序章 旅の途中  瞬きのために時折睫が揺れる事を除けば、少女は美しいだけの人形と変わらなかった。  馬車に乗り込んでから随分と時間が経過しているが、指先ひとつ動かさず、可憐な唇が声を発する事もない。車輪から馬車全体に伝わる振動に身を任せ、小刻みに体を揺らす、ただそれだけだ。肩からこぼれた金髪が頬をくすぐっても、不快な様子を見せる事はない。  男は少女の端整な顔を見下ろした。  透き通るように白い頬に影を落とす長い金の睫。その奥に隠された晴天を思わせる空色の瞳には、小窓から除く景色が映るのみで、感情は何ひとつ映っていなかった。喜びも、悲しみも――それは、少女が馬車に揺られて行く先を考えると、とても悲しい事だと男は思った。  第二の人生がはじまると言って過言ではない。普通の少女であったならば、期待か不安のどちらかに胸を膨らませる事だろう。だと言うのに、少女は変わらないのだ。この人生の転機を、呼吸をし、食事を取り、睡眠を取る事と何ら変わりのない、ごく当たり前の事として認識しているようだった。  少女が押し付けられた使命を疑わず、拒絶せず、それのみが生の意味であると思い込んでいるのは、過去の過ちを振り返り、同じ過ちを繰り返すまいと人々が努力した結果である。彼らの努力は実ったと言って良く、喜ぶべきなのかもしれない。  しかし、男はそれを心から祝福する事ができなかった。まだ十代半ばでしかない少女が、感情に揺らめく事を知らなくとも良いとは、どうしても思えないのだ。  いや、何より。  過ちの一端を担った者が、他ならぬ自分であるから、なのだろう。 「どのような方でしょうね。貴女の運命のお相手は」  少女にそのような話を振っても意味がない事を知りながら、男は問う。己の中に巣食う悲しみを、少しでもごまかしたかったからだった。 「どのような方でも」  返って来た答えは、男が予想したものと一言一句違いなかった。悲哀はより色濃くなり、男は口元に笑みを浮かべる。 「必要なのは血脈のみ、ですか」  男は嫌味と取られかねない言葉を吐いたが、少女は機嫌を損ねる様子はない。変わらない無表情で小さく肯くのみだった。 「わたくしは、わたくしの他の何者にも成しえない、尊い使命を果たすのみ――」  突如、少女の言葉を遮るように、馬車が大きく揺れた。車輪のひとつが石を踏んだようだった。  馬車と同じように少女の体も大きく揺れ、頑なだった体勢を崩す。頭や肩を打ちつけそうになったが、男が腕を伸ばして少女の体を受け止める事で、難を逃れた。  男は安堵のため息を吐いたが、少女は表情ひとつ変えなかった。逃れるように男の腕から離れ、元通りに座り直す。つい先ほど姿勢を崩した事が幻であったかのように、毅然とした態度で。 「わたくしの身にはけして触れないようにと、以前言ったはずです」  少女が真っ先に口にしたのは、自分の身を守ってくれた男に対して投げる言葉としては、最も不適切と言えるだろう。  だが男は不愉快な様子を見せず、深く頭を下げ、謝罪の気持ちを露にした。 「失礼いたしました」  言い訳も、反抗も、一切ない。少女の望み通りに動く事が、男にとって重要な使命であるからだ。触れるなと命令を下されている以上、たとえ少女を守るためであっても、触れる事は許されない。  厳しい条件であったが、従うしかなかった。少女は、そう言う娘なのだ。  いや――普通の少女であればなおさらかもしれない。倍以上歳の離れた男に触れられて喜ぶ少女など、そうは居ないであろうから。 「どうしてわたくしの言葉に従わなかったのです」 「シェリア様の御身をお守りせねばと、咄嗟に考えました。シェリア様をお守りする事が、私の第一の使命ですありますから」 「わたくしの命がかかっていたわけでもないでしょう」 「僅かに傷付かれる可能性はございました」 「そんな事が、わたくしの命令、貴方の使命よりも、大切だと考えたのですか?」 「はい」  男がためらいなく答えると、少女は一拍置いてから冷たい言葉を吐いた。 「おかしな方」  少女はそれきり口を閉じ、鈴のように可憐な声を響かせるのを終わりにした。  本当におかしいのは自身か、それとも少女か。  胸の内側に湧き上がった疑問に結論を出さず、男は小窓から外を覗いた。  昨夜中振り続いた雨に濡れた草花に、太陽の光が反射して、辺り一面を輝かせている。眩しさに目を細めた男は、流れ行く景色に美しい思い出を蘇らせ、胸を熱くした。  全てを清算したとしても、時は戻らない。この少女が普通の娘として生きる事は、もうないのだ。  世界を知らず、人を知らず、感情を排除した少女に対して溢れる謝罪の言葉を、男は必死に飲み込んだ。それは今の少女が望む言葉ではなく、むしろ少女を侮辱する言葉であるからだ。  それでも、男は少女に笑ってほしかった。時には感情を剥き出しにして怒り、泣いてほしかった。人並みに恋をして、その成就に喜び、あるいは喪失に嘆いてほしかった。自身の幸せが何であるか、自分で考える事ができる人間であってほしかったのだ。  澄み渡る青空を、そこに輝く太陽を望んでから、男は目を伏せた。  声に出す事なく、神に真摯な祈りを捧げ、願う。  これから会いに行く人物が、ほんの少しでもいい。少女に欠けているものを与えてくれれば良い、と。 一章 魔物狩りの少女 1  大陸のほとんどの町や村では、ひとつの伝承が伝わっているのだと言う。偉大なる天上の神エイドルードによって、魔獣とその眷属である魔物たちは、地中深くに封印されているのだと。故に地上には平和が保たれ、民は安寧の中で暮らしていけるのだと。  ではどうしてこのトラベッタの街には魔物が現れるのかと、幼き日のカイはジークに問うた事がある。それはトラベッタで生まれ育ち、はじめて伝承を耳にした者ならば、誰もが覚える疑問だった。  屈みこんで靴紐を結びなおしていたジークが答えてくれるまでに、数秒の間があった。ジークは立ち上がり、鋭い視線でカイを見下ろしてから言った。 「エイドルードは地上の民に公平ではないからだ」  ジークは頬に刻まれた古傷だけで充分な外見的特長を持つ男だったが、それ以上に眼光が印象的だった。焼けた刃のように鋭く熱く攻撃的で、彼にひと睨みされれば、大抵の人間は恐怖のあまり逃げ出したくなるだろう。子供ならば泣きだしてもおかしくない。  カイがその目に向かって平然と笑いかけられるのは、物心付く前からずっとそばにいる事で馴れたからに他ならなかった。カイの中に流れる血の半分はジークの血であるはずだが、それはジークに対して抱く恐怖を抑えるための役には全くと言っていいほど立っていない。それどころか、ジークが父である事実は、必要以上の畏怖をカイに与える事もあった。思春期の少年にとって、父と言う存在は絶対のものであるからだ。 「エイドルードは確かに、地上の民の多くを救い、守っているのだろう。だが一部の民は当たり前のように放置し、時に犠牲を強いる」 「神様のくせに不公平なんて、酷いね」 「エイドルードを神と崇めているのは、エイドルードの恩恵の元で幸福に生きている奴らだけだ。この街の人間は、誰もエイドルードを神と呼ばない」  言ってジークは、愛用の剣を腰に佩いた。  ずいぶんと古びた剣だが、丁寧に手入れされており、並の剣よりも遥かに優れた切れ味を持つらしい。ジークがその剣を振るえばどんな魔物でもたちまち切り刻まれてしまう事を、トラベッタの民の誰もが知っている。実際にその光景を見た事がある人物は大人の中でも限られているが、彼らが広めた噂を、トラベッタに住んでいて耳にしない事はないのだから。  民の命や生活を魔物から守ってくれる存在が神であると言うのならば、トラベッタの民にとっての神は、ジークに他ならない。  圧倒的な強さから民に恐れられながらも、同時に尊敬されているジークが、カイは誇らしかった。いつか自分もこの父のように、トラベッタの街を守れるような男になりたいと、夢を抱いてしまうほどに。 「また行くの?」 「ああ。街の近くに魔物が出たとの報告があった。被害が出る前に食い止めるが俺の仕事だ」 「……おれも連れてってとか言ったら、困る?」  今にも家を飛び出そうとしていたジークは、振り返ってカイに歩み寄った。硬い手のひらが、カイの頬を、頭を、ざらりと撫でる。  くたびれた、力強い手。街の誰もが信頼する、神様の手。  自分の手も、いつかこんなにも頼もしい手になればいい。 「今はまだ駄目だ。だが、もう少し大きく、強くなれば」 「ほんと?」  カイが満面の笑みで喜びを表現すると、ジークは薄い笑みを口元に浮かべた。 「ああ、共に守ろう。神に見捨てられた、この地を」  ジークはもう一度カイの頭を撫で、髪をかきまぜると、家を飛び出して行く。  去り行く父の背を見送る事には馴れたが、幼いカイにとって、それは寂しく辛い事だった。だがこの日からは、父と並び、共に戦える日を夢見ながら、笑顔で送りだせるようになった。  剣を横に一閃。  犬と狼とを足して二で割ったような外見でありながら、けして犬とも狼とも見間違える事のないほど大きい魔物を目の前にしたカイだったが、けして怯まずによく砥がれた剣を魔物の鼻っ柱に叩きつける。  鼻先を陥没させ、血を吹き出した魔物は、低い唸り声で苦痛を訴えた。鋭い牙を武器にしてカイに報復を試みるまでに残された時間は短いであろうと予想され、カイは間髪入れずに魔物へ二撃目を食らわせた。  ひっくり返り腹を見せる事となった魔物の唸り声は、悲鳴にも聞こえる。耳を貫く勢いのそれに耳を塞ぎたくなったものの、カイは次の行動を優先させた。  体勢を立て直そうとする魔物よりも早く、剣の切っ先を魔物の腹に埋め込む。はじめは暴れていた魔物も、刀身が半ばまで埋まる頃には力を失い、まばらに生える草の上に四肢を放りだしたまま動かなくなった。  空を覆う厚い雲の隙間から差し込む光が、青黒い血に塗れた魔物の毛並みを照らす。黒にほど近い灰色の体毛は、人とは違う色の体液と混じりあい、暗い色合いをカイの目に示した。  カイは一度息を吐ききった後、深く吸い込みながら剣を引き抜いた。魔物の血が飛び散り、周囲に広がる緑を青黒く染め変えたが、構っている余裕はない。 「ジーク……」  父の名を呼びながら振り返った瞬間、青黒い血を滴らせる鈍色が光を反射し、カイの目を灼いた。  カイは目を細め、ジークに飛びかかる二体の魔物と、魔物たちに向けて剣が振り下ろされる様を見守った。鍛えあげられた鋼が、鍛え上げられた腕に操られる事で、容易く魔物の体を切り裂く様を。  それぞれ両断され、四つに分かれた魔物は、幾度か痙攣した後に動きを止めた。涎と混じりあった血が広がっていく様は醜悪とも言えたが、見慣れたカイにとっては目を反らすほどのものではなかった。 「そっちは終わったか」  何もないところに剣を振り下ろし、剣に纏わりつく魔物の血をいくらか振り落としてから、ジークはカイに振り返る。 「ああ、終わったよ」  厳しい顔の父に苦笑で応えながら、カイは肩を竦めた。  カイの周囲に転がる魔物の遺骸はふたつで、ジークの周りに転がる魔物の遺骸は七つと、誰の目に見ても明らかな差がある。だと言うのに、ジークは返り血ひとつ浴びず、息ひとつ乱さず、カイに「終わったか」と確認してくるのだ。元より判っていた事であるし、ジークと共に戦う度に思い知らされ慣れているのだが、こうして歴然とした実力の差を見せ付けられてしまうと、悔しいと言う思いが強まってしまう。 「今日は随分と数が多かったみたいだ」 「そうだな。その分弱かったようだが。群れなければ生き残れない種族なのかもしれん」 「ま、とりあえず帰ろう、ジーク。ここは臭すぎる」  人間の血とは根源から違うのか、魔物の血は呼吸を躊躇わせるほどの悪臭で、カイはたまらず顔を顰める。一刻も早くその場を立ち去りたくなり勝手に歩きはじめると、ジークが静かに笑う気配がした。 「どうしたらジークみたいに簡単に切れるんだろう」  カイと同じ道を辿りはじめたジークが、カイの隣に並ぶと同時に、カイは呟く。  強くなりたい、ジークのように。魔物に怯えながら生きるトラベッタの街を、守れるだけの力が欲しい。 「俺が剣を振るうようになってから何十年経つと思っている。魔物狩りをはじめてからも十五年だ。お前ごときに容易に真似されてたまるものか」 「十五年、かぁ」  カイはため息を吐きながら己のてのひらを見つめた。  父に剣を習いはじめてから四年。魔物狩りの仕事に同行する事を許されてからは、二年も過ぎていない。仮に父と同じ年数戦い続ける事で追い着けたとしても、目指す自分になるために必要な時間は、途方もないように思えた。  だが、諦めはしない。いつか、いつか――必ず。  この偉大なる父のように、愛する故郷を、トラベッタを、守れるようになるのだ。 「よし」  カイは無言で両手の拳を握り締め、心の中だけで誓う。そんなカイをジークは無言で見下ろしていたが、引き締めた唇は何も語ろうとはしなかった。  おそらくジークは、カイが何を考えているのか、何を決意したのか、気付いているのだろう。それでも口に出すのは癪で、カイは何も言わなかった。 「おーい! ジークさん!」  進行方向から近付いてくる影に名を呼ばれ、足を止めるジークに、カイも倣う。  近付いてくる青年は、街の衛視たちが身につける鎧を纏っていた。一、二度顔を見た事はあるが言葉を交わした事はない人物で、もちろん名前も知らない。 「お疲れ様でした。いつもありがとうございます」 「どうしたんですか? 別のところからも魔物が出たとか?」 「いや、それは大丈夫です。ただ、ジークさんにお客さんが来ていらして。必死の形相で、『ジークさんに今すぐ会わせてください!』と喚くんですよ。追い返そうかと思ったんですが、隣町の領主の息子さんとかで身元も確かそうですし。お疲れのところ申し訳ないですけど、来ていただけますか?」  ジークはしばし無言で青年を見つめ、彼を怯えさせた後に答えた。 「判った」 2 「ならば、カイをひとりで行かせてはどうだ」  ジークの発言はまさに青天の霹靂で、カイは口に含んだ水を吹き出してしまいそうだった。それを何とか堪えて懸命に水を飲み込むと、口元を抑え、こみ上げてくる激しい咳を押さえ込む。  動揺したのはカイだけではなく、ジークの正面に腰を下ろしているふたりの男もだ。カイのように取り乱しこそしなかったが、驚いて声も出ない様子で、しばらくの間、口を開いたまま動かなかった。 「い、いや、しかし、ジーク殿」  ふたりの男は驚くと言う反応こそ同じだったのだが、一方はジークの提案に賛成である事を、もう一方は反対である事を、表情でありありと示している。慌てて言葉を紡いだのは、「勘弁してくれ」とでも言いたげな顔をした、若い男の方だった。  セウルとの名を持つ青年は、カイとジークが住むトラベッタの街から三日ほど歩いた所にあるアシェルの町の町長の息子だ。緊急事態に暗く沈む町を守るため、救いを求めて馬を駆けさせ、トラベッタに辿り着いたのか今朝の事だと言う。 「わが町はトラベッタほどに大きくはありませんが、それでも千人を越える民がおります。彼らを守るには、その……」 「カイでは信用ならないと?」 「そうは言いません! 言いませんが、得体の知れない魔物に襲われ、我が町の民は恐れおののいています。我らには救いが必要なのです。魔物狩りの中でも特に名高い、ジーク殿のお力が!」  口では否定しているが、セウルの目はジークの指摘が図星であった事を如実に語っていた。  またか、と、自分にだけ聞こえるように呟いて、カイは肩を竦める。  つい先日ようやく成人を向かえたばかりの年齢であるカイの実力を、過小評価する者は多い。魔物狩りの中でも特に優れた力を持つジークと常に行動を共にしていれば、尚更だ。  もっとも、今回ばかりはセウルが悪いわけでもないだろう。彼は単純に「魔物狩り」の力を借りにきたわけではなく、トラベッタの街を守る神である「ジーク」の力を借りに来たのだ。ジークを基準で考えれば、カイでは明らかに役者不足である。 「どうする?」と訊ねる意味を込めてカイがジークを見つめると、ジークは静かにため息を吐き、視線をセウルからもうひとりの男に移した。トラベッタの町の衛視長、ディーンに。  ディーンが静かに首を振る事で応えると、ジークは再びセウルに向き直った。 「俺はトラベッタの領主と契約を交わしている。トラベッタ側から許可が出なければ、この街を離れる事はできん」 「アシェルやその民の命よりも、契約が大事と申されるのですか?」  必死に叫ぶセウルの声は悲痛であったが、他の三人の怒りを買いこそすれ、想いを揺さぶる事はできなかった。 「エイドルードの加護の中にある貴方に、この契約がどれほど大切かは理解できないでしょうな」  一段低くなったディーンの声が部屋の中に静かに響く。  その響きに込められた感情に、セウルは失言した事をようやく自覚したようだった。 「この街にエイドルードの加護はない。故に、いつ魔物が現れるか知れんのだ。俺はこの街を離れる事はできん」 「それは判ります、判りますが――では、今まさに魔物に窮している我が町は、どうなっても良いと申されますか?」 「トラベッタとアシェルを秤にかけねばならぬのなら、そうだ、と答えるしかない。エイドルードの加護などと言う不確かなものに頼り切っていた己を恥じるのだな」 「そんな……」  視線にも声音にもためらいのないジークの返答に、セウルは力を失ってうなだれる。  救いを求めて駆けてきた男に対するには、少々冷たすぎる態度ではないかと考えたカイだったが、ジークが中途半端に同情をかける事を良しとしない性分である事をいやと言うほど知っていたため、何も言わなかった。  ジークは自分の街を自分たちで守るのは当然だと、トラベッタのように常日頃から危機に備えておけと、当たり前の事を言っているに過ぎない。常日頃から警戒を怠らないトラベッタを見捨て、平和に溺れていたアシェルを助けろなどと、確かに虫が良い話だ。 「神は、アシェルをお見捨てになられたのか。我らに滅びよと」  膝の上で組んだ両手に力を込め、吐き出すようにセウルは言う。 「この街ははじめからエイドルードに見捨てられている。それでもまだ生き続けている」  セウルは僅かに顔を上げた。 「俺とてアシェルが憎いわけではない。だが、俺はトラベッタを離れる事はできん。そうしてしまえば、俺はエイドルードごときと同じになる」  セウルは体を震えさせていた。射抜くようなジークの視線に怯えたか、唾棄するように放たれたジークの言葉に怯えたか。おそらくは後者であろうと推測したカイは、セウルから視線をはずした。  外から来た者はみんなそうだ。無条件にエイドルードに心酔し、信頼し、崇めている。だからエイドルードを侮蔑しているトラベッタの民を、非常識とみなすのだ。  カイはエイドルードを崇める事をしない。だが、加護の中に居る者たちがエイドルードを崇める心を全く理解できないわけではなかった。もし自分が加護の中にあれば、エイドルードに祈っていただろうと思うのだ。  だから彼らも少し考えれば、信仰を持たないトラベッタの民の事を判るだろうに――少数派と言うものはいつの世も冷たい目で見られるものらしい。 「アシェルで育った私は、貴方の言葉を易々と受け入れられません。我らにとって、エイドルードはやはり偉大なる神なのです」 「そうか、では」 「ですが今となっては、貴方の言葉を否定する事もできません」  深々と頭を下げたセウルの表情を覗き見ながら、必死の形相とはまさにこの事なのだろうと、カイは知った。 「どうか、貴方のお力をお貸しください。エイドルードの加護の中にあったからこそ、アシェルの民は魔物の恐ろしさを知りません。