序章 旅の途中  瞬きのために時折睫が揺れる事を除けば、少女は美しいだけの人形と変わらなかった。  馬車に乗り込んでから随分と時間が経過しているが、指先ひとつ動かさず、可憐な唇が声を発する事もない。車輪から馬車全体に伝わる振動に身を任せ、小刻みに体を揺らす、ただそれだけだ。肩からこぼれた金髪が頬をくすぐっても、不快な様子を見せる事はない。  男は少女の端整な顔を見下ろした。  透き通るように白い頬に影を落とす長い金の睫。その奥に隠された晴天を思わせる空色の瞳には、小窓から除く景色が映るのみで、感情は何ひとつ映っていなかった。喜びも、悲しみも――それは、少女が馬車に揺られて行く先を考えると、とても悲しい事だと男は思った。  第二の人生がはじまると言って過言ではない。普通の少女であったならば、期待か不安のどちらかに胸を膨らませる事だろう。だと言うのに、少女は変わらないのだ。この人生の転機を、呼吸をし、食事を取り、睡眠を取る事と何ら変わりのない、ごく当たり前の事として認識しているようだった。  少女が押し付けられた使命を疑わず、拒絶せず、それのみが生の意味であると思い込んでいるのは、過去の過ちを振り返り、同じ過ちを繰り返すまいと人々が努力した結果である。彼らの努力は実ったと言って良く、喜ぶべきなのかもしれない。  しかし、男はそれを心から祝福する事ができなかった。まだ十代半ばでしかない少女が、感情に揺らめく事を知らなくとも良いとは、どうしても思えないのだ。  いや、何より。  過ちの一端を担った者が、他ならぬ自分であるから、なのだろう。 「どのような方でしょうね。貴女の運命のお相手は」  少女にそのような話を振っても意味がない事を知りながら、男は問う。己の中に巣食う悲しみを、少しでもごまかしたかったからだった。 「どのような方でも」  返って来た答えは、男が予想したものと一言一句違いなかった。悲哀はより色濃くなり、男は口元に笑みを浮かべる。 「必要なのは血脈のみ、ですか」  男は嫌味と取られかねない言葉を吐いたが、少女は機嫌を損ねる様子はない。変わらない無表情で小さく肯くのみだった。 「わたくしは、わたくしの他の何者にも成しえない、尊い使命を果たすのみ――」  突如、少女の言葉を遮るように、馬車が大きく揺れた。車輪のひとつが石を踏んだようだった。  馬車と同じように少女の体も大きく揺れ、頑なだった体勢を崩す。頭や肩を打ちつけそうになったが、男が腕を伸ばして少女の体を受け止める事で、難を逃れた。  男は安堵のため息を吐いたが、少女は表情ひとつ変えなかった。逃れるように男の腕から離れ、元通りに座り直す。つい先ほど姿勢を崩した事が幻であったかのように、毅然とした態度で。 「わたくしの身にはけして触れないようにと、以前言ったはずです」  少女が真っ先に口にしたのは、自分の身を守ってくれた男に対して投げる言葉としては、最も不適切と言えるだろう。  だが男は不愉快な様子を見せず、深く頭を下げ、謝罪の気持ちを露にした。 「失礼いたしました」  言い訳も、反抗も、一切ない。少女の望み通りに動く事が、男にとって重要な使命であるからだ。触れるなと命令を下されている以上、たとえ少女を守るためであっても、触れる事は許されない。  厳しい条件であったが、従うしかなかった。少女は、そう言う娘なのだ。  いや――普通の少女であればなおさらかもしれない。倍以上歳の離れた男に触れられて喜ぶ少女など、そうは居ないであろうから。 「どうしてわたくしの言葉に従わなかったのです」 「シェリア様の御身をお守りせねばと、咄嗟に考えました。シェリア様をお守りする事が、私の第一の使命ですありますから」 「わたくしの命がかかっていたわけでもないでしょう」 「僅かに傷付かれる可能性はございました」 「そんな事が、わたくしの命令、貴方の使命よりも、大切だと考えたのですか?」 「はい」  男がためらいなく答えると、少女は一拍置いてから冷たい言葉を吐いた。 「おかしな方」  少女はそれきり口を閉じ、鈴のように可憐な声を響かせるのを終わりにした。  本当におかしいのは自身か、それとも少女か。  胸の内側に湧き上がった疑問に結論を出さず、男は小窓から外を覗いた。  昨夜中振り続いた雨に濡れた草花に、太陽の光が反射して、辺り一面を輝かせている。眩しさに目を細めた男は、流れ行く景色に美しい思い出を蘇らせ、胸を熱くした。  全てを清算したとしても、時は戻らない。この少女が普通の娘として生きる事は、もうないのだ。  世界を知らず、人を知らず、感情を排除した少女に対して溢れる謝罪の言葉を、男は必死に飲み込んだ。それは今の少女が望む言葉ではなく、むしろ少女を侮辱する言葉であるからだ。  それでも、男は少女に笑ってほしかった。時には感情を剥き出しにして怒り、泣いてほしかった。人並みに恋をして、その成就に喜び、あるいは喪失に嘆いてほしかった。自身の幸せが何であるか、自分で考える事ができる人間であってほしかったのだ。  澄み渡る青空を、そこに輝く太陽を望んでから、男は目を伏せた。  声に出す事なく、神に真摯な祈りを捧げ、願う。  これから会いに行く人物が、ほんの少しでもいい。少女に欠けているものを与えてくれれば良い、と。 一章 魔物狩りの少女 1  大陸のほとんどの町や村では、ひとつの伝承が伝わっているのだと言う。偉大なる天上の神エイドルードによって、魔獣とその眷属である魔物たちは、地中深くに封印されているのだと。故に地上には平和が保たれ、民は安寧の中で暮らしていけるのだと。  ではどうしてこのトラベッタの街には魔物が現れるのかと、幼き日のカイはジークに問うた事がある。それはトラベッタで生まれ育ち、はじめて伝承を耳にした者ならば、誰もが覚える疑問だった。  屈みこんで靴紐を結びなおしていたジークが答えてくれるまでに、数秒の間があった。ジークは立ち上がり、鋭い視線でカイを見下ろしてから言った。 「エイドルードは地上の民に公平ではないからだ」  ジークは頬に刻まれた古傷だけで充分な外見的特長を持つ男だったが、それ以上に眼光が印象的だった。焼けた刃のように鋭く熱く攻撃的で、彼にひと睨みされれば、大抵の人間は恐怖のあまり逃げ出したくなるだろう。子供ならば泣きだしてもおかしくない。  カイがその目に向かって平然と笑いかけられるのは、物心付く前からずっとそばにいる事で馴れたからに他ならなかった。カイの中に流れる血の半分はジークの血であるはずだが、それはジークに対して抱く恐怖を抑えるための役には全くと言っていいほど立っていない。それどころか、ジークが父である事実は、必要以上の畏怖をカイに与える事もあった。思春期の少年にとって、父と言う存在は絶対のものであるからだ。 「エイドルードは確かに、地上の民の多くを救い、守っているのだろう。だが一部の民は当たり前のように放置し、時に犠牲を強いる」 「神様のくせに不公平なんて、酷いね」 「エイドルードを神と崇めているのは、エイドルードの恩恵の元で幸福に生きている奴らだけだ。この街の人間は、誰もエイドルードを神と呼ばない」  言ってジークは、愛用の剣を腰に佩いた。  ずいぶんと古びた剣だが、丁寧に手入れされており、並の剣よりも遥かに優れた切れ味を持つらしい。ジークがその剣を振るえばどんな魔物でもたちまち切り刻まれてしまう事を、トラベッタの民の誰もが知っている。実際にその光景を見た事がある人物は大人の中でも限られているが、彼らが広めた噂を、トラベッタに住んでいて耳にしない事はないのだから。  民の命や生活を魔物から守ってくれる存在が神であると言うのならば、トラベッタの民にとっての神は、ジークに他ならない。  圧倒的な強さから民に恐れられながらも、同時に尊敬されているジークが、カイは誇らしかった。いつか自分もこの父のように、トラベッタの街を守れるような男になりたいと、夢を抱いてしまうほどに。 「また行くの?」 「ああ。街の近くに魔物が出たとの報告があった。被害が出る前に食い止めるが俺の仕事だ」 「……おれも連れてってとか言ったら、困る?」  今にも家を飛び出そうとしていたジークは、振り返ってカイに歩み寄った。硬い手のひらが、カイの頬を、頭を、ざらりと撫でる。  くたびれた、力強い手。街の誰もが信頼する、神様の手。  自分の手も、いつかこんなにも頼もしい手になればいい。 「今はまだ駄目だ。だが、もう少し大きく、強くなれば」 「ほんと?」  カイが満面の笑みで喜びを表現すると、ジークは薄い笑みを口元に浮かべた。 「ああ、共に守ろう。神に見捨てられた、この地を」  ジークはもう一度カイの頭を撫で、髪をかきまぜると、家を飛び出して行く。  去り行く父の背を見送る事には馴れたが、幼いカイにとって、それは寂しく辛い事だった。だがこの日からは、父と並び、共に戦える日を夢見ながら、笑顔で送りだせるようになった。  剣を横に一閃。  犬と狼とを足して二で割ったような外見でありながら、けして犬とも狼とも見間違える事のないほど大きい魔物を目の前にしたカイだったが、けして怯まずによく砥がれた剣を魔物の鼻っ柱に叩きつける。  鼻先を陥没させ、血を吹き出した魔物は、低い唸り声で苦痛を訴えた。鋭い牙を武器にしてカイに報復を試みるまでに残された時間は短いであろうと予想され、カイは間髪入れずに魔物へ二撃目を食らわせた。  ひっくり返り腹を見せる事となった魔物の唸り声は、悲鳴にも聞こえる。耳を貫く勢いのそれに耳を塞ぎたくなったものの、カイは次の行動を優先させた。  体勢を立て直そうとする魔物よりも早く、剣の切っ先を魔物の腹に埋め込む。はじめは暴れていた魔物も、刀身が半ばまで埋まる頃には力を失い、まばらに生える草の上に四肢を放りだしたまま動かなくなった。  空を覆う厚い雲の隙間から差し込む光が、青黒い血に塗れた魔物の毛並みを照らす。黒にほど近い灰色の体毛は、人とは違う色の体液と混じりあい、暗い色合いをカイの目に示した。  カイは一度息を吐ききった後、深く吸い込みながら剣を引き抜いた。魔物の血が飛び散り、周囲に広がる緑を青黒く染め変えたが、構っている余裕はない。 「ジーク……」  父の名を呼びながら振り返った瞬間、青黒い血を滴らせる鈍色が光を反射し、カイの目を灼いた。  カイは目を細め、ジークに飛びかかる二体の魔物と、魔物たちに向けて剣が振り下ろされる様を見守った。鍛えあげられた鋼が、鍛え上げられた腕に操られる事で、容易く魔物の体を切り裂く様を。  それぞれ両断され、四つに分かれた魔物は、幾度か痙攣した後に動きを止めた。涎と混じりあった血が広がっていく様は醜悪とも言えたが、見慣れたカイにとっては目を反らすほどのものではなかった。 「そっちは終わったか」  何もないところに剣を振り下ろし、剣に纏わりつく魔物の血をいくらか振り落としてから、ジークはカイに振り返る。 「ああ、終わったよ」  厳しい顔の父に苦笑で応えながら、カイは肩を竦めた。  カイの周囲に転がる魔物の遺骸はふたつで、ジークの周りに転がる魔物の遺骸は七つと、誰の目に見ても明らかな差がある。だと言うのに、ジークは返り血ひとつ浴びず、息ひとつ乱さず、カイに「終わったか」と確認してくるのだ。元より判っていた事であるし、ジークと共に戦う度に思い知らされ慣れているのだが、こうして歴然とした実力の差を見せ付けられてしまうと、悔しいと言う思いが強まってしまう。 「今日は随分と数が多かったみたいだ」 「そうだな。その分弱かったようだが。群れなければ生き残れない種族なのかもしれん」 「ま、とりあえず帰ろう、ジーク。ここは臭すぎる」  人間の血とは根源から違うのか、魔物の血は呼吸を躊躇わせるほどの悪臭で、カイはたまらず顔を顰める。一刻も早くその場を立ち去りたくなり勝手に歩きはじめると、ジークが静かに笑う気配がした。 「どうしたらジークみたいに簡単に切れるんだろう」  カイと同じ道を辿りはじめたジークが、カイの隣に並ぶと同時に、カイは呟く。  強くなりたい、ジークのように。魔物に怯えながら生きるトラベッタの街を、守れるだけの力が欲しい。 「俺が剣を振るうようになってから何十年経つと思っている。魔物狩りをはじめてからも十五年だ。お前ごときに容易に真似されてたまるものか」 「十五年、かぁ」  カイはため息を吐きながら己のてのひらを見つめた。  父に剣を習いはじめてから四年。魔物狩りの仕事に同行する事を許されてからは、二年も過ぎていない。仮に父と同じ年数戦い続ける事で追い着けたとしても、目指す自分になるために必要な時間は、途方もないように思えた。  だが、諦めはしない。いつか、いつか――必ず。  この偉大なる父のように、愛する故郷を、トラベッタを、守れるようになるのだ。 「よし」  カイは無言で両手の拳を握り締め、心の中だけで誓う。そんなカイをジークは無言で見下ろしていたが、引き締めた唇は何も語ろうとはしなかった。  おそらくジークは、カイが何を考えているのか、何を決意したのか、気付いているのだろう。それでも口に出すのは癪で、カイは何も言わなかった。 「おーい! ジークさん!」  進行方向から近付いてくる影に名を呼ばれ、足を止めるジークに、カイも倣う。  近付いてくる青年は、街の衛視たちが身につける鎧を纏っていた。一、二度顔を見た事はあるが言葉を交わした事はない人物で、もちろん名前も知らない。 「お疲れ様でした。いつもありがとうございます」 「どうしたんですか? 別のところからも魔物が出たとか?」 「いや、それは大丈夫です。ただ、ジークさんにお客さんが来ていらして。必死の形相で、『ジークさんに今すぐ会わせてください!』と喚くんですよ。追い返そうかと思ったんですが、隣町の領主の息子さんとかで身元も確かそうですし。お疲れのところ申し訳ないですけど、来ていただけますか?」  ジークはしばし無言で青年を見つめ、彼を怯えさせた後に答えた。 「判った」 2 「ならば、カイをひとりで行かせてはどうだ」  ジークの発言はまさに青天の霹靂で、カイは口に含んだ水を吹き出してしまいそうだった。それを何とか堪えて懸命に水を飲み込むと、口元を抑え、こみ上げてくる激しい咳を押さえ込む。  動揺したのはカイだけではなく、ジークの正面に腰を下ろしているふたりの男もだ。カイのように取り乱しこそしなかったが、驚いて声も出ない様子で、しばらくの間、口を開いたまま動かなかった。 「い、いや、しかし、ジーク殿」  ふたりの男は驚くと言う反応こそ同じだったのだが、一方はジークの提案に賛成である事を、もう一方は反対である事を、表情でありありと示している。慌てて言葉を紡いだのは、「勘弁してくれ」とでも言いたげな顔をした、若い男の方だった。  セウルとの名を持つ青年は、カイとジークが住むトラベッタの街から三日ほど歩いた所にあるアシェルの町の町長の息子だ。緊急事態に暗く沈む町を守るため、救いを求めて馬を駆けさせ、トラベッタに辿り着いたのか今朝の事だと言う。 「わが町はトラベッタほどに大きくはありませんが、それでも千人を越える民がおります。彼らを守るには、その……」 「カイでは信用ならないと?」 「そうは言いません! 言いませんが、得体の知れない魔物に襲われ、我が町の民は恐れおののいています。我らには救いが必要なのです。魔物狩りの中でも特に名高い、ジーク殿のお力が!」  口では否定しているが、セウルの目はジークの指摘が図星であった事を如実に語っていた。  またか、と、自分にだけ聞こえるように呟いて、カイは肩を竦める。  つい先日ようやく成人を向かえたばかりの年齢であるカイの実力を、過小評価する者は多い。魔物狩りの中でも特に優れた力を持つジークと常に行動を共にしていれば、尚更だ。  もっとも、今回ばかりはセウルが悪いわけでもないだろう。彼は単純に「魔物狩り」の力を借りにきたわけではなく、トラベッタの街を守る神である「ジーク」の力を借りに来たのだ。ジークを基準で考えれば、カイでは明らかに役者不足である。 「どうする?」と訊ねる意味を込めてカイがジークを見つめると、ジークは静かにため息を吐き、視線をセウルからもうひとりの男に移した。トラベッタの町の衛視長、ディーンに。  ディーンが静かに首を振る事で応えると、ジークは再びセウルに向き直った。 「俺はトラベッタの領主と契約を交わしている。トラベッタ側から許可が出なければ、この街を離れる事はできん」 「アシェルやその民の命よりも、契約が大事と申されるのですか?」  必死に叫ぶセウルの声は悲痛であったが、他の三人の怒りを買いこそすれ、想いを揺さぶる事はできなかった。 「エイドルードの加護の中にある貴方に、この契約がどれほど大切かは理解できないでしょうな」  一段低くなったディーンの声が部屋の中に静かに響く。  その響きに込められた感情に、セウルは失言した事をようやく自覚したようだった。 「この街にエイドルードの加護はない。故に、いつ魔物が現れるか知れんのだ。俺はこの街を離れる事はできん」 「それは判ります、判りますが――では、今まさに魔物に窮している我が町は、どうなっても良いと申されますか?」 「トラベッタとアシェルを秤にかけねばならぬのなら、そうだ、と答えるしかない。エイドルードの加護などと言う不確かなものに頼り切っていた己を恥じるのだな」 「そんな……」  視線にも声音にもためらいのないジークの返答に、セウルは力を失ってうなだれる。  救いを求めて駆けてきた男に対するには、少々冷たすぎる態度ではないかと考えたカイだったが、ジークが中途半端に同情をかける事を良しとしない性分である事をいやと言うほど知っていたため、何も言わなかった。  ジークは自分の街を自分たちで守るのは当然だと、トラベッタのように常日頃から危機に備えておけと、当たり前の事を言っているに過ぎない。常日頃から警戒を怠らないトラベッタを見捨て、平和に溺れていたアシェルを助けろなどと、確かに虫が良い話だ。 「神は、アシェルをお見捨てになられたのか。我らに滅びよと」  膝の上で組んだ両手に力を込め、吐き出すようにセウルは言う。 「この街ははじめからエイドルードに見捨てられている。それでもまだ生き続けている」  セウルは僅かに顔を上げた。 「俺とてアシェルが憎いわけではない。だが、俺はトラベッタを離れる事はできん。そうしてしまえば、俺はエイドルードごときと同じになる」  セウルは体を震えさせていた。射抜くようなジークの視線に怯えたか、唾棄するように放たれたジークの言葉に怯えたか。おそらくは後者であろうと推測したカイは、セウルから視線をはずした。  外から来た者はみんなそうだ。無条件にエイドルードに心酔し、信頼し、崇めている。だからエイドルードを侮蔑しているトラベッタの民を、非常識とみなすのだ。  カイはエイドルードを崇める事をしない。だが、加護の中に居る者たちがエイドルードを崇める心を全く理解できないわけではなかった。もし自分が加護の中にあれば、エイドルードに祈っていただろうと思うのだ。  だから彼らも少し考えれば、信仰を持たないトラベッタの民の事を判るだろうに――少数派と言うものはいつの世も冷たい目で見られるものらしい。 「アシェルで育った私は、貴方の言葉を易々と受け入れられません。我らにとって、エイドルードはやはり偉大なる神なのです」 「そうか、では」 「ですが今となっては、貴方の言葉を否定する事もできません」  深々と頭を下げたセウルの表情を覗き見ながら、必死の形相とはまさにこの事なのだろうと、カイは知った。 「どうか、貴方のお力をお貸しください。エイドルードの加護の中にあったからこそ、アシェルの民は魔物の恐ろしさを知りません。人間相手の訓練のみを重ねた兵士たちでは、どう魔物に立ち向かえばいいのか判らないのです。どうか、どうか……!」 「だからカイを向かわせると言っている」  ジークの声は乾いていたが、不思議と冷たくなく、むしろ労わりの気持ちが篭っているようだった。 「カイは俺の仕事を手伝ってくれているが、今はまだトラベッタと契約を交わしているわけではない。カイならばトラベッタ側の許可を取らずとも、今すぐにこの街を出てアシェルに行ける。もっとも、カイにアシェルを救う意思があれば、だがな」  ジークと、セウルと、ディーンと。三人の視線が、同時にカイに集まった。 「別に俺は行ってもいいけどさ」  カイは正直に本音を答えた。  守りたいと思う場所はトラベッタだけだが、アシェルを見捨てたいと思うわけではないし、必死なセウルを見ているとつい同情してしまう。その同情心と、ジークに任せればトラベッタは大丈夫だろうと言う信頼、ひとりで仕事をする事によって己が成長するかもしれないと言う期待を合わせれば、断る理由は見つからなかった。  物心ついた時にはトラベッタに住んでおり、別の町や村に行った事がないため、僅かな不安はある。だが、帰路に着くセウルと共に行けばひとり旅にはならず、道に迷う事もないのだから、それほど大きな問題ではないだろう。 「彼の腕は?」 「確かだ。並大抵の魔物ならば相手にならん。そこらの魔物狩りよりもよほど腕は立つ」 「その証明となるものはありますか?」 「俺の言葉で証明にならないと言うならば、実際にカイと戦ってみればいい。お前の命の保証はしないがな」  セウルはごくりと喉を鳴らした。  返す言葉も見つからないのだろう、それきり動かないセウルに、ジークは肩を竦めながら言葉を続けた。 「俺の息子だ、とでも言えば、満足か?」  淀んでいたセウルの瞳に、突如光が溢れた。  ずいぶんと判りやすい男である。いずれは町長になるのだろうに、これほど素直でやっていけるのだろうかと、カイは考えた。自分が心配するような事ではないと判っていたが。 「じゃあ、すぐに出かける準備をするよ。セウルさん、道案内お願いします」 「了解しました」  セウルは素早く立ち上がり、ジークやディーンに礼をすると、部屋を飛び出していく。  残された三人は視線で心情を語り合うと、同時に深い息を吐き出した。 「それにしても妙な話ですね。アシェルに魔物が出るなどと」 「本当に魔物かどうかは怪しいがな」 「え、そうなのか?」  ジークの言葉に反応し、カイは身を乗り出した。 「ああは言ってはみたが、エイドルードの加護の下にあるアシェルに魔物が出る事はありえない。巨大な動物か何かと勘違いしていると考える方が自然だ。だが、油断はするな」  真摯な眼差しと共に送られた忠告に、カイは肯いて応えるしかなかった。  父と離れた初めての仕事だ。元より、油断する余裕などはない。 3  鬱屈した空気の見本市。それが、アシェルの町をはじめて訪れた時にカイが抱いた感想だった。  高い外壁の中に黒塗りの門を見つけた時は、北以外の三方を高い山々に囲まれていると言う地形と合わせて、重罪人のための流刑地かと思ったものだ。だが壁の中に入り、門から続く大通りを歩きながら街の様子を見回したカイは、すぐに考えを改める事となった。  流刑地どころではない。ここは、死者の町だ。  地形のせいで陽が当たりにくく、通常の街より薄暗いのは仕方ない事と言える。しかし、いや、だからこそと言うべきか、天高く昇った太陽から光が降り注ぐ今の時分を大切にすべきだとカイは思う。  だと言うのに、この街には活気と言うものがまるでなかった。大通り沿いにある店はほとんどが開いているだけと言う状態で、店主たちにはやる気が感じられないし、買い物客の姿はほとんど見られない。賑やかな雰囲気とは縁遠く、人々の笑い声などまったく聞こえてこなかった。 「なんなんだ、この町」  呆れてカイが呟くと、カイより二歩先を進んでいたセウルが、ちらりと振り返った。 「以前はもっと活気ある町でした。ですが、魔物に襲われた市民と彼らを守ろうとした衛兵たち合わせて三十一名が命を落としたあの日から、民は皆魔物に怯え沈んでいます。よそに頼るところがあるいくつかの家族は町を出てしまいました。残った者の中にも、恐怖のあまり家の外に出なくなった者たちも居るようです」 「その人たち、働いてないって事ですか?」 「そうなります」  更に呆れて、カイはため息を吐いた。 「無関係であったはずの死に突然迫られて、怯える気持ちは判りますけど……家に閉じこもったくらいで魔物から身が守れるわけじゃないんだから、生き残ってしまった時の事を考えればいいのに」  セウルは目を細め、難しい顔をしながら辛そうに答えた。 「正論、なのでしょう。力ある方にとっては」 「どう言う意味ですか」 「生き残る自信がなければ、言えない台詞だと思います」  そんなもんかとひとりごちてから、カイは雲ひとつない空を見上げた。  太陽が強く輝く澄んだ青空は、父親が気合を入れて働き、母親が笑顔で洗濯し、子供が元気に駆けずり回るためのものだ。こんなにも気持ちのいい天気だと言うのに、無駄にしてしまうのはあまりにもったいない。 「やっぱり……」  再び町の人々への文句を口にしようとしたカイの目に、一軒の家が映った。  正しくは「家だったもの」と言った方が良いのだろう。半分は完全に崩れていたし、残っている半分も壁に大穴を開けているなど、今にも崩れそうな様子である。傾いた屋根が上に残っていなければ、かつて家であったとも判別つかなかっただろうと思わせる、散々な状況だった。  よくよく見れば、周囲に立っている家も万全とは言いがたい。最初に目に付いた家とは違い、何とか生活を営めそうではあるが、開いた穴を木切れや布でかろうじて塞いでいる、と言った家がほとんどだ。  地面や壁には、血の跡だろうと思われる、黒ずんだ染みがあちこちに散らばっている。中には明らかに人のものではない足跡をかたどったものもあり、ここで起こっただろう争いの跡として生々しくカイの目に焼き付いた。 「魔物は壁を越えて来たんですか? あんなに高いのに?」 「いいえ。私は目撃しておりませんので人伝に聞いた話になりますが、山の方から来たそうです。人の足で越えるは不可能と言って差し支えない山ですし、動物たちが麓まで降りてくる事はほとんどありませんから、木で作った簡単な柵を建てた程度で、大した防備を固めてはいないのです」 「なるほど」  襲い来る魔物にその意思があったかは判らないが、アシェルの民にとっては、まさに奇襲だったのだろう。  抵抗する術もなく命を落としていった者たちの苦しみを思い、気落ちして俯いたカイの耳に、小さな子供の泣き声が届く。声がした方に顔を向けると、野原で摘んできたであろうみすぼらしい小さな花を、やせ細った手で握り締める子供が見えた。  名もなき花を半壊した家の前に置くと、子供は手を組み、空を仰いで祈りはじめる。  見上げて祈ると言う事は、子供が祈りを捧げる相手は天上の神と呼ばれるエイドルードなのだろうと判断したカイは、湧き上がる不快感に眉を顰めながら、「無駄な事を」と誰にも聞こえないように呟いた。エイドルードの救いは気まぐれで、祈りに何の意味もないと、トラベッタで育ったカイは信じている。  無駄に祈る時間があるならば、その時間で剣を鍛え、自らが魔物を打ち取れる存在になればいいのに。  それはカイには当たり前の発想だが、エイドルードに守られ続けていた者たちには、思いも寄らない発想らしい。そんな彼らを哀れに思う気持ちが半分、羨ましく思う気持ちが半分で、何とも言えないもどかしさに耐えるため、カイは自らの胸倉を掴むように拳を握り締めた。 「あれは、魔物の犠牲者の家族です」  傷跡の残る家や子供から目を反らし、セウルは言う。差し伸べる手がない自分自身の呪うかのように、震えた声で。 「犠牲者、でしょう?」  カイが即座に返すと、セウルは闇色の眼差しをカイへと向けた。 「……そうですね」  セウルは肯いて、それきり何も言わなかった。無言であり続ける時間に比例して、瞳に篭る悲哀が、いっそう強くなっていった。  カイはセウルの後ろを黙って歩く。街中にはびこる重苦しい空気がまとわりつくようで、目的地までの距離がひどく長く感じられた。  無言のまま通りを進み続けると、やがて一軒の大きな屋敷が視界へと飛び込んできた。  悪く言えば古臭いが、よく言えば伝統を受け継いだ、重厚な雰囲気の建物だ。かなりの高さがあるが、窓の位置と数からおそらく二階建てであろうと予想できる。それぞれの階の天井がずいぶんと高いのだろう。  庭も広いようで、屋敷よりもずいぶん手前に門があり、そこに門番と思わしき男がひとり立っている。皮鎧をまとい槍を手にしているだけの簡単な武装だが、邪な考えを抱くものを警戒させる程度の役には立つのだろうと思わせた。  先導するセウルを見つけると、門番の男は深々と一礼し、門を開ける。一瞬、カイに対して値踏みするかのような鋭い眼差しを送ってきたが、その視線をちょうど塞ぐ位置にセウルが来ると、それきり男はカイを見なかった。 「食事と部屋をすぐに用意させます。とりあえず今日はゆっくりと休み、旅の疲れを癒してください――魔物が町まで降りてこなければ、ですが」 「ありがとうございます」 「いいえ。大したお構いもできず、申し訳ありませんが」 「こんなに広い屋敷に泊まれるだけでも、いい体験ですけどね、俺にとっては」 「広いだけの屋敷ですが、喜んでいただければ幸いです」  実家に戻ってきた事に安堵したのか、トラベッタに居た頃に比べ、セウルの表情はずいぶんと和らいでいた。カイに見せる微笑みは柔らかく、温かい。  トラベッタで見た時には余裕も気遣いもない人物だと思っていたが、それは故郷を襲う突然の危機に気が立っていただけなのだろう。おそらく本来の彼は、心優しい人物なのではないだろうか――偶然を装って門番の視線から庇ってくれたさりげなさに気付いたカイは、今彼が浮かべている表情と合わせて、セウルへの評価を改める事にした。とは言え、いずれ領主になる時に苦労するだろうと言う予想は覆せそうにないが。  門から玄関までの舗装された道を、道の左右に植えられた色鮮やかな花を楽しみながら進む。一歩先を行くセウルが、玄関前の短い階段に踏み込んだ瞬間、大きな音をたてて扉が開いた。  帰還した息子を迎え入れるためにしては、ずいぶんと乱暴だ。カイはいぶかしみ、セウルは驚いて、足を止める。  ふたりが視線を注ぐ所から現れたのは、背が高く体格のいい男だった。  鋭い視線や剥き出しの二の腕や顔に刻まれた古傷、身につけている使い古された鎧に、腰に佩いた二本の剣。見た目からも雰囲気からも同業者であろうと予測したカイは、道の端に身を寄せた。  やや前傾姿勢。必要以上に力強く地面を蹴る足。歪んだ口元に釣りあがった眉――男が何かに腹を立て、この場を立ち去りたがっているのは明らかだ。下手に刺激しない方が自分とセウルの身のためだろう。 「お待ちください!」  男が行き過ぎるのを待っていたカイは、男を引き止めようとする女の声が屋敷の中から響くと、小さくため息を吐いた。 「なぜ帰るのです! 話が違うではありませんか!」 「はぁ?」  気を荒げて振り返った男は、眉間に刻む皺を深くして答えた。 「それはこっちの台詞だろうが。あんな化け物の話は聞いちゃいねえ!」  男は吐き捨てるようにそれだけ言うと、入り口近くに佇む女性に冷たく背を向け、歩き出した。カイやセウルの事など視界にも入らないらしく、あっと言う間に門の向こうへと消えていく。  よくみると男の腕や肘、綺麗に剃り上げられた後頭部の広範囲が、赤く染まっていた。ほどなくして酷い痣に変化するだろうと予測できるそれらは、どこかに強くぶつけたばかりのように見えた。彼の言う「化け物」によってなされたのだろうか。  気にかかる所はあったが、荒れた男を呼び止める気にはならなかった。カイは男の背中を見送ってから、女性へと視線を移した。  細身で背の高い女性は、カイよりもいくつか年上のようだが、まだ若い。真っ直ぐに伸びた背筋と引き締められた口元、背の中ほどで切りそろえられた艶やかな黒髪に生まれの良さを感じ取ったカイは、見比べるように女性とセウルの間で視線を行き来させた。  女性はセウルに比べてずいぶんと気が強そうだが、よく見てみると顔立ちが似ていない事もない。歳の頃合いから見て、おそらくはセウルの妹だろう。 「サーシャ」  女性の名を親しげに呼んで、セウルは小走りに段を上がった。並んでいるところを見ると、いっそう良く似ていた。 「今の方は?」  サーシャは困惑を色濃く浮かべた瞳をセウルに向けた。 「私が雇った魔物狩りの方のひとりです。兄上がトラベッタに向かっている間に魔物が出ては困りますし、少ないよりも多い方が良いかと思いまして。充分な報酬を用意しましたし、機嫌良く引き受けてくださったのですが……突然『こんな仕事はやってられない』と言い捨てて、出て言ってしまったのです」 「何か問題でもあったのか?」 「それは……」  何かを言いかけたサーシャは、カイの存在に気付いたらしい。兄に向けていた視線をカイに注いだまま、しばらく言葉を濁していた。 「そちらの少年が、兄上の雇った魔物狩りですか?」 「ああ。トラベッタで魔物狩りとして活躍されているカイさんだ」 「そうですか」  サーシャは体ごとカイに向き直ると、美しい姿勢で礼をする。 「どうぞアシェルの町を、民を、よろしくお願いします」  サーシャの引き締められた口元は、それ以上を語ろうとはしなかった。サウルが問うた『問題』は確かに存在し、それは自分にも関わる事なのだろうと察するに充分だったが、カイは彼女を問い詰める事をせず、「努力します」と返すのみにとどめた。  仕事を放り投げて帰りたくなるような問題が、この仕事、あるいは屋敷や町に存在していたとしても、帰るわけには行かない。父と一緒ではない初めての仕事で、逃げ帰るような真似ができるわけがないのだから――ならばより逃げ帰りにくいよう、屋敷の中に入ってから真実を知りたい。そうカイは考えたのだった。 4 「すぐに部屋の準備をさせますので、今しばらくこちらの部屋でお待ちくださ――」  先導するセウルは客間と思わしき部屋の扉を開けた瞬間、口を噤んで言葉を飲み込んだ。  部屋の中が彼の知るものとは様子が違うのだろう。カイはさりげなく立ち位置を変え、セウルの肩越しに部屋の中を覗き込む。  広く豪奢な屋敷の外観から容易に想像できる部屋だった。細かな紋章が描かれた絨毯や壁紙は明るい色でありながらけして品性を損なっていない。贅沢に硝子が使われた窓は外からの明かりを存分に取り込める大きさで、色とりどりの花や鮮やかな緑が見事に調和した庭の風景が部屋の中に居る者の目を楽しませてくれる。部屋のあちこちに置かれた調度品が高級である事は詳しくないカイの目にも明らかなほど美しいし、何人座れるか判らない長さのソファは実に柔らかそうだ。  見るものならいくらでもある部屋の中にありながら、セウルはソファを独り占めしている少女に視線を釘付にしたまま動かなかった。どうやら彼女が予期せぬ――少なくともセウルにとっては――侵入者のようだ。  少女の年の頃はカイと変わりないようだ。目が大きくて可愛らしく、カイがこれまで出会ってきたどの少女よりも美しい。どきりとして、柄にもなく緊張したカイだったが、少女の格好を見て緩んだ気を引き締めた。肩よりも上と言う女性にしては短い長さの髪、細い体に纏った使い古された皮鎧、腰に下げた長剣などが、普通の少女ではない事を如実に語っていたからだ。 「先客がいらっしゃいましたか。これは失礼いたしました」  セウルは小さく会釈し、少女に謝罪の意思を示す。  少女は小さく首を振った。 「別に気にしなくていいよ。あたしの部屋ってわけじゃないし。ちょうどひとりで退屈していたところだし」  少女は笑顔でセウルに返し、視線を巡らせてカイと目線を合わせると、少しだけ表情を引き締めた。  いや、表情は変わっていない。相変わらずの可愛らしい笑顔のままだ。ただその視線が、強いものになっている。カイが何者であるかを、カイの実力がいかほどのものかを、確認する目。  間違いなく同業者であろう事を理解したカイは、少女に笑いかける事で応えた。 「申し訳ありません、カイさん。部屋の準備ができるまで、しばらくここで……」 「ああ、いいですよ別に。俺は」  カイが笑顔で答えると、セウルはあからさまに胸を撫で下ろした。本当に、素直な男だ。再び彼の行く末を心配しながら、カイは部屋の中へと足を踏み入れた。  部屋の中にはいくらでも腰を下ろす場所があったが、カイはあえて少女の正面に腰を下ろす。想像していた以上に柔らかなソファに腰を沈め、真っ直ぐに少女を見下ろした。 「君も魔物狩り?」 「他に何に見える?」 「見えないけど。街の衛兵とか久しぶりに返って来た放蕩娘とかの可能性も無くはないだろう?」 「そうかもね」  少女はそれまでカイに向けて真っ直ぐにぶつけてきた視線を反らし、庭の風景を眺めはじめた。  充分に見惚れる価値のある横顔を見せつけられ、本人が選んだ道を否定する権利などない事が判っていても、勿体ないなと思ってしまうカイだった。こぼれ落ちんばかりの大きな空色の瞳も、通った鼻筋も、日に焼けてもまだ充分に白いと言える肌も、並の少女が羨むほどのものだ。こんな仕事に就かず、普通の少女として生きていれば、引く手数多だったに違いない。 「サーシャさんのお兄さん、トラベッタに行ったって言ってたから、噂の魔物狩りジークに会えるのかと思っていたけど、どうやら違うみたいだね。ジークの歳は知らないけど、こんなに若いんだったら、少年だって事も噂に乗ってくるだろうし」 「期待に沿えなくて悪かったな。親父はトラベッタと契約をしているからあの街を離れられないんだ」 「あ、息子なんだ。ジークの」  カイはゆっくりと肯いた。 「まあ一度会ってみたかった気がするし、残念だとはちょっと思うけど、それ以上に安心したかな。さすがのあたしも、最強の魔物狩りと言われるジークと一緒じゃ影が薄くなるだろうし。役に立たなかったから報酬なしとか言われたら困るもんね」  嬉しそうに語る少女を細めた目で見下ろしたカイは、静かに息を吐いた。 「完全に舐められてるな、俺」 「あれ? もしかして、ジークより強いの?」 「いや、ジークより弱い事は間違いないんだが――『ジークじゃないから弱い』って扱いを受けるのは、少し癪に触ってね」  仕方のない事かもしれないけれど、と呟きながら方を竦めると、少女は明るい瞳に僅かに影を落とした。 「立派なお父さんを持つのも大変ね」  カイは迷わず首を左右に振った。 「偉大な父を持った子供が常に背負い続けなければならない弊害を含めても、俺はジークが父親で嬉しいんだ。だから大変ではない。周囲に認めて貰えない俺が情けないだけだ」  少女の大きな瞳がもの言いたげにカイを見つめる。  何かおかしな事を言ったかと戸惑ったカイだったが、しばらくすると少女は眩しげに目を細めて可愛らしく笑ってくれたので、胸を撫で下ろした。不愉快な思いをさせてしまったわけではないようだ。  カイは照れ隠しに微笑み返しながら、静かに右手を差し出した。 「普段は商売敵なのかもしれないけど、今回の仕事ではアシェルの町を守るって意味で仲間だから、よろしくしてくれるか。俺はカイって言うんだ」  少女はしばらくの間無言でカイの右手を見下ろし、小さく首を振った。 「あたしの名前はリタ。よろしくするのは構わないんだけど、握手は勘弁して」  カイは慌てて自身の服の袖で手のひらを拭いてから、再び手を差し出した。 「何もあんたの手が汚いからなんて言ってないでしょ。あたし手袋部屋に置いてきちゃったし、あんたも素手だし」 「普通握手って、素手でするものじゃないのか?」 「まあ、そうなんだけど、あたしは普通じゃないから。運が悪ければあんたを殺しちゃうかもしれないし」 「……そんなに怪力なのか? その体で?」  リタは頭を抱え、目を硬く閉じ、眉間に皺を寄せた。説明するのが面倒くさいとばかりの態度だが、唇は小さく動き、紡ぐべき言葉を探してくれているようだ。 「口で言ったところで信じてもらえないしなあ。でも、実践するのはどうかと思うしなあ。下手したら死ぬかもしれないし」と呟いているのが聞こえた。カイに聞かせるつもりのないひとり事だったようだが、会話をしていなければあまりに静かなこの部屋では、充分に聞き取れるだけの声量だ。  理解できずに首を傾げたカイが、今一度問い詰めようと口を開きかけた瞬間、部屋の扉が開く音が乱暴に響き渡った。  カイも、そしてリタも、瞬時に表情を引き締め、扉に向き直る。扉を開けたのはカイが見た事のない女性だが、服装からこの屋敷に勤める使用人である事はすぐに判った。 「あの、ま……魔物が、町に……!」  青白い顔の女性は、震える唇で言うと、自身の肩を抱きながらその場に崩れ落ちた。硬く閉じた目からは涙が滲み、強い震えで自由が利かない両手の指を絡ませ、祈るように救いを請う。  見ているだけで女性が抱いている強い恐怖が伝わってきた。それだけのものを堪えてここまで辿り着いた気概は立派だと感心し、少しでも落ち着く事を願って女性の肩を優しく叩いてから、カイは部屋を飛び出した。  自分の部屋が準備されていないのは幸いだった。おかげで必要な荷物は身に着けたままだ。魔物と体面すれば、すぐにでも戦える。  確かめるように腰に佩いた剣の柄を撫で――やや後方を走るリタの姿を視界に収めたカイは、速度を緩めないように振り返った。 「こんなにも早くお互いの実力が見せ合えるなんて、嬉しいのか悲しいのか判らないな」 「失望させないでね」 「言うなぁ」  ずいぶん強気な事だと、やはり感心しながら、カイは再び前方を睨みつける。  道案内など頼まなくとも、人々の視線や悲鳴を手繰れば、魔物の元に辿り着くのは容易い事だった。 5  巨大蟻、とでも言えば良いのか。町中で暴れている魔物は、見た目はほとんど蟻と変わらないのだが、体長が明らかに異なっており、人間を凌駕する大きさだ。  蟻が発する奇声は、辺りに響き渡る事で、力を持たない民を恐怖させた。中には腰が抜けてしまう者もおり、地面に座りこんだ少女を見つけた蟻は、素早くそちらに向けて駆けていく。  カイは走りながら剣を引き抜き、蟻に突進した。剣が蟻に届いたのは、蟻の足が少女を捕らえ、巨大な口が少女を噛み砕こうとする瞬間だった。  走る勢いを借りても、巨大蟻の硬い皮膚には、刃先を埋めるがせいぜいだった。しかし、蟻に苦痛を与えるのは成功したらしい。蟻は唸り声を上げ、少女から離れると、カイに向き直った。  蟻と睨み合う中で、少女を避難させようとするリタの姿がカイの瞳に映った。安堵に胸を撫で下ろしたい気分だったが、その余裕はない。カイは無言で剣を構え直す。  蟻が垂れ流し、カイの剣を汚した青い血の色が、鮮やかにカイの意識に焼き付いた。空や海を思わせる美しい色合いだと言うのに、腐臭に似た異臭を漂わせ、カイを不愉快にさせる。  蟻は足を上げ、カイに向けて振り下ろしてきた。かろうじて避けると、蟻の足は重みによってか、それとも刃に似た鋭さを持っているせいなのか、容易く地面を抉る。せっかく綺麗に整備されていた石畳が台無しだ。  石を簡単に貫けるだけの破壊力がある事を意識しないようにして、カイは数度、蟻に向けて剣を振り下ろした。全てが皮膚の表面を薄く切るのみで、致命傷を与えるほどではない。 「どう? ひとりで倒せそう?」  少女をどこかへ避難させたらしいリタが、蟻を挟んだ向こうがわに立っている気配がした。こっちは敵に致命傷を与えられず苦労していると言うのに、ずいぶんと呑気な口調である。 「少し、考える時間がもらえたら、なんとかなるかも……な!」  幾度か切りつける事で、やみくもに切りつけても意味がない事は判った。想像もつかない適当な場所に弱点がある、と言う事もなさそうだ。  ならば普通に攻めるまで。  カイは胴体と足の接続部分に狙いを定める事にした。カイの目に見える限りでは、巨大蟻の体の中で最も細い部分がそこだった。他の部分に比べて脆いかは判らないが、同程度の硬さならば、何度か剣を叩き付ける事で切断できるだろう。そうして蟻の動きを鈍らせれば、対処のしようがあるかもしれない。  カイは蟻が飛び掛ってくるのを待った。鋭い足をわざと際どいところで避けると、足先が地面に埋まったせいで動きが鈍る隙を突いて、剣を振る。狙い通り、胴と足の繋ぎ目から青い血が吹き出した。  他の部分よりも若干手ごたえが柔らかい。想像していた以上に狙いが正しかった事に浮かれ、カイは無意識に笑みを浮かべた。意識は、痛みによって暴走し、予測し辛くなった蟻の動きを読む事で手いっぱいだった。  暴れる蟻はどの足とも定めずカイに向けて振り下ろしてくるため、狙いを付け難い。再び同じところを切りつけたいのだが、最初に切りつけた足は今は遠くにあり、そもそも剣が届かない。  あと一撃。あと一撃あれば、あの足を落とせる。  確信はあれど思い通りに戦いを進められず、胸の奥に苛立ちが募っていく事を自覚したカイは、咽るような異臭の中、静かに深く息を吸った。  落ち着け。焦っても、苛立っても、あの足は落とせない。父ならばこの程度の事で気を乱さず、冷静に対処するはずだ。  カイは気を静めてから、再び狙いを定めた。そうして食らわせた一撃は狙いから僅かに外れ、蟻の足を軽く傷付けるにとどまった。 「ほんの一瞬なら、この蟻の動き止められるけど」  いつの間にか、剣を構えたリタがカイのすぐそばに立っていた。  警戒し剣先を蟻に向けながらカイに語りかけてくるが、こちらを見るだけの余裕はないようだ。見れば息が僅かに乱れ、額に汗が滲み、手にした剣は青い血に塗れている。カイの視界に入らないところで、彼女なりに蟻と戦っていたのだろう。 「どうやってだ?」 「口で説明しても笑い飛ばされるから、言わない。とにかくあたしを信じて」 「無茶言うなぁ……」  蟻の足がふたりの間を割るように振り下ろされた。  足を避ける事で再び蟻を挟む事になったリタがはっきり聞き取れるよう、声を張り上げてカイは言う。 「他に名案も浮かばないし、とりあえず信じる事にする。頼んだ」 「じゃあ、あたしが合図したら今蟻が頭向けてる方向に走ってね」  リタが示した方向は、アシェルの町を外部から守る高い高い壁だった。 「あっち、壁じゃないか?」  カイが口にした問いかけに、リタは返事をしなかった。何本かの足を挟んだ向こう側に見えたリタは、大きな瞳を鋭くつり上げ、蟻を睨みつけている。カイを無視したわけではなく、集中した彼女の意識に他者の声が届かなかったのだろう。  どうやら、彼女の不可解な言葉を信じるしかない。カイは覚悟を決めて、リタが示した方へ向き直った。リタや蟻の動きを捕らえようと横目で見てみると、リタが剣を鞘に戻す様子が見えた。  この状況で武器を手放すなど、正気の沙汰ではない。うろたえたカイは、顔をリタの方へ向ける。  同時に、リタが叫んだ。 「走って!」  何が何やら判らず、カイはリタの指示に従って走りだした。その方向には、やはり何もない。ただ高く聳える壁があるだけだ。  何をどう信じろと言うのか。後悔と疑いを抱きはじめたカイの視界の端に、リタが映る。身軽な体で蟻の攻撃を避け、剣を持たない小さな手を、蟻に向けて伸ばすところだった。  カイには彼女の手が、普通の、小柄な少女の手にしか見えなかった。魔物狩りであるために剣を振り続けた手のひらの皮は厚いかもしれないし、いくつもの細かな傷跡が残っているかもしれないが、ただそれだけのはずであった。  だが、リタの手が蟻に触れた瞬間、蟻の巨体が飛んだ。  蟻は強すぎる力で吹き飛ばされたようだが、リタは蟻に触れただけで、突き飛ばそうと力を入れていたようには見えなかった。いや、もし突き飛ばそうとしていたとしても、彼女の細腕で蟻の体を浮かせる事などできるはずがない。だいたい、それほどの怪力の持ち主であるのなら、振るった剣で蟻の硬い皮膚をやすやすと切り裂けるのではないだろうか。  カイは混乱した。混乱しすぎて、何も考えられなくなった。壁に向かって走っていた足の動きが、次第にゆっくりとなっていく。 「カイ!」  リタの叫び声で、カイは正気に戻った。その瞬間、吹き飛んだ蟻の体は壁に叩き付けられ、ひっくり返って腹をあらわにした。  蟻が身を起こすよりも少しだけ早く、カイは蟻の元へ到達する。狙いを定め、ありったけの力を込めて振り下ろした剣は、蟻の足を一本切断するに至った。  蟻は支えをひとつ失う事で体勢を崩した。  激痛のためか、蟻は鋭い奇声を上げる。空気を振るわせるほどの音量をすぐそばで食らったカイは、耳が壊れるかもしれないと自分を案じたが、耳を塞ぐために剣を捨てる事はしなかった。  間を空けずカイは蟻に切りかかった。別の足を同じように攻め、蟻が体勢を立て直すよりもわずかに早く、もう一本切り落とす。  吹き出す青い血液を避けると、カイと同じように剣を振るうリタの姿が見えた。何度も何度も同じところを切りつけ、ようやく切断にいたると、安堵のため息を漏らしながら次に移る。その様子は見た目どおり非力な少女のものだった。  先ほど見たものは、夢や幻だったのだろうか。  心底気になったが、考える事を後に回し、カイは蟻に向き直る。片方についた全ての足が落ちた蟻は、残った足を振り上げて暴れてはいたが、はじめて対面した時と比べてはるかに弱々しいものとなっていた。傷の痛みと切り口から流れ続けるおびただしい量の体液は、魔物の体力を奪っているのだろう。 「放っておけば死にそうだけどね」  頬に付着した青い血を拳で拭き取りながら、リタは言う。 「自然と死ぬまで暴れさせてたら、この辺一帯の地面が穴だらけになりそうだけどな」 「確かにそうだけど……」  自由に動き回る事ができなくなった蟻は、その場で足を振り回すしかできなくなっていた。当然、蟻の足の真下にある石畳は、粉々に砕け散っている。 「じゃあ、どうやって止め刺すの、これ」 「多分だがど……何と言えばいいのか、人間で言う胸のあたり。そこは多分柔らかい。さっきひっくり返った時、そこだけ皮膚が薄そうに見えた」 「へえ。ちゃんと見てたんだ」 「色々驚く事はあったが、仕事はできるかぎりきちんとしたくてね」  カイの言葉に対するリタの笑みは複雑だった。叱られた子供が場をごまかすようであり、褒められた子供が照れを隠すようでもあった。  カイは苦笑いをリタに返して、蟻に向かった。リタから目を反らし、リタの目から自分を隠すために。  徐々に動きが緩慢になる蟻が足を上げるのを見計らって、カイは蟻の下に体を滑りこませた。瞬時に狙うべき場所を見つけ、剣を突き上げると、蟻は更なる大きな奇声を上げた。思った通り、他の部分よりも柔らかいそこには、剣の半分を埋め込む事ができた。  悪臭を放つ蟻の体液を全身に浴びながら、カイは蟻の下から転がり出る。  力尽きた魔物はその場に身を崩し、二度と動かなかった。 6 「もうすぐお食事の準備ができますから食堂にお集まりください」  使用人がカイの部屋を訪れてそう言ったのが、つい先ほどの事だ。  カイは一応客人の身なのだが、食堂までの道案内まではしてくれないようで、教わった道を間違えないようひとりで辿らなければならなかった。もしかすると、呼びに来てくれた時に一緒に着いていけば案内してもらえたのかもしれないが、湯浴みを終えたばかりで、人前に堂々と出られるような格好をしていなかったのだ。  濡れていた髪をできるだけ乾かし、しっかりと服を着て部屋を出る。歩きながら、自身の腕を鼻へと押し当てた。全身に浴びてしまった蟻の血の匂いが残っていないかを確かめるためだ。  特別綺麗好きでもないカイが、昼間から遠慮なくたっぷりのお湯をもらい、かつて使った事もないような高級石鹸で何度も体を洗ったのは、匂いを消すために他ならないのだが、至近距離で嗅いでみても、何の匂いも感じ取れなかった。どうやら強烈な匂いを全身に浴びた事で、鼻がおかしくなってしまったようだ。  カイは途方に暮れるしかなかった。もしも匂いが落ちていなかったら、これから一緒に食事をする人たちはかなりの苦痛だろう。自分は鼻が麻痺しているので問題はないが……。 「花の香りがする」  いつの間にやら近付いていたリタが、小さな鼻をカイに寄せ、匂いを嗅ぐ。  使えない鼻でそれでも匂いを嗅ごうとする事に集中していたためか、カイは声をかけられた瞬間まで、リタが近付いていた事に気付かなかった。突然の事に驚いて身を捩ろうとしたが、動けば腕が彼女の鼻先に触れてしまう。脳裏に吹き飛んだ蟻の光景を蘇らせると、体は硬直して動かなかった。 「に、匂い、消えてるか? 魔物の血の」 「大丈夫、ちゃんと消えてるよ。あんたに似合わない花の香りがして、おもしろい事になってるけど。石鹸使いすぎじゃないの?」 「……ちょっと、気合入れて洗いすぎたか」  カイは照れ隠しに笑いながら頭を掻く。同時に、リタから半歩距離を置いた。そうしようと思ったからではなく、体が勝手に動いていた。  しまった、と思ったが、もう遅い。少し寂しそうに陰った空色の瞳が、無言でカイを責め立てるようだった。  胸の奥に湧いた少女への恐怖心は否定しない。彼女の力は得体が知れず、恐ろしい。向こうから握手を拒んだ事から、彼女の力がカイにも被害を及ぼすのはほぼ間違いないと予測してしまえば、なおさらだ。  それでも、「だから、彼女と距離を置くのは当然なのだ」と認めたくはなかった。 「わ、悪い」  咄嗟に口をついた簡素な謝罪の言葉に、リタは薄く笑う。出会ってさほど時は過ぎておらず、彼女の事をよく知らないカイにさえ、「リタらしくない」と思わせる悲しい笑みだった。 「謝る事ないって。怖がるのが当たり前でしょ。みんなそうだよ」  不思議な笑みだった。蟻と戦った時に彼女が一瞬見せた笑みと似ているかもしれなかった。いや、あれは彼女が一瞬見せたわけでなく、自分が一瞬で目を反らしたのだったか。  自分の力への思いが、今の彼女の笑みに現れているのかもしれない。巨大な蟻を吹き飛ばせる力を、魔物狩りとしてのリタは誇り、ひとりの人間としてのリタは疎ましがっているのかもしれない――そこまで考えて、町長宅ですれ違った魔物狩りと思わしき男の言葉を思い出したカイは、リタに気付かれないよう深く息を吐いた。 「化け物」と言っていた男は、体のあちこちをどこかに叩き付けたような跡があった。きっと彼は、何かのひょうしにリタの力を身を持って知る事となったのだ。そして彼女を恐れ、逃げ出した。  あの男を責める気はない。責める権利もない。カイ自身も同じ事をしたのだ。屋敷を出るか、半歩離れるかの違いだけで、リタから距離を置いたのは同じなのだ。何も知らずに、リタを傷付けてしまったのだ。 「話すのが嫌じゃなかったら、教えてくれるか。その力の事」  勇気を出して訊ねると、リタは目を見張ってカイを見上げてきた。 「聞いてどうするの」 「どうするって……改めて訊かれると、困るんだが。なんとなく、知りたいと言うか、知らないと嫌だと言うか」 「そっか。なんとなく、か」  張り詰めた空気が微かに緩んだ。隣を歩く少女の足取りが僅かに軽くなったように感じ、カイは少しだけ嬉しくなった。 「期待される答えを返せるほど、あたし自身この力の事よく判ってないんだけど、どうも産まれた時から持ってたみたい」 「よくここまで育ったな。魔物はともかく人に触れられなかったら、赤ん坊なんて育たないだろう」 「全員に触れないわけじゃないんだ。女の人なら何の問題もなく触れるの。普通の動物とかも平気。男の人でも死体は平気だったから、駄目なのは生きている男の人と魔物だけだと思う。駄目って言っても、素肌が触れ合わなければ問題ないから、今ならあんたと握手もできるよ」  薄い皮手袋を着けた手をひらひらと振るリタに応えるように、カイはおそるおそる手を伸ばしてみた。彼女の言葉を信じ、皮に覆われた指先にそっと自分の指先を重ねてみると、確かに何も起こりそうにない。  ほっと胸を撫で下ろす。直後、安堵をあからさまに態度に出した事を後悔したが、リタの表情は陰る様子がなく、カイは再び安堵した。 「あんまり実験するわけにもいかないから、別の法則があるのかもしれないけど、今のところ把握しているのは、魔物や男の人があたしに触れそうになると、何かにはじかれるみたいに相手が吹っ飛んじゃうって事かな。あたしが触れようとしても同じ。どうしてあたしだけこんな力を持っているのかも、よく判らない。もしかしたら知ってるのかもしれない親は、居ないし」  カイは重なる指に注いでいた視線をリタへと移した。 「まだ二歳かそこらの頃にね、拾われたの。拾ってくれた人が言ってた。泣き喚くあたしの声に気付いて近付いてみたら、布に包んだ子供を抱いた男の人が倒れていたって。あたしは元気に泣いてたけど、男の人は死んでたって。背中に大きな傷があったんだって。薬草とか包帯で手当されていたけど、治りきっていない傷が。普通の人なら動けないくらいに深い傷を負いながら、その人はあたしを抱いてどこかに向かっていたみたい。もしかしたら、追われていたのかも」 「その人は、君の父親?」 「そうかもしれないし、違うかもしれない。今更確かめようがないし、だいいちその人の事、あたしの記憶には残ってないから」  リタの手がゆっくりと滑り落ち、ふたりの指先が離れた。同時に温もりも離れていく感覚に見舞われ、カイは戸惑った。皮手袋越しでは元々、温もりに触れていないというのに。  距離を感じたのかもしれない。ふと、カイは悟る。物心着く前から母親がおらず、父は仕事でよく家をはずしていたカイであっても、リタの抱く寂しさのいくらかしか理解できない。カイには、いざと言う時に頼れる父親が存在するのだから。  ジークの息子だと名乗った事、父であるジークを誇った自分が、今更ながらに恥ずかしくて仕方がなかった。悪気があったわけでも、自慢するつもりがあったわけでもない。リタもその程度の事、悪意に取りはしないだろう。だが、自分の中にある甘えを彼女に見せてしまった事が、急に恥ずかしくなったのだ。 「女の人ばかりのところで育てられたからね。この力に気付いたのは、ずいぶん後だった。気付いた時は、どうしようかって思ったなあ。育ててくれた人に恩返しできないし、普通に生きるには役に立たない、厄介な力だから。消えてしまえばいいって何度も思ったけど――今はけっこう、役に立ってくれてる。だって、魔物狩りとしては、ある意味で無敵でしょ? どんな魔物もあたしを傷付けられないんだから」 「確かに」 「だから、絶対負けないよ、あたし」  リタは小さな手を握りしめて作った拳を、カイに向けて振り上げた。 「さっきは町中で被害を広げちゃいけないかと思って協力したけど、本当ならひとりで倒せたんだから、あんなの」 「どうやって?」 「死ぬまで壁や地面に叩きつければ、そのうち弱るでしょ。ま、今回はそんな事したら、あいつが弱る前に壁が壊れそうだから、やめたけど」  振り上げられた拳を柔らかく受け止めて流しながら、カイは微笑んだ。カイには今の彼女の態度が本音か虚勢かを見分けるだけの力はなかったが、仮に虚勢だったとしても、強がる事ができる彼女の力が眩しいと思えたのだ。  彼女の力は、彼女が失ったものの代わりに与えられたのではないか、とカイは考えた。彼女を守るはずだった両親の代わりに、彼女を守ろうとしたのではないか、と。  だからと言ってありがたいものとは言い切れないし、不便な力よりも両親の庇護を望む方が普通であろうから、カイはその考えをリタに伝えようとはせず、自身の中で消化した。 「敵に回すと手強そうだな、君は」 「うん、手強いよ。気を付けてね」 「自分で言うなよ」とカイが言う前に、リタは軽い足取りでカイの数歩前に進んだ。表情はもう覗けない。突然見せつけられた小さな背中だけが、彼女の感情を不器用に伝えてくる。 「話。聞いてくれて、ありがとう」  ぽつりと、こぼすようにリタは言った。 「? 俺が訊いたんだから、当たり前だろう」 「まあ、そうなんだけど」  カイが疑問を視線で投げかけてみても、首を傾げてみても、リタは応えない。 「今日の夕飯なんだろうね」とか、「ここ、ご飯おいしいよ」とか、他愛のない事を、食堂に辿り着くまでずっと話し続けていた。 二章 約束 1  大きく振り下ろした剣は、虚しく風を切るばかりであった。  勢い余って剣先が地面を抉ってしまい、剣を構え直す時にまだ若い芝と土が当たりに飛び跳ねる。若い緑の香りが鼻先に漂いだした頃、カイが使うものよりも幾分細い剣が、構えなおしたばかりのカイの剣身を打った。  耳につく金属音があたりに鳴り響き、カイは顔を顰める。  不愉快に思ったのはカイだけではなかった。細身の剣を振るうリタも、眉間に皺を寄せている。せっかくの可愛らしい顔が台無しだ。 「はっ!」  リタが気合を込めて突き出した一撃を、カイは紙一重でかわす。剣が起こした僅かな風に、頬を撫でられた。  咄嗟に剣を手放し、目の前に迫った腕を掴んだ。リタが振りほどこうと力を込めるが、それよりもやや早く腕を引き寄せ、体勢を崩させた。もう片方の手で押さえつけようとして――触れかけた場所は剥き出しの肩だった。  触ってはいけない、と思い、動きが止まった。止める事が精一杯で、別の動きを取る事はできず、そうして出来上がった隙を見逃してくれるリタではなかった。  リタは腕を掴まれているせいで自由のきかない体をできるかぎり屈め、カイを蹴り上げる。裏が硬く加工された靴は腹部に抉るように埋まり、カイはうめき声をもらしてその場に膝を着いた。もちろん、リタの腕は手放してしまっている。  リタは手にした剣を大げさに回した後、切っ先をカイの喉元に突きつけた。 「これで一勝一敗」 「……何となく、卑怯な気がするんだが」 「こっちは非力でか弱い女の子なんだから、持てる武器は全部使わなきゃ勝てないでしょ。そーゆーのは、卑怯とは言わないよ」 「持てる武器全部使ったら、君の方が確実に俺より強いじゃないか」  とは言え、負けは負けだった。素直に認めようと、カイが両手を上げ、降参を示す。  リタは得意げに笑って剣を鞘に収めた後、近くに落ちていたカイの剣を拾ってくれた。親切ではない事は、笑顔から判る。自分の勝利を、そしてカイの負けを示すためのものだ。  悔しくはあったが、不思議と腹は立たなかった。カイは苦笑いを浮かべ、剣をしまう。 「少し休憩する?」 「内臓が落ち着くくらいまでは、お願いしたいな。さっきの、食後だったら吐いてたぞ」 「じゃ、けっこう長く休めるかな。かなり上手く入ったと思うし」  リタは悪びれなくそう言って、カイの隣に腰を下ろす。反論もできず、カイも足を放り出して体を休ませた。  中天に上がった太陽が降らす暖かな光が、汗ばんだ体をほどよく冷やす緩やかな風と共に、心地よい時間をふたりに与えてくれた。耳を澄ませば鳥の声も聞こえ、たびたび魔物が現れると言う現実を忘れてしまえば、平和にしか思えない。  実際魔物も、一昨日以来出ていなかった。一昨日のものはふたりで倒したし、最初に出たと言う魔物も、街の兵士たちが多くの犠牲を出しながらなんとか倒したらしい。「元々魔物が出るはずのない地域で二匹も倒せば、もう出ないのではないか」との予想をカイたちは立てたのだが、念のためもう少し居て欲しいと懇願されれたため、まだアシェルに残っている。  彼らの不安が判らないでもないし、宿や食事の世話は万全、魔物が出なくてもいくらかの報酬を出してくれると言う条件ならば、断る理由はなかった。きちんと魔物を倒すと言う仕事を果たしたとは言え、せっかく呼ばれてきたのに次の日に帰ると言うのも、間が抜けているような気がしたのも手伝った。  何もしないと体が鈍って嫌だと頼まれてリタと手合わせをするのも、なかなか楽しかった。カイの稽古の相手と言えばジークかトラベッタの兵士たちなのだが、リタは彼らとは違う戦い方をするのだ。  とは言え、昨日負けた事を根にもっている様子なのにはさすがに参った。例の力を発揮させないよう気を使いながら戦うのは面倒で、精神的に疲労するのだが、彼女はそれを逆手に取るように、昨日より露出を増やしてきたのだ。目のやり場に困るほどではない事がせめてもの救いだった。 「暇だなぁ……」  リタは突然呟いたかと思うと、体を思い切り伸ばして芝の上に転がった。柔らかい若草に受け止められて、気持ち良さそうに目を伏せる。 「確かに、暇だが」  同意して、カイも草の上に横になった。逆流しそうだった胃は落ち着きを見せはじめたが、蹴られた所に手を重ねると、僅かに痛みが走る。酷い痣になるのを覚悟しなければならないようだ。 「暇だと思うなら、居残りを頼まれても断ればよかったんじゃないか? アシェル以上に魔物に困ってる地域は、いくらかある」 「トラベッタ専門のあんたに言われなくても知ってるよ、そのくらい。あたしは元々そーゆーとこうろうろして仕事を請け負いながらこれまで生きてきたんだから」 「どのあたりで仕事してたんだ?」 「東の方だよ。ネラウとかバウェロとか、そのへん。トラベッタとは正反対だね」  リタは寝転がったまま、指で空中に大まかな大陸の形をなぞり、大陸の東側を指し示した。確かに、大陸の北西部に位置するトラベッタとはほぼ間逆の位置だ。 「東より西の方が魔物の出現するところが多いって聞いたから、稼げるかと思って西に向かってた途中、ここでサーシャさんに捕まったってわけ。噂話で腕のいい魔物狩りがトラベッタに居るって聞かされまくってちょっと挫けかけていた所だから、ついつい引き受けちゃった」 「ジークの事か?」 「もちろん。でもまあ、噂だし、自分の目で見てない事で落ち込むのはやめようと思った矢先に、あんたが現れた。噂にも聞いた事のない、ジークの息子」 「悪かったな。現地ではそれなりに評価されてるんだよ、これでも」 「うん、だと思う。それだけの腕を持って東に行けば、結構もてはやされると思うよ。それだけの腕の魔物狩り、あんまり需要ないから、衛兵とかに誘われるんじゃない?」 「君だってそうだろう」と言いかけて、カイは口を噤んだ。  例の力は、リタがまっとうな職に就く事を邪魔するだろう。その力を含めれば、ほとんどの兵士よりも強い事が明らかでも。 「無名のジークの息子でこれだもんなあ。ジークに張り合うのは、やめた方が良さそう。もう少し南の方に行くしかないかあ」 「トラベッタ以外も、西は魔物だらけだ。俺たち魔物狩りには、いくらでも仕事がある――喜んでいい事ではないんだろうが」  そうだね、と短く答えて、リタは静かになった。眠ってしまったのだろうかといぶかしみ、顔をリタの方へ向けてみると、空色の瞳はまっすぐ、同じ色を見上げていた。  凛とした横顔は、可愛らしいだけでなく、美しいと思えた。見つめる先に何があるのだろうと、興味を抱かせる力があった。青空か、雲か、あるいはそこに居ると言われているエイドルードを探しているのか。  いや、それだけはないだろうと、カイの中には確信があった。エイドルードを神と崇める者が、魔物狩りなどをやっている訳がないからだ。生まれながらに持つ得体の知れない力と言う、運命的なものに翻弄されながら生きてきた彼女ならば、尚更だろう。 「何か困った事があったら、トラベッタに来るといい」  カイは上体を起こしながら言った。 「なんで?」 「俺が居るから。大して力にはなれないかもしれないけど、飯食わせてやったり、休む場所を与えてやったり、代わりに魔物と戦ってやったり、話を聞いてやるくらいは、できると思う」  トラベッタにはエイドルードなる神は居ない。カイはエイドルードの救いを知らない。  けれど、人の手の強さと優しさを知っている。それに支えられて、今まで生きて来られたのだと、漠然と理解している。  だから彼女にも、人の救いがあればいいと思った。もしかしたら東に残してきているのかもしれないが、多くて困るものでもない。 「何それ。もしかして、あたし口説かれてる?」 「い……いやっ!」  予想外の切り返しを、カイは咄嗟に否定した。どもってしまった所が余裕のなさに見えたのか、それともはじめからからかうつもりだったのか、リタは楽しそうに笑い声をもらす。 「そんなに慌てなくても、判ってるって。あたしの力の事知ってから口説いてくる男なんて、今まで居なかったし。触れられない女なんか恋人にしても、嬉しくないもんね」 「いや、そんな、事は」 「『無い』って心から思うほどあんた聖人君子じゃないでしょ。そんでもって、『無い』ってさりげなく言えるほど、嘘が上手くもない。無理しない方がいいよ」  声は優しかったが、強い力が伝わってきた。  それは得体の知れない力とはまた別の、彼女が持つ力だった。幼い時に多くを失い、謎の力のせいで多くを諦めなければならなかった彼女が、生きるために得た力。  勝てないな、とカイは思った。何に勝ち、何に負けるのか、問われたところで上手く答えられる気がしなかったが、とにかく今の自分ではこの少女にはけして勝てないと、はっきりと悟った。先ほどくらった蹴りと違い、素直に認められる敗北である事が唯一の救いかもしれない。 「俺も旅に出た方が良いのかもな」  それだけでリタに追いつけるとは思っていなかったが、前進への願いを込めてぽつりと呟くと、リタがこちらを見た気配がした。 「何ならあたしと一緒に来る? 大して力にはなれないけど、ご飯食べさせてあげたり話を聞いてあげるくらいはできるよ?」 「……からかうなよ」 「ごめんごめん」  リタは立ち上がり、体についた土や草を払いのけた。  真っ直ぐに立ち、陽の光の元に立つ彼女の表情は、カイの位置からは逆光で見えそうにない。偶然なのか、彼女が意図的に隠そうとしているのかは判らなかったが、カイは彼女の感情を覗く事を諦め、俯いた。少しだけ土が近くなり、土の香りが胸に広がった。 「でもね、あたし、けっこう本気で――」 「カイさん! リタさん!」  しばし間を開けて再び紡がれたリタの声を、より大きな声でかき消したのはセウルだった。どこから見ても慌てた様子で、急いで庭まで駆けつけてきたのだろう、肩で激しく呼吸をしている。 「どうしました?」 「ちょっと……来ていただけますか」 「魔物が?」 「いえ、街に出たわけではないのですが……聞いていただきたい情報が入ったので」  カイがリタに視線を送ると、リタもちょうどカイを見たところだった。一瞬視線を交錯させ、ほぼ同時に肯くと、セウルに歩み寄る。  セウルの息はまだ整っていなかったが、歩く事が不可能なほど疲れているわけではないようで、すぐにふたりを先導して歩きはじめた。 「そう言えば、さっき、何て言おうとしていたんだ?」 「さっき?」 「『本気で』の後」 「……別に、大した事じゃないから、いいよ」  それきりリタは唇を硬く引き締め、黙ってセウルの後を追う。  少女の態度は気にかかりつつも、これは何を聞いても無駄だなと早々に諦めたカイもまた、黙ってセウルの後を着いて行った。 2  セウルに案内された部屋は、カイがアシェルに到着した日に通された客間と同じだった。  その時リタが座っていたソファには誰も座っていなかったが、カイが座っていた所には、ひとりの青年が腰を下ろして居る。居心地悪そうにあちこちを見ていた彼は、カイたちの入室に気付くと慌てて立ち上がり、不自然なほど背筋を伸ばしたまま深く礼をした。  お世辞にも綺麗とは言えない格好と、屋敷にそぐわない雰囲気。おそらく彼はアシェルの民のひとりだろうと推測したカイは、彼を安心させようと軽く笑みを浮かべてみる。  しかし青年は、カイの気遣いに気付く様子はなかった。セウルが「もういいですから」と何度か繰り返して落ち着かせるまで、ひたすら頭を下げるばかりだったのだ。  再びソファに座った青年は、ぴったりと合わせた膝の上で握り締めた拳を、小刻みに震わせていた。血の気の引いた顔色と表情からして、緊張による震えではないだろうとカイは考える。不安、あるいは恐怖によるもの――自分たちが呼びだされた事と合わせれば、原因が何であるか予想するのは容易い。 「さきほどの話を、こちらのお二方にも話してくれますか」  セウルが青年を促すと、青年は弱々しく肯いた。ようやく親を見つけた迷子のように安堵と不安を絶妙に混ぜ込んだ表情で、セウルと、リタと、カイの顔を一度ずつ見つめてから、ゆっくりと深呼吸し、口を開く。 「えっと、オレ、狩人で生計を立ててるんですが、魔物がこの町に出てからしばらく、仕事してなかったんです。魔物は山から来るって聞いていたから怖かったもんで。でも、一昨日魔物狩り――もしかして、お二方ですかね? 魔物狩りの方が倒してくださったし、昨日も魔物が出た様子はなかったし、もしかしたら大丈夫かなと思って今日は久々に山に入ってみたんです。やっぱり仕事しないと、食っていけませんから」  カイは、無意識に緩みそうになる口元を意志の力で引き締めた。  青年の言葉は、魔物を倒したその時よりも、「この町の役に立った」と言う実感をカイに与えてくれた。つい二日前の町の様子と比べれば、アシェルの民が仕事をしようと考え行動に移しただけでも、充分向上したと言えるだろう。 「それで山に入ったんです。元々この町の周りの山は険しいので、オレのように馴れている人間でもあまり奥の方には入らないようにしてるんですが、今日は万が一の事を考えて、いつも以上に気を配って、獲物が取れるぎりぎりまでしか足を踏み入れませんでした。あの山は獲物が豊富なので、それでも多少は仕事ができますから」 「で? 今日は、獲物取れたの?」 「多少は」 「多少、ね」 「兎を一羽狩ったところで、逃げ帰ってきたもんですから」  カイとリタはほぼ同時に表情を引き締め、僅かに身を乗り出した。特訓中――厳密に言うならば休憩中だが――の魔物狩りのふたりをわざわざ呼んで聞かせる話なのだ。元より魔物関連の話である事は判っていたが、ここからが本筋となれば、聞く態度がより真剣になるのは当然の事だった。 「何を見たんです?」  カイの問いかけに、青年は喉を鳴らした。 「魔物……だと思います。正面から見たわけではないんですけど、巨大な、蟻みたいなのでした。最初にこの町に来たヤツも、一昨日魔物狩りの人たちが倒したのも、巨大な蟻みたいなやつだって聞いて、同じだと思ったらオレ、怖くなって」 「一匹?」 「オレが見たのは一匹です。もしかしたら、仲間が居るのかもしれないですけど」 「近くには居なかった?」  青年は少しだけ迷ってから続けた。 「あの山には洞窟みたいなのがあるんですよ。中がわりと広くて、深い。オレが見たのは、大きな蟻がその洞窟に入っていくところだったんです。だから見たのは一匹ですが、もしかしたら洞窟の中に仲間が居たかもしれません。中、確認してみようかと思ったんですが、さすがに怖くて、すぐに町に戻ってきて、町長さんちに飛び込びました」  カイとリタは同時に安堵の溜め息を吐いた。 「帰ってきてくれて良かった。俺が知る限り、光が届かない地中の方が魔物は活発なんです。町に来ていた魔物より手強い可能性は高い」  青年は小さく開いた口をそのままに、間抜けな表情で何度も瞬きをした。  好奇心が恐怖心に負ける事によって、洞窟の奥で人知れず永遠の眠りにつかずにすんだ事は、青年のみならず、カイやリタ、何よりアシェルの町にとっても幸運と言えるのだろう。束の間の平穏が永遠に続くかもしれないと思いはじめた頃に再び魔物に襲われれば、未来が失われていたかもしれないのだから。  カイは青年からリタに視線を移した。リタは「抜け駆け禁止」とでも言いたげな厳しい瞳でカイを睨んだ後、カイの意図を察したようで肯いてくれた。  深い地中では、天上から降りそそぐ光が届かない。つまりは、エイドルードの加護も届きにくい。深い地中は、リタが守ってきた地やジークやカイが守ってきたトラベッタと同じように、エイドルードから見捨てられた場所なのだ。  だからと言って、深い洞窟の近くが全て危険なわけではない。エイドルードの力が届かないほど深い所から地上まで魔物が出てくるなどと、そうそうありえる事態ではないし、たとえ出てきたとしても、光を浴びるうちに魔物の力は徐々に弱り、大抵は人を襲う前に朽ちてしまう。エイドルードの加護がある地で、充分な力を残しているうちに人里に出てくる事は奇跡に近い確率であり、この点だけで言うならば、アシェルは相当に運の悪い町なのだろう。  ほとんどありえない偶然とは言え、魔物の出現に納得がいく理由を得た今となっては、アシェル近隣から魔物を撲滅するために尽力する事こそが、カイたち魔物狩りの仕事だ。  洞窟に巣食う魔物を、根絶やしにしなければ。 「とりあえず問題の洞窟まで偵察に行きたいと考えてます。できれば、明るいうちに。せっかく帰ってきたところを申し訳ないですけど、案内を頼んでもいいですか?」  青年は間抜けな表情のままカイを真っ直ぐ見つめた。 「今日、これから、ですか?」 「できるだけ早く片付けた方が町も安全だと思いますし……あ、貴方を戦いには巻き込みません。万が一途中で魔物と出くわしても、絶対に守ります」 「あたしたちの力を全面的に信用しろって言っても無理なんだろうけど、貴方を逃がす時間を稼ぐくらいの力はあるって、信じてほしいな」  魔物の恐怖に震える眼差しが、カイとリタを素通りして、セウルを見た。セウルは一瞬申し訳なさそうに目を反らしたが、すぐに青年に向き直り、一礼する。 「怖い思いをさせて申し訳ありませんが、よろしくお願いします」  次期領主に頭を下げられては、断りようがないのだろう。青年は半ば諦めたような表情で肯き、深く息を吐いた。 「それじゃ、俺たちすぐに準備をしますので、少しだけここで待っていてください」  カイとリタはどちらからともなく立ち上がると、客間を飛び出した。  しばらくは並んで通路を歩いていたが、やがて小走りになる。平静を装いながらも自然と気は焦りはじめ、それが行動に現れてしまったのだった。 「この間出たのよりは、手強いんだろうな」  それぞれの部屋に戻るため、道を分かった瞬間にこぼれたリタの呟きに、カイは足を止める。振り返ると、わき目も振らずに与えられた部屋に飛び込んでいくリタの背中だけが見えた。  リタの言う通りだ。相手は町に出た魔物よりも力を蓄え、活発に動く事だろう。  もっと、気を引き締めなければ。アシェルのためにも、自分たちのためにも。 3  得体の知れない足跡は、山の麓からはじまり長く続いていた。  黒色が強いこの山の土は柔らかく、振り返ると自身の足跡がくっきりと残っている。この柔らかさならば、ふた晩以上前――おそらくは――の足跡が薄くとは言え確認できる程度に残っているのも、当然の事と言えた。  カイは青年の案内に従いながら、足跡を目で追う事を忘れなかった。ふと顔をあげると、リタもカイと同じようなところを見ている。彼女も足跡に気付き、おそらくは蟻に似た魔物のものであると予想したのだろう。 「あそこです」  やがて青年が立ち止まり、洞窟の入り口を指し示すその時まで、足跡は途切れる事も、別の方向へ進む事もしなかった。三人の前方へと続いて行き、洞窟の入り口に至ったところでようやく切れている。  入り口付近には、今日ついたばかりであろう新しいものから、今にも消えそうに薄れたものまで、似たような足跡が密集していた。 「間違いなさそうだね」  リタの言葉にカイは肯いた。  青年が見たと言う魔物も、一昨日アシェルを襲った魔物も、そしておそらくは最初にアシェルを襲った魔物も、全てあの洞窟から出てきたに違いない。  カイは更に数歩歩みを進め、青年を追い越し、洞窟に近付いた。巨大蟻が出てくるだけあって、入り口は縦にも横にも大きく広がり、奥に続く暗闇が今にもカイを飲み込まんとしている。強い魔物を目前にした時の緊張感が、カイの全身を支配した。 「入ってみる?」  リタはカイに歩み寄りながら言った。口調は問いかけだが、返答を聞くつもりはなさそうだ。