘が鳴る場所へ
先にある交差点の信号が赤く変わった。
それをみたぼくが軽くブレーキを握ると、きゅるきゅるきゅるっとこすれる音を立てながら、自転車は少しずつ速度を落としていく。止まったのは、ぴったり信号の手前。地面に足をつけながら、ちょっと得意な気分になる。
信号が青に変わるのを待っていたぼくは、「静かだな」と思った。どうもこの交差点、車も人もめったに通らないみたいだ。
なら信号無視していっちゃおうかな、と考えた。右足をペダルにかけるところまでやった。でもやっぱりやめたのは、信号のわきにある小さな石の像の前に、これまたやっぱり小さな花束がおいてあったからだ。
いつだかわからないけど、ここで誰かが事故死したんだんだろう。それがわかって、「事故なんて起こるわけない」なんて油断せず、交通ルールを守らなきゃ、って思いが少し強まったんだ。
ぼくは再び地面に足をつける。ついでに両手を合わせて、亡くなった人のために祈ってみた。
「ねぇ、そこのキミ」
女の子の声がして、僕は顔をあげた。
像のわきに、女の子が立っていた。ぼくよりいくつか年上だろうか。とりあえず、高校は卒業しているんじゃないかなってくらいの年にみえる。明るい茶色のゆるいパーマがかかったショートボブで、水色のキャミワンピを着てた。手には小さな花束を持ってる。さっきまで像の前に置いてあったやつ。
まだ春になったばかりって時期だったから、そんなかっこで肩とか寒くないのかなって思ったのが最初だ。次に、いつ、どこから彼女が現れたんだろうって思った。ついさっきまで、人通りなんてまったくなかったからね。あと、その花束、勝手に拾うのはばちあたりじゃないのかな?
――ってとこまで考えて、ぼくはちょっといやなことに思いあたって、女の子から目を反らした。
はやく信号青にならないかな。
「ちょうどいいとこに通りかかってくれたわ。ちょっと乗せてってくれない?」
「ヒッチハイクなら車のほうがいいんじゃないかな」
「そうしたいんだけど、車、ぜんぜん止まってくれないんだもん」
「あ、やっぱり」
「うん、やっぱり。だからさ、悪いけど、つれてってくれない?」
ぼくが返事をするまえに、女の子はひょいっ、と、ぼくの自転車の荷台に座った。
たしかにそこに座っているのに、重みはまったく感じなかった。
「そこ座ると、おしり痛いでしょう。やめたほうがいいよ」
「アタシが痛みを感じるわけないじゃん、もう、わかってるくせに〜」
「……わかってるから、のせたくないんだけど」
「そこをなんとか、頼むよ」
女の子は身を乗り出して、ぼくの顔をのぞきこんで、かわいくおねだりするふうに、両手を合わせた。
いや実際かわいいんだけども、相手が相手だけに、そんなんでごまかされないぞ、ぼくは。
「アタシ、地縛霊だからさ、誰かにとりつかないとここから離れられないんだよ」
ぼくは盛大にタメ息をつく。
「とりつかれたくないっていうぼくの意志は無視ですか」
あ、信号が青に変わった。
だけどぼくは彼女を乗せたまま走り出す気になれなくて、まだペダルをふみこまなかった。
「人の意志を尊重してとりついた幽霊なんて、アタシ、聞いたことないけど」
うん、そうだね、ぼくもないや。
はははは……はぁ。
ぼくは小さい頃から霊が見える体質で、ついでに霊にからまれやすい体質で、そのせいでひどいめにあったことは、数えきれないくらいある。
ま、それは昔のことだから、いいんだ。問題は、現在進行形でとおりすがりの霊にとりつかれていることだ。
ちょっと強引なだけで、悪霊のたぐいではないようだけど……そう見せかけて実はってことも昔あったから、油断ならない。
「そこ、右」
「はいはい」
「で、信号ふたつこえたら、また右ね」
「どこまで行くんだよ」
かれこれ一時間くらい自転車をこぎ続けて、いいかげん疲れてきた。だからぼくは愚痴っぽく、幽霊さんにきいてみる。
「地獄まで」
幽霊さんはにやりと笑った。
「とか言って、口が裂けたり、髪がうね〜っと伸びたりしたら、怖いだろうねぇ」
うん、ぼくがね。
「だいじょぶ。変なところじゃないから。いいところだよ」
「幽霊がいう『いいところ』って、地獄っぽいイメージあるぞ」
「あはは、ほんとだ。怖いねぇ」
うん、ぼくがね。
「でもほんとにだいじょぶ。地獄から遠いところ。どっちかっていうと、天国に近いんじゃないかな」
幽霊さんは荷台の上に立って、目を細めて遠くをみつめる。
生身のおんなのこだったらバランスとるの大変だと思うけど、そのあたりはさすが幽霊と言うべきなの、かな?