人間相手の訓練のみを重ねた兵士たちでは、どう魔物に立ち向かえばいいのか判らないのです。どうか、どうか……!」 「だからカイを向かわせると言っている」  ジークの声は乾いていたが、不思議と冷たくなく、むしろ労わりの気持ちが篭っているようだった。 「カイは俺の仕事を手伝ってくれているが、今はまだトラベッタと契約を交わしているわけではない。カイならばトラベッタ側の許可を取らずとも、今すぐにこの街を出てアシェルに行ける。もっとも、カイにアシェルを救う意思があれば、だがな」  ジークと、セウルと、ディーンと。三人の視線が、同時にカイに集まった。 「別に俺は行ってもいいけどさ」  カイは正直に本音を答えた。  守りたいと思う場所はトラベッタだけだが、アシェルを見捨てたいと思うわけではないし、必死なセウルを見ているとつい同情してしまう。その同情心と、ジークに任せればトラベッタは大丈夫だろうと言う信頼、ひとりで仕事をする事によって己が成長するかもしれないと言う期待を合わせれば、断る理由は見つからなかった。  物心ついた時にはトラベッタに住んでおり、別の町や村に行った事がないため、僅かな不安はある。だが、帰路に着くセウルと共に行けばひとり旅にはならず、道に迷う事もないのだから、それほど大きな問題ではないだろう。 「彼の腕は?」 「確かだ。並大抵の魔物ならば相手にならん。そこらの魔物狩りよりもよほど腕は立つ」 「その証明となるものはありますか?」 「俺の言葉で証明にならないと言うならば、実際にカイと戦ってみればいい。お前の命の保証はしないがな」  セウルはごくりと喉を鳴らした。  返す言葉も見つからないのだろう、それきり動かないセウルに、ジークは肩を竦めながら言葉を続けた。 「俺の息子だ、とでも言えば、満足か?」  淀んでいたセウルの瞳に、突如光が溢れた。  ずいぶんと判りやすい男である。いずれは町長になるのだろうに、これほど素直でやっていけるのだろうかと、カイは考えた。自分が心配するような事ではないと判っていたが。 「じゃあ、すぐに出かける準備をするよ。セウルさん、道案内お願いします」 「了解しました」  セウルは素早く立ち上がり、ジークやディーンに礼をすると、部屋を飛び出していく。  残された三人は視線で心情を語り合うと、同時に深い息を吐き出した。 「それにしても妙な話ですね。アシェルに魔物が出るなどと」 「本当に魔物かどうかは怪しいがな」 「え、そうなのか?」  ジークの言葉に反応し、カイは身を乗り出した。 「ああは言ってはみたが、エイドルードの加護の下にあるアシェルに魔物が出る事はありえない。巨大な動物か何かと勘違いしていると考える方が自然だ。だが、油断はするな」  真摯な眼差しと共に送られた忠告に、カイは肯いて応えるしかなかった。  父と離れた初めての仕事だ。元より、油断する余裕などはない。 3  鬱屈した空気の見本市。それが、アシェルの町をはじめて訪れた時にカイが抱いた感想だった。  高い外壁の中に黒塗りの門を見つけた時は、北以外の三方を高い山々に囲まれていると言う地形と合わせて、重罪人のための流刑地かと思ったものだ。だが壁の中に入り、門から続く大通りを歩きながら街の様子を見回したカイは、すぐに考えを改める事となった。  流刑地どころではない。ここは、死者の町だ。  地形のせいで陽が当たりにくく、通常の街より薄暗いのは仕方ない事と言える。しかし、いや、だからこそと言うべきか、天高く昇った太陽から光が降り注ぐ今の時分を大切にすべきだとカイは思う。  だと言うのに、この街には活気と言うものがまるでなかった。大通り沿いにある店はほとんどが開いているだけと言う状態で、店主たちにはやる気が感じられないし、買い物客の姿はほとんど見られない。賑やかな雰囲気とは縁遠く、人々の笑い声などまったく聞こえてこなかった。 「なんなんだ、この町」  呆れてカイが呟くと、カイより二歩先を進んでいたセウルが、ちらりと振り返った。 「以前はもっと活気ある町でした。ですが、魔物に襲われた市民と彼らを守ろうとした衛兵たち合わせて三十一名が命を落としたあの日から、民は皆魔物に怯え沈んでいます。よそに頼るところがあるいくつかの家族は町を出てしまいました。残った者の中にも、恐怖のあまり家の外に出なくなった者たちも居るようです」 「その人たち、働いてないって事ですか?」 「そうなります」  更に呆れて、カイはため息を吐いた。 「無関係であったはずの死に突然迫られて、怯える気持ちは判りますけど……家に閉じこもったくらいで魔物から身が守れるわけじゃないんだから、生き残ってしまった時の事を考えればいいのに」  セウルは目を細め、難しい顔をしながら辛そうに答えた。 「正論、なのでしょう。力ある方にとっては」 「どう言う意味ですか」 「生き残る自信がなければ、言えない台詞だと思います」  そんなもんかとひとりごちてから、カイは雲ひとつない空を見上げた。  太陽が強く輝く澄んだ青空は、父親が気合を入れて働き、母親が笑顔で洗濯し、子供が元気に駆けずり回るためのものだ。こんなにも気持ちのいい天気だと言うのに、無駄にしてしまうのはあまりにもったいない。 「やっぱり……」  再び町の人々への文句を口にしようとしたカイの目に、一軒の家が映った。  正しくは「家だったもの」と言った方が良いのだろう。半分は完全に崩れていたし、残っている半分も壁に大穴を開けているなど、今にも崩れそうな様子である。傾いた屋根が上に残っていなければ、かつて家であったとも判別つかなかっただろうと思わせる、散々な状況だった。  よくよく見れば、周囲に立っている家も万全とは言いがたい。最初に目に付いた家とは違い、何とか生活を営めそうではあるが、開いた穴を木切れや布でかろうじて塞いでいる、と言った家がほとんどだ。  地面や壁には、血の跡だろうと思われる、黒ずんだ染みがあちこちに散らばっている。中には明らかに人のものではない足跡をかたどったものもあり、ここで起こっただろう争いの跡として生々しくカイの目に焼き付いた。 「魔物は壁を越えて来たんですか? あんなに高いのに?」 「いいえ。私は目撃しておりませんので人伝に聞いた話になりますが、山の方から来たそうです。人の足で越えるは不可能と言って差し支えない山ですし、動物たちが麓まで降りてくる事はほとんどありませんから、木で作った簡単な柵を建てた程度で、大した防備を固めてはいないのです」 「なるほど」  襲い来る魔物にその意思があったかは判らないが、アシェルの民にとっては、まさに奇襲だったのだろう。  抵抗する術もなく命を落としていった者たちの苦しみを思い、気落ちして俯いたカイの耳に、小さな子供の泣き声が届く。声がした方に顔を向けると、野原で摘んできたであろうみすぼらしい小さな花を、やせ細った手で握り締める子供が見えた。  名もなき花を半壊した家の前に置くと、子供は手を組み、空を仰いで祈りはじめる。  見上げて祈ると言う事は、子供が祈りを捧げる相手は天上の神と呼ばれるエイドルードなのだろうと判断したカイは、湧き上がる不快感に眉を顰めながら、「無駄な事を」と誰にも聞こえないように呟いた。エイドルードの救いは気まぐれで、祈りに何の意味もないと、トラベッタで育ったカイは信じている。  無駄に祈る時間があるならば、その時間で剣を鍛え、自らが魔物を打ち取れる存在になればいいのに。  それはカイには当たり前の発想だが、エイドルードに守られ続けていた者たちには、思いも寄らない発想らしい。そんな彼らを哀れに思う気持ちが半分、羨ましく思う気持ちが半分で、何とも言えないもどかしさに耐えるため、カイは自らの胸倉を掴むように拳を握り締めた。 「あれは、魔物の犠牲者の家族です」  傷跡の残る家や子供から目を反らし、セウルは言う。差し伸べる手がない自分自身の呪うかのように、震えた声で。 「犠牲者、でしょう?」  カイが即座に返すと、セウルは闇色の眼差しをカイへと向けた。 「……そうですね」  セウルは肯いて、それきり何も言わなかった。無言であり続ける時間に比例して、瞳に篭る悲哀が、いっそう強くなっていった。  カイはセウルの後ろを黙って歩く。街中にはびこる重苦しい空気がまとわりつくようで、目的地までの距離がひどく長く感じられた。  無言のまま通りを進み続けると、やがて一軒の大きな屋敷が視界へと飛び込んできた。  悪く言えば古臭いが、よく言えば伝統を受け継いだ、重厚な雰囲気の建物だ。かなりの高さがあるが、窓の位置と数からおそらく二階建てであろうと予想できる。それぞれの階の天井がずいぶんと高いのだろう。  庭も広いようで、屋敷よりもずいぶん手前に門があり、そこに門番と思わしき男がひとり立っている。皮鎧をまとい槍を手にしているだけの簡単な武装だが、邪な考えを抱くものを警戒させる程度の役には立つのだろうと思わせた。  先導するセウルを見つけると、門番の男は深々と一礼し、門を開ける。一瞬、カイに対して値踏みするかのような鋭い眼差しを送ってきたが、その視線をちょうど塞ぐ位置にセウルが来ると、それきり男はカイを見なかった。 「食事と部屋をすぐに用意させます。とりあえず今日はゆっくりと休み、旅の疲れを癒してください――魔物が町まで降りてこなければ、ですが」 「ありがとうございます」 「いいえ。大したお構いもできず、申し訳ありませんが」 「こんなに広い屋敷に泊まれるだけでも、いい体験ですけどね、俺にとっては」 「広いだけの屋敷ですが、喜んでいただければ幸いです」  実家に戻ってきた事に安堵したのか、トラベッタに居た頃に比べ、セウルの表情はずいぶんと和らいでいた。カイに見せる微笑みは柔らかく、温かい。  トラベッタで見た時には余裕も気遣いもない人物だと思っていたが、それは故郷を襲う突然の危機に気が立っていただけなのだろう。おそらく本来の彼は、心優しい人物なのではないだろうか――偶然を装って門番の視線から庇ってくれたさりげなさに気付いたカイは、今彼が浮かべている表情と合わせて、セウルへの評価を改める事にした。とは言え、いずれ領主になる時に苦労するだろうと言う予想は覆せそうにないが。  門から玄関までの舗装された道を、道の左右に植えられた色鮮やかな花を楽しみながら進む。一歩先を行くセウルが、玄関前の短い階段に踏み込んだ瞬間、大きな音をたてて扉が開いた。  帰還した息子を迎え入れるためにしては、ずいぶんと乱暴だ。カイはいぶかしみ、セウルは驚いて、足を止める。  ふたりが視線を注ぐ所から現れたのは、背が高く体格のいい男だった。  鋭い視線や剥き出しの二の腕や顔に刻まれた古傷、身につけている使い古された鎧に、腰に佩いた二本の剣。見た目からも雰囲気からも同業者であろうと予測したカイは、道の端に身を寄せた。  やや前傾姿勢。必要以上に力強く地面を蹴る足。歪んだ口元に釣りあがった眉――男が何かに腹を立て、この場を立ち去りたがっているのは明らかだ。下手に刺激しない方が自分とセウルの身のためだろう。 「お待ちください!」  男が行き過ぎるのを待っていたカイは、男を引き止めようとする女の声が屋敷の中から響くと、小さくため息を吐いた。 「なぜ帰るのです! 話が違うではありませんか!」 「はぁ?」  気を荒げて振り返った男は、眉間に刻む皺を深くして答えた。 「それはこっちの台詞だろうが。あんな化け物の話は聞いちゃいねえ!」  男は吐き捨てるようにそれだけ言うと、入り口近くに佇む女性に冷たく背を向け、歩き出した。カイやセウルの事など視界にも入らないらしく、あっと言う間に門の向こうへと消えていく。  よくみると男の腕や肘、綺麗に剃り上げられた後頭部の広範囲が、赤く染まっていた。ほどなくして酷い痣に変化するだろうと予測できるそれらは、どこかに強くぶつけたばかりのように見えた。彼の言う「化け物」によってなされたのだろうか。  気にかかる所はあったが、荒れた男を呼び止める気にはならなかった。カイは男の背中を見送ってから、女性へと視線を移した。  細身で背の高い女性は、カイよりもいくつか年上のようだが、まだ若い。真っ直ぐに伸びた背筋と引き締められた口元、背の中ほどで切りそろえられた艶やかな黒髪に生まれの良さを感じ取ったカイは、見比べるように女性とセウルの間で視線を行き来させた。  女性はセウルに比べてずいぶんと気が強そうだが、よく見てみると顔立ちが似ていない事もない。歳の頃合いから見て、おそらくはセウルの妹だろう。 「サーシャ」  女性の名を親しげに呼んで、セウルは小走りに段を上がった。並んでいるところを見ると、いっそう良く似ていた。 「今の方は?」  サーシャは困惑を色濃く浮かべた瞳をセウルに向けた。 「私が雇った魔物狩りの方のひとりです。兄上がトラベッタに向かっている間に魔物が出ては困りますし、少ないよりも多い方が良いかと思いまして。充分な報酬を用意しましたし、機嫌良く引き受けてくださったのですが……突然『こんな仕事はやってられない』と言い捨てて、出て言ってしまったのです」 「何か問題でもあったのか?」 「それは……」  何かを言いかけたサーシャは、カイの存在に気付いたらしい。兄に向けていた視線をカイに注いだまま、しばらく言葉を濁していた。 「そちらの少年が、兄上の雇った魔物狩りですか?」 「ああ。トラベッタで魔物狩りとして活躍されているカイさんだ」 「そうですか」  サーシャは体ごとカイに向き直ると、美しい姿勢で礼をする。 「どうぞアシェルの町を、民を、よろしくお願いします」  サーシャの引き締められた口元は、それ以上を語ろうとはしなかった。サウルが問うた『問題』は確かに存在し、それは自分にも関わる事なのだろうと察するに充分だったが、カイは彼女を問い詰める事をせず、「努力します」と返すのみにとどめた。  仕事を放り投げて帰りたくなるような問題が、この仕事、あるいは屋敷や町に存在していたとしても、帰るわけには行かない。父と一緒ではない初めての仕事で、逃げ帰るような真似ができるわけがないのだから――ならばより逃げ帰りにくいよう、屋敷の中に入ってから真実を知りたい。そうカイは考えたのだった。 4 「すぐに部屋の準備をさせますので、今しばらくこちらの部屋でお待ちくださ――」  先導するセウルは客間と思わしき部屋の扉を開けた瞬間、口を噤んで言葉を飲み込んだ。  部屋の中が彼の知るものとは様子が違うのだろう。カイはさりげなく立ち位置を変え、セウルの肩越しに部屋の中を覗き込む。  広く豪奢な屋敷の外観から容易に想像できる部屋だった。細かな紋章が描かれた絨毯や壁紙は明るい色でありながらけして品性を損なっていない。贅沢に硝子が使われた窓は外からの明かりを存分に取り込める大きさで、色とりどりの花や鮮やかな緑が見事に調和した庭の風景が部屋の中に居る者の目を楽しませてくれる。部屋のあちこちに置かれた調度品が高級である事は詳しくないカイの目にも明らかなほど美しいし、何人座れるか判らない長さのソファは実に柔らかそうだ。  見るものならいくらでもある部屋の中にありながら、セウルはソファを独り占めしている少女に視線を釘付にしたまま動かなかった。どうやら彼女が予期せぬ――少なくともセウルにとっては――侵入者のようだ。  少女の年の頃はカイと変わりないようだ。目が大きくて可愛らしく、カイがこれまで出会ってきたどの少女よりも美しい。どきりとして、柄にもなく緊張したカイだったが、少女の格好を見て緩んだ気を引き締めた。肩よりも上と言う女性にしては短い長さの髪、細い体に纏った使い古された皮鎧、腰に下げた長剣などが、普通の少女ではない事を如実に語っていたからだ。 「先客がいらっしゃいましたか。これは失礼いたしました」  セウルは小さく会釈し、少女に謝罪の意思を示す。  少女は小さく首を振った。 「別に気にしなくていいよ。あたしの部屋ってわけじゃないし。ちょうどひとりで退屈していたところだし」  少女は笑顔でセウルに返し、視線を巡らせてカイと目線を合わせると、少しだけ表情を引き締めた。  いや、表情は変わっていない。相変わらずの可愛らしい笑顔のままだ。ただその視線が、強いものになっている。カイが何者であるかを、カイの実力がいかほどのものかを、確認する目。  間違いなく同業者であろう事を理解したカイは、少女に笑いかける事で応えた。 「申し訳ありません、カイさん。部屋の準備ができるまで、しばらくここで……」 「ああ、いいですよ別に。俺は」  カイが笑顔で答えると、セウルはあからさまに胸を撫で下ろした。本当に、素直な男だ。再び彼の行く末を心配しながら、カイは部屋の中へと足を踏み入れた。  部屋の中にはいくらでも腰を下ろす場所があったが、カイはあえて少女の正面に腰を下ろす。想像していた以上に柔らかなソファに腰を沈め、真っ直ぐに少女を見下ろした。 「君も魔物狩り?」 「他に何に見える?」 「見えないけど。街の衛兵とか久しぶりに返って来た放蕩娘とかの可能性も無くはないだろう?」 「そうかもね」  少女はそれまでカイに向けて真っ直ぐにぶつけてきた視線を反らし、庭の風景を眺めはじめた。  充分に見惚れる価値のある横顔を見せつけられ、本人が選んだ道を否定する権利などない事が判っていても、勿体ないなと思ってしまうカイだった。こぼれ落ちんばかりの大きな空色の瞳も、通った鼻筋も、日に焼けてもまだ充分に白いと言える肌も、並の少女が羨むほどのものだ。こんな仕事に就かず、普通の少女として生きていれば、引く手数多だったに違いない。 「サーシャさんのお兄さん、トラベッタに行ったって言ってたから、噂の魔物狩りジークに会えるのかと思っていたけど、どうやら違うみたいだね。ジークの歳は知らないけど、こんなに若いんだったら、少年だって事も噂に乗ってくるだろうし」 「期待に沿えなくて悪かったな。親父はトラベッタと契約をしているからあの街を離れられないんだ」 「あ、息子なんだ。ジークの」  カイはゆっくりと肯いた。 「まあ一度会ってみたかった気がするし、残念だとはちょっと思うけど、それ以上に安心したかな。さすがのあたしも、最強の魔物狩りと言われるジークと一緒じゃ影が薄くなるだろうし。役に立たなかったから報酬なしとか言われたら困るもんね」  嬉しそうに語る少女を細めた目で見下ろしたカイは、静かに息を吐いた。 「完全に舐められてるな、俺」 「あれ? もしかして、ジークより強いの?」 「いや、ジークより弱い事は間違いないんだが――『ジークじゃないから弱い』って扱いを受けるのは、少し癪に触ってね」  仕方のない事かもしれないけれど、と呟きながら方を竦めると、少女は明るい瞳に僅かに影を落とした。 「立派なお父さんを持つのも大変ね」  カイは迷わず首を左右に振った。 「偉大な父を持った子供が常に背負い続けなければならない弊害を含めても、俺はジークが父親で嬉しいんだ。だから大変ではない。周囲に認めて貰えない俺が情けないだけだ」  少女の大きな瞳がもの言いたげにカイを見つめる。  何かおかしな事を言ったかと戸惑ったカイだったが、しばらくすると少女は眩しげに目を細めて可愛らしく笑ってくれたので、胸を撫で下ろした。不愉快な思いをさせてしまったわけではないようだ。  カイは照れ隠しに微笑み返しながら、静かに右手を差し出した。 「普段は商売敵なのかもしれないけど、今回の仕事ではアシェルの町を守るって意味で仲間だから、よろしくしてくれるか。俺はカイって言うんだ」  少女はしばらくの間無言でカイの右手を見下ろし、小さく首を振った。 「あたしの名前はリタ。よろしくするのは構わないんだけど、握手は勘弁して」  カイは慌てて自身の服の袖で手のひらを拭いてから、再び手を差し出した。 「何もあんたの手が汚いからなんて言ってないでしょ。