彼女の中で、カイの返答は確定事項なのだろう。 「オレはもう、帰ってもいいですかね?」  一緒に中に入るのも、ここでひとり待たされるのも嫌だと、口調と眼差しで強く訴える青年に、カイは応えるべき言葉をすぐには見つけられなかった。代わりに足元を見て、残された足跡から一番新しいものを探す。 「さっき貴方が洞窟に入っていく魔物を見た時、魔物はどっちから来ました?」 「ええと……確か奥の方からだったと思いますけど」 「じゃあ大丈夫だと思います。一番新しい足跡は貴方が見た時のものでしょう。たぶん、外にはいません。でも一応気を付けて帰ってくださいね」 「はい。じゃあ、後はよろしくお願いします」  青年は素早く一礼し、カイたちに背中を向けた。歩む足は徐々に早足になり、背中が小さくなった頃には走りだしていた。よほど恐ろしかったのだろう。  カイは洞窟を目の前にして、剣の柄に手をかける。意志や、決意と言ったものを手のひらに込め、柄を強く握り締めた。 「あたし、先行くけど、いいよね?」  慣れた手付きで素早くランタンに火をつけたリタは、カイの返事を待たずに洞窟の中を照らす。暗闇が橙色の明かりによって晴れていくと、暗い色をした土や岩が視界に広がった。  あの巨大な蟻が出入りできるのだから足場も天上も壁も充分な強度があるのだろうと思いながら、リタもカイも念入りに一歩ずつ確かめ、足を踏み入れていく。時折見える苔の濃い緑色が華やかに思えるのは、暗い色ばかりの中に居るからだろうか? 「けっこう広そうだなあ」  慎重に確認してから、カイは岩が削られてできた壁に触れた。皮手袋越しだが、刺々しい手触りと陽の光を知らない湿り気が伝わってくる。空気は静かで重く、水分が多いせいか、息苦しく感じられた。  人間には不快な環境だが、魔物たちにとってはこれが最良の環境だと考えると、いかに相容れない存在であるかが身に染みる。人間にとって魔物が恐怖の対象であり、魔物にとって人間が餌のひとつである限り、敵対し続けるのだろう――エイドルードと、遠い昔に封印された魔獣のように。  ふと気が付くと、黙々と前進を続けるリタの背中が少し遠ざかっていた。カイは慌てて、小さい、けれど長く伸びた影を追った。  進んでいくと、ふたりが横に並び両手を広げて歩いたとしてもまだ余裕がある広い道は、僅かに狭まったのち、何倍にも膨れ上がった。これまで歩いてきた道が通路だとすれば、広場と言ったところだろう。 「あの巨大蟻が、こんなところにわらわら居たら、嫌だな」 「冗談でも言わないで欲しいよ、そんな事。あたしまだ死にたくないんだから。あ、そこら辺から、足元気を付けてね」  注意を受けたとほぼ同時に、びっしりと生えた苔の感触が足の裏から伝わってきた。湿り気を帯びた空気の中で、苔は水分を含んでおり、体重のかけ方を少しでも間違えれば滑ってしまいそうだ。道は地中深くに向けて角度がついているため、下手に足を滑らせれば随分先まで転がり落ちる可能性もある。苔に足を滑らせて怪我をした、などとあまりに情けないので、苔を乗り越えるまでは、岩壁に手をつきながら慎重に進んだ。  カイに比べて身軽であるからか、リタは器用に足場を確保して進んでいる。余裕があるのかたびたび振り返り、真剣な顔で一歩ずつ進むカイを見ると小さく笑った。 「笑うなよ」  カイが不服を告げると、リタの笑い声が強くなる。 「気を付けてって言ったのはあたしだけど、カイってば気を付けすぎなんだもん」 「ここで足を滑らせて転がり落ちて、たまたま岩壁の尖ったところとかに頭をぶつけて死亡、なんて間抜けな事になったら、恥ずかしくて死んでも死にきれないだろう」 「可能性が無いとは言わないけど、そこまで悲観的にならなくても」 「悲観的なのと注意深いのは違う」 「それはそうだけど……ま、万が一そんな死に方をしても、魔物に殺されたって形で報告してあげるから、安心し――」  再び前に向き直ろうとしたリタの頭の位置が突然下がり、カイは咄嗟に腕を伸ばした。必死なカイの右手は、急激に遠ざかろうとしたリタの二の腕を掴む事に成功する。  引き止める力によって落下が止まった一瞬に、リタは片腕を伸ばしてカイに縋りつく。カイがもう一方の手で支えると、体勢を立て直し、深く息を吐いた。 「誰が悲観的だって?」  カイは滑った足に削り取られた苔の跡と、リタの靴に付着した苔を交互に見比べる。 「う、うるさい!」  リタは顔中を朱に染めて言った。  素早くカイに背中を向け、落としかけたランタンを持ち直す。壁を蹴って靴に着いた土を落とす仕草は乱暴で、照れ隠しにしか見えなかった。  カイは声を殺して笑いながら、リタの肩に手を置く。 「安心しろ。万が一転げ落ちて死んでも、魔物に殺された事にしておいてやるから」 「……結構、根に持つんだね」  リタはカイの手を乱暴に掃うと、先ほどまでに比べて慎重な足取りで進みはじめた。カイが忍び笑いをもらすと、一度だけ振り返り鋭い視線を投げかけてきたが、それきりだった。  ふたりは無言のまま広場のような空間を横切り、再び通路のように狭まった道へと足を踏み入れる。苔の生え方がまちまちになり、角度も若干和らいでいる様子を体感すると、カイは壁に手をつくのをやめた。 「そう言えばさ、さっき、ちゃんと考えて動いたの?」  突然の問いかけの意味が判らず、カイは問いかけで返した。 「何の事だ?」 「手袋しているから触っても大丈夫だ、とか、ちゃんと考えてあたしに手を伸ばしたかって事。朝の稽古の時はちゃんと考えてたみたいだけど、今はすっかり油断してる感じがする」  カイは返す言葉が見つからず、無言を貫いた。沈黙から答えを理解したリタは、わざとらしく肩を落としてため息を吐く。 「面倒くさくて悪いけど、この仕事が終わるまでは気を付けて。あたしも気を付けるけど、あたしだけが気を付けたからってどうにもならない時があるから」 「面倒くさいとか、自分で言うなよ」  リタの指摘は最もで、「判った」「これからは気を付ける」と返すべきだとカイは思った。だがそれらの言葉よりも先に口を出たのは、自分の事を「面倒くさい」と言い切るリタへの文句だった。どうしてそれが口を吐いたのかは判らない。胸の奥で不愉快な感情が渦を巻き、それが憤りとなって飛び出したような感覚だった。 「大丈夫だよ、正直に言っても。あたし、今更そのくらいで傷付いたりしないから」 「そんなわけがない」 「そんなわけないって、なんであんたが言い切れるの。あたしの事でしょ。あんたにあれこれ言われなくても、あたしが一番良く判ってる」  判っているわけがない、とカイは思った。  彼女は見ていないはずだ。カイが間を置いた時、自分の力や過去を語った時、彼女自身が浮かべた表情を。健やかな強さで、背筋を伸ばして真っ直ぐに立ち、己の運命を享受しながらも、複雑な想いを抱いている事を隠しきれなかった眼差しを。  強い娘だと思った。尊敬に値する人物で、見習わなければならないとも。だが、それとこれとは別問題だ。  カイの拳は、何に対してか判らない苛立ちで震えた。 「痛みを乗り越えられる人が、痛みを感じないと思ったら大間違いだ」  リタの強い眼差しが、急激に力を失った。しかし、いや、だからこそ、カイを真っ直ぐに貫いた視線は、逃れるように反らされる。 「黙って」 「いや、黙らない」 「じゃあ黙らせる」  体ごとカイに向き直ったリタは、両手に身に付けていた手袋をはずした。  リタが魔物と戦う事を前提とした探索の中で、魔物に対して有効な能力をわざわざ封印しているのは、カイに気を使っての事だ。その封印を解いてカイと向かい合うとは、相当腹を立てているのだろう。  だが怒っているのはカイも同じだった。 「理由も、意味も、よく判らないけどな、何か嫌だ」 「自分でも判ってないような怒りを、あたしに押し付けないでくれる?」 「君のせいだってのは判ってるんだ」  カイは振り上げられたまま動かないリタの腕を取った。剥き出しの手首をしっかりと掴み、逃れようとする力に抗う。無理に引き剥がそうと伸ばされたもう一方の手も取ると、互いの両手が塞がり、膠着した。 「放して」  短い言葉で望みを告げる少女の唇から目を反らしたカイは、自らが掴んだ腕の先にある白い指先に目を向けた。  精一杯力を込めているのだろう、強く震えている。だがカイは、純粋な力比べで負けるつもりはなかった。  ゆっくりと目を伏せる。強く抵抗する小さな手を、自身の頬へと引き寄せる。 「やめて」  震える声が、低く響き渡った。 「やめて!」  少女の望みが叫びとなってはじけた。  カイが少女の手を解放しながら目を開くと、胸元に自身の手を引き寄せて震える少女が見えた。小さな唇は硬く引き締められて何も言葉を紡ごうとしないが、代わりに大きな瞳に宿る光が、カイに訴えかけてくるようだった。  悲しみと恐怖の光だ。今にも泣きそうで、叶うならば抱き締めてやりたいと思うほどの悲痛な色が、そこにあった。  望みもしないのに他人を傷付けずにはいられない力への、絶望。 「同じ気持ちだよ、俺だって」  カイは囁くように静かに言った。 「俺だって、できる事なら傷付けたくなんかないんだ。俺は未熟だから、不意に傷付けるような事を言うかもしれないし、するかもしれないけど、そうしたらきちんと謝りたいと思うし……上手い言葉が見つからないな」 「判ったから、もう、馬鹿な事はするな!」  自分を取り戻したリタは、カイに向けて怒鳴りつけると、はずしたばかりの手袋をはめなおす。それからカイの頬を叩いた。  力の加減などするつもりもなかったのだろう。一瞬にして朱に染まった頬に走るじわりとした痛みが、消える事無く後を引いていく。 「あんたの言う通り、壁に頭ぶつけて死んでたかもしれないんだよ。そんな事になっても、絶対、嘘の報告なんてしてやらないから!」  乱暴な足取りで遠ざかる背中を見つめ、痛みの残る頬を自分で撫でながら、カイは無意識に微笑んでいた。  この痛みこそが、リタの本音と優しさを剥き出しにしているように思えたのだ。 4  リタはときどき考える。幼い自分を抱いたまま死んでいた男の事を。  とは言え、その男の事は話に聞いた事があるだけで、どんな顔をしていたのかも、どんな性格だったのかも、自分とどんな関係であったのかも、何ひとつ知らない。  リタを拾った女は、「父親だったんじゃないか」と言っていた。過去に何人か、拾われた時の話をした相手が居るが、話を聞いた者は大抵、彼を父親かと疑った。命が消えるその時まで、リタのような厄介な幼子を抱えていた男など、父親に違いないと誰もが思うのだろう。  ときどき思う。その人物が、父親でなかったらどうしようと。  実の父親でさえリタの事を放りだしたのだとすれば、それはとても悲しい事だ。親に存在を否定された子供ほど、悲しい存在はないと思うから。  けれど、同時に思う。父親ではない赤の他人が、最後の瞬間までリタの事を守ってくれたのだとすれば、それはとても嬉しい事なのだと。この世界全てに存在を肯定されたかのような喜びではないだろうか。  だからどちらでもいいと思った。どちらにせよ、男の存在はリタを支えてくれた。失われた事は寂しいが、はじめから何も持たない人間に、寂しいと思う隙間などないのだから。  だが、今、突然、彼が何者なのかを知りたいと強く思った。もしかすると、彼がではなく、自分が何者なのか、なぜこんな力があるのかを、知りたいだけかもしれない。  理由を知ったところで何も変わらない。原因が判ったところで対処法があるかも怪しい。だから昨日までは、自分の事や力の事など、知る必要はないと思っていた。それなのになぜ今日、唐突に、自分の事を知りたくなったのか、リタは気付かない振りをして模索した。  自分を知るための第一歩。それは、自分が知る限りの自分自身の歴史の中で、はじまりに居る人物を知る事ではないだろうか。  リタは自身の胸元に触れた。  皮鎧と服の下にある、首から下げたメダルの冷たい感触が、てのひらに伝わってくるようだった。 「あんたを抱いていた男が身に付けていたものだ。あんたがあるていど大きくなったら、親の形見として持たせてやろうと思ってね」  リタを拾った女は、リタが六歳の時、そう言ってこのメダルをリタの首にかけてくれた。小さなリタに銀のメダルはずしりと重かったが、はずす気にはなれず、毎日飽きる事なく眺めていた。  メダルは当時のリタが手を広げたほどに大きく、純銀で、空色の宝石がはまっていた。男が長年持ち歩いていたためか、少し薄汚れていたが、美しい細工がなされていて、いくばくかの値段で売れそうだと思った。リタを拾った女は金に目が無かったから、売らないでおいてくれた事は奇跡に近く、リタのために取っておいてくれたのだと思うと嬉しかった。  今なら判る。あの女は、リタを想って取っておいたわけではないのだと。  最初は売り飛ばすつもりで死体からもぎ取ったのだろう。そしておそらく、男はメダル以外にも金目のものを身につけていて、それらはすぐに売り飛ばされたはずだ。  しかしメダルだけは買い手がつかなかったのだ。出所が明らかで、かつ恐れ多いものであったから。 「気分でも悪いのか?」  カイに声をかけられ、リタは即座に顔を上げた。  洞窟は深く長く続いており、歩き続けて疲労をためた状態で魔物に会うは賢くないと、休憩を言い出したのはカイだった。動きもせずカイと顔をつき合わせるのは少し気まずい気もしたが、彼の言い分は最もであったので、少し広く平らな場所を見つけ休みを取ったのだ。 「別に。なんで?」 「胸押さえて暗い顔していたから、どこか悪いのかと思ったんだ」  リタの向かいに腰を下ろしたカイは、一口だけ水を飲んだ後、リタを見つめる。袖で口元を拭う瞬間、鼻と口が隠れて双眸しか見えなくなり、リタは僅かに息が詰まる思いをした。  カイの視線が、リタは苦手だった。  嫌いなわけではない。不愉快なわけでもない。ただ、あまりにも真っ直ぐにリタの事を見てくれるので、緊張するのだ。リタを異質のものと思わないわけでも、リタを恐れないわけでもないだろうに、その感情を抑え、同じ人として見ようとする瞳に。  リタの力を知る人間が見せるそのような眼差しを、リタは今まで知らなかった。  リタが知るものは、化け物を化け物として扱うのは当然だとでも言いたげな、差別の瞳。使えない娘を育ててきた事への恨みを込めた蔑みの瞳。人以上の力を持つ魔物狩りへの畏怖の瞳。それだけだったから。 「この仕事が終わったらどうしようかなあとか、考えてただけ」  嘘ではなかった。父かもしれない男の残り香を辿って、自分を知れればいいと思っていたのだから。そのためには、メダルが示す場所に向かうが一番の近道だろうとも思う。 「気が早いな」 「まあね。今の事ばっかり考えてたら、今を過ぎた時に足が止まるでしょ。時間が勿体ないから、先の事を考えておくの」 「へえ」  口に出しては何も言ってこなかったが、カイは「生き急ぎすぎじゃないのか」とでも言いたそうな目をしていた。  腹は立たない。その通りだとリタは思う。もしかすると、カイ自身はそんな事を全く考えておらず、リタが自分の考えを勝手にカイの瞳に反映させただけなのかもしれない。 「あたし今すごくあんたに話したい事があるんだけど、変な同情しないって約束する?」 「聞いた方がいいのか」 「できれば聞いてほしい」 「……じゃあ、努力する」 「そう。じゃあ言うけど、あたしを拾ってくれた人ってさ、娼館のおかみさんだったんだよね」  カイはいきなり言葉に詰まっていた。  娼館で育った少女の行く末など限られている。「可哀相な女の子」の代表みたいなものだ。同情するなと言われた途端それでは、カイも困惑するだろう。 「あたしさ、けっこう可愛いじゃない」 「……」 「何か言わないの? 自分で言うなよ、とか」 「悔しいが、自分で言っても仕方ないんじゃないかくらいには、整った顔をしていると思う」  心から悔しそうにカイが言うので、本音で言ってくれているのだと判り、リタは微笑みをカイに返した。飾られた褒め言葉よりもずっと嬉しいものだと感じたのだ。 「だからおかみさん、大切に育ててくれた。将来稼げると思ったんじゃないかな。お店のお姉さんたちも優しくしてくれたし、この時点ではいい人生送ってたと思う」  幼きリタの周りには、優しく温かい笑顔が沢山あった。今ならばそこには打算や虚構や哀れみが溢れていた事が判るが、当時は単純に楽しかった。あれもひとつの幸せの形だったのだろうと、今なら判る。 「でも、あたしにはこう言う力があるじゃない。いざ商品として使おうとしても、使えなかったんだよね」  真実が明らかになった時、リタを包む優しく温かいものが、一瞬にして変貌した。蔑みと、ある種の羨望とが混じりあった冷たい眼差しだけが、リタを取り巻く全てとなった。 「利用価値を色々考えていたみたいだけどね。だからはじめはさ、もの好きな金持ちがあたしを買ってくれた。他の男が触れる事もできないあたしを抱けたら自慢になる――って、選民願望みたいなのが刺激されたみたい。でもそんなの一時だけだよね。十数人くらいの馬鹿が挑戦したところで、皆無理だって気付いた。そのうち誰もあたしに金を払わなくなって、全てが終わり」  誰も優しくしてくれなくなった。それは悲しい事だけれど、当時一番辛かったのは、お腹が空いていた事だった。力が発覚する前はそれなりに食べさせてもらえた食事がたびたび出なくなり、いつしか追い出された。  四年前、リタはまだ十二歳だった。意味の判らない力の他は、何も持っていなかった。路傍に放置され、道を辿って育った娼館に戻り扉を叩いてみても、誰も扉を開いてくれなかった。 「そうなると、お腹空くじゃない」 「あ……ああ」 「泣き叫んだって誰もご飯をくれない。どこかで働こうにも、何の後ろ盾もない薄汚い子供だから、まっとうなところからは倦厭される。まっとうじゃないところは可愛いあたしに対して良からぬ事考えてるオッサンばっかりで、この力でぶっ飛ばしちゃって、すぐに追い出される事になる。どうしていいか途方にくれたなあ、あの頃は。そりゃもう、酷い生活だったわけ。将来有望な可愛いあたしはどこへやら、汚くてガリガリで道端に転がるあたし。よく生きてたと今になって思……」 「ひとつ、聞いていいか」  カイが言い辛そうに口を割った。 「何?」 「俺の忍耐力と言うか……何か、試しているのか?」 「そんなつもりないけど。何か辛かった?」 「辛いと言うか、割と厳しい条件だった」 「正直だねぇ」  リタは声を漏らして笑うと、カイは肩身が狭そうに目を反らした。 「ある日ね、夜中に道端で丸くなって寝てたらさ、女の人の悲鳴が聞こえたの。なんだろうと思ってそっちを見てみたら、若い女性が男に襲われててね。酷い事するなーとか思って、あたしそっちにふらふら近付いたわけよ。お腹空いて動く体力も無かったんだけど、なんでそんな事したのかな。人生の最後にいい事をしたかったのかもしれないし、自分勝手な男をとっちめてすっきりしたかったのかもしれない。理由は何でもいいの。あたしは震える手を男に伸ばして、男は吹っ飛んでった。助かった女の人はあたしに振り返る事なく逃げてった」 「礼も言わず?」 「その時はね。しょうがないよ、怖かったんだから。あたしが、じゃなくて――まあ、それもあるんだろうけど、襲われたって事実がね。でもその女の人はいい人だったよ。次の日ね、パンとお菓子を持って来てくれた。『昨日はどうもありがとう』って言ってくれた。それだけだったけど、それだけであたしは結構救われたの。あたしの力を上手く使えば、人を助けられる。あたしの力を上手く使えば、ご飯が食べられるかもしれないって判ったから。そうして巡り巡って、今のように立派な魔物狩りになったわけ」  誰かを守りたいからとか、何かを守りたいからとか、魔物が憎いからとか、格好いい理由があるわけじゃない。ただ、ひもじい思いをせずにすむ程度に、ご飯が食べたい。ひとりになったリタを突き動かす思いは、それだけだった。 「だからあたしはさ、今夜ご飯が食べられるように。明日のご飯も食べられるように、体が動く限り働いていたいと思ってる。だから、この仕事が終わったらどうしようって、考えちゃってるわけ」 「……そこに繋がるのか」  カイは安堵したように、納得したように息を吐いた。  それから何かを思いだしたのか神妙な顔つきになり、もの思いに耽る。どうしたのかとリタが彼を黙って見つめると、カイは自嘲気味に微笑んだ。 「じゃあ俺は今朝、君にとても失礼な事を言ったんだな。すまなかった」  下げられた頭を見て、何を言っているのだろうと思った。今朝の手合わせや会話の中で、リタがカイの事を不愉快に思った記憶など全くなかったからだ。 「何か言われたっけ?」 「いや、忘れているなら、いいんだ」  カイの微笑みは優しくて、幼き日に周囲からもらい受けた温もりよりも心地よく、リタの胸に染み入った。  こんな想いを、今朝も受け取った気がする。あれは、確か――  カイの声を記憶から呼び起こすと、再び暖かな感情が胸を支配した。そしてカイの声で語られる言葉こそが、自分が長々と語った話と矛盾する事に気付いたリタは、カイに微笑みを返した。 「『困った事があったら、トラベッタに来るといい』の事か」 「忘れてるならいいって言っただろう」  カイは眉間に深い皺を寄せた。苦い顔をして俯く彼が、今朝の自分自身を責めている事を容易に理解したリタは、小さな笑い声を漏らして彼の思考を遮った。 「あれはいいんだよ。あたしあの時、本気で嬉しかったって言おうとしたんだから」  嘘ではない。本当に、心から、嬉しいと思った。  どうして嬉しいと思うのかが判らなくて、素直に言うのは悔しくて、だから言葉を濁してしまったけれど、それでも本当に、嬉しかったのだ。幼きリタを布一枚隔てて抱いてくれていた男の存在と同じくらいに。  ああ、そうか、だからだ。  だから、男の事を知りたいと思ったのだ。  自分の事や、カイの事と同じように。 5  耳の奥に微かな水音が届いた時、はじめは幻聴であろうかと疑ったカイだったが、リタが振り返ってカイの目を見た時、彼女も同じものを聞いたのだと知った。  ひとりならばともかくふたりが同時に聞いたとなれば、幻聴ではないのかもしれない。カイはリタから灯りを受け取って、少し高めに掲げた。まだ辺りに水やそれに類似したものは見当たらないが、意識してみれば、すこし湿気が高くなっている気がする。  カイはリタと並んで歩みを進めた。やがて壁の片側が失われている所まで到達すると、おそるおそる覗き込んだ。  通路はまだ続いており、右側には今まで通り壁が続いている。しかし左手は断崖のようになっていた。  かなりの深さがあるようで、ランタンを手にした腕を伸ばしてみても、明かりは底まで届かない。だが、先ほどまでは微かにしか聞こえなかった水音が強くなったので、底に水が流れているのだろうと予想する事ができた。 「落ちたらどうなるかな」 「水の深さと流れの早さと流れに乗って到達するところによるかなあ。流れは音からしてゆっくりだと思うけど」 「落ちないに越した事はないか。今まで以上に足元に気を付けよう」 「はいはい」  リタは唇を尖らせて、縋るように壁に寄った。カイにそのつもりはなかったが、嫌味と取ったのかもしれない。彼女が苔に足を取られて転がりかけたのは、そう前の事ではないのだから。  苦笑でごまかしたカイは、リタに習って壁際に寄った。巨大蟻が通れるほどに広いはずの通路が、妙に狭く感じた。  ほぼ真っ直ぐに続く道を進んでいると、リタが時折小さくため息を吐く。ただ進む事に飽きてきているのだろうと、カイは勝手に解釈した。  リタだけではない。カイも少々飽きはじめている。途中で挟んだ休憩時間を除いても、洞窟に随分長い時間滞在しており、その間ずっと歩き続けているのだ。相当奥まで来ているはずなのだが、まだ道の終わりは訪れそうにない。  この道は一体どこまで続くと言うのか。静かなため息を吐いたカイが、リタに話しかけようと口を開きかけた途端、リタが素早く振り返った。  リタもカイと同じ気持ちで、他愛もない話でもしながら気を紛らわせようと思った――わけではなさそうだ。立てた人差し指を唇に押し当て、静かにしろと目で訴えている。  カイは肯き、ランタンの明かりを隠してあたりに闇を呼び込むと、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。  道の先から音が聞こえる。重く、破壊的な音。それが徐々に近付いてくると、足元から小刻みに振動が伝わってきた。 「下がる?」  リタはカイの耳元に口を寄せて囁いた。 「ここで戦いとなったら、足場にも気を付けないといけない分、不利かも」 「相手も同じじゃないか? いや、俺たちには余裕がある道幅が相手には際どいから、向こうの方が不利かもしれない」  カイは囁き声で返した。 「それに、剣や君の力だけで倒すより、この下に落とした方が楽じゃないかな。あの巨体が道の途中に転がっていると、先に進めなくなる」 「確かに。でも、万が一水の流れの先からアシェルに辿り着いちゃったらどうするの。あたしたち、魔物を倒しに来たのに、魔物をアシェルに案内する事になるかも」 「完全に息の根を止めてから……だと、力は使えないんだったか。じゃあ、ある程度弱らせてからにしよう」 「了解。じゃ、気を付けてね」 「お互いだろ」 「あんたの方が注意を払うべきものが多いからね」  リタはカイの目の高さまで手を上げて、手袋をはずした。なるほど確かにこれでは、カイは魔物や足元だけでなく、リタにも注意しなければならない。 「了解」  囁き声で会話する事すら危ういほど、音が近付いてきていた。カイはランタンを足元に置き、音がより近付くまでふた呼吸ほど待ってから、明かりを解放した。  暗闇に慣れ初めていたカイやリタ目に、突然の明かりは眩しかった。だがそれは魔物にとっても同じ事。魔物が明かりに怯む隙に、各々の剣を手にして、リタとカイは魔物に駆け寄る。街で戦ったものと同じ、巨大な蟻の形を取った魔物だった。  リタが身を低くした。街でカイが魔物にとどめを刺した時と同じように、魔物の体の下に入り込むつもりなのだろう。だが巨大蟻とて、自分の弱点をみすみす相手に晒す気などなさそうだった。振り上げた足をリタに向けて振り下ろそうとしている。  その足を剣で受けたのはカイだった。上から押しつけてくる力に抗うには腕が震えたが、リタが滑り込むだけの時間を作る事ができた。カイが剣を滑らせて魔物の足を解放すると、岩でできた床が砕け、小さな石が飛び散る。先の尖った石がカイの頬を掠めていき、じわりと血が滲む感触がした。  潜り込んだリタは素早く剣を上へ向けて構えた。皮膚が柔らかい場所を探し出すと、そこに切っ先を向ける――よりも一瞬早く、蟻が身を沈めた。リタを押し潰そうと言うのだろう。  リタは咄嗟に片手を柄から離し、突き上げた。  少女の細い体を無残に潰そうとしていた魔物の体が、沈もうとする力よりも遥かに強力な力によって押し上げられた。巨体は羽根のように軽々しく浮き上がり、荒く削られた岩の天井に強烈に叩き付けられる。  衝撃音と魔物の潰れた奇声が響き、石や埃の雨が降りそそいだ。響く轟音は、まるで洞窟そのものが軋んでいるようだった。  右手で剣を構えたカイは、左手で顔を庇い視界を確保しながら、ほぼ垂直の壁を滑るように落ちてくる魔物に駆け寄った。剥き出しになった弱点を見極め、走る勢いと全体重をかけて、巨大蟻の体に剣を埋め込む。  天井に叩き付けられた時よりもいっそう激しい奇声が、カイの耳を貫いた。  吹き出す体液をできるだけ浴びないように剣を抜き、魔物から離れる。最も至近距離で奇声を聞いた右耳を押さえながら、力無く地に伏す蟻を見下ろす。  悪臭を放つ体液をとめどなく流しながら、蟻は時折痙攣していた。ぴくり、ぴくりと揺れる足が、硬い地面を打つ。 「……イ」  リタが声をかけてきている。それは判るが、何と言っているのか良く判らなかった。街で蟻と戦った時よりもなお近い位置で悲鳴を食らったためか、耳が少しおかしくなっているようだ。 「悪い、聞こえない」  耳の異常を訴える自分の声も、はっきりとは聞き取れなかった。厄介な相手だと内心辟易しながら、カイはリタに振り返った。  今にも「あとは任せておいて」と言いそうな表情のリタだったが、耳が聞こえ辛いカイのためにわざわざ言葉を紡ぐ気はないらしく、口は動かない。勝ち誇った表情でカイの後ろの蟻を睨みつけ――その表情が凍った。 「……イ!」  名前を呼ばれた気がしたが、よく判らなかった。だが表情から何らかの異常を察したカイは、蟻に振り返る。  カイが蟻に与えた傷は深く、まともに動ける様子はなかった。だが蟻は、最後の力を振り絞ったのか、その前足をカイに向けて振り上げていた。  カイを突き飛ばそうと伸ばされたリタの手が、カイに触れる一瞬前に動きを止める。剥き出しの白い指は、カイに触れる事を拒絶したのだ。  カイは片足で地面を蹴り、蟻の攻撃を避けた。力の加減をする余裕はなく、背中を強く岩壁に打ちつけるはめになったが、咄嗟に壁側に飛べただけ、自分を褒めてやるべきだとカイは思う。  蟻と自分との間に、リタの小さな体が滑り込んだ。リタは細い腕を突き出し、魔物の身に触れようとする。  弾けるように、蟻の巨体が飛んだ。  蟻の向こうには壁も天井もなかった。ただ深い溝だけがあり、魔物の姿は溝の底へと消えて行く。明かりの届かない深みへ潜り、闇だけがとり残された後、激しい水音がした。 「っつ――」  カイは自身の背中を撫でながら立ち上がり、溝を見つめるリタの右隣に並んだ。 「大丈夫?」 「頭は打ってないから大丈夫、死にはしないだろう」 「そうじゃなくて、耳。聞こえてる?」 「ああ、そっちか。右がちょっとまだおかしい。左は大丈夫みたいだから、しばらくは左から話しかけてくれ」 「判った」  小さく肯いたリタが、再び溝の底を覗く。深い闇の向こうの水や、傷付いた魔物の体を見る事は適わないが、水音がするまでの時間などから距離と深さを想像しているのかもしれない。  カイは深く息を吐いた。短い戦闘であったし、自分よりもリタの方が激しく動いたはずだか、全身にびっしりと汗を掻いている。暑くて、ではなく、冷や汗だろう。 「助かった。ありがとう」  袖口で額に滲む汗を拭いながらカイは言う。  リタはカイを見なかったが、口元には大きな笑みが浮かんでいた。 「お互い様でしょ」  カイは首筋に浮かぶ汗を拭くと、次に手袋をはずした。一番汗を掻いているのは掌だった。思い通りに動かないと言うほどではないが、少し震えているかもしれない。  服の裾で念入りに拭いながら、カイは顔を上げた。リタも同様だった。洞窟の奥から聞こえてくる、新たな音に反応しての事だ。 「……何匹居るんだろ」 「これで終わりにしてほしいよな」  悲鳴を聞きつけたのか、それとも仲間の血の匂いを嗅ぎつけたのか、先ほどのようにゆっくりとではなく猛烈な速度で近付いてくる足音に、カイとリタは笑うしかなかった。しかも音からして確実に一体ではない。二体か、最悪三体は居そうだ。  ふたりは同時に剣を構えた。 6  先頭の魔物は明かりの届く位置まで近付いてきているのだが、その魔物が邪魔をして後ろまで明かりが届かず、何体居るのか目視する事はできない。だが、近付いてくるにつれて音が聞きとりやすくなり、三体だろうとの予測に自信が持てるようになった。  道が狭いのは幸いだ、とカイは思う。相手が何体同時に現れようとも、向こうは一匹ずつしかかかってこられない。後になるにつれて体力が消耗していくのは避けられないが、それでも常に二対一の状況を保てるのは圧倒的に有利だった。 「あのさ、効率よくやらない? さっきは一体だったから、そっちにばっかり負担かけるのも悪いかなあと思ったんだけど、今回は相手三体だし、次々片付けていかないとまずいでしょ」  カイはしばし沈黙を守ってから肯いた。 「まあ、仕方ないな。君に俺の代わりはできても、俺に君の代わりはできないんだからな」 「ごめんね。よろしく」  先陣を切った蟻が両前足を振り下ろす。後方に飛ぶ事で避けたカイとリタは、一瞬だけ目を合わせて肯きあうと、すぐさま地面を蹴り、左右から蟻の足を切り付けた。  これまで戦った二体から想像するに、蟻に似た巨大な魔物の知能は、大して優れていない。二手に分かれて向かってきたカイたちに、何か小細工で対抗してくる事は無く、足を振り上げて攻撃を仕掛けてくるのみだ。  両方を一度に襲えば体勢を崩すと思ったのか、蟻はまずカイを狙って左前足を振り上げた。振り下ろされるよりも前にカイは身を滑らせ、蟻の体の下に入る。  アシェルの街での戦いの時はどう倒して良いか途方に暮れ、恐ろしい魔物だと思ったものだが、弱点が判り易々と剣が通じる今、対応できないほどの素早さを持っていないこの魔物を、さほど強敵とは思えなくなっていた。  カイは深々と剣を埋め込むと、すぐに引き抜き、蟻の下から逃れる。 「リタ!」  僅かの間に、リタは壁際に寄りながら蟻に近付いていた。苦痛に暴れる蟻の側面に回りこみ、剥き出しの手で蟻に触れようとする。直後、見えない力に跳ね飛ばされた蟻は、溝の底、闇の奥深くへと消えていった。  跳ねる水音に耳を傾ける余裕も、底を悠長に眺める余裕もない。出番を待っていた二番目の巨大蟻が、間髪入れずカイたちを襲った。  何体現れようと、カイがやる事は同じだった。蟻の体の下に潜り込み、あるいはリタに蟻の体をひっくり返してもらい、比較的柔らかな皮膚に剣をつきたてる。それだけだ。カイは体勢を立て直しながらひとつ深呼吸をし、剣を構えて二体目につき進む。  柄が少しぬめりを帯びていた。できるだけ被らないように気を付けてはいた魔物の体液が、手に絡みついたのだ。滑らせないように気を付けねばならないと、柄を握る手に力を込める。  魔物は壁際に立つリタを食らおうとしているのか、大きく口を開けて噛みつこうとした。リタが素早く身を屈めると、鋭い歯は壁に食らいつき、岩を砕いた。 「っ……!」  弾けた小石が瞼を掠め、右目の視界が突然ぼやける。不安定な視界が気味悪く、カイは思い切って右目を閉じ、左目だけに頼る事にした。  リタを逃した蟻が砕けた岩を吐き出しながら不満そうに振り返り、新たな標的であるカイを捕らえる。振り下ろされた前足を上手く避けられず、カイは地面を転がった。つい先ほどまでカイが立っていた場所が綺麗に抉れ、砕けて小石になった岩が周囲に散らばった。 「カイ!?」 「大丈夫!」  少々距離感が掴み辛いが、慣れれば問題はない。魔物を自分の方に引きつけ、隙を突いて体の下に滑り込むくらいならば何とかなる。  再度向けられた足を剣で払い、カイは二体目の蟻の下に潜り込んだ。  先ほどと同じように素早く狙いを定められれば問題なかった。しかし、距離感が掴み辛い片目では、やや薄くなっている皮膚を探し出し、剣の切っ先を向けるまでに、少々手間取ってしまう。その時間の浪費が、カイの明暗を分けた。  カイが狙いを定めるよりも、巨大蟻が身を沈めはじめる方が早かった。硬い皮膚が、カイを押し潰そうと迫ってくる。  瞬時に剣を持ち変え、切っ先を地面に埋めた。それから地面を這うように頭を下げつつ、予備に持っていた短剣を引き抜く。  人の何十倍の重みがあろう魔物の体だったが、地面に辿り着く前に、突き立てられた剣の抵抗を受けた。剣は刃を軋ませ、折れるまでの僅かの間、支えとなってカイを守ってくれる。その間に、カイは短剣を魔物の体に埋め込んだ。  刃の長さの分、長剣を埋め込んだ時より傷は浅いはずで、おそらく致命傷には至っていないが、魔物に苦痛を与えるには充分だったらしい。魔物は奇声を洞窟内に響かせながら、その巨体を浮遊させた。  もちろんリタの力だった。カイが魔物に潰されるよりも一瞬早く、力を使ってくれたのだ。二体目は一体目と同じように溝の底へと姿を消し、最後の一体がカイとリタの前に現れた。 「後で新しいの買って返すから、剣貸してくれ!」  リタの視線が折れた剣に向けられた。見るも無残なその姿に、一瞬表情を強張らせたが、怯むほどに弱い娘ではなかった。 「大丈夫なの? 三体目だし、あたし、代わるよ?」 「いい!」  意地と言うよりは、もはやただの我侭だったが、リタは受け入れてくれた。カイが手を伸ばすと、快く剣を差し出してくれる。  剣は使い慣れたものよりも細く、軽かった。自分とリタの腕力の差を考えれば当然の事だが、ふと思った事と言えば、やはり彼女は、謎の力さえなければ普通の少女なのだと言う事だった。  馬鹿な事を考えた。カイは自身に反省を促し、余計な考えを振り切って、巨大蟻に対峙する。  魔物の低い唸り声が空気を振動させた。仲間が次々と葬られた事を怒っているのかもしれないし、脅威となる相手を威嚇しているだけかもしれなかった。  地面を蹴り、魔物の攻撃を軽い足取りで避けながら、距離を詰める。二体の魔物と戦ううちに息が乱れていたが、不思議と疲労はあまり感じなかった。  体力的な面での問題はない。右目の視力もほぼ戻っている。もはや、負ける気はしなかった。今までと同じように繰り返せば、勝利は決まりだ。  今度は危なげもなく、カイが魔物の皮膚を抉る。続いてリタが力を発動すると、魔物の巨体が通路から全て消え失せた。  カイは安堵の息を吐きながら、その場に座り込んだ。 「お疲れ」 「おう」  リタの声に軽く手を上げて応えるが、それ以上の動作や言葉で返すは億劫だった。リタも判ってくれているようで、それ以上カイに話しかけようとせず、溝の淵に歩み寄って暗い底を眺めた。表情は静かだが、引き結ばれた唇に勝利の喜びが見える。  カイは深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸と心臓の音を落ち着ける。正常にある程度近付いてから、少女の背中に声をかけた。 「剣、悪かった。新しいの買って返す」  悪臭を放つ魔物の体液に汚れた剣を掲げ、カイは言う。 「いいよ別に。ちゃんと洗えば問題ないでしょ。こんな仕事してるんだから、剣が魔物の血で汚れるのはむしろ勲章だし。それより自分の剣の事考えなよ」  できれば忘れていたかった事実を目の前に突き付けられ、カイは無残な姿となった愛用の剣に目を向けた。  特別な一品と言うわけではないが、数年間仕事を共にしてきた相棒であったので、それなりに思い入れがある。しかも、魔物狩りとして仕事をはじめる際に父がくれたものであった。父の本音がどうであったかはともかく、一人前として認められた証のようで、誇らしく思ったものだ。 「親父に怒られるかな」  ひとりごちてから、それは無いなとすぐに思い直し、カイは小さく笑う。仕事道具を大事にするようにカイに教えてくれたのは父だが、「受けた仕事を果たし、自分の命を守る」事を最優先に考えるよう教えてくれたのも、また父であったのだから。 「とりあえず今日は探索をここまでにして、アシェルに戻ろうか。新しい相棒に相応しい剣がアシェルにあるか判らないけど、あたしのよりは手に馴染むのがあるだろうし、あたしだって剣が無いと心細いしね」 「そうだな。何より、休みたい。こつを掴んだとは言え、連戦はきついな」 「だろうね。お疲れ様」  リタがくるりと体ごと向き直って微笑んだ。  短い金の髪が軽く浮き上がり、白い頬を掠めながら元の居場所に戻ろうとするのと同時に、浮かせていた片足を地に着ける。  深くから聴き慣れた魔物の奇声が届くと共に、地面が大きく揺れたのは、その瞬間だった。 「っ……!」 「リタ!」  足を踏み外して後方へ大きく体勢を崩したリタが、悲鳴の代わりに吐息を漏らす。  足場を失ったリタは、闇へと繋がる大きな口に飲み込まれかけたが、必死に手を伸ばして右手の指を淵に引っ掛けた。  細い片腕では体を支えきれない。指が小刻みに震え、今にも離れてしまいそうだった。指の力が保てるうちにもう一方の手でどこかに捕まろうと手を伸ばしているが、あと少しと言うところで届かない。 「リタ!」  疲労を忘れて駆け寄ったカイはリタに手を差し伸べた。 「だ……」  大きな瞳に悲痛な色を浮かべながら、何かを言おうと口を開いたリタだったが、溝深くで暴れる魔物が体当たりをしたのか、再び辺りが大きく揺れると、必死に掴んでいた指を滑らせた。  いつも強気な表情を浮かべる可愛らしい顔が、深さも、広さも、他にどんな生き物が存在するかも、何ひとつ判らない地下深くに落とされる恐怖に、ゆっくりと歪んでいく。  カイは何も考えられず、落ちていくリタを救おうと、腕を伸ばしていた。 7  注意しろと何度言われたか知れないし、以前の自分は、無意識に距離を置こうとするほどに彼女を恐れていた。  だと言うのに、カイはこの一瞬、全てを忘れてしまっていた。彼女が魔物と戦うために素手であった事、汗を拭こうとして手袋をはずしたまま戦闘に突入したため、自分も素手であった事、何人もの男たちが彼女に触れようとして、強大な力に拒絶されてきた事。 「駄目!」  その力によって幾度も苦痛を味わってきたリタは覚えていたのだろう。カイが少女の腕を掴む瞬間、悲鳴にも似た叫びでカイを制止しようとした。自らが闇の底に落ちていく事よりも、カイが自分に触れようとしている事の方を、より恐れているようにも見えた。  なぜ『駄目』なのか、なぜ触れられる事を恐れるのか――リタを助けたい一心であったカイにはその程度の事すら思いつかず、リタの腕を掴んでいた。  ずしり、と少女の重みがカイの腕にかかった。  小柄で細身な少女は、思っていたよりもずっと軽かったが、咄嗟に腕を伸ばしただけの不自然な体勢で引き上げる事はさすがに不可能だった。カイは一度体勢を整え、息を吐き切ってから再び息を吸うと同時に力を込め、リタの体を引き寄せた。  リタの両腕が地面を掴めれば、もう安心だった。溝の底の魔物は最後に残された力で暴れただけなのか、もう二度と地面が揺れる事はなく、少女は自身の両腕で自らの体を引きずり上げ、その場に座り込む。  全身を小刻みに振るわせながら、リタは空色の瞳をカイに向けた。そこに浮かべる感情は恐怖でも怒りでも感謝でもなく、ただ強い驚愕のみだった。 「あ」  カイはようやく気付く。自分が布一枚すらも隔てずに、リタに触れてしまったと言う事実に。 「えっと、わ、悪い。俺、自分の手が魔物の血で汚れてるなんて事、咄嗟だったからすっかり忘れてた。君も汚れてしまったな。すまない」  眼差しを重ね合わせる事で、リタの動揺を受け取ってしまったカイは、混乱しているせいか考えついた中で一番どうでもいい事を口にしていた。カイが触れてしまったせいで彼女の腕が魔物の体液で汚れたのは事実だが、その結果命が助かった事を考えれば、取るに足らない問題である。  カイは戸惑った。ただ真っ直ぐに見つめてくる空色の瞳を黙って見つめ返す事は息苦しいが、新たな言葉は全く口をついてくれない。仕方なく、魔物の血に塗れた自身の手を見下ろす事で、リタの視線から目を反らした。 「なんで」  ほぼ放心状態となっていたリタは、小さな唇からようやくその言葉だけを紡ぎだした。 「……なんで、だろう?」  どうしようもなくなって、カイは笑った。笑いながら、投げかけられた問いをそのまま返すしかなかった。  カイはこれまで、魔物を吹き飛ばすリタを何度も見てきたが、男を吹き飛ばしているリタを見た事は一度も無い。アシェルに来た時にすれ違った男の態度や、何よりもリタの辛そうな語り口調から、彼女の言葉を信じただけだ。 「彼女はずっと嘘を言い続けていたのではないだろうか」と、カイは一瞬だけリタを疑った。しかし、未だ夢を見るようにカイを見つめ続ける少女の眼差しは、やはり偽りとは思えなかった。  では、どうしてだろう。どうして、数多の男たちの中で自分ただひとりが、リタに触れられるのだろう。 「今まで、みんな駄目だった。生きてる男の人は……カイって、実は女の子」 「それは絶対ない」 「じゃあ、死体が動いてるの?」  リタの手がおそるおそるカイに伸びる。  柔らかな指が存在を確かめるようにカイの輪郭に触れた後、頬を撫でた。カイに体温や脈がある事を確かめているのかもしれない。 「とりあえず、今までに死んだ記憶は無い」 「じゃあ、人形?」 「いや、それは、ないだろう」 「じゃあ、どうして」 「……どうしてだろう」  同じ問答に戻ってしまい、カイは苦笑した。  つられるように僅かに笑ったリタだったが、まだ信じられないようで、カイの顔に触れていた手を、今度はカイの手へと移した。 「汚れるぞ」  魔物の血に塗れたカイの手はお世辞にも綺麗とは言い難かったが、リタは気にする様子を見せなかった。力無く投げ出されたカイの手に自身の手を重ね、やはり何も起こらない事を確認すると、俯く。 「意味、判ら、ない」  リタの唇から、短く切り刻まれた言葉が零れ落ちていった。 「なんで、カイは、平気なの。カイだけが……やっぱり、意味、判らない」  俺だって判らないよと思いながら、思った事を口にせず、カイはリタを見下ろした。  リタの瞳は、散らばる石の欠片を見つめていた。だが、意識してそれを見ようとしているわけではないのだろう。これまで信じ込んできた運命が否定された現実をしっかりと受け止め、自身の中で整理するために、彷徨っていた視線をそこに定めたにすぎないはずだ。  カイはしばらくの間、ひとりで戦うリタを見守っていたが、やがてこの洞窟が魔物の巣であった事を思い出すと、ゆっくりと立ち上がった。リタを助ける際に放り投げたリタの剣を右手で拾い上げ、もう一方の手を、未だ立ち上がろうとしないリタへ差し出す。 「リタ。とりあえず今日はアシェルに帰ろう」  疲れて、混乱したままで、魔物が出るかもしれない洞窟に居座るのは危険だ。一度戻って、荷物も、気持ちも、できる限り整理をつけた方がいいだろう。 「うん」  リタは僅かに戸惑ったが、カイの手を借りて立ち上がった。照れ臭そうにしつつも、人の温もりに触れる喜びに酔うように強く手を握ってきたので、カイも同じだけ強く少女の手を握り返した。  するとリタは顔を上げ、カイを見つめ、小さく笑う。  カイも微笑み返した。どうしてか、魔物を倒した時よりも、満たされた気分だった。 8 「……探索に来て良かったよな」  洞窟の最奥に広がる光景を目にした瞬間、カイは呟いていた。  一見しただけでは、さほどおぞましいと言える光景ではない。洞窟を深く潜り続け、最終的に到達した楕円状に広がる場所に、十数個にも及ぶ球体と、蟻を二匹発見しただけだった。  蟻の体長はリタの半分ほどで、力いっぱい噛み付けば、人間の腕程度ならば噛み千切れそうな歯も持っている。一般の蟻と比べてしまえば充分化け物だが、これまで戦ってきた魔物と比べれば、明らかに小さく、弱かった。おそらくは、昨日かそれ以前に倒した魔物の子供で、球体は卵であろう。 「そうだね。明らかに、繁殖してるよね。昨日案内してくれた人、凄く嫌そうにしていたけど、感謝してもらわないと」  リタは同意しながら、腰の剣を引き抜いた。 「とりあえず、潰そうか」 「数は多いけど昨日よりは明らかに楽そうだな」  カイもリタに倣って剣を抜いた。  もちろん、昨日折ってしまった愛用の剣ではない。昨日アシェルに戻ってセウルに報告と事情説明をしたところ、快く譲ってくれたのだ。アシェルの町の衛視たちが使っている一般的なもので、予備として倉庫に数本眠っていたものの一本らしい。  刃の長さ、剣そのものの重さ、柄の形や細さなど、あらゆるところが愛用の剣と少しずつ違うため、使いやすいとはけして言えないが、贅沢は言っていられない。同じ剣を準備するためにトラベッタに戻るわけにもいかないし、戻ったところで剣が直せるかどうかも、同じ剣が手に入るかどうかも判らないのだ。先の事はともかくとして、今はこの剣に自分を馴染ませるしかないだろう。幸いにも、今日の相手は昨日ほど強敵ではなさそうだ。  体が小さい分すばしっこく感じる魔物を、使い慣れない剣で捕らえた時、すでにリタはもう一匹の息の根を止め、卵の方の始末をはじめていた。すでに孵っているものがいる事から予想した通り、生まれる寸前の卵ばかりで、潰れた卵からはほぼ蟻の形をしたものがこぼれ出てきている。 「これ、全部孵ってアシェルを襲ってたらどうなってたかな」 「間違いなく全滅だろうな。魔物に慣れてるトラベッタでも、どうなる事か」 「だよね。あたしたち、町の英雄になってもよくない? ま、こんな通りすがりの町で英雄になっても、あたしの方が忘れちゃうだろうし、ちゃんと報酬払ってくれればそれでいいけど」 「冷たい意見だな」  カイは率直な感想を口にしてみたが、リタは機嫌を損ねる様子はなく、むしろ楽しそうに笑みを浮かべて、切り返してきた。 「あたし、何か間違った事言った?」  カイは柔らかな笑みを浮かべ、首を左右に振った。 「俺も同意見だよ。アシェルの町を助けられた事は純粋に嬉しいけど、トラベッタに帰りたいって気持ちの方が強い。俺が守りたいのは、やっぱりトラベッタなんだな――それが理解できただけでも、この仕事に意義はあったのかもしれない」 「じゃ、報酬いらない?」 「それは別問題だ」  ふたりは顔を見合わせ、ひとしきり笑った。魔物は滅び、互い以外の生物が存在しない洞窟の中は寂しいほど静かであったはずなのに、笑い声が絶えないその時間は、むしろ賑やかと言えた。  最後の卵を潰し終え、こびりついた魔物の血を拭い、剣を鞘に納める。ほぼ同時に作業を終えたふたりは、どちらからともなく来た道を振り返った。  並んで、ゆっくりと歩き出す。暗い洞窟の中である事は変わらないが、魔物が残っていない事を判っている今、往路ほど緊張感に包まれていなかった。心なしか足取りと気分が軽くなっている。  カイはリタの横顔を見下ろした。誇り高く胸を張って歩く少女の表情は達成感に満たされて明るく、空色の瞳は眩しいほど輝いている。  だが、カイは直感的に思った。何か物足りない、と。 「ほとんど分岐のない道のりだったし、分岐がある所も、しらみつぶしに全部探索した。完璧な仕事だよね」 「そのつもりだ」 「これでアシェルに魔物は来なくなるだろうし、アシェルに帰ったらこの仕事は終わりかな。もう二、三日、様子見で残る事になるかもしれないけど」 「そうなるだろうな」  カイははじめ、リタの横顔を眺めながら、彼女の表情に欠けているものは何なのだろうと考えていた。しばらく考えて、欠けていると言うよりは余計なものが加味されているのではないかと思い至った頃、突然大きな瞳に睨み付けられ、思わず仰け反った。 「凄い生返事だけど、あたしの話聞いてる?」 「え……あ、うん」 「本当かな」  真っ直ぐに見上げてくる瞳に、思考を傾ける方向が強引に変更された。  少し前、具体的にはそう、昨日からだ。何かがカイの中で引っかかっており、しかし何が引っかかっているのかは判らなかった。気持ちが悪く、はやく答えを知りたいと思ったのだが、どれほど考えても答えは判らない。そうして考えるだけ無駄だとの結論に至り、無理矢理忘れ去った問題を、目の前につきつけられたのだ。  得体の知れない不愉快な気分が胸の中を占領しはじめ、カイは自身の胸元を抑えた。まったく気分が悪い。だが、どうして気分が悪いのかも、どうすれば解決するのかも、やはり判らないままだった。 「カイはこの仕事が終わったらトラベッタに帰るんだよね、もちろん」 「ああ」 「そうだよね」  短い間表面に出ていた怒りが、リタの表情から消えた。 「君はこれからどうするんだ?」  話の流れから自然に湧き出てきた問いが自身の唇から放たれた瞬間、カイは唐突に悟った。疑問に思っていたふたつの問いの答えが、目の前に揃って置かれた気分だった。  リタは仕事を完璧に終えた事に誇りを抱き満足している。それは間違いない。それによって浮かぶ明るい表情の中に、隠れるように混ざりこんだ感情――不安なのか寂しさなのか、カイに具体的な事は判らなかったが、どちらにせよ、仕事が終わった後の事を未だ定めていないせいだろうと予想が付いた。実に簡単な答えだ。  そして、答えどころか問すらもはっきり理解していなかった、もうひとつ問題。 「どうしようかって考えていたんだけど、やっぱり――」 「あのさ」  リタの答えをわざと遮ってカイは続けた。 「俺は昨日からずっと引っかかっていた事があって、その答えが今ようやく判ったんだが」 「それは、自分から聞いてきた質問に答えようとしているあたしの声を遮ってまで言わないといけない事?」 「だと思う。君のこれからに関わるかもしれないし」  リタは息を飲んで間を開けてから続けた。 「一体、何?」 「いや、だから……」 「何で口ごもるの」 「その……俺には、君を口説く権利があるんじゃないかって、思って」  カイは手袋をはずし、剥き出しになった暖かな手で、そっとリタの手を取る。少女の手は、カイよりも少し冷たかった。  大きな瞳を更に大きく見開いたリタは、しばらくの間は呆けた様子でカイを見上げていた。カイの言葉を消化し、言葉の意味を脳の奥まで浸透させるには、多くの時間が必要だったようで、リタが瞬時に顔中を朱に染め上げたころには、ふたつの手の温度が同じだけになっていた。  リタはカイの手を振り切る。自由になった両手で、熱を計るように己の頬に触れる。カイの視線から逃れるように顔を反らしてから、続けた。 「そんな、義務みたいに思わなくてもいいよ。ただの偶然、うん、偶然なんだから」  カイは静かに息を吐いてから返した。 「放っておけば数日後には半永久的にさようならできる相手に、果たす義務なんてどこにあるんだ」 「……で、でも」 「義務とかではなくて、俺は心から、このまま何もせず、数日後に半永久的にさようならする事を、嫌だと思ったんだ」 「ま、待って」  リタは言いながら片手を突き出し、カイの言葉を遮ろうとした。しかしそれでもカイが言葉を続けようとすると、カイの唇に両手を押し付け、力ずくで声を止める。  唇に触れる手は、震えていた。 「それ以上は言わないで。今は、まだ。今言われたら、あたし、絶対、流されるから。それが凄く嫌だから。自分が何なのか、この力が何なのかも判らないうちに、この力に踊らされているみたいで、凄く癪に触るんだよ。魔物狩りになったのはいい。あたしがこの力を利用してやってるんだから。でも、今、あんたを選ぶ事は、あたしがこの力に利用されているような、そんな気になる」  カイがリタの手の下で、唇を硬く引き締めると、リタは片腕を自身の胸元に入れ、首にかけたメダルを取りだした。 「これね、エイドルードに仕える、それなりに偉い人しか貰えないものなんだって。これを、あたしを抱いていた男が持っていたんだって。その人を知る手がかりになると思うから――だから、あたし、この仕事が終わったら、王都セルナーンに行って、男の事を調べてみようと思ってる。少しは判ると思うんだ。そしたらあたしの事も、少しは判ると思うんだ」  リタは大きく息を吸ってから続けた。 「だから、ごめん。自分でも凄く我侭だって判ってるんだけど、その後、あたしトラベッタに行くから。その時に、続きを聞かせてくれたらって……」  ゆっくりと、リタの手が離れていった。困惑の色を濃く浮かべた空色の瞳が、カイの表情を確かめるように見上げてきて、カイは微笑む以外の表情を選ぶ事ができなかった。 「待ってるよ。トラベッタで」  リタの事をひとつずつ知るたびに、彼女の強さや優しさが、眩しかった。  その強さや優しさを守るために、セルナーンに向かう事が必要だと言うのなら、引き止める事などカイにはできない。快く送り出してやらなければならないのだ――それがどんなに辛い事でも。  だが、辛くはない。カイはリタに拒絶されたわけではないのだ。彼女なりの精一杯で、繋ぎ止めようとしてくれて、それは我侭なのだと、言ってくれた。  嬉しいと、心から嬉しいと、そう思えたのだ。 三章 神の娘 1  暗雲が空を覆い太陽が隠れてしまう雨の時期には、魔物の出現率が増し、毎日何体もの魔物を切る事となる。その日々を思えば、晴天が続いたおかげか五日も魔物を切っていない最近は、長期休暇を貰っているようなものだった。  体が鈍らないよう毎日鍛えてはいるが、それでも魔物を切る感触を徐々に忘れて行く手がもどかしく、ジークは己の手を見つめる。古傷がいくつも残る荒れた手を僅かに眺めた後、自分の考えがあまりに不謹慎である事に気付くと、小さく笑った。トラベッタの平和を守るために雇われている自分が、平和が壊れる事を望んでいる姿は、滑稽だと思ったのだ。  ジークは水を飲んで喉を潤すと、玄関扉を開け、晴れ渡る空を仰いだ。爽やかな空は清々しいほどだが、心穏やかに見る事はできず、きつく睨んでしまう。  陽射しは温かくジークの身にふりそそいだ。涼やかな風は心地よく肌を撫で、遠くから子供たちのはしゃぎ声を運んでくる。  本当に、平和だ。このまま魔物の切り方を忘れてしまっても問題ないのではないかと、錯覚してしまうほどに。 「ジーク! ちょうどいいところに!」  しばらく身じろぎひとつせずに空を眺めていると、遠くから駆けてくる男の影が視界の端に映った。影は手を振りながらジークの名を呼ぶので、ジークは影の方に振り返った。 「魔物が出たのか?」  口を開くなり、ジークは男に問いかける。  ジークは長年この街に住んでいるが、街の者たちがジークの所にやってくる理由は、仕事絡みがほとんどだった。今回も同じであろうと疑わず、街の平和を堪能するなどと自分には似合わないのだなと、半ば諦めじみた事を思いながら、起きている時間は常に腰に佩いている剣の柄に手を置く。  しかし男は、首と手を左右に振ってジークの問いに答えた。 「いや、魔物じゃない。もしかしたらどこかで出てるかもしれないんだが、それを報告に来るとしたら他のやつだ」 「ならば……」 「街に変なやつらが来てるんだ。馬に乗って綺麗な鎧着た偉そうな男たちが、なんか豪華そうな馬車を牽いていてな。とりあえず領主のとこに行ってるみたいなんだが、そいつらが街に入ってすぐに、俺は道を訊かれて」  ジークが目を細めると、男は少し怯えた様子を見せ、一瞬口を噤んだが、更に続けた。 「どうも、カイの事を捜しているみたいなんだ」 「なぜだ」  その質問を目の前の男に投げかけても意味など無い事に気付いた時には、すでに疑問は口を吐いていた。そして、口から飛び出した疑問が己の耳に入る僅かの間に、答えをすでに知っている事を思い出したジークは、もとより鋭い眼光を更に厳しくする。  男は街に来た者たちを具体的には描写しなかったが、ジークの頭の中では、どのような鎧を纏い、どのような剣を腰に下げているのか、すぐに想像できた。直感でしかなかったが、確信はある。そうだ、彼らはこんな辺境までわざわざカイを探しに来たのだ。  とうとう来てしまったのか、その時が。 「何でかは言ってなかったけど、でもさ、話が合わないんだよ。そいつらが探しているのはカイだけじゃなくって、カイの父親を名乗る男もらしいんだけどさ、そいつらが口にしてた男の名前は、あんたの名前……ジークじゃなかったんだ」  投げかけられる疑いの眼差しは、トラベッタに辿り着いた頃に向けられたものとよく似ていた。  当時その視線を向けられた事を、ジークは恨みに思ってなどいない。ひどく薄汚れていて、旅を続けるために必要な最低限の荷物だけを持ち、腰に下げた剣だけが不似合いなほどに美しい、全身に傷を刻んだ愛想のない男。それだけでも充分に怪しいと言うのに、小さな子供を片腕に抱いていたとなれば、不審な目で見られて当然だろう。  十五年近い時をこの街で過ごしながら、元来の性格が影響してか、ジークは街の者たちにさほど溶け込んでいなかった。しかし、常に魔物に怯える街の住人を守り続ける中で、ある種の信頼関係は築けている。息子であるカイは素直に街に馴染み、人生のほとんどを過ごしたトラベッタを故郷と定め愛しててた。街の住民たちは自分たち親子をトラベッタの民として認めてくれていたのだ。  だと言うのに――今更。 「カイは俺の……ジークの息子だ」  ジークは力強く言い切る事で、男の眼差しを断ち切った。 「その男たちに、この家の事を言ったか?」 「い、いや。オレは言ってない。だが、領主がどうするかは判らん」 「そうか」 「言っちゃいけないのか? あいつらから隠れなきゃならない事情があるのか? それじゃまるで、後ろめたい事があるって言ってるようなもんだぞ。なあジーク、あんた一体何者なんだ。それに、カイは――?」  後ろめたくなどない。ジークは背筋を伸ばし、胸を張り、青き空の下に堂々と立ち、無言で語った。  男は恥じるように目を閉じる。項垂れる様子は、謝罪しているようにも見えた。  そうだ。ただ家族で幸せに暮らしたいと願い、実行したまでだ。立ち塞がる障害を排除した事も、家族の生活を守るために必要であったからだ。  悪は向こうではないのか。自分たちは正しいと主張し、そのために犠牲を強いる連中ではないのか。 「もしまた同じ事を訊かれたならば、そんな親子は知らないと返してくれるとありがたい。他の者たちにもそう伝えてくれ。皆ジークとカイと言う親子しか知らんのだから、嘘にはならんだろう」 「しかし」 「やつらに居所が知れれば、俺たちはこの街を出なければならん」  ジークが冷たく言い放つと、男はごくりと喉を鳴らし、踵を返して走り去った。  ほぼ脅迫だった。長い間魔物と戦い続けてきた歴史を持つトラベッタにおいて、この十五年間に起こった魔物の襲撃による死亡事故が極端に少ない事実とその理由を、この街に住む大人が知らないわけはないのだから。  ジークは男の背中を見送ると、家の中に戻り、扉を閉める。椅子に浅く腰掛けると、思考に耽った。  今の口止めにどれほどの効力があるかは判らない。仮に街中の住民にジークの意志が伝わったとしても、それが街に来た男たちと接触を持つ前とは限らないし、全ての者がジークの意志に従ってくれるとは限らない。大体、領主にはすでに接触されているのだから、領主の対応によっては住民たちの協力が無意味なものとなる。  なぜ、どうやって、彼らはカイの居場所を突き止めたのかを、ジークは考えた。アシェルの町に同情し、カイを向かわせてしまった事が原因かもしれないと考えて、即座に違うと否定する。それが原因だとすれば、彼らは真っ直ぐにアシェルに向かうはずではないか。  では、彼らの地道な探索が身を結んだのだろう。監視の目が届かないところだからと、ひとつの街に住み着いた事が敗因なのかも知れない。  ジークは深く息を吐く。彼らの最大の目的であるカイが今現在トラベッタに居ない事は、運が良いと言えた――いややはり、逃げ隠れしろと指示できない事は、不運と言えるかもしれない。アシェルでの仕事が早々に片付き、トラベッタに戻って来る事になれば、カイは何も知らずに連中と鉢合わせする事になる。  ジークは落ち着いて息を吸った。少なくとも今は、運の良し悪しを考える必要はない。必要なものは、最善の対処なのだ。  決意を秘めて立ち上がる。そうだ、自分ならば見つかったところでどうにでもなる。だが、カイだけはけして見つかってはならない。十五年前、戦いを繰り返しながらトラベッタまでやってきた事からの全てが、無駄になってしまう。何とかして、この街に帰ってくる前に、どこか遠い街まで避難させなければ――  ジークは自身の顔に手を触れた。指先に古い傷跡が触れると、ゆっくりとなぞって苦い感情を蘇らせた。 「絶対に、渡さん……!」  強い意志が秘められた声が、空気を震わせる。  いざとなれば戦っても良い。むしろ都合が良いではないか。今は魔物が出ず、腕が訛りそうだと思っていたところなのだから、魔物の代わりに人を切ればいい。ためらう必要などない。相手はこちらを人だと思っていないのだから――大人しく捕まってやったところで、ジークが最後に辿り着くところはおそらく死であろうから。  ジークの指が剣の柄を撫でる。  同時に、ゆっくりと扉が叩かれる音がした。  ジークは柄を強く握りながら、驚愕に顔を上げた。その扉の向こうまで人が近付いてきている事に気付かなかった自身に驚いたのだ。 「……誰だ」  絞りだした低い声で訊ねる。剣を静かに引き抜き、構えながら。  魔物が現れた事を報告に来た街の者か。それとも他所から来た者たちなのか。後者だとすれば、行動が早すぎはしないか。  ジークは喉を小さく鳴らし、扉の向こうの人物の反応を待った。 「存じませんでした。今はジークと名乗られておられるのですね」  優しい声だった。家の中に充満している緊迫した空気を、ゆっくりと解していく力がある声。  若い青年の声ではなく、自分とさほど歳が変わらない男のものだと判断した瞬間、ジークは知っている、と思った。この声を、自分は知っている。  ジークは構えを少しだけ緩め、声を記憶の奥から手繰り寄せた。記憶に残る声は、今聞いたものとほとんど変わらない声でありながら、より若々しい青年の声だった。 「お前は……」 「お久しぶりです」  再会を告げる男の声は、ジークに確証を抱かせた。 2  ジークは扉を開けていた。警戒心を全て捨てたわけではなかったが、記憶の奥底に眠る何かが、開けなければならないと語りかけてきたからだ。  扉の向こうに立っていた人物は、ジークの姿を見ると、元より穏やかな容姿を微笑む事で更に優しく変えて、小さく会釈をする。  変わっていないな、とジークは思った。最後に顔を合わせてから十七年の時が流れていると言うのに、記憶の中にある青年が持つ雰囲気と、目の前の男が持つ雰囲気は、まったくと言って良いほど同じものだった。若かりし日に前面に出ていた陽気な人懐っこさがやや影を潜め、大人しい印象を受けるが、過ぎ去った年齢を鑑みれば、変化と言えない程度のものだ。  少なくともこの男に関しては、変わりがない事は喜ぶべき事象だろう。ジークは無意識に笑みを浮かべ、男を受け入れた。 「変わらないな、ハリス」  名を呼ぶと、男――ハリスはいっそう笑みを優しくして応えた。 「貴方は変わりましたね、エア隊長。何と言いますか……以前よりずいぶん野性的に見えます」 「傷だらけだからか」 「それもあるのでしょうが、以前のように優等生ぶっていないからでしょう。こちらの貴方の方がより素に近いのでしょうね」 「否定はしない」 「ハリス?」  静かな、けれど凛とした声に名を呼ばれ、ハリスは穏やかな空気を緊張させ、振り返った。しかし変わらぬ柔らかな眼差しを、近くに停められた馬車から降りてきた少女に注ぐ。  雪のように白い肌と、背の中ほどまで伸ばした金髪の淡さが儚い、可憐で美しい少女だった。長い睫に縁取られた大きな瞳は、一切の感情を宿らせずにハリスを見上げており、ゆえに人形のように見える。  ハリスは胸に手を置き、深々と優雅に頭を下げた。  少女は表情ひとつ変えず、ハリスの動向を見守っている。 「いかがなされました、シェリア様」 「貴方は本当におかしな方だと思ったのです。どうしてこの罪深き男を隊長と呼ぶのです? 隊長と呼ばれるべきは、貴方でしょうに」  ジークはシェリアと呼ばれた娘を見下ろした。顔に残る傷も手伝って、初対面の女子供ならばほぼ確実にジークの眼光に怯えるものなのだが、少女の様子に変わりはない。宝石のような瞳にも、完璧と言えるほどに整った顔にも、感情はまったく映っていなかった。  どうやら、嫌味を言おうとしたわけでも、ジークを蔑もうとしたわけでもなさそうだ。少女はまったく主観を交えず、ただハリスを「隊長」と、ジークを「罪深き男」と捉えて、率直に浮かんできた疑問を口にしただけなのだろう。  妙な娘だ、とジークは思った。細い首に手を回せば簡単にくびり殺せるだろうか弱さでありながら、気味が悪く恐ろしさすら感じる。  どう言う事か問いただそうと、ジークは視線をハリスに向けたが、ハリスはジークに振り返ろうとしなかった。 「申し訳ございません、シェリア様。つい昔の癖が出てしまったようです。私は以前、この方が率いる隊に所属していた事がありましたもので」 「カイ様はどちらにいらっしゃるのです?」  ハリスの謝罪も、弁明も、すでにシェリアの興味からは失われていた。少女は辺りを見回しながら、新たな疑問を可憐な唇からこぼす。 「どうやら、今はこちらにはいらっしゃらないようです。ですからシェリア様は、領主の館にお戻りください。長旅の疲れを癒された方がよろしいでしょう」 「そうですか。仕方がありません」 「私は少々用事がありますので、こちらに残ります。もしもカイ様が現れましたらすぐに連絡をいたします」  ハリスはシェリアを先導し、馬車の中まで案内すると、馬車を引いてきた男たちに短く指示をした。ジークには聞こえなかったが、おそらく領主の館に戻れだのといった内容だろう。  二頭立ての馬車が走りだし、少しずつ遠ざかっていくと、ハリスは再びジークの前に戻ってきた。 「何だ、あの娘は」 「家に入れていただけませんか、エア隊長。話をしましょう。昔の事も、今の事も」  穏やかでありながら揺るぎない力を秘めた眼差しに、ジークは抗えなかった。家の中に入るように態度で促すと、「ありがとうございます」と簡素な礼を言い、ハリスは家の中に入ってくる。  進めるまでもなく、ハリスは勝手に椅子に座った。普段ジークが座っている椅子だ。仕方なくジークは、普段カイが座っている椅子に腰を下ろす。今は主が居ないのだから、椅子も許してくれることだろう。 「何か飲み物は出ませんか?」 「……水しかないぞ」 「それで構いません。喉が渇いているので、何でも良いから喉を通したいのです」 「大人しくなったと思えば、ふてぶてしいところも変わっていないのか、お前は」  笑ってごまかそうとするハリスを横目に、ジークは重い腰を上げ、水を汲んだ杯をハリスの前に置いた。  ハリスは水を一気に飲み乾し、卓の上を滑らせて空の杯をジークの前に置く。もう一杯、と言う意味なのか計りかねたジークは、とりあえず何もせず、再び腰を下ろしてハリスと向き合った。 「何から説明しましょうか。まずは、私がどこまで出世したか、あたりからにしますか?」 「一番どうでもいい所だな」 「『神の娘』シェリア様をお守りする護衛隊の隊長を勤めております。位的には中隊長並の扱いのようです。他の中隊と比較すると規模は小さいのですがね。直接の部下は小隊長並かそれ以上の腕を持つ者三十名。それ以外にも、三個小隊ほど付けていただいております」  話をきちんと聞いていれば、随分出世したじゃないか、と褒めてやる事ができたのかもしれない。しかしジークは、ハリスの言葉の中から最も気にかかる単語を脳内で繰り返しており、先の話に反応する余裕はなかった。 『神の娘』シェリア。  それは、つまり―― 「あの少女は森の女神ライラの娘か」 「お判りですか」 「判らないわけがないだろう。その呼び名に加えて、護衛に精鋭が選ばれる扱いとなれば」  ハリスはゆっくりと肺の中の空気を吐き切り、膝の上で両手の指を絡ませる。細めた優しい眼差しは何も言わずとも、遠い記憶を呼び起こしている事を伝えてきた。 「話すべき事が沢山ありすぎて、どれから話して良いのか判りませんが――そうですね。シェリア様が生まれて間もなく、貴方がカイ様を連れて逃亡したように、アシュレイ様もシェリア様を連れて逃亡しました。逃げ続けたアシュレイ様は、捜索にあたっていた隊と何度か衝突したそうです。そして十五年前のちょうど今頃、捜索隊はシェリア様の奪還に成功しました。アシュレイ様は深手を負ったものの逃走。しかし捜索隊の者はアシュレイ様を深追いする事はなかったそうです。アシュレイ様と戦う事で捜索隊が受けた傷は深かった。アシュレイ様が受けた傷も、まず生き残れるはずもない深さだった。何より、シェリア様を大神殿へお連れする事が、彼らの最優先任務でしたから」 「そして、あの娘は王都の大神殿で育てられたわけか」  ハリスは静かに肯いた。 「ええ、そうです。けしてエイドルードの意志に背かないよう、正しく育てられました。シェリア様はご自分の使命を疑う事もなく……」 「『正しい』?」  ジークは低く、ハリスを責めたてるように言った。 「お前、あの娘にごく近いところに居ながら、あの娘を正しいと思えるのか?」  エイドルードへの信仰を迷わず、エイドルードの教えに、指示に、疑問を持たない程度ならば、ジークはさほど不思議に思わなかっただろう。エイドルードの加護の元平和に生きる者たちのほとんどが、そうであるのだから。  だが、あの少女は明らかに違った。意志が無いわけではないが、まるで感情そのものを知らないかのように、表情と瞳は冷たく凍り付いていた。  真っ当に育てられたとは到底思えない。実の親に育てられていない、程度の理由とも思えない。誰かが、作為的に、シェリアをあのように育てたのだ。 「エア隊長は正しいと思いませんか?」  ハリスは一度目を伏せ、次に開いた時には、穏やかさを消し去った冷たい眼差しで、ジークを睨むように見上げた。憎悪や呪いに似た感情がそこには強く育っていたが、感情を向ける矛先はジークではないと、その眼差しは伝えてきていた。 「貴方ならば判るでしょう、エア隊長。シェリア様が、どうしてあのように育てられたのか」 「いや……」 「貴方はカイ様を大神殿に引き渡そうとしなかった。アシュレイ様もです。大神殿としては、シェリア様が貴方がたのように、運命に疑問を抱いたり、感情のまま運命に反する行動を取ったりしては、困るのですよ」  膝の腕で握られた拳に、力が込められる。  拳を何かに叩き付けたいと願いながら、それを必死に耐えている事が判った。やはり、その矛先はジークではない。 「約束を、覚えておられますか、隊長」  ジークは肯いた。わざわざ記憶の奥底から呼び寄せなくとも、ハリスの存在と同時に蘇るものだった。  守ると誓った。大切なものを。それはジークにとってリリアナであり、カイであった。そしてハリスは、ジークが神への反逆を犯そうとしていた事を知っていながら見逃してくれた。大切なものの中にハリスを混ぜ、ハリスの大切なものをけして損ねないと言う条件で。 「十八年前、私は貴方の秘密を誰にも言わずに胸に秘めました。十七年前、貴方が行動に出ると感付いた時も、何もしませんでした。貴方が正しいと思ったから、貴方の行動が、人の命を救う事になると信じたからです。そして、確かに貴方の行動は正しかった。貴方の行動はカイ様のお命を救い、多くの命を救う事に繋がったのですから。でも……」 「俺はお前との約束を違えた、と?」 「はい」  ハリスの想いが遠くへと向かう。外部との繋がりを遮る壁を越え、空を越えて、遥か彼方へ。 「貴方が大神殿の要求を呑まず、カイ様を連れて逃げた時、私は貴方を追わなければならなかった。貴方を捕まえて、貴方の腕からカイ様を奪い取らなければならなかった。しかし私は誓いを違え、貴方を追わなかった。捜索隊に配属されなかった事を言い訳に――もしあの時、私が」  ハリスは息を飲み込んだ。同時に感情も飲み込んだのか、続いて吐き出された言葉は、静かなものだった。 「判りますか、エア隊長。情を抱かず、けして神の意志に背かない今のシェリア様を造りあげたものが、何であるのか」  ジークはハリスの瞳を真っ直ぐに見つめたまま、微動だにせず、彼の言葉を待つ。 「罪ですよ。私と、貴方の」  闇よりも暗く深い沈黙が、ふたりの空間を支配した。  互いが互いから目を反らそうとしない。これは無言の争いなのだとジークが気付いたのは、沈黙が呼び込まれてすぐの事だった。  敗北に抵抗があるわけではない。だがジークはけして引こうとはせず、真っ直ぐなハリスの眼差しを受け止める。  ハリスの言を聞いて笑いたい気持ちになったが、笑う気力は湧いてこなかった。  目の前に座るこの男は、賢い男なのだろう。ジークを守ろうとして擁護する言葉を紡ぎ、傷付けようとして厳しい言葉を紡ぐ。言葉の選び方が実に的確だ。  そして同時に愚かな男でもあるのだと、ジークは心から思った。穏やかな顔で長い時の隔たりをあっさりと詰め、懐かしく優しい感情をジークに与えながら、罪深きジークを責める――ふりをして、結局は自分自身を断罪しただけではないか。そうする事でジークを追い詰める材料をひとつ増やそうとしたのかもしれないが、他に方法はあったはずだ。 「俺は言ったはずだ。お前は何も背負う必要はないと。今もその想いに変わりはない」  沈黙を先に破ったのはジークの方だった。これは勝負に負けた事を意味するのかもしれないと考えたが、どうでも良いとも思った。 「私も言ったはずです。背負いたいから背負うのだと。今でもその想いに変わりはありません」  ハリスは立ち上がり、彼自身を責めたてる感情が消えうせた穏やかな瞳で、ジークに微笑みかけた。 「どうやらここしばらく、カイ様はこの街にいらっしゃらないそうですね。今日は失礼いたします。私も私の部下数名も領主の館に滞在しておりますので、カイ様が戻られましたら、どうぞおふたりで領主の館にいらしてください」 「俺がわざわざお前たちにカイを差し出すと思っているのか? そこまでおめでたい頭をしていたとは知らなかった」  失笑したジークは低く言い捨てたが、ハリスは動揺する様子も苛立つ様子も見せなかった。 「差し出していただきます。貴方もカイ様も逃げる事はできません。貴方もこの街も、完全に我らの監視下にありますから。カイ様が我らの手に戻るその時まで、貴方はこの家を出る事すら容易くないでしょう。外でカイ様と連絡を取られては厄介な事になるやもしれませんからね」 「できると思っているのか?」 「……いつまでもご自身が最強だと自惚れない事です」  ハリスは素早く剣を抜き、ジークの鼻先へと切っ先を向けた。  一瞬後、椅子が床に転がる乾いた音が家の中に響き渡る。ハリスの剣を咄嗟に避けようとしたジークが、自身が腰を下ろしていた椅子を蹴ってしまった結果だった。  思わず椅子を蹴り上げてしまうほど、避ける事に必死にならなければならなかったその太刀筋は、ジークの記憶の中にあるハリスの太刀筋とは明らかに違っていた。とにかく速い。避けるのがあと一瞬遅ければ、鼻を潰されていたかもしれない。 「宣言しておきましょう。私は大司教より貴方の処刑に関する全ての権限を与えられております。意味は判りますね? 私は処刑を行わないと決定する権限も持っている。貴方の命は、私の一存で決まるのです。カイ様を大神殿にお連れすると言う任務遂行に、貴方が邪魔だと私が思えば、貴方の命を奪う事が罪では無くなるのです」  ジークは鋭い眼差しでハリスを睨みつけた。 「殺したければ、殺せるものならば、殺すがいい」 「私がそんな事を望む人間であると思われているのだとすれば、それはとても悲しい事です」  ハリスは弱々しい笑みを見せながら剣を鞘に納めた。 「今カイ様を連れ戻す事ができれば、貴方の罪は不問としましょう。カイ様と別れを惜しむ時間も差し上げます。いつかカイ様と再会する機会も差し上げられるかもしれません」  一瞬だけ息を詰まらせてから、ハリスは続けた。 「カイ様が生まれてすぐに大人しく差し出していただければ、聖騎士団に戻っていたく事も可能だったのですが……貴方ほどの力があれば、カイ様の護衛隊長も望むままでしたでしょう。常にカイ様のお傍にあり、カイ様を見守る事ができたかもしれない」 「あの娘のように育つカイを、傍で見てろって言うのか。俺がそんな事を望むとでも思っているのか?」 「まさか。言ってみただけですよ。神に逆らう事も、家族としての幸せを守るために人を切る事もできる貴方ですからね。いざとなれば正面から戦う覚悟を決めているつもりです」  ハリスはジークに背を向けどもけして隙は見せず、扉に歩み寄る。