「しあわせの鐘がなるところに行きたいの」
信号ふたつすぎて、もういちど右に曲がったころ、幽霊さんはようやく答えてくれた。
けどその答えははっきりしてなくて、結局ぼくは答えがわからないまま、ペダルをこぎ続けた。
ぼくは急な坂をのぼっていた。地元の人間に地獄の坂と呼ばれている、長くてきついやつだ。
「この坂のぼったら最後だから、がんばれ!」
自分でこがないからって、幽霊さんは勝手な事を言う。
できれば一生ひきこもっていたいインドア派のぼくとしては、ここまできただけでも辛いのに、最後になんて運動させるんだ。泣くぞ。
「はい、もうちょっと!」
「お、う!」
「よし、あとひとこぎ!」
「おう!」
最後のほうは、ほんと、辛かった。途中でおりて、歩いたほうが楽だったんじゃないかって、のぼり終えたあとに気付いたときは、別の意味で泣きそうになったぞ。
ぜぇぜぇいってる息を整えながら、ぼくはあたりを見回す。
この坂をのぼったら最後だって、幽霊さんはいった。だから、このあたりにある鐘が、幽霊さんの目的地のはずだ。
ここまで労働させられたぶんだけ、気になった。くだらないところだったらはったおしてやるぞてめー、とか正直思ってるから。
「あ」
鐘が、あった。
長く続く柵があって、その向こうに、スーツとかカラフルなドレスとかきてる人たちがうようよいて、さらにその向こうに、白いスーツと白いドレスの男女が立っていて、ふたりはちょっとてれくさそうに、キラキラした綺麗な色のリボンに手をかけていて、そのリボンが、鐘につながってた。
たぶんっていうかまちがいなく、結婚式だ。そう言えば、坂の上の結婚式場がどうとかって、誰かが言ってたっけ。興味も縁もないから、てきとうに聞き流していたけど。
うきあし立ってる集団の中でひとりだけ落ち着いた感じの女の人(多分、式場の人だろう)が、新郎新婦に合図をする。と、ふたりはみつめあってから、呼吸を合わせてリボンを引いた。
鐘の音がひびいた。
ゆっくりと、ひびいた。
おもい音。だけどなんとなく、気持ちはかるくなる。誰かの幸福を素直にいのりたくなるような。――ああ、これが、しあわせの鐘、か。
うん。そんな感じだ。このリア充め、とか、ひがむ気持ちもどこかにいく気がするよ。
「この音が聞きたかったのか?」
ぼくは幽霊さんにふりかえる。
だけど幽霊さんは自転車の荷台にはもういなかった。どこ行っちゃったんだよあわてて探すと、柵の上に立っていた。そういや、彼女は今ぼくにとりついているんだった。あんまり遠くに行くわけないよな。
幽霊さんは、ぼくが話しかけたことに気付いていないのか、じーっと新郎新婦をみつめていた。じーっと。
「知り合い?」
幽霊さんは、こっくりうなずいた。
「生きてたころの、彼氏」
「へ〜……へ!?」
ぼくは新郎さんと幽霊さんを交互にみた。何度も。
幽霊さんはハタチいったかいかないかくらいに見えるけど、新郎さんは三十路ごえっぽく見える。年齢差カップルってやつかな。
「アタシが死んでからも、よくあの交差点に来て、花束を持ってきてくれたの。十一年前からずっと、昨日もね」
幽霊さんは、どうやら交差点からもってきたらしい花束を、胸の前でゆらす。
あ、その、あたらしめの花束、あの人がそなえたんだ。
ってかそうか、幽霊さん、十一年前に亡くなったのか。じゃあ年齢差カップルじゃないなべつに。
「昨日ってもしかして、結婚の報告?」
「うん。幸せになってもいいかなって、言ってた」
幽霊さんは淡々としゃべる。なんかそれが、怒っているようにみえて、ちょっと怖かった。
いや、待てよ。ちょっと待てよ。
地縛霊が、わざわざ死んだ場所をはなれて、生前の恋人の結婚式みにくるって、ちょっとどころかかなり怖いよね? なんつか、「アタシを裏切って別の女とー」みたいな、女の執念みたいな、やばそんなホラーぼくみたことあるよだいたい男はろくなめにあわないよ!