あたし手袋部屋に置いてきちゃったし、あんたも素手だし」 「普通握手って、素手でするものじゃないのか?」 「まあ、そうなんだけど、あたしは普通じゃないから。運が悪ければあんたを殺しちゃうかもしれないし」 「……そんなに怪力なのか? その体で?」  リタは頭を抱え、目を硬く閉じ、眉間に皺を寄せた。説明するのが面倒くさいとばかりの態度だが、唇は小さく動き、紡ぐべき言葉を探してくれているようだ。 「口で言ったところで信じてもらえないしなあ。でも、実践するのはどうかと思うしなあ。下手したら死ぬかもしれないし」と呟いているのが聞こえた。カイに聞かせるつもりのないひとり事だったようだが、会話をしていなければあまりに静かなこの部屋では、充分に聞き取れるだけの声量だ。  理解できずに首を傾げたカイが、今一度問い詰めようと口を開きかけた瞬間、部屋の扉が開く音が乱暴に響き渡った。  カイも、そしてリタも、瞬時に表情を引き締め、扉に向き直る。扉を開けたのはカイが見た事のない女性だが、服装からこの屋敷に勤める使用人である事はすぐに判った。 「あの、ま……魔物が、町に……!」  青白い顔の女性は、震える唇で言うと、自身の肩を抱きながらその場に崩れ落ちた。硬く閉じた目からは涙が滲み、強い震えで自由が利かない両手の指を絡ませ、祈るように救いを請う。  見ているだけで女性が抱いている強い恐怖が伝わってきた。それだけのものを堪えてここまで辿り着いた気概は立派だと感心し、少しでも落ち着く事を願って女性の肩を優しく叩いてから、カイは部屋を飛び出した。  自分の部屋が準備されていないのは幸いだった。おかげで必要な荷物は身に着けたままだ。魔物と体面すれば、すぐにでも戦える。  確かめるように腰に佩いた剣の柄を撫で――やや後方を走るリタの姿を視界に収めたカイは、速度を緩めないように振り返った。 「こんなにも早くお互いの実力が見せ合えるなんて、嬉しいのか悲しいのか判らないな」 「失望させないでね」 「言うなぁ」  ずいぶん強気な事だと、やはり感心しながら、カイは再び前方を睨みつける。  道案内など頼まなくとも、人々の視線や悲鳴を手繰れば、魔物の元に辿り着くのは容易い事だった。 5  巨大蟻、とでも言えば良いのか。町中で暴れている魔物は、見た目はほとんど蟻と変わらないのだが、体長が明らかに異なっており、人間を凌駕する大きさだ。  蟻が発する奇声は、辺りに響き渡る事で、力を持たない民を恐怖させた。中には腰が抜けてしまう者もおり、地面に座りこんだ少女を見つけた蟻は、素早くそちらに向けて駆けていく。  カイは走りながら剣を引き抜き、蟻に突進した。剣が蟻に届いたのは、蟻の足が少女を捕らえ、巨大な口が少女を噛み砕こうとする瞬間だった。  走る勢いを借りても、巨大蟻の硬い皮膚には、刃先を埋めるがせいぜいだった。しかし、蟻に苦痛を与えるのは成功したらしい。蟻は唸り声を上げ、少女から離れると、カイに向き直った。  蟻と睨み合う中で、少女を避難させようとするリタの姿がカイの瞳に映った。安堵に胸を撫で下ろしたい気分だったが、その余裕はない。カイは無言で剣を構え直す。  蟻が垂れ流し、カイの剣を汚した青い血の色が、鮮やかにカイの意識に焼き付いた。空や海を思わせる美しい色合いだと言うのに、腐臭に似た異臭を漂わせ、カイを不愉快にさせる。  蟻は足を上げ、カイに向けて振り下ろしてきた。かろうじて避けると、蟻の足は重みによってか、それとも刃に似た鋭さを持っているせいなのか、容易く地面を抉る。せっかく綺麗に整備されていた石畳が台無しだ。  石を簡単に貫けるだけの破壊力がある事を意識しないようにして、カイは数度、蟻に向けて剣を振り下ろした。全てが皮膚の表面を薄く切るのみで、致命傷を与えるほどではない。 「どう? ひとりで倒せそう?」  少女をどこかへ避難させたらしいリタが、蟻を挟んだ向こうがわに立っている気配がした。こっちは敵に致命傷を与えられず苦労していると言うのに、ずいぶんと呑気な口調である。 「少し、考える時間がもらえたら、なんとかなるかも……な!」  幾度か切りつける事で、やみくもに切りつけても意味がない事は判った。想像もつかない適当な場所に弱点がある、と言う事もなさそうだ。  ならば普通に攻めるまで。  カイは胴体と足の接続部分に狙いを定める事にした。カイの目に見える限りでは、巨大蟻の体の中で最も細い部分がそこだった。他の部分に比べて脆いかは判らないが、同程度の硬さならば、何度か剣を叩き付ける事で切断できるだろう。そうして蟻の動きを鈍らせれば、対処のしようがあるかもしれない。  カイは蟻が飛び掛ってくるのを待った。鋭い足をわざと際どいところで避けると、足先が地面に埋まったせいで動きが鈍る隙を突いて、剣を振る。狙い通り、胴と足の繋ぎ目から青い血が吹き出した。  他の部分よりも若干手ごたえが柔らかい。想像していた以上に狙いが正しかった事に浮かれ、カイは無意識に笑みを浮かべた。意識は、痛みによって暴走し、予測し辛くなった蟻の動きを読む事で手いっぱいだった。  暴れる蟻はどの足とも定めずカイに向けて振り下ろしてくるため、狙いを付け難い。再び同じところを切りつけたいのだが、最初に切りつけた足は今は遠くにあり、そもそも剣が届かない。  あと一撃。あと一撃あれば、あの足を落とせる。  確信はあれど思い通りに戦いを進められず、胸の奥に苛立ちが募っていく事を自覚したカイは、咽るような異臭の中、静かに深く息を吸った。  落ち着け。焦っても、苛立っても、あの足は落とせない。父ならばこの程度の事で気を乱さず、冷静に対処するはずだ。  カイは気を静めてから、再び狙いを定めた。そうして食らわせた一撃は狙いから僅かに外れ、蟻の足を軽く傷付けるにとどまった。 「ほんの一瞬なら、この蟻の動き止められるけど」  いつの間にか、剣を構えたリタがカイのすぐそばに立っていた。  警戒し剣先を蟻に向けながらカイに語りかけてくるが、こちらを見るだけの余裕はないようだ。見れば息が僅かに乱れ、額に汗が滲み、手にした剣は青い血に塗れている。カイの視界に入らないところで、彼女なりに蟻と戦っていたのだろう。 「どうやってだ?」 「口で説明しても笑い飛ばされるから、言わない。とにかくあたしを信じて」 「無茶言うなぁ……」  蟻の足がふたりの間を割るように振り下ろされた。  足を避ける事で再び蟻を挟む事になったリタがはっきり聞き取れるよう、声を張り上げてカイは言う。 「他に名案も浮かばないし、とりあえず信じる事にする。頼んだ」 「じゃあ、あたしが合図したら今蟻が頭向けてる方向に走ってね」  リタが示した方向は、アシェルの町を外部から守る高い高い壁だった。 「あっち、壁じゃないか?」  カイが口にした問いかけに、リタは返事をしなかった。何本かの足を挟んだ向こう側に見えたリタは、大きな瞳を鋭くつり上げ、蟻を睨みつけている。カイを無視したわけではなく、集中した彼女の意識に他者の声が届かなかったのだろう。  どうやら、彼女の不可解な言葉を信じるしかない。カイは覚悟を決めて、リタが示した方へ向き直った。リタや蟻の動きを捕らえようと横目で見てみると、リタが剣を鞘に戻す様子が見えた。  この状況で武器を手放すなど、正気の沙汰ではない。うろたえたカイは、顔をリタの方へ向ける。  同時に、リタが叫んだ。 「走って!」  何が何やら判らず、カイはリタの指示に従って走りだした。その方向には、やはり何もない。ただ高く聳える壁があるだけだ。  何をどう信じろと言うのか。後悔と疑いを抱きはじめたカイの視界の端に、リタが映る。身軽な体で蟻の攻撃を避け、剣を持たない小さな手を、蟻に向けて伸ばすところだった。  カイには彼女の手が、普通の、小柄な少女の手にしか見えなかった。魔物狩りであるために剣を振り続けた手のひらの皮は厚いかもしれないし、いくつもの細かな傷跡が残っているかもしれないが、ただそれだけのはずであった。  だが、リタの手が蟻に触れた瞬間、蟻の巨体が飛んだ。  蟻は強すぎる力で吹き飛ばされたようだが、リタは蟻に触れただけで、突き飛ばそうと力を入れていたようには見えなかった。いや、もし突き飛ばそうとしていたとしても、彼女の細腕で蟻の体を浮かせる事などできるはずがない。だいたい、それほどの怪力の持ち主であるのなら、振るった剣で蟻の硬い皮膚をやすやすと切り裂けるのではないだろうか。  カイは混乱した。混乱しすぎて、何も考えられなくなった。壁に向かって走っていた足の動きが、次第にゆっくりとなっていく。 「カイ!」  リタの叫び声で、カイは正気に戻った。その瞬間、吹き飛んだ蟻の体は壁に叩き付けられ、ひっくり返って腹をあらわにした。  蟻が身を起こすよりも少しだけ早く、カイは蟻の元へ到達する。狙いを定め、ありったけの力を込めて振り下ろした剣は、蟻の足を一本切断するに至った。  蟻は支えをひとつ失う事で体勢を崩した。  激痛のためか、蟻は鋭い奇声を上げる。空気を振るわせるほどの音量をすぐそばで食らったカイは、耳が壊れるかもしれないと自分を案じたが、耳を塞ぐために剣を捨てる事はしなかった。  間を空けずカイは蟻に切りかかった。別の足を同じように攻め、蟻が体勢を立て直すよりもわずかに早く、もう一本切り落とす。  吹き出す青い血液を避けると、カイと同じように剣を振るうリタの姿が見えた。何度も何度も同じところを切りつけ、ようやく切断にいたると、安堵のため息を漏らしながら次に移る。その様子は見た目どおり非力な少女のものだった。  先ほど見たものは、夢や幻だったのだろうか。  心底気になったが、考える事を後に回し、カイは蟻に向き直る。片方についた全ての足が落ちた蟻は、残った足を振り上げて暴れてはいたが、はじめて対面した時と比べてはるかに弱々しいものとなっていた。傷の痛みと切り口から流れ続けるおびただしい量の体液は、魔物の体力を奪っているのだろう。 「放っておけば死にそうだけどね」  頬に付着した青い血を拳で拭き取りながら、リタは言う。 「自然と死ぬまで暴れさせてたら、この辺一帯の地面が穴だらけになりそうだけどな」 「確かにそうだけど……」  自由に動き回る事ができなくなった蟻は、その場で足を振り回すしかできなくなっていた。当然、蟻の足の真下にある石畳は、粉々に砕け散っている。 「じゃあ、どうやって止め刺すの、これ」 「多分だがど……何と言えばいいのか、人間で言う胸のあたり。そこは多分柔らかい。さっきひっくり返った時、そこだけ皮膚が薄そうに見えた」 「へえ。ちゃんと見てたんだ」 「色々驚く事はあったが、仕事はできるかぎりきちんとしたくてね」  カイの言葉に対するリタの笑みは複雑だった。叱られた子供が場をごまかすようであり、褒められた子供が照れを隠すようでもあった。  カイは苦笑いをリタに返して、蟻に向かった。リタから目を反らし、リタの目から自分を隠すために。  徐々に動きが緩慢になる蟻が足を上げるのを見計らって、カイは蟻の下に体を滑りこませた。瞬時に狙うべき場所を見つけ、剣を突き上げると、蟻は更なる大きな奇声を上げた。思った通り、他の部分よりも柔らかいそこには、剣の半分を埋め込む事ができた。  悪臭を放つ蟻の体液を全身に浴びながら、カイは蟻の下から転がり出る。  力尽きた魔物はその場に身を崩し、二度と動かなかった。 6 「もうすぐお食事の準備ができますから食堂にお集まりください」  使用人がカイの部屋を訪れてそう言ったのが、つい先ほどの事だ。  カイは一応客人の身なのだが、食堂までの道案内まではしてくれないようで、教わった道を間違えないようひとりで辿らなければならなかった。もしかすると、呼びに来てくれた時に一緒に着いていけば案内してもらえたのかもしれないが、湯浴みを終えたばかりで、人前に堂々と出られるような格好をしていなかったのだ。  濡れていた髪をできるだけ乾かし、しっかりと服を着て部屋を出る。歩きながら、自身の腕を鼻へと押し当てた。全身に浴びてしまった蟻の血の匂いが残っていないかを確かめるためだ。  特別綺麗好きでもないカイが、昼間から遠慮なくたっぷりのお湯をもらい、かつて使った事もないような高級石鹸で何度も体を洗ったのは、匂いを消すために他ならないのだが、至近距離で嗅いでみても、何の匂いも感じ取れなかった。どうやら強烈な匂いを全身に浴びた事で、鼻がおかしくなってしまったようだ。  カイは途方に暮れるしかなかった。もしも匂いが落ちていなかったら、これから一緒に食事をする人たちはかなりの苦痛だろう。自分は鼻が麻痺しているので問題はないが……。 「花の香りがする」  いつの間にやら近付いていたリタが、小さな鼻をカイに寄せ、匂いを嗅ぐ。  使えない鼻でそれでも匂いを嗅ごうとする事に集中していたためか、カイは声をかけられた瞬間まで、リタが近付いていた事に気付かなかった。突然の事に驚いて身を捩ろうとしたが、動けば腕が彼女の鼻先に触れてしまう。脳裏に吹き飛んだ蟻の光景を蘇らせると、体は硬直して動かなかった。 「に、匂い、消えてるか? 魔物の血の」 「大丈夫、ちゃんと消えてるよ。あんたに似合わない花の香りがして、おもしろい事になってるけど。石鹸使いすぎじゃないの?」 「……ちょっと、気合入れて洗いすぎたか」  カイは照れ隠しに笑いながら頭を掻く。同時に、リタから半歩距離を置いた。そうしようと思ったからではなく、体が勝手に動いていた。  しまった、と思ったが、もう遅い。少し寂しそうに陰った空色の瞳が、無言でカイを責め立てるようだった。  胸の奥に湧いた少女への恐怖心は否定しない。彼女の力は得体が知れず、恐ろしい。向こうから握手を拒んだ事から、彼女の力がカイにも被害を及ぼすのはほぼ間違いないと予測してしまえば、なおさらだ。  それでも、「だから、彼女と距離を置くのは当然なのだ」と認めたくはなかった。 「わ、悪い」  咄嗟に口をついた簡素な謝罪の言葉に、リタは薄く笑う。出会ってさほど時は過ぎておらず、彼女の事をよく知らないカイにさえ、「リタらしくない」と思わせる悲しい笑みだった。 「謝る事ないって。怖がるのが当たり前でしょ。みんなそうだよ」  不思議な笑みだった。蟻と戦った時に彼女が一瞬見せた笑みと似ているかもしれなかった。いや、あれは彼女が一瞬見せたわけでなく、自分が一瞬で目を反らしたのだったか。  自分の力への思いが、今の彼女の笑みに現れているのかもしれない。巨大な蟻を吹き飛ばせる力を、魔物狩りとしてのリタは誇り、ひとりの人間としてのリタは疎ましがっているのかもしれない――そこまで考えて、町長宅ですれ違った魔物狩りと思わしき男の言葉を思い出したカイは、リタに気付かれないよう深く息を吐いた。 「化け物」と言っていた男は、体のあちこちをどこかに叩き付けたような跡があった。きっと彼は、何かのひょうしにリタの力を身を持って知る事となったのだ。そして彼女を恐れ、逃げ出した。  あの男を責める気はない。責める権利もない。カイ自身も同じ事をしたのだ。屋敷を出るか、半歩離れるかの違いだけで、リタから距離を置いたのは同じなのだ。何も知らずに、リタを傷付けてしまったのだ。 「話すのが嫌じゃなかったら、教えてくれるか。その力の事」  勇気を出して訊ねると、リタは目を見張ってカイを見上げてきた。 「聞いてどうするの」 「どうするって……改めて訊かれると、困るんだが。なんとなく、知りたいと言うか、知らないと嫌だと言うか」 「そっか。なんとなく、か」  張り詰めた空気が微かに緩んだ。隣を歩く少女の足取りが僅かに軽くなったように感じ、カイは少しだけ嬉しくなった。 「期待される答えを返せるほど、あたし自身この力の事よく判ってないんだけど、どうも産まれた時から持ってたみたい」 「よくここまで育ったな。魔物はともかく人に触れられなかったら、赤ん坊なんて育たないだろう」 「全員に触れないわけじゃないんだ。女の人なら何の問題もなく触れるの。普通の動物とかも平気。男の人でも死体は平気だったから、駄目なのは生きている男の人と魔物だけだと思う。駄目って言っても、素肌が触れ合わなければ問題ないから、今ならあんたと握手もできるよ」  薄い皮手袋を着けた手をひらひらと振るリタに応えるように、カイはおそるおそる手を伸ばしてみた。彼女の言葉を信じ、皮に覆われた指先にそっと自分の指先を重ねてみると、確かに何も起こりそうにない。  ほっと胸を撫で下ろす。直後、安堵をあからさまに態度に出した事を後悔したが、リタの表情は陰る様子がなく、カイは再び安堵した。 「あんまり実験するわけにもいかないから、別の法則があるのかもしれないけど、今のところ把握しているのは、魔物や男の人があたしに触れそうになると、何かにはじかれるみたいに相手が吹っ飛んじゃうって事かな。あたしが触れようとしても同じ。どうしてあたしだけこんな力を持っているのかも、よく判らない。もしかしたら知ってるのかもしれない親は、居ないし」  カイは重なる指に注いでいた視線をリタへと移した。 「まだ二歳かそこらの頃にね、拾われたの。拾ってくれた人が言ってた。泣き喚くあたしの声に気付いて近付いてみたら、布に包んだ子供を抱いた男の人が倒れていたって。あたしは元気に泣いてたけど、男の人は死んでたって。背中に大きな傷があったんだって。薬草とか包帯で手当されていたけど、治りきっていない傷が。普通の人なら動けないくらいに深い傷を負いながら、その人はあたしを抱いてどこかに向かっていたみたい。もしかしたら、追われていたのかも」 「その人は、君の父親?」 「そうかもしれないし、違うかもしれない。今更確かめようがないし、だいいちその人の事、あたしの記憶には残ってないから」  リタの手がゆっくりと滑り落ち、ふたりの指先が離れた。同時に温もりも離れていく感覚に見舞われ、カイは戸惑った。皮手袋越しでは元々、温もりに触れていないというのに。  距離を感じたのかもしれない。ふと、カイは悟る。物心着く前から母親がおらず、父は仕事でよく家をはずしていたカイであっても、リタの抱く寂しさのいくらかしか理解できない。カイには、いざと言う時に頼れる父親が存在するのだから。  ジークの息子だと名乗った事、父であるジークを誇った自分が、今更ながらに恥ずかしくて仕方がなかった。悪気があったわけでも、自慢するつもりがあったわけでもない。リタもその程度の事、悪意に取りはしないだろう。だが、自分の中にある甘えを彼女に見せてしまった事が、急に恥ずかしくなったのだ。 「女の人ばかりのところで育てられたからね。この力に気付いたのは、ずいぶん後だった。気付いた時は、どうしようかって思ったなあ。育ててくれた人に恩返しできないし、普通に生きるには役に立たない、厄介な力だから。消えてしまえばいいって何度も思ったけど――今はけっこう、役に立ってくれてる。だって、魔物狩りとしては、ある意味で無敵でしょ? どんな魔物もあたしを傷付けられないんだから」 「確かに」 「だから、絶対負けないよ、あたし」  リタは小さな手を握りしめて作った拳を、カイに向けて振り上げた。 「さっきは町中で被害を広げちゃいけないかと思って協力したけど、本当ならひとりで倒せたんだから、あんなの」 「どうやって?」 「死ぬまで壁や地面に叩きつければ、そのうち弱るでしょ。ま、今回はそんな事したら、あいつが弱る前に壁が壊れそうだから、やめたけど」  振り上げられた拳を柔らかく受け止めて流しながら、カイは微笑んだ。カイには今の彼女の態度が本音か虚勢かを見分けるだけの力はなかったが、仮に虚勢だったとしても、強がる事ができる彼女の力が眩しいと思えたのだ。  彼女の力は、彼女が失ったものの代わりに与えられたのではないか、とカイは考えた。