開くために扉に触れ、しかしすぐには開こうとせず、落とすように言葉を残した。 「護衛隊長に任命された三年前、私は初めてシェリア様と対面いたしました。あの時私が受けた衝撃は、とても言葉にできません。シェリア様の神々しさも、比類なき美しさも、私の目には輝きとして映らなかった。揺るぎない強烈な闇を目にした痛みに、私はひとり涙しました。己の罪の象徴を目の前に突きつけられ――幾度懺悔したか判りません」  ジークはハリスに駆け寄り、その肩を掴んで振り向かせようとした。しかしハリスが纏う空気は全ての他者を拒絶しており、一歩踏み出すだけがジークにできた事だった。 「本当にお前の罪か? エイドルードがあの娘に運命を強要しなければ、あの娘は普通の娘として育ったはずだ! これは、エイドルードの罪ではないのか?」  ハリスは振り返らなかったが、強く首を振ってジークの言葉を否定した。 「貴方は、エイドルードの事を何も知らない」 「知りたくもない」 「そうでしょう。貴方は、エイドルードの加護のない街に住み、日々魔物と戦っている程度で、エイドルードから何の恩恵も受けていないと信じているのでしょうから」 「……どう言う事だ」 「言葉どおりの意味です。貴方もまた、エイドルードに守られているひとりであると言う事ですよ」  ハリスは扉に拳を打ちつけた。そうする事で、再会してから一度としてジークに叩きつけようとしなかった強い感情を、ジークに見せつけているようだった。それ以上は答える気がないと言う意志と共に。 「私の最優先はエイドルードの御意志。第二が、シェリア様の幸福です。そのために必要とあらば、貴方と剣を交える事も厭いません」 「お前がしようとしている事は、本当にあの娘の幸せなのか?」 「今のシェリア様が望まれる唯一の事です。エイドルードの御意志に逆らうものではない以上、叶えて差し上げる事が私の役目」 「本当にお前はそれでいいのか? それを望んでいるのか、ハリス!」  ジークの叫びに、ハリスは唇を硬く引き締めた。声を失ったわけではなく、熱を冷まし、感情ではなく思考によって言葉を紡ぐ時間を作るためにだ。 「エイドルードの御意志に従う事も、シェリア様の幸福のために働く事も、私の望みである事は疑いありません。ですが、あえて個人的な望みを述べよと言われたならば、私はこう答えます。『十八年前の約束を果たしたい』と」  扉が開き、外の広い空間と家の中とが繋がる。  先ほどまでは清々しいとさえ思えた青空が、今は重苦しく垂れ込め、ジークの息を詰まらせた。 「エア隊長、貴方に罪を償っていただきます。そのために、カイ様をお返しいただきます。必ず」  ハリスは家を出て行く。  しばらくは静かに閉じられた扉を眺めていたジークは、体から失われていく力に従って、その場に座り込んだ。  扉の向こうから聞こえる足音は、すぐに音を失ったが、ジークの中ではかき消える事なく鳴り響いていた。 3  窓から差し込む光の色に赤が混じりはじめた事で、ハリスの足音が遠く消え去ってから、長い時間が過ぎている事に気付いた。  ただひとり残された静かな家の中で、力無く椅子に腰掛けると、「リリアナ」と音に出さずに呼んだ。無意識に唇からこぼれ落ちる名は、蘇る若い女性の微笑みは、十六年も前に失った、永遠の伴侶のものだった。  いつの間に、共に過ごさぬ時間の方が長くなったのだろう。山の麓の小さな村で、三ヶ月違いで生まれたリリアナは、出会った記憶が無いほどに古くから共にあったと言うのに。  息を吐き、投げ出した手に視線を落とした。小さな傷が無数に残る、硬い、くたびれた手。  昔から綺麗な手ではなかった。砂漠の女神であったリリアナのすべらかな手を取る事を躊躇した日を思い出し、自嘲気味に笑う。  だが、リリアナの美しい手は、この手を取ってくれた。  硬く握り合い、罪の重さをかき消すために笑いあいながら逃げ出した日からの記憶が、次々と蘇る。自分は幸せだった。リリアナも幸せそうに笑っていた。奪われ、失われた時を取り戻すように、ふたりは片時も離れなかった。  カイが産まれるその日まで。 「幸せよ」  リリアナは何度も言った。砂漠の神殿から共に逃げ出した日から、最期の瞬間まで、何度も、何度も、繰り返し語りかけてきた。 「私、幸せよ、エア。本当に、幸せ」  長いと言える人生ではなかった。だが彼女は死の瞬間、笑ってくれた。男にはけして知る事のできない苦しみに長く責められながらも、引き換えに手に入れたひとつの命を抱き締めながら、満足げに微笑んで生涯を終えた。 「俺も、幸せだ、リリアナ」  共に生きて行こうと誓った相手は失われた。だが、最後までそばに居てやれた。手を握り、リリアナの声を聞き、リリアナの声に応えてやれた。神に奪われたまま「それが運命だ」と諦めていたならば、けしてできなかった事ができたのだ。  そしてリリアナは、新たな家族を残してくれた。  膨らみはじめた腹を撫でながら、男の子ならカイを名付けようと、リリアナはしきりに言っていた。ああ、そうだな、それがいいと、自分も返した。  だから生まれた子にはカイと名付けた。リリアナの弟妹の面倒を見た経験があったため、赤子の育て方はおぼろげに理解していたが、男の自分ではどうしようもない事も多々あり、周囲の協力を得ながらなんとか育てていった。  扉が急に開いたのは、カイが支えなく歩けるようになったばかりの頃だったか。  見覚えのある鎧を纏い、見覚えのある剣を携えた、十人ばかりの集団。親しい顔は無かったが、見知った顔がいくつかあった事を覚えている。 「その子を渡したまえ」と、一番年かさの男が言った。  当然、「渡すものか」と返した。リリアナが命と引き換えに産んでくれた大切な家族。無条件で自分を信頼し、愛してくれる存在。残された唯一の温もり――手放すわけにはいかなかった。 「エイドルードは女神リリアナの子を所望している」  だから何だ? エイドルードが望んだものを、全て差し出せというのか? 神と呼ばれる存在は、またも自分から大切なものを奪おうと言うのか?  認めない。それが運命だと言うのならば、再び抗うまでだ。 「大人しく渡したまえ。無断で聖騎士団から脱走した件、門外不出の地図を複製した件など、これまで罪とされていたもの全て不問と処し、望むならば聖騎士団への復帰も許可すると、大司教様は仰せだ」 「……ずいぶんな温情措置だな」  何が起こっているか理解できずに無垢な瞳で見上げてくる息子を引き寄せながら言った。 「当然だ。全てはエイドルードの御意志であったのだから。お前は神の与えもうた試練を乗り越え、神の使命を果たした、立派な神の徒。我ら聖騎士団が誇るべき男だ」 「何の事だ」 「判らぬか?」  隊長と思わしき年かさの男は、誇り高く胸を張って続けた。 「エイドルードは元より、お前がリリアナ様を砂漠の神殿より連れだす事を望まれておられたのだ。その子の誕生のために」  カイを抱き締める手に無意識に力が篭っていくのを自覚した。 「何を、馬鹿な」  否定しようとして、協力者の言葉が脳裏に蘇った。自分と同じように愛する者を神に奪われた男。女神ライラを奪い返すため、森の神殿に旅立った男――アシュレイ・セルダ。  奪い返されたくなければ、はじめから人のものを奪わなければいい、天涯孤独な娘を娶れば良いと、アシュレイは言った。だからこれは罪ではない、神の意志に従う事なのだ、と。  男の言葉を信じるならば、アシュレイの解釈が正しかった事となる。神への反逆の心を持っていた自分は、ただの道化だったのだと。 「何が神だ。カイは誰にも渡さん」  それからの事はよく覚えていない。いくつか会話を交わした後、いつか必要かもしれないと捨てる事なくとっておいた剣を引き抜き、高圧的な態度で向かってくる者たちを切り捨てた。何人かは逃げ出したが、それを追う事をせず、カイを抱いて逃亡した。  ひとつのところに安住する事はできなかった。すぐに追っ手が来ると思ったからだ。しかし、ひとつの所に安住せずとも、追っ手は幾度も目の前に現れた。 「エイドルードの目はお前を取らえて放さん。無駄な足掻きをするな、エア・リーン!」  合わせて何人切ったかは覚えていない。傷を負わせ、すぐに動けないようにしただけのつもりだが、何人かの命は失われたかもしれない。はじめは夜が訪れるごとに悔いたが、やがて思い悩む余裕がほとんど無くなった。カイを守らなければならない。カイと自分と、家族で過ごす生活を壊してしまえば、死んでいったリリアナにどう詫びればいいか判らない。  トラベッタに辿り着いたのは、不毛な追いかけっこに疲れた頃だった。最初の追っ手を撃退してから、半年近い時が過ぎていた。  負わされた傷がじくじくと痛んだ。ひとつひとつは致命傷とは縁遠いものだが、ろくな治療をする余裕もなく、跡に残る傷となったものもある。一番大きいものは顔の傷で、やがてそれは罪の象徴となって心にも深く刻まれた。  がむしゃらに逃げ続けた先にあったトラベッタは、これまで通りすぎてきたいくつもの街と雰囲気が明らかに違っていた。はじめは何が違うのかが判らなかったが、三日も滞在すれば充分過ぎるほど理解できた。  この街には魔物が出る。エイドルードの加護の中ではけして現れないはずの魔物が、頻繁に。 「おそらく、エイドルードは結界を張っているんだろう。大神殿と、森の神殿と、砂漠の神殿。この三点を繋ぐ、巨大な三角形の結界を。この三角形は、大陸のほとんどを網羅してはいるが、トラベッタは僅かにはずれている」  教えてくれたのは、部屋と食事と傷薬を与えてくれた、街を守る衛視長を勤める男だった。 「そんな危険な場所に、なぜ、これほどの街が?」 「海だ。三つの神殿がひとつの大陸にある以上、エイドルードの加護の内側にある海はほとんどない。塩にしろ、海産物にしろ、海が与えてくれるものを得るには、誰かが危険を承知で海に近付かなければならない。おかげでこの街は富んでいるよ。もっとも、その富の大半を魔物から守るために使わねばならんがね」  並の同程度の街とは比べ者にならないほど、厚く高い堅牢な外壁。八方を完全に見渡せる監視の塔。衛視の数も他の町と比べて桁違いに多く、夕焼けが近付く頃には完全に外門を閉じている。その理由を知った時、手は自然と剣に伸びていた。  今までは三日とあけずに新たな追っ手が現れたものだが、ここ五日は追っ手の姿を見ていなかった。もしかすると結界外ならば、エイドルードの監視の目が届かないかもしれない。カイに安住の地を与えてやれるかもしれない。  迷う自分を支えるように、無垢な瞳を輝かせた息子が、腕にしがみついてくる。  この手を放したくない。放してなるものか。 「俺を雇ってはもらえないか。剣の腕に自信はある」  迷いを掃ってしまえば、決意は早かった。 「魔物と戦うのは、人と戦うのとわけが違うぞ」 「判っている。だが、俺は息子とふたり、この街で生きていきたい。やれと言われれば大抵の事はするが、剣の腕ならば人に誇れるだけの力をすでに持っている。それが、この街の役に立てるならば」  掃いのけた迷いが、そのまま衛視長に移ってしまったようだった。誰の目から見ても明らかに困惑した衛視長の目が、親子の間を行ったり来たりする。  行き倒れかけた親子に救いの手を差し伸べてくれた彼の事、迷う一番の理由は不審ゆえではないだろう。父親が魔物に倒され母も無く残される子の事を心配してくれているのだ。 「判った。そこまで言うなら、次の魔物が出てきた時にでも、腕を見せてもらおうか。それで判断する。いいか?」 「それでいい。必ず、役に立ってみせる」  カイの小さな頭を撫でた。カイは小さな手を伸ばし、大きな手に触れながら、無邪気な笑みを浮かべた。  目を伏せ、強く、それでいてできうる限り優しく、息子を抱きしめる。暖かな温もりと触れあうと、涙が出そうになった。  永遠に、共に生きよう。今度こそ。  心の中で語りかける。息子と、今は亡き生涯の伴侶に向けて。  神無きこの街ならば、きっと大丈夫だ。神の代わりに街を守りながら、この街が世界の全てだと思いながら、生きていこう―― 4  カイが異様を察したのは、トラベッタの街と街道を繋ぐ門を視界に捉えたとほぼ同時だった。  いつも通り陽のある時間のみ開かれた門の傍らには、門番の役目を果たす衛視が立っている。それは問題ない。カイが違和感を覚えたのは、衛視とは違った格好でありながら、武装をした青年が一名、そばに立っていたからだった。  剣を携えているが、旅の剣士と行った風情ではない。紋章が刻まれた白い鎧と外套を纏った青年は、衛視たちに比べて姿勢も品も良く見える事も手伝って、騎士のようにも見えた。  彼は誰だろう。当然の疑問を抱くカイだが、誰かに質問でもしない限り、答えを知りようがなかった。衛視たちが彼がそこに居る事を認めている以上、街に害なす存在ではないのだと信じるしかない。  カイは空を見上げるようにして、物見の塔を見上げた。  八方を見渡せるように建てられた塔全てに、常時最低ひとりは物見係の衛視が詰めている。カイは仕事柄、衛視たちの中でも見張りを勤める彼らに顔見知りが多い。今日は誰だろうと気になったが、遠すぎて顔の判別がつきにくいため、カイは目を細めて凝視した。同時に、向こうもカイの姿を見つけたようだった。  衛視たちの中でも一番年若い少年だった。おそらくカイより歳若い彼は、いつもならばカイを見つければ元気に手を振ってくる。しかし今日はそれをせず、高台からじっとカイを見下ろしているだけだ。  普段とは違うところを続けてふたつも見つけてしまい、カイの中に芽生えていた違和感は強まった。  ひとつひとつは大した事ではない。物見の少年が大人しくしているのは、勤務中の態度について上司に怒られたせいかもしれないし――何かを疑うにはまだ早すぎるだろうかと、歩みを進めながら悩むカイの視界に、物見役の少年の後ろに控える男が飛び込んできた。白鎧と外套と言う、門番と共に立っている男と同じ格好だ。  明らかによそ者でしかない彼らが、門の傍に立っているだけならばともかく、物見の塔に踏み込むとは、明らかにおかしいのではないか。トラベッタの住民にとっては生命線だが、他所の者から単なる見張り台でしかないはずだ。  半月も離れていないと言うのに、この短い期間に、トラベッタには何が起こったのだろう。カイは考えた。そして悩んだ。しかし、街に戻る以外の選択肢を取りようがないカイは歩き続けるしかなく、とうとう黒門が目の前に迫ってしまった。  門を抜けるためには帳簿に記名をし、街に来た目的などを口頭で門番に伝える事になっている。どちらも簡単な事だが、当然歩いて通り抜けるだけよりも時間を食うため、門の前には小さく列ができていた。カイは商隊と思わしきひとつの集団の後ろに並んだ。  カイが並んでいる事に気付いた門番が、明らかな困惑を表情に浮かべた。四人中四人ともが、だ。  それだけあからさまな態度を見せながら、彼らはけして口ではカイに何も言おうとしない。どうすれば良いのか、どうするべきなのか、戸惑うカイはゆっくりと混乱を深めていった。  思考の海に深く潜っていくカイの意識を、騒がしい鈴の音が引き戻す。  顔を上げると、物見の塔から繋がる鈴が激しく揺すぶられ、ちりちりと乱暴に鳴り響いていた。物見が魔物を発見した時の合図だ。  トラベッタでは魔物が発見された場合、魔物の被害が街の中に及ばないよう、昼日中でも即座に門を閉めるようにしている。緊急事態であるので、まだ記名が終わっていない者たちでもとりあえず中に入れてやるのが常だった。 「記名は中でしてもらう! とりあえず早く入れ!」  門番たちが大きく腕を回し、商隊の者たちとカイを街の中に招き入れる。その内のひとりがカイの後ろに回り、警戒するように辺りを見回しながらカイの背中を押した。 「俺が……」  カイは自分が出ると伝えようとしたが、更に強く背中を押され、言葉を詰まらせる事となった。 「白い鎧の連中に気を付けろ」 「……?」 「早くしろ! 門を閉めるぞ! 魔物の中に放り出されたくなければ早く入れ!」  門番はカイの耳に囁くや否や、周囲に大声で怒鳴りつけ、魔物に怯え戸惑う商隊の者たちをせかした。押し込むように全員を門の内側に入れると、待ち構えていた衛視が、街を封鎖しようと重い門に手をかける。 「誰か! ジークさんを呼んでこい! それから衛視長に報告――」 「衛視長はともかく、魔物狩りジークへの報告は必要ありません」  魔物の出現への対応は手馴れたもので、的確に指示を出す門番たちだったが、静かな声が彼らの勢いを遮った。  声の主は白い鎧を来た男だが、門の傍に立っていた男でも、物見の塔に居た男でもない。歳も他の者たちよりいくらか重ねているようで、四十に届きそうに見えた。特別見目がいい容姿と言うわけではないが、声と同じく静かかつ穏やかで、人の気持ちを安心させる力を持っている。 「それに、報告したところで無駄です。彼は魔物狩りに出る事はできませんから」 「しかし、ハリス殿! ジーク殿が居なければどれほどの損害が出るか判りませんぞ! 恐るべき力を持つ魔物であれば、この街の強固な外壁すら打ち破る可能性があるのです! トラベッタの民に死ねとおっしゃるのですか!」 「そうは言っておりません」 「では、どうしろと!?」  ハリスと呼ばれた男は無言で腰の剣を引き抜いた。 「私が出ましょう」  ハリスが短く言い切ると、衛視たちは不安げにどよめいた。衛視たちはカイと違ってハリスが何者であるかを知っている様子だが、彼らもハリスの実力は知るところではないらしい。しかし面と向かって「貴方では駄目だ」と言う勇気はないらしく、不信の目をハリスに向けるのみだった。 「ルイレ、念のため領主の館に伝令を。待機中の者は全て、迅速に東門に集合。私の援護をしてもらう」 「援護……ですか? 隊長自ら先頭に立たれると?」 「本来ならばひとりで戦いたい。ジーク殿に倒せる魔物ならば、私もひとりで倒せなければ都合が悪いのだから。しかし、万が一もありえる。私の力試しのために、街に被害を及ぼすわけにも行くまい」 「はっ。畏まりました」  ルイレと呼ばれた白鎧が領主の館に向けて走り去って行くと、ハリスは穏やかながら強い視線で閉じゆく黒門を見上げた。  鎧の男たちはみな一様に武術の心得がありそうだが、隊長格と思わしきハリスは、更に上を行く実力を持っているようだ。その柔らかで穏やかな物腰に騙されてはいけないのだろう――はたして、父とどちらが強いのだろう。  カイがしばらくハリスの背を見つめていると、突然肩を叩かれた。衛視のひとりで、周りに白鎧がまだ残っているからか口に出しては何も言わないが、目配せをしている。早くこの場から去れ、と伝えたいようだ。  先ほどの忠告と合わせ、この白鎧の集団が自分に悪い影響を与える存在であると判断したカイは、彼らの目から隠れるよう、未だ戸惑う商隊の者たちを上手く壁にし、その場を離れてから走りはじめた。  家路を辿りながら、白鎧を見かける頻度が徐々に多くなっていく。彼らは常に警戒し、何かを探していた。けして怪しいそぶりはなく、むしろ正義の味方にしか見えない物腰だと言うのに、この街にとってはあまりに異質で、気味が悪い存在だった。  自分にとって良い存在ではない彼らが、何かを探している。それはつまり、彼らが探しているものは自分と言う事にならないだろうか。  走りながらそう予測して、カイは失笑した。まさかありえない。彼らがどのような組織に所属する者であるかをカイは知らないが、これほどの人数を投入してまで探し出すほどの価値が、自分にあるとは思えなかった。魔物狩りとしての力は父の方が優れている。生まれてからこの方完全なる善人であったつもりはないが、追われるほどの犯罪に手を染めた事もない。ならば、どんな理由でカイを探すと言うのだ。  カイは家に続く道の最後の角を曲がった。長く、真っ直ぐに続く道には、カイの目につくだけでも三人の白鎧が立っていた。  ひとりは家の前に立っていたし、他のふたりも、周囲を警戒しながら、時折家の方に視線を送っている。あれでは誰にも気付かれずに家を出入りする事などできはしない。  突然足を止めたり引き返しては怪しいかと、カイは家の前を通り過ぎた。先ほどは死角になっていて見えない位置にもうひとり白鎧を発見し、いよいよ絶望的だと思わずにはいられなかった。  路地を抜け、白鎧の姿が見えない場所を探して、近くの家の扉を叩く。先日結婚したばかりの若夫婦の家だ。  人付き合いが苦手な父に代わり、近所の者たちと頻繁に交流していた事が、今は何よりも役に立った。この辺りの家ならば、全てが知り合いで、快くカイを家に迎え入れてくれるはずだ。  しばしの間を開け、扉を開けてくれた者は、若夫婦の妻の方だった。カイを見るなり息を飲み、周囲を見渡すと、家の中に引っ張り込み、慌てて扉を閉める。 「いつ帰ってきたの? それより、よく街の中に入れたわね。門とか、物見の塔とか、居たでしょ? 白い鎧を着た人たち」  女は胸を撫で下ろしながら言った。 「居たけど……なあ、俺が居ない間に、この街に何が起こったんだ? やっぱり俺が狙われているのか? 俺とその白鎧たちと、何の関係が?」 「誰からも説明を聞いていないの?」 「聞く余裕はどこにも無かったからな。衛視のひとりが白鎧たちの目を盗んで忠告をくれたが、きちんとした説明にはなっていなかった」 「そう。でも、私も詳しい事は判らないのよね」  女は眉間に皺を寄せ、何かを必死に思いだそうと上目遣いで天井を見上げ、それからカイに向き直った。 「あの白い鎧の人たちは、王都から来たんだって。どうやら貴方を探してるみたいで……」 「何で俺? だって、俺の顔も知らないみたいだぞ、あいつら」 「それは私には判らない。でも、ジークには判っているみたいだって、噂で聞いた。で、ジークは、貴方が白鎧に見つかったら困る、みたいな事を言ってたって。見つかったらふたりで街を出ないといけないかもしれないって――だからこの街のほとんどの人たちは、ジークに協力してる」  意味が判らなかった。  街の者に事情を聞けば何かしら解決するかと思ったが、彼女の説明もほとんどが憶測で、真実か否かの判断を付ける事が難しい。  確実に真実を知るためには、白鎧の者たちに接触するか、ジークに接触するか、その二択しかないのだろう。得体の知れない集団と父親。カイは迷わず一方を選択した。 「どうにかしてジークに話を聞く方法は無いんだろうか」 「無理よ。会うだけならともかく、白鎧の人たちの目に付かないところでジークと会話したり手紙を渡したりする事はできない。監視がきつくて、ジークなんて家を出る事もろくにできないんだから」  顔もろくに知らない相手を探しに来て、捉えるために街中を巻き込んで、ジークを軟禁状態に追い込む。何の権利があって、彼らはこのトラベッタを、自分たち親子を、かき乱そうと言うのか。 「善人面して、何様のつもりなんだ、あいつら……」  カイの中に芽生えた怒りは徐々に力を増していく。抑えきれなくなるほど膨らみ、何かに当たってしまう前に、カイは女に礼を言って家を出た。  目の前に見慣れた街並みが広がる。  入り組んだ街路は、この街で育ったカイにとって慣れ親しんだ庭であると言うのに、深く、救いのない迷路のように見えた。 5  カイは街の中をあてもなくさ迷い歩いていた。  とにかく父と話をしたかった。だから父が待つ家に帰りたかったのだが、何の策も無く家に帰っても父に会えるかどうかは判らない。白鎧の集団がカイをカイだと認識した時、捉えに来る事は予想できたが、その後どのような扱いを受けるかは想像が付かないのだ。居場所が知れれば納得する程度ならば、こちらの望みを叶えて父に会わせてくれる可能性もあるが、直接は無関係の父の現状を考えるとそれは難しいだろう。下手すると、監禁されて二度と父に会えなくなるかもしれない。  魔物出現と言う混乱があったとは言え、そこかしこに見張りを立てながらもカイがまだ捕まっていない現状から、相手方がカイの顔を知らない事は明らかだ。カイを知る街の者に引きずり出されるか、父と接触を取ろうとでもしない限り、顔を出していても捕まる事はないだろうと思うと、少し気が楽だった。ただでさえ苛立っていると言うのに、潜伏しなければならないとなれば、余計に不愉快な思いをする事になる。  トラベッタに戻ってきた事が間違いだったのだろうか、と一瞬考えた。リタと共に王都に行くなりで時間を稼げば、彼らも諦めて帰ってくれたかもしれない。  カイは首を振って今の考えをかき消した。軟禁状態の父を思えば、その手が使えない事は明らかだ。数日で済めばいい。意志も体も強い人であるから、ひと月程度ならば耐えてくれるだろう。だが、何ヶ月も、何年も、白鎧たちに居座られれば、父の健康や命が危うくなるかもしれない。 「隊長! どちらへ!?」  空気を引き裂く大声が、カイの思考を遮った。静かにしろ、と怒鳴りつけてやろうと思い、声の主が白鎧であると気付いたカイは、必死に言葉を飲み込んだ。いつか顔を知られてしまうかもしれない事を考えると、彼らの印象に残る行動は取りたくなかった。  大声を出したのは、今までカイが見た白鎧の中で一番年若そうな青年だ。青年が隊長と呼んだ人物は、先ほど門のところで見かけた男だった。名は、確かハリスであったはずだ。  ただ者ではないのだろうと思っていたが、隊長だったのか。納得したカイだったが、すぐに諸悪の根源がその男である事を察し、更なる恨みを込めて睨みつけた。 「ジーク殿の所だ」 「ハリス隊長自らですか? 何か所要がありましたら、命じていただければ我らが」 「君たちには別件で頼みたい事があるのでな。すでにルイレに指示はしてあるが、まだ全員に連絡は行き届いていないか」 「カイ様の件で何か進展が?」  ハリスは力強く肯いた。  自分の名の後に様と言う敬称が着いている事実を気にしながら、カイはさりげなく視線を反らす。 「おそらく、すでに街の中に入っている」  カイは背筋が凍りつく思いをした。  黒門の前で同じ時間を過ごしたのはほんの僅かな時間で、その間、目を合わせる事すらしなかった。当然、自分がカイであると気付かれた覚えはない。何を根拠にカイは戻ったとの予測を立てたのか――そもそも、出現した魔物はどうしたのだろう。退治して戻ったのかもしれないが、あまりに早すぎる。 「更なる警戒態勢を敷き、追ってルイレからの連絡を待て。私はジーク殿の元に帰っていないかを確認に行く」 「了解いたしました」  部下の方は一礼し、隊長の元を離れていった。 「――いや、待て。君には別の事を頼みたい」  ハリスは部下を呼び戻すと、辺りに聞こえないよう声を潜めて指示を出してから再び部下を見送り、自身も涼しい顔をして歩きはじめた。カイたち親子が住む家へと向かう道を。  そ知らぬふりをし、ハリスが通り過ぎるを待っていたカイは、何気なく目の前を通り過ぎようとしたハリスに突然腕を掴まれ、言葉にならない小さな悲鳴を上げた。  反応できないほど素早く、それでいて力強い。振り解こうと抗うが、しっかりと掴まれた腕は動かす事もままならない。 「な、何ですか、突然」  動揺が声に伝わり、激しく上擦った。一瞬「しまった」と思ったが、自分がカイでなかったとしても、この反応は自然なはずだ。むしろ余計に動揺するはずなのだから、今の反応で怪しまれるとは思えない。 「突然のご無礼、申し訳ありません。ですがこうでもしなければ、逃げられてしまうかと思いまして」 「逃げるとか、意味、判らないんですけど」 「お迎えに上がりました、カイ様」  はっきりと名前を呼ばれ、カイの心臓は高く跳ねた。掴む手と掴まれた腕を媒介に、鼓動が早まる様子が伝わってしまうかもしれない。 「迎えに来たとか、カイ様とかも、意味、判らないんですけど」  上擦った声で更に返すと、ハリスは小さく微笑んだ。 「先ほど魔物が出現したとの連絡が入った時、貴方は門の近くにおられましたね。門を早く閉めるため、本来門をくぐる前に行われるはずの手続きをせず、街に入った方々のひとりでしょう」 「それが、この街の、常識ですから。俺が悪いわけじゃないでしょう」 「貴方と商隊の一行はその小さな混乱に紛れて街に入った。街に入った後、商隊の方々は正規の手続きを踏んだようですが、貴方はそれすら逃れている。そして、魔物が出現したと言うのは誤報だった――形跡を残さずに貴方を街に入れるため、わざと誤報を流したのでは?」  カイは喉を鳴らした。  そして油断ならない男だ、と思った。突然の魔物の出現となれば、トラベッタなどの魔物が常時現れるような場所で育った者でもない限り、そうとう慌てるはずだ。あの、カイの前に居た商隊の者たちのように。  その中で冷静に魔物と対峙する事を選び、街の事を考えて部下に指示を出しながら、周りを見る事も怠っていなかったとは。 「おそらく貴方が予想なさっている通り、我々はカイ様のお姿をよくは知らずにこの街に参りました。ですが、まったく存じ上げないわけではないのですよ。御年十六。空色の瞳と、御生母様であられるリリアナ様と同じ茶色の髪。体格は、近年ジーク殿と共に魔物狩りのをされているため、並の少年たちよりも鍛えておられるはず――」  返す言葉が見つからなかった。その特徴を満たすものがこの街にどれだけ居るか把握していないが、たとえ百人居たとして、カイが「自分ではない」との嘘や言い訳を繰り出したとしても、この男の中ではすでにカイがカイである事に揺るぎないだろうと判ったからだった。 「私と共にいらしてください、カイ様」  ハリスは優しい笑みを浮かべ、優しい口調で語りながら、しかし腕を捕らえる手に込めた力を弱めようとはしなかった。  逃れられる気がしない。真実を何も知らないまま、突如降りかかった運命に翻弄されてしまうような恐怖に、カイは震えた。  目を伏せると、凛としたリタの横顔が脳裏を過ぎった。  ああそうだ。どうせ逃れられないのだとしたら、せめて真実を知りたい。自分がなぜそのような運命に巻き込まれなければならないのかを、自分は一体何者なのかを。知った上で、運命を逆に利用してやればいい。  あの少女のように、自分も強くありたい。 「何の抵抗もなく私と共にいらしてくださるのならば、ジーク殿――お父上との面会も望むままです」 「……行けば、いいんですね? この街の誰かに危害を加えたりはしませんね?」 「元よりそのつもりはありません。我らがこの街の民に危害を加える可能性があるとすれば、咎人たるジーク殿への処罰のみ。それすら、私の権限で無かった事にできるのです」  カイはハリスを睨み上げ、一瞬間を開けてから口を開いた。 「判りました、貴方と行きます。その代わり、まず家に帰らせてください。とにかくジークに会わせてほしい。全てはそれからです」  ハリスはカイの視線を優しく受け止め、力強く肯いた。 「もちろんです。私は叶う事ならば、ジーク殿の了承を得たいと思っておりますから」 「行きましょう」と囁くように行うと、ハリスはカイの腕を手放した。どう抵抗されても逃がさないと言う自信があるのか、躊躇わずにカイに背を向け、歩きはじめる。  カイは戸惑いながらも、無言でハリスの背を追った。  父がどのような顔で、言葉で、カイを迎え入れてくれるのか――胸中を支配する不安を、拭いきれないまま。 6  ハリスはジークとカイの家の前に立つと扉を叩いたが、家主の返事も待たずに扉を開けた。これまでハリスを礼儀正しく穏やかそうだと思っていたカイは、驚いて目を丸くする。 「ハリス、お前、礼儀を通すつもりなら最後まで――」  家の中に居たジークは、椅子を蹴り上げん勢いで立ち上がったかと思うと、紡ぎかけた言葉を途中で失った。鋭く静かな眼差しは、ハリスの横に立つカイだけに注がれていた。  ジークをよく知らない他人が見れば、いつものジークと変わらないと思うだろう。だが、ずっと共に生活して来たカイには判る。ジークの内に秘めた困惑や動揺が、静かな瞳に色濃く映し出されていた。 「カイ様がご帰還なされましたので、お連れいたしました」 「……そうか」  ジークは再び椅子に腰を下ろす。  すると急に空気が重く感じられ、カイは立っている事も億劫になった。アシェルで繰り返した魔物との戦いや、トラベッタまでの旅路で重ねた疲労が、一気に押し寄せてきた感覚だ。 「お疲れでしょう。どうぞ、お座りください」  カイの様子に気付いたのか、ハリスがカイに椅子を勧めてくれる。年上のハリスを差し置いて、と一瞬躊躇ったカイだが、遠慮するほどの余裕がなく、カイは会釈をしてから椅子に座った。 「カイ様、喉は乾いておりませんか? お水でもいかがです?」 「はい?」 「ハリス。お前、人の家を勝手に弄くるな。歩き回るな」 「ですが、隊長やカイ様のお手を煩わせるわけにもいかないでしょう」  ハリスは迷う事なく食器棚から杯を取りだし、水を汲み、カイの前に出してくれた。  カイは父とハリスの間で視線を往復させるしかなかった。カイが知る限りでは、ハリスは父を軟禁状態に追いやった張本人のはずなのだが、ふたりの会話は険悪とは言い難い。むしろ、気を許している風に見える。 「俺は、何から聞けばいい?」  水を飲み、喉を潤すと、カイの脳を巣食う疑問の中から一番強いものが口をついた。口にしたところであまり意味のない疑問だが、それしか出てこなかった。 「何でも説明いたします。疑問がございましたら何でも訊いてください」  カイはしばし考え込んでから再び口を開いた。 「えっと、じゃあ、ふたりは以前から知り合いですか? とか……あと、俺は何者ですか? 何で俺は貴方に様付で呼ばれるんですか? なんで王都からお迎えが来るんですか? そうだ、そもそも、貴方たちはどこの誰ですか? 俺に何をさせたいんですか? ジークが咎人ってどう言う意味ですか? ……とりあえず、その辺りでしょうか」  ハリスは優しい笑みを浮かべながら応えた。 「とりあえずと言う割に、質問の数が多い気がいたしますが、全てご説明する必要がある事でしょう。話が長くなるかもしれませんが、お許しください」  ハリスは懐かしい思い出を蘇らせるように眼差しを細め、ジークを見下ろした。  ジークはけしてハリスに視線を返そうとせず、俯き気味のまま目を伏せた。眉間に刻まれた皺が、ジークの内なる葛藤を表現しているようにも見える。 「たいへん失礼いたしました。どうやら私はまだ自己紹介もしていないようです。私はハリス・リーベル。王都セルナーンの大神殿の聖騎士団に所属し、神の娘シェリア様の護衛隊長を勤めております。エ……ジーク殿もかつては聖騎士団に所属されておりましたので、当時一年強と言う短い時間ではありますが、部下として勤めさせていただきました」  聖騎士団の事など、カイはほとんど知らない。だが、エイドルードに係る組織であろう事くらいは判る。  エイドルードに敬意を払う父を一度も見た事が無いカイにとって、父が聖騎士団に所属していたと言う事実は、到底信じられる事ではなかった。  カイはジークに振り返る。  ジークは同じ体勢、同じ表情のまま、微塵も動いていなかった。どうやら、ハリスの言葉に嘘はないらしい。 「カイ様の御生母、リリアナ様の事はご存知ですか?」 「詳しい事は何も。俺を産んだ時に死んだ、としか」 「リリアナ様は地上の女神です。砂漠の女神と、当時は呼ばれておりました。地上の女神の事はご存知で?」  女神と言う響きに気圧されたカイは、数瞬間を開けてから首を振った。 「元は我々と同じ地上の民であられたのですが、天上の神エイドルードに選ばれた尊き女性です。王都セルナーンの大神殿で大司教様が、砂漠と森にある女神の神殿で地上の女神様が祈りを捧げる事で、地中深くに封印された魔獣の復活が阻止されているのです」  カイは再びジークを凝視したが、やはりジークは微動だにせず、ハリスの話に耳を傾けていた。  聖騎士であった父。砂漠の女神であった母。その子である自分―― 「ジークが咎人であると言うのは、母と結ばれたからですか」  ハリスは即座に否定した。 「いいえ。それこそが、エイドルードの御意志でした。エイドルードは、地上の女神を神殿から連れだして欲しいがために、リリアナ様を女神に選定なされたのです。ですから厳密に言えば、エイドルードが選ばれたのはリリアナ様ではなく、婚約者であるジーク殿だった、と言えるでしょう」 「なぜ、そんな事を?」 「エイドルードがカイ様の誕生を心待ちにされていたからですよ」 「なぜ?」 「貴方が天上の神の御子であらせられるからです」  慈愛溢れる微笑みは、カイの全てを包み込むかのように温かく優しくありながら、カイにとっては恐怖の対象としてしか映らなかった。  何を意味の判らない事を、と笑い飛ばそうにも、ハリスの眼差しは痛いほどに真剣で、ならば父に否定してもらおうと考えたが、首が思う通りに動いてくれない。心のどこかでカイは父に確かめる事を恐ろしく思っており、体は本心に従っているのだ。  嘘だ、と、言えれば楽になるのかもしれない。だが、声が出てこなかった。 「その証拠がどこにある」  膠着した空気に割って入ったジークの声は、普段発するものよりもなお低い。しかしハリスは動じる事なく、笑顔で答えた。 「エイドルードが認められた。それで充分です」 「馬鹿な」 「貴方の目にはそう映るのでしょう。エイドルードに仕える者たちの目に、貴方の行動が愚かに映るように」 「待って、ください」  カイは縋るような眼差しでハリスを見上げる。  嘘だと、信じたい。自分が神の子であるなどと、ありえない。自分には特別な力など何もないのだから。それに何より―― 「それが本当なら、ジークは」 「貴方の実父ではありません」  ジークは拳を強く壁に打ちつけた。 「ハリス! 貴様……!」 「認めてください。カイ様が真実を知らずに育った事は、貴方の罪です。貴方はカイ様の事を想って動かれたのかもしれない。しかし、貴方の行動が結局はカイ様を追い詰めたのです。それとも、永遠に真実から逃れられると思っていたのですか?」  ハリスは威厳を持って他者に口を挟ませず、最後まで言い切ると、深く息を吐いた。苦悩を眉間に刻み、懺悔の光を瞳に浮かべて一瞬ジークを見下ろしてから、カイに向き直る。 「ジーク殿は大神殿側の再三の引き渡し要求に逆らい、カイ様を連れて逃亡しました。追っ手と戦い、エイドルードの監視の届かない結界の外まで――故に、おふたりを探すために、神殿側は十五年もの時間を浪費しました。ですがまだ間に合います。いえ、ちょうど良いとも言える」 「……もし、俺が、本当にエイドルードの子だったとして」 「認めるな、カイ」 「貴方たちは俺に何をさせようと言うんですか」  ハリスはカイの前に跪き、深々と礼をすると、真摯な眼差しでカイを見上げた。優しくもあり、厳しくもあり、悲痛な想いを伝えてくるものであったが、迷いだけはどこにもなかった。 「お救いいただきたいのです」 「何を?」  淀みなく力強い声が、はっきりと言い切った。 「この、滅び行く大陸を」 7 「何を、馬鹿な」  カイは笑いながらハリスの言を否定した。  はじめは失笑を浮かべるのみだったが、徐々に耐えられないほどおかしくなり、腹を抱えながら声を出して笑う。  唐突に現れて、信じがたい真実とやらをいくつも並べられて、挙句口にした台詞が「大陸を救ってくれ」とは。もはや冗談としか思えなく、笑う以外にどうすれば良いのか、カイには判らなくなっていた。  カイひとりだけでは、トラベッタもアシェルも救えなかった。もし本当にカイが神の子であったとしても、その程度の力しか持っていない人間に求めるものとして、「大陸の救済」はあまりに大げさすぎる。 「俺が誰の子供かはこの際置いておきましょう。でも、滅び行く大陸って何です? 滅びの前兆なんて、俺は感じた事もありません。いつ、どうやって、滅ぶと言うんですか。仮に滅ぶとして、俺に何ができると言うんですか。俺は唯の人です。特別な力など何もない」 「いいえ。ございます。エイドルードが貴方にのみ授けた役割が――」 「ジークさん! 大変だ!」  鋭く扉が叩かれ、三人はほぼ同時に扉に振り返った。一番扉に近い位置に居たハリスが開けると、男は白鎧が現れた事に一度驚いてから、家の中のジークとカイを見つける。 「魔物が出た! しかも、街の中に! 広場の方だ!」 「門は閉めなかったのか? 見張りは何をしていた」 「物見のやつらが見つけて、すぐに門は閉じたんだ。けど、今日の魔物は空を飛びやがって、壁を越えてきた! 兵士や白鎧の連中が戦ってくれていて、まだ死んだやつは居ないんだが――とにかく、早く来てくれ!」  ジークは素早く剣を取り、扉の前に立つハリスを押しのけ、家を出た。ハリスは何か言いたげに口を開いたが、引き止めはせずジークに付き従うように後を追う。  カイも続いて家を飛び出したが、広場に向けて走っていくふたりの背中を見送るだけで、走りだす気にはなれなかった。ハリスの話によって立て続けに衝撃を受け、精神的に疲れている事、確実にカイよりも腕が上の男たちが向かったならば大丈夫だと安心している事も理由の一端だが、嫌な胸騒ぎがした事が一番の理由だった。  空を見上げた。男の言う通り、コウモリの羽根に似たものを大きく広げた黒い生き物が広場の方向で旋回している。それ以外にもう一匹、まさに今壁を越えた魔物が、近くを通る大通りに向けて飛び込んでいく様子が見えた。  行かなければならない。父が無理ならば、自分が。 「カイ様! どちらへ!」  カイたちの家を監視していた聖騎士たちが、ジークたちとは逆方向に走りだすカイを引き止めようとする。 「うるさい! 俺に逃げられて困るなら、着いて来い!」  一喝し、カイは全力で走った。切るように通り過ぎていく風が、トラベッタの民の悲鳴を伝えてきて、無意識に唇を噛み締めていた。  大陸を救ってほしいと言われても、よく判らない。そんな力があるとは、到底思えない。  だが、これまでカイを守ってくれていたトラベッタを、そこに住む優しい人たちを、救いたい。己の力を全て振り絞り、トラベッタを守りたい。  今のカイの中で唯一揺るぎない真実がカイを走らせた。逃げ惑う人々を掻き分け、道をつくり、大きな羽根を持つ異形と対峙する。  近くで見るといっそう大きい魔物は、対面するカイに畏怖の念を押し付けてきた。怯む自身を断ち切るように剣を引き抜くと、カイは魔物に向けて剣を振り下ろした。  逃げ惑う女性を追っていた魔物は、カイに対する反応が僅かに遅れる。咄嗟に飛び上がって避けようとしたが、浮き上がった体にカイの剣が掠る。引っかいたような傷跡が魔物の足に残り、その傷口からじわりと青い血が滲み出た。  魔物は唸り、カイを睨んだが、がむしゃらに突進してくる事は無かった。剣が届かない高さまで浮き上がったまま、牽制している。  相手が動かなければ、カイも動けなかった。いつ降りてきてもいいように剣を構え、いつでも地面を蹴られるように踏みしめながら、魔物を警戒する事しかできない。 「カイ様、ご助力いたします」  言われた通り着いてきたらしい聖騎士たちが、剣を構えてカイの隣に並んだ。 「それもありがたいけど、沢山居てもどうしようもないから、住民の避難とか、そっちやってくれるとより助かる。とくにさっきまで魔物に襲われてた女の人、多分怪我してるから」 「お任せください」  カイの周囲から人の気配がいくつか消えた。同時に、魔物が動きはじめた。鋭い牙が並んだ大きな口を開け、逃げ惑う民に突進しようと急降下する。  即座に反応したおかげで、カイは魔物の降下位置に先回りする事ができた。開かれた口を割くように剣を振るうと、魔物の悲鳴と思わしき奇声が響き渡り、鼓膜を刺激した。  魔物はそのまま剣を飲み込む勢いで、カイの腕に噛み付いてきた。素早く後退したカイだったが、完全に逃れる事はできず、牙が数本腕に食い込んでくる。  カイは歯を食い縛った。あまりの激痛に、反射的に悲鳴を上げそうになったが、必死に堪える。魔物狩りであるカイが大打撃を食らったと思われては、民が不安がる。それは避けたかった。 「カイ様!」  聖騎士たちが切りかかると、魔物は空へと逃げていく。カイは血が溢れ出る右腕を押さえながら、彼らに小さく礼をした。彼らが居なければ、カイは腕を丸ごと持っていかれていたかもしれなかった。 「空を飛ぶ魔物ってのは初めてだからな……俺は投げられる武器って短剣一本くらいしか持ってないんだが、誰か弓とか持ってない……よな」 「残念ながら今集まっている者たちは、剣と、カイ様と同様に短剣を持っている者が居るのみです。ですが集合の指示と共に空中の敵に使える武器を持ってくるよう指示しておりますので、今しばらく時間を稼げれば仲間たちが……」 「とりあえず時間稼ぎをしようって事か」  カイは目を細めて空に浮かぶ魔物を睨む。  左手で強く抑える傷口から溢れる血は、すぐに止まる様子はなかった。今はまだ大丈夫だが、このまましばらく放置していては、出血の多さと激痛とで意識が遠ざかりそうだ。  魔物が負った傷もけして浅くない。向こうも早く片付けたいと思い、突撃して来てくれるとありがたいのだが。 「カイ様、腕の傷は大丈夫ですか」 「傍から見るとやばそうか?」 「少なくとも、軽いものには見えません。あの魔物は私たちが何とか抑えますから、せめて応急処置をされた方がよろしいのでは?」 「……まだなんとか、剣は振るえそうなんだが」  魔物と戦う事に慣れていなさそうな彼らに任せる事は正直不安だったが、彼らの言葉を否定できない程度に傷は深かった。カイは短い時間逡巡したが、悩んでいても仕方がないと無理矢理結論付け、口を開く。  突然、空気がざわついた。  魔物を警戒していた聖騎士たちが、一様に振り返る。戦いの最中に何を馬鹿な事を、と叱咤しかけたカイは、戦闘の場に不似合いとしか思えない可憐な声が耳に届くと声を失った。  カイが知らない響きの言葉を発する声は美しかった。だがけして耳に心地良くはない。冷たく、寂しく、胸が痛くなる声。  カイは迷わず魔物から目を反らし、振り返った。魔物の絶命を確かめるその前に目を背けるなど、魔物狩りの常識としては有り得ない事だったが、大丈夫だとの予感があった。  見るからに上等な布地をたっぷり使われ、細かな刺繍が縫い取られている白い服を着た、綺麗な、美しすぎるあまりに綺麗としか言いようのない少女が、眩しいほどに白い腕を天へと伸ばして立っていた。声と同様に可憐な容姿でありながら、魔物に動じる様子はなく、凍りついた表情を魔物に向けている。  澄み切った青空から落ちる、一筋の雷。  雷は真っ直ぐに魔物へと落ち、辺りを轟かせる。背後で起こっていると言うのに、突如世界が輝いたかのように眩しく、カイは目を閉じ両腕で顔を庇う。  力を失った魔物の巨体が地上に落ちる音と共にカイは目を開け、再び少女を視界に納めた。 「貴方が、カイ様ですか?」  冷たい声も、表情も、先ほどと何ひとつ変わらなかった。せっかく綺麗な少女であるのに、温かみがないせいか人間離れしていて魅力がない――そこまで考えて、カイは悟った。人としての魅力を感じないからこそ、少女は恐ろしいほど美しいのだろうと。 「そうだけど。今の雷は、君が?」  少女は小さく肯いた。 「はい。わたくしが与えられた力の内のひとつです。エイドルードに逆らう存在を罰する力」 「……凄いね」 「当然の力です。わたくしは、神の娘なのですから」  少女はカイに歩みより、白い両手をカイの右腕に翳した。肉が抉られ、血が溢れる傷口は、普通の娘ならば目を反らしたくなるものであるはずなのだが、やはり少女は怯む事は無かった。  淡く白い光が少女の両手から生まれ、光は傷を包み込む。じわじわと暖かな光は心地良く、痛みを忘れさせる力を持っていた。  いや、違う。傷の痛みを忘れさせる力ではない。これは、傷を治す力だ。  光が消えると、カイの腕から傷が消え失せていた。魔物に噛まれた事が悪い夢だったのかと思ったが、腕にはべっとりと血の跡が残っている。 「君は……」 「わたくしはシェリアと申します」  少女は服の裾を掴み、優雅に礼をすると、顔を上げ、空ろな瞳でカイを見つめた。 「参りましょう、カイ様」 「参りましょうって、一体どこに」 「王都セルナーン。エイドルードの大神殿にです。そしてわたくしたちに与えられた使命を果たしましょう」 「俺たちの使命……?」 「ご存知無いのですか?」  カイは正直に肯いた。 「大陸を救ってほしいとか言われたが、それに関係があるのか?」  そう言えば、ハリスはカイが並べた疑問に次々と応えてくれたが、具体的にどうやって大陸を救うのかについては、まだ説明がなされていなかった。確か、魔物が現れた事を報告に来た男によって、ハリスの言が遮られたのだ。  シェリアは小さく肯く。やはり表情を変える事なく、平然と続けた。 「カイ様とわたくしとのみが為せる使命です。真なる神の力を受け継ぐ、新たなる神の御子を生す事は」 「……は?」  咄嗟に飛び出した短い言葉は、相手を問い質す意味の篭ったものだったが、少女は全てを語ったつもりになっているのか、追って説明をしてはくれなかった。  今日は信じがたい事、訳の判らない話が多すぎてすでに混乱気味だったカイだが、中でもとりわけ強烈な娘を目の前に、途方に暮れるしかなかった。 8  太陽を覆い隠す暗雲のように広げられた黒い翼に畏怖の念を抱き、崩れ落ちる力無き者たちがいる。  その中で彼――ジークは、僅かたりとも怯む事は無かった。愛用と思わしき長剣を左手に持ち替え、短剣を引き抜くと、魔物の翼に向けて投げる。  短いが鋭い刃が右翼に埋まると、魔物は奇声を上げ、体勢を崩した。右翼が上手く扱えないのだろう、空中に浮かべていた身を徐々に沈ませていく。  ハリスが走りだしたのはその瞬間だった。申し訳ないと思いながらも、近くの出店を踏み台にし、高く飛び上がる。  沈みはじめた魔物の左翼に、ハリスが振り上げた刃が届いた。剣を振り下ろす力に、ハリス自身の体が地面へ引かれる力とが合わさって、魔物の翼は乱暴に引き裂かれていく。短剣に貫かれた時と比にならない魔物の咆哮に、ハリスは顔を顰めた。  ハリスの着地から僅かに遅れて、魔物の身が地面に落ちる。そこには長剣を両手に構え直して待ち構えていたジークが居た。  ジークの剣に貫かれ、魔物は絶命する。あまりに呆気ない最後に、ハリスはやや魔物に同情しながら、ジークに振り返った。 「お見事です。さすが、手馴れてますね」 「空を飛ぶ魔物は初めてだがな。お前が動いてくれたおかげで思ったよりも早く片が付いた。一応礼を言っておこう」 「お役にたてたのならば幸いです」  ハリスは剣に付着した血を拭い、鞘に戻した。  気付けば、すでに辺り一体から住民は全て避難している。魔物に襲われた恐怖に怯えて動けない者もいくらか見られたが、一般人を手際よく誘導しようとしている衛視たちや、衛視に従って速やかに避難する住民たちの、慣れた対応の賜物だった。  魔物の出現が当たり前と言うこの街の日常を知る事で、この街にとってジークやカイがどれだけ大切な存在かを思い知らされた気がして、ハリスは空を見上げる。軋んだ胸が自身を迷わせないように、青空にエイドルードを想った。  自分たちは間違っていない。結果的に、この街をも救う事にもなる。一時は恨まれる事になるかもしれないが、いつか必ず判ってくれるだろう。 「エア隊長」  呼び止めると、ジークは躊躇う様子を見せてから振り返った。 「いいかげんにその呼び方は止めろ。俺はエアでも、隊長でもない」 「すみません。やはりこれが一番呼びやすいので、つい。それより、カイ様がいらっしゃらないうちに、お聞きしておきたい事があります」  ジークは魔物に向けていたものよりも更に厳しい視線をハリスに向けた。 「私はまだ全てをお話しておりません。カイ様に何をしていただく事になるのか、カイ様がエイドルードの御意志に従ってくださらなければ、トラベッタを含むこの大陸がどうなるのか。知れば大抵の方は、エイドルードの御意志に従う事を選ぶでしょう。恐怖や罪悪感によってか、喜びによってかは、人それぞれでしょうが……おそらくは、カイ様も」 「迎えに従い、砂漠の女神となる事を選んだリリアナのように、か」  ジークの呟きに、ハリスは苦笑いを浮かべるしかなかった。  目の前の男の事全てを知っているなどと、驕るつもりはない。だが、いくらかは知っている。婚約者を奪われ、神を呪いながら這い上がり、望みを叶えるために全てを捨てて行った男である事。彼にとって家族と言うものが何よりも強い原動力であろう事を。  ようやく取り返した愛する人を一年足らずで失ったジークが、カイに愛情を注ぐ事で生きてきたのだとすれば――ハリスがしようとしている事は、彼に再び同じ痛みを強いる事だ。  おそらく今回も、全力をもって抗うのだろう。妥協などと言う言葉を、彼が使うわけもないのだから。 「愚かな問いを口にするところでした。貴方が、私の問いに是と答えるわけがないと言うのに」  ハリスは再度剣を抜き、ゆっくりとした動作で切っ先をジークに向ける。 「時間や会話を重ねる事で、どうにかできないものかと思っていました。ですが、どうにかできるわけもなかった。歳を重ね、名を変え、見た目の雰囲気が違っていても、貴方は貴方のままだったのだから」 「ようやく決めたか。力尽くで片を付けると」 「はい。何があろうとも、私はカイ様を大神殿へお連れしなければならないのです。エイドルードに逆らう事が貴方の絶対ならば、エイドルードに従う事が私の絶対なのですから」  甘えだと言われればそれまでだが、本当は戦いたくなどない。共に生きる道があるならばと、ずっと望んでいた。おそらくは、二十年近くも前から。  だが、相容れるはずもなかったのだ。エイドルードの意志を知り、涙し、何をおいても神に従う事を決めた日から。 「判った。今、けりをつけよう」  ジークが剣を抜き、切っ先を向けてくるのを確認してから、ハリスは静かな笑みを浮かべた。  若かりし日に離れた道は、長い時を経て奇跡的に交錯する事となったが、今度こそ永久の別れとなるだろう。どちらかが死ねば当然、相手の命を救ったとしても、二度と顔を合わせる日は来るまい。  それでいいのだ。そうしなければならないのだ。誰よりも、何よりも、人を、この大地の事を想う存在のために。  互いの剣の切っ先が触れ合い、小さく金属音が響き渡る。武術大会での形式に従って、勝負ははじまった。  懐かしさに、ハリスは胸を躍らせた。年齢制限で出場できなくなってから随分経っている事もあるが、自分がはじめてジーク――エア・リーンを認識したのは、武術大会であったからだ。  同い年で、後輩である彼が、次々と相手を倒していく姿に、憧れていたのだろう。部下となり彼の剣技を学べると判った時は、心から嬉しかった。しかし追いつく事はけしてなく、永遠の目標となった彼と、今こうして対峙している。  不思議な感覚だった。あの時彼を見なければ、彼の部下になる事がなければ、自分は今ごろどうしていたのだろう。  おそらくは聖騎士団員のひとりとして、何かしらの任務に就いていたのだろう。あらゆる可能性があったのだろう。しかし、今よりも充実した状況であるとは、到底思えなかった。  ハリスの速い剣戟を、ジークが身を翻して避ける。何度目かの攻撃を、後ろに飛ぶ事で避けたジークが僅かに身を捩らせた隙を見逃さず、たたみかけるように剣を振り下ろすと、ジークは振り上げた剣で応戦した。  二本の剣は膠着する力を証明するかのようにぎりぎりと音を立て、神聖な空間を支配する。  本当に変わらないのだな、この人は。ハリスは胸を熱くして、僅かに目を細めた。  エア・リーンと言う存在に、苦悩に追いやられた事があった。自分の力不足に嘆いた事もあった。何よりもただ悲しいと、思い続けた日々も、遠い昔に。  だが今も昔も、この男を前に抱く想いは、憎しみでも、恨みでも、嫌悪でもなかった。それはとても悔しい事であったが、同時に幸福でもあるのだろう。  互いが、同時に、剣を横に滑らせる。ジークはそれと同時に肘で当て身を食らわせてきた。  咄嗟に距離をおいたハリスだが、完全に避ける事はできなかった。軽く吹き飛ばされ、近くの出店に背中を強打し、何度か咳き込む。呼吸を整える前に鋼の刃が目前に迫ると、身を転がしてそれを避けた。  立ち上がったハリスを睨み、ジークは若干口元を歪めた。 「本気で来い」  ハリスに向き直り、剣を構えなおしながら、ジークは言う。 「本気で来なければ、俺は止まらない。判っているだろう」 「親切ですね。それとも、止めて欲しいのですか?」 「止めて欲しければ手を抜く」 「……そうですよね」  地面を蹴り、距離を詰めながら、ハリスは剣で薙ぐ。ジークは剣を受け流そうとしていたが、一瞬遅く、脇腹を削るように刃が滑った。  血飛沫が舞う。しかし、ジークは怯まない。頭上から一撃が迫り、避けきれないと咄嗟に判断したハリスは、剣で受け止める。  腕が震えた。体格の違いか、それとも鍛え方の違いなのか、自分ではけして不可能な一撃の重さ。ハリスは何とか受け流して、再び数歩の間を置いた。剣を構え直す腕は、まだ少し震えていた。 「この戦いも、エイドルードの定めた運命のひとつなのかもしれません」  自身に言い聞かせるように、ハリスは呟く。 「だとすれば、俺はよほどエイドルードに嫌われているらしいな」 「いいえ。信頼されているのですよ。貴方ならば願いに、望みに、必ず応えてくれるのだろうと」 「嬉しくないな」 「そうですか? 私はようやく選ばれたのかと、誇らしい気分です」  たとえ心が裂けるほどに残酷な運命だったとしても。  天上の神の願いを成就するために、この戦いが必要不可欠なものなのだとすれば、生涯をエイドルードに従事すると誓った身として、怯んではならない。  ハリスは深く息を吸い、そして吐き出す。見れば、真正面に立つジークも同じように深呼吸をしていた。  次の一撃がふたりの命運を分けるのだろう。その予感に、ハリスの心は湧き立つ。  ジークが子を思う心が勝つのか。それともハリスの信仰が勝つか。  どうなるかは判らない。だが、ハリスは祈らなかった。祈ったところで意味がない事を知っていたからだ。  互いに地面を蹴る。どちらかの剣が、どちらかの体を抉るだろう――瞬きもせず、細めた目で二本の剣の行く末を見守っていたハリスは、一方の剣が大きく弧を描いた事に驚き目を見開く。  力の方向を変えた剣は、空高くに向けて掲げられ、太陽の光を反射して眩しく輝いた。 9  ハリスは呆然と足元を見下ろしていた。  鮮烈な赤、人の身からこぼれ出たばかりの血の色が、おぞましい青色の液体と混じりあい、だがけして溶け合って新たな色を作る事なく、目の前に広がっている。  それは引き摺られるように先へ伸びていて、ハリスはおそるおそる首を動かし、二色の行く先を目で追った。目の奥には、剣が太陽光を反射した眩しさに焼きついたばかりの光の残像がちらついていて、ハリスの視界を不自由にしていたが、ハリスは追う事をやめなかった。  やがて辿り着く。見なければならないもの。だが、けして見たくなかったもの。 「やめて、くださいよ」  呟いた。若かりし日の自分が、若かりし日の彼に語りかけるように。  口元に皮肉混じりの笑みを浮かべたが、目は思う通りに笑ってくれない。もう一度、何か言葉を紡ごうと口を開くが、何の言葉も産みだせない。  ハリスは剣を投げ捨て、赤と青を辿る。靴の裏に纏わり付いた二色が、地面に足跡を刻んでいくが、気にもならなかった。  辿り着いた先には、剣を体に深々と埋め込んで力無く倒れる魔物が倒れており、それを押しのけようと、ハリスは腕に力を込める。だがその体は重く、ハリスの両腕では動かなかった。殴り飛ばしても、蹴り飛ばしても、巨体を揺らすがせいぜい、その場から転がる事すらしてくれない。 「隊長……エア隊長!!」  体中が生温かい青に染まっていき、人間の血液とは違う異臭に噎せ返りそうになるが、ハリスは叫ぶ事も、体を動かす事も、止める事はなかった。  止められるわけがない。魔物の遺骸の下には、人の体が横たわっているのだ。魔物の牙に食い千切られて右肩から先を失い、突進してくる勢いを殺しきれず体を地面に叩きつけられ、別方向から切りつけて来る剣を避けきれず背中に傷を負い、血を流し続ける男が居るのだ。 「隊長っ! 何で、こんなっ……!」  青い液体に手を滑らせ、体勢が崩れる。同時に、足元に広がる液体に足を取られたハリスは、その場に膝を打ち付けた。  瞬間、目が合った。ハリス自身の乾いた瞳と、優しく細められた瞳が。  人の精神では耐え難い激痛をその身に負っているだろうに、なぜ、そうも穏やかなのか。もうすでに、痛みなど感じていないのだろうか。 「ハリス」  先ほどまで剣を合わせていた相手が発したものとは思えないほど穏やかな声に名を呼ばれ、ハリスは手を伸ばす。自身に向けて伸ばされた、赤と青の液体に汚れた、震える左手に。  硬く、小さな傷がいくつも刻まれた手だった。望む生を生きるため、追っ手から逃げるために、人と、あるいは魔物と、戦い続けた履歴が刻まれていた。息子への愛情のひとつの形がそこにあり、ハリスはその手を強く握り締める。 「今更、俺は、選べなかった。お前の……エイドルードの言葉に、従う事など」  力の無い声は、懺悔のようにも聞こえた。 「判ってます。エア隊長は、そう言う人だった。ずっと、ずっと」 「だが……お前が、選んだんだ。きっと、正しいんだろう」 「……違……俺は、隊長、何も」  目の前の男と戦う事に、感傷に浸る事に精一杯で、周囲に目を向けられなかった。魔物が近くに迫っている事にも気付かず、剣を振り下ろす事しか考えられなかった。  挙句、剣を交えるはずだった男に助けられ、助け返す事もできない、無力で、愚かな人間。それが自分だ。  正しくなどない。正しいわけがない。  ハリスの心は叫び続けたが、言葉は喉に詰まって音にならなかった。 「誰にも許されなくてもいいと、思っていた」  掠れたジークの声が、ハリスの中で滞っていたものを開放した。 「たい、ちょう」  横たわるジークの上に、次々と雫が落ちていく。彼の体に纏わりつく赤と青が、少しずつ洗い流されていく様が、徐々に歪んでいった。 「だが、本当は、ずっと……許されたかったのかも、しれない。リリアナと、カイと……できる事なら、お前に、は」  どんな障害があろうとも、どんな苦悩にまみれようとも、自分が決めた道を進む事を諦めなかった男が、静かな瞳に空を映しながら言う。  もうその瞳には何も見えていないのかもしれなかった。ハリスが知る限り、この男が何の感情も浮かべずに空を見上げた事など、ただ一度としてなかったのだから。 「何ですか。これは贖罪のつもりなんですか。だとしたら、貴方は大馬鹿です。俺は、いつだって、貴方の事を許していたのに」  一度は夢見た事がある。彼が大人しく大神殿にカイを任せてくれていればと。聖騎士に戻り、カイの護衛隊長としての任についてくれていれば、と。そうすれば、今よりもましな結果になっていたかもしれず、何より若かりし日にハリスが抱いていた小さな夢が実現したかもしれないのだ。   だが彼は、そうはしなかった。ハリスと道を違えるどころか、ハリス自身が進まねばならない道の障害になった。  それでも恨んだ事はない。ただ、嬉しかったのだ。自分とはけして相容れない存在であり続けてくれたこの男が。 「そう、か……」  ジークの震える口元に笑みが浮かぶ。  その唇は二度と音を発しなかった。歪む視界でははっきりと判らなかったが、最後に「リリアナ」と、「カイ」と、かたどっていた気がした。  両手で包み込んだ手から力が失われていく。  ハリスは固く目を伏せた。頬を伝う熱を自覚し、ジークに降り注ぎ続けていた雫が自分の涙であった事を知った。 「ずるいですよ、隊長」  もう応えてくれる事は無いのだと知りながら、ハリスは語りかける。 「結局、一度も俺に勝たせてくれなかったんですね」  口ではそう言いながら、ハリスは自分の想いが満たされている事に気付いていた。  そうだ。それでいいのだ。彼が、自分に負けていいはずなど、なかったのだから。 10  家に戻っても父やハリスの姿が無い事に、カイはいぶかしんだ。  同じ魔物を相手にしたのならば、魔物を始末するのにかかる時間は、より強いジークたちの方が短いはずである。だと言うのに、父たちの方が帰宅が遅い――魔物の数が多かったのか、それとも広場に出た魔物の方がより強敵だったのか、どちらにせよ良い予感はせず、カイは広場に向かった。  その間、シェリアと名乗る少女は、やはり表情ひとつ変えずにカイに着いてきた。綺麗だがどこか薄気味悪い上、突拍子の無い発言をする少女の対応に困るカイとしては、どこかに置いて行きたかったのだが、悪びれもせずに「どこに行かれるのです」「共に参りましょう」などと言われると、奇妙な罪悪感が湧き上がり、逃げ足が止まってしまうのだ。  故に、家に戻るまでは彼女のゆったりとした歩調に合わせてきたのだが、胸騒ぎが急かしてくる今はそうも言っていられない。 「その……シェリア?」 「はい」 「俺、急ぎたいから走りたいんだけど、いいかな。広場の方、行ってるから」 「どうぞ」  シェリアの許可を得るとほっとして、カイは駆けだした。安堵は、父たちの元に駆けつけられる事によるものか、ようやくひとりになれた事によるものか判断は難しかったが、そのどちらもだろうと勝手に結論付けた。  走り続け、魔物に怯える人々や広場から避難して来たらしい人々とすれ違い、ようやく広場に到着する。  静かだった。  広場を行き交う者たちや商売をしていた者たちの避難は最優先で行われたであろうし、衛視たちもその対応で街中を駆けずり回っているはずだ。だから多くの人の声が聞こえてこないのは当然なのだが、ジークたちが魔物と戦う喧騒が響いているはずである。  それなのに音がしないと言う事は、すでに魔物を倒した後なのだろうか。だとしても、広場にはジークたちが残っているはずなのだが、ジークたちの姿はどこにも見えない。  すでに家に戻ったのだろうか――最短の道を通って広場に来たカイとすれ違わなかったと言う事は、何らかの理由で迂回して家に帰ったのだろうか?  戸惑いながら、カイは広場に足を踏み入れた。数歩駆けたところで、一面に広がる赤と青の血だまりが視界に飛び込んでくると、足を止めて息を飲んだ。  血だまりから続く跡を目で追うと、魔物の遺骸と、小さな背中が見えた。いや、本当は小さくないのだろう。地面に膝を着き、俯き、背中を丸めているせいで、小さく見えるのだ。 「ハリス……さん?」  カイは背中に声をかけた。  声が届いているのだろう。背中がぴくりと動いた。しかし、ハリスは振り返らない。 「ハリスさん!」  もう一度呼んだ。やはりハリスは振り返らなかった。  苛立ちに似た感情に後押しされ、カイはハリスに駆け寄る。なぜ何も言わないのかと、責め立てようとハリスの肩を掴むと同時に、それは目に入った。  ハリスの両手が優しく包み込むように掴む、力の無い手。トラベッタの街を守り続けた力強い右腕を失い、横たわる体。  両膝を着いたハリスは、頬に涙の跡を残しながらも、乾いた目で見下ろし続けている。彼のかつての上司――カイの父の、伏せられたままの目を。 「ジーク?」  カイは父の名を呼んだ。  足から急激に力が失われ、ハリスと並んで膝を着いたカイは、恐る恐る父に手を伸ばした。口元に手を翳しても、空気の動きが感じられない。そのまま首筋に手を添えても、脈動を感じる事はできない。 「あ……」  とても信じられる事ではなく、カイはジークの胸の上に手を動かす。力強く跳ねているはずのそこは、微動だにしていなかった。  目の前に横たわる男が二度と動かない事をようやく頭で理解したが、心では受け入れられなかった。カイは目を見開き、二度と動く事のないジークの瞼が再び開かれる時を待ち続けたが、緩やかな風に揺れる髪を除いては、やはり動いてくれなかった。  ジークを見つめ続ける事に耐え切れず、カイは固く目を伏せる。 「そうだ、シェリアだ。シェリアの力なら、もしかして」  静かだが強い動揺の中、ようやく捻り出した名案は、即座にハリスによって否定された。 「残念ながら、シェリア様のお力は、生者にのみ働くものです」  では。  では、父は、ジークは。  常に素っ気ない態度を取る人であったけれど、カイを厳しくも優しく育ててきてくれた人は。 「ジーク……っ」  カイは父の名を呼んだ。声は喉と空気を引き裂く勢いで響き渡ると、再び沈黙の深淵を呼び込んだ。  叫びすぎて喉が痛い。静かすぎて耳が痛い。そして心が。  叫ぶと同時に硬直していた体が崩れ落ちた。ジークの胸に額が触れる。固まりかけた二種類の血がこびりつくが、不快感を覚えるだけの感覚がカイには残っていなかった。  子供のように父に縋りつきながら、これが真実の悲しみであると知ったカイは、しかし涙が出てこない事実に困惑した。  こんなにも苦しい喪失に涙が出ないと言うのなら、人はなぜ悲しみの涙を流すのだろう。そんなものに意味はないではないか―― 「どうなされたのです」  少女の声は静かであったが、沈黙を破るだけの力を充分に有していた。  隣に膝を着いていたハリスが慌てて動く気配がする。 「シェリア様、今日のところは」 「ハリス、貴方は、泣いていたのですか?」  ハリスは涙の跡をごまそうと頬を拭った。 「お気付きになられましたか。みっともない所をお見せして申し訳ありません」 「なぜ、泣いたのです?」 「……この方の死を、悲しいと思ったからです」  戸惑いながら紡がれた言葉に、少女は美しい顔に何の表情も浮かべず、冷たい言葉で返した。 「何を悲しむ事があるのでしょう。貴方は使命を果たすための障害が排除された事に、喜ぶべきではありませんか?」  何かに耐えるように貫かれた無言。しばし間を開けてから、ハリスは小さく肯き、答えた。 「申し訳ありません。私は、時に理屈に合わない感情を見せる、おかしな人間なのです」  ゆっくりとカイは身を起こした。  興味があった。ハリスが、シェリアが、どんな顔をしているのか。どんな顔をした人間ならば、こんな狂った会話ができるのか。 「本当に、おかしな方」  涙するよりもよほど苦しそうな顔で微笑むハリスに、シェリアは相変わらずの無表情で呟いた。  何が、おかしい。 「何が、おかしいんだよ」  カイは低く唸りながら、シェリアを睨みつけた。  目の前で人が死んでいるのだ。たとえ全くの他人だったとしても、悲しむ事はけしておかしい事ではない。まして、ハリスとジークは全くの他人ではないのだ。ハリスは遠い日に部下であったとしか言わなかったが、それ以上の、たとえるなら友情のような関係であったであろう事は、ふたりの会話や態度から容易に推察できた。  大切な人が失われたのだ。悲しんで当然だ。泣いて当然だ。それがなぜ、おかしな事なのだ。 「カイ様も、悲しいのですか」  シェリアには相変わらず表情がない。しかし、カイの言こそが最も奇妙とでも言いたげな顔をしているように見えた。 「あたりまえだ」 「どうしてです」 「どうして? そんな事を聞くお前がどうかしてる。ジークは……ジークは、俺の父親だぞ!」  カイが喉の痛みを堪えながら怒鳴りつけると、シェリアは静かに反論した。 「いいえ。貴方の父は偉大なるエイドルードです。魔物狩りジークは、幼き神の御子を連れて逃亡した、許されざる咎人です。わたくしたちが果たすべき大いなる使命の障害――この死は、わたくしたちの父が与えた、天罰なのでしょう」  一瞬、頭の中が白く染まる。ろくに思考ができなくなり、理性はどこかに掻き消えた。  相手がか弱い少女であろうと関係なかった。シェリアに掴みかかり、力一杯拳を叩きつけてやりたいと願った。美しい顔が歪んでいく様を、この目に焼き付けたいと。  しかし伸ばした手が掴んだものは、カイとシェリアの間に体を滑りこませたハリスの腕だった。  なぜ、邪魔をする? 「どいてください、ハリスさん」 「いいえ」 「なぜです! 貴方になら、俺の気持ちが判るでしょう!」  同じ悲哀を秘めた瞳を見上げながら、カイは叫ぶ。  ハリスは目を細めてカイの感情を受け止めながら、その身を引く事をせず、振り上げたカイの拳を優しく受け止めるだけだった。 「私が心から謝罪いたします。それでも気がすまないとおっしゃるならば、どうぞこの私を」 「貴方じゃ、意味がない!」 「いいえ……いいえ。今カイ様のお心が傷付いているのも、ジーク殿がこの場で果てたのも、私の責任。全ての咎は、この私に」  カイはハリスの手を振り払い、再び拳を振り上げた。だがハリスに対して振り下ろす気にはなれず、突き飛ばすようにハリスから手を話すと、ふたりに背を向けた。  横たわるジークの静かな横顔は、もうカイに道を示してはくれなかった。全て自分で判断し、自分で行動しなければならない――途方もない自由と言う名の恐怖に震えながら、今はただ父の死を嘆きたいと言う欲求に負けたカイは、父の傍らに跪く。 「帰ってください。とにかく今日は、貴方たちの顔を見たくないし、声も聞きたくない」  カイは吐き捨てるように言った。 「なぜ――」 「シェリア様」  シェリアの可憐な声は、カイの神経を逆撫でする問いを紡ぎかけたが、ハリスの声がそれを引き止めた。 「失礼いたします」  振り返る事のないカイのために、深く礼をしている気配がして、カイは胸を痛めた。自分と同様にこの男も、父の傍で嘆きたいのだろうと思ったからだ。  だが、仲間を引き止める事よりも、シェリアに消えてもらう事の方が、今のカイには重要だった。  ゆっくりと、ふたつの足音が遠ざかっていく。  静かな世界にひとり残され、カイはようやく感情を涙に溶かして溢れさせる事ができた。 11  部屋の中を照らしていた燭台の明かりが消えてから、どれほどの時間が過ぎただろう。  昨晩までにすり減らした蝋燭は随分短くなっていて、今夜過ごすにはもたないだろうとはじめから判っていた。そのうち新たな蝋燭をもらってこようと思いながら椅子に腰掛けたまま、立ち上がる事すらせずに時間は流れていき、今に至っている。  朝が早い者ならば就寝する時間だろうが、これと言った予定も無く、客人扱いを受けているハリスにとってはそうではなかった。だが、特別何をすべきか考え付かないため、全開にした窓から見える空や数多の星を眺めながら、緩慢な時間の流れを乗り切ると言う、無為な時間を過ごしている。明かりを点ける無意味さこそが、立ち上がる気力を奪う一番の理由かもしれなかった。  ハリスは両手の指を膝の上で絡めた。右手に別のものが触れる事で、二日前に覚えた感触が蘇り、慌てて手を離す。  たったそれだけの事に怯え、息を乱す様子は滑稽だと思いながら、ハリスは自身を責めるつもりは無かった。  この二日間、懐かしくも美しい思い出と、二日前の感触が、交互に蘇って執拗に自分を責め立てているのだ。それ以上の苦痛を自分自身に与える事が、可能だとは思わない。 「隊長……」  二日前に命を落としたこの街の英雄の葬儀は、今日の昼に行われたと聞く。足を運びたいと言う願望を当然ながら抱いたハリスだったが、カイの気持ちを思えばそれはできなかった。ハリスを目にすれば芋蔓式にシェリアの事を思い出して憤るであろうし、何より、ジークを殺したのはハリスと言っても過言ではないのだ。  直接の死因は、魔物に負わされた傷だったそうだ。それだけを見れば、ジークの死にハリスが係っているとは言えない。だが、もしあの時自分と剣を交えていなければ、ジークだけでなく自分も魔物の存在に気付いていれば、彼の命は助かったかもしれないと、どうしても考えてしまう。  深い闇の中で、強烈な罪悪感がハリスを苛んだ。  ハリスがこうして苦しむ事を、故人が望んでいないだろうと頭では判っている。だが、彼の人の命を間接的に奪ってしまった事実に、後悔が残らないわけが無かった。  そしてもうひとつ。悲しみに暮れながら、心のどこかで安堵している事実が、何より心苦しい。  もし彼の死が大陸のために必要不可欠な運命のひとつなのだとすれば、誰かが彼の命を奪わなければならなかったのだ。 「誰か」は、自分ではなかった。自分が、直接、手をかけずに済んだ―― 「俺の何が正しいんですかね、隊長」  ハリスは死者の世界へと旅立った人の代わりに、闇を見上げながら語りかけた。 「こんなにも、弱いのに」  闇に微笑みかけてから瞼を閉じ、更なる闇を呼び込む。ただ暗く、ただ静かな世界は、今のハリスにとって厳しくも優しい世界だった。  その世界を破壊するように、静かに扉が叩かれる。染み入るような胸の痛みに安らいでいられた時間はあまりに短かく、落胆したハリスだったが、叩き方から予想される扉の向こうに立つ人物を思えば、ひとりきりである事に浸っていられなかった。  即座に立ち上がり、部屋の扉を開ける。  少女は手にした燭台の小さな灯りに照らされていた。ハリスが可憐で繊細な美に微笑みかけると、火の揺らめきと共に空色の瞳が瞬いた。感情が生まれたかのように見え、ハリスは驚きのあまり息を飲んだが、よく見ると少女はいつもと何ら変わりが無かった。揺れる炎が見せた幻だったのだ。  気付かれないようにため息を吐き、ハリスは静かに礼をする。 「いかがなされました、シェリア様。このような時分に」  シェリアは無言でハリスを見上げ、続いて灯りひとつ無い暗い部屋を眺めてから答えた。 「なぜ、わたくしは、カイ様にお会いできないのです」  怒りや苛立ちが混ざっているわけではない、純粋な疑問だった。  シェリアは自分とカイが結ばれる運命を疑わず、世界中に祝福されるべきふたりだと信じている。そんな彼女にとって、当の本人であるカイに拒否されるなどと想像も付かない事で、ようやく出会えた運命の相手と引き裂かれている現状に、首を傾げたくなるのは当然だろう。  ハリスはシェリアの疑問を理解していた。だが同時に、カイの気持ちもある程度理解していた。彷徨うはずであった行き場の無い悲しみが、シェリアの心無い言葉によって強烈な憎悪へと変化した事に、気付かないわけがなかった。  今シェリアをカイと合わせても、カイが拒否をして終わるだけだ。会わせる事は適切ではない。当然の結論を導き出しながら、しかし、とハリスは思う。一体いつならば良いのか、と。  一日二日待つ時間はある。だが、カイが心の傷を癒やし、シェリアを許してくれるまでにかかる時間は、数日程度ではすまないだろう。一年二年も待つ時間の余裕は、あるとは言えない。 「現在、カイ様のお心は乱れておられます。ですから今少し、カイ様に休息を差し上げるべきだと私は思います」 「意味が判りません」  そうだろう。この哀れな少女に判るわけがない。  誰かを心から愛する事も、家族と言う温もりも、知りはしないのだから。 「人がみな、シェリア様のように正しいわけではありません。愚か故に、正しい事を後回しにして無為な時間を過ごす事も、時には必要なのです」  変わらないはずのシェリアの眼差しであったが、ハリスの目には蔑むような眼差しに変化したように見えた。 「愚かな行いと判っていて放置する事もまた、愚かな行いです」  迷いのない、正しい言葉。この少女にとっては揺るぎない事実であり、ハリスも頭では理解できている事だった。  だが、心が否定する。 「私も、愚かな人間ですから」  正しい答えも、ごまかす言葉も見つからなかったハリスは、シェリアの冷たい瞳の輝きに強く責められ、逃れる事も自身を守る事もできず、目を細めながら素直に返す事しかできなかった。 「そうですか」  シェリアはハリスから目を反らし、俯く。小さな唇を引き締め、空ろな眼差しで、足元のあたりを見つめていた。  