新郎さん、逃げてー!
ぼくは柵につかみかかってがしゃんと音を立てた。だめだ、ここからじゃちょっとくらい騒いでも聞こえない。
「いいに決まってるじゃんね」
幽霊さんは、ぼくにアレコレいってた時からは考えられないくらいしおらしい態度で、声で、そんなことをいった。
…………あれ?
いいの?
「ばかだよね。アタシのことなんて、さっさと忘れちゃえばよかったのに」
涙がこぼれる音が、ぼろぼろと、聞こえた気がした。
幽霊さんに実体がないんだから、幽霊さんが流す涙にも実体はないわけで、音がするわけないんだけど、でもそんな幽霊さんだってしゃべっていて、ぼくの耳に声がとどいてるわけだから、やっぱり聞こえてもおかしくないのかもしれない。
「元カレのしあわせを見届けにきたの?」
ぼくが幽霊さんに質問すると、幽霊さんはぶんぶん頭をふった。
「違うよ」
幽霊さんは手を空に向けて伸ばして、花束を高く掲げた。
「祝福に来たの」
幽霊さんが花束を手放すと、つよい風が吹いた。すごくつよい風だ。花は全部散ってしまったし、背中を押されたぼくは、柵に頭をぶつけてしまった。そのくらい風は強かった。
その風は、すでに鳴りやんでいた鐘を揺らした。鐘はもう一度だけ、おおきく鳴った。
鐘を鳴らす儀式がおわって、建物の中に入ろうとした新郎新婦が、びっくりして鐘に振り返る。すると風はやみ、風で飛んでったいろんな色の花びらは、新郎新婦の頭の上にふわりとふりそそいだ。
わっと、にぎわったみたいだ。柵の外から見るぼくには、なんていっているか聞こえないけれど、でも、新郎新婦もみんなも、喜んでいるのはまちがいなさそうだった。
それをみて、幽霊さんも喜んでた。
嬉しそうに、喜んでた。
「さって、と」
新郎が建物の中に入って見えなくなったころ、幽霊さんはぼくの隣におりてきた。さっきまで泣いてたのがうそみたいにけろっとした顔して、荷台にのる。
「じゃ、悪いけど、もう一度さっきの交差点に戻ってくれる?」
「え、なんで」
幽霊さんはびっくりって顔をした。
「あれ? キミはアタシがとりつきっぱなしのほうがいい?」
「や、それは遠慮するけど」
「じゃ、やっぱり戻らなきゃ。地縛霊に」
なんでだよ。
「こういう時、普通、地縛霊に戻るか? 成仏するもんじゃないの?」
ぼくはためいきをつきつつ、ペダルに足をかける。
荷台の幽霊さんは、けらけら笑いながら言った。
「幽霊に常識が通じると思うなよ!」
うん、そりゃそうだ。
ぼくはペダルをこぎだした。
ついさっき苦労してのぼったばかりの坂を、猛スピードでおりていった。
爽快な風をからだにうけて、なんとも言えない気分のよさだった。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.