彼女を守るはずだった両親の代わりに、彼女を守ろうとしたのではないか、と。  だからと言ってありがたいものとは言い切れないし、不便な力よりも両親の庇護を望む方が普通であろうから、カイはその考えをリタに伝えようとはせず、自身の中で消化した。 「敵に回すと手強そうだな、君は」 「うん、手強いよ。気を付けてね」 「自分で言うなよ」とカイが言う前に、リタは軽い足取りでカイの数歩前に進んだ。表情はもう覗けない。突然見せつけられた小さな背中だけが、彼女の感情を不器用に伝えてくる。 「話。聞いてくれて、ありがとう」  ぽつりと、こぼすようにリタは言った。 「? 俺が訊いたんだから、当たり前だろう」 「まあ、そうなんだけど」  カイが疑問を視線で投げかけてみても、首を傾げてみても、リタは応えない。 「今日の夕飯なんだろうね」とか、「ここ、ご飯おいしいよ」とか、他愛のない事を、食堂に辿り着くまでずっと話し続けていた。 二章 約束 1  大きく振り下ろした剣は、虚しく風を切るばかりであった。  勢い余って剣先が地面を抉ってしまい、剣を構え直す時にまだ若い芝と土が当たりに飛び跳ねる。若い緑の香りが鼻先に漂いだした頃、カイが使うものよりも幾分細い剣が、構えなおしたばかりのカイの剣身を打った。  耳につく金属音があたりに鳴り響き、カイは顔を顰める。  不愉快に思ったのはカイだけではなかった。細身の剣を振るうリタも、眉間に皺を寄せている。せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。 「はっ!」  リタが気合を込めて突き出した一撃を、カイは紙一重でかわす。剣が起こした僅かな風に、頬を撫でられた。  咄嗟に剣を手放し、目の前に迫った腕を掴んだ。リタが振りほどこうと力を込めるが、それよりもやや早く腕を引き寄せ、体勢を崩させた。もう片方の手で押さえつけようとして――触れかけた場所は剥き出しの肩だった。  触ってはいけない、と思い、動きが止まった。止める事が精一杯で、別の動きを取る事はできず、そうして出来上がった隙を見逃してくれるリタではなかった。  リタは腕を掴まれているせいで自由のきかない体をできるかぎり屈め、カイを蹴り上げる。裏が硬く加工された靴は腹部に抉るように埋まり、カイはうめき声をもらしてその場に膝を着いた。もちろん、リタの腕は手放してしまっている。  リタは手にした剣を大げさに回した後、切っ先をカイの喉元に突きつけた。 「これで一勝一敗」 「……何となく、卑怯な気がするんだが」 「こっちは非力でか弱い女の子なんだから、持てる武器は全部使わなきゃ勝てないでしょ。そーゆーのは、卑怯とは言わないよ」 「持てる武器全部使ったら、君の方が確実に俺より強いじゃないか」  とは言え、負けは負けだった。素直に認めようと、カイが両手を上げ、降参を示す。  リタは得意げに笑って剣を鞘に収めた後、近くに落ちていたカイの剣を拾ってくれた。親切ではない事は、笑顔から判る。自分の勝利を、そしてカイの負けを示すためのものだ。  悔しくはあったが、不思議と腹は立たなかった。カイは苦笑いを浮かべ、剣をしまう。 「少し休憩する?」 「内臓が落ち着くくらいまでは、お願いしたいな。さっきの、食後だったら吐いてたぞ」 「じゃ、けっこう長く休めるかな。かなり上手く入ったと思うし」  リタは悪びれなくそう言って、カイの隣に腰を下ろす。反論もできず、カイも足を放り出して体を休ませた。  中天に上がった太陽が降らす暖かな光が、汗ばんだ体をほどよく冷やす緩やかな風と共に、心地よい時間をふたりに与えてくれた。耳を澄ませば鳥の声も聞こえ、たびたび魔物が現れると言う現実を忘れてしまえば、平和にしか思えない。  実際魔物も、一昨日以来出ていなかった。一昨日のものはふたりで倒したし、最初に出たと言う魔物も、街の兵士たちが多くの犠牲を出しながらなんとか倒したらしい。「元々魔物が出るはずのない地域で二匹も倒せば、もう出ないのではないか」との予想をカイたちは立てたのだが、念のためもう少し居て欲しいと懇願されれたため、まだアシェルに残っている。  彼らの不安が判らないでもないし、宿や食事の世話は万全、魔物が出なくてもいくらかの報酬を出してくれると言う条件ならば、断る理由はなかった。きちんと魔物を倒すと言う仕事を果たしたとは言え、せっかく呼ばれてきたのに次の日に帰ると言うのも、間が抜けているような気がしたのも手伝った。  何もしないと体が鈍って嫌だと頼まれてリタと手合わせをするのも、なかなか楽しかった。カイの稽古の相手と言えばジークかトラベッタの兵士たちなのだが、リタは彼らとは違う戦い方をするのだ。  とは言え、昨日負けた事を根にもっている様子なのにはさすがに参った。例の力を発揮させないよう気を使いながら戦うのは面倒で、精神的に疲労するのだが、彼女はそれを逆手に取るように、昨日より露出を増やしてきたのだ。目のやり場に困るほどではない事がせめてもの救いだった。 「暇だなぁ……」  リタは突然呟いたかと思うと、体を思い切り伸ばして芝の上に転がった。柔らかい若草に受け止められて、気持ち良さそうに目を伏せる。 「確かに、暇だが」  同意して、カイも草の上に横になった。逆流しそうだった胃は落ち着きを見せはじめたが、蹴られた所に手を重ねると、僅かに痛みが走る。酷い痣になるのを覚悟しなければならないようだ。 「暇だと思うなら、居残りを頼まれても断ればよかったんじゃないか? アシェル以上に魔物に困ってる地域は、いくらかある」 「トラベッタ専門のあんたに言われなくても知ってるよ、そのくらい。あたしは元々そーゆーとこうろうろして仕事を請け負いながらこれまで生きてきたんだから」 「どのあたりで仕事してたんだ?」 「東の方だよ。ネラウとかバウェロとか、そのへん。トラベッタとは正反対だね」  リタは寝転がったまま、指で空中に大まかな大陸の形をなぞり、大陸の東側を指し示した。確かに、大陸の北西部に位置するトラベッタとはほぼ間逆の位置だ。 「東より西の方が魔物の出現するところが多いって聞いたから、稼げるかと思って西に向かってた途中、ここでサーシャさんに捕まったってわけ。噂話で腕のいい魔物狩りがトラベッタに居るって聞かされまくってちょっと挫けかけていた所だから、ついつい引き受けちゃった」 「ジークの事か?」 「もちろん。でもまあ、噂だし、自分の目で見てない事で落ち込むのはやめようと思った矢先に、あんたが現れた。噂にも聞いた事のない、ジークの息子」 「悪かったな。現地ではそれなりに評価されてるんだよ、これでも」 「うん、だと思う。それだけの腕を持って東に行けば、結構もてはやされると思うよ。それだけの腕の魔物狩り、あんまり需要ないから、衛兵とかに誘われるんじゃない?」 「君だってそうだろう」と言いかけて、カイは口を噤んだ。  例の力は、リタがまっとうな職に就く事を邪魔するだろう。その力を含めれば、ほとんどの兵士よりも強い事が明らかでも。 「無名のジークの息子でこれだもんなあ。ジークに張り合うのは、やめた方が良さそう。もう少し南の方に行くしかないかあ」 「トラベッタ以外も、西は魔物だらけだ。俺たち魔物狩りには、いくらでも仕事がある――喜んでいい事ではないんだろうが」  そうだね、と短く答えて、リタは静かになった。眠ってしまったのだろうかといぶかしみ、顔をリタの方へ向けてみると、空色の瞳はまっすぐ、同じ色を見上げていた。  凛とした横顔は、可愛らしいだけでなく、美しいと思えた。見つめる先に何があるのだろうと、興味を抱かせる力があった。青空か、雲か、あるいはそこに居ると言われているエイドルードを探しているのか。  いや、それだけはないだろうと、カイの中には確信があった。エイドルードを神と崇める者が、魔物狩りなどをやっている訳がないからだ。生まれながらに持つ得体の知れない力と言う、運命的なものに翻弄されながら生きてきた彼女ならば、尚更だろう。 「何か困った事があったら、トラベッタに来るといい」  カイは上体を起こしながら言った。 「なんで?」 「俺が居るから。大して力にはなれないかもしれないけど、飯食わせてやったり、休む場所を与えてやったり、代わりに魔物と戦ってやったり、話を聞いてやるくらいは、できると思う」  トラベッタにはエイドルードなる神は居ない。カイはエイドルードの救いを知らない。  けれど、人の手の強さと優しさを知っている。それに支えられて、今まで生きて来られたのだと、漠然と理解している。  だから彼女にも、人の救いがあればいいと思った。もしかしたら東に残してきているのかもしれないが、多くて困るものでもない。 「何それ。もしかして、あたし口説かれてる?」 「い……いやっ!」  予想外の切り返しを、カイは咄嗟に否定した。どもってしまった所が余裕のなさに見えたのか、それともはじめからからかうつもりだったのか、リタは楽しそうに笑い声をもらす。 「そんなに慌てなくても、判ってるって。あたしの力の事知ってから口説いてくる男なんて、今まで居なかったし。触れられない女なんか恋人にしても、嬉しくないもんね」 「いや、そんな、事は」 「『無い』って心から思うほどあんた聖人君子じゃないでしょ。そんでもって、『無い』ってさりげなく言えるほど、嘘が上手くもない。無理しない方がいいよ」  声は優しかったが、強い力が伝わってきた。  それは得体の知れない力とはまた別の、彼女が持つ力だった。幼い時に多くを失い、謎の力のせいで多くを諦めなければならなかった彼女が、生きるために得た力。  勝てないな、とカイは思った。何に勝ち、何に負けるのか、問われたところで上手く答えられる気がしなかったが、とにかく今の自分ではこの少女にはけして勝てないと、はっきりと悟った。先ほどくらった蹴りと違い、素直に認められる敗北である事が唯一の救いかもしれない。 「俺も旅に出た方が良いのかもな」  それだけでリタに追いつけるとは思っていなかったが、前進への願いを込めてぽつりと呟くと、リタがこちらを見た気配がした。 「何ならあたしと一緒に来る? 大して力にはなれないけど、ご飯食べさせてあげたり話を聞いてあげるくらいはできるよ?」 「……からかうなよ」 「ごめんごめん」  リタは立ち上がり、体についた土や草を払いのけた。  真っ直ぐに立ち、陽の光の元に立つ彼女の表情は、カイの位置からは逆光で見えそうにない。偶然なのか、彼女が意図的に隠そうとしているのかは判らなかったが、カイは彼女の感情を覗く事を諦め、俯いた。少しだけ土が近くなり、土の香りが胸に広がった。 「でもね、あたし、けっこう本気で――」 「カイさん! リタさん!」  しばし間を開けて再び紡がれたリタの声を、より大きな声でかき消したのはセウルだった。どこから見ても慌てた様子で、急いで庭まで駆けつけてきたのだろう、肩で激しく呼吸をしている。 「どうしました?」 「ちょっと……来ていただけますか」 「魔物が?」 「いえ、街に出たわけではないのですが……聞いていただきたい情報が入ったので」  カイがリタに視線を送ると、リタもちょうどカイを見たところだった。一瞬視線を交錯させ、ほぼ同時に肯くと、セウルに歩み寄る。  セウルの息はまだ整っていなかったが、歩く事が不可能なほど疲れているわけではないようで、すぐにふたりを先導して歩きはじめた。 「そう言えば、さっき、何て言おうとしていたんだ?」 「さっき?」 「『本気で』の後」 「……別に、大した事じゃないから、いいよ」  それきりリタは唇を硬く引き締め、黙ってセウルの後を追う。  少女の態度は気にかかりつつも、これは何を聞いても無駄だなと早々に諦めたカイもまた、黙ってセウルの後を着いて行った。 2  セウルに案内された部屋は、カイがアシェルに到着した日に通された客間と同じだった。  その時リタが座っていたソファには誰も座っていなかったが、カイが座っていた所には、ひとりの青年が腰を下ろして居る。居心地悪そうにあちこちを見ていた彼は、カイたちの入室に気付くと慌てて立ち上がり、不自然なほど背筋を伸ばしたまま深く礼をした。  お世辞にも綺麗とは言えない格好と、屋敷にそぐわない雰囲気。おそらく彼はアシェルの民のひとりだろうと推測したカイは、彼を安心させようと軽く笑みを浮かべてみる。  しかし青年は、カイの気遣いに気付く様子はなかった。セウルが「もういいですから」と何度か繰り返して落ち着かせるまで、ひたすら頭を下げるばかりだったのだ。  再びソファに座った青年は、ぴったりと合わせた膝の上で握り締めた拳を、小刻みに震わせていた。血の気の引いた顔色と表情からして、緊張による震えではないだろうとカイは考える。不安、あるいは恐怖によるもの――自分たちが呼びだされた事と合わせれば、原因が何であるか予想するのは容易い。 「さきほどの話を、こちらのお二方にも話してくれますか」  セウルが青年を促すと、青年は弱々しく肯いた。ようやく親を見つけた迷子のように安堵と不安を絶妙に混ぜ込んだ表情で、セウルと、リタと、カイの顔を一度ずつ見つめてから、ゆっくりと深呼吸し、口を開く。 「えっと、オレ、狩人で生計を立ててるんですが、魔物がこの町に出てからしばらく、仕事してなかったんです。魔物は山から来るって聞いていたから怖かったもんで。でも、一昨日魔物狩り――もしかして、お二方ですかね? 魔物狩りの方が倒してくださったし、昨日も魔物が出た様子はなかったし、もしかしたら大丈夫かなと思って今日は久々に山に入ってみたんです。やっぱり仕事しないと、食っていけませんから」  カイは、無意識に緩みそうになる口元を意志の力で引き締めた。  青年の言葉は、魔物を倒したその時よりも、「この町の役に立った」と言う実感をカイに与えてくれた。つい二日前の町の様子と比べれば、アシェルの民が仕事をしようと考え行動に移しただけでも、充分向上したと言えるだろう。 「それで山に入ったんです。元々この町の周りの山は険しいので、オレのように馴れている人間でもあまり奥の方には入らないようにしてるんですが、今日は万が一の事を考えて、いつも以上に気を配って、獲物が取れるぎりぎりまでしか足を踏み入れませんでした。あの山は獲物が豊富なので、それでも多少は仕事ができますから」 「で? 今日は、獲物取れたの?」 「多少は」 「多少、ね」 「兎を一羽狩ったところで、逃げ帰ってきたもんですから」  カイとリタはほぼ同時に表情を引き締め、僅かに身を乗り出した。特訓中――厳密に言うならば休憩中だが――の魔物狩りのふたりをわざわざ呼んで聞かせる話なのだ。元より魔物関連の話である事は判っていたが、ここからが本筋となれば、聞く態度がより真剣になるのは当然の事だった。 「何を見たんです?」  カイの問いかけに、青年は喉を鳴らした。 「魔物……だと思います。正面から見たわけではないんですけど、巨大な、蟻みたいなのでした。最初にこの町に来たヤツも、一昨日魔物狩りの人たちが倒したのも、巨大な蟻みたいなやつだって聞いて、同じだと思ったらオレ、怖くなって」 「一匹?」 「オレが見たのは一匹です。もしかしたら、仲間が居るのかもしれないですけど」 「近くには居なかった?」  青年は少しだけ迷ってから続けた。 「あの山には洞窟みたいなのがあるんですよ。中がわりと広くて、深い。オレが見たのは、大きな蟻がその洞窟に入っていくところだったんです。だから見たのは一匹ですが、もしかしたら洞窟の中に仲間が居たかもしれません。中、確認してみようかと思ったんですが、さすがに怖くて、すぐに町に戻ってきて、町長さんちに飛び込びました」  カイとリタは同時に安堵の溜め息を吐いた。 「帰ってきてくれて良かった。俺が知る限り、光が届かない地中の方が魔物は活発なんです。町に来ていた魔物より手強い可能性は高い」  青年は小さく開いた口をそのままに、間抜けな表情で何度も瞬きをした。  好奇心が恐怖心に負ける事によって、洞窟の奥で人知れず永遠の眠りにつかずにすんだ事は、青年のみならず、カイやリタ、何よりアシェルの町にとっても幸運と言えるのだろう。束の間の平穏が永遠に続くかもしれないと思いはじめた頃に再び魔物に襲われれば、未来が失われていたかもしれないのだから。  カイは青年からリタに視線を移した。リタは「抜け駆け禁止」とでも言いたげな厳しい瞳でカイを睨んだ後、カイの意図を察したようで肯いてくれた。  深い地中では、天上から降りそそぐ光が届かない。つまりは、エイドルードの加護も届きにくい。深い地中は、リタが守ってきた地やジークやカイが守ってきたトラベッタと同じように、エイドルードから見捨てられた場所なのだ。  だからと言って、深い洞窟の近くが全て危険なわけではない。エイドルードの力が届かないほど深い所から地上まで魔物が出てくるなどと、そうそうありえる事態ではないし、たとえ出てきたとしても、光を浴びるうちに魔物の力は徐々に弱り、大抵は人を襲う前に朽ちてしまう。エイドルードの加護がある地で、充分な力を残しているうちに人里に出てくる事は奇跡に近い確率であり、この点だけで言うならば、アシェルは相当に運の悪い町なのだろう。  ほとんどありえない偶然とは言え、魔物の出現に納得がいく理由を得た今となっては、アシェル近隣から魔物を撲滅するために尽力する事こそが、カイたち魔物狩りの仕事だ。  洞窟に巣食う魔物を、根絶やしにしなければ。 「とりあえず問題の洞窟まで偵察に行きたいと考えてます。できれば、明るいうちに。せっかく帰ってきたところを申し訳ないですけど、案内を頼んでもいいですか?」  青年は間抜けな表情のままカイを真っ直ぐ見つめた。 「今日、これから、ですか?」 「できるだけ早く片付けた方が町も安全だと思いますし……あ、貴方を戦いには巻き込みません。万が一途中で魔物と出くわしても、絶対に守ります」 「あたしたちの力を全面的に信用しろって言っても無理なんだろうけど、貴方を逃がす時間を稼ぐくらいの力はあるって、信じてほしいな」  魔物の恐怖に震える眼差しが、カイとリタを素通りして、セウルを見た。セウルは一瞬申し訳なさそうに目を反らしたが、すぐに青年に向き直り、一礼する。 「怖い思いをさせて申し訳ありませんが、よろしくお願いします」  次期領主に頭を下げられては、断りようがないのだろう。青年は半ば諦めたような表情で肯き、深く息を吐いた。 「それじゃ、俺たちすぐに準備をしますので、少しだけここで待っていてください」  カイとリタはどちらからともなく立ち上がると、客間を飛び出した。  しばらくは並んで通路を歩いていたが、やがて小走りになる。平静を装いながらも自然と気は焦りはじめ、それが行動に現れてしまったのだった。 「この間出たのよりは、手強いんだろうな」  それぞれの部屋に戻るため、道を分かった瞬間にこぼれたリタの呟きに、カイは足を止める。振り返ると、わき目も振らずに与えられた部屋に飛び込んでいくリタの背中だけが見えた。  リタの言う通りだ。相手は町に出た魔物よりも力を蓄え、活発に動く事だろう。  もっと、気を引き締めなければ。アシェルのためにも、自分たちのためにも。 3  得体の知れない足跡は、山の麓からはじまり長く続いていた。  黒色が強いこの山の土は柔らかく、振り返ると自身の足跡がくっきりと残っている。この柔らかさならば、ふた晩以上前――おそらくは――の足跡が薄くとは言え確認できる程度に残っているのも、当然の事と言えた。  カイは青年の案内に従いながら、足跡を目で追う事を忘れなかった。ふと顔をあげると、リタもカイと同じようなところを見ている。彼女も足跡に気付き、おそらくは蟻に似た魔物のものであると予想したのだろう。 