目に映るものではない何かを探しているような視線。どうやら考え事をしているようで、珍しい、とハリスは思った。ハリスの知るシェリアは、自分ですぐに答えが出せない疑問を他人に投げかける事に、躊躇する娘ではなかったのだ。 「わたくしは、貴方の事をおかしな方だと思っていました」  ようやく紡がれた言葉は、少女の護衛隊長となってからこちら、何度も言われてきた言葉だった。 「ですが、愚かな方ではないと思っていたのです」  ハリスは思わず微笑んだ。彼女の偏った価値観によるただの評価であると判っていながら、彼女なりの心遣いのように思えたからだ。 「とてもありがたく、喜ばしい事ですが……買いかぶりですとお返しするしかありません」 「どうやらそのようです。同様に、貴方を愚かではないと思っていたわたくし自身も、愚かであったと言う事なのでしょう」 「それは違」 「学ぶべき事はまだ、多くあるようです」  少女は寂しげ――それはハリスが思い込んだだけで、本人はいつも通り無感情だったのかもしれない――に呟くと踵を返し、ハリスに背中を向けた。しかし、二、三歩歩き出してから立ち止まり、再び振り返ってハリスを見つめてくる。 「父は……賢き人も愚かな人も、等しく愛していたと聞きます」  ハリスは力強く肯いた。 「はい。偉大なるエイドルードは、地上の民に寛大であられました」 「わたくしも、父のようにあるべきなのでしょうか」  あまりにも真っ直ぐな問いかけに戸惑ったハリスは、思考する時に僅かに尖る唇を隠すために、口元を覆った。その手は、思考しながら自然と浮かび上がる笑みを隠すためにも役立った。  三年前に初めて出会った時、この少女は絶対に変わる事はないのだと思っていた。だが、そうではない。近くに居なければ判らないほど僅かではあるが、確実に変化している。  少なくとも三年前のシェリアは、自分が変化する可能性を口にする事などなかったのだ。 「私個人の意見になりますが、シェリア様はすでに充分すぎるほど寛大なお方だと思っております。貴女は、愚かな者を正そうとはしても、愚かな者を否定する事はありません」  シェリアはゆっくりと瞬きをして長い睫を揺らした。 「ですが、愚かなままの自分を受け入れてもらえた時、人は許された気になれるのだと思います。もっとも、全てを許してしまえば、人は正しくなる事を忘れ、歩みを止めてしまうのでしょうが」 「貴方の答えは曖昧です」  自身でも答えが出しきれていない事を自覚していたハリスは、シェリアの鋭い言葉によって自身の言が途中で遮られた事に、苦笑するしかなかった。 「常に、とは申しません。ただ、今のカイ様を、許してさしあげてください」  シェリアは僅かに間を空けた後、静かに肯いた。 「判りました。もうしばらく、貴方の指示通りにしましょう」 「寛大なるお心に、感謝いたします」  深々と礼をするハリスを気にも止めないのか、シェリアは再び踵を返し、その場を後にした。シェリアが手にしていた蝋燭の灯りの恩恵が受けられなくなり、徐々に遠ざかる足音が通路の向こうへと消えていくと、ハリスは顔を上げ、誰も居ない暗い通路を見つめた。  偉大なる存在の意志に沿うために、誰よりも大切な少女の望みを叶えるために、託された少年の心を守り導くために、自分にできる事は何なのか。  暗闇は何も教えてくれない。だがハリスは、おぼろげに何かを見つけた気がした。 12  幼い頃からずっと、越えてみたいと望み、焦がれ続けていた壁があった。  壁は大きく、強く、常にカイの前方にそびえ続けていて、その向こうを望む事は永遠に叶わない夢なのかもしれないと不安に駆られる日もあった。それもいいのではないかと諦める日々も、少しだけ。  越えられるならば、方法は何でも良かった。必死になってよじ登っても、横に押し退けるでも――自らの手によって壁を越えたのだと、言える結果ならば。  だが、壁は自分ではないものに破壊され、目の前から失われた。  こんな形は望んでいなかった。結局自力で乗り越える事など不可能な望みだったのだと言われている気がして、とても悔しい。  けれど今のカイは、長年の望みが断たれた悔恨の情に駆られているわけではなかった。  壁を越える事を望んでいた。けれど、失われる事を望んでいたわけではない。目の前から背中の向こうへ追いやってやりたいと、そう望んでいただけなのだ。  なぜ、こんなにも早く、消えてしまったのか。 「ジーク」  呟いただけの声は、静かな空間に響き渡った。ひとりきりとはこう言う事なのだ、と思い知らされながら、カイは乾いた瞳を窓の外に向けた。  寂しい。ああそうだ、悲しいのだ、自分は。目の前にあり続けて壁が無くなってしまった事実に、ただ悲しむしかできないでいるのだ。  壁の向こうに広がる果てしなく広い世界は眩暈がするほど明るいと信じていたと言うのに、なぜこんなにも暗いのだろう――  だいたい、ジークはなぜあんな魔物を相手に命を落とす事になったのか。  ジークの剣の腕は途方もない。あの程度の魔物にやられるはずがないではないか。傷ひとつ負う事すら、難しいはずだ。  だと言うのに、神の腕は肩から失われ、多量の出血によって命を落としてしまった。ありえない、ジークが、そんな死に方をするなどと。ジークは誰よりも強かったはずなのだ。深手を負っていたわけでも、体が思い通りにならないほど年老いていたわけでもないのだ。  一体どうして――カイは視線を巡らせ、棚に立てかけたままの剣を見つけると、立ち上がって歩み寄った。自分でそこに置いた記憶はないので、誰かが気を効かせてくれたのだろう。  剣を手に取り、鞘から少しだけ引き抜いた。  繰り返し丁寧に手入れされ、長年愛用されてきた父の剣。カイが愛用してきたものより僅かに刃が長いが、重さはさして変わりが無いようで、心地良く腕にのしかかってきた。 「ジーク……」  その行為に意味はないと頭では理解していると言うのに、失われてから何度父の名を呼んだか知れなかった。  何度も呼び続ければ、いつか答えてくれるのではないかと、心のどこかで甘えているのかもしれない。とうに熱を失った体は、街外れの墓地に丁重に埋められ、土に還りはじめていると言うのに。  カイは鞘に戻した剣を胸に押し抱いた。  暗く、静かに垂れ込めた空気が、胸につかえて苦しい。このまま家の中に居ては耐えられそうにないと判断したカイは、外の空気を吸おうと扉を開けた。  外から家の中に流れ込む風が、冷たく頬を撫でる。  気付くと、一歩踏み出していた。父を失ってからこちら、空ろな心で家の外に出ると、必ずと言って良いほど広場の惨劇跡に辿り着いている。今日もそうなるのだろうとぼんやり思いながら、それでいいかと思う自分も心のどこかに存在していた。家の中に居ようと、街のどこに居ようと、大した差はないのだから。  茜色の空が眩しかった。そう言えばここ数日、ろくに青空を見ていなかった。意図的に避けていたつもりはないので、空の色を忘れるほどに沈んでいたのだろう。  体が勝手に傾いた。家の前の通りを右へ。広場に向かう方向へ進もうとする足を、カイは止めなかった――進もうとした道に、人だかりを見つかるまでは。 「カイ!」  年齢も性別もばらばらな住民が合わせて十人ほどで道を塞いでおり、そのうちのひとりがカイの存在に気付いて名を呼んだ。続けて、全員がカイを見る。急に自分に視線が集まる事で戸惑ったカイは、何が起こっているか把握できず立ち尽くした。  よく見れば、その場に居るのは衛視と思わしき格好の男たちが三名と、残りは近所に住む女性たちだった。カイに気付くまでは、互いに向かい合うように立っており、何か言い争っていた様子だ。 「どうしたんだ?」  カイが訊ねると、衛視のひとりが口を開きかけたが、中年の女性がそれを遮るように口を挟んだ。 「何でもないよ。ちょっとした揉め事さ。あんたは家で休んでな」 「しかしっ」 「うるさいわね! あんたたちが気合入れて、自分たちで踏ん張れば済む話でしょ!」  諦めきれない様子で、別の衛視が反論しようとすると、別の女が遮るように怒鳴る。その繰り返しを見守りながら、この奇妙な集団の意図や言い争いの原因が自分である事を察したカイは、手を滑らせて胸に抱いた剣の柄に指をかけた。 「出たのか? 魔物が」  確信を抱きながら予測の形で口にすると、衛視たちも女性たちも黙り込み、再びカイに視線を集めた。全員がその表情に罪悪感を浮かべているが、衛視たちには喜びも混じえている。  おそらくは、魔物が現れ、街を守るためにいつも通り魔物狩りを呼びに来た衛視たちと、家族を失ったばかりのカイに休息を与えようとした女性たちとで、小競り合いが起こったと言う事なのだろう。  自分の事を気遣ってくれた女性たちに感謝しながらも、カイは強く柄を握り、空ろな心に力を呼び戻した。 「案内してくれ」 「カイ!?」 「何言ってるの、カイ!」  女性たちは「無理をするな」とでも言いたげに、口々にカイの名を呼んだ。  無理をしている。そうなのかもしれない。だが、気付いていながら何事もなかったように休む事もまた、無理をしているような気がしたのだ。 「気を使ってくれてありがとう。でも、俺は行く。戦いたいんだ」  ジークの敵を取るためでも、悲しみを紛らわせるためでもない。どんな時であろうとも、魔物と戦う事、トラベッタを守る事が正しいのだと、そう思えたからだった。きっとジークも生きていれば、それで良いのだと薄く微笑みながら、背中を押してくれた事だろう。  大切なものを失って悲しいけれど。何もかもを投げ出してしまいたいほどに、とても、とても、辛いけれど。  失った悲しみに暮れ続ける事で、再び大切なものを喪失する事になれば、それはもっと辛いと思うのだ。 「俺は、トラベッタを守りたい」  生まれた場所は違うけれど、物心付く前から育ち、父と共に過ごした思い出が色濃く残る故郷を。  父が、守り続けていたものを。  もう、失いたくないのだ。大切なものは、何ひとつ。 13  鋭い牙を剥いた黒い大蛇のような魔物が同時に二匹飛びかかってくると、カイは一匹を避け、もう一匹を叩き切った。あと少しのところで分断されそうな大蛇の体は、皮一枚で際どく繋がったまま、大地に血の池を作る。  はじめて使うジークの剣は、手に馴染んでいないという点においてはアシェルで貰ったものと同じ条件なのだが、不思議と使いやすかった。ジークが愛用していただけあり、切れ味も鋭い。  魔物も過去に戦ってきたものと比較すればさほど強いとは言えず、今回はすぐに片付くだろうと思えたが、安堵はしても油断はしなかった。再び飛び掛ってきた大蛇に飲まれないよう身をかわし、体勢を立て直すと、剣を振り下ろす。今度は綺麗にふたつに分かれ、数度痙攣した後、動かなくなった。  ひと息吐いてから、剣にこびりついた血を拭う。いざと言う時に使えなければ困るため、元より武器は大切に手入れをしてきたつもりだが、父の形見となれば余計に力が入る。もうそばに居てくれない父の代わりにずっと共にあってほしいと願いながら、丁寧に血を拭き取った。  空気が動いたのは、剣を鞘に戻そうとした瞬間だった。  カイは剣を引き抜きながら、微かに耳に届く草を踏み分ける音を頼りに振り返る。そこには獣の姿をした魔物が居たが、カイに飛びかかってくるよりも早く、痛みを訴える鳴き声を上げながら、大地に横倒れになった。カイに食いつこうとした口はだらしなく開かれたまま、広がっていく血に涎を混ぜ込んでいる。 「ハリスさん」  獣型の魔物を切り捨てた男を見つけ、カイは身を強張らせる。無意識に彼の周囲を探し、他に人が――少女が――居ないかを確かめ、誰も居ない事が判ると深く息を吐いた。 「余計な助力かとは思いましたが、少し数が多いようですのでしたので、勝手に助太刀させていただきました」 「ありがとうございます。助かりました」  軽く言葉を交わし、視線を交える事でハリスの微笑みに応えると、カイはすぐさまハリスに背を向ける。やや離れたところから届く木の枝が揺れる音に反応しての事で、振り返った直後、高い木の枝から影が飛び降りてきた。  ギィ、と重い鳴き声を響かせ飛びかかってきた影は、体は小さいがすばしっこい魔物だった。カイと比べても短い腕を伸ばし、その先にある鋭い爪をカイの体に埋め込もうとする。当然カイは反応して避けるのだが、相手の速さに対応しきれず、体のあちこちにかすり傷を作る事となった。  振り下ろすたびに避けられた剣が、四度目にしてようやく魔物の頭部に埋まった。体の小ささから想像した通り、魔物にしては脆い体はカイの一撃にあっさりと絶命する。  休憩する間はなかった。草を踏み分けて走り寄ってくる魔物が一体、木の上から飛び降りてくる魔物が二体。飛び降りてくる魔物の方が動きが早く、カイがそちらを向くと、背の向こうでハリスが動く気配がした。彼がカイの背を守り、もう一体の魔物の相手をしてくれると言うならば心強く、カイは安心して目の前の魔物に対処する事ができた。  それにしても、とカイは思う。今日は魔物の数が多すぎる。苦戦しない程度の小物ばかりだが、この調子で延々と攻めて来られては、いずれ疲れ果ててしまうだろう。  魔物たちの襲撃がいつまで続くか判らないのだから、無駄に体力を消耗するわけにはいかないと思うと、素早くカイの攻撃を避け続ける魔物たちが煩わしい。自然と苛立つ心を抑え、カイが魔物を斬ろうと剣を振り上げた瞬間、地を駆ける魔物を薙ぎ払ったハリスの剣が、一匹の進行方向に立ち塞がった。  偶然のように見える。だが、おそらくは意図的に、なのだろう。  声をかける余裕が無かったカイは、感謝の言葉は後にしようと決め、逃げ道を失った魔物を討った。容易に叩き潰した一匹の醜い死骸に見向きもせず、残されたもう一匹に向き直る。  背中にハリスの背が触れた。カイと正反対の方向を向いている彼は、未だ警戒を解いていない――また新手が来ている、と言う事だろう。 「カイ様、ものは相談なのですが、相手を交換しませんか? その方が効率が良いと思います」 「そんな事、戦闘中に言われても、ですね」 「騙されたと思って、試してみてください」  ハリスが軽く肩を叩いてくる。それが合図なのだろうと瞬時に悟ったカイは、一歩踏み込んで立ち位置を入れ替えた。目の前に迫った大きく開かれた魔物の口に咄嗟に剣を叩き込み、引き裂きながら地面に叩き付ける。  次が来る僅かな余裕で背後を覗き見ると、カイのものとは比べものにならない素早い剣戟が、容易く魔物を引き裂いていた。  ハリスの一撃の重さは、ジークはもちろん、おそらくはカイよりも軽そうだ。しかし、とにかく早い。なるほど確かに彼の言う通り、こちらの方が効率が良さそうだ。  募る焦りや苛立ちがいくらか解消され、それでも中に燻るものを、カイは新たに迫る魔物に叩き付けた。  何体の魔物を切ったかしれない。十を越える頃には、数えるのも馬鹿馬鹿しくなったからだ。向かってくる魔物をがむしゃらになぎ倒し、ようやく新手が尽きた事が判ると、カイは肩で息をしながらその場に崩れ落ちた。 「お怪我は大丈夫ですか?」  ハリスの方も片が付いたのか、剣を鞘に収め、カイの元に歩み寄って跪く。  カイの服は所々が破れており、赤く染まっていた。これでは他者から見ると大怪我をしているようにみえるかもしれないと思ったカイは、激しく乱れた息をできる限り押さえ込み、小さく笑ってみせる。 「大丈夫です。全部かすり傷ですから。放っておいても、すぐ、直ると思いますけど、念のため、後で傷薬でも塗っておきます」 「そうですか」 「それより、助けてくださって、どうもありがとうございます。俺ひとりじゃ、駄目だったかもしれない。ハリスさんのおかげで、傷も少なくてすみましたし」  切れ切れの言葉で感謝を伝えるカイに対して僅かに微笑みながら、ハリスは左右に首を振った。 「お気になさらず。ただの親切心だけで助力を願い出たわけではありません。貴方をお守りする事は、我ら聖騎士団の使命ですから」  カイは瞬時に表情から笑みを消し去った。  そうだった。シェリアへの怒りのあまりすっかり忘れていた。この男は、カイに「滅び行く大陸を救って欲しい」と言ったのだ。それはつまり、カイとシェリアを――  カイは疲れた体に鞭打って立ち上がり、数歩後退してハリスとの距離をおいた。  父の死に嘆く自分にシェリアが投げた言葉を、カイは一生忘れられないだろう。だから、あのただ美しいだけの少女の手を取って生きていけと言われても、絶対にお断りだった。 「俺は貴方にもエイドルードにも従いません。俺が貴方の言う通り、エイドルードの子だとしても」  カイは静かに告げた。揺るぐ事のない本音を。  カイには誓う神が存在しない。その代わりに、今は亡き父に誓う。意に沿わないならば、天上の神と呼ばれる存在の定めを受け入れはしない。逆らう事も辞さないと。 「あんな頭のおかしい女と結婚しろだなんて、冗談じゃない」 「どうしてもとおっしゃるのならば、婚姻を結んでいただかなくても結構です」 「……なんですか、それ」  表情を変える事なく、平然と言い放つハリスに呆れて、カイは低く唸った。 「あの女を孕ませれば、それでいいって言うんですか?」 「良いとは口が裂けても言えませんが、それもひとつの方法だとは思っております」  カイは息を飲んでからハリスを見つめる視線を強めた。 「カイ様とシェリア様の間に生まれる御子は、この大地を救うために必要な方。エイドルードに仕えるものとして、この国の未来を憂う者として、けして譲れない存在です。しかし、神の御子以外の事に関しては、譲歩する事もやぶさかではないのです」 「俺は、貴方をもう少し常識的な人だと思っていました」 「人が定めた常識など、神の定めを前にしては何の意味もなしません」  ハリスは立ち上がり、カイとの距離を一歩詰めた。 「私はシェリア様の望みを叶えてさしあげたい。一番良い形はもちろん、貴方とシェリア様の正式な婚姻です。しかし、シェリア様は貴方個人を愛しているわけでも、貴方と生きていく事に価値を見出しているわけでもありません。エイドルードの後継者、真なる神の子の御生母になる事さえ叶えば、きっと満足してくださります」  全身の皮膚が粟立つ感覚に、カイは震えた。  シェリアだけではない。ハリスもまた、カイにとっては理解できない人種だった。初見から不可解である事を伝えてきたぶん、シェリアの方がまだましだったかもしれないと、今更思う。  恐ろしいのか、気持ちが悪いのか、ただ不愉快なのかは判らなかったが、目の前に立つ男から逃れたいと心底願った。しかし、先ほど詰められた一歩が大きい。ふたりの間にある残された距離は短すぎ、ハリスがカイを逃す事はないだろう。 「なぜ、俺とあの女の子供が必要なんですか」  カイは足をすり、少しずつ後退する。  その事実に気付いているであろうに、ハリスは一歩も動かなかった。 「先日もお伝えした通り、滅び行く大地を救うためです」 「その役割を、神の力を受け継いだ子が担うと? なぜ、子供じゃなければならないんです? これまでどおり、エイドルードが救えばいいじゃないですか。神、なのでしょう?」  浮かべる微笑みは変わらない。だが、ハリスの瞳が瞬時に陰った事が、カイには判った。ジークの死を前にして見せたものと同じ輝きでありながら、奥底に眠る光は異なる、不思議な切なさを見せる眼差しだった。 「トラベッタの民は、エイドルードをお恨みでしょう。エイドルードは大陸のほとんどを魔物から救いながら、トラベッタなど一部の地域を切り捨てたのですから。ですが、どうぞお許しください。魔獣との戦いによって深く傷付いたエイドルードには、大陸の全てを守る事など、不可能だったのです」 「それは、俺の求める答えではな……」 「大神殿には大司教、砂漠と森の神殿にはふたりの妻。そうして地上の民の力を借り受けながらも、エイドルードは三つの神殿が造る図形の中だけしか守れなかった。さぞ無念だった事でしょう。愛する地上の民を、一部とは言え見捨てねばならなかったのですから」 「ハリスさん?」  エイドルードの行動など、想いなど、聞きたかったわけではない。カイが投げかけた問いとは的外れの返答を延々と続けるハリスをいぶかしみ、カイは彼の名を呼んだ。  呼びながら、ハリスの語り口調に僅かなひっかかりを覚えたカイは、一瞬だけ考えた。もしかするとハリスは、的外れな返答をしているわけではないのかもしれないと。 「ハリスさん、エイドルードは」 「伝承では、エイドルードは魔獣に刻まれた傷を癒すために天上に昇った事になっています。けれど真実は違うのです。エイドルードは地上の民を守るために、残された力の全てを使っていた。傷を癒すための安らぎなど、我らの神にはなかった」 「ハリスさん!」  カイはハリスの名を叫んだ。悲哀の中に潜む空ろへと向かいつつあるハリスの意識を呼び戻すために。  ハリスは目を細め、カイを見つめた。その顔にはすでに笑みなどなく、カイは自身が立てた予測は当たっていたのだろうと、おぼろげに理解した。 「もうこの地に、空に、神はないのです」 14  ハリスの告白を聞いたカイが最初にした事は、空を見上げる事だった。  青空は幼き日の記憶に残るものからまったく変わらず、美しいままであると言うのに、見えないところでは劇的な変化が起こっているとハリスは言う。エイドルードを神とは思わず育ってきたカイにとっても、ハリスが告げた事実は衝撃で、そのせいか口の中が徐々に干からびていった。 「意味が……判らな……」 「偉大なる天上の神を失った弊害はすでに出はじめております。それまでエイドルードの力が及んでいた地域にも、魔物が出はじめているのです」  カイは息を飲んだ。ハリスの言葉に心当たりがあったからだった。  つい先日、アシェルの町で見た魔物を思い出す。そうだ、あれは本来ならば、出てくるはずもない存在だった。偶然に偶然が重なった不運によるものだと思い込んでいたが―― 「エイドルードは最後の力で封印を強化し、我らに時間を残してくださいました。エイドルード亡き日から、およそ二十年です。しかし、これから産まれる御子の成長を待つ事を考えれば、けして長いとは言えない時間でしょう」  ごくりと喉を鳴らし、カイは反論した。 「でも、だから、俺に犠牲になれって言うんですか? 封印が破れて、今まで魔物が出なかった地域に魔物が出るようになるからって、俺には関係ない。全ての街でトラベッタのように魔物対策を……」 「地中に封印された魔獣が蘇ります」  ハリスは穏やかながら強い口調で言い切った。 「どれほど大司教や地上の女神が祈りを捧げようとも、エイドルードのお力が無ければ、封印は長くは保てません。エイドルードが残してくださった時間が過ぎ、封印が失われれば、魔獣は復活するでしょう。魔物程度ならばまだ人の手でも対応できますが、魔獣となれば、この大陸に訪れる未来はひとつしかありません」 「だがっ……!」 「元々結界の外にあったかどうかなど、魔獣には関わりの無い事です。魔獣は全てを滅ぼすでしょう――カイ様が愛され、ジーク殿が眠る、トラベッタをも」  柔らかな土の上に生える柔らかな草を踏み締める音。  ハリスがゆっくりと歩み寄ってくるが、カイは逃げる気力も勇気も湧いてこず、黙って立ち尽くしていた。  トラベッタを守りたい。  カイに残された、強い望み。命が尽きるその時まで、抱き続ける願い。  そのために自分ができる事は―― 「カイ様」  カイから一歩離れた所に足を止めたハリスは、カイの名を呼んだ。  手を伸ばせばすぐに捉えられる距離にあるカイの腕を取る事も無く、ただカイの意志によって従う事を望むその態度が腹立たしい。  しかし、何よりも腹が立つ対象は自分自身だった。つい先ほど亡き父に誓ったばかりの事が、もう揺らいでしまっている。  嘘だ、と、無下に追い返してしまえばいい。嘘ではなかったとしても、他に方法があるはずだと。 「嫌だ」  真実の想いが、唇から力無く零れ落ちた。  思い出すだけで不愉快な少女の無表情を、別の少女の笑顔がかき消していく。勝気だけれど優しさと強さが隠れている魅惑的な表情に、涙が零れそうだった。 「リタ……」  再会の約束をした少女の名を紡ぐ。  渇いた喉がひねり出す掠れた声を掃うように、ハリスは剣を引き抜いた。  木の影から現れた小柄な魔物二匹をひと薙ぎで片付けたハリスが、辺りに視線を送りながら警戒を強める様子を見て、慌ててカイも剣を取る。 「どうやら、遅れて出てきた二匹だったようですね。この辺りはもう大丈夫でしょうか」 「はい――」  周辺に物音も気配も無い事を確認してから、カイは何気なく空を見上げた。  雲ひとつ無い澄み渡る青空に、小さく浮かぶ黒点を見つけ、目を細める。黒点は徐々に移動しており、トラベッタの街へと近付いてきている。点は少しずつ大きくなり、やがて羽ばたいている事を確認すると、カイはハリスに振り返った。  ハリスの肩の向こうにも同じだけ小さな黒点を見つけると、カイは息を飲んだ。ハリスの肩を掴み、力尽くで振り向かせる。 「ハリスさん、俺はあっちの魔物をどうにかしますから、ハリスさんには向こうのを、お願いします」  カイは黒点の片方を指で指し示しながら言ったが、ハリスは小さく首を振った。 「いえ。私は、カイ様が向かわれる方へ共に参ります」 「何わけの判らない事を言っているんですか! 一緒に動いていたら間に合わないかもしれないでしょう!」  僅かに声を荒げて言うと、ハリスは再度小さく首を振った。 「トラベッタの街を守る、と言う意味では、確かに間に合わないかもしれません。ですが私の現在の使命は、カイ様とシェリア様の御身をお守りする事。私がカイ様のお傍になければ、万一の時、カイ様をお守りできないかもしれません。私にとって間に合わないとは、そう言う意味です」  カイは掴んだハリスの肩を突き飛ばす。  ハリスの身は僅かに揺らいだが、それだけだった。眼差しは揺るがず、ただカイを見つめてくる。  言うべき言葉を探したが、上手く見つからず、カイはハリスに背を向けて走りだした。この人に頼れないならば仕方がない。一方を早く片付けて、もう一方に一刻も早く向かうしか方法は無い。 「どうやら、二匹だけでは済まないようです」  走り去ろうとするカイを呼び止めるようにハリスは言った。  カイは足を止め、振り返る。ハリスが見つめる方向を目で追うと、確かに黒点がいくつかちらつきはじめていた。 「どうして今日に限って……こんな」  カイは唇を噛んだ。  複数の魔物が散らばって街を襲うとなれば、自身の体が複数無いかぎり、対処しきれない。守れるところと、守れないところが絶対に出てしまう――誰かの命が、失われてしまうかもしれない。  ジークのように、無残に。 「魔物の様子がいつもと違いますか?」  カイは無言で肯定した。 「それもまた、エイドルードが失われたせいなのでしょうか。魔獣が蘇る時が近付くにつれ、活発に動ける魔物の数が増え、力は強大になっていくのかもしれません。その時、たったひとりの魔物狩りでは手に追えなくなる事でしょう」 「っ……」 「カイ様はトラベッタを守りたいのですね」  ハリスがあまりに落ち着いて言うので、カイは声を荒げて返した。 「あたりまえです!」 「ならば、取引をいたしましょう」  ハリスは懐に手を入れ、綺麗にたたまれた一枚の紙を取り出すと、優しい手つきでカイに見えるように広げる。  おそらく女性と思わしき、柔らかい筆跡で書かれた知らない文字の羅列。 「シェリア様より賜りました。神の言葉によって綴られた呪文です。私はただ一度だけ、エイドルードがシェリア様のために残した力をお借りし、神の雷を呼ぶ事ができます」 「それで魔物を全部倒してくれるんですか?」 「一筋の雷では数体を倒すがせいぜいでしょう。そうではありません。ただ、私は今日も、街中の至るところに部下たちを配置していると、そう言う事です」 「まどろっこしい言い方をしないでください」  苛立ちを声に託してハリスを責めると、ハリスはひとつ咳払いを挟んでから続けた。 「彼らには『たとえ街中に魔物が現れても、カイ様かシェリア様、あるいは自らの身を守る以外の目的で剣を抜くな』と命令を下しております。つまり、今魔物たちが街中に入り、トラベッタの民を襲ったとしても、私の部下たちは一切手を出しません」  カイは憎悪を宿らせた視線でハリスを睨んだ。 「それが、聖職者のやる事ですか?」 「ただトラベッタの民を見捨てようと思っているわけではありません。『聖なる雷が天より降りそそいだ時、その禁を解く。全力を持ってトラベッタの民と街を守れ』と、続けて指示しておりますから」  ハリスは笑みを浮かべた。下心も、邪悪さも、たくらみも感じさせない、心優しい聖職者によく似合う、けれど彼の言にはそぐわない微笑みを。  緩い風が吹いた。ハリスが手にする羊皮紙が僅かに揺れ、まるでカイに言葉を迫っているようだ。 「カイ様。貴方が望まれるなら、私は雷を呼びましょう。ですが、先ほども申しました通り、これは取引です。私が何を望んでいるかは――もうお判りですね?」  数瞬間を空け、重く肯いてから、カイは目を伏せる。自分自身の間抜けさがおかしくて、腹の中で笑った。  そうだ、最初からこの男は言っていたではないか。「ただの親切心だけで助力を願い出たわけではありません」と。カイの手に追えない魔物が出てきた時、いつでも取引を持ちかけられるように、そばに居ただけなのだろう。 「ご安心ください。今日だけではなく、カイ様がトラベッタを離れ王都に滞在される間も、耐えず精鋭の聖騎士たちをトラベッタに派遣し、この街を守り続けましょう。何年でも、何十年でも、カイ様とシェリア様の間に誕生する御子がこの大陸を救うその日まで――悪い条件では無いと思いますが?」 「ええ……ええ、そうですね」  トラベッタのためにも、大陸のためにも、それが一番いいのだと、頭ではとっくに理解している。  ただひとつ、カイの心だけが、ハリスに従う事を拒否していた。カイの心が呼ぶ少女の名は、けしてシェリアではないのだから。  だが――  カイの体が崩れ落ちる。柔らかな土に両膝を着き、項垂れながら、カイは心にも無い言葉を呟いた。 「俺が、世界を救います。セルナーンに行きます。だから、助けてください。トラベッタを」  土の上で、両手が拳を作る。「判りました」とハリスの返事が来ると同時に、抉るように。  やがて知らない言葉が、知らない発音が、ハリスの声で紡がれる。間もなく訪れた聖なる雷は、トラベッタの救いの光であったが、その救いはカイの心に降りそそぐ事はなかった。 「ジーク」  闇に消えゆく己の心の救済を求め、カイは幾度も呟いた。 「ジーク……リタ……」  今は亡き父の名と、再会を誓った少女の名を。 四章 追想 1  車輪が回り続ける音やだく足で進む馬の足音が外から届いていたが、それでも静かすぎる。カイが吐いたため息は、凍りついたかのように沈黙を保つ馬車の中に、大きく響き渡った。  トラベッタを発った日から何度目になるか判らないため息だ。いいかげん耳障りなのか、微動だにせずに座り続けていたシェリアがカイの表情を覗き見た。彼女が動くと思っていなかったカイは、突然目が合った事に驚き、慌てて顔を反らす。 「お疲れですか」  相変わらず感情の篭っていない可憐な声が、カイを気遣う言葉を発した。  本当に気遣ってくれているわけではない事くらい、カイは判っていた。トラベッタを発ってから今日までの十数日顔をつき合せている内に、彼女は彼女の中の偏った常識で躊躇わずものを語るのだと、理解できたのだ。つまり、彼女の中の常識では、ため息は疲れた時だけに吐くものなのだろう。  不可解で、不愉快で、気持ちが悪い少女だと思っていたが、冷静に体面してみれば、これほど判りやすい人間も居ないのではないか、と思う。それが好ましいかと問われれば、否としか答えられないのだが。 「ただ座っているだけだから、別に疲れてはいない。体が鈍りそうで不安なくらいだ」 「では、どうして」 「ただ座っているだけで何日も過ぎているからな。退屈……つまらない時にも、俺はため息を吐くんだ」 「そうですか」  冷たい声に秘められた思考は読めず、説明が少しでも彼女の糧となれたのか、カイには知る事ができなかった。 「失礼いたします。シェリア様、カイ様」  再び沈黙が呼び込まれるはずであった馬車の中に、ひとりの男の声が届く。カイは反射的に身構え、強張らせた顔をやや俯かせた。  応えようとしないカイの代わりに、シェリアが動いた。窓から顔を覗かせ、馬車と並走させた馬に乗る男と目を合わせる。 「どうしました」 「もうすぐ王都セルナーンに到着です。街の門をくぐる際と、大神殿へ繋がる門をくぐる際、手続きのために合わせて二回ほど停車いたします。御者には万全の注意を払わせますが、万一の事がありえますので、お気を付けください」 「判りました」  シェリアは肯き、小窓から離れた。 「カイ様も、よろしいですか?」 「そんな事をいちいち報告するな。鬱陶しい」 「失礼いたしました」  やつあたりじみたカイの言葉をさりげなく受け止めたハリスは、それ以上何も言わなかった。顔を見る事も不愉快なので、窓から覗く事をしなかったカイに真実は判らないが、おそらく穏やかな笑みで何事もなかったかのように流したのだろう。  腹が立つ男だ。穏やかな物腰や温かな笑顔で相手を油断させて、易々と懐に入ってくる。彼はいい人だと、父の良い友人なのだと一時でも信じていた自分が情けなく、カイの中で煮えたぎる苛立ちは余計に増した。 「君は、ハリスと長い事一緒に居るのか?」  カイの問いかけに、シェリアはしばらく考え込んでから口を開いた。 「ハリスがわたくしの護衛隊長に任命されてから、三年ほど経過しております。わたくしが生まれてからこれまでの、五分の一にすら満ちませんので、長いとは言えないでしょう。同様に、短いとも言えませんが」 「三年か。俺なら、三日も耐えられそうにない」  皮肉めいた笑いを混ぜながら吐き捨てるように言うと、シェリアの空色の瞳が一瞬だけ窓の外のハリスに向けられ、再びカイを捉えた。 「ハリスに何か不満でも?」  責めるでも嫌味でもなく、純粋な疑問として紡がれたからこそ余計に不愉快なその問いに、「まあな」とぶっきらぼうに答えたカイは、シェリアの視線から逃れるように目を背けた。  窓の向こうにハリスが居る。目が合うと彼は優しく微笑みかけてきたので、カイは睨み返して顔を背ける。目を向ける先が見つからず、仰ぐように天井を見上げた。  カイの良心やトラベッタを思う気持ちを利用して脅しをかけてきたハリスに、不満が無いわけがない。今となっては胡散臭く見える彼の優しげな微笑みは気持ちが悪いほどで、悲しみに暮れるカイに冷たい言葉を投げかけたシェリアの無表情が、可愛く見えてしまうほどだった。  以前、シェリアに殴りかかろうとしたカイに、ハリスは言った。悪いのは全て自分だから、代わりに自分が謝ると。  あの時は、シェリアを守ろうと適当に言いつくろった言葉だと思っていたが、意外に真実なのかもしれない。神に仕えるものがみなハリスのように歪んでいるのだとすれば、シェリアは人として大切なものが欠けている者たちに育てられたと言う事で――つまりはこの娘も犠牲者なのだと判ってしまうと、父の亡骸のそばで抱いた憎悪は緩やかに解けはじめた。喪失の痛みが強く残る今はまだ彼女を許せそうにないが、いつか許さなければ、と思うようになった。  許したからと言って、この少女を愛せるわけではないのだけれど。  カイは意を決して、逃げしていた視線をシェリアに向けた。シェリアはカイが視線を泳がしはじめる前と全く同じ格好で、カイを見つめていた。  綺麗で、哀れな娘だと思う。ただ、それだけだ。  ハリスと取引を交わし、そのためにこの馬車に乗り込んで大神殿に向かっていると判っていても、この娘と結婚する実感は全く湧いてこなかった。冷めた頭は義務としてシェリアを受け入れなければならないと思うだけで、心から受け入れようと言う気持ちにはなれないでいる。 「このまま何事もなく大神殿に到着すれば、俺たちは結婚する事になる。君は本当にそれでいいのか?」  聞いても無駄だと思いながら、カイは少女に問うた。 「なぜそのような事を問うのです? カイ様も、わたくしも、結ばれるために産まれたのではありませんか」  やはり、聞いても無駄だった。シェリアにとってこの運命は良いも悪いもない、当たり前の事で、生まれてきた意味そのものなのだ。  期待を抱く意味を失い、自分を取り巻く全てを諦めると、胸の奥底から笑いが溢れてきた。大声を出して笑いたい気分になったカイだったが、よりによってシェリアに妙な目で見られるのは堪えるので、欲求を何とか押しとどめた。口元に浮かぶ笑みは抑え切れないので、手で覆ってシェリアの目から隠す。  そう間をあけず、馬車が動きを止めた。並走していたハリスが馬車よりも前方に進み、誰かと会話している声が聞こえてくる。セルナーンに到着した事を悟ったカイは、窓枠に切り取られた風景では判らないものを確認するために、扉を開けた。  カイが育ったトラベッタは、常に魔物の襲撃に備えなければならないため、通常の街に比べて防塞設備が充実している。だが、セルナーンのそれとは比べものにならなかった。高く厚い外壁が延々と長く続いていく様は圧巻としか言いようがない。  しかも、頑丈であるだけではなく、白く美しかった。王都としての美観にも重きを置いているセルナーンと、街の防備だけを考えているトラベッタとの大きな違いを見せ付けられ、カイは圧倒される。 「いかがなさいました?」  手続きを済ませたハリスが、身を乗り出しているカイに気付いて問いかける。カイは応えず、扉を締めて元通り座り直した。  馬車は再び走り出す。トラベッタの中央通りの倍はあろうかと言う大通りをゆっくりと進んで行った。これまで進んできた街道に比べて小さくなった揺れは、石畳が綺麗に整備されている事をカイに教えてくれた。  小窓から見える街並みは賑やかだ。通り沿いには無数に店が立ち並び、人も馬車もひっきりなしに行き交っている。  近くの商店で買い物していた娘が振り返り、悲鳴に近い声を上げた。すると声につられて顔を上げた店主が、通りすがりの青年が、こちらを見るなり満面の笑みで歓喜の声を上げる。その様子は徐々に広がっていき、しばらく進むうちに大通り中の者の視線がカイたちの乗る馬車に集まった。  何事だとうろたえたカイだが、セルナーンの民が「女神様!」「シェリア様!」と口々に叫ぶ声が届くと、彼らが呼ぶ人物が誰であるかを察し、正面に腰を下ろす少女を見下ろした。  カイにとって異常としか思えない状況だが、シェリアは何事もないように平然と受け入れている。うろたえるカイの方がおかしいとでも言いたげに――真実、そうなのかもしれない。カイとて天上の神エイドルードの子として大神殿で育っていれば、神の一族として称えられる事を当然として受け取っていただろう。 「あの人たちは、君に何を求めているんだろう」  感情のない空色の瞳がカイを映した。 「わたくしにも、カイ様にも、我らが父にも。地上の民が求めるものはただひとつ、救済です」  カイは僅かに目を細める。 「君にとってそれは重荷……不安では、ないのか? 少し特別な力があるだけなのに、地上の救済なんてものを求められる事が」 「神の子供なのだから命を賭して魔獣と戦え」だの、「神の子供なのだから楽園の地に民を導け」だのと、無茶を言われているわけではない。目の前の人物との間に子供を作ると言う、特別な力など無くても可能な事を言われているだけだが、課せられた責任の重さを除いても、シェリアには相当な負担のはずだった。  シェリアは母にならねばならない。その腹の中で命を育て、苦痛と共に産みださなければならない――カイの母のように、命を落とす事になるかもしれないではないか。 「おっしゃる意味が判りません」  カイの心労を払いのけるかのように、シェリアは迷わず答えた。 「地上を救済する事こそが、わたくしの生まれてきた意味です。重荷や不安を感じる必要がどこにあるのでしょう」 「それはそうなのかもしれないけれど……」 「わたくしが恐れる事があるとすれば、ただひとつ。エイドルードの娘としての役割を果たせない事です。わたくしがエイドルードの娘として生まれてきた意味を、失う事です」  カイはしばし間を開けて、「そうか」と短く答えた。  迷わないシェリアが悲しいと思う。それは彼女の強さでも意志でもなく、迷う事を教えられなかったからだと判るからだ。  カイは押し付けられた使命に苦悩できる自身の幸福を噛み締めながら、涼しい顔で座り続ける少女を僅かに羨んだ。運命に抗う事が叶わないのならばできないのならば、シェリアのように迷わない潔さがあった方が、楽なのだろう、と。  だが、一時的に楽をするために、父の死の悲しみやリタへの想いを消し去る気には、到底なれなかった。 2  左右に立ち並ぶ人の壁の間を進むと、やがて静けさが訪れる。静かになってからさほど時を置かずして、馬が進む事を止め、車輪が回転する事を止めたので、とうとう大神殿に辿り着いたのだろうとカイは悟った。  ここに辿り着いてしまえば、確実に引き返す事はできない。そう考えると、カイは無意識に長い息を吐いていた。元より心理的に引き返すと言う選択は残っていなかったが、物理的にも不可能になると思うと、運命がより重くのしかかってくる気がしたのだ。 「どうしてこのような時分に門が閉まっている?」  普段よりも僅かに語気を強めたハリスの声に興味を引かれたカイは、窓から覗き見ようとしたが、大神殿の外観を捉える事はできてもハリスの姿を見つける事はできなかった。仕方なく諦め、大人しく待とうと正しく座り直したが、門が開く様子も、馬車が動き出す様子も無い。  カイは再び窓から覗いて見たが、やはりハリスの姿は見つからず、しばし逡巡した後、馬車を降りてみる事にした。  シェリアが無言で向けてくる感情の無い瞳は、勝手な行動を取るカイを引き止めていたのかもしれない。一瞬ためらったカイだが、声がかからないのを良い事に、好奇心に導かれるままにした。 「そうは申されましても、許可が降りるまで、この門を開けないよう指示されております。ハリス様の命と言えども、門を開ける事はできません」 「私や部下たちだけならば構わないが、シェリア様とカイ様をお連れしているのだぞ? 長旅でお疲れのおふたりを、こんな所でお待たせせよと?」 「それは」  門の前に立つ若い騎士は、己の任務を果たそうと必死に反論しながら、突然視界に入り込んだカイに気付いたようだった。彼もトラベッタに到着したばかりのハリスたちのように、カイの顔を知らないはずだったが、背格好や歳の頃合い、瞳の色でカイが何者であるかを察したらしく、僅かな間の後にカイに向き直り、深々と頭を下げる。  青年の突然の行動で、ハリスもカイが降りてきた事に気付いたようだった。慌てて振り返り、カイに礼をする。 「カイ様、お疲れのところ、お待たせしてしまい申し訳ございません。何やら神殿内で問題が起こったようで、門が閉じられているのです。すぐに開けるよう手配いたしますので」 「余計な事はしなくていい。こんな真昼間から門を締め切らないとならないような問題なら、俺の事よりも優先した方がいいんだろう」 「しかし……」  ハリスの言を遮るように鈍い音が響きはじめると、重厚な門がゆっくりと開き、少しずつ中の様子をカイに見せつけた。  光を浴びる事で鮮やかに光る新緑を左右に従え、真っ直ぐに伸びる白い道。道の終わりに建つ大聖堂が、白く輝きながら鮮烈な存在感を示す。  あれが、大司教が祈りを捧げ、時に神の声を聞いていた場所。 「ジオール殿」  美しい建物に目と意識を奪われていたカイは、門を潜って近付いてくる男の足音と、その男を呼ぶハリスの声で意識を呼び戻した。  ジオールと呼ばれた男は、ジークやハリスと比べ、そう歳が変わらないようにカイには思えた。ジークよりも幾分ましとは言え鋭い眼光の持ち主で、気難しそうにも見える。ハリスとほとんど同じ格好をしているが、唯一剣帯を下げる場所が逆で、どうやら左利きの剣士らしい。  門の前に居た青年に簡単に業務連絡を済ませたジオールは、自らの名を呼んだハリスに振り返ろうとしたが、その途中に立っていたカイを目に止めると、僅かに目を見開いた。 「カイ様のお出迎えに来てくださったのですね」  ハリスの声に、ジオールは答えない。驚いたようにカイを見つめ続ける男の態度をごまかすように、ハリスはカイに振り返った。 「カイ様。こちらはジオール。今後、カイ様の護衛隊長を務める者です」  ハリスの紹介に肯きかけたカイだったが、即座にジオールが口を挟んだ。 「いえ、カイ様の護衛隊長の任には、別の者が着きます。私ではありません」 「え……?」  今度はハリスが驚く番だったが、ジオールはそれ以上説明を重ねようとはせず、カイに対して一礼をしてから話を進めた。 「カイ様、こちらの不手際でお待たせしてしまい申し訳ございませんでした。どうぞ、中へお入りください。まずはカイ様の護衛隊長を勤める者が、お部屋にご案内します。その後聖騎士団長よりお話がありますので、お疲れのところ申し訳ありませんが、大広間まで足をお運びください――ハリス、その時は貴公もシェリア様をお連れして共に」 「私も、ですか?」 「そうだ。重大な話がある」  ジオールと言う男は見るからに真面目そうで、くだらない嘘や冗談を口にするようには見えなかった。重大な話、と言われて緊張を見せたハリスの態度を見る限り、見た目通りの人物なのだろう。  ならば余計に、ジオールの言葉には引っかかるものがあった。何しろ今は、十五年以上も行方不明だった神の子カイが帰還したばかりなのだ。それと比較して同等かそれ以上の事でもない限り、重大とは言えないだろう。  一体何が起こったのか。気になったカイは、ジオールの思考を覗けないものかと、彼の目を見つめたが、深い色の瞳は何も語ろうとしなかった。 「重大な話と言うのは、貴方が俺の護衛隊長になる予定が狂った事や、昼日中から門が閉まっていた事と何か関係があるのですか?」  カイが問いかけると、ジオールは僅かに間を置いてから静かに肯いた。 「おっしゃる通り、どちらにも関連する事ですが、私の口から語るべき軽い問題ではございません。後ほど団長より説明がありますので、お待ちください」 「判りました」  カイが了承すると、ジオールはハリスに向き直った。 「ハリス、途中までご案内を頼む」 「お任せください」 「では、カイ様。この場は失礼いたします」  一礼し、踵を返してジオールは立ち去る。その背中をしばし見送った後、ハリスは「ご案内いたします」と短く言った。 3  再び馬車に乗り込んで、白い道を進む。わざわざ馬車に乗るほどの距離があるとは思えず、「これくらいならば歩く」とカイは主張したのだが、「シェリア様もご一緒ですので」と言われてしまえば、我を通すわけにも行かなかった。  門から真っ直ぐに進むと大聖堂があるが、途中で道を曲がる。聖騎士たちの宿舎と思わしき建物の前を通り過ぎると、尖塔が姿を現した。  大きな平屋の建物の南側と東西それぞれに塔が繋がっている。カイは初め、そう思っていた。だがそれにしては塔の存在が強すぎるように感じ、もしかすると逆かもしれないと思いはじめた。平屋だと思っている部分は、それぞれの塔を繋ぐための通路としての役割を果たすために存在しているだけなのかもしれない。  周囲を見渡す程度の高さしかないこの塔に何の意味があるのかと疑問を抱いたカイだったが、誰に質問すべきか悩んでいる間に、答えを知る事となった。馬車が平屋の入り口の前に停車したのだ。 「部屋に案内するって言われたよな、俺」 「はい。カイ様は南の塔となります」 「……そう、か」  色々な意味で予想外だったが、深く考えても無意味だと判断したカイは、思考から逃げる事にした。馬車に乗り続けていたために強張りかけた体を可能な限り伸ばすと気持ちよく、全身が静かに悲鳴を上げ続けていた事実を思い知らされる。 「カイ様、申し訳ありませんが、お手をお貸しいただけますか」 「お前には充分以上に手を貸しているつもりだが? 神の子の使命とやらを果たす以上の事を俺に求めるな」  カイはひらひらと手を振りながら、冷たい声で言った。 「いえ、私にではなく、シェリア様のために」  振り返ると、馬車を降りずに待っているシェリアが見える。 「お前が貸せばいいだろう」  即座に浮かんだ疑問をそのままハリスにぶつけると、ハリスは微笑みながら答えた。 「私はシェリア様に触れる事を許されておりませんから」  カイは首を傾げた。言われてみれば、いつもシェリアに手を貸しているのは、ハリスの部下の誰かだった。ハリスが彼女に手を差し伸べた事は一度として無い。  シェリアの態度にも、ハリスの笑みにも、頑なに崩せないものがあるように思え、カイは「別にハリスでもいいじゃないか」と言う気にはなれなかった。無言でシェリアに手を差し出すと、シェリアはカイの手を借りて馬車を降り、軽く会釈をしてから「ありがとうございます」と言った。  真っ白なシェリアの手が離れていく様を見つめていたカイは、足音が近付いてくる事に気が付いた。顔を上げると、カイよりも先に足音の主を見つけたハリスが、驚いた顔をして人の名を紡いだ。 「ルスター!」 「カイ様、シェリア様、ハリス殿。トラベッタよりの長旅、お疲れ様でした。ご無事のご帰還、何よりです」  ルスターと呼ばれた男は、年の頃はハリスらと比べ、幾分若く見えた。ゆるく波打つ蜂蜜色の髪を持つ、端正な顔立ちの男で、優しそうな笑みを浮かべている。  見るからにいい人そうだ、と思ったカイだったが、視界の端にハリスが映った瞬間、見た目に騙されてはならない事を思い出した。 「お初にお目にかかります。私はルスター・アルケウスと申します」  男はカイに向けて優雅に一礼した。 「カイです。はじめまして」 「ルスター、まさか君が、カイ様の?」  ルスターは頷く事でハリスの問いかけに答えた。 「私がカイ様の護衛隊長を勤めさせていただく事になりました」 「貴方が、俺を?」 「はい。どうぞよろしくお願いいたします」  ゆっくりとした優雅な動きで、ルスターはカイの前に跪いた。誰かに本気で跪かれた経験など過去に無いカイは突然の事に戸惑い、無意識の内にシェリアやハリスに眼差しで救いを求めたが、ふたりは当然の事として成り行きを見守っている。神に仕える者が、神の子に礼儀を尽くす事の何がおかしいのかと、無言で訴えているようだった。 「ルスターさん、とりあえず立ってください。俺、そう言うの、慣れてないんで困ります。貴方にも立場があると思うんで、普通に接してくれとまでは言いませんが、その……あまり仰々しくはしないでください」 「そう申されましても」 「ルスター」  名を呼ばれ、ルスターはハリスを見上げる。それ以後は双方共に無言だったが、何か通じるものがあったようで、ルスターは頷いた後に立ち上がり、柔らかな眼差しでカイを見下ろした。 「カイ様がこの神殿において快適に過ごされるために必要だとおっしゃるのでしたら、了解いたしました」 「ぜひお願いします」  力強い声で訴えると、ルスターは微笑んで頷いてくれたので、カイは安堵して微笑み返した。 「それではシェリア様、ハリス殿、また後ほど。カイ様はどうぞこちらへ」  扉を開ける事で、建物の中に入るようルスターが促したので、カイは大人しく従った。先導に従い、扉から繋がる通路を真っ直ぐ進みながら、つい辺りを見回してしまう。  エイドルードの伝承が真実ならば、この神殿は何百年も昔からあるはずだが、それほど古さを感じなかった。修復や改築が繰り返された様子も無いので、この建物はそう遠くない過去に新たに建てたか、建て直したもののようだ。  あまり落ち着きがないのはみっともないと自分に言い聞かせ、真正面を見たカイの目に、斜め前を歩くルスターの顔が映る。その顔つきは妙に真剣で、緊張しているように見えた。 「ルスターさんも、強いんですか?」  部屋までどれほどの距離があるか判らないが、ずっと無言でいるのは重苦しいと考えたカイは、思いついた事を口にしてみる。するとルスターは驚いた顔で振り返り、誤魔化すように笑った。 「剣技の事、でしょうか?」 「もちろん。ハリスの剣は少しだけしか見た事がないんですが、それでも使い手だって事は判ったので……貴方もそうなのかな、と思いまして」  考え込むそぶりを見せてからルスターは答えた。 「自らの腕を客観的に計る事は難しいものですし、個人の剣の腕について上手く説明する言葉はなかなか見つかりません。となりますと、カイ様がご存知のハリス殿と比較してご説明するしかなくなるのですが、最近は刃を交わす機会もなく――ですが、そうですね。運が良くて、十本中二本を私が取る、くらいではないでしょうか」  カイは一瞬言葉を失った。 「二本、ですか」 「カイ様をお守りする者として、誇れる事実ではございませんが」 「責めているわけではないです。褒めていると言うか、尊敬します。俺じゃよっぽどの奇跡が起きない限り、一本すら取れない」  自分で言っていて情けなくなるが、事実だった。あの男の脅迫に屈した時、心を売る代わりにせめて叩きのめしてやりたいと思ったものだが、実力差はそれすらもカイに許してくれなかったのだ。 「ハリス殿は聖騎士団の中でも屈指の実力者です。大陸中を探しても、ハリス殿と互角かそれ以上の剣士など、ほとんど見つからないでしょう」 「やっぱり、ジークは凄かったんだなぁ……」 「ジーク?」 「あ、親父です――と。貴方がたにこう言っても通じないんですよね。俺を育てて、剣を教えてくれた人って言えばいいですか。凄く強くて、トラベッタを魔物から守り続けていて、街中の人に一目置かれていました。多分、ハリスより強かったと思います。ハリスは昔、ジークの部下だったって言ってましたし」  会話しているうちに緊張が解れたのか、笑みを模りはじめたルスターの表情が、再び凍りついた。 「っと、すみません」  カイは反射的に謝罪の言葉を口にしていた。  生まれてから十六年と少し、ジークと共にあり、ほとんどの時間をトラベッタで過ごした事は、幸福な事だとカイは思っている。だがそれは、ジークが聖騎士の地位を捨て、時に過去の同僚と戦う事で得たものなのだ。  ハリスがジークに対して好意的な態度を取っていたせいで、すっかり錯覚していた。普通に考えれば、過去の同僚である聖騎士たちが、ジークの事を快く思うはずがない。 「なぜ、謝られるのですか」 「なぜって……ジークは、俺にとってはいい父親でしたけど、貴方にとっては迷惑極まりない存在だったのだろうなと思ったので」  カイが答えると、ルスターは小さく首を振った。 「エア・リーン……いえ、ジーク殿と呼びましょうか」  目の前の男が口にした名が、父のかつての名だと漠然と理解しながら、カイは無言でルスターを見上げた。 「私も聖騎士の一員として、ジーク殿を蔑むべきだったのでしょう。ですが私もハリス殿と同様に、彼を糾弾する事はできませんでした。ジーク殿の部下であった一年と少しの時間は、今でも大切なものとして、ここに残っておりますから」  ルスターは彼自身の胸にそっと手を置いた。 「貴方もジークの部下だったのですか」 「はい。この後お会いする事になる、ジオールと言う聖騎士もそうです」 「あ、その人ならさっき会いました。本当なら俺の護衛隊長になるはずだったって」 「もう会われたのですか」 「はい。偶然門のところで。そうか……あの人も」  カイは聖騎士団における組織がどう言ったものであるかをよく理解していないが、シェリアやカイなど神の子の護衛隊長に選ばれる人物は、それなりに地位が高いのだろうと予想している。  つまり、護衛隊長候補であったジオールも含めた三人は優秀な人物――人格の良し悪しはともかく――だと言う事で、まだ二十歳前後であった父のおそらく数少ない部下のうち、三人もが優秀な人材に育ったと言う事実は、誇らしく思えた。 「ジークは、貴方たちにとっていい上官だったのですか?」  その問いに対するルスターの反応は難しいものだった。  優しさの中に苦味と苦痛が交じり合い、けれどより優しくあろうとする笑みを浮かべ、細めた眼差しが虚空を見つめている。 「判りません」  沈黙の後、ルスターは答えとは言えない答えをカイに返してくれた。 「私は今でも、ジーク殿に対して抱くべき感情を決めかねております。私は隊長の事を慕っておりました。けれど、隊長は何も言わずに私たちを置いていき、やがて私たちの敵となった」  カイはこの時になってようやく、父を誇るための問いをルスターに対して投げかけた事が誤りであると悟った。 「私はただ、悲しくて――そして羨ましかった。隊長を理解し、許す道を選べた方が。私たち以上に手酷い裏切りを受ける事によって、隊長を憎む道を選べた方が」  苦悩を笑顔で押し隠したルスターの表情は、自分と父との幸福や、トラベッタの平和のために、犠牲になったものの象徴だった。  父を慕う心も、幸福な日々を放棄するつもりもない。けれど、ルスターの存在は、確かにカイの良心を揺さぶった。 4  永遠に続くかのように長く伸びる白い道。並木は計算されつくした美なのだろう、昼の光を浴びて緑が若々しく輝き、短く伸びた影が道の中心に灰色の絵を描いている――それが、カイに与えられた部屋の窓から見える風景だった。  清廉かつ優美なその光景は、自分自身には不似合いに思え、居心地が悪い。カイは入り口近くに立っているルスターに救いを求めて視線を向けたが、ルスターは「お気に召しましたか?」とでも聞きたげに微笑んでいるだけだ。 「外からこの塔をはじめて見た時、何だろうと思ったんですけど、丸ごと俺のものだったとは驚きです」  ルスターは力強く肯いた。 「この建物自体が、神の御子のために建築されたものですから」  つまり、約十六年前に造られながら、誰も使う事無く埃を積もらせ続けていたと言う事だ。無駄な事をと思う心が半分、無駄にしたのは他ならぬ自分たちだと思う心が半分で、カイはいたたまれなくなり再び窓の外を見る。  遠くを見やると、白い道に映る灰色の中に塔の姿が見つかった。ひとつ、ふたつ、みっつ。周囲にある何よりも背の高いその影に思わずため息を吐いたカイは、直後に浮かび上がった素朴が疑問を素直に口にした。 「なんで、ですか?」  カイはルスターに振り返った。 「なんで……と申しますと?」 「南と、東と、西と。塔は三つあるじゃないですか。東西のどちらかはシェリアのものなんでしょうけど、あとひとつは誰のために?」 「それは」  ルスターは口を噤んだ。明らかに答えを知っている、と言う顔をして。 「言えないような理由があるんでしたら、別に無理して教えてくれなくでもいいですよ」 「いいえ、言えない訳ではないのですが、この場で私の口からお伝えしても良い事かと……」 「――様!」  全て語り終えないうちに、突如騒々しくなった窓下をカイは見下ろす。ルスターも何か思うところがあったのか、カイと同じ窓に歩み寄った。  静かな光景を台無しにする複数の乱暴な足音が響いたかと思うと、走るいくつかの人影が姿を現した。ほとんどは聖騎士団の男たちのようだが、彼らを後ろに従えて先頭を進む影は小柄で、どうやら少女のようだ。  少女の割にはずいぶん足が速いようだが、シェリアが着ているものによく似た裾の長い白い服が足に纏わりつき、走りにくそうにしていた。動きやすい格好をしていれば逃げ切る可能性も残されていたかもしれないが、あれではそのうち追いつかれるだろう。 「今回は門を封鎖するまでもないようだな」  難しい顔をしたルスターのひとりごとはやや掠れていたが、意味を理解できる程度には聞き取る事ができた。  どうやらあの少女こそが、昼日中から門を閉鎖し、カイたちを待たせた真犯人らしい。 「不法侵入者、って感じの格好でもなさそうですね。なんとか様って呼ばれていたみたいですし」 「はい。神殿の門は基本的に、陽の光がある時分は常に開かれ、誰でも自由に出入りできます。不法侵入の扱いを受ける者はおりません」 「じゃあなんで追われてるんですか?」 「あの方は……」  風を切るように走る小柄な人物の、女性にしては短い金の髪が、陽の光を反射しカイの目を焼いた。  シェリアと同じ眩しい髪だと、カイは思った。だが当然、シェリアではない。シェリアの髪はもっと艶やかで長いし、あのシェリアが走り回り聖騎士に追い駆けまわされる姿など、想像もつかない。  むしろ――  カイは窓から身を乗り出した。慌てたルスターが肩を掴んでくれなければ、そのまま落ちていたかもしれないほどに勢いをつけて。だがカイはルスターの支えに気付かず、食い入るように小柄な影を見つめ続けた。  少女に追いついた聖騎士の手が少女を捕えようとすると、少女は地面を蹴り、聖騎士との距離を一瞬だけ広げる。その一瞬で振り返ると、身を屈める事で聖騎士の腕を避け、代わりに自身の腕を伸ばした。  小さな白い手は狙いを定めて聖騎士の顔に触れる。  聖騎士の体が、宙に浮いた。  はじかれるように吹き飛んだ聖騎士の体を、後続の聖騎士は受け止めきれず、ふたりが白い道に倒れ込む。共に走っていた別の聖騎士は、仲間の様子に僅かに足を止めたが、少女を逃がすまいと再び走りはじめた。  カイは無意識に窓の淵を強く握り締めていたが、指先の痛みを感じ取る事ができないほど、意識が少女に集中していた。  あの身のこなし、あの力。間違いない、あの少女は―― 「リタ!」  カイが叫ぶ。  すると少女は走る速度をそのままに、振り返った。はじめは後方を、次に周囲を探すように見回し、最後に顔を上げてカイを見つけてくれた。 「……カイ!?」  名前を呼ぶ声には強い驚愕が混じり込んでいた。遠ざかろうと動いていた足は徐々に止まり、やがてカイを見上げる形で立ち尽くす格好になる。  カイは息を吸い、リタに告げるべき言葉を叫ぼうとしたが、何も音にならなかった。もどかしさに耐え切れず、ルスターの手を振り切って、塔を駆け下りる。  ルスターと共に昇った長い階段を下り、ルスターに案内されて通った長い通路を賭け抜け、カイは扉を開く。白い道に、別れてから数十日しか過ぎて居ないと言うのにひどく懐かしい少女に、繋がる扉を。  リタを追い駆けていた聖騎士たちが壁になっており、リタの姿が見つからないと、カイは更に走る。聖騎士たちをかきわけて前に出ると、ようやく探していた少女の姿を見つけた。  相変わらず細い体に、清楚な白い服を身に付け、金の髪や白い肌を空色の宝石で飾り立てた少女は、傍らに立つジオールをきつく睨み上げている。しかし、カイの到着に気付くや否や、瞳を優しく変化させ、カイに振り返った。 「カイ、あんた、なんでこんな所に居るの!?」  カイは切れ切れの息をできる限り整えてから返した。 「それはこっちの台詞だ! どうして君が、こんな所に……」 「だってあたしはほら、別れ際に言ったでしょう。父親かもしれない男の事を調べるために、王都に行くって。聖騎士団の関係者だって事は判ってたからここに来て、例のメダルを見せて話を聞いてみようと思ったら、いきなり捕まって軟禁されたんだから!」 「軟禁とは、少々お言葉が過ぎるのではありませんか」  興奮気味なリタの言葉に冷静沈着なジオールの言葉が続くと、リタは再びジオールに向き直り、眼差しをきつくしながら反論した。 「あたしは自力で脱走しなければ、あの塔から一歩も出してもらえなかったんだけど!? 軟禁じゃないなら何だって言うの。監禁?」 「当初、神殿内であればご自由に、と申したはずです。しかし貴女は誰に告げる事も無く神殿を出ようとなさいました。ですから、落ち着かれるまでの間、少々行動範囲を狭めさせていただいたまでです」 「少々!? 塔の中限定のどこが少々だっての!?」  ジオールは瞬きをするのみで、リタの問いに答えようとはしなかった。しかし揺るぎない眼差しが、姿勢が、暗にリタを責め立てている。  視線のぶつけあいに負けたのはリタの方だった。リタは悔しそうにジオールから目を反らすと、カイのそばに歩み寄り、縋るようにカイの腕に触れる。  しかしカイも、ジオールと視線の意味が違えど、無言でリタを見下ろすのみだった。元々美しい少女だと思っていたが、動きやすい皮鎧を脱ぎ捨てて飾り立てた今は、より美しく見える。つい見惚れてしまい、上手く言葉が探りだせないのだ。 「まあ、よく判らないけど、カイに会えて少しほっとした。軟禁されるし、せっかく脱走したと思ったら、真昼間なのに門がきっちり閉まっていて外に逃げられないし、たまに会う顔と言ったらつまらない話しかしない女官とか、お堅い聖騎士とか、自分が正しいと信じ込んでいるような男とかばっかりで、気が狂いそうだったんだよ。それで、カイは? カイはどうしてここにいるの? トラベッタはどうしたの?」 「ああ、それは……」  カイは無言で立ち続けるジオールを見上げた。リタの傍に立っていた、本来ならばカイの護衛隊長になるはずだった男を。  気にかかる点はそれだけではない。リタを神殿から出さないためだけに、予定外に閉じられた門。神の子のために建設された塔に、リタが閉じ込められていたと言う事実。リタが生まれながらに持っていたと言う、原因不明の力。  そして――ああ、どうして今まで気付かなかったのだろう。表情も性格も違うせいで印象が完全に食い違っているが、リタの容姿は、シェリアのものによく似ている。髪の色も瞳の色もまったく同じ色ではないか。 「ジオールさん。貴方はリタの護衛隊長なんですか? 彼女が、後ほど聖騎士団長から説明される予定だった、『重大な事』なんですか?」  カイの問いかけに、ジオールは静かに、だかはっきりと肯いた。 「はい、おっしゃる通りです、カイ様。リタ様は、天上の神と森の女神の御子。シェリア様の双子の妹君であらせられます」  どうやら、再会の喜びに酔う余裕すら与えてもらえないらしい。予想はしていてもなお衝撃的な事実に、カイは無意識にリタの手を探し、握り締めた。  カイ自身の手よりも僅かに冷たい小さな手。その温もりだけが、今のカイの心を支えてくれる。 「カイ? 一体どう言う事?」  見上げてくる空色の瞳は、言葉以上に強くカイに問いを投げかけてきた。 「君にとってどうだか判らないけれど、俺にとっては幸運な事なんだと思う」 「何が」 「この大地に溢れる男たちのなかで、俺だけが君に触れる事ができる理由。それが、偶然なんかじゃ無かったって事がさ」 5  今から二十年ほど前、聖騎士団にはふたりの天才が居たと言う。  ひとりは第十八小隊隊長エア・リーン。地方の農村出身でありながら、出自を感じさせる事のない礼儀作法を身に着け、流暢な神聖語を喋り、入団一年目でありながら武術大会で優勝し、聖騎士団長と刃を交わす栄誉を得るほど強い男だった。  もうひとりは騎士団長アシュレイ・セルダ。聖騎士団内に残されていたあらゆる記録を塗り替え、若干二十五歳にして聖騎士団長の座に着いた彼は、剣技、知識、知恵、容姿においてまで、比肩する者無き男だった。  当時、誰もが彼らの将来に期待したと言う。まだ若き彼らが、聖騎士団と共に成長し、聖騎士団を正しく導いていく未来を夢見たのだと。  だがふたりは周囲の期待に応える事無く、ある日を境に聖騎士団を去った。エア・リーンは大神殿から、アシュレイ・セルダは遠征先の街から、忽然と姿を消したのだと言う。  そしてふたりは禁忌を犯した。エア・リーンは婚約者が勤める砂漠の神殿に、アシュレイ・セルダは妻が勤める森の神殿に侵入し、神の妻たる女神を連れ去った。 「女神は神殿を去る前から御身に御子を宿しておられ、やがて神殿の外で神の御子をご出産なされました。砂漠の女神たるリリアナ様はカイ様を、森の女神たるライラ様はシェリア様とリタ様を。女神ご自身の、尊きお命と引き換えに」  ハリスと、ジオールと、ルスターとを後ろに控えさせた男は、悲痛な光を眼差しに湛えながら言った。  上背が高く引き締まった体をした男は、人目を引き付ける鮮やかな藍色の外套を羽織っている。それこそが聖騎士団を率いる人物の証であり、彼が現聖騎士団長である証でもあった。 「神が真実を当時の大司教に告げ、聖騎士団が皆様をお迎えに参上したのは、ご生誕より一年余が過ぎた頃、今から十五年ほど前となります。その際、エア・リーンとアシュレイ・セルダはそれぞれ、御子を連れて逃亡いたしました。聖騎士団は大司教を通して神の声を聞き、御子の捜索及び両名の追跡を開始いたしましたが、力及ばず、アシュレイ・セルダよりシェリア様の奪還に成功したのみ。エア・リーンはカイ様をお連れしたまま神の目を逃れ、アシュレイ・セルダはリタ様をお連れしたまま行方不明となりました。リタ様のお話により、今日に至ってようやく死亡が確認された次第です」  聖騎士団長が詫びの意味を込めて頭を下げると、他の三人も続いた。 「探索と追跡は絶えず続けておりましたが、我らの力不足により発見にいたらず、カイ様とリタ様には長き苦境の日々を強いる事となりました。どれほど謝罪しようとも許される事ではありません――特にリタ様は、リタ様御自ら足をお運びくださらなければ、お迎えに更なる時間を要したはずです」  カイは右隣に立つシェリアの無表情を確認してから、左隣に立つリタと無言で目を合わせた。合図は何もしなかったが、ほぼ同時に深い息を吐き出し、強い眼差しでディアスを見上げる。 「別に辛くも悲しくも無かったので、そんな事、謝る必要はありません。むしろ、迎えに来た事を謝ってほしいくらいですから」  カイが本音を吐露すると、リタも続けた。 「あたしは迎えに来てもらった方が良かったのかもしれないけど、白々しくて余計に腹が立つからやっぱり謝らないでほしい。たったひとりの神の息子であるカイの事は本気で探していたんだろうけど、あたしなんて別に探してなかったんでしょ? 神の娘は、シェリアひとりが居れば充分だもんね」 「リタ様、けしてそのような事はありません! 団長は誰よりもリタ様をご心配なされておいででした」 「よい」  リタの言葉を否定しようと身を乗り出したルスターを、団長は短い言葉で制止する。ルスターは一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐに無表情を作り、元の位置に戻った。  反論も、許しを請う事もしない。それが彼なりの謝罪なのだろう。  理解はできる。だが、違うのだ。自分はそんなものが欲しいわけではない――カイは無意識の内に、握り締めた拳を震わせていた。 「何? それ。自分たちの非を認めて、非難は全て受け止めますって、そう言うつもり? それで誠意を見せたつもりなわけ?」  カイは開きかけた唇を閉じ、リタに振り返った。今まさに自身が紡ごうとした言葉を、リタが紡いでくれたからだ。  綺麗に弧を描く眉を吊り上げ、大きな空色の瞳に憎悪を宿らせ、小さな唇をひきつらせている。胸元で握り締められた手は、カイのものと同じように小刻みに震えていた。 「涼しい顔で罵倒を受け止めて、反省してるふりをして、心の中では笑ってるんでしょ。大事な大事な神の子供がまた癇癪を起こしてる、落ち着くまで黙って聞いておこう、子供はそうやってあしらえば良いんだって! 少しでも機嫌をとって、救世主だか次代の神だかの子供を一刻も早く産んでくれればそれで良いって、思ってるんでしょう!」  部屋中に響き渡るリタの叫びが、痛いほどの沈黙を呼び込む。大声を出した事で息が切れたのか、リタの激しい呼吸だけが、カイの耳に届く全てだった。 「『その通りです』とお答えすれば、ご満足いただけるのでしょうか?」  本音を叫ぶ事で潤みはじめたリタの瞳が、沈黙を破って発言した人物に向けられた。  リタはしばらく苛立ちに唇を噛んだ後、右手首にはめていた黄金の腕輪を外し、ハリスに対して力任せに投げつけた。肩を上下させて興奮に乱れた息を整えながら、腕輪を受け止めるハリスを睨みつける。  カイはリタの肩にそっと手を置いた。  カイのてのひらから温もりが伝わると同じ速度で、リタは興奮をゆっくりと静めていく。上を見上げ続けていた顔が、気持ちと言う支えを失って俯くと、目にたまっていた涙が静かに頬を滑り落ちていった。  涼しい顔をしていた聖騎士たちが僅かに動揺し、空気が震える。 「あたし、悔しい。悔しいよ、カイ」  短く区切りながらこぼれていくリタの言葉に、カイは頷いた。 「あたしだって本当は判ってる。この人たちが悪いんじゃないって事くらい。この人たちは、世界を守りたくって、大切な人を守りたくって、そうしなきゃいけないからそうしてる。それだけだって、ちゃんと判ってるよ。でも、だからって、自分たちが悪くないって、そんな顔されたら……あたしは凄く惨めで、悔しい」  カイは再び肯いた。 「うん、判るよ、リタ。俺だって同じ気持ちだ。だからこそ、ここで泣いてはいけない」 「……っ」  意志の強さで泣き崩れる事を堪え、自身の涙を拭うリタを支えながら、カイは聖騎士たちに顔を向けた。 「これ以上貴方たちから聞くべき話があるとは思いませんから、とにかく部屋に戻ります。場所も判りますから、送ってくださらなくて構いません。リタは俺が送ります」  聖騎士団長は小さく頷いた。 「了解いたしました」 「行こう、リタ」  カイが可能な限り優しい声で言うと、リタは嗚咽を飲み込みながら小さく頷いた。ひとりで生きる事を余儀なくされ、挫けずに強く生きてきた少女の見せる涙に、カイの中で滾る怒りがより強くなっていく。 「カイ様」  リタの肩を抱いて立ち去ろうとするカイを呼び止めたのはハリスだった。 「こちらをリタ様にお返しください」  ハリスが差し出したものは、先程リタが投げつけた黄金の腕輪だった。作ったような微笑を浮かべてそれを返す様は醜悪で、カイはあまりの不愉快さに笑うしかなかった。 「俺をここに連れてくるために数千人の命を盾に取って、それでもそうやって笑っていられるあんたは、やっぱり凄いよ。あんたがリタや俺の護衛隊長じゃなかった事を、俺は神様とやらに感謝する」 「結界外でお育ちになられたカイ様のお心に、エイドルードへの信仰が芽生える役に立てたのだとすれば、私が生を受けた意味もあったと言うものです」  良心も、自制心も働かなかった。カイは自分の心が願う通り、涼しげに微笑むハリスの頬を殴りつけた。  突然の衝撃によろけ、膝を着くハリスの手から、腕輪を奪い取る。そして今度こそ振り返る事をせず、カイはリタを連れてその場を後にした。 「ハリス、リタはどうして泣いているの? カイ様は、どうして怒っておられるの?」  感情の無いシェリアの声は、けして大きな声ではないと言うのに、いやにはっきりとカイの耳に届いた。  自分が可哀想だ。リタも、可哀想だ。けれど誰よりも可哀想なのは、何も理解できていないシェリアなのかもしれない。 6 「まだ赤いようですが、大丈夫ですか?」  頬を指差しながらルスターが言うので、ハリスは頬を押さえながら笑って返すしかなかった。鏡を見なければ詳細は判らないが、触れたところは自覚している輪郭よりも僅かに丸みを怯えているので、腫れているのかもしれない。 「痛みがないと言ったら嘘になるな。カイ様は、剣技はまだ荒削りで多分に成長の余地を残しておられるが、単純な力のみを言えばなかなかお強い。こうもまともにくらっては」 「ならば避けられれば良かったのに」  ルスターは小さく吹き出す。  表情と言葉から、この後輩は全てを理解しているのだと知ったハリスは、何やら照れくさく、誤魔化すように笑った。 「カイ様が貴方の事を強く憎悪しておられると感じた時から、おかしいとは思っていたのです。私が知るハリス殿と言う方は、どんな相手にも思いやりを忘れず、故に滅多に人に嫌われるような方ではありませんでしたから」 「それは買い被りと言うものだ、ルスター」  ルスターは小さく首を振ってから、頬を押さえる手をどかすよう目で合図を送ってきた。  ハリスが無言で従うと、彼の手にあった冷たい水に浸された布が、赤みを帯びた頬に触れる。冷やされる事で熱が徐々に緩和されていき、心地良かった。 「カイ様の拳を受ける貴方を見て、さすがの私も理解しました。カイ様やリタ様が必要としていたものは、誠意ある謝罪でも、理解者でも、優しさでもないのだと。おふたりが欲していたものは、ためらいなく憎悪や怒りや苛立ちを向けられる相手であり、貴方はそれを理解した上で、わざとあのように、より不興を買うような言葉を口にされたのですね?」  ハリスは僅かに間を空けてから、先ほどと同じ言葉をもう一度口にした。 「それは買い被りと言うものだ、ルスター」 「では、なぜカイ様の拳を避けなかったのです? 貴方ほどの方が、感情に任せて振り上げられた拳など、避けられないわけもないでしょう。貴方の実力がその程度ならば、私は何度でも貴方から勝利を奪えたはずでは?」  ルスターにしては鋭い切り返しだとハリスは思った。  だがよく考えてみれば、エア・リーンの失踪によって第十八小隊が事実上の解散となった十七年前を最後に、ハリスはルスターと職場を同じくした事がない。地方勤務や遠征隊に配属されない限りセルナーンを離れる事がないため、言葉や剣を交わす機会は度々あったが、これほど長く会話をしたのはずいぶんと久しぶりになる。  十七年もあれば、誰でも変わる。むしろ、流れた時の長さを鑑みれば、変わっていない方なのだろう。ルスターだけではない、ハリス自身も――まるで時の流れを恐れているかのようだ。 「殴られた事がわざとであるのは認めよう」  認めると、ルスターは満足そうに微笑んだ。彼に限って悪意は無いはずだが、勝ち誇ったようにも見える微笑みから、ハリスは目を反らす。 「申し訳ありませんでした」  さほど間を空けず、ルスターの声で紡がれた謝罪の言葉が耳に届いた。 「君が何を謝る必要がある」 「カイ様のお心につい先ほどまで気付かずにいた事です。それによって、憎まれ役を貴方ひとりに押し付けてしまいました。カイ様のお傍にあるのは、ハリス殿でなく私であると言うのに」  ハリスは気付かれないよう苦笑してから、ルスターの肩を小突いた。 「今日からは君の方がカイ様に近いとは言え、トラベッタに滞在していた日々やトラベッタからセルナーンまでの旅路をお供したのは私なのだから、仕方あるまい。それにカイ様とて、負の感情を強く抱く相手が常に傍にあっては、不快なだけだろう。事実、セルナーンまでの旅路は随分苛立っておられた」 「ならば、こちらに戻ってから喧嘩を売られば良かったのでは?」  ハリスは再び苦笑した。今度は、隠そうとはしなかった。 「その時はその時なりに事情があったのだ」  だが今になって思うと、無意味だったのかもしれない。  温くなった布を外し、触れると痛みが走る頬をひと撫ですると、自分を睨みつけてくるカイやリタの眼差しが、寄り添うようにして去っていくふたりの姿が、はっきりと脳裏に蘇る。  行方不明になっていたもうひとりの神の娘が発見された事にも驚いたが、そのリタとカイの間にすでに面識がある事実は更に驚きだった。しかもどうやら、互いの事を憎からず想っているようだ。  しぶしぶ神の意志に従ったカイにとって、リタの登場は奇跡とも言える幸運なのだろう。だがハリスからして見れば、リタの登場は面白いものではなかった。  運命に従う事を決めたカイに、神の娘を拒絶する道は残されていない。だが、神の娘のどちらを選ぼうと許されるだろう。リタか、シェリアか――その二択を迫られた時、カイの出す答えは誰の目から見ても明らかだった。  命を捨ててまで大地の救済を願ったエイドルードや、この大地に生きる人々のためだけを考えるならば、カイがどちらを選ぼうと問題はない。