「あそこです」  やがて青年が立ち止まり、洞窟の入り口を指し示すその時まで、足跡は途切れる事も、別の方向へ進む事もしなかった。三人の前方へと続いて行き、洞窟の入り口に至ったところでようやく切れている。  入り口付近には、今日ついたばかりであろう新しいものから、今にも消えそうに薄れたものまで、似たような足跡が密集していた。 「間違いなさそうだね」  リタの言葉にカイは肯いた。  青年が見たと言う魔物も、一昨日アシェルを襲った魔物も、そしておそらくは最初にアシェルを襲った魔物も、全てあの洞窟から出てきたに違いない。  カイは更に数歩歩みを進め、青年を追い越し、洞窟に近付いた。巨大蟻が出てくるだけあって、入り口は縦にも横にも大きく広がり、奥に続く暗闇が今にもカイを飲み込まんとしている。強い魔物を目前にした時の緊張感が、カイの全身を支配した。 「入ってみる?」  リタはカイに歩み寄りながら言った。口調は問いかけだが、返答を聞くつもりはなさそうだ。彼女の中で、カイの返答は確定事項なのだろう。 「オレはもう、帰ってもいいですかね?」  一緒に中に入るのも、ここでひとり待たされるのも嫌だと、口調と眼差しで強く訴える青年に、カイは応えるべき言葉をすぐには見つけられなかった。代わりに足元を見て、残された足跡から一番新しいものを探す。 「さっき貴方が洞窟に入っていく魔物を見た時、魔物はどっちから来ました?」 「ええと……確か奥の方からだったと思いますけど」 「じゃあ大丈夫だと思います。一番新しい足跡は貴方が見た時のものでしょう。たぶん、外にはいません。でも一応気を付けて帰ってくださいね」 「はい。じゃあ、後はよろしくお願いします」  青年は素早く一礼し、カイたちに背中を向けた。歩む足は徐々に早足になり、背中が小さくなった頃には走りだしていた。よほど恐ろしかったのだろう。  カイは洞窟を目の前にして、剣の柄に手をかける。意志や、決意と言ったものを手のひらに込め、柄を強く握り締めた。 「あたし、先行くけど、いいよね?」  慣れた手付きで素早くランタンに火をつけたリタは、カイの返事を待たずに洞窟の中を照らす。暗闇が橙色の明かりによって晴れていくと、暗い色をした土や岩が視界に広がった。  あの巨大な蟻が出入りできるのだから足場も天上も壁も充分な強度があるのだろうと思いながら、リタもカイも念入りに一歩ずつ確かめ、足を踏み入れていく。時折見える苔の濃い緑色が華やかに思えるのは、暗い色ばかりの中に居るからだろうか? 「けっこう広そうだなあ」  慎重に確認してから、カイは岩が削られてできた壁に触れた。皮手袋越しだが、刺々しい手触りと陽の光を知らない湿り気が伝わってくる。空気は静かで重く、水分が多いせいか、息苦しく感じられた。  人間には不快な環境だが、魔物たちにとってはこれが最良の環境だと考えると、いかに相容れない存在であるかが身に染みる。人間にとって魔物が恐怖の対象であり、魔物にとって人間が餌のひとつである限り、敵対し続けるのだろう――エイドルードと、遠い昔に封印された魔獣のように。  ふと気が付くと、黙々と前進を続けるリタの背中が少し遠ざかっていた。カイは慌てて、小さい、けれど長く伸びた影を追った。  進んでいくと、ふたりが横に並び両手を広げて歩いたとしてもまだ余裕がある広い道は、僅かに狭まったのち、何倍にも膨れ上がった。これまで歩いてきた道が通路だとすれば、広場と言ったところだろう。 「あの巨大蟻が、こんなところにわらわら居たら、嫌だな」 「冗談でも言わないで欲しいよ、そんな事。あたしまだ死にたくないんだから。あ、そこら辺から、足元気を付けてね」  注意を受けたとほぼ同時に、びっしりと生えた苔の感触が足の裏から伝わってきた。湿り気を帯びた空気の中で、苔は水分を含んでおり、体重のかけ方を少しでも間違えれば滑ってしまいそうだ。道は地中深くに向けて角度がついているため、下手に足を滑らせれば随分先まで転がり落ちる可能性もある。苔に足を滑らせて怪我をした、などとあまりに情けないので、苔を乗り越えるまでは、岩壁に手をつきながら慎重に進んだ。  カイに比べて身軽であるからか、リタは器用に足場を確保して進んでいる。余裕があるのかたびたび振り返り、真剣な顔で一歩ずつ進むカイを見ると小さく笑った。 「笑うなよ」  カイが不服を告げると、リタの笑い声が強くなる。 「気を付けてって言ったのはあたしだけど、カイってば気を付けすぎなんだもん」 「ここで足を滑らせて転がり落ちて、たまたま岩壁の尖ったところとかに頭をぶつけて死亡、なんて間抜けな事になったら、恥ずかしくて死んでも死にきれないだろう」 「可能性が無いとは言わないけど、そこまで悲観的にならなくても」 「悲観的なのと注意深いのは違う」 「それはそうだけど……ま、万が一そんな死に方をしても、魔物に殺されたって形で報告してあげるから、安心し――」  再び前に向き直ろうとしたリタの頭の位置が突然下がり、カイは咄嗟に腕を伸ばした。必死なカイの右手は、急激に遠ざかろうとしたリタの二の腕を掴む事に成功する。  引き止める力によって落下が止まった一瞬に、リタは片腕を伸ばしてカイに縋りつく。カイがもう一方の手で支えると、体勢を立て直し、深く息を吐いた。 「誰が悲観的だって?」  カイは滑った足に削り取られた苔の跡と、リタの靴に付着した苔を交互に見比べる。 「う、うるさい!」  リタは顔中を朱に染めて言った。  素早くカイに背中を向け、落としかけたランタンを持ち直す。壁を蹴って靴に着いた土を落とす仕草は乱暴で、照れ隠しにしか見えなかった。  カイは声を殺して笑いながら、リタの肩に手を置く。 「安心しろ。万が一転げ落ちて死んでも、魔物に殺された事にしておいてやるから」 「……結構、根に持つんだね」  リタはカイの手を乱暴に掃うと、先ほどまでに比べて慎重な足取りで進みはじめた。カイが忍び笑いをもらすと、一度だけ振り返り鋭い視線を投げかけてきたが、それきりだった。  ふたりは無言のまま広場のような空間を横切り、再び通路のように狭まった道へと足を踏み入れる。苔の生え方がまちまちになり、角度も若干和らいでいる様子を体感すると、カイは壁に手をつくのをやめた。 「そう言えばさ、さっき、ちゃんと考えて動いたの?」  突然の問いかけの意味が判らず、カイは問いかけで返した。 「何の事だ?」 「手袋しているから触っても大丈夫だ、とか、ちゃんと考えてあたしに手を伸ばしたかって事。朝の稽古の時はちゃんと考えてたみたいだけど、今はすっかり油断してる感じがする」  カイは返す言葉が見つからず、無言を貫いた。沈黙から答えを理解したリタは、わざとらしく肩を落としてため息を吐く。 「面倒くさくて悪いけど、この仕事が終わるまでは気を付けて。あたしも気を付けるけど、あたしだけが気を付けたからってどうにもならない時があるから」 「面倒くさいとか、自分で言うなよ」  リタの指摘は最もで、「判った」「これからは気を付ける」と返すべきだとカイは思った。だがそれらの言葉よりも先に口を出たのは、自分の事を「面倒くさい」と言い切るリタへの文句だった。どうしてそれが口を吐いたのかは判らない。胸の奥で不愉快な感情が渦を巻き、それが憤りとなって飛び出したような感覚だった。 「大丈夫だよ、正直に言っても。あたし、今更そのくらいで傷付いたりしないから」 「そんなわけがない」 「そんなわけないって、なんであんたが言い切れるの。あたしの事でしょ。あんたにあれこれ言われなくても、あたしが一番良く判ってる」  判っているわけがない、とカイは思った。  彼女は見ていないはずだ。カイが間を置いた時、自分の力や過去を語った時、彼女自身が浮かべた表情を。健やかな強さで、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、己の運命を享受しながらも、複雑な想いを抱いている事を隠しきれなかった眼差しを。  強い娘だと思った。尊敬に値する人物で、見習わなければならないとも。だが、それとこれとは別問題だ。  カイの拳は、何に対してか判らない苛立ちで震えた。 「痛みを乗り越えられる人が、痛みを感じないと思ったら大間違いだ」  リタの強い眼差しが、急激に力を失った。しかし、いや、だからこそ、カイを真っ直ぐに貫いた視線は、逃れるように反らされる。 「黙って」 「いや、黙らない」 「じゃあ黙らせる」  体ごとカイに向き直ったリタは、両手に身に付けていた手袋をはずした。  リタが魔物と戦う事を前提とした探索の中で、魔物に対して有効な能力をわざわざ封印しているのは、カイに気を使っての事だ。その封印を解いてカイと向かい合うとは、相当腹を立てているのだろう。  だが怒っているのはカイも同じだった。 「理由も、意味も、よく判らないけどな、何か嫌だ」 「自分でも判ってないような怒りを、あたしに押し付けないでくれる?」 「君のせいだってのは判ってるんだ」  カイは振り上げられたまま動かないリタの腕を取った。剥き出しの手首をしっかりと掴み、逃れようとする力に抗う。無理に引き剥がそうと伸ばされたもう一方の手も取ると、互いの両手が塞がり、膠着した。 「放して」  短い言葉で望みを告げる少女の唇から目を反らしたカイは、自らが掴んだ腕の先にある白い指先に目を向けた。  精一杯力を込めているのだろう、強く震えている。だがカイは、純粋な力比べで負けるつもりはなかった。  ゆっくりと目を伏せる。強く抵抗する小さな手を、自身の頬へと引き寄せる。 「やめて」  震える声が、低く響き渡った。 「やめて!」  少女の望みが叫びとなってはじけた。  カイが少女の手を解放しながら目を開くと、胸元に自身の手を引き寄せて震える少女が見えた。小さな唇は硬く引き締められて何も言葉を紡ごうとしないが、代わりに大きな瞳に宿る光が、カイに訴えかけてくるようだった。  悲しみと恐怖の光だ。今にも泣きそうで、叶うならば抱き締めてやりたいと思うほどの悲痛な色が、そこにあった。  望みもしないのに他人を傷付けずにはいられない力への、絶望。 「同じ気持ちだよ、俺だって」  カイは囁くように静かに言った。 「俺だって、できる事なら傷付けたくなんかないんだ。俺は未熟だから、不意に傷付けるような事を言うかもしれないし、するかもしれないけど、そうしたらきちんと謝りたいと思うし……上手い言葉が見つからないな」 「判ったから、もう、馬鹿な事はするな!」  自分を取り戻したリタは、カイに向けて怒鳴りつけると、はずしたばかりの手袋をはめなおす。それからカイの頬を叩いた。  力の加減などするつもりもなかったのだろう。一瞬にして朱に染まった頬に走るじわりとした痛みが、消える事無く後を引いていく。 「あんたの言う通り、壁に頭ぶつけて死んでたかもしれないんだよ。そんな事になっても、絶対、嘘の報告なんてしてやらないから!」  乱暴な足取りで遠ざかる背中を見つめ、痛みの残る頬を自分で撫でながら、カイは無意識に微笑んでいた。  この痛みこそが、リタの本音と優しさを剥き出しにしているように思えたのだ。 4  リタはときどき考える。幼い自分を抱いたまま死んでいた男の事を。  とは言え、その男の事は話に聞いた事があるだけで、どんな顔をしていたのかも、どんな性格だったのかも、自分とどんな関係であったのかも、何ひとつ知らない。  リタを拾った女は、「父親だったんじゃないか」と言っていた。過去に何人か、拾われた時の話をした相手が居るが、話を聞いた者は大抵、彼を父親かと疑った。命が消えるその時まで、リタのような厄介な幼子を抱えていた男など、父親に違いないと誰もが思うのだろう。  ときどき思う。その人物が、父親でなかったらどうしようと。  実の父親でさえリタの事を放りだしたのだとすれば、それはとても悲しい事だ。親に存在を否定された子供ほど、悲しい存在はないと思うから。  けれど、同時に思う。父親ではない赤の他人が、最後の瞬間までリタの事を守ってくれたのだとすれば、それはとても嬉しい事なのだと。この世界全てに存在を肯定されたかのような喜びではないだろうか。  だからどちらでもいいと思った。どちらにせよ、男の存在はリタを支えてくれた。失われた事は寂しいが、はじめから何も持たない人間に、寂しいと思う隙間などないのだから。  だが、今、突然、彼が何者なのかを知りたいと強く思った。もしかすると、彼がではなく、自分が何者なのか、なぜこんな力があるのかを、知りたいだけかもしれない。  理由を知ったところで何も変わらない。原因が判ったところで対処法があるかも怪しい。だから昨日までは、自分の事や力の事など、知る必要はないと思っていた。それなのになぜ今日、唐突に、自分の事を知りたくなったのか、リタは気付かない振りをして模索した。  自分を知るための第一歩。それは、自分が知る限りの自分自身の歴史の中で、はじまりに居る人物を知る事ではないだろうか。  リタは自身の胸元に触れた。  皮鎧と服の下にある、首から下げたメダルの冷たい感触が、てのひらに伝わってくるようだった。 「あんたを抱いていた男が身に付けていたものだ。あんたがあるていど大きくなったら、親の形見として持たせてやろうと思ってね」  リタを拾った女は、リタが六歳の時、そう言ってこのメダルをリタの首にかけてくれた。小さなリタに銀のメダルはずしりと重かったが、はずす気にはなれず、毎日飽きる事なく眺めていた。  メダルは当時のリタが手を広げたほどに大きく、純銀で、空色の宝石がはまっていた。男が長年持ち歩いていたためか、少し薄汚れていたが、美しい細工がなされていて、いくばくかの値段で売れそうだと思った。リタを拾った女は金に目が無かったから、売らないでおいてくれた事は奇跡に近く、リタのために取っておいてくれたのだと思うと嬉しかった。  今なら判る。あの女は、リタを想って取っておいたわけではないのだと。  最初は売り飛ばすつもりで死体からもぎ取ったのだろう。そしておそらく、男はメダル以外にも金目のものを身につけていて、それらはすぐに売り飛ばされたはずだ。  しかしメダルだけは買い手がつかなかったのだ。出所が明らかで、かつ恐れ多いものであったから。 「気分でも悪いのか?」  カイに声をかけられ、リタは即座に顔を上げた。  洞窟は深く長く続いており、歩き続けて疲労をためた状態で魔物に会うは賢くないと、休憩を言い出したのはカイだった。動きもせずカイと顔をつき合わせるのは少し気まずい気もしたが、彼の言い分は最もであったので、少し広く平らな場所を見つけ休みを取ったのだ。 「別に。なんで?」 「胸押さえて暗い顔していたから、どこか悪いのかと思ったんだ」  リタの向かいに腰を下ろしたカイは、一口だけ水を飲んだ後、リタを見つめる。袖で口元を拭う瞬間、鼻と口が隠れて双眸しか見えなくなり、リタは僅かに息が詰まる思いをした。  カイの視線が、リタは苦手だった。  嫌いなわけではない。不愉快なわけでもない。ただ、あまりにも真っ直ぐにリタの事を見てくれるので、緊張するのだ。リタを異質のものと思わないわけでも、リタを恐れないわけでもないだろうに、その感情を抑え、同じ人として見ようとする瞳に。  リタの力を知る人間が見せるそのような眼差しを、リタは今まで知らなかった。  リタが知るものは、化け物を化け物として扱うのは当然だとでも言いたげな、差別の瞳。使えない娘を育ててきた事への恨みを込めた蔑みの瞳。人以上の力を持つ魔物狩りへの畏怖の瞳。それだけだったから。 「この仕事が終わったらどうしようかなあとか、考えてただけ」  嘘ではなかった。父かもしれない男の残り香を辿って、自分を知れればいいと思っていたのだから。そのためには、メダルが示す場所に向かうが一番の近道だろうとも思う。 「気が早いな」 「まあね。今の事ばっかり考えてたら、今を過ぎた時に足が止まるでしょ。時間が勿体ないから、先の事を考えておくの」 「へえ」  口に出しては何も言ってこなかったが、カイは「生き急ぎすぎじゃないのか」とでも言いたそうな目をしていた。  腹は立たない。その通りだとリタは思う。もしかすると、カイ自身はそんな事を全く考えておらず、リタが自分の考えを勝手にカイの瞳に反映させただけなのかもしれない。 「あたし今すごくあんたに話したい事があるんだけど、変な同情しないって約束する?」 「聞いた方がいいのか」 「できれば聞いてほしい」 「……じゃあ、努力する」 「そう。じゃあ言うけど、あたしを拾ってくれた人ってさ、娼館のおかみさんだったんだよね」  カイはいきなり言葉に詰まっていた。  娼館で育った少女の行く末など限られている。「可哀相な女の子」の代表みたいなものだ。同情するなと言われた途端それでは、カイも困惑するだろう。 「あたしさ、けっこう可愛いじゃない」 「……」 「何か言わないの? 自分で言うなよ、とか」 「悔しいが、自分で言っても仕方ないんじゃないかくらいには、整った顔をしていると思う」  心から悔しそうにカイが言うので、本音で言ってくれているのだと判り、リタは微笑みをカイに返した。飾られた褒め言葉よりもずっと嬉しいものだと感じたのだ。 「だからおかみさん、大切に育ててくれた。将来稼げると思ったんじゃないかな。お店のお姉さんたちも優しくしてくれたし、この時点ではいい人生送ってたと思う」  幼きリタの周りには、優しく温かい笑顔が沢山あった。今ならばそこには打算や虚構や哀れみが溢れていた事が判るが、当時は単純に楽しかった。あれもひとつの幸せの形だったのだろうと、今なら判る。 「でも、あたしにはこう言う力があるじゃない。いざ商品として使おうとしても、使えなかったんだよね」  真実が明らかになった時、リタを包む優しく温かいものが、一瞬にして変貌した。蔑みと、ある種の羨望とが混じりあった冷たい眼差しだけが、リタを取り巻く全てとなった。 「利用価値を色々考えていたみたいだけどね。だからはじめはさ、もの好きな金持ちがあたしを買ってくれた。他の男が触れる事もできないあたしを抱けたら自慢になる――って、選民願望みたいなのが刺激されたみたい。でもそんなの一時だけだよね。十数人くらいの馬鹿が挑戦したところで、皆無理だって気付いた。そのうち誰もあたしに金を払わなくなって、全てが終わり」  誰も優しくしてくれなくなった。それは悲しい事だけれど、当時一番辛かったのは、お腹が空いていた事だった。力が発覚する前はそれなりに食べさせてもらえた食事がたびたび出なくなり、いつしか追い出された。  四年前、リタはまだ十二歳だった。意味の判らない力の他は、何も持っていなかった。路傍に放置され、道を辿って育った娼館に戻り扉を叩いてみても、誰も扉を開いてくれなかった。 「そうなると、お腹空くじゃない」 「あ……ああ」 「泣き叫んだって誰もご飯をくれない。どこかで働こうにも、何の後ろ盾もない薄汚い子供だから、まっとうなところからは倦厭される。まっとうじゃないところは可愛いあたしに対して良からぬ事考えてるオッサンばっかりで、この力でぶっ飛ばしちゃって、すぐに追い出される事になる。どうしていいか途方にくれたなあ、あの頃は。そりゃもう、酷い生活だったわけ。将来有望な可愛いあたしはどこへやら、汚くてガリガリで道端に転がるあたし。よく生きてたと今になって思……」 「ひとつ、聞いていいか」  カイが言い辛そうに口を割った。 「何?」 「俺の忍耐力と言うか……何か、試しているのか?」 「そんなつもりないけど。何か辛かった?」 「辛いと言うか、割と厳しい条件だった」 「正直だねぇ」  リタは声を漏らして笑うと、カイは肩身が狭そうに目を反らした。 「ある日ね、夜中に道端で丸くなって寝てたらさ、女の人の悲鳴が聞こえたの。なんだろうと思ってそっちを見てみたら、若い女性が男に襲われててね。酷い事するなーとか思って、あたしそっちにふらふら近付いたわけよ。お腹空いて動く体力も無かったんだけど、なんでそんな事したのかな。人生の最後にいい事をしたかったのかもしれないし、自分勝手な男をとっちめてすっきりしたかったのかもしれない。理由は何でもいいの。あたしは震える手を男に伸ばして、男は吹っ飛んでった。助かった女の人はあたしに振り返る事なく逃げてった」 「礼も言わず?」 「その時はね。しょうがないよ、怖かったんだから。あたしが、じゃなくて――まあ、それもあるんだろうけど、襲われたって事実がね。でもその女の人はいい人だったよ。次の日ね、パンとお菓子を持って来てくれた。『昨日はどうもありがとう』って言ってくれた。それだけだったけど、それだけであたしは結構救われたの。あたしの力を上手く使えば、人を助けられる。あたしの力を上手く使えば、ご飯が食べられるかもしれないって判ったから。そうして巡り巡って、今のように立派な魔物狩りになったわけ」  誰かを守りたいからとか、何かを守りたいからとか、魔物が憎いからとか、格好いい理由があるわけじゃない。ただ、ひもじい思いをせずにすむ程度に、ご飯が食べたい。ひとりになったリタを突き動かす思いは、それだけだった。 「だからあたしはさ、今夜ご飯が食べられるように。明日のご飯も食べられるように、体が動く限り働いていたいと思ってる。だから、この仕事が終わったらどうしようって、考えちゃってるわけ」 「……そこに繋がるのか」  カイは安堵したように、納得したように息を吐いた。  それから何かを思いだしたのか神妙な顔つきになり、もの思いに耽る。どうしたのかとリタが彼を黙って見つめると、カイは自嘲気味に微笑んだ。 「じゃあ俺は今朝、君にとても失礼な事を言ったんだな。すまなかった」  下げられた頭を見て、何を言っているのだろうと思った。今朝の手合わせや会話の中で、リタがカイの事を不愉快に思った記憶など全くなかったからだ。 「何か言われたっけ?」 「いや、忘れているなら、いいんだ」  カイの微笑みは優しくて、幼き日に周囲からもらい受けた温もりよりも心地よく、リタの胸に染み入った。  こんな想いを、今朝も受け取った気がする。あれは、確か――  カイの声を記憶から呼び起こすと、再び暖かな感情が胸を支配した。そしてカイの声で語られる言葉こそが、自分が長々と語った話と矛盾する事に気付いたリタは、カイに微笑みを返した。 「『困った事があったら、トラベッタに来るといい』の事か」 「忘れてるならいいって言っただろう」  カイは眉間に深い皺を寄せた。苦い顔をして俯く彼が、今朝の自分自身を責めている事を容易に理解したリタは、小さな笑い声を漏らして彼の思考を遮った。 「あれはいいんだよ。あたしあの時、本気で嬉しかったって言おうとしたんだから」  嘘ではない。本当に、心から、嬉しいと思った。  どうして嬉しいと思うのかが判らなくて、素直に言うのは悔しくて、だから言葉を濁してしまったけれど、それでも本当に、嬉しかったのだ。幼きリタを布一枚隔てて抱いてくれていた男の存在と同じくらいに。  ああ、そうか、だからだ。  だから、男の事を知りたいと思ったのだ。  自分の事や、カイの事と同じように。 5  耳の奥に微かな水音が届いた時、はじめは幻聴であろうかと疑ったカイだったが、リタが振り返ってカイの目を見た時、彼女も同じものを聞いたのだと知った。  ひとりならばともかくふたりが同時に聞いたとなれば、幻聴ではないのかもしれない。カイはリタから灯りを受け取って、少し高めに掲げた。まだ辺りに水やそれに類似したものは見当たらないが、意識してみれば、すこし湿気が高くなっている気がする。  カイはリタと並んで歩みを進めた。やがて壁の片側が失われている所まで到達すると、おそるおそる覗き込んだ。  通路はまだ続いており、右側には今まで通り壁が続いている。しかし左手は断崖のようになっていた。  かなりの深さがあるようで、ランタンを手にした腕を伸ばしてみても、明かりは底まで届かない。だが、先ほどまでは微かにしか聞こえなかった水音が強くなったので、底に水が流れているのだろうと予想する事ができた。 「落ちたらどうなるかな」 「水の深さと流れの早さと流れに乗って到達するところによるかなあ。流れは音からしてゆっくりだと思うけど」 「落ちないに越した事はないか。今まで以上に足元に気を付けよう」 「はいはい」  リタは唇を尖らせて、縋るように壁に寄った。カイにそのつもりはなかったが、嫌味と取ったのかもしれない。彼女が苔に足を取られて転がりかけたのは、そう前の事ではないのだから。  苦笑でごまかしたカイは、リタに習って壁際に寄った。巨大蟻が通れるほどに広いはずの通路が、妙に狭く感じた。  ほぼ真っ直ぐに続く道を進んでいると、リタが時折小さくため息を吐く。ただ進む事に飽きてきているのだろうと、カイは勝手に解釈した。  リタだけではない。カイも少々飽きはじめている。途中で挟んだ休憩時間を除いても、洞窟に随分長い時間滞在しており、その間ずっと歩き続けているのだ。相当奥まで来ているはずなのだが、まだ道の終わりは訪れそうにない。  この道は一体どこまで続くと言うのか。静かなため息を吐いたカイが、リタに話しかけようと口を開きかけた途端、リタが素早く振り返った。  リタもカイと同じ気持ちで、他愛もない話でもしながら気を紛らわせようと思った――わけではなさそうだ。立てた人差し指を唇に押し当て、静かにしろと目で訴えている。  カイは肯き、ランタンの明かりを隠してあたりに闇を呼び込むと、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。  道の先から音が聞こえる。重く、破壊的な音。それが徐々に近付いてくると、足元から小刻みに振動が伝わってきた。 「下がる?」  リタはカイの耳元に口を寄せて囁いた。 「ここで戦いとなったら、足場にも気を付けないといけない分、不利かも」 「相手も同じじゃないか? いや、俺たちには余裕がある道幅が相手には際どいから、向こうの方が不利かもしれない」  カイは囁き声で返した。 「それに、剣や君の力だけで倒すより、この下に落とした方が楽じゃないかな。あの巨体が道の途中に転がっていると、先に進めなくなる」 「確かに。でも、万が一水の流れの先からアシェルに辿り着いちゃったらどうするの。あたしたち、魔物を倒しに来たのに、魔物をアシェルに案内する事になるかも」 「完全に息の根を止めてから……だと、力は使えないんだったか。じゃあ、ある程度弱らせてからにしよう」 「了解。じゃ、気を付けてね」 「お互いだろ」 「あんたの方が注意を払うべきものが多いからね」  リタはカイの目の高さまで手を上げて、手袋をはずした。なるほど確かにこれでは、カイは魔物や足元だけでなく、リタにも注意しなければならない。 「了解」  囁き声で会話する事すら危ういほど、音が近付いてきていた。カイはランタンを足元に置き、音がより近付くまでふた呼吸ほど待ってから、明かりを解放した。  暗闇に慣れ初めていたカイやリタ目に、突然の明かりは眩しかった。だがそれは魔物にとっても同じ事。魔物が明かりに怯む隙に、各々の剣を手にして、リタとカイは魔物に駆け寄る。街で戦ったものと同じ、巨大な蟻の形を取った魔物だった。  リタが身を低くした。街でカイが魔物にとどめを刺した時と同じように、魔物の体の下に入り込むつもりなのだろう。だが巨大蟻とて、自分の弱点をみすみす相手に晒す気などなさそうだった。振り上げた足をリタに向けて振り下ろそうとしている。  その足を剣で受けたのはカイだった。上から押しつけてくる力に抗うには腕が震えたが、リタが滑り込むだけの時間を作る事ができた。カイが剣を滑らせて魔物の足を解放すると、岩でできた床が砕け、小さな石が飛び散る。先の尖った石がカイの頬を掠めていき、じわりと血が滲む感触がした。  潜り込んだリタは素早く剣を上へ向けて構えた。皮膚が柔らかい場所を探し出すと、そこに切っ先を向ける――よりも一瞬早く、蟻が身を沈めた。リタを押し潰そうと言うのだろう。  リタは咄嗟に片手を柄から離し、突き上げた。  少女の細い体を無残に潰そうとしていた魔物の体が、沈もうとする力よりも遥かに強力な力によって押し上げられた。巨体は羽根のように軽々しく浮き上がり、荒く削られた岩の天井に強烈に叩き付けられる。  衝撃音と魔物の潰れた奇声が響き、石や埃の雨が降りそそいだ。響く轟音は、まるで洞窟そのものが軋んでいるようだった。  右手で剣を構えたカイは、左手で顔を庇い視界を確保しながら、ほぼ垂直の壁を滑るように落ちてくる魔物に駆け寄った。剥き出しになった弱点を見極め、走る勢いと全体重をかけて、巨大蟻の体に剣を埋め込む。  天井に叩き付けられた時よりもいっそう激しい奇声が、カイの耳を貫いた。  吹き出す体液をできるだけ浴びないように剣を抜き、魔物から離れる。最も至近距離で奇声を聞いた右耳を押さえながら、力無く地に伏す蟻を見下ろす。  悪臭を放つ体液をとめどなく流しながら、蟻は時折痙攣していた。ぴくり、ぴくりと揺れる足が、硬い地面を打つ。 「……イ」  リタが声をかけてきている。それは判るが、何と言っているのか良く判らなかった。街で蟻と戦った時よりもなお近い位置で悲鳴を食らったためか、耳が少しおかしくなっているようだ。 「悪い、聞こえない」  耳の異常を訴える自分の声も、はっきりとは聞き取れなかった。厄介な相手だと内心辟易しながら、カイはリタに振り返った。  今にも「あとは任せておいて」と言いそうな表情のリタだったが、耳が聞こえ辛いカイのためにわざわざ言葉を紡ぐ気はないらしく、口は動かない。勝ち誇った表情でカイの後ろの蟻を睨みつけ――その表情が凍った。 「……イ!」  名前を呼ばれた気がしたが、よく判らなかった。だが表情から何らかの異常を察したカイは、蟻に振り返る。  カイが蟻に与えた傷は深く、まともに動ける様子はなかった。だが蟻は、最後の力を振り絞ったのか、その前足をカイに向けて振り上げていた。  カイを突き飛ばそうと伸ばされたリタの手が、カイに触れる一瞬前に動きを止める。剥き出しの白い指は、カイに触れる事を拒絶したのだ。  カイは片足で地面を蹴り、蟻の攻撃を避けた。力の加減をする余裕はなく、背中を強く岩壁に打ちつけるはめになったが、咄嗟に壁側に飛べただけ、自分を褒めてやるべきだとカイは思う。  蟻と自分との間に、リタの小さな体が滑り込んだ。リタは細い腕を突き出し、魔物の身に触れようとする。  弾けるように、蟻の巨体が飛んだ。  蟻の向こうには壁も天井もなかった。ただ深い溝だけがあり、魔物の姿は溝の底へと消えて行く。明かりの届かない深みへ潜り、闇だけがとり残された後、激しい水音がした。 「っつ――」  カイは自身の背中を撫でながら立ち上がり、溝を見つめるリタの右隣に並んだ。 「大丈夫?」 「頭は打ってないから大丈夫、死にはしないだろう」 「そうじゃなくて、耳。聞こえてる?」 「ああ、そっちか。右がちょっとまだおかしい。左は大丈夫みたいだから、しばらくは左から話しかけてくれ」 「判った」  小さく肯いたリタが、再び溝の底を覗く。深い闇の向こうの水や、傷付いた魔物の体を見る事は適わないが、水音がするまでの時間などから距離と深さを想像しているのかもしれない。  カイは深く息を吐いた。短い戦闘であったし、自分よりもリタの方が激しく動いたはずだか、全身にびっしりと汗を掻いている。暑くて、ではなく、冷や汗だろう。 「助かった。ありがとう」  袖口で額に滲む汗を拭いながらカイは言う。  リタはカイを見なかったが、口元には大きな笑みが浮かんでいた。 「お互い様でしょ」  カイは首筋に浮かぶ汗を拭くと、次に手袋をはずした。一番汗を掻いているのは掌だった。思い通りに動かないと言うほどではないが、少し震えているかもしれない。  服の裾で念入りに拭いながら、カイは顔を上げた。リタも同様だった。洞窟の奥から聞こえてくる、新たな音に反応しての事だ。 「……何匹居るんだろ」 「これで終わりにしてほしいよな」  悲鳴を聞きつけたのか、それとも仲間の血の匂いを嗅ぎつけたのか、先ほどのようにゆっくりとではなく猛烈な速度で近付いてくる足音に、カイとリタは笑うしかなかった。しかも音からして確実に一体ではない。二体か、最悪三体は居そうだ。  ふたりは同時に剣を構えた。 6  先頭の魔物は明かりの届く位置まで近付いてきているのだが、その魔物が邪魔をして後ろまで明かりが届かず、何体居るのか目視する事はできない。だが、近付いてくるにつれて音が聞きとりやすくなり、三体だろうとの予測に自信が持てるようになった。  道が狭いのは幸いだ、とカイは思う。相手が何体同時に現れようとも、向こうは一匹ずつしかかかってこられない。後になるにつれて体力が消耗していくのは避けられないが、それでも常に二対一の状況を保てるのは圧倒的に有利だった。 「あのさ、効率よくやらない? さっきは一体だったから、そっちにばっかり負担かけるのも悪いかなあと思ったんだけど、今回は相手三体だし、次々片付けていかないとまずいでしょ」  カイはしばし沈黙を守ってから肯いた。 「まあ、仕方ないな。君に俺の代わりはできても、俺に君の代わりはできないんだからな」 「ごめんね。よろしく」  先陣を切った蟻が両前足を振り下ろす。後方に飛ぶ事で避けたカイとリタは、一瞬だけ目を合わせて肯きあうと、すぐさま地面を蹴り、左右から蟻の足を切り付けた。  これまで戦った二体から想像するに、蟻に似た巨大な魔物の知能は、大して優れていない。二手に分かれて向かってきたカイたちに、何か小細工で対抗してくる事は無く、足を振り上げて攻撃を仕掛けてくるのみだ。  両方を一度に襲えば体勢を崩すと思ったのか、蟻はまずカイを狙って左前足を振り上げた。振り下ろされるよりも前にカイは身を滑らせ、蟻の体の下に入る。  アシェルの街での戦いの時はどう倒して良いか途方に暮れ、恐ろしい魔物だと思ったものだが、弱点が判り易々と剣が通じる今、対応できないほどの素早さを持っていないこの魔物を、さほど強敵とは思えなくなっていた。  カイは深々と剣を埋め込むと、すぐに引き抜き、蟻の下から逃れる。 「リタ!」  僅かの間に、リタは壁際に寄りながら蟻に近付いていた。苦痛に暴れる蟻の側面に回りこみ、剥き出しの手で蟻に触れようとする。直後、見えない力に跳ね飛ばされた蟻は、溝の底、闇の奥深くへと消えていった。  跳ねる水音に耳を傾ける余裕も、底を悠長に眺める余裕もない。出番を待っていた二番目の巨大蟻が、間髪入れずカイたちを襲った。  何体現れようと、カイがやる事は同じだった。蟻の体の下に潜り込み、あるいはリタに蟻の体をひっくり返してもらい、比較的柔らかな皮膚に剣をつきたてる。それだけだ。カイは体勢を立て直しながらひとつ深呼吸をし、剣を構えて二体目につき進む。  柄が少しぬめりを帯びていた。できるだけ被らないように気を付けてはいた魔物の体液が、手に絡みついたのだ。滑らせないように気を付けねばならないと、柄を握る手に力を込める。  魔物は壁際に立つリタを食らおうとしているのか、大きく口を開けて噛みつこうとした。リタが素早く身を屈めると、鋭い歯は壁に食らいつき、岩を砕いた。 「っ……!」  弾けた小石が瞼を掠め、右目の視界が突然ぼやける。不安定な視界が気味悪く、カイは思い切って右目を閉じ、左目だけに頼る事にした。  リタを逃した蟻が砕けた岩を吐き出しながら不満そうに振り返り、新たな標的であるカイを捕らえる。振り下ろされた前足を上手く避けられず、カイは地面を転がった。つい先ほどまでカイが立っていた場所が綺麗に抉れ、砕けて小石になった岩が周囲に散らばった。 「カイ!?」 「大丈夫!」  少々距離感が掴み辛いが、慣れれば問題はない。魔物を自分の方に引きつけ、隙を突いて体の下に滑り込むくらいならば何とかなる。  再度向けられた足を剣で払い、カイは二体目の蟻の下に潜り込んだ。  先ほどと同じように素早く狙いを定められれば問題なかった。しかし、距離感が掴み辛い片目では、やや薄くなっている皮膚を探し出し、剣の切っ先を向けるまでに、少々手間取ってしまう。その時間の浪費が、カイの明暗を分けた。  カイが狙いを定めるよりも、巨大蟻が身を沈めはじめる方が早かった。硬い皮膚が、カイを押し潰そうと迫ってくる。  瞬時に剣を持ち変え、切っ先を地面に埋めた。それから地面を這うように頭を下げつつ、予備に持っていた短剣を引き抜く。  人の何十倍の重みがあろう魔物の体だったが、地面に辿り着く前に、突き立てられた剣の抵抗を受けた。剣は刃を軋ませ、折れるまでの僅かの間、支えとなってカイを守ってくれる。その間に、カイは短剣を魔物の体に埋め込んだ。  刃の長さの分、長剣を埋め込んだ時より傷は浅いはずで、おそらく致命傷には至っていないが、魔物に苦痛を与えるには充分だったらしい。魔物は奇声を洞窟内に響かせながら、その巨体を浮遊させた。  もちろんリタの力だった。カイが魔物に潰されるよりも一瞬早く、力を使ってくれたのだ。二体目は一体目と同じように溝の底へと姿を消し、最後の一体がカイとリタの前に現れた。 「後で新しいの買って返すから、剣貸してくれ!」  リタの視線が折れた剣に向けられた。見るも無残なその姿に、一瞬表情を強張らせたが、怯むほどに弱い娘ではなかった。 「大丈夫なの? 三体目だし、あたし、代わるよ?」 「いい!」  意地と言うよりは、もはやただの我侭だったが、リタは受け入れてくれた。カイが手を伸ばすと、快く剣を差し出してくれる。  剣は使い慣れたものよりも細く、軽かった。自分とリタの腕力の差を考えれば当然の事だが、ふと思った事と言えば、やはり彼女は、謎の力さえなければ普通の少女なのだと言う事だった。  馬鹿な事を考えた。カイは自身に反省を促し、余計な考えを振り切って、巨大蟻に対峙する。  魔物の低い唸り声が空気を振動させた。仲間が次々と葬られた事を怒っているのかもしれないし、脅威となる相手を威嚇しているだけかもしれなかった。  地面を蹴り、魔物の攻撃を軽い足取りで避けながら、距離を詰める。二体の魔物と戦ううちに息が乱れていたが、不思議と疲労はあまり感じなかった。  体力的な面での問題はない。右目の視力もほぼ戻っている。もはや、負ける気はしなかった。今までと同じように繰り返せば、勝利は決まりだ。  今度は危なげもなく、カイが魔物の皮膚を抉る。続いてリタが力を発動すると、魔物の巨体が通路から全て消え失せた。  カイは安堵の息を吐きながら、その場に座り込んだ。 「お疲れ」 「おう」  リタの声に軽く手を上げて応えるが、それ以上の動作や言葉で返すは億劫だった。リタも判ってくれているようで、それ以上カイに話しかけようとせず、溝の淵に歩み寄って暗い底を眺めた。表情は静かだが、引き結ばれた唇に勝利の喜びが見える。  カイは深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸と心臓の音を落ち着ける。正常にある程度近付いてから、少女の背中に声をかけた。 「剣、悪かった。新しいの買って返す」  悪臭を放つ魔物の体液に汚れた剣を掲げ、カイは言う。 「いいよ別に。ちゃんと洗えば問題ないでしょ。こんな仕事してるんだから、剣が魔物の血で汚れるのはむしろ勲章だし。それより自分の剣の事考えなよ」  できれば忘れていたかった事実を目の前に突き付けられ、カイは無残な姿となった愛用の剣に目を向けた。  