カイがリタと決めたならば、誰ひとり反対する事なく、話が進むことだろう。  そしてひとり残されるのだ。新たなる神の母となる事を心から望む唯一の少女、ハリスが生涯をかけて贖うと誓った主人は。彼女がたったひとつ抱く望みは、けして叶えられる事なく。 「シェリア様がどうかなされたのですか?」  思考に拭ける中、前置きも無く確信を突かれ、ハリスは慌ててルスターに振り返った。 「その様子を見ると当たったようですね。まあ、この所の貴方の噂を聞く限り、貴方の行動の理由となるものは、シェリア様のためかエイドルードのためか、ふたつにひとつしか考えられませんし、トラベッタからセルナーンに移動するまでの間に事情が変わるとすれば、シェリア様の方としか考えられないでしょう」 「単純な人間だと笑われている気がするな」 「まさか。私ごときに他者の単純さを指摘する権利などございません」 「否定はしないでおこう」 「少しは否定してください」と主張するルスターに笑顔を投げかける事で、ハリスはその場をごまかした。  ルスターの言う通りだ。エイドルードやシェリアのためならば、カイやリタに憎まれようとも辛いとは思わない。ハリス自身も人である以上、哀の感情が湧き上がる事は否定しないが、耐えられないようなものではない。顔も性格も全くと言って良いほど似ていないくせに、なぜかエア・リーンに似ている気がするカイに拒絶される事は、少しばかり痛かったが。 「ともかく、細かい事は気にするな。今更私を拒絶する神の御子が増えたところで、変わりはないのだから」  ルスターは首を傾げた。 「まるでシェリア様もハリス殿の事を拒絶しておられるように聞こえます」  ハリスが無言によって肯定すると、ルスターは更に続けた。 「とてもそうは思えません。シェリア様はその……ああ言ったお方ですから、誰かに対して強い感情を抱く事は考えられませんし、それを差し引いても、ハリス殿を頼りになさっているように、私の目には……」  力強く語るルスターを好ましく思いながら、彼が心からの労わりと信頼を持って述べる言葉を遮るために、ハリスは首を振った。 「ルスター、慰めは心よりありがたく思うが、私はそれを必要としていない。私は傷付くどころか、むしろ喜ばしいとさえ思っているのだ。『ああ言ったお方』であるシェリア様が、誰かの事を心から嫌悪する事実は、奇跡とも言える喜びではないだろうか?」  ルスターは肩を落とし、長く息を吐いた。浮かべる笑みは複雑で、ハリスに向ける瞳は、まるで奇怪な生き物を見ているようだ。 「貴方がどんな人物であるか上手く表現する言葉が、私の中からは見つかりません。あえて選ぶのならば、そうですね。逞しい、とでも言えば良いのか」 「褒め言葉として受け取っておこう」  ハリスは咳払いしてから続けた。 「君へ返す褒め言葉には、善良以上に相応しい言葉は見つからなそうだな」  いつものルスターならば、すぐに礼の言葉を口にしようものだが、今回はそうではなかった。しばしの間ハリスから目を反らし、何か考え込むそぶりを見せている。 「少年時代ならばいざ知らず、今となってそのようなお言葉をいただいても、素直に喜べるものではないような気がします。多少なりとも嫌味が混じっておられるような」  ハリスはルスターの肩を叩く事で彼の言葉を否定した。 「何を言う。君のように真に善良な人間に対して嫌味など口にすれば、こちらが惨めになるだけだろう」 「そうでしょうか」 「善良である事はひとつの才能だ。カイ様は今、聖騎士団そのものに嫌悪感を抱いているかもしれないが、君に対して強い敵意を抱きはしないだろう。君が誠心誠意お仕えする分には、気を悪くすまい」 「そう願いたいものです。御身に流れる血が尊いばかりに、重圧を押し付けられる事となったカイ様が、ここで少しでも安らかに過ごせるよう」  ハリスは無意識に微笑んでいた。ここでカイ個人の幸福を願えるからこそ、彼は間違いなく善良な人物なのだと、心の中で納得しながら。  少しだけ腫れが引いた頬を手の甲で撫でた後、ハリスは立ち上がった。懐かしさが手伝ってずいぶん長話をしてしまったが、あまり油を売ってもいられない。 「ハリス殿。お忙しいところ申し訳ありませんが、最後にひとつお聞きしたい事があります」  立ち去ろうとしたハリスを引き止めようとルスターが言うので、ハリスは歩き出す事をしなかった。 「何だろうか」 「エア隊長の事です。今……どうされておられますか?」  その名を絞り出すためには苦痛を伴ったのだろう。ルスターの眉間には深い皺が幾つも刻まれ、端整な横顔が歪みはじめる。  ハリスも、ルスターと同じかそれ以上の苦痛を受けていた。エア・リーンの名前には、それだけの力があるのだから。 「私にそれを聞くか」  苦笑とため息を交えて返すと、ルスターは真剣な眼差しで言った。 「カイ様にお聞きするわけにはいかないと判断しての事ですが、間違いでしたか?」 「いや、正しい判断だ」  ハリスはゆっくりと目を伏せた。  名と共に蘇るものは、痛みを増幅する光景だ。魔物狩りジーク――若かりし日の自分たちがエア隊長と慕った男の血液と、魔物の青い血が混じりあって広がる、忌まわしくも鮮やかな色彩。  誰よりも鋭く剣を振るう右腕は失われ、光を失った瞳は空を見上げ、力の無い声が許しを請う、悲しい最期。 「亡くなられた。街の英雄として、トラベッタで手厚く葬られたようだ。私は葬儀に参加しなかったが」 「……そうですか」  呆気ないほど容易に、ルスターは彼の人の死を受け入れた。はじめからある程度の予想はしていたのだろう。だからこそ、ルスターはカイに訊こうとはしなかったのだ。  ルスターは悲しむ事も喜ぶ事もせず、ただ静かに虚空を見つめた。シェリアを彷彿とさせるほど、感情を失った瞳で。  ひとりで抱えていればいい事実を口にしてしまったのは、その瞳に急かされたせいかもしれない。 「私が……隊長を殺したようなものだ」  ハリスの告白に、ルスターは顔を上げる。虚ろであったはず瞳は、一瞬にして心を取り戻していた。 「ハリス殿にエア隊長が殺せるとは思えません。いえ、ハリス殿でなく、他の誰にも」  責めたてる事も、労わる事もしない口調だった。笑っているようにも見える表情は、悲しそうにも見えて、彼もまた自分とは別のところで複雑な想いを抱いていると肌で感じた。 「エア隊長は、本当に生きるつもりがあったのならば、どんな事があろうとも生き残ったと……そう思います。ですからエア隊長はいつも通り、自分で勝手にそう決めて、勝手に死んでいったのです。きっと」  柔らかい口調でありながら、強い力の込められた言葉を聞いたハリスは、一瞬呆けた後吹き出した。  エア・リーンについて語り合いながら笑える日が来るとは思っていなかったハリスにとって、そんな自分自身は驚きの対象だったが、ルスターは優しく微笑み、戸惑う様子も見せず、ハリスの反応を受け入れてくれた。 「頭が回らなかった自分が悔しいな。その台詞、ぜひとも隊長に言ってやりたかった」  ルスターは首を振った。 「私だから好き勝手に言えるのですよ。一切を知らぬまま突然見捨てられ、再会すら許されなかった私だからこそ」  エアやハリスに対して腹を立てているとも思える口調に反して、かつて見た事もないほど優しい微笑みでルスターは語っていた。 「話してくださってありがとうございました、ハリス殿」 「私は隊長の死の報告をしたのみだが」 「それでも――十七年前から抱き続けていた迷いが、晴れた気がするのです」  十七年前。エア・リーンが全てを裏切り失踪した年。  真意を何も知る事なく、ただ隊長を信じていたルスターの困惑は、今でも覚えている。それが時の流れの中で風化する事なく残り続けていたのならば、とても辛い事だったのだろう。 「君は、第十八小隊に所属していた事を、誇りに思うか?」  ルスターの出した結論に強い興味を抱いたハリスは、彼に問いかけた。 「いいえ。ただ、幸せな事だったと、そう思っております」  いい答えだ、とハリスは思った。  実に彼らしい、彼が出すべき答えを、彼は正しく導き出したのだと。 7  リタの部屋は、窓の位置とそこから見える景色以外に、カイの部屋と大きな差は見られなかった。並べられた調度品も配置もほとんど同じで、女性の部屋らしく大きな鏡が備え付けられている事が、一番大きな違いと言って良いだろう。おかげでさほど戸惑わず、リタを椅子まで導く事ができた。  落ち着いたのかただ泣き疲れただけなのか、触れる肩の震えは止まりはじめていて、カイは安らかな気持ちで少女から離れ、正面に腰を下ろす。 「ごめん。すごくみっともないところ見せた」  頬に残る涙の跡を消し去ろうと、リタは懸命に頬を拭う。 「みっともなくないって。リタが言わなければ俺が言ってたし、リタが泣かなかったら俺が泣いてたもしれない」  慰めではなく本心だった。リタが聖騎士たちに怒鳴りつけた時は、先を越されて悔しいとさえ思っていたくらいなのだ。 「ありがとう」  だから、リタが可愛らしい微笑みを浮かべながら感謝の言葉を口にした時、カイはいたたまれない気持ちになった。何と返すべきか判らなくなり、無言で頭を掻いていたカイは、さほど間を空けずに話を続けてくれたリタに心の中で感謝した。 「でも、我ながら、泣くほどの事じゃない気がするんだよね。どうしたんだろう」 「気が緩んだんじゃないか。色々な意味で」 「そうかもしれない。久々に追いかけられる事なく塔の外に出られたし、知ってる顔にも会えたし。同じ部屋の中に居るのに、昨日までに比べて全然窮屈に感じない」  リタは思いきり体を伸ばし、大きく深呼吸をしてから立ち上がると、緩やかな風が吹き込む窓に歩み寄った。白い道や大聖堂、緑鮮やかな木々を見下ろす穏やかな瞳はそれなりに明るく、昨日までと全く違うものなのだろうと、カイはおぼろげに感じ取った。  しばらく風と景色を堪能した後、リタは服の下に身に付けていたメダルを取りだした。父かもしれない男の形見と言っていたあのメダルだ。リタはメダルを小さな両手で包み込むように慈しみ、祈るように胸に押し当ててから、カイに振り返る。 「神殿に来てね、とりあえず一番初めに通りすがった聖騎士に、このメダルを見せたんだ。そしたら、一発であたしが誰だか判っちゃったみたい。このメダル、代々の聖騎士団長だけが身につけるものらしくて、こんなもの持って失踪したのはアシュレイ・セルダただひとりしか居ないって言うし、裏にね、番号が書いてあるの。七十八って。これ、持ち主が何代目の聖騎士団長か示してるらしくて、七十八代目の聖騎士団長はアシュレイ・セルダなんだって」  ぽつり、ぽつりと、落とすように、微笑みながらリタは言った。 「傷付いて、ぼろぼろになってまであたしを抱いて逃げていた人は……父親じゃ無かったんだなあ」  メダルに向けられた笑みが何を意味しているのか、カイには理解しきれなかった。悲痛を押し隠す類のものではなかったが、現実を優しく受け止めるようにも見える表情は、カイに作れるものではなかったからだ。 「父親だよ」  リタはアシュレイ・セルダが父親ではなかった事を喜んでいるようにも見え、彼女に対して発するには相応しくない言葉だったのかもしれないが、カイは力強く言い切った。 「血の繋がりなんて関係ない。俺の父親がジークであるように、君の父親はアシュレイ・セルダなんだ」  聖騎士団に従ってここまで来てしまった以上、自分の身に流れる血がジークのものではないと、認めた事になるのだろう。  だがそれはあくまで体だけの事だ。カイを動かす心そのものは、ジークによって育まれたものなのだ。だから、自分の心の父親は間違いなくジークなのだと、カイは信じている。  リタとてそうなのだ。幼少期から今日この日まで、彼女の身には苦悩を導く不幸が多く降りそそいだが、それを乗り越える強い心を育んだものは、死の瞬間まで慈しんでくれたアシュレイ・セルダの存在だろう。 「そうなのかな」 「絶対そうだ」  メダルを抱く少女の両手に僅かに力が篭った。 「そっか」  リタは満面の笑みを浮かべる。何かから解放されたように清々しい、華やかな笑み。それは見ているカイをも幸せな気持ちにしてくれるものだった。  多くの喪失に苦しみ悲しむ事を繰り返す中、愛された事実が糧となって、リタの笑顔を守ってくれた。そして今のリタがある。カイは名前しか知らない男に、心から感謝した。  とても幸福な事だ。そう思うと同時に、この幸福を知らない、真に親を持たない少女の顔が、脳裏にちらついた。  シェリアを許せる日は、遥か遠くにあると思っていた。しかしどうした事だろう。カイがシェリアを思うと同時に胸に湧く感情は、同情が最も色濃いものとなっている。 「リタ。君もシェリアを見ただろう?」 「え? ああ、うん。さっき一緒に居たからね。会話はしてないけど」 「彼女を見てどう思った?」  自分たちの幸福を思い知ると同時に、ひとりの少女の不幸を思い出す事は、とても失礼なのだろう。判っていながら、カイはリタに問いかける事を止められなかった。 「どうって……」  リタはしばし言葉を詰まらせる。椅子に腰を下ろしたままのカイを真っ直ぐに見下ろすと、ふいに唇を尖らせた。 「すごく綺麗な子だったね」 「……は?」  予想外の返答に、カイは間の抜けた声を上げていた。 「あたしと双子だってのは嘘じゃないと思う。元々のつくりは同じなんだろうなって思うし。でも育ちの違いがはっきり出てるよね。あの子の体にはどこにも傷なんて無いし、肌もずっと白い。手入れが良いからだろうけど、肌も髪も艶がある。あたしと違っていいもの食べて育ってるのは明らかだよね。背だって向こうの方がいくらか高いし、体つきはずっと女らしいし?」 「いや、それは……」  残念な事に否定できない事実だったが、素直に肯定するほどカイは愚かではない。だが、素早くさりげない嘘を産みだせるほど器用でもないため、何を言って良いか判らなくなり、結局は肯定と同じ意味を持つ沈黙で返してしまう。  リタは眉間に深い皺を刻んだ。 「良かったね。あんな綺麗な子と結婚できて。トラベッタ在住のただの魔物狩りだったら、一生お目にかかる事もなかったんじゃないの? あんな綺麗な子」 「いやっ、それは、まだっ……!」 「そうなの? あたし、塔に軟禁されてる間さ、よくシェリアの話聞かされたよ。小さい頃からずっとここで育ったけど、でも今は結婚相手を迎えに行ってるから居ませんって。で、シェリアは、あんたと一緒に帰ってきた。つまり、そう言う事なんでしょ」 「違っ……いや、違うわけではないけど、違う!」  カイは上手く出てこない言葉の代わりに、大げさな身振りで主張する事で、動き続けるリタの口を止めた。  リタは激昂こそしていないが、間違いなく腹を立てていた。それは彼女に与えられるべき当然の権利で、謝罪すべき事であるとカイは思っている。カイはリタに気があるそぶりを見せ、トラベッタで待つと約束までしておいて、別の娘と結婚する事を前提にセルナーンに来てしまったのだから。  しかしカイとて喜んでこの状況に甘んじているわけではないのだから、言い訳くらいはしておきたかった。 「色々あったんだ。トラベッタでは」 「まあ、色々無いと、結婚の決意なんてしないよね」 「そうじゃなくて!」  今度は声を張り上げる事で、リタの言葉を遮った。 「あいつ……ハリスって判るか? シェリアの護衛隊長で、俺が殴った奴だよ。あいつが、トラベッタを助けてほしければ言う事聞けって……そりゃ、ひとりでトラベッタを守れない俺の腕の無さが一番悪い事は認めるけれど……」 「酷い人だね。ハリスって」 「ああ」 「でも、そのハリスとの約束を破ったら、あんたハリス以下になるんじゃない?」  カイを見つめるリタの大きな瞳は、カイが語る言い訳じみた真実など必要としていなかった。経緯や理由などに意味は無く、カイがシェリアとの結婚を承諾してここに来たと言う現実のみが、意味を持っているのだろう。 「逃げ道が無い状況に追い込まれた時、どうすれば良かったんだ」と問い返しかけたカイは、そうしたところで結論の無い口論の火種がこれ以上大きくなるだけだと判断し、必死に耐えながら別の言葉を探した。 「俺は別に、シェリアと結婚すると約束したわけじゃない」  リタは冷たく目を細めた。 「その言い訳、ちょっと無理がある気がするけど」 「いいや、無理なんてない。俺は『世界を救う』と『セルナーンに行く』のふたつしかハリスに言ってないんだ。つまり俺は、セルナーンで神の娘と結婚すれば、約束を守れる事になる」 「なにそれ。結局同じ事じゃ――」  カイは立ち上がり、力強い足取りで歩み寄る事で、リタとの距離を詰めた。メダルを抱く手を取り、重なる手をリタの目の高さまで持ち上げる。  布一枚隔てる事もなく温もりを伝え合うふたつの手を目の当たりにし、リタは頬を染めた。その薄い赤は、カイが言葉にせずに伝えようとした事を彼女が理解した証だった。 「君だって神の娘だ」  はっきりと言葉にして伝えると、リタの頬の赤みはいっそう増す。 「言っただろう? 俺だけが君に触れる事ができる理由が偶然では無かった事、それは俺にとって幸運だったって」  請われれば死すら拒めない状況で、カイがシェリアとの婚姻を拒否した理由は、いくつもある。だが一番は間違いなく、リタの存在だった。本音を言えば、この先一生を共に生きようとまで考えていたわけではなかったが、偶然の出会いを最後にしたくないと願い、再会の約束を取り付ける事ができて本当に嬉しくて――だと言うのに、約束を放棄しなければならない事実に嫌悪した。  だからこそ、約束の場所とは違っていてもこうしてもう一度会えた事は、共に歩むとの選択肢が残されている事は、カイにとって最上の幸運だったのだ。 「やだ!」  首まで真っ赤に染めながら戸惑い続けていた少女は、突如カイの手を振り切って叫んだ。 「今うっかり流されそうになったけど、冷静に考えたら、どっちかって言ったらお前との方がいいって言われてるだけな気がする」 「な、何でそうなるんだよ」  カイは慌てて反論したが、リタは聞き入れてはくれなかった。 「何でもそんな気がするからやだ! とりあえず、出てって!」 「じゃあ俺は何て言え……っ」  リタの誤解はカイにとってあまりに理不尽で、不毛な口論になろうとも今度こそ問いかけてやろうとカイは思った。だがリタは突然全力でカイの肩を押してきたため、体勢を崩されよろけてしまう。  カイが体勢を立て直すよりも早く、リタはカイの背中を押し続け、しまいには扉の向こうにカイを突き飛ばす。カイが振り返る頃には、すでに扉は閉められていた。 「っと、待てよ、リタ! いくらなんでも一方的すぎるだろう!」  カイはありったけの力を込めて扉を叩く。ぶ厚い扉を相手に、手を痛めそうになったが、どうせしばらく剣での仕事をする事などないのだから、お構いなしだった。 「うるさい! とにかく帰れ!」  扉の向こうから聞こえてくる声は、叫んでいるはずだと言うのに、何とか聞き取れるほどに小さい。ふたりの間を遮る力の強さを思い知らされるはめとなったカイは、しばらくその場で粘ってみたものの、やがてリタに折れる気が無いと理解すると、諦めてその場を去った。  今のリタに必要なものは、落ち着くための時間なのだ。そう自分に言い聞かせながら長い螺旋階段を下る足取りは、普段では考えられないほど乱暴だった。蹴り飛ばさん勢いで階段を下りていたため、響き渡る足音は今まで聞いたどの足音よりも激しい。  そうして周りに当たっても、苛立ちは時間と共に増す一方だ。カイは足を止めて壁に向き直り、踏みつけるように蹴った。踏んで当り前の階段を蹴るよりは少し気分が良かったが、苛立ちが解消されるほどではなく、薄く残った自身の足跡に重ねてもう一度蹴り飛ばした。はあ、と大きく息を吐いて、壁をじっと見下ろす。 「受け取り方がひねくれすぎてるんじゃないのか……?」  腹の底から湧きあがる言葉を吐き出したカイは、再び階段を下りはじめた。ゆっくりと繰り返される自身の足音を受け止めながら。 『どっちかって言ったらお前との方がいいって言われてるだけな気がする』  足音の中にリタの言葉が蘇る。すると、一度は落ち着きかけた足取りが、再び荒々しく変化した。 「誰もそんな事は言ってないじゃないか」と、カイは吐き捨てるように呟く。すかさず「思っても居ないからな」と続けたのは、自身へ言い聞かせるためだった。  カイに残された時間がどれほどかは判らないが、そう遠くない未来に、リタかシェリアのどちらかを選ばなければならない。他の選択肢が無い以上、心の中でふたりを比較した事は否定しきれないが、悪意があっての事ではないし、リタの言っているように「どちらも嫌だが比較的ましな方を」とリタを選んだわけではない。  カイがリタに対して好意を抱いている事はさすがに判ってくれているだろう。ならばリタはどうして、あのようにありえない誤解を抱くのか。  それが女心と言うものならば、一生理解できそうにない、とカイは思った。 8  耳を塞いでも、雑音は扉の向こうからリタの元に届いた。それでも、耳を覆う両手に意味がないわけではない。扉の向こうの人物が何を叫び、リタに何を伝えようとしているのか、聞き取れなくなってているだけで充分だった。  カイに対して酷い事を言ったのかもしれないと、悔やむ気持ちはある。しかし、再びカイを部屋に迎え入れる決意はとうとう湧いてこないまま、やがて扉を叩く音が止んだ。耳を塞ぐ手を下ろしてもカイの声は聞こえてこず、遠ざかる足音はすぐに消え失せた。  寂しいとは思ったが、安堵の方が強かった。気持ちが混乱し、自身の事でありながらろくに説明もできない今、取り乱したところを誰かに――カイに、と言うべきか――見られたくなかったのだ。  淀む感情と共に肺の中の息を吐き出し、窓の外を眺める。光り輝く白と緑の世界。視界に飛び込んでくる創られた美しい光景は、どこかシェリアに似ている気がして、リタは静かに目を伏せる。  己の中で渦巻く感情の半分が、嫉妬である事は自覚していた。カイとの事を抜きにしても、リタはシェリアを妬んでいるのだから。  持って産まれた美貌や能力を磨きあげ、神秘的な存在となったシェリアは、多くの者に傅かれ、それをあたりまえに享受している。大切に愛しみ育てられた事が、はじめからリタとは違うと言う事が、ひと目で判るのだ。  ではシェリアと同じように人形となるべく育てられたかったのかと問われれば、答えは否に決まっている。あんな風にはなりたくないと思いながら、それでも羨む自分は愚かだと頭で理解していながら、心は勝手だった。 「……誰」  扉が叩かれる音に顔を上げ、リタは扉を見る。カイが戻ってきたのだろうかと身構えたが、続いて自分の名を呼ぶ声は別人のものだった。 「リタ様、よろしいでしょうか?」  リタはしばし逡巡した後、扉に近付いて鍵を開けた。 「どうぞ」  リタの返事から一瞬遅れて扉を開けた人物が、リタは苦手だった。娼館で育てられ魔物狩りとして生きてきたリタにとって、堅物を絵に描いたような男を好む理由はないし、リタが神殿に拘束されてからの十数日の間、何十回と挑戦してきた逃走劇の幕を下ろす役目が常にこの男であった事実も、好意を抱けない理由のひとつとなっている。  リタは苦手意識を反映させた眼差しをジオールに注いだが、ジオールは気にする様子もなく部屋の中に入ってきた。 「何か?」 「今後の予定について少々」 「予定も何も、ずっとここに居る以外に、あたしにやる事はあるわけ?」  意味がないと知っていながらも、口を吐く言葉には自然と嫌味が混じったが、ジオールは何事もなかったかのように平然と肯くのみだ。 「ふた月後の十六日、選定の儀が行われます」 「何なの? それ」 「地上の民のそれとは意味も形も大きく異なりますが、婚姻の儀と考えていただければ間違いはないと存じます」  リタは元より大きな目を更に見開いてジオールを凝視し、その後目を細めてきつく睨みつけた。  大神殿に捉えられてから今日まで、ジオールや、聖騎士団長や、リタの身の回りの世話をする女官たちの口から、神の娘の役割とやらの説明を受けてはいる。  だがリタは、それを承諾した覚えは一度としてないのだ。よく判らない儀式とやらに、リタが参加する前提で話を進められては、不愉快だった。  もっとも、それがジオールと言う男なのだと、納得している自分にリタは気付いていた。神の娘リタの身を守り、リタに神の娘としての義務を果たさせる事がジオールの役目で、彼は役目を律儀に果たそうとしているだけ。つまりは融通の効かない人間であると言う事で、やはりこの男は苦手だと、改めて納得しながらリタは肩を竦めた。 「単純にカイとシェリアが結婚するってだけじゃないなら、どうなるの? 神の娘はふたり。でも、神の息子はカイひとり。カイは両手に花なわけ?」 「いいえ。故に、選定の儀が行われます。儀式の中でカイ様は、伴侶たる神の娘を選ばれるのです」  淡々と語り終え、沈黙を守るジオールとの間に産まれた複雑な沈黙を掃ったものは、リタの深いため息だった。 「なんだか不公平な気がする。選択権は息子の方にあって、あたしたちには一切ないんだから」 「そうでしょうか」  咄嗟に紡がれたジオールの言葉に反応し、リタは真摯な眼差しを男に注いだ。 「リタ様とシェリア様には、カイ様には元より存在しない拒否権が残されておりますが、シェリア様がその権利を行使する事はありえません。それを利用すれば貴女は、残された二ヶ月弱の時間の全てを用い、選定の儀で選ばれないようカイ様を拒絶し続ける事も、選ばれるようカイ様と仲睦まじく過ごされる事も、自由に行えます。これは、貴女に選択権があると同意ではないでしょうか」  言われてみれば、確かにジオールの言う通りだった。カイに選ばれたければ先ほど追い出した事を謝って仲良く過ごせば良いし、嫌ならばこのまま拒否し続ければいい。カイはおそらくリタに無理強いする事をせず、残された選択肢であるシェリアの手を取るだろうから。 「でも、それって、あたし酷すぎない? 自分勝手すぎると言うか」 「たとえカイ様が貴女の身勝手さを責めたとしても、人の心など簡単にうつろいます。類まれなる美貌の持ち主であられるシェリア様は、常に従順にカイ様の傍にあられるでしょうから、そのうち愛情が生まれる事でしょう。そうなれば、貴女の事を忘れ、自分の選択は正しかったのだと、納得される日が来る」  それはそれでおもしろくない。そう思ってしまう己を自覚すると、カイの事をどう想っているかも自覚してしまい、リタはジオールの視線から逃れるように背を向ける。  嬉しいと思った気持ちを、なかった事にはできない。共に戦った事。リタに秘められた力を知りながら、距離を埋めようと努力をしてくれた事。リタ個人に興味を抱き、話を聞いてくれた事。こんな得体の知れない人間に、手を差し伸べてくれた事。その手が触れあい、温もりを分けあった事。それら全てが嬉しくて、温かい気持ちになれた。苦しい時、辛い時、アシュレイ・セルダが残したメダルを抱き締めた時に湧き上がるものよりも強く、リタの気持ちを軽くし、支えてくれたのがカイだった。シェリアではなく自分を選ぶと言ってくれたカイの言葉も、本当は嬉しかったのだ。  どうすればいいのかが判らない。ひとりで生きていくか、それができないならば死ぬしかないと悟った日から流れた時間が長すぎて、思考も、感情も、何ひとつ整理がつけられない。だと言うのに、運命はあまりに唐突すぎる。 「もし、もしも、その選定の儀でカイに選ばれなかった場合、どうなるのかな」  ひとりごとのように小さな声であったが、ジオールは迷わず回答をくれた。 「カイ様に選ばれた方とカイ様の絆はより深まり、カイ様に選ばれなかった方はカイ様との絆を失うと、そう聞いております。エイドルードより授かった力のひとつを失うとも。エイドルードが大司教に残した言葉の中に、失う力が具体的にどれであるかを示すものは無かったそうですが、おそらくはカイ様以外の異性や魔物を拒絶する、守護の力でしょう」  リタは自分自身のてのひらを見下ろした。  一時は心の底から、今も心のどこかで、忌々しいと思い続けていたものが、失われる。  念願が叶うかもしれないと言うのに、リタの中に歓喜は生まれなかった。 「それって、本当の意味で自由になれるって事なのかな。カイ以外の誰かを、選ぶ事ができるようになるって事だよね」 「力がひとつ失われようとも、リタ様がエイドルードの御子である事に変わりはありません。相手の人格や地位に対して口を出す者も存在するでしょうが……」 「でも、確実に可能性は広がる」 「はい」 「でも、その時になったら、カイは絶対に選べない。カイはシェリアだけのものになるから」  二ヶ月にも満たない短い時間の中で、リタは選ばなければならない。カイとの未来か、カイの居ない未来か、そのどちらかを。  どちらを選んでも、少なからず後悔するのだろう。けれどいつかは、身を焼くような悔恨から、解放される時がくるに違いない。  結果が同じならどちらを選んでもいいとは、リタは思わなかった。可能な限り悩み、考え、より後悔しない方を選びたいと。けれど今のリタには、未来の自分が抱く想いなど想像も付かず、選ぶべき答えは全く見えてこなかった。 「やっぱり、二ヶ月は短いなあ」  誰に投げかけるでもなく、ひとり言として呟いたのだが、ジオールは頭を下げた。 「申し訳ありません」 「いいよ。あんたに謝られても、どうしようもないから。だから謝る代わりに、用件済んだらとっとと出て行ってくれる? ひとりで考える時間が、少しでも長く欲しいんだ」 「はっ、失礼いたしました」  ジオールは再び礼をし、部屋をでるために扉を開ける。その扉が再び閉まるより僅かに早く、リタはジオールを呼び止めた。 「少なくとも選定の儀が終わるまで、もう逃げようとは思わないから、安心して」  振り返ったジオールは、仏頂面の中に多少の驚愕を混ぜ込んで、リタを見下ろしていた。正直なやつめ、と心の中で叱咤したリタが背を向けた頃に我を取り戻し、再び礼をする。  扉が閉まり、微かな靴音もすぐにかき消えると、リタは倒れ込むように寝台に身を放った。柔らかな布団に包まれて目を伏せると、遠い町の優しい光景が次々と蘇り、リタは薄い唇で微笑みを模った。 9  扉を叩いてもすぐに返事はない。ルスターは首を傾げながら扉の前に立ち尽くして時を待ったが、部屋の中からは物音ひとつ聞こえなかった。  カイが大神殿の門を潜ったと言う報告は受けておらず、リタと共に建物の中に入った後出て行った所を見た者も居ない。先ほどリタの部屋を訪ねたジオールもカイを見ていないと言っていたから、カイは部屋に戻っているのだろうと、ルスターは予想していた。しかし、結果はこれだ。  再び扉を叩き、やはり返事がない事を確かめると、ルスターは意を決して扉を開けた。礼儀を欠いた行為だと判ってはいたが、主の所在を常に知っておく事も、ルスターの任務のひとつなのだ。 「失礼いたします」  陽が傾きはじめたせいか、薄暗くなりはじめた部屋は静かで、緩やかな風に揺らされるものたちを除けば動くものはなかった。やはりここには居ないのだと納得しかけたルスターは、部屋を出る前に視線を一巡させる中で、捜し求めていたものを見つけた。  人間ひとり横になっても充分に余裕がある大きさのソファの上で、カイは目を伏せていた。ほぼ音の無い呼吸はルスターのものよりも緩やかで、彼が眠りに落ちている事を伝えてくる。  陽が沈んでいない時分であるため、ルスターは一瞬驚き呆けたが、すぐに理解した。トラベッタからセルナーンまでの旅で蓄積した肉体的疲労と、運命に翻弄される事で蓄積した精神的疲労。合わされば倒れ込む事すら難しくないもののはずだ。  できるかぎり足音を立てないよう寝台に歩みより、毛布を手に取ったルスターは、未だ侵入者に気付かず眠り続けるカイに近付いた。開け放たれた窓から入り込む空気はやがて冷たくなり、このまま眠っていては体調を崩す可能性がある。かと言って彼の苦労を思えば起こす気になどなれず、毛布をかけてやる事がルスターにしてやれる精一杯だった。  ルスターが異変に気付いたのは、毛布を少年の肩まで引き上げた瞬間だった。  先ほどまでは穏やかだった寝息が、苦しそうに乱れている。見ている方まで息苦しくなる様相に、彼が何らかの悪夢に苛まれているならば現実に引き戻すべきかと、ルスターはカイの肩に触れた。  意識の覚醒を促すために軽く揺さぶると同時に、突然伸びた少年の右手が、ルスターの腕を掴んだ。それは加減を知らない子供のように力強く、服越しでなければ少年の爪がルスターの肉に食い込んでいただろう。 「ジー……」  夢と現実を彷徨っていた瞳がはっきりとルスターを捉えると、腕を掴む力が急速に弱まった。力無く開かれた唇は引き締められ、紡ぎかけた声を遮ったが、少年が何を言おうとしたか、誰の名を呼ぼうとしたか、判らないほどにルスターは愚鈍ではない。  全身全霊の力を込めて、引き止めたい存在だったのだ。少年にとって、かの人は。 「お目覚めですか」  ルスターが微笑みかけると、カイは慌てて上体を起こそうとした。それを制するため、ルスターはカイの両目を覆うように、そっと手を乗せる。 「随分お疲れのようですから、どうぞこのままお休みください。それとも、寝台に移動されますか?」 「いや、別に、疲れているわけでも、眠いわけでもないんです。色々考えていたら、考えるのが面倒くさくなって、つい」 「逃げたって後々自分が追い込まれるだけなんですけどね」と、カイは口元に笑みを浮かべながら言った。  すでに充分以上に追い込まれている少年が無意識の中で求めた人物は、ルスターにとっても思い出深い存在であったが、失われた事実を知ったその時でさえ、今ほど悲しいとは思わなかった。  なぜ、今、かの人は、この少年のそばに居ないのだろう。今の少年にとって一番必要な存在であるはずの男が、多くの悩みを抱える少年を支える事無く、むしろ悩みのひとつとして存在するのは、どうしてなのだろう。 「ルスターさん。少し、甘えてもいいですか」 「もちろんです」  カイの瞳に映らないと判っていながら、ルスターは力強く肯いた。 「忙しいのに、すみません」 「大丈夫ですよ」 「不愉快な想いをさせると思います。すみません」  ルスターが手をどかすと、カイは自身の腕を引き上げ、目元を覆い隠した。  もの言いたげな唇は細かに震え、幾度も言葉を選び直しているように見える。それがルスターに対する気遣いであると言うならば、どこが甘えているのだと、叱りつけてやりたい気分だった。 「漠然と理解はしてるんです。ジークが俺のためにしてくれた事のほとんどが罪なんだって。それによって傷付いた人が沢山居て、ルスターさんもその内のひとりなんだって。だけど、今はただ、ジークを知っている人と、ジークの話をしたくて」  神の娘の力を持ってしても、失われた人を蘇らせる事はできない。それでも、どうしても蘇らせたいのならば、思い出を蘇らせるしかないのだ。  思い出を共有する者が集まって語り合えば、今まで知らずに居た故人を知れば、より強く蘇るかもしれない――少年はそれを期待している。おそらくは、ルスター自身も。 「そうだ。ルスターさんは、知っていますかね。ジークの頬に残っていた、古い傷の事」  カイはゆっくりと手を動かし、自身の頬に触れた。  労わるように頬を撫でる様子に、記憶の奥に沈んだ何かが揺さぶられた気がしたルスターは、無言でカイの次の言葉を待った。 「ジークはあまり鏡を見ませんでした。まあ、見る必要が無かったと言うのもあったんでしょうけど、見る事を恐れているように、俺には思えたんです。何かの拍子に頬の古傷に触れると、深く思い悩む事があったから……だから、その傷に何か、苦い思い出があって、見たくなかったんだろうなって、勝手に思ってました」 「頬の……傷」  ルスターは己の中で反芻するために呟き、カイに倣うようにして己の頬を指先で撫でた。 「それなのに俺は、ジークは誰よりも強くて、誰よりも頼もしくて、俺みたいに悩まない人なんだって信じてました。黙って、真っ直ぐに俺の前に立って、正しい道を示してくれるんじゃないかって、いつも思ってた。けど――ジークだって悩む事はあったし、ジークだって辛いと思う事はあったんですよね、きっと。そんな風に考えた事のなかった自分が間抜けだなって、今になって思います」  目元を覆っていたカイの腕が、ゆっくりと滑り落ちる。  天井を見上げるカイの眼差しは、迷いながらも不思議と真っ直ぐで、ルスターは少年の視線の先を追った。  特別なものは何もない、無機質な天井。だがカイは、そこに父と慕った男の面影を探しているのかもしれない。 「ジークだって、自分ではどうしようもない感情や、忘れられない思い出と、戦う事があったんですよね。それが何だったのか、俺は知りたい」  カイは再び頬に触れ、ありもしない傷をなぞった。  少年の語る傷の存在をルスターは知らなかった。第十八小隊長エア・リーンの頬には、そのようなものは無かったからだ。  しかし、その傷が、いつ、どのような者の手によって付けられたものか、想像するは容易かった。カイがその傷に関する問いをルスターに投げかける以上、カイが物心付く以前からあったものである事は間違いなく、ルスターが知らないという事は、エア・リーンが大神殿を出た後に刻まれたものであるのだから、期間はずいぶん限られる。  そして、忘れられない思い出と共に残り続けているのと言うならば、ルスターの中に心当たりはひとつしかなかった。よく蘇らせる事ができたと、自分の記憶力を称えてやりたいほどの古い記憶。涙しながら聞いた、低い声―― 「ジーク殿の傷は、トラベッタへの逃亡中、追っ手との戦いの折に付いたものだと思います」  穏やかだが揺るぎない力を込めた声で紡ぐと、カイは身を強張らせた。「ジークがカイのために犯した罪」に関わる件だと言う事を、瞬時に理解したのだろう。  カイは迷いを見せたが、すぐに振り切ると、上体を起こした。 「聞かせてください。ジークの罪の重さは、母や俺に注がれた愛情の重さだって事くらい、判ってます。だからこそ、余計に知りたい」  ルスターは静かに肯いて口を開いた。 「ご安心ください、と言って良いかは判りませんが……ジーク殿は、悪人ぶる所がありながらも、悪人になりきれない方でした。それ故に、余計に傷付いた者もおりますが――あれほどの腕を持つ方が剣を振るったと言うのに、追っ手であった聖騎士団の者は、誰ひとりとして命を落とす事は無かったのです」  命を奪わなければ何をしても良いわけでは無い。彼はやはり罪深い人だったと、ルスターは思う。  だが、彼に傷を負わされた者たちはみな、何らかの形でやり直す事ができ、その事実はルスターと、そしておそらくはカイの心に、ある種の安堵をもたらした。 「どれほどの数の聖騎士がジーク殿に斬られたか、もう思い出せませんが、最も深手を負って帰ってきた者の事は覚えています。私のよく知る先輩でしたから。肩を貫かれ多量の出血に倒れた彼は、生死の境をさ迷い、目覚めた後も長い療養の期間を必要としました。傷が癒え、起き上がれるようになってからも、利き腕は自由に動かなかった」  剣を手にする者にとって、生命を断ち切られる事と何ら代わりない。カイもそれを理解したのか、苦しそうに喉を鳴らして息を飲んだ。  ルスターは目を細める。まるで昨日の事のように生々しく蘇る十五年前の日々を、受け止めるために。  真っ先に思い出したものは、体中に包帯を巻いて寝台に横たわる青年の姿だ。見舞いに訪ねると眠っている事が多く、微動だにしないその寝姿にどきりとして、慌てて駆け寄った。僅かな胸の上下を確認し、微かな寝息が耳に届くと、胸を撫で下ろしたものだ。  そして最も印象的な記憶は、長い月日の後、愛剣を手にした青年の、震える腕を見下ろす深い瞳に宿る絶望と渇き。  彼の手にはろくに握力が残っておらず、ルスターが軽く剣を弾くだけで、あっさり剣を取り落とした。何度も、何度も――カイの捜索隊に参加する前の彼に、ルスターは一度として勝った事は無かったと言うのに、あの時はいくらでも勝利する事ができた。  苦く、喜びなどどこにもない勝利。当然酔う事などできなかったルスターは、青年が自由に動かない腕を叩き付け、ルスターの目から逃れるように顔を反らした時、静かに泣いた。けして涙をこぼす事が無いだろう彼に聞こえないよう、嗚咽を噛み殺して。  そう、彼は嘆かなかった。そして、足を止める事もしなかった。ルスターの涙が乾くよりも早く立ち上がり、剣を左手に持ち替え、格下のルスターに頭を下げたのだ。剣の鍛錬に付き合ってほしいと。  何に感謝すれば良かったのだろう。剣を捨てようとしなかった青年になのか、深い傷を負わせながらもなお青年に剣を握らせる存在になのか。判らなかったルスターは、腕を使って乱暴に涙を拭うと、空を仰ぎ、エイドルードに感謝の祈りを捧げたのだ。 「私ならば、聖騎士を辞めていたと思います。けれど、彼は諦めませんでした。右手に剣を持てないならば、左手で――まるで自らを痛めつけるかのように訓練を繰り返し、一年もしないうちに剣の腕を取り戻しました。今では聖騎士団の中でも有数の剣の使い手として、聖騎士を続けております」 「その人は」  誰なのですか、とカイが問いを口にする前に、ルスターは続けた。 「もし彼が事故で利き腕の自由を失ったならば……いえ、他の誰かの手によってだとしても、そこで諦めていたのではないでしょうか。彼を奮い立たせたものは、裏切った事を恥じ続けた己へ悔恨と、罪悪を抱き続けた心に芽生えた真実の敬愛を裏切り、謝罪ひとつ口にせず剣を振り下ろした、エア・リーンへの憎悪だったのだろうと、私は思います」  覚えている。寝台に横たわった彼は、不自由な右手をゆっくりと動かして自身の頬を撫で、言ったのだ。「たった一太刀だが、浴びせる事はできた」と。  どこに切りつけたかを、彼は言わなかった。だがあの時、緩慢な動きで頬に触れた事に、意味がないとは考えにくい。カイが語るエア・リーンの古傷と同じものを示しているのではないだろうか。 「ジーク殿の頬に傷を残した者は、おそらくその先輩です。ですからジーク殿にとってその傷は、自身に向けられた憎悪や罪の象徴となったのではないでしょうか。そしてカイ様と幸福な日々を送りながら、良心を痛めていた」 「ルスターさん?」  突如名前を呼ばれ、ルスターはうろたえた。 「は、はい、何か?」 「いや……ルスターさんが微笑っているから、不思議だなと思って。今の話に笑うところなんて無かったと思うんですが」 「ええ、そう、そうなのですが」  ルスターは拳を己の唇に押し当てる形で、口元を覆い隠した。確かにカイの言う通り、口は笑みを模っていた。  楽しいわけではない。ならば、嬉しいのだ。エア・リーンが、捨て去ったものを忘れず、苦しんでいた事実が。ルスター自身の事は忘れてくれてもよかったが、剣を左手に持ち変えざるを得なかった男の事だけは、覚えていて欲しかったから。  これでようやく救われるかもしれない。誰よりも一番深い傷を負った人が。 10  ゆっくりと鞘から引き抜かれた剣が、闇を掃うために灯された篝火の煌々とした輝きを反射する。炎の色を写し取った刃は妖しく、剣の持ち主が浮かべる笑みは魔に魅入られたかのようだ。  無言で剣先を向けるハリスに笑顔を返す気も起こらず、ジオールは直立の姿勢を保ったまま彼を見つめ、続いて自身に向けられた刃を見下ろす。 「何のつもりだ」  無機質な声でジオールは訊ねた。 「演習場にお呼び出しする理由など、ただひとつかと思いますが。まして、私はこうして剣を抜いております」 「貴公は遠征より戻ったばかりであろう。せめて今夜は充分な休息を取ったらどうだ」 「それも考えたのですが、一刻も早く貴方と剣を交えたい気分だったのです」  隙のない構えでジオールの前に立ちながら、篝火に照らされる瞳は少年のように無邪気で、ジオールは静かに息を吐く。 「貴公のみが疲労を重ねた身と言う不平等な条件下でようやく対等、とでも言いたいのか?」 「他意はありません。本日の貴方が戦場より帰還したばかりだとしても、私は手合わせを申し出ました」 「勝手な事を。仮にそうであったならば、私は即座に断るぞ」  ジオールは剣を抜き、切っ先をハリスに向けた。二本の剣が揺らめく灯りを跳ね返す様が眩しく、ゆっくりと目を細める。 「酔狂な事だ」 「お付き合いくださるジオール殿も、なかなかに」  まったくだ。  ハリスを睨みながら吐きだした呆れ混じりのため息が、自分自身に向けたものである事を自覚したジオールは、吐き切った息を吸い込むと同時に剣を僅かに持ち上げた。  刃先が触れ合う音が響くと同時に、小さな動作で剣を振り下ろす。ハリスの動きもほぼ同様で、ふたりのちょうど中心で刃が重なり合い、ちりちりと音をたてた。  拮抗する力の向こうに見える男の瞳は、相変わらず楽しそうに輝いていた。いい大人が何をそんなにはしゃいでいるのだと、一言言ってやろうとしたジオールだが、その瞳に釣られて剣を抜いた自身も所詮は同類だと知っていた。  どちらともなく一歩ぶんの距離を置く。その後は一拍すら置かず、互いに剣を払い、振り下ろし、あるいは振り上げ、幾度も刃を交えた。刃が受けた強い振動が柄から手に伝わり、徐々に負担となって手首や腕に圧し掛かるが、休む余裕も引く余裕も互いに失っていた。  再び刃が重なる事で、均衡が訪れたかに見えた。しかしやや上方から力を加えるハリスが、剣を持つ右手に左手を添えると、緩やかに均衡は失われ、ジオールは歯を喰いしばった。ジオールは、添えて意味のある手を持っていないのだ。  ハリスの剣をはじき、後方に下がって距離を作る。逃げたジオールが構え直す間に、やや体勢を崩していたハリスも、元通り隙の無い構えを見せていた。 「私はずっと、貴方を妬んでいたのだと思います」  僅かな息の乱れが無ければ、戦いの最中であるとは思えないほどに落ち着いた声による告白。 「面白い事を言う」  冷たく返すと、ハリスは満面の笑みを浮かべた。 「本心ですよ。私も貴方のように、エア隊長を憎む理由が欲しかった。望まなくても毎日のようにあの人を思い出す、身を焼くような呪わしい感情に支配されたかった」 「酔狂な事だ」 「ええ、本当に、そうですね」  ジオールが渾身の力を込めて振り払った剣を、ハリスは身軽な動きをもって紙一重で避けた。 「私はエア隊長を忘れてはならなかった。それなのに、放っておくと、思い出が徐々に風化していくのです。全て忘れるまでには、あと何十年もの時間が必要だったでしょうが、それでも、失いたくないもの、失ってはならないものが自分の意志に反して失われていく事は恐怖でもあり、私は毎日、忘れるなと自分に言い聞かせ続けた」  切り返しの攻撃を、今度は剣で受け止めたハリスは、渇いた目でジオールを睨み上げた。 「勝手な事を」  剣を持つ手に体重をかけたまま、ジオールはハリスの足を払う。ハリスにとってそれは予想外の攻撃だったようで、素直に足を取られ、その場に身を崩した。  黙って剣をハリスに突きつければ、勝敗は決まっていただろう。しかしジオールはそうはせず、剣を右手に持ち変えたのみだった。  左手ならば易々と操れる剣を、右手では持て余す。柄を握る手は弱々しく、重みとも言えない重みに腕は震える――そんな無様な姿を、ハリスに見せつけるために。 「忘却は」 「ジオール殿……?」 「忘却は、神が人に授けた救済だ」  滑り落ちる剣をそのままに、ジオールは呟いた。刃の先が地面に刺さり、土を抉る様を見届けてから、続ける。 「忘れられるならば、忘れれば良いのだ。憎悪も、呪いも、苦しみも悲しみも、何もかも。そうして幸福を得る事こそが、我ら地上の民に許された奇跡ではないか」  傷付いて苦しんだ若き日に、飽きるほど自身に語りかけた言葉を落とすと、ハリスは驚愕に目を見開く。  ジオールは理解してもらおうとは思っていなかった。エア・リーンに対して正反対の想いを抱き、正反対の行動を取ってきたハリスに、理解できる事とも思わなかった。 「ジオール殿、貴方は」 「私が今日まで呪い続けていたと思うのか。なぜ、私が、あの男に、そこまでしてやらなければならん? 私はこの左手が思い通りに剣を操れるようになった頃、忘却を決意していた。どうせ、あの男は――」 「エア隊長は、ずっとジオール殿の事を覚えておられたようですよ」  突如割って入った第三者の声に、ジオールとハリスは同時に振り向く。ふたりがよく聞き知った声の主は優しく、温かな眼差しをふたりに向けていた。  炎に照らされた蜂蜜色の髪が、柔らかに揺れる。 「ルスター、どうして」 「先ほどカイ様がおっしゃっていたのです。エア隊長は、トラベッタへの逃亡中についた傷に苦い思い出を宿らせて、時に苦しんでいたのだと。頬の傷だそうですよ、ジオール殿」  ルスターは彼自身の白い頬に触れ、ジオールがかつて深く沈めた記憶を刺激した。  幼子を足元に庇い、右手で剣を振るう男。全身を紅く染めていたが、自らの身から流れるものは微量で、ほとんどは返り血だったのだろう。  エア・リーンは、ジオールと共に行動していた四人をあっさりと斬り伏せると、ジオールに振り返った。最後のひとりだと、余裕さえ浮かべはじめたその顔が、冷たく強張った瞬間を思い出すのは容易い。  最後のひとりがかつての部下だとは思っていなかったのだろう。あからさまに動揺したエア・リーンは、突き出した剣を止める事はできなかった。  それでも彼ならば、ジオールが反射的に振り上げた剣を避ける事ができたはずだ。しかし彼はそれをせず、頬に大きな切り傷を作った。  血まみれの剣を鞘に押し込み、幼子を抱いて走りだす男の頬を伝う血液が、涙のように見えたのは、朦朧とした意識が見せた幻だったのだろう。 「知っている」  吐き捨てるようにジオールは言った。 「ジオール殿?」 「エア・リーンの事だ。最後の瞬間まで、私が残した傷に私を思い出し、それと共に己の罪を思い出し、悔やみ、苦しみ続けてきたのだろう。判っていて、私は忘れる事を決めたのだ」  ジオールは土の上に倒れた剣を拾い上げ、土を掃い落とすと、鞘に戻した。 「忘れ去られた者は、悲しいですよ」  ハリスの言葉はひとり言にも聞こえたが、間違いなくジオールに向けて投げられていた。 「だから、ですか。自らは忘れ去ると言う救済を得て、相手には忘れ去られると言う罰を与えたと、そう言う意味ですか」  今度ははっきりジオールの目を見て投げられた問いだった。ジオールは迷わず肯く事で答える。 「その通りだ。何か問題があるか?」 「いいえ。感服しました。非常に合理的な上、あの人を擁護したいなどと考えている甘ったれた私にも優しい、素晴らしい選択です」  ハリスは両手を上げて降参の態度を示した。冗談で笑い飛ばそうとしている様子は無く、本気で感服しているようだ。 「エア隊長は、死の瞬間に許しを請いました。ですが、許しを請う相手の中に、貴方の名は無かった。貴方に憎まれたまま死ぬ覚悟を決めていたのでしょう。なのに、当の貴方がエア隊長を忘れていたなんて、笑い話にもならないほど惨めな死に様です」 「愚かな男だな」 「まったくです」  ハリスは肩を竦めて笑い、ルスターは小さく咳払いをした。 「その愚かな男にいつまでも捕らわれ続ける、貴公らが哀れなほどだ」 「それも否定できません」 「記憶そのものを捨て切れなかった、私自身も同類なのかもしれないが」  右手で剣を振るわない限り、忘れられると思っていた。そして昨日までのジオールは、エア・リーンを思い出す事なく、幸福と言える生活を送っていたのだ。  だが今日、カイをはじめて見た瞬間、完全に忘れる事などできはしなかったのだと思い知らされた。  姿形はけして似ていない。性格も、表情も、さして似ているとは言えないだろう。だがなぜかカイはエア・リーンに似ていて、不意に視界に入ると驚きのあまり心臓が跳ねた。それこそが、忘れ切れなかった何よりの証。  いや――それももう、どうでもいい事なのだろう。全ては、終わっているのだから。 「これでもう用は済んだな」 「は……」 「今夜は遠征の疲れを癒す事に集中するがいい。ルスターも早く部屋に戻れ。カイ様は今宵が大神殿で初めて過ごす晩なのだ。何かしらの用事や質問があるかもしれん」  ジオールはふたりの返事を待たず、その場を後にした。呆然としていたのだろう、背中の向こうに残した者たちから小気味良い答えが帰ってくるまでに、しばしの時間を必要とした。  辺りから人の気配が失われた頃、ジオールは無数の星が瞬く空を見上げる。  完璧な静寂が訪れる夜になる予感がした。周囲だけではなく、自分自身の心にまでも。 11 「こんな所でいかがなされました」  呆然と夜の闇を、その向こうにあかく輝く篝火を眺めていたカイの真横から、突然かかる男の声。カイは軽く跳ね上がり、慌てて振り返った。男は二歩も歩けば詰められる距離に立っていて、これほど接近されるまで気付かなかった己の鈍さは笑うしかない。  無意識に右腕を撫でる左腕を背中に隠したカイは、ぎこちない笑みを浮かべた。隠したところでごまかしきれるはずもないと判っていたが、ごまかさずにはいられなかった。  蜂蜜色の髪の男はいつも通りの柔和な笑みを浮かべ、カイの返事を待っている。カイは無言でごまかそうとしばらく黙っていたが、やがて沈黙に耐え切れずに観念し、天を仰いで大口を開け、息を吐いた。 「中途半端に寝てしまったからか寝つけなくて、散歩でもしようかと思ったんです。門の内側なら基本的に自由にしていいって言われてますしね。そしたら、人影が目に付いたので、つい」  星明かりだけを頼りにあてもなく歩いたカイはまず、聖騎士たちの宿舎の裏、参拝者の目から避けるように広がる演習場に辿り着き、その広さに圧倒された。多くの者が寝静まる時間に篝火が灯っている事、その灯りを利用して剣を交えている者たちが居る事に気付いたのは、広さに慣れた後だ。  素早く、鋭く、幾度も交わされた、見惚れる価値のある剣戟。しかしカイの意識を強く引きつけたものは、ふたりが交わす剣ではなく、会話の方だった。彼らがエア隊長と呼ぶ人物が、ジークである事をカイは知っていたのだから。 「話も聞かれましたか?」  続いて投げかけられたルスターの問いに、カイは素直に肯いた。 「盗み聞きするつもりはなかったんですよ。ただ、腹が立つけどやっぱり剣技は見ていて参考になるなと思ったら、足が動かなくて。たまたま、声が聞こえる距離で、会話の中に聞き覚えのある名前が、あって……」 「では、私が夕刻にお話した聖騎士が誰であるかも?」 「……はい」  カイは唇を噛み締める。  元よりある程度の予想は付いていた。ルスターがわざとらしいほど名前を避けていたので、すでに名前を知っている人物なのかもしれないと疑いはじめた瞬間、ジオールと言う答えに辿り着いた。カイが見知った聖騎士の中で、右側に剣を下げていた者は、ひとりしか居なかったからだ。  まだ予想でしかなかった時から、カイは思考を巡らせていた。その人物に対して自分に何ができるのか。対面した時、何と言えば良いのか。だが予想が確証に変わった瞬間、いくつもあった候補は瞬時に失われ、カイはジオールに見つからないよう宿舎の影に身を隠す事しかできなかった。 「私は、自分を恥ずかしく思います」  言い表す形が見つからず、カイの中でくすぶっていた想いが、ルスターによって語られる。だが彼はカイの想いを代弁したわけではなく、真実彼自身の想いを語っているだけなのだろう。俯き、暗い大地を見下ろす眼差しが、深い悔恨を物語っている。 「当たり前のように、ジオール殿は今でもジーク殿を恨み、憎んでおられるのだと思い込んでおりました。憎悪によって絶望から立ち直った強い方だと信じておりました。何と言う侮辱でしょう。真実のジオール殿は、私などの想像を絶する、健やかな強さをお持ちだったと言うのに」  カイは強く首を振り、自分自身を責めるルスターを否定した。 「だって、そんなの、当たり前ですよ。普通、簡単には忘れられません」  喉に詰まる言葉を区切りながらこぼすと、ルスターは小さく肯いた。 「俺、利き腕を失った人に会えたら、ジークの代わりに謝るべきなのかとか、そんな事ばっかり考えてました。もう、絶対に、しませんけど……何て言うか、何て言っていいのか」  許されたのだと思う。ジークは、ジオールに許されていたのだと。  もしもカイが訊ねたならば、忘れ去る事は自身の救済であって、ジークを許したわけではないと、ジオールは言うだろう。むしろ、罰なのだと。ジークは忘れ去られた事も知らず、死の瞬間まで悔やみ苦しみ続けたであろうから。  それでもカイは嬉しかった。許された気がした。至上の幸福にすら思え、溢れる感謝をジオールに伝えたかった。同時に、その欲求に耐える事こそがカイにできる全てだとも知り、隠れる事しかできなかったが。 「ルスターさん、俺、幸せだったんです。とても、とても。トラベッタで、ジークと、魔物狩りとして生きてきて。叶うなら、ずっとそうしていたかったくらいに」 「はい」 「だけどそれは、誰も許さない幸福なのかと、思って」 「あまり浮かれない方がよろしいのでは?」  溢れかけていた満たされる想いに水を注す男の声。心は急速に冷え、カイは顔中に浮かべていた笑みを消し去り、声がした方に振り返った。  何も知らない者の目には優しく映るはずの微笑みが、仮面でしかない事を、カイは知っている。その向こうに隠すものを探る気にもなれず、ただ無言で睨みつけた。 「本当に許されたのだとしても、それはジーク殿であって、貴方ではないのです。ですからあまり迂闊な発言をなさらないでください。いつ、どこで、誰の恨みを買うか判りませんよ」 「だから何だと?」 「幸福な過去、大いに結構。ですがそれは御心に秘めたまま、今後一切口に出さない事をお勧めします」 「お前の言葉に、俺が素直に従うとでも――」  素早く繰り出された拳が、カイの真横をすり抜け、背後の壁を強く打った。壁に預けていた背に振動が伝わり、身動きすらできなかった自身の未熟さに怯えたカイは、視線のみを動かして壁に付いた拳を見た。 「いつ、どこで、誰の恨みを買うか判りません」とハリスは言ったが、考えるまでも無い。カイは今、この場で、ハリスの恨みを買ったのだ。もしカイが神の子でなければ、拳は迷いなくカイを打ち、カイの体を吹き飛ばしていた事だろう。 「お優しいカイ様の事です。既に気付いておられるのでしょう? 貴方とジーク殿の幸せのために、犠牲になったものは何なのか。だからこそ貴方は、一時は憎悪すら抱いた相手に、同情しはじめているのでは?」 「それは」  カイは弱々しく首を振った。その通りだと心で認めながら、体が勝手に拒否したのだ。 「ジーク殿が神の定めに逆らったからこそ、シェリア様は運命に疑問を抱かず、逆らわないよう育てられた。つまりは、貴方が親の温もりと幸福を知る代わりに、シェリア様は楽しい時に笑う事も、悲しい時に泣く事もできない方になってしまった――それでも私は、ジーク殿を許しているのです。私にとってあの方は、少なからず恩のある上官であり、友とも思う方でしたから」  カイは硬直しかけた体を無理矢理動かし、拳を繰り出した男の顔を見る。 「でも、貴方は違う」と無言で語る眼差しは、口元と違って笑っていなかった。  虚勢を張り、言い返す事はできた。お前に許されなくても構わないと、それだけ言い放てばすむ事だった。  だと言うのに何も言えず、穏やかながらも強い感情を押し付けるハリスの目を見つめ返す事しかできなかったのは、ハリスの言葉を正しいと感じる想いが強かったからだ。シェリアを追い詰める行動したのはジークで、自分は物心付いた時から存在した環境を受け入れただけだなどと、ジークを貶める気は毛頭なかった。 「ハリス殿、カイ様に対してお言葉が過ぎます」  ルスターの手がハリスの腕を掴む。穏やかな、それでいて信念の篭る声に、ハリスは壁に打ちつけた拳を崩した。 「申し訳……」 「謝らなくていい。俺も、お前を誤解していた事を謝る気はないから」  カイが言うと、見下ろすハリスの目が、少しだけ大きくなった。 「俺は単純にお前の事を、性格が悪いんだと思っていた。違うんだな。お前はただ、俺の事が嫌いなだけなんだ」 「カイ様、それはあまりにも」 「さすがにお気付きになられましたか」  この時ハリスが浮かべた微笑みに、嘘や偽りは感じ取れず、カイは珍しく不愉快な気分にならなかった。 「ハリス殿も、何を認めているのです!」 「言っただろう? 君は私を買い被りすぎだ、と。私は親子ほど年の離れた少年に剥き出しの感情を悟られるほどの、だたの大人げない人間だ」  呆気に取られたルスターの腕を振り払ったハリスは、この場を立ち去るために背中を向ける。一瞬除き見えた眼差しは、愛しむかのように星を見上げていて、自分に向けるものとずいぶん違うなとカイは思った。 「シェリア様には、帰る幸福などありはしない」  歩き出す直前にこぼした言葉は、風に飲まれて聞き取り辛かったが、カイは確かに胸に収める。  耳に届く深いため息につられて首を動かすと、眉間に皺を寄せてこめかみを押さえるルスターが、カイと同様にハリスを見送っていた。 「苦労が多いですね、ルスターさん」  ルスターは再びため息を吐いた。 「こう言う役割は、本来ハリス殿が要領よくこなすはずのものなのですが、当のハリス殿が一番奇怪な言動をされる。一体何を考えておられるのか」  カイは肩を竦めてから答えた。 「言っていた通りじゃないですか? あいつは本当にシェリアの事が大切で、だから俺の事が嫌いなんですよ」 「それではただの逆恨みではありませんか。私とて、シェリア様の件については腹立たしいと思う事もありますが、その怒りはシェリア様をあのように育てられた神殿に向けております。そうでなければ……私はけしてそうしませんが、シェリア様に普通の少女としての運命を与えなかった存在を責めるべきです」  意外にもなかなか危険な発言をするものだと、カイは少しだけ楽しい気分になり、顔を背けて小さく笑った。 「そう言ってもらえると、俺は助かりますけど……意味も判らず喧嘩売られるよりはすっきりしたので、別にいいんです。それに、こっちも遠慮なく嫌えますからね。今までも遠慮なんてしてませんけど」  ハリスがカイに吐き捨てた言葉の全てが本音であったのか、カイには判らない。だが、ただひとつ、独白かすらも判別つかないほど弱く落ちた最後の言葉だけは、紛れもない真実だった。  だからこそ余計に、幸せになって欲しいと願うのだろうか。  カイは僅かな星明りのみが照らす薄闇の中、冷たい空気で肺を満たした。 「俺だって、帰れはしないんだ」  思い出に浸る事はできても、過ぎ去った時間を取り戻す事などできない。たとえ全てのしがらみを振り切り、トラベッタに帰れたとしても、失ったものは返ってこないのだから。  だから――だから、もう、迷いはしない。吐きだした透明な息を見つめながら、カイは誓う。  戻れないならば、目指す場所はひとつしかないのだ。 五章 守り人の地 1  神の子として民の前に出る事を最後まで渋り続けたカイの気持ちを、リタは痛いほどに理解していた。直々に「お願い」に来た聖騎士団長を前に、リタがまったく同じ態度を取ったのは、さほど前の事ではなかったからだ。 「今までずっとひとりだった『神の御子』が、突然増えても胡散臭いと思いますけど。産まれたばかりの赤ん坊ならともかく、シェリアと同い年じゃないですか。今まで何してたんだって、皆は思いませんかね」  聞いたところによると、カイが並べた疑問や質問、反論のうちのいくつかは、リタが並べたものとよく似通っていたらしい。  数日程度しか間を空けずに似たような問答を繰り返す事となった騎士団長の苦労を察したリタだったが、だからと言って同情する気にはなれなかった。騎士団長は、相手の言論の穴を冷静に突いて黙らせるような人物であったし、穴の無い反論をしたとしても、「偉大なるエイドルードが成された事に疑問を抱く者はおりません」のひと言で全てを片付けてしまう厄介な人物でもあったからだ。  結局カイは、渋々従う道を選んだようだ。長く話し合い、神殿側との妥協点を模索したらしいが、その妥協点は、リタと神殿側の話し合いによって出た結論と全く同じであった。ずいぶん無駄に時間を使ったものである。教えてやったら面白いかと少し考えたが、再会の日に部屋を追い出して以来、ろくに言葉を交わしていないため、気まずくて声をかける気になれなかった。  リタが騎士団長に真っ先に提示した条件のひとつは、「神の子としての言葉をけして求めない事」だった。信仰を持たない一市民として育ったリタに、熱い羨望や信仰を向けてくる民へかける言葉が見つかるはずもないからだ。騎士団長も、迂闊な事を口にして民の不審を買われては困ると判断したのか、ふたつ返事で了解してくれた。「元より大司教は神の代弁者だったのです。大司教は今後、神の御子の代弁者となりましょう」と。  だからセルナーンの民を前にしたリタやカイがすべき事は、神の子の名に恥じないよう飾り立てた身で、背筋を真っ直ぐ伸ばして立つのみであったが、それでも無数の民が向けてくる羨望の圧力は凄まじいものだった。魔物狩りとして失敗なく仕事をこなしてきたリタは、今までもそれなりに信頼と言う名の圧力を集めてきたが、その比ではない。  リタは体中が緊張で硬直してしまい、引きつった顔を直す事もできなかった。過去に戻り、「大した事はない」と甘く見ていた自身の愚かさを責めたててやりたい気分だ。 「笑顔なんて振りまいてやらないからね」と強く言い返したリタに、騎士団長は優しく「構いません」と返してきたが、これを見越しての事だったのだろうか。  だとすれば自分の未熟さを見透かされていたと言う事で、妙に腹が立つなと苛立ちながら、カイを挟んで立つ双子の姉の存在を思い出したリタは、ともすれば怒りに発展しかけていた感情を急速に冷やしていった。 「余所見はしないでください」との指示に逆らう事ができないリタは、シェリアの様子を確かめられなかったが、ほぼ間違いないと確信できる予想はできた。自分たちとは違った理由で笑いもせず、見本のように美しく背筋を伸ばし、注がれる無数の熱いまなざしに怯む事なく、堂々と立っているのだろう。シェリアは、そう言う娘なのだから。  突然あたりが騒然となり、リタは周囲に意識を向けた。  それまで神の子の代弁者として語り続けていた老人が、リタたちの前から立ち去っていく様子が見える。新たに天より使わされた――と言う事になっている――神の子のお披露目は真っ先に済んでいるので、大司教の話が終わると言う事は、無駄に仰々しい式典が終わる事と同意で、神の子をひと目見ようと集まった民が、名残惜しんだあまりのざわめきが、遠くからリタに届いた故に騒がしく感じたようだった。  ようやくこの場から逃れられる。安堵したリタは、深く息を吐く。隣に見える少年の肩からも少し力が抜けており、同じように考えているのだと知ると微笑ましかったが、まだ笑みを作れるほどの心の余裕は無かった。  後ろに控えていたジオールが、そっとリタに歩み寄ってきた。いつも通りの見飽きた真面目顔だ。彼の顔の筋肉は、先ほどまでのリタたちのように、動く事を忘れてしまっているのかもしれない。 「リタ様」  差し出される皮手袋に覆われた手に戸惑ったリタは、上目遣いでジオールを見つめ、声をひそめて言い放った。 「柄じゃないんだけど、こう言うの。逆に歩き辛いし」 「実用性の問題ではなく、形式美です」 「……あんたが美学を語るとは思わなかった」  だが、無理に理由を捻り出し語られるよりは納得のいく答えで、リタは大人しくジオールの手を借りる事にした。可憐かつ高貴な少女――実際は違うのだが、民の目にはそう映っているはずだ――が騎士の手を借りて歩く姿は絵になるので、民の目に美しく映り、良き記憶として残る事だろう。 「ねえ、美学の問題なら、あんたとルスターさん、役目取り替えた方がいいんじゃない? あんたみたいな男を従えた方が、カイに威厳が出て多少は格好良く見える気がする」 「ルスターのような男が貴女の手を引いた方が、美しく見えましょう」 「うん。あんたを目の前にして言い辛かったから言わなかったけど、それも考えた」 「しかしもう決定した人事ですので、よほどの理由がない限り変更になる事はありえません。貴重なご意見、次の機会に参考にさせていただきます」  半ば冗談のつもりで口にしたリタとしては、真面目に流されるとどうして良いか判らず、相手に聞こえないよう「つまらない男」と呟くしかなかった。  小さなため息を吐きながらジオールから視線を反らすと、ルスターを従えるカイの肩の向こうに、微動だにしないシェリアの姿を見つけた。  三人の中で最も古くから大神殿に在り、民を見守り続けてきたシェリアは、明言こそされていないが、リタたちより格上に扱われている。日常においても式典などにおいても最優先されるのはシェリアであり、故に真っ先にこの場を離れているはずなのだが、まだ残っている不自然さが目に付き、リタはシェリアを凝視した。  静かな眼差しは差し出された手を見つめたまま動かなかった。小さな唇は引き締められ、何も言葉にはしなかったが、だからこそ強い拒絶を感じる。 「シェリア様」  シェリアの傍らに立つ男が、優しい声で名を呼ぶ。 「いつも通りで構いませんが?」  同じだけ優しい声でハリスが言うと、シェリアはゆっくりと手を伸ばした。  リタは目を放せなかった。自分やカイへに見せるものと大きく違うハリスの態度もだが、それ以上にシェリアが気になったからだ。  傷ひとつない白い手は、男の手を借りるふりをしながらも、けして触れようとしない。  歩き出す姿は優雅で、緩やかな風に小さくなびく金の髪は、天から降りそそぐ光のように煌めいていた。凛とした横顔はため息が出るほど美しく、おそらく多くの者が、ささやかな異常に気付く事もなく、シェリアに見惚れているのだろう。 「どうかいたしましたか?」  様子がおかしい事に気付いたのか、ジオールがリタの顔を覗き込んだ。 「仲、悪いの? シェリアたちって」 「シェリア様と……ハリスの事でしょうか」  リタははっきりと肯いた。 「申し訳ございませんが、私は存じ上げません。そのような報告は受けておりませんし、個人的な会話を頻繁に交わすほど、私とハリスは親しくありませんので」 「そう」  ジオールが本音を口にしているかどうかの判断は難しいが、どちらにせよ、この男の口から知る事は不可能だと理解したリタは、名残惜しみながらもシェリアから目を反らした。  同時に、リタは無意識に指先を僅かに動かしていた。  指の腹から伝わる皮の感触は、どこか空々しく感じてしまうので、好きではない。だがそれは、人に触れる事にすら気を付けなければならない事実を思い知らされる事によって、エイドルードから与えられた力を疎ましく思ってきた過去が蘇るからである。幼い頃から神殿で育ち、神に対する考え方が根本的に違うシェリアが、リタと同じように考えるわけがない。むしろ誇るべき事だと思うのではないだろうか。  ならばなぜ、あれほどまで頑なに、だが静かに、拒絶するのだろう。  不思議な娘だ。はじめて見た時から幾度も思っていた事を改めて感じたリタは、未だ歓声を上げる民衆を背に歩き出した。 2  愛され可愛がられているだけの珍獣たちにも、それなりの苦労があるのだろう。多くの民の前に立っていただけで気力が根こそぎ奪われるほどに精神が磨耗したカイは、想像上の存在に同情しながら、肺中の息を吐き出す。 「お疲れ様でした」  堅苦しく飾り立てた服――ここで与えられる普段着は、以前のカイにとって見れば、充分堅苦しいのだが――から着替え、背もたれにだらしなく体を預けていたカイの目の前に、労わりの言葉と共に果実水が差し出される。爽やかな香りと口の中にほのかに広がる酸味は、喉だけでなく疲労した心も潤してくれた。  ようやくひと息吐けた気分だった。緊張で固まった表情が、ゆっくりと解れていく。 「カイ様、お疲れのところ大変申し訳ありませんが、ひとつお話があります」  傍らに立っていたルスターが、ひそめた声でもカイの耳に届くよう、僅かに身を屈める気配がした。  疲れたカイに大声で話しかけるのは無粋と判断したのか、周りに聞かれて困る話をするつもりなのか、ルスターの行動だけではまだ予測ができなかったが、万が一後者だとするとあまり良い予感はせず、カイは力無い言葉で本音を返す。 「悪い話なら今は勘弁してください」  しばし間が開いた。おそらく考え込んでいるのだろう。 「悪い話では無いと思うのですが、お疲れ気味のカイ様にとって、良い話かどうかは……」  曖昧な言い方が気になってしまい、カイはルスターに気付かれないよう静かに息を吐いてから、姿勢を正した。 「一応、聞いてみます」 「ありがとうございます」  ルスターは柔らかな笑みを浮かべ、カイの正面に回った。 「噂話ですでにお耳に入っているかもしれませんが、明日、セルナーンの北に位置するザールの町へ、遠征隊が向かう事となりました」  噂話の類をカイの耳に入れる可能性が最も高い男の口から語られた話は、当然ながら事前には知り得ない事だった。 「いえ、聞いた事はありませんけど……セルナーンより北にある町と言うと……」  ルスターの説明の中で最も気になる単語を拾い上げ、問いかけるように呟いた。  カイが知る限りでは、エイドルードの結界の北端は、ここセルナーンである。つまり、セルナーンより北に位置する町は、カイが愛する故郷と同類であると考えられ、聖騎士団が遠征する理由は、ひとつしか思いつかなかった。 「エイドルードの結界は、大神殿、森の神殿、砂漠の神殿が描く図形の中と言われております。確かにその通りではあるのですが、神殿の周囲には特別大きな力が働き、多少はずれた程度ならば力が働きます。そうでなければ、セルナーンの街の北側も、加護が働かない地域になっていたでしょう」 「ああ、言われてみれば、あたりまえですね」  大神殿がセルナーンの中心近くにある事を思い出し、カイは納得した。 「ザールはセルナーンより半日ほど北に歩いた所にございます。我々が認識する限り、神の守りの力が働く最北の地――の、はずでした」 「やっぱり、その町に魔物が出たんですか」  ルスターは静かに肯いた。  いつだったか、ハリスは言っていた。天上の神が失われた弊害は各地に出始めている。これまでエイドルードの加護があった地にも、魔物が出現するようになったのだと。  アシェルやザールのように、元より際どい場所にあった町から被害が出るのは必然だろうと思いながらも、王都セルナーンにほど近い地にまで影響が出ていると考えると、カイは少しだけ恐ろしくなった。 「ザールは『守り人の町』と呼ばれております。遠い昔、大神殿の命によって、魔獣に最も近い地に興された町です。代々の領主たるアルケウス家は、魔獣を見張る役割を担っております」 「アルケウス?」  聞き覚えのある家名を口にすると、ルスターは小さく肯いた。 「はい。ザールは私の故郷です。今は事実上、妹の夫――私の義弟が治めております」  即座に浮かび上がった疑問をすぐに口にして良いものか判断できず、カイは自身の頬を掻く。僅かな沈黙の後、結局好奇心に抗えなかったカイは、率直な質問を投げかけた。 「妹さんの旦那さんよりは、ルスターさんの方が、領主となるのに相応しい気がするんですけど」  ルスターは一瞬呆けた後、照れ隠しの笑みを浮かべた。 「失礼しました、言葉が圧倒的に足りませんでしたね。アルケウス家は二十年ほど前、私の兄が家督を継いだのですが、昨年に若くして病に倒れました。その時私が戻って後を継ぐと言う話もあったのですが、兄の長男であるランディが来年成人を迎えるまでに成長しておりましたので、それならば私が戻るまでもない、むしろ甥が成人した際に話がややこしい事になりかねないため、戻らない方が良いとの結論に至りました。兄の後は兄の長男である私の甥が継ぎ、成人を迎えるまでは、妹夫婦が後見人と言う形を取っています」  カイは納得して相槌を打ち、ルスターに話の続きを促した。 「昨日の夕刻近くの事ですが、ザールより救援を求めし急使が訪れました。私は甥の事も義弟の事も存じておりますが、双方とも勇ましい騎士であり、よほどの事が起こらない限り大神殿に救援を求めるような事をしない者たちです。急使による報告もただならぬ状況を伝えてきたようで、大司教と聖騎士団長は遠征隊の派遣を即座に決定し、すでに人選も済ませました。本日の朝、先行隊として一個小隊がすでにザールに向けて出立しており、明日にもハリス殿率いる本隊が出る予定です」 「ハリスが率いるんですか? あいつは、シェリアの護衛隊長でしょう?」 「はい。つまり、シェリア様もザールへと向かわれるのです。シェリア様のお力が必要となるかもしれませんから」 「町ひとつに神の子まで出るなんて、ずいぶんと協力的なんですね」  ルスターに嫌味を言うつもりは無かったが、自然と口を吐いた言葉は、ルスターの優しい心に随分と痛手を与えたようだった。口を噤み、申し訳なさそうに項垂れるルスターを見上げ、カイは慌てて謝罪の言葉を口にする。 「すみません。別に、『何でトラベッタにも同じように力を貸してくれなかったんだ』とか、そう言う意味で言ったわけでは無いんです」 「いいえ。結界外でお育ちになられたカイ様がそうお考えになられても、仕方の無い事です。私自身、同じように思っております」  自分の故郷だけに救いの手が伸ばされる事への罪悪感が、ルスターの表情にありありと浮かんでいた。相変わらず、善良ゆえに本音を隠しきれない人だと思いながら、カイは首を左右に振った。 「ザールがこの国の存続のために重要な地だって事は俺にも判ります。だから、神殿側の迅速な決定も当然ですよ。そんな事気にしないでください。それで? 遠征隊が出るから何なんです?」  ルスターは頭を下げ、謝罪と感謝の意志を明らかにしてから話を続けた。 「カイ様さえよろしければの話なのですが、遠征隊と共にザールへ訪れてみるのはいかがか、と考えたのです。この先セルナーンを離れる機会がいつ得られるか判りませんから――もちろん、カイ様がザールへ向かわれるのでしたら、私や部下がお供をいたしますので、変わらず息が詰まる思いをされるかもしれませんが」  カイはルスターを見つめる目を丸くした。  遠征隊を率いる人物があまり顔を合わせたくない男である事を除けば、願ってもない事だった。大神殿の敷地は充分広いと言えるが、ずっと中に居ては気が滅入ってしまうので、たまには外の世界を見て気分転換をしたい。大神殿に来てからこちら、礼儀作法だの神聖語だの歴史だ算術だのと勉強ばかりを強いられているので、それらから逃げられるのもありがたかった。  だが、すぐに喜べるほど、カイは楽観的ではない。 「願っても無い事ですけど、俺は一応、大事な神の子なんですよね? 魔物が出るような場所に、理由も無く行かせてもらえるとは思えないんですが……許可、下りますか?」 「問題ないと思います。以前よりシェリア様は年に一度、視察のためにザールを訪れておりまして、今年からはカイ様リタ様にもご参加いただこうと、話が進んでおりました。例年より二ヶ月ほど早くなりますが、この度シェリア様がザールを訪れる事となりましたから、同時に用件を済ます形になるでしょう。ならば、カイ様リタ様も、ご一緒した方が良いのでは、との話も上がっているようです」  ルスターは笑顔で、強い口調で言い切った。 「何より、カイ様もリタ様も、かつては魔物狩りをなされておられましたから、我々よりも対魔物の経験や知識が豊富です。我々が知らず、おふた方ならばご存知の魔物が、ザールに出現している可能性もあるでしょう。