特別な一品と言うわけではないが、数年間仕事を共にしてきた相棒であったので、それなりに思い入れがある。しかも、魔物狩りとして仕事をはじめる際に父がくれたものであった。父の本音がどうであったかはともかく、一人前として認められた証のようで、誇らしく思ったものだ。 「親父に怒られるかな」  ひとりごちてから、それは無いなとすぐに思い直し、カイは小さく笑う。仕事道具を大事にするようにカイに教えてくれたのは父だが、「受けた仕事を果たし、自分の命を守る」事を最優先に考えるよう教えてくれたのも、また父であったのだから。 「とりあえず今日は探索をここまでにして、アシェルに戻ろうか。新しい相棒に相応しい剣がアシェルにあるか判らないけど、あたしのよりは手に馴染むのがあるだろうし、あたしだって剣が無いと心細いしね」 「そうだな。何より、休みたい。こつを掴んだとは言え、連戦はきついな」 「だろうね。お疲れ様」  リタがくるりと体ごと向き直って微笑んだ。  短い金の髪が軽く浮き上がり、白い頬を掠めながら元の居場所に戻ろうとするのと同時に、浮かせていた片足を地に着ける。  深くから聴き慣れた魔物の奇声が届くと共に、地面が大きく揺れたのは、その瞬間だった。 「っ……!」 「リタ!」  足を踏み外して後方へ大きく体勢を崩したリタが、悲鳴の代わりに吐息を漏らす。  足場を失ったリタは、闇へと繋がる大きな口に飲み込まれかけたが、必死に手を伸ばして右手の指を淵に引っ掛けた。  細い片腕では体を支えきれない。指が小刻みに震え、今にも離れてしまいそうだった。指の力が保てるうちにもう一方の手でどこかに捕まろうと手を伸ばしているが、あと少しと言うところで届かない。 「リタ!」  疲労を忘れて駆け寄ったカイはリタに手を差し伸べた。 「だ……」  大きな瞳に悲痛な色を浮かべながら、何かを言おうと口を開いたリタだったが、溝深くで暴れる魔物が体当たりをしたのか、再び辺りが大きく揺れると、必死に掴んでいた指を滑らせた。  いつも強気な表情を浮かべる可愛らしい顔が、深さも、広さも、他にどんな生き物が存在するかも、何ひとつ判らない地下深くに落とされる恐怖に、ゆっくりと歪んでいく。  カイは何も考えられず、落ちていくリタを救おうと、腕を伸ばしていた。 7  注意しろと何度言われたか知れないし、以前の自分は、無意識に距離を置こうとするほどに彼女を恐れていた。  だと言うのに、カイはこの一瞬、全てを忘れてしまっていた。彼女が魔物と戦うために素手であった事、汗を拭こうとして手袋をはずしたまま戦闘に突入したため、自分も素手であった事、何人もの男たちが彼女に触れようとして、強大な力に拒絶されてきた事。 「駄目!」  その力によって幾度も苦痛を味わってきたリタは覚えていたのだろう。カイが少女の腕を掴む瞬間、悲鳴にも似た叫びでカイを制止しようとした。自らが闇の底に落ちていく事よりも、カイが自分に触れようとしている事の方を、より恐れているようにも見えた。  なぜ『駄目』なのか、なぜ触れられる事を恐れるのか――リタを助けたい一心であったカイにはその程度の事すら思いつかず、リタの腕を掴んでいた。  ずしり、と少女の重みがカイの腕にかかった。  小柄で細身な少女は、思っていたよりもずっと軽かったが、咄嗟に腕を伸ばしただけの不自然な体勢で引き上げる事はさすがに不可能だった。カイは一度体勢を整え、息を吐き切ってから再び息を吸うと同時に力を込め、リタの体を引き寄せた。  リタの両腕が地面を掴めれば、もう安心だった。溝の底の魔物は最後に残された力で暴れただけなのか、もう二度と地面が揺れる事はなく、少女は自身の両腕で自らの体を引きずり上げ、その場に座り込む。  全身を小刻みに振るわせながら、リタは空色の瞳をカイに向けた。そこに浮かべる感情は恐怖でも怒りでも感謝でもなく、ただ強い驚愕のみだった。 「あ」  カイはようやく気付く。自分が布一枚すらも隔てずに、リタに触れてしまったと言う事実に。 「えっと、わ、悪い。俺、自分の手が魔物の血で汚れてるなんて事、咄嗟だったからすっかり忘れてた。君も汚れてしまったな。すまない」  眼差しを重ね合わせる事で、リタの動揺を受け取ってしまったカイは、混乱しているせいか考えついた中で一番どうでもいい事を口にしていた。カイが触れてしまったせいで彼女の腕が魔物の体液で汚れたのは事実だが、その結果命が助かった事を考えれば、取るに足らない問題である。  カイは戸惑った。ただ真っ直ぐに見つめてくる空色の瞳を黙って見つめ返す事は息苦しいが、新たな言葉は全く口をついてくれない。仕方なく、魔物の血に塗れた自身の手を見下ろす事で、リタの視線から目を反らした。 「なんで」  ほぼ放心状態となっていたリタは、小さな唇からようやくその言葉だけを紡ぎだした。 「……なんで、だろう?」  どうしようもなくなって、カイは笑った。笑いながら、投げかけられた問いをそのまま返すしかなかった。  カイはこれまで、魔物を吹き飛ばすリタを何度も見てきたが、男を吹き飛ばしているリタを見た事は一度も無い。アシェルに来た時にすれ違った男の態度や、何よりもリタの辛そうな語り口調から、彼女の言葉を信じただけだ。 「彼女はずっと嘘を言い続けていたのではないだろうか」と、カイは一瞬だけリタを疑った。しかし、未だ夢を見るようにカイを見つめ続ける少女の眼差しは、やはり偽りとは思えなかった。  では、どうしてだろう。どうして、数多の男たちの中で自分ただひとりが、リタに触れられるのだろう。 「今まで、みんな駄目だった。生きてる男の人は……カイって、実は女の子」 「それは絶対ない」 「じゃあ、死体が動いてるの?」  リタの手がおそるおそるカイに伸びる。  柔らかな指が存在を確かめるようにカイの輪郭に触れた後、頬を撫でた。カイに体温や脈がある事を確かめているのかもしれない。 「とりあえず、今までに死んだ記憶は無い」 「じゃあ、人形?」 「いや、それは、ないだろう」 「じゃあ、どうして」 「……どうしてだろう」  同じ問答に戻ってしまい、カイは苦笑した。  つられるように僅かに笑ったリタだったが、まだ信じられないようで、カイの顔に触れていた手を、今度はカイの手へと移した。 「汚れるぞ」  魔物の血に塗れたカイの手はお世辞にも綺麗とは言い難かったが、リタは気にする様子を見せなかった。力無く投げ出されたカイの手に自身の手を重ね、やはり何も起こらない事を確認すると、俯く。 「意味、判ら、ない」  リタの唇から、短く切り刻まれた言葉が零れ落ちていった。 「なんで、カイは、平気なの。カイだけが……やっぱり、意味、判らない」  俺だって判らないよと思いながら、思った事を口にせず、カイはリタを見下ろした。  リタの瞳は、散らばる石の欠片を見つめていた。だが、意識してそれを見ようとしているわけではないのだろう。これまで信じ込んできた運命が否定された現実をしっかりと受け止め、自身の中で整理するために、彷徨っていた視線をそこに定めたにすぎないはずだ。  カイはしばらくの間、ひとりで戦うリタを見守っていたが、やがてこの洞窟が魔物の巣であった事を思い出すと、ゆっくりと立ち上がった。リタを助ける際に放り投げたリタの剣を右手で拾い上げ、もう一方の手を、未だ立ち上がろうとしないリタへ差し出す。 「リタ。とりあえず今日はアシェルに帰ろう」  疲れて、混乱したままで、魔物が出るかもしれない洞窟に居座るのは危険だ。一度戻って、荷物も、気持ちも、できる限り整理をつけた方がいいだろう。 「うん」  リタは僅かに戸惑ったが、カイの手を借りて立ち上がった。照れ臭そうにしつつも、人の温もりに触れる喜びに酔うように強く手を握ってきたので、カイも同じだけ強く少女の手を握り返した。  するとリタは顔を上げ、カイを見つめ、小さく笑う。  カイも微笑み返した。どうしてか、魔物を倒した時よりも、満たされた気分だった。 8 「……探索に来て良かったよな」  洞窟の最奥に広がる光景を目にした瞬間、カイは呟いていた。  一見しただけでは、さほどおぞましいと言える光景ではない。洞窟を深く潜り続け、最終的に到達した楕円状に広がる場所に、十数個にも及ぶ球体と、蟻を二匹発見しただけだった。  蟻の体長はリタの半分ほどで、力いっぱい噛み付けば、人間の腕程度ならば噛み千切れそうな歯も持っている。一般の蟻と比べてしまえば充分化け物だが、これまで戦ってきた魔物と比べれば、明らかに小さく、弱かった。おそらくは、昨日かそれ以前に倒した魔物の子供で、球体は卵であろう。 「そうだね。明らかに、繁殖してるよね。昨日案内してくれた人、凄く嫌そうにしていたけど、感謝してもらわないと」  リタは同意しながら、腰の剣を引き抜いた。 「とりあえず、潰そうか」 「数は多いけど昨日よりは明らかに楽そうだな」  カイもリタに倣って剣を抜いた。  もちろん、昨日折ってしまった愛用の剣ではない。昨日アシェルに戻ってセウルに報告と事情説明をしたところ、快く譲ってくれたのだ。アシェルの町の衛視たちが使っている一般的なもので、予備として倉庫に数本眠っていたものの一本らしい。  刃の長さ、剣そのものの重さ、柄の形や細さなど、あらゆるところが愛用の剣と少しずつ違うため、使いやすいとはけして言えないが、贅沢は言っていられない。同じ剣を準備するためにトラベッタに戻るわけにもいかないし、戻ったところで剣が直せるかどうかも、同じ剣が手に入るかどうかも判らないのだ。先の事はともかくとして、今はこの剣に自分を馴染ませるしかないだろう。幸いにも、今日の相手は昨日ほど強敵ではなさそうだ。  体が小さい分すばしっこく感じる魔物を、使い慣れない剣で捕らえた時、すでにリタはもう一匹の息の根を止め、卵の方の始末をはじめていた。すでに孵っているものがいる事から予想した通り、生まれる寸前の卵ばかりで、潰れた卵からはほぼ蟻の形をしたものがこぼれ出てきている。 「これ、全部孵ってアシェルを襲ってたらどうなってたかな」 「間違いなく全滅だろうな。魔物に慣れてるトラベッタでも、どうなる事か」 「だよね。あたしたち、町の英雄になってもよくない? ま、こんな通りすがりの町で英雄になっても、あたしの方が忘れちゃうだろうし、ちゃんと報酬払ってくれればそれでいいけど」 「冷たい意見だな」  カイは率直な感想を口にしてみたが、リタは機嫌を損ねる様子はなく、むしろ楽しそうに笑みを浮かべて、切り返してきた。 「あたし、何か間違った事言った?」  カイは柔らかな笑みを浮かべ、首を左右に振った。 「俺も同意見だよ。アシェルの町を助けられた事は純粋に嬉しいけど、トラベッタに帰りたいって気持ちの方が強い。俺が守りたいのは、やっぱりトラベッタなんだな――それが理解できただけでも、この仕事に意義はあったのかもしれない」 「じゃ、報酬いらない?」 「それは別問題だ」  ふたりは顔を見合わせ、ひとしきり笑った。魔物は滅び、互い以外の生物が存在しない洞窟の中は寂しいほど静かであったはずなのに、笑い声が絶えないその時間は、むしろ賑やかと言えた。  最後の卵を潰し終え、こびりついた魔物の血を拭い、剣を鞘に納める。ほぼ同時に作業を終えたふたりは、どちらからともなく来た道を振り返った。  並んで、ゆっくりと歩き出す。暗い洞窟の中である事は変わらないが、魔物が残っていない事を判っている今、往路ほど緊張感に包まれていなかった。心なしか足取りと気分が軽くなっている。  カイはリタの横顔を見下ろした。誇り高く胸を張って歩く少女の表情は達成感に満たされて明るく、空色の瞳は眩しいほど輝いている。  だが、カイは直感的に思った。何か物足りない、と。 「ほとんど分岐のない道のりだったし、分岐がある所も、しらみつぶしに全部探索した。完璧な仕事だよね」 「そのつもりだ」 「これでアシェルに魔物は来なくなるだろうし、アシェルに帰ったらこの仕事は終わりかな。もう二、三日、様子見で残る事になるかもしれないけど」 「そうなるだろうな」  カイははじめ、リタの横顔を眺めながら、彼女の表情に欠けているものは何なのだろうと考えていた。しばらく考えて、欠けていると言うよりは余計なものが加味されているのではないかと思い至った頃、突然大きな瞳に睨み付けられ、思わず仰け反った。 「凄い生返事だけど、あたしの話聞いてる?」 「え……あ、うん」 「本当かな」  真っ直ぐに見上げてくる瞳に、思考を傾ける方向が強引に変更された。  少し前、具体的にはそう、昨日からだ。何かがカイの中で引っかかっており、しかし何が引っかかっているのかは判らなかった。気持ちが悪く、はやく答えを知りたいと思ったのだが、どれほど考えても答えは判らない。そうして考えるだけ無駄だとの結論に至り、無理矢理忘れ去った問題を、目の前につきつけられたのだ。  得体の知れない不愉快な気分が胸の中を占領しはじめ、カイは自身の胸元を抑えた。まったく気分が悪い。だが、どうして気分が悪いのかも、どうすれば解決するのかも、やはり判らないままだった。 「カイはこの仕事が終わったらトラベッタに帰るんだよね、もちろん」 「ああ」 「そうだよね」  短い間表面に出ていた怒りが、リタの表情から消えた。 「君はこれからどうするんだ?」  話の流れから自然に湧き出てきた問いが自身の唇から放たれた瞬間、カイは唐突に悟った。疑問に思っていたふたつの問いの答えが、目の前に揃って置かれた気分だった。  リタは仕事を完璧に終えた事に誇りを抱き満足している。それは間違いない。それによって浮かぶ明るい表情の中に、隠れるように混ざりこんだ感情――不安なのか寂しさなのか、カイに具体的な事は判らなかったが、どちらにせよ、仕事が終わった後の事を未だ定めていないせいだろうと予想が付いた。実に簡単な答えだ。  そして、答えどころか問すらもはっきり理解していなかった、もうひとつ問題。 「どうしようかって考えていたんだけど、やっぱり――」 「あのさ」  リタの答えをわざと遮ってカイは続けた。 「俺は昨日からずっと引っかかっていた事があって、その答えが今ようやく判ったんだが」 「それは、自分から聞いてきた質問に答えようとしているあたしの声を遮ってまで言わないといけない事?」 「だと思う。君のこれからに関わるかもしれないし」  リタは息を飲んで間を開けてから続けた。 「一体、何?」 「いや、だから……」 「何で口ごもるの」 「その……俺には、君を口説く権利があるんじゃないかって、思って」  カイは手袋をはずし、剥き出しになった暖かな手で、そっとリタの手を取る。少女の手は、カイよりも少し冷たかった。  大きな瞳を更に大きく見開いたリタは、しばらくの間は呆けた様子でカイを見上げていた。カイの言葉を消化し、言葉の意味を脳の奥まで浸透させるには、多くの時間が必要だったようで、リタが瞬時に顔中を朱に染め上げたころには、ふたつの手の温度が同じだけになっていた。  リタはカイの手を振り切る。自由になった両手で、熱を計るように己の頬に触れる。カイの視線から逃れるように顔を反らしてから、続けた。 「そんな、義務みたいに思わなくてもいいよ。ただの偶然、うん、偶然なんだから」  カイは静かに息を吐いてから返した。 「放っておけば数日後には半永久的にさようならできる相手に、果たす義務なんてどこにあるんだ」 「……で、でも」 「義務とかではなくて、俺は心から、このまま何もせず、数日後に半永久的にさようならする事を、嫌だと思ったんだ」 「ま、待って」  リタは言いながら片手を突き出し、カイの言葉を遮ろうとした。しかしそれでもカイが言葉を続けようとすると、カイの唇に両手を押し付け、力ずくで声を止める。  唇に触れる手は、震えていた。 「それ以上は言わないで。今は、まだ。今言われたら、あたし、絶対、流されるから。それが凄く嫌だから。自分が何なのか、この力が何なのかも判らないうちに、この力に踊らされているみたいで、凄く癪に触るんだよ。魔物狩りになったのはいい。あたしがこの力を利用してやってるんだから。でも、今、あんたを選ぶ事は、あたしがこの力に利用されているような、そんな気になる」  カイがリタの手の下で、唇を硬く引き締めると、リタは片腕を自身の胸元に入れ、首にかけたメダルを取りだした。 「これね、エイドルードに仕える、それなりに偉い人しか貰えないものなんだって。これを、あたしを抱いていた男が持っていたんだって。その人を知る手がかりになると思うから――だから、あたし、この仕事が終わったら、王都セルナーンに行って、男の事を調べてみようと思ってる。少しは判ると思うんだ。そしたらあたしの事も、少しは判ると思うんだ」  リタは大きく息を吸ってから続けた。 「だから、ごめん。自分でも凄く我侭だって判ってるんだけど、その後、あたしトラベッタに行くから。その時に、続きを聞かせてくれたらって……」  ゆっくりと、リタの手が離れていった。困惑の色を濃く浮かべた空色の瞳が、カイの表情を確かめるように見上げてきて、カイは微笑む以外の表情を選ぶ事ができなかった。 「待ってるよ。トラベッタで」  リタの事をひとつずつ知るたびに、彼女の強さや優しさが、眩しかった。  その強さや優しさを守るために、セルナーンに向かう事が必要だと言うのなら、引き止める事などカイにはできない。快く送り出してやらなければならないのだ――それがどんなに辛い事でも。  だが、辛くはない。カイはリタに拒絶されたわけではないのだ。彼女なりの精一杯で、繋ぎ止めようとしてくれて、それは我侭なのだと、言ってくれた。  嬉しいと、心から嬉しいと、そう思えたのだ。 三章 神の娘 1  暗雲が空を覆い太陽が隠れてしまう雨の時期には、魔物の出現率が増し、毎日何体もの魔物を切る事となる。その日々を思えば、晴天が続いたおかげか五日も魔物を切っていない最近は、長期休暇を貰っているようなものだった。  体が鈍らないよう毎日鍛えてはいるが、それでも魔物を切る感触を徐々に忘れて行く手がもどかしく、ジークは己の手を見つめる。古傷がいくつも残る荒れた手を僅かに眺めた後、自分の考えがあまりに不謹慎である事に気付くと、小さく笑った。トラベッタの平和を守るために雇われている自分が、平和が壊れる事を望んでいる姿は、滑稽だと思ったのだ。  ジークは水を飲んで喉を潤すと、玄関扉を開け、晴れ渡る空を仰いだ。爽やかな空は清々しいほどだが、心穏やかに見る事はできず、きつく睨んでしまう。  陽射しは温かくジークの身にふりそそいだ。涼やかな風は心地よく肌を撫で、遠くから子供たちのはしゃぎ声を運んでくる。  本当に、平和だ。このまま魔物の切り方を忘れてしまっても問題ないのではないかと、錯覚してしまうほどに。 「ジーク! ちょうどいいところに!」  しばらく身じろぎひとつせずに空を眺めていると、遠くから駆けてくる男の影が視界の端に映った。影は手を振りながらジークの名を呼ぶので、ジークは影の方に振り返った。 「魔物が出たのか?」  口を開くなり、ジークは男に問いかける。  ジークは長年この街に住んでいるが、街の者たちがジークの所にやってくる理由は、仕事絡みがほとんどだった。今回も同じであろうと疑わず、街の平和を堪能するなどと自分には似合わないのだなと、半ば諦めじみた事を思いながら、起きている時間は常に腰に佩いている剣の柄に手を置く。  しかし男は、首と手を左右に振ってジークの問いに答えた。 「いや、魔物じゃない。もしかしたらどこかで出てるかもしれないんだが、それを報告に来るとしたら他のやつだ」 「ならば……」 「街に変なやつらが来てるんだ。馬に乗って綺麗な鎧着た偉そうな男たちが、なんか豪華そうな馬車を牽いていてな。