いざその時が来たならば、助言いただきたいと思っております。いざと言う時には助力いただく事になっているシェリア様より、よほど安全な役割ですから、誰も反対はしないかと」 「そう言われてみれば、そんな気もしてきます、ね」 「では、話を進めますが?」 「はぁ……お願いします」 「了解いたしました。今宵はごゆっくりお休みください」  ルスターは礼をすると、部屋を飛び出していった。駆け足と言うほどではないが、いつもと比べると素早い足取りはどこか軽く、嬉しそうにも聞こえる。  彼も、生まれ故郷に帰れるのは嬉しいのだろうか。一瞬そう考えたカイだったが、すぐに違うだろうと思い直した。ルスターの事だ。純粋な厚意で、カイにより良き時間を作ろうとしてくれているのだだろう。  カイは閉じられた扉を見つめた。  エイドルードの元にも、心地よいものや優しいもの、美しいものはある。綺麗でなかったとしても、全てが悪ではないし、理解できないものばかりではない事を、カイは知っている。だがそれらは、不本意ながらここに居るカイにとって、複雑な思いを抱かせるものだった。  カイは床を蹴るように立ち上がると、寝台に身を埋めた。頬に触れる毛布の柔らかさに酔うように、静かに目を伏せた。 3  物事を単純に考えすぎたのかもしれない。  カイはザールへの道程の最中、馬車に揺られながら、昨日の選択を早速後悔していた。  確かに、大神殿やセルナーンを離れられた事は、良い気分転換だ。気が乗らない勉強から解放された事は清々しい。馬に乗ったハリスが馬車と並走している姿がちらりと見えるのも、はじめから予測していた事なので、大した問題ではない。  予想外にカイを責めたてたものは、馬車内の気まずい空気だった。  シェリアと、リタと、カイと。三人きりで限られた空間に閉じ込められるのは、少し考えればあらかじめ予想できた事である。そこまで思考が回らなかった昨日の自身の愚かさを責めながら、カイはどうしようもない息苦しさに必死に耐えていた。  どちらか一方とふたりきりならば、こんなにも苦しむ事はなかっただろうに。カイは頭を抱えるふりをして、気付かれないようふたりの少女の横顔を覗き見た。  もしリタだったならば。カイは、不機嫌そうにそっぽを向いて外の景色を眺めている少女と、会話をしようと必死に努力しただろう。以前彼女の部屋を追い出されてからこちら、彼女はカイを避けるばかりなので、関係を改善するための機会としてこの時間を利用したかった。  シェリアだったならば、何も考えずに静かな時間を過ごしただろう。無理に会話をする方が辛い相手であるし、トラベッタからセルナーンまでの長い時間のほとんどを無言で過ごした実績があるため、多少慣れている。  三人で居るからこその苦痛なのだ。いっそ馬車を出て歩きたいくらいだが、カイはすでにそれが許される立場ではなかった。ならば逆に、第三者が馬車の中に入ってくれないかと願ったが、窓から外を覗き見たカイは早々に諦めた。まず断られるであろうし、適当な理由をつけて成功したとしても、入ってくるのは三人の護衛隊長の内の誰かだ。その内で改善と言えるのはルスターの場合のみだろうが、三人の中で最年少であるためにもっとも可能性が低い。  危険な賭けに出るくらいならば諦めようと覚悟したカイは、ひたすら長い時間を耐えた。目的地であるザールに辿り着いた時は、泣きたいくらいに嬉しかった。  真っ先に馬車を飛び出し、伸びをしながら深呼吸をすると、続いて降りてくるリタに手を差し出した。 「誰が見てるわけでもないんだから、形式にこだわる事もないでしょ。このくらい、ひとりで平気」  リタがカイの手を借りずに馬車を降りたので、カイは行き場の無い手をそのままシェリアに貸す。シェリアは小さく会釈をし、カイの手を借りて馬車を降りると、最後に「ありがとうございました」と礼を言った。 「どういたしまして」と返しながら、カイの目はリタを追っていた。逃げるように距離を置いた少女は、カイたちの目の前にそびえる小さな城を見上げていた。  小さな、と言っても、あくまで城としてである。大神殿での生活で見慣れた王城と比べてしまえば貧相だったが、トラベッタの領主の屋敷と比較するならば立派と言って差し支えなく、魔物に対する砦としての頑強さで言えば、明らかにこちらの方が上だった。もっとも、トラベッタは街そのものの防備を固め、館は激戦を耐えるものとして建てられていないため、比べる事が間違っているのだが。 「随分古い城ですね」  城を指差しながら訊ねたカイに、ルスターは小さな笑みで応えた。捉え方によっては貶しているようにも聞こえる問いかけだったが、彼はそうは取らなかったようだ。 「歴史だけは長いのですよ。初代の大司教様が、アルケウス家の初代当主に、爵位や領地を与えたと同時に建築されたものですから。セルナーンに聳える王城と、ほぼ同じだけの時を過ごしている建物です」 「へえ……」 「狭いために閉塞感があるかもしれませんが、どうぞ、お入りください」  使用人やルスターに案内されるまま、カイたちは城の中に足を踏み入れた。  ルスターは狭いと言ったが、やはりあくまで城としての感覚であり、庶民の家で育ったカイの感覚では充分以上に広かった。年代を感じる建物ではあったが、手入れや掃除を怠っている様子はなく、綺麗で、魔物の問題を片付けるまでの滞在時間は、良い気分で過ごせるだろうと思える。  周囲を見慣れたカイは、ふと思いついてルスターを見上げた。懐かしさがこみあげてくるのか、いつもの温かな目が細められており、いつも以上に優しく見える。  案内役や通りすがりの使用人たちの、特に年配者の中には、顔見知りもいるようだった。懐かしそうに微笑みかけると、微笑みかけられた者たちは優しい笑顔で応えていたので、慕われていた事がカイにも判った。  やがて辿り着いた広間には、ふたりの人物がカイたちを待っていた。  ひとりは立派な髭をたくわえた三十半ばの男性で、左腕を肩からつり、右膝に痛々しく包帯を巻いていると言うのに、カイたちを前にすると、杖と女性の支えを受けて立ち上がろうとしていた。咄嗟にカイが「座っていてください」と言うと、申し訳なさそうに頭を下げ、元通り椅子に腰掛けた。彼がアルケウス家当主の後見人でありルスターの義弟でもある、ユベール・リデラだろう。  ユベールの傍らに立つ女性は、儚げで綺麗な女性だった。ゆるく波打つ蜂蜜色の髪が、見慣れた人物と同じであるためか、とても印象的だ。よく見ると、線の細い柔らかな面立ちもルスターと似ていて、彼女がルスターの妹、レイシェル・リデラであるのは疑いなかった。 「エイドルードの御子様、聖騎士の皆様、ザールまで遠路はるばるお越しいただき、ありがたく存じます。このように見苦しい格好で応対します無礼をお許しください」  ユベールとレイシェルは同時に頭を下げた。 「本来ならば当主であるランディ・アルケウスと共にお迎えするところなのですが、現在ランディは起き上がれる状況にございませんので、私たちのみで失礼いたします」 「とんでもない。突然の魔物の来襲のご苦労、お察しします。どうぞ、ご自愛くださるよう」 「勿体ないお言葉です」  隊長であるハリスは、間違ってもカイにかける事はない、心からの労わりの言葉を述べると、しばし考え込むそぶりを見せた。 「魔物について、詳しい状況のご説明をいただきたいのですが、そのご様子では椅子に座っての長話も辛い状況でしょう。どうぞ、寝室なり私室なりでお休みになられてください」 「お心遣いはありがたいですが……」 「もちろん、猶予があるとは言い難い状況ですから、ご説明はいただきます――ルスター」 「はい」  ハリスに名を呼ばれるたルスターは、妹夫婦への労わりに溢れていた眼差しを厳しくし、ハリスに向き直った。 「親族である君にならば、楽にした状態で話をしても多少は気楽だろう。君が話を聞いて、私に報告してほしい」 「はっ、了解いたしました」  小気味良い返事が響くと、隅や部屋の外に控えていた使用人たちがカイたちに近付いてきた。ルスター以外の者たちを客室に通すつもりなのだろうが、彼らに従ってすぐに部屋を出る気になれなかったカイは、ユベールと、今にも立ち去ろうとするシェリアの間で視線を行き来させる。 「シェリア」  扉の向こうに消えそうになった少女を、カイは呼び止めた。カイの呼びかけをけして無視する事のない少女が向ける無表情は、なぜ呼び止めるのかとカイを責めているようにも見えた。 「君の力。トラベッタで見せてくれた、君の癒しの力だよ。あれを、ユベールさんたちに使ってあげたらいいんじゃないかな」  出立直前のトラベッタには、蘇らせるだけで胸に痛い思い出ばかりだ。だが、悪くない思いでもいくつかある。魔物に噛み千切られかけた右腕の痛みが、シェリアの力によって瞬時に癒されたのも、そのうちのひとつだった。 「なぜ、です?」  眉ひとつ動かさず、無言のままカイを見つめていたシェリアが、ようやく口にした言葉はそれだった。 「え?」 「わたくしがあの者に力を使う事の、何が『良い』のでしょうか」 「何って……」  相手がシェリアでなければ、わざわざ説明するほどの事ではない。慌てて言葉を模索する自身が滑稽だと思いながら、カイはさりげなく頭を抑え、シェリアから目を反らした。  自分が他者から見て間抜けなのは仕方がない。シェリアがこう言う娘だと知っていて、ろくに考えもせずに提案をしたのが悪いのだと、思う事ができる。  だがシェリアの反応は、仕方がないとは思えなかった。父の遺体を目の前にしたカイの時のように、不用意に他者を傷付ける事になりかねないのだから。 「魔物のせいで痛い思いをする人が、ひとり救われるじゃないか。それは良い事だと、俺は思うけど」  子供に言い聞かせるようにカイが説明すると、シェリアは左右に首を振り、無言で否定してから口を開いた。 「いいえ、カイ様。わたくしの力は、偉大なる父、天上の神エイドルードが残された力。故に、地上の民すべてに、公平に与えられるべきものです。目の前の者のみに恩恵を与えるわけにはいきません」  か細いながら揺るがない声に紡がれた理由は、正しと認めるべきなのかもしれない。馬鹿馬鹿しいと鼻で笑い飛ばしても良かったのかもしれない。だがカイは、どちらもできずに硬直した。 「エイドルードは、地上の民を公平に救ってくれたわけではないじゃない」  感情的にシェリアの理屈を認める気にはならず、だが否定してしまえばエイドルードを認める事になる気がして、一歩踏み込めずにいたカイの代わりに言葉を発したのはリタだった。カイとシェリアの間に入ってくる気丈な声は、カイを取り巻く息苦しい空気から、カイを救い出してくれる。 「あたしは見てきた。神の恩恵にあやかれなかった土地を。魔物によって苦しんでた人たちを。神様だってそんなものなんだから、半分は地上の民であるあたしたちが同じ事して何が悪いわけ? いいじゃない。目に映る、手に届く限りの人をとりあえず助けたって」  魔物狩りとして生きてきた日々の記憶を蘇らせながら、リタは強い口調で告げる。同時にシェリアに投げかける視線は、睨んでいるように厳しかった。  当然シェリアは、その程度で怯む娘ではない。冷たい声で、声よりもなお冷たい、彼女の中の「常識」を語った。 「それは結界の外にあった人々の身勝手ではないでしょうか」  苦しむ人々を目の当たりにしてきたカイたちは、呆気に取られ、息を飲むしかできなかった。 「神は結界の外の者たちに、中に入る事を禁じたわけではありません。結界の中に人が溢れていたわけでも、新たに人が暮らすだけの土地が不足していたわけでもありません。結界の外に居た僅かな者たちには、移住する権利を与えていました。ですが多くの者は、その権利を蹴り、結界の外に永住を決めたのです。彼らに神を不平と罵る権利があるでしょうか。神は、神が何よりも尊重した『安全』を拒絶し、別の何かのために生きた者たちを否定せず、許したのです。彼らは、神の寛大さに感謝するべきではないでしょうか」  リタは目を丸くしてシェリアを見上げていた。  カイも同じだった。だが、シェリアの導き出した結論に対して驚くだけではなく、半ば感心もしていた。感情的には笑い飛ばしてしまいたいシェリアの言への反論が、頭の中に浮かんでこなかった。  カイは知っている。トラベッタに住む、優しい人たちを。生まれ育った大地を愛し、海を、海から届く塩の香りを、純粋に愛する人々を。だが、内陸ではなかなか手に入らない海産物で商売を起こし、それによって得る富への不純の愛に生きる者も知っているし、神の目から逃れるために結界の外に逃げたジークの事も知っている。前者はともかく、後者に対しても平等な恩恵を与えるべきかと問われた時、返すべき答えがカイには見つけられなかった。 「君の方が正しいのかもしれない。目の前の人をとりあえず助けたいと望む俺の心は、弱いのかもしれない」  シェリアに投げた声が思いの他優しく、カイは我が事ながら驚いた。 「けれど、けして間違って居ないと俺は信じたい――そう思う俺を、君は許して、認めるべきだ。君が、君の語るエイドルードのように、寛大であるのなら」  本音では、同じ心を知って欲しいと望んでいるのかもしれない。カイが望んでも手に入らない、多くの人を救える力を、貸して欲しいとも。  だがそれは、シェリアをより不完全な存在にするためかもしれず、利己的で身勝手な心なのかもしれなかった。 「判りました」  肯いたシェリアは、カイに背を背け、今度こそ広間を出て行く。  残されたカイは同じく残されたリタに向き直った。 「悔しいけど、ずっとここに居たシェリアと、今までの生き方に背いてここに居る俺たちとじゃ、筋の通り方が違うのかもな。完全に負けた気がする」 「完全に、じゃない」  リタの返事に驚いて、カイは目を見開いた。リタの部屋を追い出されたあの日から、リタからカイに声をかけてくれたのは、はじめての事だった。 「あんたが何も言わなかったら、シェリアはあたしを放っておいたりしなかったはずだから。その点は、感謝しておく」 「どう言う――」  意味なんだ、と訊ねる前に、リタは床を蹴っていた。小走りでユベールの傍に寄ると、痛々しい膝に手を翳し、小さく何かを唱える。遠すぎてはっきりと聞き取れなかったが、神聖語のようだった。  唱えたと同時にリタの手から生まれた光は儚いものだったが、間違いなく、シェリアが放つ光と同種のものだった。体を蝕む傷が多少は癒えたのか、杖頼みとは言え立ち上がる事ができるようになったらしく、表情をやわらかくしたユベールが、リタに対してしきりに頭を下げる。  そう言えば、誰かが言っていた。リタとシェリアは同じだけの力を秘めているのだと。しかし、受動的に発動する破邪の力とは違い、癒しの光や裁きの雷は能動的に使わなければならなず、力を持っている事実や神聖語を誰かに教えてもらえる環境になかったリタには、知り得なかったのだと。  リタは大神殿で過ごす日々の中、秘めた力を発動する術を、少しずつ習得していったのだろう。そしてシェリアは、そんなリタを制止しなかった。リタがどう動くか、予想できないわけがないだろうに。  カイは廊下に飛び出した。遠ざかって小さくなった背中を見つけると、小さく微笑みかけた。 4  与えられた客室で体を休められた時間は短かったが、不満はなかった。それどころか、ジオールが部屋まで迎えに来てくれた時は、嬉しいとさえ思ったのだ。ジークの息子として育った歴史が、魔物狩りとしての血が、騒いだのかもしれない。  案内されて辿り着いた部屋は、護衛隊長の誰か――おそらくはハリス――の部屋で、すでにハリスとルスターのふたりが、部屋の中心にある古めかしい円卓を囲んでいる。立ち上がってカイを迎えるふたりに座るよう指示すると、カイは円卓の傍に置かれた椅子に腰掛けた。  卓の周りにあらかじめ用意されていた椅子は五つ。中には卓と模様や木材がやや合わないものもあり、はじめから部屋に備え付けられていたものではなさそうだった。この場に集まる者全員が座れるようにどこかから持ち込んで数を合わせたのだろうが、護衛隊長の三人と、カイと、あとひとりは誰になるのだろう。リタかシェリアであるのは間違いなさそうだが、ふたりのうちどちらか、と言うのが、カイにとっては違和感があった。 「あとひとりは誰が来るんですか?」  訊ねると、すかさず答えたのはハリスだった。 「リタ様です。シェリア様には後ほど私から、必要な情報と結論のみをご連絡いたします」  言われてみれば実にシェリアらしいと納得したカイは、肯く事で返すと、まだ主の居ない椅子を見つめた。 「リタ様ですが、少々遅れて来られます。先ほどユベールの傷を治療してくださった際、ランディの具合も見たいとおっしゃられたので、お言葉に甘えさせていただきました。ランディの様子が看終わりましたら、そのままここに駆けつけてくださるとの事です」 「ランディさんは、だいぶ悪いんですか? ユベールさんたちの様子から、少なくともユベールさんより悪そうに思いましたけど」  ルスターは伏せた睫に複雑な感情を映しながら肯いた。 「医師によると、外傷はそれほどでもないそうですが、魔物との戦い以来、一度も意識を取り戻さないようです」  平然を装った声には、年若い甥の身を案じる想いが強く現れており、かける言葉も差し伸べる手も見つからずに困ったカイは、ルスターから目を反らした。 「甥の事は置いておきましょう。私たちの使命は、魔物の討伐です。魔物の件、ユベールより聞けた限りをご報告します」 「頼む」 「まずは三日前の夜更け、物見役がやや遠方に魔物を発見しました。様子見もかねてユベールが兵を率いて討伐に向かい、数名軽い負傷者を出しながらも問題なく撃破。その直後、城の方向に異変を感じ、慌てて帰還したユベールは、三十体近い数の魔物がザールを襲っている様子を目撃したそうです」  カイは強い違和感を覚えて口を開きかけたが、報告がひと段落つくまで口を挟むのは賢明ではないと判断し、拳を唇に押し付けた。 「ザールを襲った魔物には、ランディや兵士長が率いた兵たちが応戦しました。戦えるものは少なくはなかったのですが、混乱が大きかったせいか、戦いは随分長引きました。ユベールたちが帰還し戦力が増えた事で事態が好転し、半数ほどを撃破したのですが、残りは撤退したそうです」 「その後、何か問題は?」  ハリスの問いかけに、ルスターは堂々と首を振る。 「ときおり遠くに魔物の姿が見られるようですが、すぐに姿を消すようです。城や町に近付いてきた魔物はおりません」 「ザールの被害は?」 「死者三名、ランディとユベールを含んだ重傷者が三十余名、軽傷者は戦闘に参加した全ての者と言って過言はないかと」  ハリスは幾度か肯き、口元に運んだ手で唇を撫でる。視線はルスターに向けていたが、ルスターを見ている様子はなく、思考に耽っているのは明らかだった。  カイもまた、違和感の正体を見極めようと、思考していた。円卓に触れていた手は無意識に動き出し、爪が卓とぶつかる事で強い音が立つと、部屋に居た全員の視線が集まる。 「何か?」 「いや……今まで、ザールまで魔物が来た事はなかったんですよね?」 「はい」  ザールを生まれ故郷とするルスターが、力強く肯いた。 「それなのに同じ日に、ザールの近辺と合わせて二箇所で魔物が出たってのは、やっぱり気になるな、と。エイドルードの結界が弱まって、魔物がザールまで来られるようになったって事だと思うので、全くありえない偶然とは言えませんけど」 「相手が人間であればまず陽動を疑う状況ですね。しかし、相手が魔物となると」  ハリスは至極冷静に、カイが抱いた違和感を否定した。 「俺もそう思う。けれど、残った数体が撤退したと言うのも少し気になるんだ。俺は今まで、人間を相手にした魔物が逃げるところなんて、一度も見た事がない。まあ、逃げる間もなくジークが倒していたせいでもあるから、魔物に撤退すると言う知恵がないとは言いきれないが、基本的には頭が悪くて好戦的なものばかりのはず……」 「お話中申し訳ありません。私からもひとつ、ご報告があります」  消え去りかけたカイの声にかぶせるように、低い声が響く。その声に引かれるように、全員がジオールを見た。 「別の視点からの意見と言うのも役に立つかと思い、魔物との戦闘に参加したと言う兵士に話を訊いておりました。基本的にはルスターの報告と同様、むしろルスターの方が詳しいほどなのですが、気になる点がございました。あくまでもその兵士の印象にすぎないのですが、魔物たちはどことなく統率が取れていたように思えた、と」  冗談はやめろ、と否定しようとして、カイは息を飲んだ。深い暗闇を思わせる瞳を持つ男は、冗談が言える類の人間ではなかったし、真実であれば、カイが抱いた違和感が全て解消されるからだ。 「ザール周辺の魔物は、他の地域に現れる魔物と違い、多少知恵が回ると言う事ですか?」 「私がユベールに話を聞いた範囲では、他の地域の魔物と違うようには思えなかったのですが……熊のようなものや、巨大な蟻や、羽がはえていたものなど、種類はそれぞれだったようですが、どれも、動物が変形し凶暴化した外見であったそうですから」  カイは眉間に皺を寄せた。  ルスターが語った魔物すべてと、カイは戦った事がある。全体的に普通の動物よりも力が強く、牙や爪など武器となるべき場所が鋭く、皮膚が固い魔物たちは、充分脅威となりえたが、おせじにも賢いとは言えず、暴れる事が全てだった。  外見が同じで、中身が違うと言う可能性も捨てきれない。だが、「違う」とカイは思った。根拠のない、単なる魔物狩りとしてのカンだったが、カイにとっても最も疑う余地のないものだった。 「俺も信じられません。その魔物たちに、仲間を指揮するほどの知恵があるなんて。誰かに従う程度の知恵ならば、あるいは、と思いますけど」  言いながら、しかし信じるしかないのかもしれない、とも思う。魔物たちに使える知能が本当にあるのだとすれば、再び魔物がザールに現れた時、対処できないどころか逆に裏をかかれ、致命的な打撃を受ける事になりかねない。  戸惑いが沈黙となって部屋の中を支配しはじめる。そうして纏わりつく静けさに苛立ちはじめた頃、ハリスが手を上げた。 「実は、私にもひとつだけ情報があります。真偽の程は判りませんが」  ハリスは飲み物を口に運び、喉を潤してから続けた。 「私が話を聞いた相手は非戦闘員です。城の中に避難していながら、好奇心を抑えきれずに戦闘を見守っていたと言う使用人を発見いたしましたので」 「その方は、何と?」 「遠い上に暗いため、はっきり判別はできなかったが、ザールを襲う魔物の向こうに人影のようなものが見えた、と」  カイは円卓に手を付き、勢いで立ち上がった。 「人が魔物を操っているとでも言うつもりか?」  ハリスは苦々しい表情で首を振った。 「魔物が人の声に耳を傾けるなどと、やはり信じられない事です。しかし、状況を鑑みる限り、何らかの形で魔物たちに人の知恵が加わっていた可能性を全て否定するは危険かと」 「確かに……しかし、人が魔物に与して、何の得があるのでしょう」 「それは」 「何らかの事情があり、単純な力を求めた可能性も考えられま――」  突然部屋の扉が叩かれると、四人は過剰に反応し、いっせいに扉を見た。特にカイは睨んだと言って良いほどきつい目つきで見ていたためか、返事を待たずに扉を開けた人物は、カイと目が合うなり一歩後ずさる。 「何だ、リタか。驚かせないでくれ」  カイは安堵のため息を吐くと、再び椅子に腰を降ろし、背もたれに体を預けた。 「な、何よ。遅れるけど行くって、ちゃんとルスターに伝えておいたはずだけど」 「伺っております。大変失礼いたしました」  ジオールが立ち上がってリタを迎え入れ、ハリスはリタのための椅子を引いた。未だ不満そうなリタだったが、扉を開けた瞬間の緊迫感が解れ、穏やかな空気へ変調したためか、不満を爆発させる事はせず、黙って椅子に腰を下ろした。 「ルスター、ランディの事なんだけど」 「はっ。お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」  リタは寂しげに目を伏せて首を振った。 「ううん。謝るのはあたしの方なの。あたし、何にもできなかったから……癒しの力が使えるようになってまだそんなに日が過ぎてないし、日によって効果に波があるから、あんまり役に立てないかもなとは思っていたんだけど、まったく効かないなんて酷い結果になるなんて思わなかった。期待させるだけさせておいて、本当にごめんなさい」 「お謝りになる必要はございません。リタ様のお心だけで、ランディは救われる事でしょう」  ルスターが微笑みかけると、リタは照れ臭そうに笑った。 「ありがとう」  そして瞬時に真剣な顔付きに切り替え、物思いに耽るように俯いた。 「ところで、ランディって、三日前の夜の戦いで意識不明になったって聞いたけれど」 「はい」 「って事は、丸三日眠ったまま、なんだよね?」 「はい、そのはずですが。何か?」 「ううん、ちょっと、ひっかかる所があったものだから。何て言うか、三日も眠りっぱなしの人って、こうだったかな、とか……」  室内の男たち全ての視線が自分に集まった事に気付いたリタは、居心地悪そうに肩を竦めた。 「何となく思っただけだから。具体的に何が、って訊かれると困るくらいだし」  胸の前で両手を振り、質問を禁ずるリタの態度を眺めながら、カイは考えた。リタの言葉の意味を探るためにも、ランディの寝室を訪ねるべきだろうかと。  三日も昏睡状態に陥った人物のところに、ほぼ無関係と言っていいカイが邪魔をするのは、良い事とは言えない。しかし、リタのカンは信用に足りるものの気がするのだ。少なくとも、カイ自身のものよりは。 「あの……」  やはり、少し覗かせてもらおう。そう決意して口を開いたカイの声を、遮る騒音が鳴り響く。  音源は扉の向こう、壁の向こうだ。しかし、そう遠くはない。  カイが腰を浮かせ、音がした方を向いた時には、ハリスとリタがすでに床を蹴っていた。乱暴に扉を開け、通路に飛び出したハリスはそのまま走り去り、リタは通路に出た状態で様子を伺っている。ジオールやルスターに追い抜かれる頃には状況を把握したようで、カイの目に凛々しい横顔を焼きつけた後、再び走りだした。  呆然とした自身に気付いたのはその時で、カイは慌てて四人を追った。音がした方にリタやシェリアの部屋がある事に気付いたのは、走りながらだった。 5  客室に腰を落ち着けてから、シェリアはずっと窓の外を眺めていた。  ザールの風景は、塔の最上階にあるシェリアの私室から見えるセルナーンと、大きく違っている。多くの木々によって緑色に染めあげられている点は同じだが、ザールのそれは人の手によって整えられた美ではなく、自然が思うがままに枝を伸ばした結果広がった深い森なのだ。  セルナーンからほとんど出る事の無いシェリアにとって、規律のない植物の様子はもの珍しいものである。だが、長い時間見つめ続けたところで、風や動物たちが小さく揺らす以外に、何の変化が起こるわけでもない。並の人間ならばすぐに飽きている状況だが、シェリア身じろぎひとつすらせずに、森に視線をそそぎ続けていた。  飽きるわけがなかった。そもそもシェリアは、何も感じていないのだ。目に映る広大な森を、美しいとも恐ろしいとも思う事なく、ただひとつの情報として受け止めているだけだった。  やがて少しだけ顔を上げ、黄金の月が輝く様子を目に止めると、夕焼けがとうに失われていた事に気付く。  普遍や緩慢な時の流れと言ったものに疑問や不服を抱く事のないシェリアだが、他にする事が無いわけでもないのに、無意味な時間を過ごす事には、さすがに疑問を抱いた。傍らの円卓に置いておいた読みかけの本を手に取ると、続きに目を通した。  二行ほど進めたところで、シェリアの脳裏には本の内容と全く関係のないものが浮かんだ。  今朝早く、セルナーンを発つ直前の、双子の妹の顔だった。リタはシェリアの荷物の中に本が入っている事に気付くと、「これから魔物退治に行くって言うのに、本なんて持って行くの?」と訊いてきたのだ。  よく意味が判らなかった。魔物退治に行くから、何だと言うのだろう。ザールが読書を禁じているわけではないし、魔物と対峙する瞬間まで本を読もうと考えていたわけでもない。  では、本を携帯する事に何の問題があるのだろうか――シェリアは疑問を抱いたが、誰かに投げかける機会を得る事無く、すぐに結論を出した。  ハリスや他の聖騎士たちは、シェリアに何も言わなかった。対してリタは、セルナーンではないところで育ち、頻繁に不可思議な言動を繰り返す娘だ。どちらが正しいかは明白で、つまりは今回も、リタ特有の妙な発言だったと言う事だ。  何の問題もない。シェリアは納得し、再度本に集中した。  しかし、十行と読まないうちに、扉が一度だけ強く叩かれた。シェリアは音で乱される程度の弱い集中しかできない娘ではなかったが、わざわざ訊ねてきた人物が誰かも判らないうちに無視するような娘でもない。 「どなたです」  シェリアは訊ねた。叩き方だけでは、誰が扉の向こうに現れたのか判らなかった。ハリスはこのように乱暴な叩き方をしない。いや、ハリスに限らず、どんな聖騎士でもしないだろう。  では、カイやリタだろうか。それも少し違う気がした。  しばらく扉を見ていたシェリアだったが、返事が来ないため、本に視線を戻した。入れ、とももちろん言わない。問いに答えない人物とは、扉を間に挟んだままで充分だと判断した。  沈黙は、三行読み進める程度にしか続かなかった。  扉の向こうで何か重い荷物が転がされる音がしたかと思うと、強い破壊音が響き、扉が開かれる。扉はそのまま閉じたり開いたりを繰り返しており、鍵と取っ手の部分が壊れている事をシェリアは理解した。先ほどの破壊音の正体はこれなのだろう。  シェリアは壊れた鍵から、扉を開けた影に視線を移す。  シェリアよりもいくつか年若そうな少年だった。シェリアほど細くはないが、背の高さはシェリアと同じか少し高いくらいで、屈強とはほど遠い印象だ。蜂蜜色の髪が頬にかかる様子が誰かに似ている気がすると思ったが、答えを導き出す前に、少年はシェリアに飛びかかってきた。  目を伏せる事も避ける事もせず、怯えもせず、シェリアは少年を真っ直ぐに見つめていた。淡い色の瞳の奥に宿る、深い闇の光を。  首を絞めようとしたのだろうか。少年の両手は、シェリアの首に絡もうと伸びたが、触れるよりも先に神の守りが働いた。  少年の体は見えない力に弾き飛ばされ、瞬時に壁に激突した。後頭部と背中を強くぶつけたためか、少年は端整な顔を歪ませ、人のものとは思えない奇声を部屋中に響き渡らせた。  シェリアは動じなかった。しばらくは、椅子に座ったまま少年を見つめていた。少年が飛び込んできた時か、それとも壁にぶつかった時の振動か、倒れて円卓から転げ落ちた燭台に灯る蝋燭が、絨毯を僅かに焦がしている事に気付くと、立ち上がって燭台を拾い上げた。  その頃には、奇声は更に変化していた。もはや人の声と認める事はできない、怪音と言えるものだった。  シェリアは橙色の灯りを手に、再び少年を見下ろす。壁を背もたれにして床に座り込む少年の体からは、扉を壊して進入してきた時の力強さが一切感じ取られなかった。  力無く項垂れる蒼白の横顔の周囲に、黒い靄が漂っていた。薄く開かれたまま微動だにしない少年の唇から、徐々に吐き出されているようだ。自身と相反する、禍々しいものを肌で感じ取ったシェリアは、少年との距離を広げた。 「お前は何者です」  少年は、シェリアが知る魔獣やその眷属である魔物と、大きく違っている。だが、少年が吐き出す闇は、魔物たちが持つものと同種のものだった。 「答えなさい。何者です」  もう一度問い質したが、やはり答えは得られなかった。  シェリアは少年に歩み寄ってから、ゆっくりと手を伸ばす。途中、シェリアを守る神の力が、少年が吐き切った黒い靄に反応し、弾けた。  光に飲まれるようにして、靄は一瞬にしてかき消える。同時に禍々しい空気も失われた事が判ると、シェリアは伸ばしていた手を自身の胸に引き寄せた。  全く動く気配のない少年に、もう一歩だけ近付いてみる。気を失っているのかと、目を凝らして観察してみたシェリアは、少年が呼吸すらも止めている事に気が付いた。 「シェリア様!」  もう気にする必要もなかろうと、シェリアが椅子に座り直そうとした瞬間、部屋に飛び込んで来たのはハリスだった。彼は剣の柄に手をかけ、部屋の中を見回して少年の姿を見つけると、素早く床を蹴り、少年とシェリアの間に体を滑り込ませる。  ハリスはしばらく少年を睨んでいたが、徐々に眼差しを柔らかくした。少年に何かしらの不審を抱いたのか、一歩ずつゆっくりと近付くと、少年の顔を覗き込む。すると行動が突然早くなった。剣から手を離し、少年の顔や首筋に触れて何かを確認すると、すぐに立ち上がりシェリアに振り返る。 「シェリア様、この少年は」  シェリアは椅子に座り直すと、閉じてしまった本を手に取り、先ほどまで読んでいた場所を探した。 「魔獣の眷属です。先ほど扉を壊し、わたくしの部屋に入って来ました。何をするつもりだったかは判りませんが、わたくしに飛びかかってきました」 「シェリア様の御身は、ご無事ですか?」 「もちろんです。わたくしにはエイドルードの加護があります。その者は神の力に罰せられ、倒れました。倒れた後、魔物のものと酷似した闇の気が吐き出されましたが、それも神の力の前に消滅しました」 「ご無事で何よりです」  ハリスは優しい笑みをシェリアに向け、静かなため息を吐いた。  ようやく続きを探りあて、読もうとしたシェリアは、ハリスが吐き出した息に引かれるように顔を上げる。 「疲れているのですか?」 「私が、ですか?」 「そうです」 「いいえ。シェリア様をお守りする役目も果たせなかった私が、疲労など」 「では、つまらないのですか?」  再度シェリアが問いかけると、ハリスは何かに気付いたそぶりを見せた後、ゆっくりと首を振った。 「いいえ。面白いもつまらないもありません。今はただ、シェリア様がご無事であった事に安堵するのみです」 「そうですか」  ため息には多くの意味があるのだと、漠然と理解したシェリアは、納得して本に視線を戻す。するとハリスは、シェリアの前に跪き、礼をした後、少年のそばに戻った。  ハリスは崩れ落ちたままの少年の体を軽々と抱き上げた。「失礼いたしました」と挨拶をして部屋を出て行こうとしたが、入り口近くで足を止めたまま動かなかった。 6 「ルスター……」  蜂蜜色の髪の男は、驚愕に目を見開いて、ハリスの腕の中に居る少年を見下ろしていた。けしてハリスを見る事はない視線が、何よりも自身を責めているような気がして、ハリスは僅かに目を反らす。  ルスターと同じ色と質感の髪を持つ少年が、彼が幾度か語った甥である事は明白だった。それ自体ありふれた特徴ではないし、少年とルスターは、髪の色だけでなく、端整な顔立ちもどことなく似ていて、初めて出会った頃、まだ十代半ばの少年だったルスターを、髣髴させたのだ。  通路に倒れていた聖騎士を診ていたリタが、ハリスに気付いて立ち上がり、驚きの目でランディを見る。呆然と立つルスターの横をすり抜けてランディに手を翳すが、何も唱えようとはしない。  リタはごくりと喉を鳴らし、そっと少年の頬に触れた。  まだ成人を向かえていないとは言え、ランディは男だ。通常ならば神の力によって弾き飛ばされるはずである。だが、力は発動しなかった。それが意味するところを知っているリタは、目を細めて顔を反らす。 「何が、あったのです? なぜ、ランディが、シェリア様のお部屋で死――」  悲壮を内に押しとどめ、それでもなお僅かに震えるルスターの声が痛々しく、ハリスは眉間に皺を寄せた。 「私が到着した時には全て終わっていたが、シェリア様によると、彼がシェリア様の部屋の扉を壊して進入し、シェリア様を襲ったそうだ。おそらく、シェリア様の守りに当たっていたオルトを殺害したのも彼だろう」 「そんな……」 「嘘だ」とでも口にして、否定したかったのかもしれないが、シェリアが嘘を吐けない娘である事を、シェリアと対面した経験がある者ならば誰でも知っている。苦悶の表情を浮かべ、頭を抱えたルスターは、未だ通路に倒れたままの聖騎士オルトに視線を落とした。  青年の身に外傷は少なく、目に付くものは首を抉った傷のみだが、致命傷なのは明らかだった。勢いは衰えたものの、未だに血が滲み続け、鮮やかな赤い絨毯を赤黒く染めあげている。  ハリスは彼の血の跡を視線で辿った。はじまりは、鍵が壊れて開いたままの扉にあり、扉を死守するために体を張った青年の信念が見えた。 「シェリア様がおっしゃったのです。真実である事は疑いありません。ありませんが、まさかランディがそのような事を――いえ、仮に、ランディが、シェリア様に狼藉を働くような人物だったとしても、実力的に可能とは思えないのです。オルトはハリス殿の優秀な部下のひとりではありませんか。彼を、一撃で、などと。しかも、武器すら持たずに」  ハリスはランディの遺体をルスターに引き渡すと、部下の傍に膝を着いた。  死の瞬間、大きな苦痛に見舞われたのだろうか。それとも使命を果たせなかった悔恨によるものだろうか。見開かれて血走った目は痛々しく、ハリスは静かにオルトの目を閉じさせた。  そして祈る。天上にはすでに神は無いが、それでも、この青年の死後が安らかであるよう。 「確かに君の言う通りだ。ランディ様が、守り人の町の領主となるべく幼い頃から鍛錬を重ねていたとは言え、帯剣した聖騎士を相手に素手で易々と勝利を得るとは考え難い」 「でも、だったらどう説明するんだ。この状況を」  力無く投げ出されたオルトの両腕を、彼自身の胸の上で重ね合わせ、傍らに落ちていた剣を握らせると、ハリスは立ち上がった。 「シェリア様はこうもおっしゃいました。彼――ランディ様は、魔獣の眷属であった、と」 「そんっ……な……」  元より白いルスターの顔が、より蒼白に変化した。周りに人がおらず、ランディを抱いていなければ、崩れ落ちていたかもしれない。 「ちょっと待てよ。いくらなんでもそれはないだろう」  カイは立ち尽くすルスターやリタを押しのけて、ハリスの正面まで近付いた。 「彼が魔物だったって言うのか? ルスターさんの甥だろう? いつから魔物だったって言うんだ?」 「人の子は人、魔物の子は魔物です。ルスターが人である以上、ルスターの親族であるランディ様が生まれた時から魔物であったとは考えられません。ならば、どこかで魔物と入れ替わったか――あるいは、ランディ様ご自身が魔物へと変化したと考えられます。どちらにせよ、エイドルードの結界が弱まりつつある、ここ数年の内でしょう」 「人が魔物に変わるなんて、ありえるの?」 「判りません。ですが、全ての魔物は、元はただの動物であったといいます。魔獣が封印される以前の時代に、魔獣の邪気にあてられ、魔物へと変化してしまったのだと。天上の神亡き今、魔獣にもっとも近きこの地ならば、かつてと同じ悲劇が起こる可能性があってもおかしくはないと、私は考えます」  ルスターは腕の中にある甥を抱く力を強め、固く目を伏せた。兄の死後、故郷を顧みる事無く聖騎士であり続けた事を、後悔しているのだろうか? 「言われてみれば確かに考えられる気がする。けど、何か、違う気がする」  力強く言い切ったのはリタだった。現実から目を反らしたいがゆえに適当に口走ったならば、軽く流してしまうべき発言だったが、空色の双眸には揺るぎない自信が輝いている。その輝きは、カイが彼女を後押しする発言を続けた事で、より強いものとなった。 「俺も違う気がする。姿を人間そっくりに変えられる魔物の存在も、魔物になってしまった人間も、俺は今まで見た事ないけど、居てもおかしくないかもしれないとは思った。でも魔物は、死んでからも魔物じゃないのか? 俺は、ランディから魔物の気配を感じない。根拠は、魔物狩りとしてのカンしかないけどな」  ハリスはカイの言葉を、肯く事で受け止めた。  感覚的にはハリスも同じものを感じている。倒れている所をはじめて見た時から、ランディの遺体は、普通の、少年の遺体としか思えなかった。だが、ならばなぜ、と考えてしまうと、無条件で賛同するわけにはいかなかった。  それに、ランディが魔物であったとすれば、合点がいくのだ。特別優れたとは言えないまでも、魔物たちが知恵を駆使した事や、魔物の中に人の影が見えた事に。 「以前のランディ様を存じませんので、勝手な思い込みかもしれませんが、まるで先ほど倒れたばかりのようですね」  考え込むそぶりを見せ、常に沈黙を保っていたジオールが、ルスターのそばに歩みより、ランディの顔を覗き込んだ。  彼の言葉に釣られ、その場に居た全員が、ランディを見下ろす。 「あ、そっか。そう言う事か!」  リタが合わせた両手が、小さく音を立てた。 「何がです?」 「あたし、さっき言ってたじゃない。三日も眠りっぱなしの人ってこうだったかなぁ、って。今ジオールが言ったのと同じ事だよ。何て言うか、綺麗すぎる。丸三日寝込んでいた割に、ちっともやつれてる様子がなくて、健康的なくらい。それに――ああ、そうだよ。ランディには、あたしの力が少しも効かなかった。あれは、あたしが未熟なせいじゃなくて……」 「その時にはすでに死んでいたって事、か?」  カイが推理を口にすると、リタは小さく肯いた。 「具体的にいつなのかは、王都に居たあたしたちに判るはずもないけど、多分、三日前の魔物との戦いで命を落としてて……その後、遺体が操られてしまったんじゃないかな」  ハリスはリタの発言からシェリアの言を思い返し、息を飲んだ。  シェリアは言っていた。使者が吐き出した闇の気を、神の力で祓ったのだと。ハリスは今まで、魔物の遺骸から闇の気が吐き出される様を見た事がない。 「そうかもしれません。シェリア様は、倒れたランディ様から闇の気が吐き出され、それを祓ったとおっしゃりました。他の魔物が闇の気をランディ様の遺体に送り、操っていたため、シェリア様の目には闇の眷属と映った。そして今、シェリア様のお力によって解放されたからこそ、私たちの目には普通の人間としか映らない」 「どうして、そのような……」  ルスターはランディを抱く手に更なる力を込めた。その手が震えているのは、悲しみや後悔からではなく、怒りによるものなのだろう。魔物は、まだ若い少年の命を奪っただけでなく、その死を冒涜したのだから。 「怪しまれる事なく城の中に入る手駒が欲しかったから、かな?」 「普通に考えたら、多分そうだと思うけど……」 「三日前かそれ以前から城へ侵入しておきながら、最初に狙った相手は城に住む誰かでなくシェリア様であった事を考えると、三日前の魔物の襲撃が、そもそも神の御子を誘き寄せるために行われたものだった、と疑うべきかと」  ジオールの提案に、ハリスは強く肯いた。唇をきつく引き締め、腕を組んで考え込むリタを一度見下ろした後、再びジオールに向き直る。 「他に目的があり、城の中で機会を窺う内にたまたま神の御子が現れたから狙った、とも考えられますが、ともかく御子の護衛の強化は必須でしょう――ルスター」  名を呼ぶと、ルスターは蒼白の顔を上げた。 「判っているな」 「はい」  肯くルスターは、故郷の危機と身内の死によって過分に動揺していたが、けして取り乱してはいなかった。ハリスは胸の内で安堵しながら、震えを抑えた低い声に込められた悲壮な決意を受け止めると、薄い笑みを浮かべながら肯く。  通常通り振舞えるならば問題はないだろう。魔物の正体はまだ知れないが、カイの護衛であるルスターがやるべき事は、通常と何ら変わりないのだから。  それよりも、問題は自分たちだ。 「ジオール殿。今回の魔物、正体はまだ判りませんが、我々は普段以上に注意が必要なようです」 「無論、了解している」 「なんで?」  リタが大きな目を更に見開きながら首を傾げると、ジオールは真剣な眼差しでリタを見下ろした。 「相手が人並みの知恵を持っているからです」 「それだけ?」 「人並みの知恵を持つと言う事は、道具が使えると言う事です」  ハリスは歯を食いしばり、開け放たれたままの扉の向こうで、読書を続けるシェリアを見つめる。横顔は優雅かつ静かで、つい先ほど襲撃された事が嘘のようだった。  同じ護衛隊長であっても、ハリスやジオールがすべき事と、ルスターがすべき事の間には、大きな差が存在している。ハリスたちが守る相手が神の娘であり、ルスターが守る相手は神の息子である点だ。  神の娘には、三つの力が与えられている。魔物を裁く聖なる雷と、正しき者を救う癒しの光と、害するものを撥ね退ける守護の力。受動的に働く守護は強力で、本人の意志など関係なく、魔物はけして神の娘に触れる事はできないのだ。  故に、魔物から神の子を守る際、守るべき人が魔物によっては絶対に傷付かないと言う前提があるため、ルスターに比べてハリスたちの精神的重圧は弱い――相手が、特に知能もない普通の魔物であるならば。 「あんたはあたしを素手で殴り殺せないけど、切り殺す事ならできるって、そう言う事だよね。言いたいのは」 「ご冗談でも、そのように不穏な例えはご遠慮願いたいのですが」 「でも、間違ってないでしょ?」  ジオールは僅かに沈黙した後、肯定した。 「はい」 「判った。じゃ、今すぐシェリアをあたしの部屋に移そうよ。扉が無い部屋ってのもどうかと思うし、あんたたちも、守る相手が一箇所に固まっていた方が、見張りとかに割く人数少なくてすむでしょ。ザールの救援に来たのに、あたしたちの護衛にばっかり人手を回すのも失礼だしね」 「お心遣いありがとうございます」 「それに、いざとなればあたしがシェリアを守れるし。ね? 緊急事態だから、あたしも帯剣していいでしょ?」  はじめからそれが目的だったのではと疑うほどに、リタの強気な眼差しは清々しく、対してジオールの無表情な眼差しは徐々に疲労を帯びていった。 「了解いたしました。では我々は、リタ様が剣を抜く事がないよう、最善の努力をいたしましょう」  それはジオールの精一杯の反論だったのかもしれない。リタの表情に僅かな陰りを見つけた時、ハリスは直感でそう思った。 7  リタも、ハリスも、ジオールも、魔物対策のために慌ただしく動きはじめる。その中で、ルスターは戸惑っているのか、それとも何か考え込んでいるのか、立ち尽くしたまま動き出そうとしない。  突然身内を失った衝撃が未だ遠い記憶とならないカイにとって、ルスターの凍りついた表情は、痛々しいものだった。  この悲しみや苦しみに、生きてきた年月は関係ないとカイは思う。相手を大切に想う強さが同じならば、同じだけ痛く、辛いもののはずだと。父を失ったばかりのカイに比べて、今のルスターの方が平然としているように見えたとしても、それは生きてきた年月の違いが、耐える力や装う力を鍛えてきたにすぎないのだ。 「葬儀の準備を、しないといけませんね」  力無くこぼれ落ちたランディの腕を持ち上げ、彼自身の胸の上に戻しながらカイが言うと、ルスターはゆっくりとカイを見下ろした。はっきりと開かれた瞳は、驚いているように見える。 「葬儀、ですか?」 「あれ? この辺では、そう言う風習がない、とか?」  ルスターはゆっくりと首を振った。 「いいえ、もちろん、ございますが……ランディは魔の力に囚われ、恐れ多くもシェリア様に無礼を働いた者です。そのように、普通の人間として弔う事を、許されるとは思いませんでした」  今度はカイが驚く番だった。カイの感覚では、ルスターの言葉の意味は到底理解できるものではなかった。戸惑いながらもしばらくじっくりと考え、そう言う考え方があるのだとなんとか受け止められるようになったカイは、ルスターを見上げて強く肯く。 「ランディが悪いわけじゃないでしょう。大丈夫ですよ」  根拠はなかったが、カイははっきりと言い切った。 「ただでさえ哀れな死を迎えたんです。これ以上悲しい目にあうなんて、おかしいじゃないですか」  自分よりも幼くして死ぬ事となった少年に、少しは救われてほしいと願ったカイは、固く拳を握り締めた。もしもランディを弔う事を許さない誰かが現れたならば、戦うだけの覚悟を決めて。 「ありがとうございます。カイ様のお許しがいただけるならば、これ以上心強いものはありません」 「そんな。大げさな言い方しないでください」 「大げさではありません」  ルスターの瞳は、未だ親族を失った悲しみに満ちていたが、どことなく輝きを取り戻していて、言葉通り、大げさではないのだとカイは思い知る事となった。先月突然神殿に現れたばかりのカイだが、ルスターの目から見れば、やはり『神の子』なのだ。  自分が何気なく紡いだ言葉がルスターを支え、悲しみを癒したのだと知り、カイは少しだけ怖くなった。神の子として気取った言葉を産みだすつもりは元より無く、求めないでほしいと事前に話をつけてあるが、普通の言葉ですら力のある言葉になってしまうとは。 「申し訳ございませんが、カイ様。少々お付き合いいただけますか」 「構いませんけど、どこに?」 「まずはランディの部屋に彼を運び、それからレイシェルたちの所に。ランディの事を、妹たちに頼みたいので……抱いたままでは、いざと言う時にカイ様をお守りする事ができませんから」  ルスターの言葉の中に引っかかるものを感じつつも、カイは反射的に「判りました」と返した。自分の声の気が抜けている事に気付いたのは、音にして伝えた後だった。  ゆっくりと歩きはじめたルスターに遅れないよう、隣に並ぶ。まるで眠っているように穏やかなランディの死に顔を見下ろしたカイは、恐る恐るルスターを見上げた。 「ルスターさん。その、いいですよ」 「何が、でしょうか?」 「俺の護衛。俺は魔物狩りとして何年か生きてきましたし、神の力を除いた単純な剣の腕ならリタよりも強いので、自分の身を守る事くらいは出来ると思うんです。だから、ルスターさんは、自分やランディのために、時間を使った方が」 「いけません」  ルスターは穏やかながら強い口調でカイの言を遮った。 「お心遣いはありがたく思いますが、相手の実力がまだ判らないのです。他にも城内に、魔物の手の者が潜んでいないとは限りません。ひとりふたり相手にするならば問題ないかもしれませんが、十人、二十人に一斉に襲われたらどうなされます」 「でも」 「カイ様が、護衛が私では不安だとおっしゃるのでしたら、ハリス殿に相談いたしますが」 「いやっ、そう言うわけじゃ!」  カイが慌てて否定すると、ルスターは小さく微笑んだ。僅かだが、いつものルスターの様子が垣間見えた気がして、少しだけ安堵する。 「誠心誠意、勤めさせてください。おそらくは、これが最後になるのです。私が聖騎士としてカイ様にお仕えするのは」 「え?」  ルスターは再び小さく微笑んで、それきり何も言わなかった。カイも何も訊かず、無言でルスターの隣を歩き続けた。  訊かずとも、答えはルスターの腕の中にある。ルスターの兄はすでに亡く、彼のひとり息子であるランディまでもが亡くなったとなれば、空いた当主の座を継いでザールを治めるべきは、ルスターなのだ。  ルスターはカイにとって、セルナーンに溢れる人々の中で唯一、悩む事もわだかまりを抱く事もなく接する事ができる人物だった。だからこそ、そばから失われる事を想像するだけで、途方に暮れるほど虚しくなる。この先も、あの神殿で、無事に生きていけるのかと。 「寂しくなりますね」  長い沈黙を砕いたのは、カイが吐露した本音だった。 「光栄です」  柔らかな声は耳に心地良い。声の主が優しい表情を浮かべているだろう事は、容易く想像できた。 「大丈夫ですよ。カイ様はお優しい方です。聖騎士たちも、優しい者たちばかりです。すぐに打ち解けます」 「優しい、ねえ」 「きっ……気まぐれな者もたまにおりますが」  誰とは定めずルスターは言ったが、カイの脳裏にはただひとりしか浮かばなかった。関わっていない時はあまり思い出したくない人物であったため、首を振る事で素早く脳内から消し去る。  長い通路を進み、階段もいくつか昇り、やがて辿り着いた部屋は、城の最奥と言って良い場所にあった。  開け放たれたままの扉から、部屋の中の慌ただしい気配が漏れ出していたため、ランディの部屋である事は容易に予想できた。意識不明だった当主が起き上がって部屋を抜け出したとなれば、まともな使用人なら大騒ぎする事だろう。見れば、通路のはるか向こうや、窓から見下ろせる庭の中に、探しものをしている様子の使用人たちの姿があった。  部屋の中から飛び出してきた使用人と目が合うと、カイは気まずいあまりに息を飲んだ。 「ああ、ル……ランディ様!?」  使用人がルスターの腕の中にある少年の亡骸を見つけ、金切り声を上げると、声を聞いた者たちが次々と姿を現した。  強い混乱と悲しみが通路を支配すると、ルスターは静かな声で「通してもらえるかい?」と声をかける。戸惑う使用人たちが壁際や窓際に寄り、道ができると、部屋の中へと足を踏み入れ、ランディを寝台に横たわらせた。  後を追って部屋の中に入ったカイは、入り口近くで足を止めた。ルスターがランディの傍らで祈りはじめると、静けさが部屋の中に生まれ、優しい空気が満ちたのだ。近寄ってこの均衡を壊してはならないと、本能的に察した。  カイが端整な横顔を眺め続けてどれほど過ぎただろう。伏せられた睫が僅かに揺れ、開かれた瞳がカイを見つめた。  何事だろうと一瞬驚いたカイだったが、よく見ると、ルスターの双眸はカイを捉えておらず、素通りしていた。カイは振り返り、自身の背後、開かれたままの入り口に立つふたりを見つける。 「ランディ!」  レイシェルは床を蹴り、カイの横をすり抜けて、ランディのそばに駆け寄る。力ない手を握り締め、すでに命がない事を確かめると、冷たい手に頬を寄せて嘆いた。  嗚咽と共に、杖が地面を突く冷たい音が響く。自由が利かない体を引きずるように歩みを進めた男は、ルスターの正面で足を止めた。 「どう言う……事です?」  ルスターは一度目を伏せ、再び開いた。ただの瞬きと変わらない一瞬の間に、秘められた強さと輝きが強まったようにカイには感じられた。 「見ての通りだ。手厚く葬ってくれるだろうか」 「なぜこんな事に! 意識は戻りませんでしたが、今朝はまだ生きておりました」  ルスターは難しい顔で左右に首を振り、ユベールの言葉を否定した。 「ランディの命は、数日前からすでになく、魔物の傀儡とされていたようだ。そして今日、恐れ多くも、御子様を襲ったのだ」 「そんな」 「御子様はランディの身から闇の気を祓って下さった。それだけではなく、不敬は魔物によるものとし、ランディに人としての死をお許しになられた。寛大なお心に深く感謝し、強く祈るのだ」  項垂れたユベールは、硬く目を伏せて祈る。  泣き崩れていたレイシェルは、カイに小さく会釈をしてから、胸の前で手を組み、再び祈りはじめた。 「俺は何もしていない」と言いかけて、祈りを邪魔するのも無粋だと判断したカイは、一族の輪を崩さない程度にランディに近付いてから、安らかな死に顔を眺めた後、目を伏せた。  戦いに赴く際、彼が何を想っていたかは判らないが、理由が何であれ、逃げずに剣を取り、勇敢に戦ったその精神は尊く、魔物に汚されて良いものとは思えない。ひとり多く祈る度に、少年の死が清められていくのであれば、カイは祈る事を躊躇わなかった。  長い祈りだった。思考も、心も、何もかもが白く染まり、穢れのない輝きが、世界から闇を消し去る感覚だ。息苦しいほどの白だが、心地良さもあり、名と顔しか知らない少年が、光の向こうで微笑んでいるように思えた。  目を開けると、横たわる少年に変化はなかったが、少年と良く似た面差しの男が、優しく微笑んでいる。彼はカイに対して感謝を表す礼をすると、妹夫婦に向き直った。 「ランディの葬儀の件だが……」 「お任せください。兄上は何にも煩わされる事なく、尊きお役目を果たしてください」 「すまない。任せる」  ルスターは最後に、妹夫婦に眼差しで語りかけ、カイを導いて部屋を出て行こうとした。 「御子様!」  ルスターに従い、部屋を出ようとしたカイは、女性の声に呼び止められて足を止めた。 「ランディのためにお祈りを捧げてくださってありがとうございました。御子様の祈りを頂戴し、ランディは果報者です」  大げさすぎる反応を止めようとカイは口を開いたが、続けたユベールに遮られた。 「よろしければ、ランディを闇からお救いくださった御子様にも、我らの感謝をお伝えください」  ふたりの、とくにレイシェルの眼差しの中に羨望の光を見つけ、居心地の悪さを感じたカイは、肯いて応えると部屋を出た。誰かに「貴方は神の御子なのだ」と言葉で説明された時、遠くから多くの視線を受けた時よりも、強い重圧を感じて息苦しかったのだ。 「ありがとうございました」  カイの異変に気付いていないのだろうか。ふたりきりになると、ルスターまでもが感謝を言葉にした。 「何もしてませんよ、俺は」 「そんな事はありません。先ほど私は、ランディの冥福を祈りながら感じたのです。闇に埋もれかけたランディが清められ、救われていく様を。死者に祈りを捧げた事は幾度もありますが、初めての体験でした。驚いて顔を上げると、カイ様がランディのために祈ってくださっていた」  ランディは幸せ者です、とルスターは続けた。幼い死はすべからく不幸であるけれど、その中で最も幸せな少年であるのだと。 「やっと俺も、神の御子として役に立てたって事かですかね」  笑いながら返すと、ルスターの笑みはいっそう優しく変化した。 「もちろん、御子様のお力の偉大さにも感激し、感謝しております。ですが私は、ランディのために祈ってくださったカイ様のお心に、より感謝をしております」  眉間に困惑の皺を刻みながら、「これは不敬ですかね?」と問いかけてくるルスターに、返す言葉は見つからなかった。正しい答えがカイの中にあるのだとすれば、少しの驚きと多大な照れ臭さが、見事に隠してしまっているのだろう。 8  元より広い部屋であったから、急遽ふたりの部屋になったところで不便はなかった。あえて問題点を上げるとすれば寝台がひとつしかない所だが、女同士――しかも一応は姉妹だ――である事と、互いが四肢を伸ばして寝たとしても指一本触れあわないだろう巨大さを考慮すれば、気にするほどの事ではない。  聖騎士や使用人たちがシェリアの荷物をリタの部屋に運び終えると、ようやく静けさが戻ってくる。窓の外や扉の向こうに聖騎士たちが構えている気配が少々気になるが、状況を鑑みれば、贅沢を言う気にはならなかった。何か問題が起こらない限り騒がしくする事はないであろうから、それまでは気にしないふりをして寛いでいられるだろう。  気にしないふりができないのは、むしろシェリアに対してだった。いくつかある椅子のひとつを占領したシェリアは、まるで同部屋に他者の存在がないかのように、黙々と読書を続けているのだ。シェリアはそう言う娘なのだと幾度か説明を受けているし、目の当たりにした事も幾度かあるので、気にするだけ無駄なのだと思いつつも、慣れていないリタにとってはやはり気になる対象だった。  リタはいくらか距離を置いた椅子に腰掛け、本に視線を落としたきりまばたき以外では微動だにしない姉の顔を眺めた。  紙をめくる音がときおり響き、緩慢な時の流れを刻んだ。  自分も何か時間を潰す事をすべきだろうか、とリタは考えた。せっかく大神殿を出たのだから、勉強などあまりしたくはないが、姉の様子を眺めているよりはよほど有意義な気もするのだ。 「わたくしのどこかに、おかしいところがありますか?」  シェリアは顔を上げず、本を読み進める視線も動かさず、可憐な声を響かせた。部屋の中には他に誰も居ないのだから、リタに話しかけたのだろう。 「別に。いつも通りじゃない?」 「ならば、どうしてわたくしの事を見るのです?」  リタは肩を竦めた。 「あたしがあんたを見てる事、気付いてたんだ」 「はい」 「だったらもっと早く言えばいいのに」 「特に問題は無いと思いました。ですが、あまりにも長い時間でしたので、わたくしに観察すべき問題があるのかもしれないと考えました」  無意識に力が入っていた肩をほぐし、リタは答えた。 「大丈夫。別に問題はないよ」  輝くばかりに美しい容姿も、並の人間には理解できない思考や行動も、観察する価値は充分にあるのかもしれない。だがそれらはいつも通りのシェリアでしかないので、彼女が問いたい事ではない。 「そうですか」  シェリアの感情の無い眼差しが、不思議な生き物を見るかのような冷たいものに感じるのは、被害妄想なのだろうか。  理由や原因がどうであれ、リタはシェリアの目が好きではなかった。一級の硝子細工のように綺麗だとは思うが、ただそれだけだ。全てを見透かしておきながら、何も理解しようとしていないようで、リタの胸の内に悲しい光を呼び起こす。 「選定の儀まで、あと一ヶ月と少しだね」 「そうです」  沈黙に耐え切れなくなり、リタは話を切り出した。天気の話よりはシェリアの気を引けるだろうと思っての事だったが、あまり意味はなく、シェリアの返答は素っ気ないものだった。 「カイに選ばれたら、どうする?」 「意味のある質問とは思えません。その答えは、元よりひとつしかないはずです」  迷いなど微塵もない、羨ましくもあり悲しくもある回答に、リタは歪んだ笑みを口元に浮かべる。  選ばれてしまったのなら、答えはひとつしかない。リタだって同じだ。だが、そこには必ず葛藤や不安がついてまわるだろう。そう言った、感情的な意味も含めての「どうする?」だったのだが、シェリアには理解できなかったようだ。 「じゃあ、逆。選ばれなかったら、どうする?」  問いの形を変えても、さほど意味はないと思っていた。シェリアの中には揺るぎない答えがあらかじめ用意されていて、先ほどと同じように、躊躇いも迷いもなく口にするに違いないと。そう思いながらも問いかけてしまったのは、シェリアの答えを聞けば、リタの中にある悩みが少しは解消できるかもしれないと、微かな希望を抱き訊いてみただけだ。  だが、シェリアの反応は予想と違った。返答はすぐに帰ってこなかった。  変わらず表情がなく、椅子に座り続けたままの姿勢を保っているシェリアの様子は、どうしようもなくて困惑し、凍りついているようにリタの目に映った。 「判りません」  それが、いくらか時間を開けた後、紡がれた答え。  思わず立ち上がったリタは、唇を薄く開きながら言葉を模索したが、温い息を吐く事しかできなかった。 「その問いは、今までわたくしの中に存在していなかったのです。考える必要もありませんでした。わたくしは――」 「失礼いたします。シェリア様、リタ様」  扉を叩く音と、扉の向こうから名を呼ぶジオールの声が、シェリアの言を遮った。  答えの無い問いで追い詰めてしまった罪悪感がごまかせる気がして、リタは安堵しながらジオールに応える。  扉が開くと、若い女性と共にジオールが現れた。ジオールが目で合図すると、使用人と思わしき女性は、礼をしてから部屋の中に入ってくる。 「突然、何?」 「先ほどの騒ぎでお疲れのおふた方に何かお飲み物を運ぶようにと、ハリス隊長より指示があったようです」 「へえ。あいつもけっこう気が利くんだ。ちょうど喉渇いてたから助かった。いい香りだね?」  リタは女性が手にする盆に顔を寄せ、軽く鼻をひくつかせた。 「ザールの名産です。お気に召しましたら、城の者に言い付けてくだされば、何度でもご用意いたします。茶葉も準備いたしますので、セルナーンにお戻りになられてからも、どうぞご愛飲ください」 「ありが……」 「なぜ、ふたつあるのです?」  茶の入った器に手を伸ばしかけたリタは、突然シェリアが声を発した事に驚いて振り返った。  さらりと揺れた金の髪が、燭台の明かりを反射して煌めく。 「シェリア様と、リタ様に、ご用意するようにと……」 「ありえません」  力の無い、しかし揺るぎない空ろな眼差しに真っ直ぐに見つめられた女性は、大きく動揺していた。女性の反応に、はじめてシェリアと対面した時を思い出してしまったリタは、同情を交えて深く長い息を吐く。 「何がありえないって?」 「わたくしは頼んでおりません。ですから、ハリスがそのような指示を出すはずがないのです」 「何言ってんの。頼んだ事しかやらないのは、ただの無能じゃな……」 「やはりそうでしたか」  落ち着いた低い声がリタの言を遮る。続いて、何か固いものが絨毯に落ちる音、食器が割れる音、続いて女性の悲鳴が、リタの耳に届いた。  まだ熱い茶がこぼれて湯気を上げる絨毯の上に、割れた食器と空の盆が転がっていた。その向こうでは、女性の腕を捻り上げたジオールが、厳しい眼差しを女性に向けている。 「失礼いたしました。すぐに片付けますので、少々、離れていただけますか」 「え? あ、うん」  突然のジオールの態度の変化に驚いて、呆けかけたリタの目に映ったのは、女性の表情が一瞬にして醜く歪む様だった。  濃い闇の気配が漂いはじめた。  女性の細い腕が不自然に盛り上がり、ジオールの手を掃おうと振り上げられる。ジオールは顔を顰め、女性の攻撃を避けると、細い体に当て身を食らわせた。  剣を引き抜いたジオールは、足がもつれて床の上に倒れ込んだ女性に向け、剣を振り上げる。  か弱い女性とは思えない素早い動きで、女性は床を転がりジオールの剣を避けて立ち上がった。ジオールとリタを警戒するように、一定の距離を置いて立ち、低く唸っている。  白い手が、女性の横から伸びた。  普段から気配がほとんど無い。足音も、騒ぎの中でかき消える程度にしか立てない。そんなシェリアが女性に近付いていた事に気付かなかったのは、リタだけではないのだろう。  悲鳴と言うよりは、奇声と言った方が良いだろう。低く、高く、波を持って響く声を上げながら、女性の体は吹き飛んだ。人にも魔物にも抗う事のできない力によって壁に叩き付けられ、ぐったりと崩れ落ちる。  リタは床を蹴り、女性の傍に膝を着いた。力無く開かれた小さな唇から漏れ出てくる黒い靄を視認し、素手で払うようにすると、神の力が闇を消し去っていく感覚があった。  恐る恐る、倒れる女性に手を触れた。リタを守る力は働く様子は無く、女性がすでに魔の眷属では無い事が判った。そしてもうひとつ、ランディと同じように、生命活動を行っていない事も。 「この人も、魔物に操られていたと言う事?」  リタの隣に膝を着いたジオールは、はっきりと肯いた。 「他にも居るかもしれないと言ったそばからこれでは、城の者たちをどこまで信用して良いか判りませんね。全員調査をするにも、これほど見事に普通の人間を装うならば、正確な判断は難しいでしょう」 「うん。女の人なら、あたしたちが触るだけで簡単に判るんだけど……遺体が操られてるって事は、三日前の犠牲者ばかりって事だよね。だとしたら、ほとんど男の人だろうし。罪もない男の人に、一度吹っ飛ばされてくださいって言うのも、気が引けるなぁ」 「お優しい事です。叶うならば、その情けを私の部下にもかけていただきたかったのですが」  リタは一瞬だけ息を詰まらせた。 「古い話を引っ張り出さないでよ。あれはあんたたちがあたしを苛立たせたのが原因でしょ」  言い訳に対する反論は一切無かった。無表情で肯いて受け止めるその様が、馬鹿にされているように思えて腹が立ったが、ここで怒りを表面に出しても余計に惨めなだけだろうと、リタは判っていた。 「さてと。どうするの? あたしたちを殺しにきた人たちを、片っ端から退け続けるってのは、無理があると思うんだけど。下手すると、向こうは手駒を増やすために、更に犠牲者を増やすかもしれないし。あんまり悠長にして、ザールの民全てが魔物の手先になったりしたらどうするの」 「私もそれを考えておりました」 「珍しく気が合うね。じゃ、多少の無茶してでもさっさと片付けるのが、ザールのためにも、あんたたちのためにも、あたしたちのためにも、いいんじゃないかって思ってるのも、同じかな」  満面の笑みをわざとらしく浮かべ、リタはジオールを見上げる。  ジオールは表情こそ変えなかったが、明らかにため息と判るものを吐きだした。 9  魔物に襲われ窮地に追い詰められたザールの要請に大神殿が応じ、遠征隊を派遣したのである。任務に失敗すると言う事は、ザールの平和、ザールの民の命を失う事であり、エイドルードの名の下に勤める聖騎士団の名誉、しいてはエイドルードの名を汚す事でもあるのだ。色々な意味で失敗は許されないのだと、ハリスは小さく息を吐いた。気負うつもりは無いが、責任の重さは否定できない。  ザールの兵士たちと協力し、ザールの守備と叶うならば魔物の殲滅を成し遂げるにはどうするべきかと、思考を巡らせていたハリスだったが、ザールの兵士たちが思っていた以上に頼りになるのは幸いだった。過去、魔物が直接ザールを攻めた事は無いそうだが、ザール近くの猟場や川などに現れる事は年に幾度かあるらしく、ザールの兵たちは魔物に対する訓練を受けているらしい。しかも、幼い領主にはかなりの人望があったようで、領主の死と魔物の蛮行は、ザールの兵士たちに団結心と魔物に対する憎悪をしっかりと植えつけた。冷静な判断力を奪う恐れもあったが、魔物との戦いを恐れるどころが喜ぶふしさえある意志は、心強いものだ。  城の外観図と周辺の地図を借り、兵士長の協力を得て、一切の死角が無いよう見張りを立て、警戒態勢を敷く。人員に限りがあるため、片がつくまでの間、ザールの兵士や部下たちには体力的にも精神的にも疲労を強いる事になるのが気がかりだが、手を抜くわけにもいかなかった。敵は内部にも居る可能性が高いのだ。その上、外から不意打ちなど食らってはたまらない。  しかし、疲労の蓄積は、過ちを強いる主原因だ。誰かが犯した小さな過ちが、ザールにとって致命的な結果に繋がるかもしれない――短期決戦を望む気持ちが強まったハリスは、いっそ今宵全ての魔物が攻めて来てくれればよいのにと、不謹慎な事を望んでしまった。 「ハリス様!」  聞き慣れない声に名を呼ばれ、ハリスは振り返った。名前は判らないが見覚えのある顔の青年で、記憶違いでなければ、ジオールの部下であるはずだ。 「どうした」 「ジオール隊長より、至急、リタ様とシェリア様のお部屋にいらして欲しいとのご伝言です」  ハリスは眉を跳ね上げた。  魔物に操られたランディによってシェリアが襲われた直後、ジオールは言ったのだ。「貴公はまずザールの警備を固めるべきだ」と。「その間、シェリア様とリタ様の護衛は私に任せろ」と。故にハリスは、護衛隊としての部下を一時的にジオールに預け、兵士長との打ち合わせや兵の配備に専念したのである。  そのジオールがハリスを呼びつけるとなると、よほどの事があったとしか思えないではないか。 「シェリア様たちに何かあったのか?」 「魔物が操ったと思わしき使用人に襲われましたが、大事には至らず、心配無用との事です。ただ、その件に関して重要な話がある、と」 「判った。すぐに行こう」  ハリスは疲労の抜けない体に鞭打って、神の娘たちの部屋へと走った。  部屋の前で待機する聖騎士たちは、申し訳なさそうにしながらも、ハリスに不審な点がないかを確認した。ジオールの指示だろう。相手が上官とは言え、現在の状況を考えれば正しい事だと納得し、ハリスは中に入る事が許される時を大人しく待った。  扉が開き、中に足を踏み入れる。足元の絨毯に染みが残っている事に気付きながらも、部屋の中心の円卓に着いて待つ三人の元へ急いだ。ジオールは立ち上がってハリスを迎えようとしたが、必要ない事を手で示して制止すると、空いている椅子に腰を下ろす。 「重要な話とは、何です?」  気が急き、第一声から率直に訊ねると、ジオールは周囲――主に入り口の方を――確認してから口を開いた。 「私はリタ様の護衛隊長としてこの隊に同行したまで。最終的な判断も、決定権も、貴公にあるとの前提を忘れているつもりはない。その上で、ひとつ提案したい事があるのだ」 「何でしょうか。有効な案ならば、いくらでも採用しますが」 「失礼いたします」  聖騎士たちの許可を得たのか、盆を持った女性が入ってくる。ジオールは視線だけを動かして使用人の動きを確認すると、話を続けた。 「先ほど魔物に操られた女性が、貴公の指示だと言って、おふた方に薬入りの飲み物を運んでくるとの事件が起こった。おふた方が茶に口を付けられる前に魔物の手先であると判断できたために害は無かったが、シェリア様が『そのような事を頼んでいない』とおっしゃってくださらなければ、どうなっていたか判らん」 「ジオール殿らしくもない失態ですね」  嫌味ではなく、純粋に驚いて言葉をこぼしながら、ハリスは無意識に、たった今入ってきた女性を睨みつけていた。彼女が先ほどの事件の犯人でない事は判っているが、魔物の手先でない保証はないし、魔物だとすれば、同じ事をする可能性もある。  怯える女性に、リタがそっと手を重ねた。無邪気に微笑みかけ、「貴女の事は疑ってないから、安心して」と声をかけると、女性の緊迫した表情が和らいだ。  リタが触れる事で魔物ではないと納得したハリスは、女性に向けていた視線をジオールに戻す。 「普段ならば部屋に通しもしないのだが、貴公の指示だと言われて納得してしまった。相手が遺体を操ると知り、戦場に出そうもない女性ならば死ぬ機会は少なく関係なかろうと、無意識に油断していたのだろう。謝罪の言葉も無い」 「ま、シェリアに確認しようって思ったくらいに疑ってはいたんだから、大丈夫なんじゃないの」  何気なく紡がれたリタの言葉の中に、ジオールを庇おうとする想いが混じっている事に気が付いて、ハリスは誰にも気付かれないよう小さく笑った。リタが脱走を繰り返していた頃の話を聞いた時は、どうなるかと思ってふたりだったが、なかなか上手くいっているようである。 「ハリス。これほどの短時間に、二度も御子が狙われている。戦力の低下は否めないが、お三方にはセルナーンの大神殿に帰っていただいた方が良いのではなかろうか?」  ここからが話の本題とばかりに、ジオールはやや身を乗り出しながら言った。 「それは私も一度は考えました。しかし、お三方を無事に大神殿へ送り届けるだけの戦力を割いてしまうと、ザールの救援と言う使命が蔑ろになってしまうでしょう。ただでさえ若き領主を失ったばかりで傷付くザールの民を見捨てるような真似は、エイドルードがお許しになりません。おそらくは、御子様も」 「もちろんそれは承知している。故に、今すぐ帰っていただこうとは言わん。今すぐ増援を求める急使を出せば、明日には増援が到着するはずだ。その後、帰っていただくと言う形はどうだ?」  ハリスの前に器が置かれ、湯気と共に立ち上がる甘く品良い香りが、ハリスの鼻腔をくすぐった。  僅かに波立つ茶を見下ろしながら、ジオールの言動の端々に覚える違和感について、ハリスは考えていた。  彼の提案そのものに、さしたる問題はない。疑問点を上げるとすれば、増援が明日到着すると言う判断は希望が勝ちすぎている点だが、その点に違和感を覚えたわけではない。  なぜ彼はわざわざハリスを呼び寄せたのだろう。ザールの警備に専念しろと言ったのは彼なのだから、提案があるならば彼がハリスの元に足を運ぶべきではないだろうか。  御子の元を離れられないと判断したのだとしても、そもそも、直接話さなければならないほどの内容とは思えない。ハリスを呼び寄せるために伝言を託した部下に、提案の内容まで伝えれば済んだのではないだろうか。  細かい点を言うならば、先ほど薬が盛られた飲み物が運ばれる事件が起こったと報告しながら、わざわざ他人が運んだ茶を飲もうと言う精神も理解できない。リタが大丈夫だと保証してくれた上、美味しそうに飲んでいたとしても、お断りだとハリスは思った。 「ところで、茶の準備をさせたのは、ジオール殿ですか?」  まだ熱い茶を少しずつ飲むリタの様子を見下ろしながら、ハリスは問う。 「そうだが。何か問題が?」 「いえ」  大ありだった。ジオールの無神経とも言える指示に、リタが文句のひとつも口にせず、穏やかな表情で茶を飲んでいるのである。普段のリタならば考えられない事だ。それに――  ハリスは茶と共にため息を飲み込んだ。  ジオールやリタの事をいくらか知るハリスにとって、わざとらしいと言えるほどの違和感に、何かしらの意味を見出さなければならないようだ。今のところ、心当たりはひとつしかないのだが、それが正解であるかを確かめる余裕はあまりなさそうだった。  ジオールの前にお茶を置き、空になった盆を手にした女性は、礼をしてから背中を向けて歩き出す。 「私は試されているのですかね?」  ジオールは静かに首を振る。 「いいや。私はただ、信じているだけだ」 「あたしは試してるけどね。急いだ方がいいのは間違いないけど、駄目なら駄目でやりなおせない事じゃないし、馬鹿にして笑ってやれるからそれでもいいかなとか、ちょっと思ってる」  済ました顔をして、リタは茶をひとくち飲んだ。 「私はおふたりの期待にお応えできるほどのものを持っておりませんから、今度このような状況になりましたら、具体的な質問を口にできる場所と時間をぜひとも用意してください。その程度の余裕ならば、許されるでしょう?」  ジオールは口元に笑みを浮かべて答えた。 「やはり信じて正解ではないか」 「ありがたいような息苦しいような、複雑な気分ですが、理解はいたしました。ジオール殿の案を採用します――と、私が返答しないと、困るのですよね? 貴方はとうに私の名前を使って、使者を出しているのでしょうから」 「あんた、上に話通す前にそこまで勝手に進めちゃったの? それはいくらなんでも問題でしょ」  リタが向ける冷たい眼差しと言葉をものともせず、ジオールは浮かべた笑みをそのままにハリスを見つめた。 「一時的とは言え上官が、物分りがいい後輩である事は、私の幸運だろう」 「何を心にも無い、しおらしい事を。とは言え、ジオール殿の独断のおかげで、相手に気取られる前に行動を起こせました。その点においてのみは感謝いたします」  立ち上がるためにハリスが椅子を引いたのと、扉が閉まる音が響いたのはほぼ同時だった。  ハリスは無言で扉を見つめ、向こうにある人の気配が薄れる時を待った。その間、ハリスを除く三名は、優雅にお茶の時間を楽しんでいる。 「彼女は期待通りの方なのですか?」  立ち去る前にこれだけは聞いておこうと、ハリスは再度ジオールを見下ろした。 「あたしの審美眼を疑う気? 完璧だって。こっそり隠れて見に行って、一番信頼できそうな人にお茶入れてって頼んだんだから。しかも、遠征隊長自らの発言だよ。向こうだって疑わないよ」 「……リタ様自ら行動なされたのですか」 「そうやって口うるさい事言うと思ったから、ジオールに着いていてもらったよ。ジオールひとりで行けば良かったとか言わないでよね。ジオールひとりじゃ、その手の人をちゃんと見つけられるか不安じゃない。でも大丈夫。あたしが選んだんだから、絶対間違いない。今頃、神の娘に手を握ってもらっちゃった、からはじまって、盛り上がってるはず」 「頼もしいお言葉です」  ハリスは心にも無い言葉を口にした。自分自身にそう言い聞かせるしかなかったからだ。  三人のやりとりを聞いているのか居ないのか、平然と優雅に茶を飲むシェリアを見つけると、少しだけ心が和らいだ。 「しかし驚きました。リタ様はともかく、ジオール殿が、無謀にも近い行動に出るとは。リタ様の身に危険が及ぶ事は考えなかったのですか?」 「考えた末に、ここに居る限りはどうしても危険が及ぶ事が判った。ならば早期に決着を付けるが最も安全だろう」  ジオールの冷静な切り返しに、ハリスは微笑み混じりのため息を吐きながら、「確かに」と答えるしかなかった。 10  無数の星が夜空に煌めいている。  雲ひとつ無い静かな夜空は輝きに溢れて美しく、見る者に静かな心地良さを与えてくれる。時と場合を考えずに見惚れていたいほどだったが、時と場合を考えずにすむ状況でもなさそうで、カイは腰から下げた剣の柄をいじりながら、徐々に視線を落としていった。  均等に間を空けて立つ、帯剣した男たちの背中が視界に入る。  ザール城の要でもある主塔の最上部に待機しているのは、カイを含めて六人だ。三人の神の御子と、護衛隊長の三人である。護衛隊長たちは正三角形を描く形で待機して辺りを警戒し、カイたちに魔物が接近しないよう守ってくれていた。  カイたちは特にやる事がない。中心部にわざわざ用意された椅子に腰掛け、時が過ぎるのを待つだけだ。  魔物狩りをしていた時は不規則な生活を送る事もあったが、大神殿に来てからは確実に寝ている時間帯であるため、あまり退屈すぎると眠くなってしまう。「見張りくらい手伝わせてくれよ」と先ほど頼んでみたが、ハリスとジオールは厳しい顔つきで、ルスターは笑顔で、「いけません」と一言言い捨てるのみだった。 「本当に、今日来るのか?」  椅子に座ったままでいる事に疲れたカイは、立ち上がって体をめいっぱい伸ばした。 「魔物の狙いがあたしたちなら、ね。相手は絶対、明日にはあたしたちが帰っちゃうって情報掴んでるから」  リタは強気な笑みを浮かべ、胸を張った。 「何でそこまで情報が広まっている自信があるんだ?」 「試しに聞いてみたら、庭師見習いの男の子まで知ってたから。やっぱ、さりげなく情報を広げるには、おしゃべりな女の噂話が一番だね」  いつの間にそんな事を企んでいたんだ、と質問を挟む余地も無く、リタは続けた。 「あたしたちを呼び出すためにこんな所で頑張ってるって言うなら、セルナーンまで攻め込むだけの力が無いって事でしょ。しかも、放っておいても二ヵ月後の視察にくるはずのあたしたちをわざわざ今呼びだそうって考えたって事は、選定の儀よりも前にどうにかしたかったって事じゃない? 今回帰っちゃったら、選定の儀までに再びあたしたちがくる可能性は低いから、だったら今日か明日の日中までにあたしたちを殺すしかない。昼間か夜かって言ったら夜じゃない? 向こうは元気だし、こっちの、特に遠征してきた人たちは疲れてるしね。しかも、手配が早いジオールのおかげで、明日には増援が到着してしまうから、余計に気が逸るはず」  どうやら、カイがただランディの死を嘆いている間に、リタたちは色々と考えていたらしい。さすがだな、と感心する反面、仲間はずれにされたかのような寂しさが胸中に沸き出でて、カイは顔を背けながら苦笑した。 「魔物の側からすると、けっこう際どい賭けになる気がするんだが、どうしてそこまでして俺たち神の子を狙うんだろうな。いや、俺はまだ狙われていないんだが」 「神の御子、だからではないでしょうか」  申し訳なさそうに答えたのはルスターだった。警戒を怠るわけにはいかないため、カイたちに背中を向けたままだが、話は聞いていたらしい。 「我々聖騎士団が、エイドルードの意志に従い、御子をお守りし、魔獣の力を得た者と戦う事を当然としているように、魔物たちは、魔獣の意志に従い、魔獣を守り、エイドルードの力を得た者と戦う事を、当然としているのでしょう」  それが生まれついでの宿命なのだと続けるルスターに、ジオールが意見を重ねた。 「おそらく魔獣やその眷属は、封印が弱まった事で、エイドルードの異変に気付いているでしょう。すでに失われた事にも気付いているならば、尚更です。御子を亡き者にすれば、未来の魔獣の解放が確実となる。それは、魔物たちにとって自由な世界が訪れると同意です」  身の危険と責任の重さを改めて思い知らされたカイは、ため息を吐きながら、重く感じる頭部を片手で支えた。 「魔獣や魔物が、エイドルードがどうやってこの大地を救おうと考えているのか、知ってるって事ですかね?」 「判りかねますが、どちらにせよ、御子を狙う理由が失われるとは思えません」 「まあそうですよね。本当は俺たちが直接何かをするわけじゃないですけど、知らなければ、俺たちが何かをすると勘違いして当然の状況ですから。でも、何て言うか、どちらにせよ、俺たちを殺したい理由にしかならない気がするんですが」 「どう言う意味?」  強い興味を抱いた顔をして、リタが口を挟んできた。 「だから、今――リタの言葉を借りるなら、選定の儀の前だな。この時に俺たちを始末しなければならない理由がない気がする。二ヵ月後の視察の時でも、来年の視察の時でも、いつでも良さそうじゃないか?」 「じゃあやっぱり、色々知ってるんじゃないの? エイドルードの後継者だか、新たなる神だか知らないけど、とにかく子供が産まれてしまったら、魔獣側から見ればやっかいな事になるのは明らか。選定の儀の前にあたしたちを始末すれば、やっかいな存在が生まれないのは確実。判っててやってると思えば、自然でしょ」 「そうだなあ……」  カイは腕を組んで考え込んだ。  リタの説明に納得していないわけではない。その通りだ、と力強く肯ける程度に納得できている。しかし、まだどこかがひっかかっている。正体が知れないそれを、口で説明する事は難しく、カイは深い思考に落ちていった。 「どうやって知ったのか……は、大した問題じゃないか?」 「ほぼエイドルードに匹敵するだけの力を持ってたからこそ、魔獣は封印されたんでしょ? 何を知ってたとしても、あたしは驚かないけど」  カイは鈍い動きで肯いた。 「エイドルードが決めた事を知ってるって言うなら、俺も感覚的に納得してしまいそうな気がするんだけどな。でも、選定の儀が来月だって事を決めたのは、地上の民の誰かじゃないのか? 『どんな事でも知る事ができるだけの力が魔獣にはあるんだ』と言われてしまうと、納得するしかないけどさ」 「とりあえず、それで納得しておけば? 色々考えるには、すでに遅い気がする」 「確かにな」と答えたカイの視界の端に、揺らめく炎が映った。  ハリスだった。左手に持っていた松明を高く掲げ、闇に残像で描くように炎を躍らせている。一定の動きをもう一度繰り返すと、松明を床に落とし、剣を抜いた。剣を抜くのは、ジオールやルスターも同時だった。 「魔物が来たようです。シェリア様、リタ様、カイ様も、ご助力お願いいたします」  ハリスの呼びかけに、交戦的な笑みを浮かべて立ち上がったリタは、袖をまくりながら夜空を見回した。 「今の変な動きは何?」 「合図です。間もなく城中の兵士や騎士が戦闘態勢に入るでしょう。同時に、非戦闘員は自室あるいは指定されている広間に避難するように指示が伝わっているはずです」 「非戦闘員のふりをした魔物が徘徊したらどうするわけ?」 「許可無く部屋の外に出た者は、魔物の手先の疑いがあるとの名目で拘束します。抵抗した場合は、神の名の元に処刑もありえます」 「そう。じゃあ、一番警戒すべきなのは、戦闘員のふりをした魔物の手先なわけだ」  背中合わせに立ったリタとシェリアは、ほぼ同時に白い腕を振り上げ、可憐な声を響かせた。かつてのカイには理解できなかった神聖語の呪文。今のカイでもはっきりとした意味は判らないが、聖なる雷を呼び寄せるためのものである事は理解できた。  双子であるからか良く似ている、けれど明らかに種類が異なるふたつの声が、同時に呪文を完成させる。  空からふた筋の雷が落ちた。  雷鳴に魔物たちの断末魔の叫びが混ざり、静かな夜に響き渡る。人に恐怖を与えるその音をかき分け、空を切って飛び込んで来た最初の魔物を、一刀両断したのはジオールだった。  間髪入れずに再び紡がれる呪文を聞きながら、カイは矢を番えた。近付いてきた魔物は護衛隊長たちが切り捨て、遠くの魔物たちにはリタとシェリアが裁きの雷を振らせる。カイの役目は、中途半端な距離まで近付いた魔物、近付いて来ていながら剣が届かない高い位置に待機する魔物を、打ち落とす事だった。  羽の自由を失った魔物が落ちてくると、別の魔物を切り捨てたばかりのルスターが止めをさす。断末魔の叫びも、返り血も、気にする様子もなく、すでに命を失った魔物に背を向け、新たな魔物を貫く。  普段は穏やかで優しいルスターの鋭い剣士としての一面は珍しく、余裕があれば見学したいくらいだったが、カイは空中に目を向け、立て続けに矢を放ち続けた。 「これ、魔物が尽きるまで続けるのか? 敵の数も知らずにこんな事はじめるのは、無謀だと思うんだけどな。俺たちの体力は無尽蔵じゃないんだぞ」 「ええ、まったく、カイ様のおっしゃる通りです」  戦いながらカイに答える余裕がある者はハリスしか居ないようで、彼は魔物を叩き伏せながら言った。 「隊長であるお前が他人事のように言うな。お前が考えたか、少なくとも承認した作戦だろう」 「事の早期終了を願う、働き者の部下がおりましたもので、承認せざるをえなかったのですよ。長期戦はこちらが消耗するばかりで不利だと思っておりましたし、どの魔物もいずれはザールの民と戦う事になるでしょうから、ならば我々が一匹でも多く倒しておくのが親切かと考えれば、働き者の部下の想いを無下にもできず」  力強い左腕で剣を振り払いながらジオールが口を挟んだ。 「嫌味か?」 「嫌味のつもりはありませんよ。ただ待っていたずらに疲労を重ねるよりは遥かに有効だと、私も思いましたから。いざと言う時が来ても、責任逃れはいたしませんから、安心してください」 「今の台詞は嫌味のようだな」 「否定いたしません」  魔物を切り捨てたハリスとジオールは、刃に纏わりつく魔物の血を、剣を振り下ろす事で払い、息を整えながら構え直した。 11  リタたちが呼ぶ雷とカイの放つ矢が的確に魔物を落としていったためか、接近してくる魔物は少なく、若干の余裕が生まれはじめたが、目に入る範囲に魔物の姿はまだ多くある。カイは手を休める事無く、矢を放ち続けた。  どうやら地上を駆ける魔物たちも到着したようだ。遠い足元から、人と魔物が戦う喧騒が聞こえてきた。遠くから駆けてくる魔物たちにはリタたちの雷が落ちるが、混戦状態の場所には援護ができないため、ひとりでも多くの兵や騎士たちが無事である事を祈るしかない。まだ城門は破られておらず、城壁を越える力を持つ魔物とのみ戦っている状態であるので、有利な状況にあるはずだ。 「下の魔物、少なく、ありませんか」  振り下ろすルスターの剣には、強い感情が篭っているように見えた。故郷を傷付けられ、親族の命を奪われた憎しみが、鈍い光となって力を加えているのかもしれない。 「空を飛ぶ魔物が律儀に御子様を狙ってきてくれているからだろう」 「それだけでしょうか?」 「時間が許す限り、簡単な罠を仕掛るよう指示はしておいた。いくらかかかってくれたのかもしれないな。魔物はやはり単純だったな……さて」  近付く魔物始末し終えたハリスは、鋭い稲光や所々に用意された篝火によって照らされる範囲を見回した。戦い合う魔物と兵士を見比べ、戦況を確認しながら、求めるものを探している眼差しだ。  そろそろ魔物たちも気付いているだろう。ただの魔物では、神の子は当然、護衛隊長すら倒す事はできないのだと。ならば次に攻めてくるのは――  護衛隊長たちは、束の間の沈黙に、乱れた息を整える。その表情は、緊張こそ失っていないが、剣を振るう戦いの最中よりも僅かに和らいでいるはずだった。 「ルスターさん?」  交戦中よりもいっそう険しい顔をしたルスターにいち早く気付いたのは、比較的余裕があるカイだった。  名を呼ばれた事でか、眉間に深く刻まれた皺が伸びる。一瞬だけカイに振り返ったルスターは、すぐに己の使命を思い出し、周囲に目を向けた。 「どうかしましたか?」  様子が気になって、カイが曖昧な問いを投げかけると、ルスターははじめ「いいえ、何も」と軽く否定した。だが、しばし逡巡した後、再び口を開いた時には、まったく違う事を語りはじめた。 「先ほどの、カイ様とリタ様のお話が、少々気になっておりまして」 「さっきのって、魔獣側が俺たちの使命とかを知っているのかってやつですか?」 「はい。選定の儀が来月である事を、なぜ魔獣が知る事ができたのか――おっしゃる通り、魔獣やその眷属に知る力があるだけかもしれませんが、もしかすると、私のせいかもしれません」 「心当たりがあるんですか?」  ルスター苦い表情で肯いた。 「ザールの未来を憂うランディへと送った手紙の中に、書いた記憶があります。私はもうすぐカイ様の晴れ姿を見る事ができると。それによって、ザールを含む大陸の平和はより安定したものになるであろうから、不安に思う必要はないと。その手紙の内容が洩れたのだとすれば、あるいは」  ルスターの声や雷鳴の合間に、石畳を打つ足音が聞こえた。  呪文を唱え続けるふたりの少女を除いた四人が、瞬時に足音がした方へと意識を向けた。もっとも、体ごと向き直ったのはカイのみで、護衛隊長たちは辺りへの警戒を解く事無く、視線を僅かに向けたのみだった。  足音は下の階へと続く階段の奥から響いていた。ひとつではない、複数のまばらな足音だ。はっきりとは判らないが、少なく見積もっても三人以上は居るようで、ただの足音だけではなく、硬質な音も混ざり込んでいるように聞こえた。  上ってくる者が敵か味方か、足音だけで判断できるはずもなく、やがて明かりと影がちらつきはじめると、カイは階段へ向けて弓を引き絞る。 「ハリス様!」  ハリスの名が呼ばれるのと、階段から複数の人間の姿が現れたのは、ほぼ同時だった。  まず現れたのはザールの兵士と思わしきふたりの青年で、彼は縄で縛られた男を乱暴に床に投げ出した。投げ出された男は使用人のようだが、禍々しい形相で、自身を拘束するものから逃れようと、必死にうごめいている。魔物に操られているのは明らかだ。  彼らの後ろ、ちょうど階段を上りきったあたりににも、杖を着いて立つ人物の影があった。 「ユベール」  その場に居た誰もが彼の事を知っていたが、最も近しい間柄であるルスターが、彼の名を呼んだ。  不自由な足で階段を上るのが辛かったのか、ずいぶんと疲弊した顔をしたユベールは、呼び声に答えるように薄く笑う。 「どうしてここに居る。非戦闘員は自室で待機するよう、ハリス隊長より指示があったはずだ。逆らうならば誰であれ、拘束せねばならない」 「非戦闘員とはあまりに酷い言いようです。確かに怪我はしておりますが、私とて騎士なのですから。確かに今の私は戦力にはなりえませんから、義兄上のおっしゃりようも判らないではないですが、多少はお役に立ちたいと思っての事なのです」  ユベールの視線は、床に転がった男に向けられた。 「君たちは、どうしたのだ」  ハリスが兵士たちに訊ねると、片方が元気よく答えた。 「この者が通路を徘徊し、塔を上ろうとしていた所をユベール様が発見してくださったのです。ご指示通り捉えましたので、ご報告に上がりました!」  ハリスは無言で首を振った。 「私が聞いているのはそんな事ではない」 「では、どう言う事でしょう」 「君たちがどうしてここに居るのか、と言う事だ」 「ですから、報告に」 「城内の警備を任せた者たちの中に、君たちは居なかったと記憶している。いや、城内だけではないな。昨日までに生存していたザールの兵士の中にも――」  語り終えないうちにハリスが剣を振り上げると、兵士たちは身を引いた。一方は首に深い傷を負いながらも、血を吹き出す様子は無く、平然と身を屈め、手にした短剣で床に転がる男を拘束する縄を切り裂き、解放する。  三人から同時に襲われる事となったハリスだが、動揺はしなかった。いつもどおりの素早い剣戟で切り裂くと、さほど時間を置く事なく、ハリスの周囲に三体が転がった。  足の筋を切られ、あるいは膝下を失い、満足に立ち上がる事もできない男たちは、起き上がろうともがくばかり。上半身は充分動いているが、近寄らなければ害は無さそうだ。  相手の腕や短剣が届かず、しかし自身の剣は届く限界まで距離を置き、とどめとばかりに剣を振り上げたハリスを、無言で制止したのはリタだった。 「よろしいのですか?」 「さすがに、可哀想でしょ。できるのはあたしとシェ――いや、あたしだけだし」  男たちに襲われないよう、動けない足元の方に回り込んだリタは、男たちの突然の変貌に驚き、体勢を崩して座り込んだユベールの姿を見つけ、小さく息を吐く。 「味方が味方とは限らないんだから、あたしたちの所に人を案内する時は注意してちょうだい」  リタの手がひとりの男に触れる。吹き飛ばされるはずの体は、床によって阻まれて軋んだ音を上げるだけだった。しばしの間を開けて口からこぼれ出る黒い靄が、彼が魔物から解放された証だった。  突如魔物の鳴き声が響いたのは、リタの手がふたり目に触れた瞬間だった。  低空飛行で塔まで近付いて来ていたのだろう。これまでカイたちの視界に入らなかった魔物は、突然上昇して姿を現した。最も近くに居たカイとルスターを目指して突き進む魔物は、勢いのまま鋭いくちばしでカイを貫こうとしている。  カイが弓を捨て剣の柄に手をかけるよりも早く、ルスターがカイと魔物の間に入った。撥ね退けるように剣を振るうと、僅かに方向を変えた魔物のくちばしは、石でできた床に突き刺さる。  くちばしを抜くまでにかかった僅かの時間に、ルスターとジオールは魔物を仕留め、振り返った。 「リタ様!」  杖を頼りに立ち上がったユベールは、杖を床から放していた。彼が折れているはずの左手で、杖の中ほどを握ると、直後、刃の輝きがカイの目に飛び込んでくる。 「リタ!」  痛めているはずの足が何事もなく床を蹴り、最後のひとりを魔物の闇から解放していたリタの喉元に、鋭い刃が向けられる。刃先がリタを掠めるより僅かに早く、ジオールの剣が刃を弾いた。  あらかじめジオールの行動を予想していたのか、ユベールの切り返しは早く、追撃に剣で対応する事ができなかったジオールは、右腕を伸ばす。歯が浮くような金属音が響くと共に、籠手が刃を弾くと、ユベールに当て身を食らわせ、吹き飛ばした。 「ユベール、君は――」  四方より飛んできた魔物たちが、意外に器用な手先で弓を射ったのは、ルスターが涸れた声でユベールを呼んだ時だった。  矢は神の子を狙っており、カイは自分に向けて飛んできた矢を、身を捩って避けた。  ユベールと戦っていたために反応出来ずにいたジオールに代わって、リタを守ったのはルスターだった。リタの前に立ちはだかり、剣身で矢を弾く。  ハリスは飛んできた矢を剣で叩き落としたが、一本がせいぜいだった。もう一本の矢を止める事ができなかった彼は、矢が狙う先に居るシェリアを突き飛ばそうと手を伸ばす。  だが、伸ばされた手は、シェリアに触れる一瞬前に動きを止めた。  ほぼ同時に、ハリスの足は、無理な体勢で床を蹴り、矢はハリスの身に深々と突き刺さった。 12  ハリスが顔を顰める様を、リタは初めて目にした。敵と戦うところを今日はじめて見るため、敵に傷付けられる姿など、見る機会がなかったのだ。  彼がその身に受けた矢は、鎧によって跳ね返されず、隙間をついて体に食い込んでいた。通常ならば「運が悪かった」と言って片付けるしかないのかもしれないが、彼が自身を盾にする前に取ろうとした行動に気付いていたリタは、とてもではないが「運が悪かった」で片付ける気にならず、「馬鹿じゃないの」と思わず漏らしてしまう。  ハリスはもっとも効果的にシェリアを守る方法を思いつき、実践しようとしていた。だと言うのに、寸前でシェリアに触れる事を躊躇したのだ。かつて、リタの力を知る男たちが、リタに触れる事を恐れたように、手を伸ばしかけながら、戸惑い、動きを止め、触れずにすむ行動に切り替えたのだ。  ハリスがシェリアに触れる事を恐れていたわけではないと、リタは知っている。ハリスはきちんと手袋をはめていたし、そうでなくても、触れかけた場所はシェリアの肩で、肌は服によって隠されていた。触れたところで、何の問題もないはずなのだ。  では、なぜ、躊躇ったのか――リタは答えを知っていた。知っているからこそ、「馬鹿じゃないの」とこぼした言葉に、強い感情を込めていた。  膝を着いたハリスは、痛みに息を乱しながら、自身に突き刺さった矢を掴んだ。歯を喰いしばって更なる痛みに耐えながら、力を込めて矢を引き抜くと、忌々しいとばかりに放り投げる。  傷口から鮮血が溢れ出る様を目の当たりにしたリタは、自然とシェリアの姿を探していた。双子の姉は、リタと容姿は似ていたが、反応は真逆で、冷たい空色の瞳をハリスへと向けているのみだった。 「何考えてんのよ!」  リタは傷付き蹲る男に、遠慮なく言い放った。ハリスとシェリアの双方に言わずにはいられなかったが、シェリアを見据える勇気はなかった。  返事は待たず、唇を引き締めてハリスの傍らにしゃがみこむと、傷口に手を翳す。  ハリスの様子がおかしい事に気付いたのは、その時だ。  矢が一本、急所ではない場所に当たっただけだ。たったそれだけで、戦いを生業にしている人間が、敵を目の前にしながら蹲り、戦いを放棄するだろうか? まして、ハリスである。リタが知るハリスならば、傷の痛みなど飄々とした様子で堪え、何事も無かったように剣を取り、ユベールに切りかかっているはずだ。  いぶかしんだリタが癒しの光を呼ぶよりも早く、深い闇が生まれた。主に傷口から、投げ捨てられた矢からも、僅かに。  闇は瞬時にハリスを飲み込み、彼を隔離する。間もなく、押し殺した悲鳴が闇の向こうから響き渡った。  リタは立ち尽くしたまま息を飲み、様子を見守る事しかできなかった。闇から離れる事ができたのは、心配そうな顔をしたカイが腕を引いてくれたからだ。 「ハリス……?」  突如湧き出でた闇が、強い恐怖をリタの心に産みだす。  だが、戦いの最中、それは認めてはならない心だった。 「ハリス!」 「ハリス殿!」  恐怖を払拭するために、リタはハリスを呼ぶ。ほぼ同時に叫んだルスターも、同じ事を考えていたのだろうか?  やがて悲鳴は消え、闇が消えた。  薄れゆく闇の向こうから、一度は見失ったハリスの姿が現れる。彼は膝を着いたまま微動だにせず、見守るリタの心に湧いた不安をいっそう強いものにした。  リタは背筋に悪寒が走るのを感じていた。得体の知れない闇の、得体の知れない力が、ハリスの身に何の力を及ぼしたのか、想像するだけの冷静さは、今のリタには残されていなかった。  リタは新たな呪文を唱えていた。傷を癒すためのものではない。聖なる雷を降らせるためのものだ。腕を精一杯伸ばし、起き上がって体勢を整えたユベールへ、指先を向ける。  天から降りる雷は、ユベールの元に降りそそいだが、一瞬早く駆け出したユベールの全身を焼く事はなかった。上ってきた時が嘘のような軽快な足音が、階段の奥へと飲み込まれていく。  追いかけようと一歩踏み出したリタの肩に大きな手が回った。ジオールの手だ。彼はリタの体を抱いて横に飛ぶと、床に転がった。床に叩き付けられる時の衝撃はなかった。ジオールが守ってくれたのだろう。  ジオールはリタを背中に庇うと、落とした剣を拾い上げ、立ち上がった。  いつも以上に厳しい眼差しで睨む先に、剣の切っ先が向けられた先に、立っていたのはハリスだった。  ハリスが手にする剣は、床を打っていた。先ほどまでリタが立っていた場所だ。確実に、明らかに、リタを殺そうとして振り下ろされた剣――  剣を構え直したハリスが振り返ると、凍りつくような眼差しが覗き見えた。  リタはハリスの事をあまり好意的に思っていなかったが、それでも知っている。ハリスの目はもっと人間的で、リタを冷たく見下ろすにしても、感情が宿っているはずだと。 「なんで――」  ハリスが振り下ろした剣を、ジオールが受ける。金属音が響き渡り、耳を貫いた。 「ジオールど……」 「ここはいい! 追え! ルスター!」  加勢しようと剣を構えたルスターに、ジオールは怒鳴りつける。ルスターは僅かに逡巡したが、すぐに覚悟を決めた目を向けて、走り去ったユベールを追った。  カイの背中もルスターと共に階段の下へと消えていき、リタは自身の身の置き場に悩んだが、ただ立っているシェリアの姿を見つけてしまえば、カイを追う事はできなかった。ハリスが魔の力に飲まれ、魔物に操られているのだとすれば、やがてシェリアに剣を向けるだろう。この場を去ったカイや、多少戦いの心得があるリタよりも、シェリアの方が切りやすいに決まっている。  目の前に立ちはだかる障害を排除しようと、ハリスは容赦無く剣を振り下ろした。ジオールは何とか対抗するが、ハリスの素早い剣戟全てを防ぎきる事はできず、体のあちこちに傷を作ってしまう。  徐々に全身を赤く染め、息を乱すジオールに、加勢する方法が考え付かず、リタはシェリアの手を引いて距離を置く事しかできなかった。  ジオールが力尽くで、重なり合った剣を押し返した。片腕同士ならば、力で渡りあう事もできるようだ。だが、両腕が使えるハリスに対し、片腕しか使えないジオールでは、不利は否めない。まして、相手を切る事に躊躇いのない現在のハリスと、躊躇いばかりのジオールでは。  リタは拳を握り締めた。  ランディや、茶を運んできた使用人をただの遺体に戻した時のように、リタやシェリアの力ならば、ハリスを侵食する闇の力を跳ね除ける事ができるだろう。こちらの事を何も知らないために隙を見せたランディや、鍛えていない使用人の女性と比較すると、ハリスに触れる事は遥かに難しいと判っていたが、他にハリスやジオールのためにできる事は考え付かなかった。 「一応あたしひとりで頑張ってみるけど、あんたも、機会があったら手伝ってよね」  リタは袖をまくり上げ、ジオールと剣を合わせるハリスを睨みながら、シェリアに語りかけた。 「何をです」 「ハリスにも、ランディにやったのと同じようにするの」 「わたくしたちの身を守るために、ですか」  嫌味として通じないだろうと判っていても、リタは深く息を吐き捨てる事をやめられなかった。 「確かにそれもあるよ。でも、あんた、三年間ハリスに守ってもらってたんでしょ。恩に着ろ、とか言ってやる義理はないから言う気ないけど、そんだけ仕えてた相手を、助ける努力もせずに魔獣の眷属のまま殺すなんて、薄情にもほどがあるとあたしは思うからさ」  もっともこのままでは、ハリスを殺すどころか、逆に自分たち全員が殺されかねないのだが、リタはあえて言わずにおいた。 「そうすればハリスは救われるのですか?」 「うん。それは絶対」 「闇を跳ね除けた後、ハリスはどうなるのです」 「そんなのやってみないと判らないけど、元のハリスが戻ってくるって、願うしかないんじゃない? もしかしたら、あの闇に飲み込まれた時点で死んでいて、ランディたちみたいに遺体しか返ってこないかもしれないけど――それでも、ハリスを救う事になる。魔物に操られてあんたを殺すくらいなら、喜んで死ぬでしょう、あいつは」  シェリアは冷たい眼差しを細め、シェリアと同じように感情を見せなくなったハリスの横顔を見つめた。 「リタはハリスの事を良く理解しているのですね」  リタは反射的に鼻で笑い飛ばしていた。 「あんた、ハリスに『触るな』って命令してあるんでしょ?」 「はい」 「やっぱりね」  再び深いため息を吐いてから、リタは続ける。 「ハリスって男が、そんなくだらない命令に逆らうよりも、矢を食らった方がましだとか考える馬鹿だって事くらいは、付き合いが短いあたしにだって判る。だから、少しはあいつに報いてあげなよ。ちょっとくらい嫌でも我慢して、その手を伸ばして、あいつと一緒にあいつを支配する力を、ふっとばしてやりなよね」  ハリスが上段から振り下ろした剣を、ジオールは横に飛ぶ事で避けた。  剣はジオールの背面にあった壁を抉り、小さな石の破片を床の上に撒き散らす。同時に起こった砂煙の中で、ハリスは緩慢な動きで振り返った。  体勢を整え直したばかりのジオールは、ハリスの所業に言葉も無いようで、目を見開きながら息を飲んでいる。気持ちは判る、と、ジオールがこちらを見ていないと知りつつも、リタは肯いていた。  ハリスの力が、通常よりも強まってきている。ハリスを支配する闇が、限界以上の力を引き出しはじめているのだろうか。  だとすれば最悪だ。近付く事すらままならないではないか。 「そう言えば、使用人の女の人、素人とは思えないくらいいい動きしてたっけ」  暑くもないのに汗が額からこめかみを通って顎まで流れ着くのを知覚したリタは、無意識に笑う。そうする事で、絶望的な感情や思考に飲み込まれそうな自身を奮い立たせなければ、崩れ落ちてしまっていただろう。 13  足が悪いふりをして杖を着いていた時に比べれば格段に速くなっているが、今のユベールの逃げ足は、さほど速いとは言えなかった。どうやら原因は左足の膝から下が焦げ付いている事にあるようで、つまりはリタが咄嗟に雷を落としてくれたおかげだった。カイは心の中で、この場に居ないリタに感謝する。  長い階段から繋がる、長い通路に突入した頃には、ユベールの背中はかなり近くにあった。カイより一歩先を行くルスターが、床を蹴る力をいっそう強くし、ユベールとの距離を一瞬にして縮める。伸ばした腕がユベールの肩を掴もうとした瞬間、ユベールは鋭く振り返ってルスターの手を振り払った。  だが、もはや逃げられないと観念したようだ。カイとルスターに向き直り、杖に仕込んでいた刃をふたりに向けてくる。距離を置こうとしているが、逃げるためではなく、自分に都合のいい間合いを取るためのようだ。  カイとルスターは同時に剣を構えた。ユベールが向ける刃に、怯む理由は見当たらない。 「私は今、自分自身が情けなくてたまらない」  柔らかなルスターの声が怒りに震える様が痛々しく、カイは彼の横顔を覗く事をしなかった。 「ランディの遺体を預けた時、お前は私に言った。『ランディを闇からお救いくださった御子様にも、我らの感謝をお伝えください』と。あの時、私は僅かに疑問を抱いた。その場にカイ様もいらっしゃったからだ。ランディを闇から解放した御子がカイ様ではない事か、カイ様のお力がシェリア様やリタ様と違う事を知っていなければ、言えない台詞だと――」 「気付いていても無意味ですよ。行動を起こさなければ。気付いた時に私を殺していれば、神の子が危険な目にあう事も、あの男が犠牲になる事も、無かったかもしれないと言うのに」  聞く者を苛立たせる低い笑い声を挟みながら、ユベールは挑発的な口調で語る。  返すルスターの声は、不思議と落ち着いていた。 「お前の言う通りだ。だから私は、私自身の情けなさに憤っている」  先に剣を振るったのはルスターだった。  ユベールは斜めに振り下ろされた刃を、跳ぶ事で避ける。床を蹴る力は軽かったが、ルスターの頭上を越えられるだけの高い跳躍で、切っ先を下方に向けた剣は、ルスターの後ろにいるカイを狙っていた。  後方に移動する事で避けたカイは、ユベールが着地すると同時に切り払ったが、ユベールは余裕を現す笑みを浮かべながら、カイの剣を受け止める。ルスターが背後からユベールを狙ったが、再び跳躍で避けたユベールは、側面の壁を伝ってカイの背後に回り込んだ。  カイはユベールの動きをしかと追い、背を見せる事はしなかった。カイとルスターとが、ユベールと対面する形が再びできあがり、カイは力強く呼吸をしながら身構える。  素早く距離を詰め直したルスターの剣を避けたが、避けきれずに脇腹にかすり傷を刻まれたユベールは、笑った。人のものとは思えない、歪んだ笑み。口が裂け、頬に達しているようにも見えた。  下方から切り上げるルスターの剣と挟み込もうと、カイが剣を振り上げた瞬間、突如、側面にあった扉が開いた。 「なっ……!」  開かれた扉から、人が飛び出してくる。男がふたり、女がひとり。男のひとりはカイの腰に、女はルスターの左腕に、もうひとりの男はルスターの足に絡みつき、続けざまに床に倒れ込む。ふいを突かれた上、強い力と人間の体の重さに引かれたカイたちは、彼らと同様に床に転がるしかなかった。  カイは体を捻り、纏わりつく男の首を肘で強打する。並の人間なら怯み、カイの腰に回す腕の力が緩みそうだが、男は痛覚を失っているのか、変わらぬ無表情と力でカイを押さえ込もうとする。カイは負けじとがむしゃらに暴れ、無理な体勢でなんとか男の頭を掴むと、床に叩き付けた。  視界に影が覆い被さり、目の前が僅かに暗くなるのを感じたカイは顔を上げる。すぐ傍にユベールが近付いており、しまった、と思った時には遅かった。高く掲げられた刃が、カイに向けて振り下ろされようとしている。  カイは腕の下に転がる男の腕を振り払い、その場を跳び退ろうとした。  しかし、間に合わない。確実にどこかが切られるだろう。せめて急所ではない事を祈りながら、カイは可能な限り刃を避けた。  大きな塊が、ユベールが構える刃に突撃した。目の前で鈍い音がして、カイは一瞬身を強張らせたが、見守る余裕は無かった。未だ掴みかかってくる足元の男を踏みつけながら、その場を離れる。  ユベールの刃に貫かれて倒れたのは、ルスターに纏わりついていた女だった。脇腹から腰の半ば以上を切り裂かれた女は、苦痛に喘ぐ様子も、血を流す様子も無かったが、真っ直ぐ立っていられないようで、カイが倒した男の上に倒れ込み、不気味にうごめく。  ちらりとルスターを見やると、ルスターは剣を力強く振り下ろし、足に絡みつく男の頭を割っていた。怯み、足を掴む腕から力を抜いた男を、躊躇う様子もなく振り払い、自身を戒めるものを排除する。 「心優しい義兄上らしくもない」  不敵な笑みを浮かべつつ、倒れる三人――三体と言うべきか――を見下ろしながら、ユベールは言った。 「ザールの民に対して、こんなにも酷い仕打ちをなさるとは。はじめから死者であったから良いようなものの、生者であったらどうなされます。義兄上が、尊い領民の命を奪った事になるのですよ?」  ルスターは迷いのない目でユベールをきつく睨みつけると、折り重なる三体の一番下で、立ち上がろうとしている無傷の男の胸を貫いた。 「そこまで私を甘く見るな」  僅かに乱れた息を押し殺しながら、ルスターは言い切った。 「私は聖騎士だ。そして、カイ様の護衛隊長だ。カイ様に害なす者相手に剣を向ける事を怯みはしない。まして、彼らはハリス隊長の指示に反する者たちだ。神の名において処刑が許されている相手に、躊躇う理由がどこにある」  迷いの無い、声。怒りも嘆きもそこには無く、ただ静かに燃えたぎる決意を秘めた眼差しが、ユベールを捉える。 「お前もだ」  振り上げられた剣の切っ先は、真っ直ぐユベールを向いていた。通路のあちこちに備え付けられた燭台から届く炎の明かりを剣身が反射し、辺りを赤く染めあげる。 「私を、助けてくださらないのですか?」 「救う事など、できないのだろう? お前は、ここに倒れる彼らとは違う」 「何を根拠に」 「忘れたか? この城に来たばかりの時、リタ様は、お前の足を直そうと、尊きお力を使ってくださった。ランディには発動すらしなかったが、お前の時は違った」  ルスターは一呼吸開けてから続けた。 「お前は生きている。そして、魔に支配されているのとも違うだろう――すでに隠しきれていない事を、自覚していないのか?」  ユベールは歪んで人のものとは異なりはじめた手を唇に被せながら、幼子のように無邪気な低い笑い声を、通路中に響かせた。  聞く者に強い不快感を与える嘲笑。苛立ちながらも、振り払う力が沸いてこず、カイはユベールとの間合いを詰めるまでに、長い時間を必要とした。 「その通りですよ、義兄上。私は操られているだけの者たちとは違います。魔獣の声を直に授かった、言わば魔獣の代理人――」  カイが振り下ろした剣を、ユベールは易々と避け、腰から短剣を引き抜く。突然投げつけられたカイは何とか剣ではじく。一瞬後に短剣を投げつけられたルスターは、軽く身を翻して避けた。  床と壁に浅く刺さった二本の短剣が、どす黒い闇を放つと、カイは無意識に喉を鳴らした。闇に包まれ、解放されると同時にリタに切りかかったハリスの姿が、脳裏に蘇る。  闇の力を秘めた刃を身に埋め込めば、命が助かったとしても、魔物の言いなりになってしまうのだろう。ならば多少の傷を気にせず攻め込むと言う選択肢は残っておらず、慎重に攻めるしかなかった。 「ハリス殿を解放する方法は知っているのか?」  ユベールはいっそう楽しげに笑い声を響かせた。 「知りませんよ。一度捕らえた者を解放する必要性がありませんからね。元より、想定しておりません」  やかましく笑うユベールに、ルスターは冷たい笑みを投げかけた。 「嘘でも『知っている』と答えるべきだったな」 「何を――」  一閃したルスターの剣に落とされたユベールの前髪が、はかなく舞い散る。  油断していた中での鋭い一撃を、かろうじて避けたユベールは、驚愕に乱れた息を飲み込んでいた。 「もう、お前と交わすべき言葉は無い。カイ様に仇なすものは、排除するのみだ」  続けざまに放たれた一撃は、華麗とも言えた。隙の無い完璧な切りの形は、こんな時でさえ見惚れる価値がある、とカイは思う。  受け止めたユベールの腕に切り傷が刻まれる。滲み出る血は赤かったが、人間のそれとはすでに違っていて、紫がかったものだった。  ルスターの攻撃は休みなく続いた。ユベールは硬化した皮膚、あるいは剣で受け止めるが、先ほどまでと比較して明らかに劣勢になっている。カイは強気な笑みを唇に湛え、打ち合うふたりが膠着したと同時に、ユベールへ一撃を加えた。  予測しない方向から来た攻撃に、ユベールは唸った。人間の皮膚よりも遥かに固いため、やすやすと剣は埋まらないが、傷を与えたのは確かだ。  カイはルスターと視線を絡ませて合図すると、ユベールから離れて身を引いた。同時に振り上げたルスターの剣は、確実にユベールの首を捉えていた。 「兄、上……?」  か細い声が届く、その瞬間まで。 14  リタたちに矢を放った魔物や、それ以外にも羽を持つ魔物がまだ残っていたようで、塔の上に居る者たちに攻撃を仕掛けてくる。ハリスの相手をしているジオールにそれらと戦う余裕があるはずがなく、必然的に魔物たちの対処はリタやシェリアがやらなければならないため、ジオールとハリスの戦いを逐一見守る事はできなくなっていた。  ジオールが何とかハリスの攻撃を凌いでいたのは確認していたが、端の方まで追い詰められている事に気付けたのは、空の魔物を全て片付け終えた後だった。ジオールの事だ、逃げ道を探しながら後退していたのだろうが、相手の方が更に上手で、逃げる余裕を与えてくれなかったのだろう。  リタは少しずつふたりに近付いた。手を伸ばせば届くところまで行かなければならないが、近寄れる雰囲気ではない。苛立ちかけるが、苛立っては負けだと言う事も判っていて、音を出さないよう深呼吸を繰り返す。  普段のハリスでは出せないほどに重い一撃がジオールを襲った。受け止めようとしたジオールだが、敵わず、剣は弾き飛ばされ、ジオール自身は床に転がった。  倒れこんだジオールに向けてハリスが剣を振り上げる。同時に、リタは走った。危険だが、他に機会は無かった。  自分たちが囮となり、魔物を引きつけ、諸悪の根源を誘き寄せようと考えた時から、全員が無傷で事を収束できるとは思っていない。最悪、生きてさえいれば良いのだと、覚悟の上で臨んでいるのだ。少なくとも、リタとジオールはそうだった。  はじめて会った時から憎たらしい存在である事は変わらないが、リタにとって、現状で最も意志が通じる、相棒とも言える相手はジオールだった。彼ならば、リタの無茶の意味を判ってくれる事だろう。何とかハリスを引き付け、リタを助けてくれるはずだ。  そしてどんなに深手を負おうとも、生きていてくれるはずだ。彼はこの戦いに挑む前に、リタと約束した。死ぬ事だけは避けると。だからリタも言ってやった。生きてさえいてくれれば、絶対に助けてやると。  万が一リタの身に危険が及んだとしても、やはり死ななければなんとかなる。只人を救う事を拒否したシェリアでも、同じ神の子であるリタを救う事は拒否しないはずだ。  どちらにせよ、深手を負う覚悟は決めていた。もっと余裕がある時ならば、「なぜハリスのためにここまでしてやらなければならないのか」と考えただろうが、今のリタにそれだけの余裕はなかった。  手を伸ばす。もう少しで、ハリスに届く。  ジオールの腹に剣が埋め込まれた。ジオールの低い呻き声が耳に届いたが、リタは声をかけてやる事はおろか、心配してやる事もできなかった。  ハリスは右手でジオールに剣を突き立て、左手で腰から短剣を引き抜き、リタに向けたのだ。  突然突き出された剣に身を捩り、足を止めるも、避けきれず、勢いも殺しきれず、鋭利な刃によって頬に傷が走る。熱と、流れ出る血液を感じながら、リタは一瞬身を竦ませた。  引き抜く時間も惜しんだか、ハリスは剣ごとジオールを捨て置き、短剣をリタに振り翳す。ハリスはリタにとって、元より実力差が大きい相手であるので、短剣でも充分脅威だった。続けざまに放たれた二撃を避け切った時は、安堵のあまり崩れ落ちたくなったほどだ。  恐ろしさのあまり、熱い息を吐いた。空腹以外の理由で、これほど死に迫られた経験がなかった事に気付いたのは、息を吐ききった時だった。  次の一撃は避けきれなかった。胸の中心を狙ったと思しき攻撃を、反らす事で肩に受けたリタは、全身に走った衝撃と熱に、一瞬呼吸を失う。 「リタ様!」  痛みで朦朧としかけた意識は、ジオールの呼び声で引き戻された。  深く突き刺さった刃が素早く引き抜かれ、血と共に体力が失われていく。その中で、リタは気付いた。ハリスの目が、すでにリタを映していない事に。  リタ自身の血に塗れた刃が、リタの目の前に迫る。肩に走る痛みに鈍った頭では深く考える事もできず、リタは本能に従って短剣を避けた。鋭さのない一撃は、避ける事は容易かった。ハリスは元よりリタではなく、別の獲物を狙っていたのだから。 「馬っ……逃げっ……!」  いつの間に、ここまで近付いていたのだろう。冷たい眼差しを持つ、戦いの場が不似合いな少女は、リタのすぐ後ろに立っていた。  ハリスに向けた空色の目には、相変わらず何も浮かんでいない。迫りくる死に、何も感じ無いのだろうか? 「ハリス」  少女は可憐な唇から紡ぐ声で、男の名を呼んだ。いつもと同じ、冷たく、揺るぎない、綺麗な声だ。  シェリアの眉間に埋め込まれるはずだった刃は、寸前で動きを止めた。  刃先から滴り落ちるリタの血が、シェリアの胸元へとこぼれ落ち、白い服に赤い模様を作り出す。鮮やかに広がるそれは、まるで花のようだった。 「っ……!」  動かないハリスの背中と、震える腕に見える、葛藤の色。  彼は戦っているのだろう。外から見えない場所で。身も心も支配しようとする、人の意志では抗えるはずもない、強い闇と。 「馬鹿じゃないの」  リタは無意識にこぼしていた。  本当に、馬鹿だ。ハリスも、シェリアも。互いに、相手のためにそれだけの事ができながら、なぜ、触れる事すらできなかったのか。  シェリアは長い金の睫を揺らして瞬きをしながら、白い手を伸ばした。内なる葛藤を飲み込んだ、男の頬に。  傷ひとつない細い指は、触れようとして、戸惑う。寸前で動きを止め、触れる事を躊躇った。 「シェリア!」  肩を抑えながら、リタは立ち上がった。体中から力が抜けて、思うように動いてくれないが、シェリアの様子を目の当たりにしては、欲求のまま倒れているわけにはいかない。 「シェリア!」  ハリスから離しかけた手を、シェリアは再びハリスに近付けた。  それも、葛藤と言えるものなのだろうか。何も感じないはずのシェリアは、無表情でありながら、今、確かに迷いを見せている。腕を伸ばさない、ただ、それだけの行動によって。  限界が訪れたのだろう。ハリスの口から奇声が上がる。動きを止めていた短剣が、シェリアに向けて振り下ろされる。  リタは叫んでいた。何を叫んでいたのか、自覚はない。ハリスの名だったのか、シェリアの名だったのか、それとも、ふたりを詰る言葉だったのか。意味など必要なかった。ただ、残された力を振り絞るため、叫ばなければならなかった。  短剣がシェリアに埋まるよりも、リタの指がハリスの横顔に触れる方が、一瞬だけ早かった。ハリスの体は吹き飛び、その衝撃で手放された短剣は、辺りに血を撒き散らしながら転がり落ちた。 「ハリ――」  神の力によって容赦なく際まで吹き飛ばされたハリスの体は、一度強く叩き付けられた程度で、勢いを殺しきれなかった。弾んだ体は、今にも空中へと飛び出していきそうだ。  このままでは遥かな地面へと落下してしまうと判っていながら、自身の考えのなさを責める以外に、リタにできる事はなかった。身に傷を刻みながら救おうとした相手を、こんな形で失うのはあまりにも間抜けだと思いながら、駆け寄る体力も時間も残されていなかったのだ。  目を覆いかけたリタの視界の端に、落下しかけたハリスの体を受け止める腕が映る。  両手を床に着き、身を乗り出したリタは苦痛を押し隠して笑みを浮かべ、憎まれ口を叩いた。 「やられっぱなしかと思ったけど、少しは、役に立ったじゃない」  息を乱し、苦痛に顔を歪ませたジオールだが、リタに返す時は笑みを浮かべていた。 「何もせずに、眠っていては、後で主に、何と言われるか、判ったものでは、ありませんから、ね」  相手を労わるだけの余裕が無いのか、それとも恨みゆえか、ハリスの体を乱暴に床に転がしたジオールは、青褪めた顔に流れる汗を血にまみれた手で拭うと、その場に崩れ落ちる。腹を抉った一撃は、リタが肩に食らったものよりも深手なのは明らかで、溢れる血液の量も多い。  リタは自身の体を引きずって、ジオールに近付いた。傷口に右手を翳し、唱え、聖なる光が傷を癒す手ごたえを感じながら、隣で倒れるハリスを見下ろした。  薄く開かれた唇から、深い闇が溢れ出す。肩の痛みをこらえながら左手を伸ばすと、軽く弾けるような衝撃の後、闇は消えた。  そのまま手をハリスに近付けた。触れる訳にはいかないので、口と鼻に近付け、呼吸を確かめる。息がある。確かめると、気力で抑えていた疲労が押し寄せ、自然と口元が緩んだ。 「シェリア」  立ち尽くしたまま動かない姉の名を呼ぶ。 「ハリスはとりあえず生きているみたいだから、とりあえず、あたしの傷、直してくれないかな」  ぎこちなく振り返ったシェリアは、リタの呼びかけに答え、リタの肩に手をかざした。  柔らかで温かな光に包まれ、心地良い安らぎがリタの全身を支配する。癒されていく安堵と、何より達成感が、強烈な睡魔となってリタを襲うが、強く首を振って振り払ったリタは、再びハリスを見下ろした。  伏せられた睫が僅かに動く。  ゆっくりと瞼が開かれ、覗いて見えた瞳には、間違いなく人のもの――いつものハリスの目に宿る光が、確かに輝いていた。  リタは皮肉な笑みを浮かべずにはいられなかった。 「シェリアを大事にしてるのは良く判るけどさ、シェリア以外の神の子も、少しは大事にしたらどうよ」  嫌味のひとつでも言ってやらなければ気がすまなかった。上体を起こしたハリスが、神妙な顔付きで項垂れ、リタの嫌味を正面から受け止める様は、少し気持ちが良かった。 「申し訳ございませんと、謝罪を口にする権利すら、私には残っていないのでしょう」 「確かにそうかもね。いくらあたし付きじゃないとは言え、神の子の護衛隊長が神の子に切りかかるって、冗談でも笑えないし」 「おっしゃる通りです」 「同僚も殺しかけてるし。痛かったでしょ、ジオール?」 「一時は死を覚悟いたしました」 「魔物にやられるなら諦めもつくけど、味方相手じゃね」  リタとジオールが軽快な口調で嫌味を交わす中、ハリスはずっと頭を下げ続けていた。床に着いた手から腕、体まで震えが走り、額から滲み出た汗が雫となって床に滴り落ちる様を見つけたリタは、わざとらしく息を吐く。  魔に囚われたがゆえの負担は、心理的なものだけではないのだろう。操られていた死体とは違い、ハリスの身は、多少鍛えているだけの生者のものなのだから。ひと振りで石を砕くなど、本来の肉体の限界を超える力を出し続けていた影響が、ないわけもない。  肩の傷が完治すると、リタは無言でシェリアの手に自らの手を重ね、「もういい」と意思表示した。そして視線でハリスを見るように示すと、シェリアの空ろな空色が、ようやくハリスを見下ろした。 「さてと。行こう、ジオール。カイたちの所。傷はもう治ったでしょ?」 「はい。ありがとうございます」 「――私も」  リタたちが立ち上がると同時に、ハリスも顔を上げた。 「いいよ。そんな弱った体じゃ、あんまり役に立たなそうだし。だからってあたしはあんたを治してあげる気ないし」  ジオールに着いてくるように合図し、リタは階段へ向き直る。歩き出す前に言うべき事がまだ残っていた事を思い出し、しかし相手の顔を見ながら語るのもしゃくで、背を向けたまま口を開いた。 「まあ、こんな事になったのも、相手を追い詰めるような案を無理矢理通したあたしたちに半分くらい原因があるかもしれないから、傷が消えたのと一緒に、無かった事にしてあげる」 「いえ、それは、なりません」 「あくまでも、『あたしとジオールが』許してあげるだけ。あんたの今後の身の振り方にとって、一番の強敵がまだ残ってるんだから、覚悟しておきなよね。感情なんかに左右されずに、正しくあんたを裁いてくれるだろうからさ」  リタは、リタの足元に膝を着いたままのシェリアを見た。行き所を亡くした手を、膝の上に重ねた少女は、リタの話を聞いているのかいないのか、ハリスを見つめたままだ。  シェリアとハリスを置き去りに、リタはジオールの腕を引いて走りはじめた。  ふたり分の渇いた足音が慌ただしく響く中、残したふたりが交わす言葉は聞き取れそうにない。少々惜しいと思うものの、これでいいのだと言う満足感があった。 「本当にハリスの首が切られたらどうします」  リタと並んで階段を駆け下りながら、ジオールが問いかけてくる。 「あのまま死なれるのは後味悪くて嫌だったけど、普通のハリスが職を失おうと処刑されようと、あたしにはどうでもいい事。シェリアが好きに決めればいいよ。ただ――」 「ただ?」 「シェリアの護衛隊長が勤まるの、あの馬鹿しか居ないと思うんだよね。あたしが聖騎士だったとしたら、絶対にお断り」  ジオールは小さく吹き出して笑った。珍しい事もあるものだ。 「おっしゃる通りです」 「あ、ジオールが馬鹿って言ってたよって、あとでハリスに言ってやろうっと」 「どうぞご自由に。痛くも痒くもありません」  平然と言い切るジオールを、リタは冷たい目で見た。 「今は一応、あっちの方が上官なんじゃないの?」 「愚痴や文句のひとつも許さないほど、狭量な上官ではありません。しかも、今は私の方が心理的に立場が上です」  やはり平然と言い切るジオールに、リタは吹き出さずにはいられなかった。 「それは間違いないだろうね」 15  少女と同僚の足音が階段の下へ飲み込まれていくと、場を包む空気が完全なる静寂と化した。遠くからは兵士や聖騎士たちが魔物と戦う喧騒が聞こえてくるが、人形のようでありながら強い存在感を持つシェリアの前に、多少の音など無いも同然だ。  ハリスは片膝を立てた。僅かに動く度に体が軋み、全身の筋肉が悲鳴を上げるが、倒れ込むわけにはいかない。膝と床に着いた手を支えにし、普段の何倍も重く感じる自身の体を持ち上げた。膝から手を放し、背筋を伸ばして立ち上がれるようになるまでに必要な時間は、驚くほど長かった。 「ハリス」  少女の声が、冷たく名を呼ぶ。声はか細いものだが、けして拒否できない力を秘めており、ハリスは一歩踏み出す事ができなくなった。 「座りなさい」  少女の命に従う事は簡単だった。気力によって奮い立てた力を少し抜けば、簡単に床に崩れ落ちる事ができる。  しかしハリスはそうはせず、力強く立ち上がったまま返した。 「どうか、戦いに赴く事をお許しください。エイドルードが愛した人をひとりでも多く守るために、この命を使う事をお許しください」 「聞こえなかったのならばもう一度言います。座りなさい、ハリス」  ハリスの言葉が届かなかったのか。それとも、逆らう事はありえないと言う信頼からか。何事もなかったように同じ命を繰り返すシェリアに逆らえず、ハリスは再び跪き、弱りきった体で力を込めた拳を床に着き、シェリアに向けて頭を下げた。  自分が何をしてしまったのか、ハリスははっきりと覚えている。闇に意志を飲み込まれ、禍々しい力に身体を利用されていたが、完全に意識が無かったわけでも、記憶を失くしたわけでもなかったのだ。  剣を神の御子や仲間に向け、傷付けた。ジオールなどは、御子の偉大なる力が無ければ、助からなかった可能性もある。シェリアの呼びかけによって、ハリスの意志が闇の力に勝る時も僅かにあったが、基本的には完全に抑えこまれ、恐ろしい事をしてしまった。  許されない、許されてはならない事をした。その自覚はある。今すぐにでも罰せられるのは当然だ。  だが、どうせ、散らす命だと言うならば、せめてひとりでも多くを助けて散りたかった。戦いの中で名誉ある死を望もうと思っての事ではない。エイドルードの名の元にある戦いならば、ひとりでも多くの命を救う事が、エイドルードの栄光をより輝かしいものにするのだと信じていたからだ。 「わたくしは、知らない事が多すぎるようです。リタや、カイ様と共にあると、その事実が良く判ります」  細めた目で真下を見下ろすハリスの視界に入るものは少ないが、シェリアが彼女自身の膝の上に重ねていた手は目に映った。  細く白い手は、行き場を探すように持ち上がり、ゆっくりとハリスに向けて伸ばされる。 「わたくしが神殿の中で生きた十五年間、誰も教えてくれなかった事です。必要ないと思ったからこそ、誰もわたくしに教えなかったのでしょう。それで良かったのだと思います。わたくし自身、今でも、必要なものだとは思えませんから」  ハリスが身に着ける鎧の肩あてに触れる直前に、シェリアの手が止まった。 「わたくしは正しいと、誰もが言います。けれど、リタもカイ様も、そう言いながら、わたくしを蔑みます。わたくしには、リタやカイ様の考え方も、語る言葉の意味も、理解できない事ばかり。気にする必要はないのです。間違っているのはリタやカイ様の方。けれど、わたくしは、気付いてしまったのです。わたくしにも間違っている部分があるのだと」  小さな唇が神聖語を紡ぎはじめる。天上の神に祈り、光を呼ぶ言葉。白いてのひらの先に、偉大なる癒しの力が生まれ、溢れだし、ハリスの全身に広がった。  軋むような痛みが消えていく。ハリスは驚愕のあまり言葉を忘れ、口を中途半端に開いたまま顔を上げ、シェリアを見つめた。  変わらない眼差し。変わらない表情。だが、確かに違っている。三年前からシェリアの傍にいるハリスにとっては、「ありえない」と断言できるほどに。 「お止めくださいシェリア様。私は、只の人です。神の偉大なる恩恵を、特別にいただける者ではないのです。いいえ、それどころか、私は罪に堕ちました。只の人ですらないのです。どうか――」  静止を願い出たところで、もう遅かった。十五年以上も神殿におり、相応の教育を受けてきたシェリアは、力の使い方も的確だ。リタがジオールの傷を癒すよりも遥かに早く、ハリスの傷を癒していた。  白い指が遠ざかり、再び膝の上に重ねられる。  揺るぎない美しさと揺るぎない純白の中、鮮やかな赤の汚れを僅かに見つけ、ハリスは歯を食いしばって、心に走る苦痛に耐えた。それはハリスがリタに切りかかり、シェリアに刃を向けた、確かな証であったから。  偉大なる力によって癒される前の体を支配していたものよりも重い痛みに軋む胸に、ハリスは無意識に片手を置いていた。 「わたくしは三年前、はじめて貴方と対面したその日に、二度とわたくしに触れないよう、命を下しました。正しい事だと疑っていませんでした。それは、わたくしの、正しくない考えから生まれた命令であったと言うのに」 「いいえ。いいえ、シェリア様」  伝えたい想いをどう言葉にして良いか判らず、ハリスは強く首を振った。 「否定する必要はありません。事実なのです。わたくしは過ちを正さなければなりません。真に正しい道を選び直し、進まなければなりません。ですから、過ちから生まれたものを正さなければならなかったのです。それは、闇に飲まれた貴方です、ハリス」  空色の瞳が、苦痛に歪む視界の中で輝いた。 「ハリス。貴方の役目は」 「シェリア様をお守りする事、エイドルードの意志に従う事です」 「その通りです。わたくしを守りなさい。二度と同じ過ちを犯さぬようにしなさい。わたくしに剣を向けながら死ぬ事を許しません。死ぬならば、わたくしを守って死になさい」  ハリスはいっそう頭を低くし、目を伏せた。生まれた小さな暗闇の中で、しかしシェリアの言葉は光となって、ハリスの目の前を照らし続けた。 「勿体ないお言葉です」 「わたくしの言葉を、理解しましたか」 「はい」 「ならば良いのです。貴方は、貴方の役目を果たしなさい。わたくしに害成すものは、他の者が始末するでしょう。ならば、貴方が成す事はひとつです」 「はい」  ハリスは肯き、立ち上がった。ふたりきりの世界の中心に、遠くから届く喧騒が、突き破るように響き渡った。  見渡すと、暗闇の中にいくつもの篝火が見える。赤い光に照らされた、戦う者たちの背中を見つけ、ハリスは拳を握り締めた。 「偉大なるエイドルードの名を汚さぬよう、偉大なるエイドルードが愛したものを、守ります」  シェリアは言葉でも態度でも応えず、静かに立ち上がった。だが、ハリスは判っている。疑問を投げかけるでも助言をするでもないならば、納得し、認めてくれているのだと。 「念のため、シェリア様は城内に避難を」 「判っています」 「では、行ってまいります」  ハリスは背を向けるシェリアに対して一礼し、毅然とした態度で歩き出した。  途中、拾い上げた自身の剣は同僚の血に塗れていたが、血を拭うと同時に心の痛みも押し隠し、迷いの無い目を先に向けた。 16  ルスターの事だ。いくら魔物と化したとは言え、義弟を切る事に対して、迷いを抱かないわけがない。  迷いをかなぐり捨てるのは容易ではなかっただろう。カイの護衛隊長であるとの現実が、彼に言い訳を与え、震え立たせたに違いなかった。  そうしてようやく辛い葛藤を乗り越え、迷いなく戦う事を決意した矢先に、迷いを蘇らせる存在が目の前に現れるとは、不運としか言いようがなかった。動揺したルスターの剣は鋭さを失い、確実にユベールを捉えるはずだった剣先は、虚しく空気を抉る。  ユベールは裂けた口をつり上げて笑い、身を翻した。軽やかに床を蹴り、飛ぶように進む。カイやルスターとは反対側――レイシェルが呆然と立ち尽くす方へ。  レイシェルを質に取ろうとしているのは明らかで、ほとんど同時にカイとルスターは床を蹴っていた。徐々に距離を詰めるが、はじめからレイシェルに近い位置に居たユベールの方が有利で、奇怪に歪んだ手が、レイシェルを捉えようと伸びる。  無謀だと判断する時間を自身に与えぬ内に、カイは手にした剣を投げていた。鋭い切っ先はレイシェルに向けて伸ばされたユベールの手に突き刺さり、ユベールは奇声を上げながら身を捩る。  その隙にルスターは、レイシェルの前に立ちはだかった。  本来ならば、妹を背に庇った状態で牽制したい所だろうが、武器を手放したカイを確認したルスターは、すぐにユベールに切りかかった。カイの所にもレイシェルの所にも向かえないようユベールの動きを封じ、剣や鋭い爪による攻撃を避けたり鎧で受け止めたりしている。  カイは急いで剣を拾い上げ、レイシェルの手を引いた。まだ戸惑いが強いのか、自ら動こうとしないレイシェルの体は思いの他重い――いや、違う。レイシェルはカイの導きに従わなかった訳ではない。逆らっていたのだ。  その場から動きたくないとばかりに、意志の力で足を床に縫いつけ、カイの手を振り払う。唖然として振り返るカイの目に映ったのは、ユベールを追い込み、今にも剣を突き立てようとするルスターの背に、レイシェルが絡みつく場面だった。 「邪魔を、するな、レイシェル!」  叫ぶルスターに、レイシェルは髪を振り乱しながら返した。 「嫌です。兄上、何をなさるのです! 兄上が切ろうとしているのは、私の夫、貴方の義弟ですよ!?」 「違う! 魔物だ。御子様に、エイドルードに仇なす、邪悪な存在だ。ランディの死を汚し、今ザールを襲っている魔物を率いているのも、おそらくは」 「嘘です。彼は、ユベールです。兄上、目を覚まして!」 「覚ますべきなのは――」  お前だと言いかけて、ルスターは歯を食いしばり、レイシェルを抱いて横に飛んだ。力強く打ち込まれたユベールの拳が、掠めるように脇腹を打ち、小さく呻く。  何もできないルスターに代わり、続いて振り下ろされたユベールの剣を受け止めたカイは、相手の攻撃を流すと同時に切り返した。皮膚が裂け、流れ出した血は、やはり人間のものと違っていた。 「なぜここに来た。ハリス隊長の指示を聞いていないのか。非戦闘員は自室に避難せよと言われているだろう。すぐに戻れ」  戦線に復帰しようとするルスターの足に縋りつき、レイシェルは叫ぶ。 「嫌です。私が戻れば兄上は、ユベールを魔物だと言って切り捨てるおつもりでしょう!?」 「魔物であろうと義弟であろうと、御子様のお命を狙う存在を始末する事は私の使命だ」 「ならば絶対に戻りません! 兄上を、放しません!」 「レイシェル!」  兄妹の会話を耳にしたカイが、「異形と化したユベールの姿を見てもまだ判らないのか」と疑問を抱いてしまうのは、昨日までザールに足を踏み入れた事もない他人だからなのだろう。  昨日まで、いや、この戦いがはじまるその時まで、何も疑わず、家族として妻としてユベールに接していたレイシェルに、易々と受け入れろと言っても、無理に決まっている。悪い夢か幻である事を望む心を、カイは責められなかった。 「くっ……そっ……!」  ユベールと対決する中で、幾度か切りつけたカイだったが、深手を負わせる事ができないでいた。魔物である事を隠すのをやめた時から、ユベールの皮膚はかなり硬化している。魔物ゆえの生命力か、リタが落とした雷に焼かれた部分も治りはじめていて、動きが徐々に早くなっているのも問題だった。  脅威になりつつあるのは守備力や回復力だけではない。力が増したのか、拳は鈍器のようであるし、短いながらも鋭く尖った爪は、刃物に近い切れ味だ。どんな攻撃であれ食らってはならないと言う本能的な恐怖が、カイを積極的な攻撃に出させてくれなかった。 「カイ様!」  悲痛なルスターの声がカイの名を呼び、妹の手を無理矢理ふり解くと、カイの元へ駆けつけてくる。  精神的に傷付いている人物、まして、同じ痛みを共有する妹を無下に扱う事で、彼の心の痛みはより増してしまうのだろう。判ってはいたが、彼が本来の仕事を成すためにカイの元に来てくれた事への安堵の方が大きかった。 「カイ!」 「カイ様!」  力強い足音と共に、リタとジオールが駆けつけてきた。ルスターと並び、ユベールの剣を受け止めながら、ふたりの姿を目視したカイは、唇に笑みを湛える。  当のハリスの姿が見えないためにどうなったかは読めないが、駆けつけてきたと言う事は、片付いたと言う事なのだろう。どちらもシェリアだけを置いてくるほど無神経な人間ではとは思えないので、ハリスは助かったのだとも予想できる。衣服に切り裂かれた跡や血の跡が残っている点は気になるが、今現在は問題なく動いている事だけを受け止めるべきだろう。  力で勝るユベールが、剣を押し返すと共にカイの体を突き飛ばす。カイを庇うように壁とカイの間に身を入れたルスター自身は、強く背中を打ちつけて小さく咽こんだが、間髪入れず繰り出されるユベールの攻撃を、カイと共に床に転がって避けた。  すぐさま体勢を立て直したが、続けざまに振り下ろされた剣は、避けるにしても受け止めるにしても、カイたちに少々不利だった。  重い一撃を苦い顔で受け止めるルスターにとっての救世主は、駆けつけてきたばかりの男だった。左手で構えた剣でユベールに切りかかり、盛り上がった腕に深い傷を残す。同時にジオールの隣に小柄な体を滑りこませたリタは、殴りかかる勢いで手を伸ばし、ユベールの体を宙に浮かせた。  通路の先の方に飛ばされたユベールが、床に叩き付けられた音は、重く、鋭い。それを合図にするかのように、ひとつの扉が開いた。  ユベールとカイたちの間を遮るように、何人もの影が出てくる。まだ居たのか、居たならなぜ今まで表に出さなかったのかと瞬時に疑問を抱いたカイだったが、誰に問わずとも答えはすぐに出た。  現れた者たちは、皆どこか欠けていた。額を貫かれた上に肩から丸ごと失っている者や、脇腹が噛み千切られ抉れている者、首から上が無い者も居た。見るも痛ましい傷跡は、彼らがすでに死者である事を誰の目にも明らかにしており、今まで操っていた者たちのように、何事もなく潜入させる役には立たなかったのだろう。 「どこまで死者を利用すれば満足するわけ」  低く、唸るようにこぼれたリタの声には、明らかな怒りが込められていた。  カイは目を細めながらもけして瞬きはせず、人壁の向こうでゆっくりと身を起こすユベールを見つめていた。  少しだけ期待をしていたのだ。見た目が明らかに違っていても、やはりユベールは他の者たちと同じように、操られているだけなのではないかと。リタの力によって解放されてくれないだろうかと。それならば、多少は救われるだろうと。  だが、期待は無残に散った。ユベールは内から闇を消す事無く、立ち上がった。 「あんた、一体何なの?」  問いかけるリタの声は僅かに震えていた。 「変な力で操られているんじゃないとしたら、あんたはユベールじゃないって事? 別の魔物が、ユベールに成り代わっただけだってわけ? だから、自分が治めてたも同然のザールの民に対して、こんな酷い事ができるわけ?」 「いいえ。私はユベールですよ。生まれた時から、今この時まで」  ユベールは静かな笑みで言った。通常ならば穏やかと称しても良い表情なのだろうが、邪気が勝ちすぎているからか、禍々しくも見えた。 「人として生まれ、人として育ち、人と結婚した、ただの人間でしたよ。この地にやってきて、すでに空の主が亡き事を知り、偉大なる存在の声を聞くまでは」 「ユベール!」  操られた死体たちを抑えていたルスターが、半狂乱なレイシェルの叫びに、僅かに反応する。  ルスターと並んで剣を振るうジオールも、ふたりのやや後ろで構えて力を使う機会を窺っているリタも、辛そうな顔をしていた。  誰もが一瞬で理解したのだ。ユベールが語る「空の主」が、「偉大なる存在」が、何を示しているのか。  彼もまた、神亡き世界の被害者なのだろう。  神が失われる事で緩んだ結界によって、魔獣が人を呼び、手足となる魔物へと変えたと言うならば、事はユベールだけの問題ではない。今後も被害者は増え続けるかもしれない。人ではない、躊躇いも罪悪感も無く人を傷付ける存在へと化す者が次々と現れ――そうしてやがて、この地から人が消えるのかもしれない。エイドルードに変わって地上を守る者が現れなければ。  カイは、ふらついた体でユベールの元へ駆け寄ろうとするレイシェルの肩を掴んで引き止めた。女性とは言え、遠慮なく付き進もうとするレイシェルを抑えるには少し力が必要だったが、自身の体を壁にして押さえつければ、難しい事ではない。  耳元で叫び声が響く。ユベールユベールと、まるでそれしか言葉を知らないかのように、レイシェルは同じ人物の名を繰り返していた。 「すみません」  カイを押しのけようと、レイシェルの拳が何度もカイの身を叩いた。  レイシェルはもう、カイが何者であるかを忘れているのかもしれない。この惨状でレイシェルもユベールも救う事のできない神の子など、敬うに値しないと思っているのかもしれない。  その通りだ、とカイは思った。本当に、カイ自身には何もできないのだから。  何もできないのはきっと、カイだけではないのだろう。リタの力でも解放できなかったユベールを、本当に意味で解放し、救う事は誰にもできないのだろう。  救えないならば、ユベールにしてやれる事はただひとつ。  カイは振り上げられたレイシェルの腕を掴み、空ろにユベールを呼び続けるレイシェルの目を見据えた。ルスターに良く似た面影の女性は、瞳の色もルスターと同じで、彼女自身のものだけではなく、兄が抱く苦しみも、共に写し出しているように見えた。  少しでも。  少しでも、楽になれるのならば。 「命令だ、ルスター」  振り返らず、カイは掠れた声でルスターの名を呼んだ。  ジオールやリタと協力し、操られた死体を倒していたルスターは、一拍間を開けてから返事をする。 「なんでしょう、カイ様」 「ユベールを斬れ」  空気が張り詰めた気がしたのは、きっと気のせいではないのだろう。 17  互いに背中を向けているため、カイからルスターの顔は見えない。  レイシェルの涙を浮かべた薄い色の瞳が、絶望に淀みながらカイを見つめた時、ルスターにも同じ苦しみを与えた気になり、カイは息苦しい思いをした。 「天上の神エイドルードの子、カイの命令だ。誇り高き聖騎士として、天上の神より与えられた使命を受け継ぐ一族の者として、偉大なる父を裏切り俺たちに剣を向けた不届き者を、忌々しき魔獣の徒を、滅ぼせ」  剣を振るう音がする。それから、人間が倒れる音。ユベールへの道を阻む存在を、倒したのだろう。  ルスターから返事が来るまで、さほど間は空かなかった。しかし待ちわびるカイにとっては長い時間で、悪い予感に心臓が大きく鳴る。 「了解いたしました、我が主よ」  優しさはけして失っていない、けれど、力強い声だった。 「偉大なる天上の神と御子カイ様に誓います。必ずこの手で、魔獣の眷属の息の根を止めましょう」  レイシェルの言葉にならない声は、悲鳴だったのか、それとも慟哭だったのか。  あらゆる感情を込めた声が、通路中に響き渡り、カイを責める。レイシェルの美しい顔は醜く歪み、彼女の中に生まれた人としての闇が現れていたが、カイは目を反らす事無くそれを受け入れた。 「すみません」  何もできなくて。神の子を名乗りながら、誰も救えなくて。 「ごめんなさい……すみません」  レイシェルがその場に泣き崩れた。  それだけで背中の向こうで何が起こったのか、大体を理解したが、確かめるために振り返ったカイの目に、まだ三体残っている操られた死体を引き受けるジオールと、神の力によってジオールを援護するリタ、その向こうで、ユベールと対峙するルスターの姿が映った。  時間稼ぎのためにいくら囮を呼ぼうとも、驚異的な回復力で体のあちこちに刻んだ傷を癒そうとも、迷いを失ったルスターの前に、ユベールはただの一匹の魔物だった。ルスターの華麗な剣技に追い詰められたユベールは、咆哮を上げて相手が怯み、隙を見せるのを待った。  だが、ルスターは躊躇わなかった。かつて義弟だった存在に、労わりの言葉ひとつかける事なく、剣を突き出した。  喉を貫かれたユベールは、剣によって壁に縫いつけられ、声を失った。  端整な顔に紫混じりの返り血を浴びながら、ルスターはいっそう深く剣を埋め込む。やがてユベールの体から力が失われると、二度と動かない事を確かめてから、両腕に込める力を緩めた。  ルスターはゆっくりと剣を引き抜く。死に絶えた魔物から。  重苦しい音を立てて力無く床に崩れ落ちた魔物が、紫混じりの赤い血だまりを作る様を見守ってから、ルスターは振り返り、カイに歩み寄った。カイの足元に泣き崩れたレイシェルが居る事に気付かないふりをして、跪く。 「カイ様。ユベールの始末、完了いたしました」 「よくやっ……」 「どうして」  涙混じりの声が、短く問いかける言葉で、ルスターを責めたてる。  聞こえないふりをして無視をするルスターの代わりに、カイがレイシェルを見下ろした。 「どうして殺してしまったのです。私の夫を。兄上の義弟を」  カイがルスターを見下ろすと、ようやくルスターは妹を受け入れ、向き直って答えた。 「あれは人ではなかった。この大地にあってはならない邪悪な存在を滅ぼす事も我ら聖騎士団の使命であり、私は使命を果たさなければならなかった」 「神が、私の夫の死を望んだと言うのですか」 「恐ろしい言葉を吐くな、レイシェル!」  ルスターは妹の肩に手を置き、僅かに声を荒げた。 「お前は、自分の夫がザールからこの大陸全てを滅ぼす様を見守りたかったのか? それだけの罪を、夫に背負わせたかったのか? 穢れた魂が大空に抱かれる事なく、永遠の苦しみを味わい続けても、良かったと思うのか?」  ルスターの問いかけに、レイシェルは涙しながらもはっきりと首を振って否であると示した。 「戻る事はできない魔の世界へと堕ちたユベールに、死よりも寛大な救済は他に無かった。我が主は、それをユベールにお与えになった。そして私に、義弟へ救済を与える役目を、お与えくださったのだ。カイ様に、神に、感謝こそすれ、呪いの言葉など吐くなど……二度とするな」  レイシェルは硬く目を伏せ、泣き続けた。漏れる嗚咽を抑えきれずに、頬を伝う涙を次々と床へと零しながら。やがて再び目を開けると、濡れた瞳で兄を見上げながら、鈍く動く手をたどたどしく滑らせ、自らの下腹部に置いた。 「ユベールは、ユベールでした。私の夫は、優しい、ただの人でした。けれど、兄上が命を奪ったあの人が、人ではない生き物になっていたと言うのなら……この子は、何者だと言うのです」  妹の問いかけに、ルスターは息を飲んだ。 「人ですか。それとも」  厳しく引き締めながらも、妹への愛情と労わりを消しきれずにいた端整な顔が、驚愕に引きつった。涸れる事なく涙を溢れさせる同色の双眸を見つめ、泣き崩れそうになる細い体を受け止めると、優しく抱きしめて涙ごと受け止める。  静かな通路に、レイシェルの嗚咽だけが広がった。誰ひとり、慰めの言葉は浮かばなかった。ルスターのように抱きとめる事ができる者も他にないまま、時間だけが過ぎた。  いつのまにか、カイの傍らにはリタが立っていた。争いに疲れきった格好をして、けれど顔に出すのは疲労ではなく、悲哀ばかりだった。いずれ母になる性を持つ少女は、カイ以上にレイシェルの苦しみを理解しているのかもしれない。夫に先に逝かれた悲しみと、やがて生まれてくる子への不安を。 「『神は人を愛し、人の子を愛す』」  セルナーンで過ごしはじめてからひと月足らずの短い日々の中、詰め込まれた知識の中にあった文を引用し、カイは呟いた。 「貴女の子は、神に愛され、神の祝福を得ます。必ず」  この期に及んで、あり触れた言葉しか産みだせない自身の単純さに呆れたカイだったが、レイシェルの震えが少しだけ治まったように見えた時は、何もしないよりはましだったのだと思えた。  押し込められていた泣き声が解放される。レイシェルの言葉にならない声は、通路中、いや、おそらくは扉や壁の向こうまでも響き渡り、悲しみを伝えただろう。  兄妹を見守り、感情を受け取っていたカイは、しばらくして踵を返し、歩き出した。もはやこの兄妹は他者を必要としていない、むしろ邪魔であろうと判断したからだ。ならば、戦いの傷跡が残る通路を進み、向かうべき場所ばある。  リタとジオールは、動き出したカイに気付いたようだった。足音を潜めながらも、小走りに追いかけてくる。 「どこに行くの?」 「下。地上では、まだ戦いが続いているだろう?」 「そう言う事なら、ひとりで行く前に声かけてよね。あたしたちだってまだ戦えるんだから。ねえ、ジオール」  血まみれの衣服の下にありながら、傷ひとつ残っていない腕をカイに見せつけながら、リタはジオールに振り返った。  同意を求める口調は力強く、ジオールから否定の言葉が帰ってくる事を予想もしていなかったようで、ほとんど間を空けずにジオールが首を振ると、リタは目を丸く見開いた。 「いいえ、私がひとり向かいます。リタ様もカイ様も、城内でお待ちください」 「なんで」 「なんでだよ」  リタとカイが同時に詰め寄ると、ジオールは音も立てずに息を吐いてから答えた。 「今夜の魔物の襲撃でお三方のお力をお借りいたしましたのは、事を早期に片付けるための、あくまで特例です。これ以上前線に立っていただくわけには参りません」 「今夜の魔物の襲撃はまだ終わってないでしょ。って事は、まだ特例続行中。問題ないよ」 「なりません」  ジオールはカイたちの進行方向に立ちはだかり、短く言い聞かせた。  短いからこそ揺るぎない言葉は、逃れようがないほどカイとリタを捉えた。カイは今宵、いかにも固そうな彼にも柔軟なところもあるのだと見直したばかりだったのだが、やはり本質部分は固いままのようだ。 「何より、お疲れでしょう、リタ様」  反論の言葉を紡ごうと拳を握り締めたリタだったが、突然の労わりの言葉に声も出せず、握った拳を緩めた。  言われてみれば、リタはここに至るまで、あらゆる力を行使した。力を使う事でどれほどの疲労が溜まるのか、同じ力を持たないカイには判らないが、ジオールの言葉に俯いたリタの横顔には、押し隠そうとしても隠しきれない疲労が覗いて見えていた。 「ご助力、ご尽力いただき、誠に感謝しております。私やハリスも含め、何人、何十人もの命が救われました」 「でも、まだ」 「リタ様ならば、残された力を使う機会が、戦いの後にもあるでしょう。共に戦っていただくよりも、多くの者を救えるかもしれません」  ジオールが洗練された動作で深く礼をすると、リタはとうとう諦めたようだった。全身に張り詰めていた気力を解放し、肩を落とし、穏やかな眼差しでジオールを見つめている。 「確かにリタは頑張りましたし、休んだ方がいいと思いますけど、俺は別に何もしてな」 「一番おいしいところ持ってっといて、そう言う事言うわけ!?」  大人しくなったと思えば、突然カイの言を遮るように騒ぎだすリタに驚いて、カイはリタとの間に更に一歩ほど距離を置いた。 「そんな、俺は……」 「ご立派でした」  ジオールの褒め言葉は、やはり短いものだったが、無意味ではなかったのだと、自分も誰かのために何かができたのだと、カイに教えてくれた。 「この場の守りはルスターに任せますが、あの状態ではいささか不安です。いざと言う時は、リタ様の事をお任せしてもよろしいでしょうか?」  カイは力強く肯く。 「そのくらいなら、任せてください」 「ありがとうございます」 「その代わり、遠くから援護の矢や雷が飛んできたとしても、許してくださいね」  無理矢理付け足したカイの言葉に、はじめは無言で答えたジオールだったが、去り際に残した言葉は肯定的だった。 「戦場ではさほど余裕が無いと予想します。何かを見逃す事もあるでしょう」  カイは気力を振り絞って口元に笑みを湛えると、走り去るジオールを見送った。 18  少し離れたところからはレイシェルの泣き声が、遠く離れたところからは喧騒が聞こえてくるが、カイは不思議と静かな気分だった。隣に立つリタもどうやら同じようで、彼女にしては静かな表情で、戦いの行く末を見守っている。  ここからでも援護できればと思っていたが、すでに戦いは終盤にさしかかっており、交戦していない魔物の姿は見えなかった。この距離から兵士や騎士たちと戦っている魔物に攻撃を加えようとすると、謝って味方を巻き込んでしまう可能性が高く、迂闊に手が出せない。黙って見守る事が、カイたちにできる全てだった。 