とりあえず領主のとこに行ってるみたいなんだが、そいつらが街に入ってすぐに、俺は道を聞かれた」  ジークが目を細めると、男は少し怯えた様子を見せ、一瞬口を噤んだが、更に続けた。 「どうも、カイの事を捜しているみたいなんだ」 「なぜだ」  その質問を目の前の男に投げかけても意味など無い事に気付いた時には、すでに疑問は口を吐いていた。そして、口から飛び出した疑問が己の耳に入る僅かの間に、答えをすでに知っている事を思い出したジークは、もとより鋭い眼光を更に厳しくする。  男は街に来た者たちを具体的には描写しなかったが、ジークの頭の中では、どのような鎧を纏い、どのような剣を腰に下げているのか、すぐに想像できた。直感でしかなかったが、確信はある。そうだ、彼らはこんな辺境までわざわざカイを探しに来たのだ。  とうとう来てしまったのか、その時が。 「何でかは言ってなかったけど、でもさ、話が合わないんだよ。そいつらが探しているのはカイだけじゃなくって、カイの父親を名乗る男もらしいんだけどさ、そいつらが口にしてた男の名前は、あんたの名前……ジークじゃなかったんだ」  投げかけられる疑いの眼差しは、トラベッタに辿り着いた頃に向けられたものとよく似ていた。  当時その視線を向けられた事を、ジークは恨みに思ってなどいない。ひどく薄汚れていて、旅を続けるために必要な最低限の荷物だけを持ち、腰に下げた剣だけが不似合いなほどに美しい、全身に傷を刻んだ愛想のない男。それだけでも充分に怪しいと言うのに、小さな子供を片腕に抱いていたとなれば、不審な目で見られて当然だろう。  十五年近い時をこの街で過ごしながら、元来の性格が影響してか、ジークは街の者たちにさほど溶け込んでいなかった。しかし、常に魔物に怯える街の住人を守り続ける中で、ある種の信頼関係は築けている。息子であるカイは素直に街に馴染み、人生のほとんどを過ごしたトラベッタを故郷と定め愛しててた。街の住民たちは自分たち親子をトラベッタの民として認めてくれていたのだ。  だと言うのに――今更。 「カイは俺の……ジークの息子だ」  ジークは力強く言い切る事で、男の眼差しを断ち切った。 「その男たちに、この家の事を言ったか?」 「い、いや。オレは言ってない。だが、領主がどうするかは判らん」 「そうか」 「言っちゃいけないのか? あいつらから隠れなきゃならない事情があるのか? それじゃまるで、後ろめたい事があるって言ってるようなもんだぞ。なあジーク、あんた一体何者なんだ。それに、カイは――?」  後ろめたくなどない。ジークは背筋を伸ばし、胸を張り、青き空の下に堂々と立ち、無言で語った。  男は恥じるように目を閉じる。項垂れる様子は、謝罪しているようにも見えた。  そうだ。ただ家族で幸せに暮らしたいと願い、実行したまでだ。立ち塞がる障害を排除した事も、家族の生活を守るために必要であったからだ。  悪は向こうではないのか。自分たちは正しいと主張し、そのために犠牲を強いる連中ではないのか。 「もしまた同じ事を聞かれたのならば、そんな親子は知らないと返してくれるとありがたい。他の者たちにもそう伝えてくれ。皆ジークとカイと言う親子しか知らんのだから、嘘にはならんだろう」 「しかし」 「やつらに居所が知れれば、俺たちはこの街を出なければならん」  ジークが冷たく言い放つと、男はごくりと喉を鳴らし、踵を返して走り去った。  ほぼ脅迫だった。長い間魔物と戦い続けてきた歴史を持つトラベッタにおいて、この十五年間に起こった魔物の襲撃による死亡事故が極端に少ない事実とその理由を、この街に住む大人が知らないわけはないのだから。  ジークは男の背中を見送ると、家の中に戻り、扉を閉める。椅子に浅く腰掛けると、思考に耽った。  今の口止めにどれほどの効力があるかは判らない。仮に街中の住民にジークの意志が伝わったとしても、それが街に来た男たちと接触を持つ前とは限らないし、全ての者がジークの意志に従ってくれるとは限らない。大体、領主にはすでに接触されているのだから、領主の対応によっては住民たちの協力が無意味なものとなる。  なぜ、どうやって、彼らはカイの居場所を突き止めたのかを、ジークは考えた。アシェルの町に同情し、カイを向かわせてしまった事が原因かもしれないと考えて、即座に違うと否定する。それが原因だとすれば、彼らは真っ直ぐにアシェルに向かうはずではないか。  では、彼らの地道な探索が身を結んだのだろう。監視の目が届かないところだからと、ひとつの街に住み着いた事が敗因なのかも知れない。  ジークは深く息を吐く。彼らの最大の目的であるカイが今現在トラベッタに居ない事は、運が良いと言えた――いややはり、逃げ隠れしろと指示できない事は、不運と言えるかもしれない。アシェルでの仕事が早々に片付き、トラベッタに戻って来る事になれば、カイは何も知らずに連中と鉢合わせする事になる。  ジークは落ち着いて息を吸った。少なくとも今は、運の良し悪しを考える必要はない。必要なものは、最善の対処なのだ。  決意を秘めて立ち上がる。そうだ、自分ならば見つかったところでどうにでもなる。だが、カイだけはけして見つかってはならない。十五年前、戦いを繰り返しながらトラベッタまでやってきた事からの全てが、無駄になってしまう。何とかして、この街に帰ってくる前に、どこか遠い街まで避難させなければ――  ジークは自身の顔に手を触れた。指先に古い傷跡が触れると、ゆっくりとなぞって苦い感情を蘇らせた。 「絶対に、渡さん……!」  強い意志が秘められた声が、空気を震わせる。  いざとなれば戦っても良い。むしろ都合が良いではないか。今は魔物が出ず、腕が訛りそうだと思っていたところなのだから、魔物の代わりに人を切ればいい。ためらう必要などない。相手はこちらを人だと思っていないのだから――大人しく捕まってやったところで、ジークが最後に辿り着くところはおそらく死であろうから。  ジークの指が剣の柄を撫でる。  同時に、ゆっくりと扉が叩かれる音がした。  ジークは柄を強く握りながら、驚愕に顔を上げた。その扉の向こうまで人が近付いてきている事に気付かなかった自身に驚いたのだ。 「……誰だ」  絞りだした低い声で訊ねる。剣を静かに引き抜き、構えながら。  魔物が現れた事を報告に来た街の者か。それとも他所から来た者たちなのか。後者だとすれば、行動が早すぎはしないか。  ジークは喉を小さく鳴らし、扉の向こうの人物の反応を待った。 「存じませんでした。今はジークと名乗られておられるのですね」  優しい声だった。家の中に充満している緊迫した空気を、ゆっくりと解していく力がある声。  若い青年の声ではなく、自分とさほど歳が変わらない男のものだと判断した瞬間、ジークは知っている、と思った。この声を、自分は知っている。  ジークは構えを少しだけ緩め、声を記憶の奥から手繰り寄せた。記憶に残る声は、今聞いたものとほとんど変わらない声でありながら、より若々しい青年の声だった。 「お前は……」 「お久しぶりです」  再会を告げる男の声は、ジークに確証を抱かせた。 2  ジークは扉を開けていた。警戒心を全て捨てたわけではなかったが、記憶の奥底に眠る何かが、開けなければならないと語りかけてきたからだ。  扉の向こうに立っていた人物は、ジークの姿を見ると、元より穏やかな容姿を微笑む事で更に優しく変えて、小さく会釈をする。  変わっていないな、とジークは思った。最後に顔を合わせてから十七年の時が流れていると言うのに、記憶の中にある青年が持つ雰囲気と、目の前の男が持つ雰囲気は、まったくと言って良いほど同じものだった。若かりし日に前面に出ていた陽気な人懐っこさがやや影を潜め、大人しい印象を受けるが、過ぎ去った年齢を鑑みれば、変化と言えない程度のものだ。  少なくともこの男に関しては、変わりがない事は喜ぶべき事象だろう。ジークは無意識に笑みを浮かべ、男を受け入れた。 「変わらないな、ハリス」  名を呼ぶと、男――ハリスはいっそう笑みを優しくして応えた。 「貴方は変わりましたね、エア隊長。何と言いますか……以前よりずいぶん野性的に見えます」 「傷だらけだからか」 「それもあるのでしょうが、以前のように優等生ぶっていないからでしょう。こちらの貴方の方がより素に近いのでしょうね」 「否定はしない」 「ハリス?」  静かな、けれど凛とした声に名を呼ばれ、ハリスは穏やかな空気を緊張させ、振り返った。しかし変わらぬ柔らかな眼差しを、近くに停められた馬車から降りてきた少女に注ぐ。  雪のように白い肌と、背の中ほどまで伸ばした金髪の淡さが儚い、可憐で美しい少女だった。長い睫に縁取られた大きな瞳は、一切の感情を宿らせずにハリスを見上げており、ゆえに人形のように見える。  ハリスは胸に手を置き、深々と優雅に頭を下げた。  少女は表情ひとつ変えず、ハリスの動向を見守っている。 「いかがなされました、シェリア様」 「貴方は本当におかしな方だと思ったのです。どうしてこの罪深き男を隊長と呼ぶのです? 隊長と呼ばれるべきは、貴方でしょうに」  ジークはシェリアと呼ばれた娘を見下ろした。顔に残る傷も手伝って、初対面の女子供ならばほぼ確実にジークの眼光に怯えるものなのだが、少女の様子に変わりはない。宝石のような瞳にも、完璧と言えるほどに整った顔にも、感情はまったく映っていなかった。  どうやら、嫌味を言おうとしたわけでも、ジークを蔑もうとしたわけでもなさそうだ。少女はまったく主観を交えず、ただハリスを「隊長」と、ジークを「罪深き男」と捉えて、率直に浮かんできた疑問を口にしただけなのだろう。  妙な娘だ、とジークは思った。細い首に手を回せば簡単にくびり殺せるだろうか弱さでありながら、気味が悪く恐ろしさすら感じる。  どう言う事か問いただそうと、ジークは視線をハリスに向けたが、ハリスはジークに振り返ろうとしなかった。 「申し訳ございません、シェリア様。つい昔の癖が出てしまったようです。私は以前、この方が率いる隊に所属していた事がありましたもので」 「カイ様はどちらにいらっしゃるのです?」  ハリスの謝罪も、弁明も、すでにシェリアの興味からは失われていた。少女は辺りを見回しながら、新たな疑問を可憐な唇からこぼす。 「どうやら、今はこちらにはいらっしゃらないようです。ですからシェリア様は、領主の館にお戻りください。長旅の疲れを癒された方がよろしいでしょう」 「そうですか。仕方がありません」 「私は少々用事がありますので、こちらに残ります。もしもカイ様が現れましたらすぐに連絡をいたします」  ハリスはシェリアを先導し、馬車の中まで案内すると、馬車を引いてきた男たちに短く指示をした。ジークには聞こえなかったが、おそらく領主の館に戻れだのといった内容だろう。  二頭立ての馬車が走りだし、少しずつ遠ざかっていくと、ハリスは再びジークの前に戻ってきた。 「何だ、あの娘は」 「家に入れていただけませんか、エア隊長。話をしましょう。昔の事も、今の事も」  穏やかでありながら揺るぎない力を秘めた眼差しに、ジークは抗えなかった。家の中に入るように態度で促すと、「ありがとうございます」と簡素な礼を言い、ハリスは家の中に入ってくる。  進めるまでもなく、ハリスは勝手に椅子に座った。普段ジークが座っている椅子だ。仕方なくジークは、普段カイが座っている椅子に腰を下ろす。今は主が居ないのだから、椅子も許してくれることだろう。 「何か飲み物は出ませんか?」 「……水しかないぞ」 「それで構いません。喉が渇いているので、何でも良いから喉を通したいのです」 「大人しくなったと思えば、ふてぶてしいところも変わっていないのか、お前は」  笑ってごまかそうとするハリスを横目に、ジークは重い腰を上げ、水を汲んだ杯をハリスの前に置いた。  ハリスは水を一気に飲み乾し、卓の上を滑らせて空の杯をジークの前に置く。もう一杯、と言う意味なのか計りかねたジークは、とりあえず何もせず、再び腰を下ろしてハリスと向き合った。 「何から説明しましょうか。まずは、私がどこまで出世したか、あたりからにしますか?」 「一番どうでもいい所だな」 「『神の娘』シェリア様をお守りする護衛隊の隊長を勤めております。位的には中隊長並の扱いのようです。他の中隊と比較すると規模は小さいのですがね。直接の部下は小隊長並かそれ以上の腕を持つ者三十名。それ以外にも、三個小隊ほど付けていただいております」  話をきちんと聞いていれば、随分出世したじゃないか、と褒めてやる事ができたのかもしれない。しかしジークは、ハリスの言葉の中から最も気にかかる単語を脳内で繰り返しており、先の話に反応する余裕はなかった。 『神の娘』シェリア。  それは、つまり―― 「あの少女は森の女神ライラの娘か」 「お判りですか」 「判らないわけがないだろう。その呼び名に加えて、護衛に精鋭が選ばれる扱いとなれば」  ハリスはゆっくりと肺の中の空気を吐き切り、膝の上で両手の指を絡ませる。細めた優しい眼差しは何も言わずとも、遠い記憶を呼び起こしている事を伝えてきた。 「話すべき事が沢山ありすぎて、どれから話して良いのか判りませんが――そうですね。シェリア様が生まれて間もなく、貴方がカイ様を連れて逃亡したように、アシュレイ様もシェリア様を連れて逃亡しました。逃げ続けたアシュレイ様は、捜索にあたっていた隊と何度か衝突したそうです。そして十五年前のちょうど今頃、捜索隊はシェリア様の奪還に成功しました。アシュレイ様は深手を負ったものの逃走。しかし捜索隊の者はアシュレイ様を深追いする事はなかったそうです。アシュレイ様と戦う事で捜索隊が受けた傷は深かった。アシュレイ様が受けた傷も、まず生き残れるはずもない深さだった。何より、シェリア様を大神殿へお連れする事が、彼らの最優先任務でしたから」 「そして、あの娘は王都の大神殿で育てられたわけか」  ハリスは静かに肯いた。 「ええ、そうです。けしてエイドルードの意志に背かないよう、正しく育てられました。シェリア様はご自分の使命を疑う事もなく……」 「『正しい』?」  ジークは低く、ハリスを責めたてるように言った。 「お前、あの娘にごく近いところに居ながら、あの娘を正しいと思えるのか?」  エイドルードへの信仰を迷わず、エイドルードの教えに、指示に、疑問を持たない程度ならば、ジークはさほど不思議に思わなかっただろう。エイドルードの加護の元平和に生きる者たちのほとんどが、そうであるのだから。  だが、あの少女は明らかに違った。意志が無いわけではないが、まるで感情そのものを知らないかのように、表情と瞳は冷たく凍り付いていた。  真っ当に育てられたとは到底思えない。実の親に育てられていない、程度の理由とも思えない。誰かが、作為的に、シェリアをあのように育てたのだ。 「エア隊長は正しいと思いませんか?」  ハリスは一度目を伏せ、次に開いた時には、穏やかさを消し去った冷たい眼差しで、ジークを睨むように見上げた。憎悪や呪いに似た感情がそこには強く育っていたが、感情を向ける矛先はジークではないと、その眼差しは伝えてきていた。 「貴方ならば判るでしょう、エア隊長。シェリア様が、どうしてあのように育てられたのか」 「いや……」 「貴方はカイ様を大神殿に引き渡そうとしなかった。アシュレイ様もです。大神殿としては、シェリア様が貴方がたのように、運命に疑問を抱いたり、感情のまま運命に反する行動を取ったりしては、困るのですよ」  膝の腕で握られた拳に、力が込められる。  拳を何かに叩き付けたいと願いながら、それを必死に耐えている事が判った。やはり、その矛先はジークではない。 「約束を、覚えておられますか、隊長」  ジークは肯いた。わざわざ記憶の奥底から呼び寄せなくとも、ハリスの存在と同時に蘇るものだった。  守ると誓った。大切なものを。それはジークにとってリリアナであり、カイであった。そしてハリスは、ジークが神への反逆を犯そうとしていた事を知っていながら見逃してくれた。大切なものの中にハリスを混ぜ、ハリスの大切なものをけして損ねないと言う条件で。 「十八年前、私は貴方の秘密を誰にも言わずに胸に秘めました。十七年前、貴方が行動に出ると感付いた時も、何もしませんでした。貴方が正しいと思ったから、貴方の行動が、人の命を救う事になると信じたからです。そして、確かに貴方の行動は正しかった。貴方の行動はカイ様のお命を救い、多くの命を救う事に繋がったのですから。でも……」 「俺はお前との約束を違えた、と?」 「はい」  ハリスの想いが遠くへと向かう。外部との繋がりを遮る壁を越え、空を越えて、遥か彼方へ。 「貴方が大神殿の要求を呑まず、カイ様を連れて逃げた時、私は貴方を追わなければならなかった。貴方を捕まえて、貴方の腕からカイ様を奪い取らなければならなかった。しかし私は誓いを違え、貴方を追わなかった。捜索隊に配属されなかった事を言い訳に――もしあの時、私が」  ハリスは息を飲み込んだ。同時に感情も飲み込んだのか、続いて吐き出された言葉は、静かなものだった。 「判りますか、エア隊長。情を抱かず、けして神の意志に背かない今のシェリア様を造りあげたものが、何であるのか」  ジークはハリスの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、微動だにせず、彼の言葉を待つ。 「罪ですよ。私と、貴方の」  闇よりも暗く深い沈黙が、ふたりの空間を支配した。  互いが互いから目を反らそうとしない。これは無言の争いなのだとジークが気付いたのは、沈黙が呼び込まれてすぐの事だった。  敗北に抵抗があるわけではない。だがジークはけして引こうとはせず、真っ直ぐなハリスの眼差しを受け止める。  ハリスの言を聞いて笑いたい気持ちになったが、笑う気力は湧いてこなかった。  目の前に座るこの男は、賢い男なのだろう。ジークを守ろうとして擁護する言葉を紡ぎ、傷付けようとして厳しい言葉を紡ぐ。言葉の選び方が実に的確だ。  そして同時に愚かな男でもあるのだと、ジークは心から思った。穏やかな顔で長い時の隔たりをあっさりと詰め、懐かしく優しい感情をジークに与えながら、罪深きジークを責める――ふりをして、結局は自分自身を断罪しただけではないか。そうする事でジークを追い詰める材料をひとつ増やそうとしたのかもしれないが、他に方法はあったはずだ。 「俺は言ったはずだ。お前は何も背負う必要はないと。今もその想いに変わりはない」  沈黙を先に破ったのはジークの方だった。これは勝負に負けた事を意味するのかもしれないと考えたが、どうでも良いとも思った。 「私も言ったはずです。背負いたいから背負うのだと。今でもその想いに変わりはありません」  ハリスは立ち上がり、彼自身を責めたてる感情が消えうせた穏やかな瞳で、ジークに微笑みかけた。 「どうやらここしばらく、カイ様はこの街にいらっしゃらないそうですね。今日は失礼いたします。私も私の部下数名も領主の館に滞在しておりますので、カイ様が戻られましたら、どうぞおふたりで領主の館にいらしてください」 「俺がわざわざお前たちにカイを差し出すと思っているのか? そこまでおめでたい頭をしていたとは知らなかった」  失笑したジークは低く言い捨てたが、ハリスは動揺する様子も苛立つ様子も見せなかった。 「差し出していただきます。貴方もカイ様も逃げる事はできません。貴方もこの街も、完全に我らの監視下にありますから。カイ様が我らの手に戻るその時まで、貴方はこの家を出る事すら容易くないでしょう。外でカイ様と連絡を取られては厄介な事になるやもしれませんからね」 「できると思っているのか?」 「……いつまでもご自身が最強だと自惚れない事です」  ハリスは素早く剣を抜き、ジークの鼻先へと切っ先を向けた。