「さっきね、ちょっと、びっくりしたよ」  リタは遠くを見つめたままだったが、カイに語りかけてきているのは明らかだった。  カイはゆっくりと、リタの横顔へと視線を移す。揺れる炎に照らされる戦いの場を見つめる眼差しは、真剣で厳しいものだった。 「本当に……って言ったら変なのかな。本当に本当だから、あんたもあたしもこうしているんだし。けどさ、さっきは本当に、ちょっと立派な、神様の子供みたいに見えたんだよ」  リタが語る「さっき」がいつの事かを理解し、カイは再び戦場へと視線を戻した。 「俺さ、とりあえず現状を受け止められるようにはなってきているけど、でも未だに、エイドルードの事を神とも父とも思っていないんだよ。リタも多分、同じだと思うけど」  隣で肯く気配を感じてから、カイは続ける。 「けど、俺には、エイドルードの他に、神とも父とも思う相手が確かに存在してた。あの人の存在にどれほど救われていたか自覚していたし、あの人の言葉がどれほど力強かったかも、しっかり覚えている。俺にとってのあの人が、皆にとってのエイドルードだって言うなら、色々判った気がしたんだ。皆がエイドルードに何を求めていたのか、俺に、何を求めているのか。頭だけでなく、心でも」  カイは自身の胸の上に手を置く。温かく力強い鼓動をてのひらに感じると、今は亡き人物の面影が、そこに蘇るようだった。 「で、求められた通りの人間になってあげたってわけ?」 「そんな立派……と言うか、優しい人間のつもりはないよ。名前も顔も知らない人が近寄ってきて、俺に救いを求めたとしても、俺は何もしないかもしれない。命をかけてとか、自分を捨ててまでとか、そこまでして助けてあげる自信はないし」 「そうかな」 「そうだよ。その点、君は立派だ。ザールの民や聖騎士たちのために、自分を囮にするような作戦を迷わず選んだんだから」  リタは無言で唇を尖らせ、カイの問いかけを無言で肯定した。 「俺には君やシェリアみたいな力が無い。だから、何の力も無くて、何の役にも立てないんだろうって思った時もある。けど、違うって事は判ったよ。エイドルードの子って事実だけで、俺には凄い力がある。その肩書きを持つ俺の言葉は、たとえ俺にそのつもりが無くても、色んな力が宿ってしまうから」  咄嗟に紡いだ言葉に、深い信念を込めていたわけではない。もし自分が彼らと同じ立場で苦しんでいたなら、ジークに何て言ってほしいだろと考えて、出てきた答えを音にして伝えただけだった。  たったそれだけの事だ。けれど、ルスターやレイシェルには、たったそれだけの言葉が、神の子の言葉として、強い原動力となり、救いとなった。  恐ろしい力だ。相手にエイドルードを信仰する心があるからこそ働く力だが、その心がある限り、絶対とも言える力。逆らう事すらできず、請えば死すら厭わない者も居ると考えると、あまりの重さに震え上がりそうだ。 「エイドルードに敬意を払わない俺やリタには、何の救いにもならない力だけどな」  胸の内にわだかまるものを消し去ろうと、小さく笑ったカイの耳に、否定の言葉が届いた。 「そうでも、ないよ」  窓から吹き込む風に煽られ、金の髪が踊る。短い短いと思っていたが、いつの間にか少し伸びている事に気付いたカイは、迷っている間にも時間は少しずつでも過ぎているのだと思い知った。 「あんたがエイドルードの子供だからとか、ジークの子供だからとかは、あたしには関係ないけど、でも、はじめて会った日から、あんたの言葉には力があった。あたしにとってはね」  同じ場所を見つめているカイとリタの視線は、元より交わっていなかったが、より反らそうとしているのか、リタは明後日の方向を向いた。 「あたしはあんたに救われたと思う。今は遠い、アシェルの地で――あたしはひとりじゃないんだって、教えてもらった気がしたから」  照れ臭さをごまかそうと、カイは小さく笑った。 「そんな立派な事、したつもりないけどな」 「うん。綺麗な言葉でも、格好いい言葉でもなかった。でも、凄く嬉しかったんだよ。なんでだろう。よく判らないけど」  優しい空気に惹かれるように、カイは再びリタの横顔を見下ろした。少々勇気が必要だったが、遠くを見つめるリタの細められた眼差しは優しく、湧きあがった緊張をすぐにほぐしてくれた。  少し離れているとは言え、目の前で争いが怒っているとは思えないほどに、穏やかな時間が過ぎていく。不思議な気分だった。セルナーンに来てから、いや、リタと別れてトラベッタに帰ったあの時から、ここまで心が穏やかでいた時は他に無かった気がする。常に何かに傷付き、あるいは何かに迷い、苦しんでいたように思う。  悲しみや迷いが失われたわけではないし、現状の全てに納得しているわけでもない。運命から逃げる事はできないし、全てを見捨てる事はしたくないが、自分自身を失う事を素直には受け入れらない。混沌とする想いを抱えるカイに、大切なものを失う事無く今を生きる事もできるのだと、今現在もけして悪くはないのだと、今カイを包む空気が教えてくれているようだった。  どうしてだろうと考えたカイだが、答えはすぐに思いついた。今までのカイに無く、今のカイにあるもの。それは、目の前に居る少女だ。 「そう言えば、久しぶりだな」  破顔したカイは、いつもよりもずっと優しい声で、リタに語りかけていた。 「何が?」 「こうやって、お互いに落ち着いた状態で、ゆっくり話すのが。アシェルで魔物退治の仕事を受けていた時以来、かな」  顔を隠すように頬杖をつき、若干下方からリタを見上げると、直立したリタは、表情を硬直させて、しばらくの間立ち尽くしていた。  いぶかしんだカイが背を伸ばし、今度は上方からリタを見下ろすと、リタは突然きれの良い動きで後退し、カイと距離を置く。 「忘れてた」 「何を?」 「あたし、あんたの事できる限り避けてたんだった」 「……ああ、でも」  自然な流れで自然な会話ができるようになったのだから、もう関係ないだろうと続けようとしたカイだったが、リタが素早く踵を返して立ち去っていくので、ゆっくり話す余裕を失った。 「え、いや、リタ!」  慌てて名前を呼ぶと、リタは一度足を止める。右足が半歩分下がり、振り返ってくれるのかと思ったが、そのまま動かなかった。 「時間なんて勝手に過ぎてくんだから、結論は早く出さなきゃいけないって、判ってるつもりだよ。でも、やっぱり、あっさりと割り切れない」  少女の声は、少し震えていた。  唐突に突きつけられた未来に怯える少女の想いを、カイとて理解できないわけではない。もしリタがここに居なければ、シェリアと言う選択肢しか無かったのならば、カイも同じようになっていたはずだから――そもそも、リタを選ぶと決めている今とて、不安がないわけではない。 「リタ」と少女の名を呼ぼうとして、喉に詰まった。呼び止めたいと言う願望と、それは利己的に過ぎるのかもしれないと言う戸惑いが混じりあい、伸ばしかけた腕が宙に浮いた。 「時間が無いのは判ってる。あたしの我侭だって事も。でも、もう少しだけ、時間がほしい」  震える声が悲痛に訴える想いを、カイは素直に受け止めた。 「そんなの、我侭なんて言わないよ。もし我侭だって言うのなら、俺たちは聖騎士団――いや、神様が押し付けてくる我侭で悩んでいるようなものなんだから、多少我侭言ったっていいんだよ」 「いい事言うね」  背を向けたままのリタが、少し笑っている気配がして、カイは少しだけ嬉しくなった。 「じゃあ、遠慮なく。残りの時間を使わせてもらう」  部屋を出て行ったリタが、そう遠くに逃げるわけではなく、通路の途中で佇んでいる気配がした。追いかければすぐに追いついただろうが、カイはそれをしようとせず、再度窓の外に目を向けた。  魔物の数が減っている。間もなく戦いは終わるのだろう。  安堵しながら、カイはゆっくりと目を伏せた。 19  東の空が白みはじめた頃、カイはリタよりも僅かに遅れ、レイシェルを落ち着かせたルスターと共に、城内の一室へと足を運んだ。  治療施設として解放された広間には怪我人が溢れていて、噎せ返るような血の匂いにカイは一瞬立ち止まったが、臆する事なく歩みを進める。  薄汚れた空気の中で、細い体で駆け回る白い服の少女は目を惹いた。もちろん、リタだった。  残された気力と体力で、ひとりでも多くの者を救おうと奔走しているのだろう。命に別状がなさそうな怪我人を振り切る様子は辛そうだったが、重体患者を見つける度に腕を伸ばし、癒しの力を解放する様は、まさに女神のようだった。女神の恩恵にあやかれた幸運な――生死の境を彷徨うような傷を負った者が幸運と言えるかは判らないが――者たちはもちろん、あやかれなかった周囲の者たちも、一様に祈りを捧げている。  カイは視線を反らした。すると、重傷の者たちに、城内城下町から集まった医者や、手馴れた様子の年配者が治療に当たっている事が判り、自分がすべき事は限られているのだと知った。 「カイ様、本当に……」 「人手は多い方がいいでしょう? 手伝いますよ。トラベッタに居た頃は、親父や俺の治療、ほとんど俺がやってたんです。よっぽどの深手を負わない限りはですが。だから結構慣れてるんです」  カイが袖をまくりながら答えると、ルスターは複雑な顔をした。カイに神の子でなくてもできる労働をさせるのは気が引けるが、リタが駆けずり回っている手前、手伝うなと言い切る事もできない、と言ったところなのだろう。 「カイ様に治療をしていただくなどと、怪我人が恐縮してしまいそうですが」  諦め混じりにルスターが口にした言葉はそれだった。 「じゃあ、できる限りザールの兵士たちの治療を手伝います。聖騎士たちはともかく、彼らならば俺の顔あまり知らないでしょうから」 「そう、でしょうが」 「ルスター!」  諦めた顔をしたルスターは、呼び声に振り返った。隊長として、聖騎士たちに指示を出していたハリスだ。 「申し訳ありません、この場は失礼いたします。護衛隊の者たちが周囲を警戒しておりますから、万が一の事がおころうとも必ずやお守りいたしますが、けして無理はなされませんよう!」  最後にひとこと言い付けて、ルスターは駆け足でその場を後にした。ハリスと合流すると、何やら早口で相談を続けている。この場の事にしろ、今後の事にしろ、ランディとユベールを失い、ザールの主とならざるをえないルスターに、考える事も決めるべき事も多くあるだろうと納得しているカイは、ふたりに背を向けて自身の居場所を探した。  怪我人を城内に収用する事が主な仕事だった。何とか自力で歩ける者に肩を貸し、歩けない者は他の者と協力して運び込む。傷を洗ってやったり薬を塗ってやったり、包帯を巻いてやったりしながら、時には魔物狩り時代の知識を生かす事もあった。魔物の毒によって高熱に苦しむ青年に、魔物の毒を知らない者たちは何をすれば良いか戸惑うばかりで、カイが解毒に必要な薬草と調合方を教えてやると、涙と共に感謝された。  人ごみの中に再びリタの姿を見つけたのは、頭を怪我した青年を、念のため医者の元に運ぼうと肩を貸す中でだった。  元々白い肌は蒼白となり、けして暑くはないと言うのに、額に多くの汗が浮かんでいる。口元を拳で押さえつけているのは、疲労によって乱れた息を誰かに悟られないようにしているのだろうか。  彼女が望むならば距離を置こうと思っていたカイだが、さすがに放っておけなくなり、青年を医者に託すと、リタに近付いた。  肩に魔物の歯型をくっきりと残す青年に手をかざし、リタは力を解放する。柔らかな光が、溢れ出る青年の血を止めた頃、突如光は消え去った。  リタの体が揺れ、大きな瞳が光を失う。  カイは慌てて駆け寄り、倒れかけた少女の体を受け止めた。普通の男には髪の毛一本ですら凶器になりえる少女を、躊躇う事無く受け止められるのは、カイだけだった。 「すみません。もう、限界のようです」  意識を失ったリタの代わりに、カイは謝罪する。まだ声が出せる状態ではない横たわる青年に代わって、青年を見守る仲間たちが、強く首を振った。 「とんでもないです。こいつはもう、助からないと皆思っていました。ですがもう、大丈夫だと思います。女神様のおかげです」 「ありがとうございます!」  リタの代わりに微笑みを返したカイは、そっとリタの体を抱き上げた。細い体は、予想通りに軽かった。  この小さな体を限界まで酷使した少女を褒めてやるべきかと思いながらも、腹立たしいと思う心が優先されて、カイは苦笑を浮かべる。もし今リタが目を開けたら、逆にこちらが怒られるかもしれないとも一瞬考えたが、硬く伏せられた目にカイが映る事はなさそうだった。  広間を出る前に、一度だけジオールと目が合った。リタを自由にさせているように見えたが、目の届く場所、いや、手の届く場所に、必ず待機していたのだろう。彼は何か言いたげに唇を薄く開いたが、すぐにきつく引き締め、「よろしくお願いします」とばかりにカイに礼をした。  肯いて返したカイは、広間に比べれば幾分静かな通路を進んだ。ところどころに待機し、城外や周囲警戒している聖騎士たちが、カイを見つけると礼をしてくる。中にはリタの身を案じて声をかけてくる者も居たが、カイが「大丈夫。疲れているだけですから」と返すと、あからさまな安堵を表情に浮かべた。  辿り着いたリタの部屋の前には、護衛隊の騎士たちが詰めていた。いくら神の御子の部屋とは言え、警戒しすぎではないだろうかと首を傾げたカイは、そこは今現在、リタひとりの部屋ではない事を思い出した。彼らは主が居ない部屋を守っているわけではなく、主を守っているのだと。  扉を開けてもらうと、広い客間が見えた。カイたちと同様に、一睡もしないまま夜を明かしたはずのシェリアは、しかし寝台に横になる様子はなく、椅子に腰掛けている。扉が開いた事に気付き顔を上げたため、カイと目が合ったが、何を言うでもなく、ただカイの様子を見守っている。  カイは寝台に歩み寄り、リタの体をそこに横たわらせた。柔らかな布団に身を埋めた事が心地良かったのか、少女の表情が少し緩んだように見えた。 「君にリタの事を頼んでもいいかな? すぐに人を呼んでくるつもりだけど、今は皆急がしそうだし、城内は色々混乱してそうだから、すぐに来てもらえるか判らないから」  期待をせず、しかし失望もしないように心を保ちながら、カイはシェリアに語りかける。  シェリアは肯きも首を振る事もせず、無言で立ち上がると、寝台の方に近寄ってきた。 「戦いは終わったと聞きましたが、魔物がまだ残っていたのですか?」  シェリアは白い手を伸ばしてリタの服に触れたが、血の跡が広がるそこがすでに渇ききっている事を知ると、問い詰めるようにカイを見上げた。 「いいや。リタはひとつも怪我を負ってないよ。ちゃんと魔物との戦いは終わっている。戦いで傷付いた人たちを助けるために、癒しの力を使い切って倒れたんだ。俺は同じ力を持っていないからよく判らないけど、多分、疲れて眠っているだけだと思う」  カイはリタの頬に手を伸ばし、汗で張りついた髪を解放した。 「なぜ、そのような事を」  感情のない声は、リタに対して呆れているように聞こえた。  ザールに到着したばかりの頃、まだユベールの事を疑っても居なかった頃と、同じ会話を繰り返しそうになった。心のどこかでシェリアが正しいのかもしれないと思いながら、自分たちが正しいのだと主張しようとしていた。  けれど、昨日と今日とでは、状況が違う事を、カイは知っている。 「君は、君たちに刃を向けたハリスを、許したんだろう?」  カイは詳しく顛末を聞いたわけではないが、リタやジオールがハリスの処遇をシェリアに任せた事と、現在のハリスが遠征隊長として忙しく動き回っている事を知っている。その二点から導き出される答えは、シェリアがハリスの罪を許した、しかありえない。  正直なところを言えば、シェリアが導き出した結論は、カイにとって驚きだった。同情の余地があったとは言え、神の子を守るべきハリスが、神の子に剣を向けた事は紛れもない事実で、カイやリタならばともかく、シェリアがその事実を許すなどと、考えられなかったのだ。  シェリアとハリスの間には、侵し難い高く硬い壁があったとカイは思っている。そして、上手く説明できないが、「その壁は良くないものだ」と勝手に思っていた。  だが、違うのかもしれない。 「許しました」  シェリアに断言され、確証を得たカイは、笑みを浮かべながらシェリアに返した。 「君と同じなんだ、リタだって」  カイがリタに毛布をかけるだけの時間も空けず、シェリアは続けた。 「私がハリスを許したのは、私自身の過ちを正すためです。リタは、どのような過ちを正そうとしたのでしょう」 「君自身の、過ち?」  予想外の言葉が飛び出てきた事に驚いて、カイは訊ね返したが、シェリアは答える気が無いのか、唇を引き結んだままだった。 「そんなに複雑な事なのか? 君はただ、ハリスを助けたいと思っただけ」 「違います」  シェリアはカイの言葉を遮るように、はっきりと言い切った。  表情も、真っ直ぐに伸ばされた背筋も、見たところはいつものシェリアと変わりがない。しかし、カイが語り終える事も待てずに否定したシェリアは、明らかにいつものシェリアではなかった。 「わたくしは、過ちを正すためにそうしたのです。過ちを繰り返すわけがありません」  カイは息を飲んだ。 「シェリア、君は」  言いかけて、カイは息と共に言葉を飲み込んだ。わざわざ言葉にするのは無粋に思った事もあるが、何より、言葉にする事でシェリアに否定される事を恐れての事だった。 「俺は以前、ハリスに言われた事がある。俺が普通の子供としての幸福を得る代わりに、君は普通の子供としての幸福を失ったんだと」 「本当の事だとして、何だと言うのでしょう。わたくしはエイドルードの娘。只人としての幸福など、無意味で無価値なものです。わたくしの使命は、真なる神の後継者の母となる事です」  カイは小さく肯いた。 「知っている。だからこそ、君は神の子としての幸福を得なければならないって、ハリスはそう思っている。俺もそう思っていた。けれど、その幸福を与えられるのは、俺しか居ない事も知っていて、俺は、それができないだろうとも思っていて――」  偽善的だと自覚しながら、シェリアに対して抱いた罪悪感は、リタに対して抱く感情が強まると同時に大きくなっていく。息苦しく思いながら、けして逃れられない罪悪感にこの身を焼き続ける事を、覚悟しなければならないと思っていた。自分がシェリアを選べないのだと、カイはとうに判りきっていたのだから。  けれど、違うのかもしれない。  平然を装いながら取り乱したシェリアの言葉の中に、カイは希望を見つけた。カイが救われるため、ではない。シェリアが、神の娘としてではない、別の生き方を得られるかもしれないと言う希望だった。 「俺が、君を選ばなかったとしたら、君はどうする?」  シェリアはゆっくりと瞬きをしてから答えた。 「昨日、リタからも同じように問われましたが、その答えはまだわたくしの中にありません。考えた事もありませんでした。ついひと月前まで、考える必要のない事でしたから」  カイは微笑みながら、シェリアの頭を撫でるように手を伸ばしていた。常に毅然と神の娘でありつづける少女が、無垢で幼い子供のように見えたからだった。 「この先、考えなければならない時が来ても、きっと大丈夫だ。君ならきっと、判るよ。君は心が無いわけじゃない。神の子としての使命を大事にするあまり、心が縛られているだけなんだ。解放が許された時、きっと、君の心は動き出す」 「なぜ――」  質問を投げかけようとしながらも、続きの言葉を産みだせず、シェリアは無言でカイを見上げるだけだった。  見上げてくる空色の双眸は変わらず空ろであったが、カイは少しだけ嬉しかった。シェリアと出会ってから初めて、真正面から向き合えた気がしたからだ。  てのひらの中の黄金が、さらさらと滑り落ちてく感触が心地良かった。 20 「そう言えばさ、あんた、増援呼んでなかったっけ? まだ来ないの? まあ、今更来られても困るんだろうけどさ」  香りの良い茶をひとくち飲み込んでから、リタは上目遣いでジオールを見ながら言った。  リタの発言内容はカイの知る所ではなく、興味を抱いたカイは、リタと同様にジオールを見上げる。 「元より間に合わない事は判りきっておりましたから、本当に呼んではいないのでしょう」  答えたのはジオールではなくハリスだった。  意図的に自分を追い込んでいるのか、三日前の魔物との戦い以来多忙な日々を過ごしているハリスの声を、カイは久しぶりに聞いた。姿を見かける事は幾度かあったが、ハリスの方は語りかけてくる余裕がなかったし、カイの方は話しかけたいとも思わなかったからだ。  他人の護衛であるハリスの声を三日間聞いてないくらいならばまだいい方なのだろう。カイはこの三日間、自身の護衛隊長であるルスターの姿を見ていなかった。護衛は他の者たちがしてくれているし、魔物など神に反する者が出てきているわけでもなく、問題に思っているわけではないのだが、顔も出せないほど多忙を極めているのかと思うと、少し心配だった。ただでさえ精神的な打撃が強いはずである。その上、肉体的な疲労をあまり溜めてほしくない。 「ジオール殿は本当にお優しい先輩です。もしジオール殿が宣言した通りの行動を起こしておられれば、私は充分な戦力を率いて遠征しながら、その日の内に大神殿に泣きつくと言う、情けない隊長になっていた事でしょうから」 「あんたが言ってたんじゃなかったっけ? ジオールはとっくに自分の名前で使者を出してる、とか。結局、ジオールは何にもしてなかったわけ?」  答えたのはハリスでなくジオールだった。 「ハリスは優しい後輩ですから、判っていながら、私を上官の指示が無くとも適切に動く男にしてくれたのです」  リタは冷たい視線をふたりの間で泳がせた後、茶を飲み干し、深い息を吐く。心底呆れているようだ。 「いい歳の男が嫌味合戦ってどうかと思うんだけど」 「しかし、突然殴り合いを申し出る方が年甲斐のない行動かと思われます」 「それもそうだけど……」  納得しきれない様子で呟くリタをちらりと横目で見た後、ハリスは歪んだ笑みでジオールを睨んだ。 「今の嫌味が一番きついですね、ジオール殿」  何食わぬ顔をして茶に口を付けるジオールにそう言い捨てて、ハリスは咳払いをした。どうやら、話を強引に変えるつもりのようだ。三日間カイたちの前にまともに姿を現さなかった男が、雑談のためだけに現れたとははじめから思っていなかったので、ようやく本題に入ってくれたのかと安堵したカイは、ハリスの声に耳を傾けた。 「戦闘の終了から三日経過いたしましたが、今のところ魔物の来襲はありません。城内に入り込んだ魔物の始末も完了しておりますから、ザールから救援依頼を受けた件に関しては完了した言って差し支えないでしょう。つまり、我ら聖騎士団がザールに滞在し続ける理由はございません」 「じゃあ、帰るのか?」  カイの問いかけに、ハリスは静かに肯いた。 「明後日の朝に出立を予定しておりますが、全てではありません。ザールの兵士たちは、死者こそ少なかったとは言え、負傷者はかなりの数に上っております。近くに魔物の襲撃が無いとは断言できず、残りの手勢では不安が残るとの事で、ザール側から残留の要請がありました。そこでとりあえず、半数がザールに残る事となりました。シェリア様、リタ様、カイ様は、半数の聖騎士と共に、大神殿へ帰還していただきます。こちらの隊には、ジオール殿と私も同行いたします」 「あんた、帰っちゃって良いの? 遠征隊の隊長でしょ?」 「私の役割はザールに滞在し警戒に当たる事ではなく、ザールを襲う魔物を討伐する事です。すでに完了しておりますから、報告に戻る事が最重要で――」 「ルスターさんは?」  答えが判りきっている問いを投げかける事に躊躇っていたカイだが、当たり前のようにルスターの名が抜けている事はやはり気になってしまい、会話を遮るように声を上げた。  目を伏せたハリスは、再び目を開くと同時に、カイに向き直った。 「本人は退団の意志を示しておりました」  本人に言われた時よりも寂しく感じたのは、ルスターではない人物の口から発せられる事で、客観性が増したためだろうか。  カイは静かに肯く事で受け入れた。ルスターが他の選択肢を選ぶとは考えにくく、他の選択肢を選ぶルスターを許せるわけもなかったので、受け入れるしかなかった。 「遠征先で『辞めます』と言って終わらせる事は不可能……とは言いませんが、あまりに礼儀を欠いた行為ですし、何より彼は、聖騎士としての現在の役割を忘れてはおりません。故にどうやら、私たちと共に大神殿に戻るつもりでいるようです。しかし今この時、数日とは言え、ルスターがザールを離れる事は、得策ではないと私は考えております」  リタが、ジオールが次々に肯き、少し遅れてカイも肯いた。シェリアだけが、自分には無関係だとばかりに、半分ほど残っている茶の器に視線を落とすのみだった。 「もう少し落ち着いてから大神殿に戻ればいいとか、とりあえずザールに残れとか、ちゃんとルスターさんに言ってあげたのか?」 「もちろんです。ですが、『聖騎士である私はカイ様の護衛隊長です。その役目を放棄してザールに残留するわけには参りません』と返されました。彼の家庭の事情を鑑みなければ、当然の発言です」 「今俺たちは、ルスターさんの家庭の事情を鑑みた上で、残るべきだって話をしてるんじゃないのか」 「おっしゃる通りなのですが」 「まったく。ザールの前領主はただ死んだんじゃない。魔物と化した家族に殺されたんだ。城の中に魔物やその手先が何人も入り込んでいたんだ。その事実に、ザールの民がどれだけ困惑してるか。揺らぎかけたザールを立て直す事と、俺と、どっちが大事な事なのか、ちょっと考えれば判るだろうに、どうして……」  半ば苛立ちながらカイがこぼすと、ほぼ同時に四方向から反論が返ってきた。 「考える必要もありません。カイ様です」 「カイ様でしょう」 「その比較しちゃうと、カイの方が重要になるんじゃないかな、聖騎士の目からみれば」 「大陸を放棄するかザールを放棄するかの二択になります。ならば、ザールを放棄するしかありません」  シェリアや聖騎士たちならばともかく、リタまでもがカイと反対の結論を導き出した事に、カイは言葉を失った。 「言い方が悪かった。俺の身を守るのは誰でもできるけど、ザールを立て直す事はルスターさんにしかできない、ならいいのか?」 「まあ、いいんじゃない?」 「『誰でも』の部分に疑問を抱きますが、代わりの者が居ると言う意味でしたら、問題ないかと」  ようやく同意を得ると、カイは満足して肯いた。 「聖騎士としての役割とやらが気になるなら、聖騎士としてザールに残る理由をルスターさんにあげればいい。残留する隊の方に押し込んでおくとかさ」 「それは私からも提案したのですが、本人が受け入れませんでした。遠征隊における上官は私でしたが、護衛隊長である彼の上官ではありませんから、最優先すべき役目を放棄するよう命令する事もできず」  カイは目の前の円卓を叩くように手を置き、立ち上がった。その場に居る全員の視線を集める事となったが気にする事無く、背中を向けて出口へと向かう。  はじめからカイが動く事を期待していたのか、カイの心情を慮ってくれたのか。誰からも制止する声がかからず、カイは通路へ飛び出した。  やや乱暴な足取りで通路を突き進み、階段を乗り越えて、ルスターが勤める部屋に辿り着く。適当に扉を叩いてから開けると、すぐ正面の机に、小難しそうな書類を片手に文官らしき男と言葉を交わすルスターを見つけた。 「カイ様」  顔に浮かぶ疲労の色は濃く、この三日間、睡眠時間どころか休憩時間すら取れていないのではないかと疑うほどだった。せっかくの端整な顔が台無しだと、余計な事を気にしながら、カイは静かにため息を吐く。  ちょうど話を終えた所だったのか、それともカイに気を使ったのか、文官と思わしき青年は退室し、部屋の中にカイとルスターだけが残される。ルスターに歩み寄ったカイは、慌てて立ち上がろうとするルスターを椅子に押さえつけ、再びため息を吐いた。 「この所、顔も出さずに申し訳ございません。出立前に片付けるべき事は片付けておかねばと思いまして」 「何で出立するんです? ルスターさんは、ザールを継ぐんでしょう?」 「ですが、今の私はまだ聖騎士です」  目の前のルスターは、ハリスの口から語られたルスターと同じ反応をした。理由と言う名の言い訳を長々と語る事をせず、短い言葉で返してくるのは、余計な言葉を紡げないほど疲れているせいなのだろう。 「ルスターさんは、ザールがどうでもいいんですか?」 「とんでもありません。心より愛する故郷です」 「じゃあ、とりあえずハリスの言葉に甘えて、残ればいいんです。大神殿に帰ってきて、聖騎士辞める事なんて、いつでもできるんですから」  自分の言葉が説得として成立しているのか疑いつつも、カイがきっぱりと言い切ると、ルスターは目を細めて笑った。一瞬、彼が顔中に浮かべていた疲労が消えたような気がして、カイは目を擦って確かめる。  窓から差し込む柔らかな光が、蜂蜜色の髪を優しく輝かせた。 「カイ様、私は、幼い頃から聖騎士に憧れていたのです」 「……はあ」  なぜ、今、彼の子供の頃の夢を聞かなければならないのか疑問を抱きつつ、カイは生返事をした。 「叶わない夢かもしれないと恐怖しながら、入団試験を受けました。一度は落ちました。二度目で諦めようと考えました。同時刻に試験を受けた者の中に、私よりいくつか年上の、優れた剣技の持ち主がおりまして、『ああ、こう言う人が聖騎士になるのだな、自分には無理なのだろうな』と思ったのです」 「はあ」 「受かったと知った時、夢のようだと感激いたしました。自分はなんと幸せなのだろうと――この二十年近く、全てが良い事であったとは言いませんが、辛く苦しかった事も含め、聖騎士を続けられた事は、私にとって夢のような幸福だったのです。最後に、カイ様にお仕えできた事が」  ルスターは優雅に礼をした。微かに揺れる蜂蜜色が、寂しい色合いながら美しく輝き、カイは両目の奥に痺れるような痛みを覚えた。 「カイ様やハリス殿のお気持ち、心より嬉しく思います。ですが、早く区切りをつけなければ、故郷のために尽くそうと思う心が、幸せな夢の前に揺らいでしまう気がするのです」  痛みを堪えようと、カイは両の拳を握り締めた。 「どうせ辞めるなら、さっさと辞めたいって事ですか」 「身勝手である事は承知しております」 「じゃあ、俺にも勝手な事言わせてくださいよ」  ルスターは顔を上げ、カイを見上げた。 「やっぱり、今回はザールに残ってください。残留する隊の一員としてでも、親族の葬儀のための休暇でも、理由は何でもいいです。とりあえずザールの復旧に力を尽くしてください。それで、来月の十日くらいにまでに、誰かに留守を預けられる状態に立て直して、大神殿に戻ってきてください。辞めるのは、来月の十七日付です」 「十七日……」 「選定の儀とやらの翌日です。せめてその日くらいは、俺の事見守ってくださいよ」  言い切ると、ルスターはいっそう目を細めて微笑んだ。  あまりに優しいその笑みは泣いているようにも見え、カイは不安になり、子供のような我侭を並べてしまった事を少しだけ後悔した。少しだけだ。基本的には、後悔などしていない。結果がどうなろうとも、言いたい事を言ってやりたいと望んで、そうしたのだから。 「了解いたしました。カイ様が望まれる通りに」  ルスターは深く深呼吸をしてから答えた。 「……やっぱり、俺だけの我侭ですか」  笑顔で受け止めるルスターを前にし、まるで自分が子供のようで――ルスターに比べれば、明らかに子供なのだが――気恥ずかしくなったカイは、すねるような口調で呟く。  ルスターは静かに首を振った。 「カイ様は本当にお優しい方です」 「別に俺は優しくないですし、優しくしようとして言ってるわけでもないですよ」  むきになって反論すると、ルスターは笑顔のまま肯く。 「では、そう言う事にいたしましょう。ハリス殿は、今どちらにいらっしゃいますか?」  カイがごまかそうとする前に、ルスターが話を変えてくれた。以前と比べて明らかに力の無い足で立ち上がりながら、カイに訊ねてくる。 「多分リタたちの部屋に居ると思いますけど」 「そうですか」 「ザールに残る事なら、俺が伝えておきますよ?」 「ですが、報告と共に謝礼の言葉を伝えたいのです。そちらの伝言をお願いする訳にはいきませんよね?」  自分自身の言葉ではないからと言って、ハリスに対して「ありがとう」などと言う自分を想像するだけで気分が悪く、カイが口を噤むと、ルスターは小さく吹き出す。 「行きましょうか」と言いながら、ルスターはカイの背中を押した。背中から伝わる温もりは、悲しいほどに温かかった。 六章 選定の夜 1  南方の都市ダゴルで織られ染められた生地は王都では滅多に手に入らないものであるとか、王族御用達である超一流の職人たちの手によって仕立てられたものであるなどと、カイにとってはどうでもいい事だった。いや、どうでもいいどころではない。袖口や裾に銀色の絹糸でつつましやかに品良く縫い取られた刺繍ひとつで、路頭に迷う子供を何人救えるかを考えると、もったいないとしか思えなかった。  信仰の対象となるべき神の子が、ただの人と同程度の服を着ていては、民の夢や希望を奪う事になりかねないとの言い分は理解できる。内から輝くものがある聖人ならば、着飾るどころか貧しい格好をしていても良いかもしれないが、自分がそれほどの人間ではない事も、理解している。だから、人前に出るための服であるならば、多少豪奢なものを着せられても、納得する事はできた。しかし、カイが今身に着けている、完成前の最後の調整に入っている衣装は、民に見せびらかすためのものではない。六日後に迫った選定の儀のためのものだった。塔の中で全てが終わる儀式で着る衣装など、リタかシェリアのどちらかと、せいぜいが数名の関係者しか見ないはずだ。  本当に無駄だな、と心の中で憤慨しながら、カイは鏡に映る自分の姿を見つめた。  さすが一流の職人軍団と言うべきだろうか。カイの顔立ちや髪・瞳・肌の色、体格を考慮した上で、一番似合う服を仕立て、上手く貴公子に見せている。今日の試着は最後の調整との名目だが、寸分の狂いもなくカイの体に合っていて、直すべきところなどひとつも見つからなかった。  職人たちの腕はさすがだと感心しながら、カイは重い息を吐いた。吐き出す息が重苦しいのは、無駄遣いに呆れているせいだけではなかった。  カイは鏡の中から窓の外へと目を向ける。雲が流れる空の色に、少女の大きな瞳を思い出すと、カイは再び長い息を吐き捨てた。  運命の日はあと六日まで迫っている。だと言うのに、リタはまだ決断をしていないようだった。生殺し状態は息苦しく、ここ数日はろくに眠れていない。  運命にしろカイ個人にしろ、嫌なら嫌だと、はっきり言ってほしかった。  嫌ではないからこそ、リタは悩んでいるのだろう。知っていながら答えを望む事は酷だと判っているカイだったが、この状態のまま当日を迎えるよりはよっぽどましだとも思っている。決断を下せないままの彼女に未来を強制する事を、できるかぎりはしたくないのだ。 「首元など、窮屈なところはございませんか?」  しきりに息を吐くカイの様子に不安を募らせたのか、背後に回って着丈を確認していた職人が、突然質問を投げかけてきた。 「全てがちょうどいいです。完璧ですよ」 「ありがとうございます。では――」  職人の言葉を遮るように扉が叩かれ、カイは振り返る。「誰ですか」と訊ねる前に、扉の向こうからかけられた声は、答えを示していた。 「カイ様、失礼してもよろしいでしょうか」 「ルスターさん!」  ザールの地で別れてからひと月ほどしか過ぎていないが、温かみのある声はひどく懐かしかった。即座に「どうぞ」と答えると、ゆっくりと扉が開く。  忙しかったのか疲れているのか、ルスターは最後に会った時よりも更にやつれているように見えたが、柔らかな微笑みに変わりはなく、カイは安堵した。  カイを捕らえたルスターの目は、一瞬だけ見開かれると、直後に細まり、カイの頭から足先へと視線を動かしていく。 「あ、今、衣装合わせ中なんです。選定の儀の。こんな立派なもの、自分でもがらじゃないって判ってるんですけどね。男だし、元がこんなものですから、リタやシェリアほど飾りがいもないでしょうし」 「とんでもない。良くお似合いですよ」  自分よりもよっぽど似合いそうな人物に言われても虚しいだけだと思いながら、これ以上服に関して押し問答をする気がなかったカイは、本来なら最初に告げるべき言葉を口にした。 「おかえりなさい、ルスターさん」  するとルスターは慌ててカイの足元に跪き頭を下げた。 「長らくおそばを離れており、申し訳ありません。ただいま帰還いたしました」  カイは軽く揺れる蜂蜜色に微笑みかける。 「ザールの方は、どうです?」 「領民は未だ悲しみに暮れておりますが、だいぶ落ちついてきているようです。先日魔物が出現しましたが、以前と同じように単独行動のものでしたから、ザールの兵士たちで排除できる程度でした」 「そうですか。それは良かった」  カイは身にまとう豪奢な衣装を傷付けないよう丁寧に脱ぐと、職人の手に渡した。席を外してくれとの意味を込めての事で、あらゆる意味で洗練された職人はカイの意図を取り違える事無く、静かに部屋を出て行った。  ようやく緊張から解放された。カイは強張った体をほぐすように体を動かし、椅子に腰を下ろす。なぜ服を着るだけで緊張しなければならないのかと一瞬考えたが、虚しいだけなので考えるのをやめた。 「少しずつここでの生活に慣れきているようで、驚く回数は減っているんですけどね。やはり、無意味に高級なものは、どうにも。ルスターさんもやっぱり、領主になったらああ言う服着るんですか?」  ルスターは即座に首を振った。 「とんでもありません。着飾って見栄を張る事も領主の勤めとは思いますが、財政を傾けるほどの贅沢をしては本末転倒です。ザールはけして裕福ではありませんので」  一地方の財政を揺らがせるほど高価な服を着せられていた事を知ったカイは、自然と声を震わせていた。 「そ、そうですか」 「はい」  力強く肯くルスターに、居心地の悪さを感じたカイは、わざとらしく咳払いをする事で空気をごまかす。  カイの態度の意味を正しく理解したルスターは、小さく微笑んだ後、話の方向を変えた。 「カイ様。あらためまして申し上げます。先日はありがとうございました」 「何の事です?」  無意識に床まで下がっていた視線を引き上げ、カイはルスターに問いかけた。 「私に猶予を与えてくださった事です。このひと月、ザールで日々を忙しなく過ごす中、多くの事に思考を巡らせる事ができました。そして、カイ様より賜った『時』がどれほどありがたいものであったか、知る事ができたのです」  窓の外から吹き込む風が蜂蜜色の髪を揺らし整な顔を覆い隠す。風が止み、髪が元の位置に収まると、カイを真っ直ぐに見つめるルスターの瞳は、柔らかいものから真剣な眼差しへと変化していた。 「ひと月前の私は、ザールのためとは言え、カイ様をお守りする役目を志半ばで放棄する事を、心のどこかで悔いていたと思います。あのまま聖騎士を辞めていれば、悔いを抱いたまま生きていく事になっていたでしょう。ですが聖騎士のまま、ザールでひと月を過ごす内に、悔やむ必要は無いのだと理解しました」  ルスターの言葉は思いの外重く、カイは僅かに身を乗り出し、「俺は大した事をしていない」「はじめから悔いる必要は無かったのだ」など、否定の言葉を紡ごうとした。だがルスターの視線には不思議な強制力があり、カイはひと言も発する事ができないまま、ルスターの次の言葉を待つ事となった。 「生きるも死ぬも、私のこの先の運命は、全てザールと共にあるのでしょう。限られた力で、ザールを守って生きていく事でしょう。そしてザールは魔獣の脅威から王都を守り、大神殿を守るでしょう」 「うん」 「私はこれからも、カイ様をお守りします。おそばにある事は叶わなくとも」  返すべき言葉は見つからなかった。心や思考の奥まで探しに行けば見つかったのかもしれないが、そうしてしまえば恥ずかしい事を言ってしまいそうで、照れ隠しに笑ったカイは、無言で肯いた。  感謝の言葉は気恥ずかしいものだった。だが、けしてそれだけではない。優しく、温かく、カイを導いてくれるもので、カイは返事とは違った言葉を引きずり出し、ルスターに告げた。 「俺も、それでいいんでしょうか」  ルスターは無言で待ってくれた。 「神の子として大陸を守れと言われても、やっぱりまだ受け入れ切れないんです。でも、ここから、故郷や、大切な人を、守るって言うなら、俺は、俺に与えられた、まだよく判らない力で――」  父とも神とも慕った相手はすでに失われた。だが、まだ大切なものも、人も、この大陸には残っている。  そしてこれからも出会う事だろう。守りたいと願うものに、人に。全てを諦めて故郷を発っても、リタやルスターに出会えたのだから。  そのために生きればいいのだろうか。たとえ、望む場所に居られなくても。 「カイ様の温かなお心を支える存在が、この先も増え続ける事を、ザールの地より祈っております」  ルスターの手が、僅かに震えるカイの手に重ねられる。  力強いルスターの肯定は、他の何よりも優しい言葉となってカイに降りそそいだ。 2  生き急いでいると言われた事が幾度かある。言わない者の半数くらいは、言わないだけで思っているのだろうと思った事もある。  リタは彼らの考えを否定した事は無かった。確かに、そうだと思う。何もせずに時間を過ごす事は、苦痛でしかなかった。睡眠や休息は重要だと思うのでしっかり取るようにしていたが、それ以外はどんな簡単な事でもいいから体か頭を動かして、可能な限り無駄な時間を作りたくなかった。  だが今の生活は、リタに無為な時間を強いる。見た事も無い本が大量にあり、リタが望めばリタの知らない知識を持つ多くの者が快く教師になってくれ、学び舎としての環境はけして悪くないのだが、どちらかと言えば体を動かす事が好きなリタにとって、勉強だけの日々が五日も続くと飽きてしまった。知識を得る以外にも、考えなければならない重要な事もあったが、いつも上手く結論に導く前に思考を閉じてしまっていた。  読みかけの本を閉じ、リタは窓に近寄った。  神殿で与えられたものの全てが良質のものだったが、ほとんどはリタの趣味に合わなかった。しかし、窓から見える景色だけは別だ。人の手によって作られた美も悪くない、と思えるようになるほどに。  昼の強い日差しの下で、多くの人々が行き交っていた。けして少なくない数であると言うのに、見える限りは知らない顔だ。さすが王都、と言ったところか。  リタは少しだけ身を乗り出し、塔の真下近くを見下ろした。  大神殿の広い敷地内のほぼ端にある塔の周辺は、限られた者しか近付かないため、外から人が出す音が届く事はまずない。だが、今日は下の方から何かが打ち合う聞こえたのだ。  見下ろす先にはふたつの人影があった。カイとルスターだ。互いに模造剣を構え、向かい合っている。やがてカイが気合を込めた声を放ち、ルスターに向けて剣を振り下ろした。  なかなか鋭い一撃だったが、ルスターは涼しい顔で受け流した。二撃目、三撃目を続けざまに繰り出しても同じ事だった。  カイの力強い攻撃とルスターの無駄のない回避が繰り返される様は、見物していてなかなか楽しいものだった。カイの動きは生まれ持ったものに頼るところが大きいため、リタにはけして真似ができない分、見ていて壮快であったし、逆にルスターの軽い身のこなしは参考になる。ああして相手を翻弄すれば良いのか。 「――降参!」  結局一度もルスターの身に当てられないまま、カイは動きを止めた。大きく肩を上下させ、呼吸を整える。ルスターも構えを解き、静かに上下する胸を押さえた。 「何なんですか聖騎士団ってのは! 化け物の集まりですか!?」 「そんな事はありません。ハリス殿やジオール殿は、確かに化け物ですが」 「……ルスターさんって、意外と迂闊な事言いますよね」 「申し訳ありません。迂闊な所は昔からなのです。これでも少しは良くなった方なのですが」  ルスターは照れ臭そうに笑いながら首を掻いた。 「それはさておき、カイ様は充分お強いですよ。カイ様と同じ年頃の聖騎士を全て集めても、カイ様より強い者が居るかどうか。少なくとも、十六歳の頃の私では太刀打ちできません」 「あまり嬉しくない気もするけれど、一応喜んでおきます」  カイは剣を手放すと、その場に座り込んだ。  くたびれた体が丈の短い草に埋もれていく気持ちよさを、リタは知っていた。自然と表情が綻び、口元に笑みを浮かべた頃、地面に手を着いたカイが空を仰いだ。  互いの視線が交錯したのはその時だった。  突然の事に、ふたりは咄嗟に反応ができなかった。リタは目を反らすでもなく、下から見えないよう部屋の中に隠れるでもなく、硬直したままでいると、先に正気に戻ったカイが、傍らに倒れていた剣を掴み、リタに向けて振り上げた。 「リタも一緒にどうだ? 勉強ばっかりじゃ退屈だろう?」  悔しい事に、カイの言う通りだった。多くを学べる事は貴重な経験だとは思うが、やはり体を動かしたいのである。  大神殿に来てからこちら、一度として剣を振るう機会が無かった。カイが来るまでは毎日聖騎士たちと追いかけっこをしていたし、毎日何度も塔を上り下りしているためにさほど体力は落ちていないと思うが、剣の腕は鈍ってしまっているかもしれない。 「カイ様。私はカイ様が『勉強ばかりでは気が滅入る』とおっしゃったのでお相手をしたのですよ。気分転換と言える時間は、とうに過ぎておりますが」  優しく叱りつける口調でルスターは言った。 「俺に気分転換が必要なんだから、リタにだって必要だろ? ジオールさんはルスターさんより明らかに考え方が硬そうだから、リタの相手なんてしてくれなさそうだし、そもそも化け物なんて相手にしたら気分転換どころじゃすまないじゃないか」 「ジオール殿の剣の腕が化け物並であるのは私も認めましたが、それ以外はきちんとした、理知的な方ですよ……」  ルスターは剣を持たない左手で顔を覆ったまま動かなかった。何も言わないと言う事は、諦めたのだろうか。  ふたりのやりとりを微笑ましく見守っていたリタは、返事を待つカイの眼差しに応えるため、可能な限り身を乗り出して叫んだ。 「ちょっと待ってて!」  リタは部屋に戻り、扉を開けようとしたが、立ち止まった。  階段を下って通路を通り外に出て、ぐるりと回って塔の下まで行くのは、少し時間がかかる。それよりも早い方法がある事を思い出したからだった。  再び窓に近付き、そばにある寝台の下を探る。最後の脱走の時に使った、部屋の中にあったあらゆる布を結びつけて作ったロープが、寝台の脚にしっかりと結び付けられたまま片付けられる事なく放置されていた。リタはロープを窓の外に放り出すと、続いて自らも飛び出し、軽快な動きで塔を下っていった。 「リタ!?」 「リタ様!」  男ふたりが慌てる気配を感じるが、気にしない。あっと言う間に地面に辿り着いたリタは、ロープを手放し、服に付いた埃を掃うと、男たちに満面の笑みを見せた。 「お待たせ」  悪びれもなくリタが言うと、ふたりは対象的な態度を見せた。カイは大口を開けて笑い、ルスターは頭を抱えてしゃがみこんだのだ。 「いくらでもお待ちいたしますから、このように危険な事はお止めください」 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。前にも一回使って、平気だったから。帰りはちゃんと階段昇るし」 「当然です!」  ルスターは語気を強めて言い切ると、わざとらしくため息を吐いてリタの横を通り抜け、ロープを手に取った。地面についているものや地面近くにあるいくつかの結び目を見て、あるいは手で触れて、安全性を確かめている。 「完璧でしょ? 簡単にはほどけないようにしてるよ。あたしだってあんな高いところから落ちて無事でいられるとは思っていないし」  リタが胸を張って説明すると、カイの笑い声はますます増し、ルスターの顔色はますます悪くなった。 「こんなものを……隠していらしたのですか」 「特には隠してないけど? 隠していたとしても、女官たちはともかく、ジオールなら気付くでしょ。ただ、あたしが約束通り脱走しないって信じてくれているんじゃないのかな。単純に解くのが面倒なだけかもしれないけどね」 「脱走でなくとも、今後一切使わないようお願いします」 「階段で下りるより楽なんだけど」 「……私からジオール殿に、処分していただくよう伝えておきます」  ルスターは長い指で彼自身の眉間に触れた。そこに自然と刻まれていく皺を、優しく揉み解すために。  しばらくすると多少は気分が落ち着いたのか、ルスターはリタに振り返ると、手にしていた剣を差し出した。 「どうぞ。お使いください」 「いいの?」 「お止めしたところで無意味でしょう」  さすがに良く判っている。「ありがとう」とリタが笑顔で返すと、諦めが混じった笑みを浮かべたルスターは、カイに向き直った。 「申し訳ございませんが、私はここで失礼させていただきます。おふたりとも、くれぐれもお怪我なさらないようお気を付けください。それからカイ様ご、休憩はほどほどに、夕食のお時間までに予習を終わらせておいたほうがよろしいですよと、ご忠告差し上げます」  カイが苦い笑みを返すのを見届けてから、ルスターは去っていく。リタは木剣を右手でくるくると回しながら、角を曲がって見えなくなるまでその背を見送った。 「夕食後にも勉強があるの?」 「今日だけだけどな。神聖語。いつもは昼食後なのに、今日はその時間別の用件があったから。夕方は向こうの都合が悪いって言うし」 「あの人厳しいもんね。確かに、予習しておいた方がいいかも。神聖語って元々難しいし」  カイより数日早く神聖語を学びはじめたリタだが、一切理解に至っていなかった。字のつづりがいちいち難しく、文法は大きく違い、何より発音が難解だ。幼い頃から慣れ親しんでいるとは言え、当たり前に使いこなすシェリアたちが、リタには得体の知れない生き物にしか見えなかった。  加えて、神聖語を担当する教育係の女性が、厳しい上に嫌味たらしいのである。神の娘として理想的な物腰と容姿を持つシェリアに教育を施したと言う自負があるのは仕方がないと思うが、つい最近神殿に着たばかりのリタたちに同じものを求めないで欲しい。 「今日は、俺の事避けないんだな」  リタは笑みを引きつらせた。 「だ、だって、楽しそうで羨ましかったから、うっかり下りて来ちゃったよ……」 「なんだよそれ」と言いながら、カイは小さく笑った。声量は大きくなかったが、ふたりしかいない空間に響き渡るには、充分な笑い声だった。  カイの態度は自然で、朗らかで、ザールでのやりとりを気にしている様子は少しも見られない。煮え切らない態度を取って申し訳ない事をしたとか、気持ちに整理を付けずに曖昧な態度を取ってはいけないとか、悩みすぎていたのだろうか?  悔しくなったリタは、尖らせた唇を隠すように、剣を振り上げた。 「いきなり危ないな」 「油断する方が悪い。あたしの気分転換に付き合うって言い出したのは、そっちなんだから。たとえ自分が勉強から逃げるための言い訳だったとしても、言った事に責任はとってよね」 「はいはい」  カイが構えると、どちらからともなく剣を重ねた。やはり体は幾分鈍っていて、いつもよりも早く息が切れはじめたが、辛い以上に楽しくて、なかなか動きを止められなかった。傍から見れば、子供同士がじゃれあう様子と何ら変わりが無かっただろう。  剣がぶつかり合うたび、過ぎ去った日数はさほど多くはないと言うのに、遥か遠くに感じる日々を思い出す。自身に課せられた運命など知らず、偶然同じ仕事を請けた魔物狩りとして出会い、過ごした時間を。  少し怖くて、とても嬉しかった。気恥ずかしいけれど、隣に居て楽しかった。比較すると若干温かいカイの手が、リタの冷たい手と溶け合い、やがて近い温度になっていく瞬間が、息苦しいほど幸せだった。  あの時のままならば。何も知らずに、再会する事ができていたら。  さほど戸惑う事も悩む事も無く、カイを選ぶ事ができたはずなのに。 「リタ?」  頭上から振り下ろしたリタの剣を受け止めたカイが、不思議そうにリタの名を呼ぶ。疑問を抱かれる表情や態度をとったつもりが無かったリタは戸惑い、咄嗟にカイから顔を背けた。  見られたら、気付かれてはならない事に気付かれてしまうかもしれない。 「久々だからちょっと疲れた。でも、楽しかったよ。ありがとう」  逃げるため、壁を作るためにやんわりと終わりと告げると、カイは僅かな間の後に肯いた。 「そうだな。俺もそろそろ予習しないと」 「この剣、ルスターさんに返せばいいの?」 「持っていても平気だと思う。また気が向いたらやろう」 「うん。じゃあね」  楽しい時間であったのに、逃げたくてたまらない衝動に耐えかねて、リタは踵を返し小走りで走り出した。 「リタ!」  呼び止められ、思わず足を止める。再び駆け出さずにすんだのは、カイがリタを呼び止めるだけで、近付いてくる気配が無いからだった。 「やっぱり、このままじゃ嫌だから、言うだけ言っておく。リタも、聞くだけ聞いて欲しい」  背中を向けたまま、リタは小さく肯いた。 「俺は、リタがいいんだ」  簡潔に纏められた想いに、リタの胸は大きく跳ねた。  振り返らなくて良かった。瞬時に赤く染まった顔を、見られずにすんだのだから。 「俺はここに来て、頭悪いなりに色々考えた。俺が本当にしたい事って何なんだろうって。考えたら、ほとんど何もなかった事に気付いて、空しくなったんだけど……はじめは、こんな運命に従いたくないんだって思ってた。でも、俺は別に、神の子としての運命が嫌なわけじゃなかったんだ。だって形は変わっても、トラベッタを守っている自分は変わらない。そのついでに世界が守れるのも悪い気分じゃない。俺はただ、ジークが死んだ悲しみとか、強制される事への反発とか、単純にハリスに腹が立つとか、そう言う感情と混ざってしまって、自分でも判らなくなっていただけなんだと思う」  カイは大きく咳払いし、掠れかけた声を整える。 「きっと本当に嫌だったのは、運命の相手がシェリアだって、それだけだったんだ。だから――だからリタ、俺はもう、いいんだ」  大きく息を吸う音が聞こえた。 「リタだから、いいんだ」  これほどまでに甘い息苦しさを、リタは知らない。  触れる頬が更なる熱を持つ様子から、赤みが増していくのを感じながら、リタは懸命に息を吐いた。  一度目を伏せると、再び開ける勇気が出てこなかった。幸福の全ては夢でしかなく、自分は今もまだ、大陸の東の地でひとりぼっちで生きているのではないだろうかと思ってしまう。そして、途方もない不安に陥るのだ。 「でも、あたしを選んだ事を後悔する日が、いつか来るかもしれないんだよ?」 「その時はその時だ」  震えながら出した声に、返事が来た時は、泣きたいほどに安堵した。 「何それ。悲観的に見えるくらいに用心深かったあんたは、どこに行ったの」 「悪い方に考えてみたって、俺が選ぶのはやっぱりリタだよ。今すぐ確実に後悔するのと、いつか後悔するかもしれないのとじゃ、誰だって後者を選ぶだろ?」  力強く言い切られた言葉に惹かれ、リタは振り返る。  実に単純な考え方、単純な言葉は、リタの内側でくすぶっていたものを掃い飛ばす力を有していた。迷っていた事が馬鹿馬鹿しく、迷っていた時間は全て無駄だったのだと、笑い飛ばされた気分になった。  そうか。それでいいのか。  それで、よかったのか。  緊張のためか、少し表情が固いカイを見つめたリタは、全ての勇気を振り絞り、精一杯の笑顔を浮かべる。 「いいよ、あたしも。カイなら、いいよ――」 3  欲する知識を得る事は、たとえ生きるために不必要なものであっても、けして無駄にはならないだろうとハリスは思う。  だが、ハリスが仕える少女は、学ぶ事を望んでいるわけではなかった。カイやリタならば存分に満喫できる自由や休憩の時間を、その性格上持て余してしまい、何を考えるでもなく、窓から見える景観を美しいと思う事もなく見下ろす日々を常とする中で、ハリスがたまたま手にしていた本を目に止めただけである。  ハリスが読んでいた本は、有名な兵法書の一冊で、シェリアには縁のないものであった。相手が人間であるならば、たとえ大陸全土を巻き込む戦争が起ころうとも、最後のひとりになるその時まで、シェリアが戦に参加する事はありえないのだから。  ハリスにとっても、若干の興味と暇つぶしでしかなく、さして縁がある内容ではない。聖騎士団の性質上、戦う相手は人よりも魔物の方が多い上、シェリアの護衛隊長と言う役職がら、ザール以外の魔物が出現する地方に遠征する事がほとんどないからだ。今年はトラベッタへ足を運んだが、次の機会はほとんどないだろう。 「これを、教えてください」  古くくすんだ表紙を指差しながら、シェリアが冷たい声で言ったので、ハリスは「判りました」と笑顔で答えた。少女が自ら何かを望んだ事が、純粋に嬉しかったからだ。  夕食の前の僅かな時間、椅子を並べる日々がはじまった。教えると言うよりは共に学ぶと言った方が近い日々の中、この少女は頭が良いのだと、ハリスは改めて思い知った。他の者が教える、歴史や語学、礼儀作法、地理や算術と言ったものと同じように、見ていて小気味良いほどの速さで、知識を吸収していくのだ。  見守り続ける中、シェリアが本当は兵法などに微塵の興味も抱いていないだろうと気付くのに、さほど時間を必要としなかった。これがただの時間潰しなのだとはっきりと理解した時は、寂しかった。時間潰しに付き合わされた事が、ではない。学ぶ以外の時間の過ごし方が判らないシェリアが、だ。  美しい音楽や芸術に触れ合わせた事も、他愛もない会話を繰り返した事も、外の世界に連れ出した事もある。だが、どれもほとんど意味をなさなかったようだ。同じく神の血筋に生まれながらも、全く感じるものが違う少年たちと対面しても、感じるものはありながら、変わらなかったのだから。  白い指が人の殺し方を記す様子を眺めながら、ハリスは目を細めていた。呆然としていたのか、綴られる美しい文字に見惚れていたのか――気付いた時には、少女の手は動く事をやめていた。  必要な事を書き終えた少女は、無言でハリスを待っていた。 「申し訳ありません」  形式上はハリスが教えるがわでシェリアが教わるがわであるのだから、ハリスが先に進めなければ筆が止まるのは当然だった。ハリスは慌てて本をめくり、次の事例に移ろうとする。  視界の端で、金が瞬いた。  隣に座る少女の髪が揺れたからで、特に気にする事でもないと、話を進めかけたハリスは、今は窓から風が吹き込んできていない事に気付くと、本から目を放して再びシェリアを見る。  シェリアは窓の外、傾いた太陽が茜色に染める空の下に広がる光景を見つめていた。これがシェリアでなければ驚くような事ではないのだが、シェリアが勉強時間中、勉強以外の事に興味を向ける事などありえず、ハリスは思わず立ち上がっていた。  窓に歩みより、シェリアの目に映るものを見た。紅く染まりはじめる白い聖堂の姿は雅で、心安らぐ光景ではあったが、シェリアが興味を惹かれるものとは思えず、何か特別なものは見当たらないかと辺りを探す。  いくつかの人影が見えた。聖堂から去る市民の姿。忙しく移動する聖騎士たちの姿。そして――仲良く並んで歩くカイとリタの姿が。  ハリスは息を飲み、動揺する心を落ち着けると、すぐに席に戻った。 「さあ、続けましょうか。次は四百五十二年、パルケスの反乱において……」 「ハリス」  静かな声に名を呼ばれ、ハリスは口を噤む。  窓の外に向けていた眼差しを戻した少女の横顔は、陽の光によって紅く染まっていた。 「もしもわたくしが、明日の選定の儀においてカイ様に選ばれなかったとしたら――わたくしが神の娘としての役目を果たせなかったとしたら、わたくしはどうなるのでしょう」  少女の口をついた疑問は、はたして不安によって産まれたものだったのか。判るべくもなく、ハリスは笑顔で首を振った。己の思うがまま、強く否定するために。 「そのような事態は考えられませんが、仮にそのような事態になったとしても、何も変わりません。シェリア様には神の御子として、今後も我ら地上の民の心を支えていただきたいと、望んでおります」  ハリスは本を閉じ、表紙に軽く手を重ね、空色の瞳を見つめながら言った。 「今までと何も変わらないと言う事ですか?」 「はい」 「そう」  少女は改めてペンを持ち直し、ハリスが手を添える本を見つめた後、ハリスに向き直った。 「貴方は?」 「はい?」 「貴方も、変わらないのですか?」  質問の意図するところを理解しかねたハリスは、戸惑う事で一度笑顔を崩しかけたが、すぐに持ち直して答えた。 「エイドルードとシェリア様のお許しが、この命がある限り、シェリア様のお傍にお仕えする事を誓います」 「そう」  少女は小さな手を伸ばし、ハリスにはけして触れる事なく、本の表紙に触れた。  態度ではっきりと示されたわけでも、命令されたわけでもなかったが、少女の動作の意味を知ったハリスは、表紙から手をどかす。すると少女は表紙をめくり、先ほどまで学んでいた場所を探り当てて開いた。 「それならば、良いのです」  ハリスは僅かに目を見開く。  消え入りそうな細い声で紡いだ言葉の意味を、ハリスは無言で模索した。模索したが、意味はひとつしか見つからず、それは喜ばしいものではあったが、ハリスが信じ続けていた事実を否定し、正反対のものを示すものでもあった。  静かな混乱が胸中に渦巻き、ハリスは唇を薄く開きながら、ただ少女の横顔を眺める事しかできずにいた。  ならば良いと。今まで通りハリスが傍に仕えるならば良いと、そう言うのなら。  望んだのだ、この少女は。神の言葉や、運命や、誰かの指示に従うでもなく、何かを――ハリスを――望んだのだ。 「ハリス」  シェリアはハリスと視線を重ねると、細い声で名を呼んだ。 「なぜそのような顔をするのです」  指摘され、咄嗟に顔に触れる事で、ハリスは自分が涙している事に気付いた。ただ静かに、一筋の涙が頬を伝うのみとは言え、いい歳をした男が人前でためらう事なく泣くとはあまりにみっともないと、心の中で己を叱咤しながら慌てて涙を拭う。 「失礼いたしました」 「もうしないでください」 「はい。承知いたし……」 「また、触れてしまうかもしれません」  眼差しは本に落としたまま、いつも通りの冷たい声で、さりげなく残された言葉だった。他の者には理解不可能であろう言葉から、全てを理解したハリスは、再び涙せずにすむよう、目頭を押さえた。  ハリスがシェリアに仕えはじめてから流れた月日の中で、ただ一度だけ、シェリアがハリスに手を伸ばした事がある。大聖堂の奥、大司教と騎士団長を背後に従えたシェリアが、高い窓から射し込む光を背に受けて輝いていた日。忘れもしない、ハリスがはじめてシェリアに対面した日だ。  今日のように――三年前は喜びのものではなく心痛によるものだったが――自然と頬を伝う涙に気付かずにいたハリスは、頬に伸びる白い手にも気付かなかった。そして、少女の身に秘められた力の事もまだ知らなかった。気付いた時には遠く離れた柱に背を強く打ちつけ、大きく咳き込んでいたのだ。  思い返せば、簡単な事だった。相手がシェリアではなく、たとえばリタやカイであったのならば、すぐに正しい答えを導き出せたのかもしれない。シェリアがそのような事を考えるわけがないとの思い込みから、三年間も誤解を続けていたのだ。  シェリアに普通の少女としての心を持って欲しいと望んでいた自分が、誰よりもシェリアを普通の少女として見ていなかった事実の滑稽さを理解したハリスは、シェリアに気付かれないよう失笑した。 「ありがとう……ございます」  喉の奥からしわがれた声をひねり出す。この場に相応しいものかは判らなかったが、感謝を言葉にして伝えなければ気がすまなかった。  ハリスは今なら判る気がした。頭ではなく、心で。望むままに生きた男が、死の瞬間に望んだものが何であったのかを。  苦痛は自業自得だと判っていながらも、安らぎを求めてしまう利己的な心が求めたものは、これだったのだ。たった今自分が得たものを、彼は最後に欲したのだ。勝手だと責められる苦痛に喘いでも、手に入れる価値があるものを。  与える事ができたのだろうか。自分は、最後に、あの人に。  この奇跡のような幸福を、生前のあの人も得る事ができたのだろうか。 4  運命の時が緩やかに近付いてくる。  中天に昇った月を見上げながら、カイは自身の体がわずかに震えるのを感じていた。心はもう決まっている。迷いはどこにもなく、時が迫る事に重圧を感じる必要は無かったが、未来を定める重要な選択を前にして、緊張せずにいられるほど、カイは大物ではなかった。  もっともそれはカイだけではない。昼前に見かけたリタはカイよりも緊張している様子であったし、聖騎士たちや大司教も、朝から緊張感がみなぎっていたように思う。いつもと変わらないのはただひとり、シェリアだけだった。  カイは床に膝を着き、胸の前で手を重ねると、空を仰いだ。選定の儀の手順として大司教やルスターから説明を受けた数少ない行為のひとつだった。天上に最も近い部屋で、膝を着き、空の中心にある月に祈りを捧げる。静まった心で決断を下し、塔を降りる。そして無言で通路を進み、選んだ伴侶の待つ塔を昇るのだと。今更祈りによって心を静めずとも決断は下せるのだが、形式には従っておいた。  目を伏せると、優しく降りそそぐ月光を肌に感じる。子供をあやす母親の手のように柔らかい光は、緊張を和らげる力を有しており、母の記憶が無いカイの胸にくすぐったい想いを湧かせた。  淡い光が消えゆく感覚に襲われたのは突然の事だった。  瞼の向こうから届く明かりが徐々に失われていく事に耐え切れず、目を開けたカイが見たものは、夜空を切り取る窓枠の中心で変わらず輝き続けているはずであった満月が、徐々に闇に飲み込まれていく様だった。 「何だ……!?」  立ち上がり、窓に駆け寄る。枠に手をかけて身を乗り出し、少しでも月に近付こうとしたが、そうしたところで消えゆく月を引き止める事は叶わなかった。  月は毎夜姿を変える。時に隠れ、姿を見せない晩もある。だが、一夜のうちに形を変え、消えていく光景を、カイはこれまで見た事がなかったし、そのような現象も知らなかった。  カイが闇に侵食される黄金を眺めながら体感したものは、大切なものを奪われる恐怖だった。生まれてから今日この日まで、月に対して強い思い入れを抱いた事など一度としてなかったと言うのに。  カイは自身の肩を強く抱いていた。気温は変わっていないはずだが、凍えるように寒かった。体が強く震え、このままではいけないと月に背を向けると、頭に鈍い痛みが走り出した。  それは月が消えると同じ速度で強まっていき、夜空から完全に月が失われる頃には、立っている事すらできなくなっていた。カイは床に身を放り出し、頭を押さえ、走る激痛が消えゆく時を待つしかなかった。口からは獣のようなうめき声が漏れ、勝手に暴れる体は床を転げ周り、振り上げた足が何かを蹴倒したのか、崩れ落ちる音が部屋中に響き渡った。  カイの目に映るものは、めまぐるしく変わっていった。床、天上、いつも眠っていた寝台の足、倒れた椅子の背もたれ、じわじわと染み渡る水の上に倒れた花と陶器の破片、積み上げられた本、父の形見の剣が床に倒れる瞬間、星しか輝くもののない夜空――  視界が闇に覆われた。星の瞬きも映らない。完全なる闇がカイを飲み込み、カイは悲鳴も上げられなかった。  これは何の現象なのか。なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、理由は判らなかった。いや、この時のカイには、疑問に思う余裕すらなかった。  闇の中に人の声が聞こえる。遠い声ははっきりとは聞き取れなかったが、男の声だ。擦り切れそうな叫びは、おそらく言葉にすらなっておらず、心を裂かれた者の泣き声に聞こえた。  カイは知っている、と思った。この声を、近くで聞いた事がある。この声の主を、よく知っている。そうだ、この、泣いている男は――  なぜ、泣く? かつて味わった悲しみ以上に、心を振るわせ事などは――  黒しかない世界に、突如赤がはじけて消えた。ほんの一瞬、噎せ返るような匂いと共に。  裂けるほどに大口を開け、カイは力の限り叫んだ。命を燃やす叫びだった。切れるような痛みが喉を走り、意味のない乾いた声だけが響き渡る中でだけ、カイは僅かな安らぎを得る事ができた。  ふと気がつくと、得体の知れない恐怖の波は通り過ぎていた。  手足をだらしなく放り投げた格好で、カイは床の上に倒れていた。空ろな目には、窓枠の向こうに優しく輝く満月が映り、カイは安堵のため息を吐く。  首を傾け、自身の右手を見つけると、軽く動かしてみた。少し動きが鈍かったが、思い通りに動く。間違いない、これは自分の体だ。  汗をかいていた。風に撫でられ、寒さを感じるほどだった。冷えた体を守ろうと、重く感じる体を起こしたカイは、喉が痛みを訴えたので、数回咳き込んだ。  痛みはカイに教えてくれた。今体感したものは、けして夢ではないのだと。  まだ歩くだけの気力と体力が蘇らず、カイは足を引きずって窓に近付いた。穏やかな光を注ぐ残酷な月を、少しでも近くから睨みつけるために。 「そう言う、事か」  掠れた声を吐き出すと、血の味がした。だがその痛みも、味も、カイが知った事に比べれば、苦いものではなかった。 「そのために、俺を、リタを、シェリアを……みんなを、巻き添えにしたのか」  使命、運命、神のさだめ。  抗えない言葉と力で縛りつけ、人を操り、利用した存在への焦燥に似た諦めを、カイは夜空の象徴へ向けて解き放った。 「地上の民を、愛するがゆえに、なのか?」  カイは長い息を吐いた。肺の中を空にして、月を見上げる目を両手で覆ってから、大きく息を吸う。 「いや――感謝するよ。エイドルード」  窓に背を向け、カイは二度と振り返らなかった。  両手を落とすと、カイの目には部屋を出るための扉が映った。カイはその扉を潜り、塔を下り、伴侶と決めた相手の塔に登らなければならない。  心は決まっていた。迷いは欠片も無かった。だが、扉を開ける勇気が持てず、しばらくの間カイはその場に立ち尽くしていた。  強い風が窓から吹き込み、カイの背中を押した。力が抜けていたカイの体は、風に揺られて勝手に一歩踏み出していた。 「判ってる。行けばいいんだろう。エイドルード」  愛する大地を、大地に生きる人を、守るために消滅した存在。残される神なき地を守るために、自らの子に運命を託し、消えた存在。  その名を呼びながら、カイは歩き出した。  眼前に広がる階段に、果てがなければ良いと願いながら。 終章 決意の朝  薄く瞼を開くと、あたりはまだ薄暗かった。カイは僅かに首を巡らせ周囲を見回したが、瞼の重さに耐えられなくなり、再び目を閉じようとする。大聖堂の向こうから陽が昇る様子を目の当たりにしたのは、その瞬間だった。  薄闇に覆われる事で灰白色に見えた建物が、突然白く眩しく輝く様は圧巻で、カイは喉を鳴らして息を飲む。太陽が生まれる瞬間に立ち会う感動に、カイの両目はいつの間にかはっきりと開いていた。  夜明けの瞬間に立ち会うのは初めてではない。トラベッタで魔物狩りをしていた頃、夜明けより前に叩き起こされる事は、日常茶飯事だった。眠い目を擦って家を飛び出し、魔物と戦い、くたびれた体を休ませながら太陽が昇る姿を目にした事は、何度かある。  だと言うのに、なぜ今日の自分は、こうも感じるものが違うのだろう。  何もかもが違ってしまったのだろうか。かつての自分と、今の自分――いや、きっと、昨日までの自分と、今日の自分では、全てが大きく違っているのだ。まるで、生まれ変わったばかりの赤子のように。  カイは窓の外に向けていたまなざしを、傍らに眠る少女に向けた。  目の奥が疼き、涙したくなるのは、少女の柔らかな金の髪が生き生きとした朝日に照らされ輝く様が、痛いほどに眩しいからなのだろう。  カイは右手で目元を覆った。程よい重みと温かさ、何より暗さが、双眸にかかる痛みを少しずつ癒してくれる気がした。  再び視界を明るくすると同時に、未だ眠る少女の長い睫が小さく揺れた。窓から流れ込む優しい風が揺らしたのかと考えたが、少女は風に背を向けていたので、少女自らによって動いたのだと判った。  金の睫に縁取られた空色の瞳が、カイの姿を映す。  これは夢ではないのだと、カイは自身に言い聞かせた。逃れる事のできない現実であり、二度と選び直せない未来の象徴なのだ、とも。  カイは不器用な手付きで金の髪を撫でながら、精一杯の微笑みを創った。それは少女を労わるためでなく、虚勢を張るためだった。 「おはよう」  笑みと共に投げかけた声が、少し震えて聞こえたのは、きっと気のせいなのだろう。  胸の奥に垂れ込めるものが飛び出してこないよう、ゆっくりと息を吸い込むと、カイは少女の名を呼んだ。 「おはよう、シェリア」  カイがシェリアの手を取って現れると、待ちわびていた男たちは皆一様に息を飲んだ。選定の夜の翌朝、カイが伴って現れる少女はリタであろうと、誰もが思い込んでいたのだろう。  それでも、大司教や騎士団長、ジオールあたりは、平静を装えた方である。ルスターはカイとシェリアが並ぶ姿をしばらく呆然と見つめ、もの言いたげに唇を開いたままであったし、ハリスは目を見開いたまま、無言でシェリアを見下ろしていたのだから。  カイの足は、ハリスの前で自然と動きを止めていた。 「何を驚く事がある」  カイは厳しい声でハリスに言った。  確かに、驚く事ではあるのかもしれない。だがそれは、大司教たちと同じように、一時的なものであるべきだ。すぐに歓喜で驚愕を抑え込み、嫌味たらしく勝ち誇った笑みを浮かべるべきではないのか。  ハリスは目にしたものが信じられないと言った様子のまま――いや、信じたくない、と表現した方が近いかもしれない。見るもの全てに強い動揺を伝える表情のまま、微動だにしなかった。 「俺は、お前との約束を守っただけだ」  吐き捨てると、ようやくハリスはカイを見る。驚愕と言うよりは、裏切りに衝撃を受けたような顔をしていた。カイの選択を信じられないのも無理はないが、だからと言って裏切り者扱いされるのは我慢ならず、カイはハリスの胸を押した。 「何を呆けている。シェリアに言うべき事があるだろう」  ようやくハリスは、笑顔で感情を覆い隠す事に成功した。トラベッタで初めて出会った頃のように、優しい微笑みを見せ、優雅な動きでシェリアの前に跪く。 「積年の夢が叶いました事、心より祝福いたします」  シェリアはいつも通りの冷たい声で答えた。 「わたくしは、偉大なる父に与えられし役割を、果たす事でしょう」  いつも通りのふたりと言ってしまえば、それまでなのかもしれない。だが、今までとは違う、触れれば伝わる優しい感情が存在していたように感じたカイは、ふたりに向ける眼差しに憐憫の情を交えた。  今更だ。  カイやリタの心以外に、カイとシェリアが結ばれる事を祝福しないものがあったとしても、今更どうしようもないのだ。カイは選んでしまった。躊躇いはしたが迷う事無く、シェリアを選んだのだ。  たまらずふたりから顔を背けるカイの耳に、小さな足音が届いた。  カイは僅かに戸惑った後、足音に振り返った。誰が近付いてきているのかは判っている。少女のものとしか考えられない軽い足音の主は、シェリアがここにいる以上、ひとりしかありえないのだから。  肩に触れる金の髪が、小さく揺れていた。眠れなかったのか、泣いていたのか、赤くなった目は真っ直ぐにカイだけを捉え、強い憎悪を視線に込めていた。  覚悟はしていた。詰られる事も、恨まれる事も、憎まれる事も――嫌われる事も。  リタはカイの前で足を止めた。きつく引き締められていた愛らしい唇は、少女にしては低い声を吐きだした。 「どうして、とか。今更聞く気にも、ならないけど……」  枯れた声。やはり、泣いていたのだろうか。  夕暮れが迫り来るあの時、カイとリタは互いを選んだのだ。強制された未来を自分たちの未来として生きて行こうと決意したのだ。だからカイの昨晩の選択は、リタに対しての裏切りでしかなく――裏切りに腹を立てるにしても、悲しむにしても、少女が泣いて一晩を過ごす理由としては充分なのだろう。 「謝る気とかは、無い」  我が事ながら不思議なほど、冷徹な言葉が自然と口をついた。 「誰だって、俺の立場に立たされて、君とシェリアのどちらかを選べと言われたら、同じ答えを出す。俺は、当然の選択をしただけだ」  リタの手が振り上げられ、直後、カイに向けて振り下ろされた。  強烈な平手が、カイの頬を打つはずだった。しかしリタの手は、抗いきれない強い力に遮られ、カイに触れる事無く宙に浮いていた。  目を伏せるか、あるいは反らしたかったが、カイは己の弱い心が呼ぶ欲求に抗うため、逆に目を見開く。  現実から目を背けるな。  これが、自分で選んだ道なのだ。 「リタ。俺は、君ではなくシェリアを選んだんだ」 「な……んで、こんな」 「俺はもう、シェリアのものなんだ。だから、俺と君はもう二度と、触れあう事はない」  二度と、触れ合う事は、ない。  自身の心に刻み付けるために、吐き出した言葉を頭の中で何度も繰り返す。 「っ……!」  軽い足音が乱暴に床を蹴り、遠ざかっていく。  また、泣いているのだろうか。細い肩を丸めて、誰の慰めの手も借りる事なく、ひとりで泣くのだろうか。  追いかける事はできなかったし、するつもりもなかった。カイは去りゆく少女の背に向けて伸ばしかけた右手を、左手でしっかりと押さえつけ、その場に残された者たちへ振り返った。 「昨晩、俺はエイドルードが残した最後の言葉を得ました。エイドルードの遺言に従い、俺とシェリアはザールへ行きます」  力強く、短く告げると、その場に居た全員が身を強張らせた。  皆、当然知っているのだ。カイが今口にした名を持つ地に、何があるのか。神の子がその名を口にする事に、どれだけの意味があるのか。 「ルスターさん」  呼ぶと、ルスターは真剣な眼差しでカイに応えた。 「ようやく俺から解放されるところだったのに、またしばらくお世話になる事になりそうです。すみません」 「光栄です」  力強く肯くルスターへ、満足げに肯き返したカイは、続いてジオールを見上げた。 「ジオールさん。リタはここに残り、神の子として民の支えになる役割を、ひとりで果たす事となります。これからも彼女を守り、支えてあげてください」 「はい」  姿勢よく礼をするジオールを見守った後、カイは最後にハリスを見た。 「ハリス」 「はっ」 「お前は、俺たちと共に来い。そして見届けるんだ」 「了解いたしました」  見届ければいい。望んだものを、求めた者を――エイドルードが定めた未来を。  深く礼をするハリスから目を反らし、カイは無言でシェリアに手を差し出した。シェリアはすぐに、無言で応えてくれた。  添えられた手は不思議と温かく、やはりリタの手ではないのだと思い知る。  思い知ると同時に胸に湧き上がったのは、深い安堵。カイは波立たない己の心に驚きながらも、救われていく気がした。  これで良かったのだ。  これが、良かったのだ――