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夢の続き


 寂れた路地裏はどんよりと暗く薄汚く、ときどき吹く風で地面を転がるゴミが、不愉快きわまりない。
 それは、メアリが見たこともない光景だった。
「どこよ、ここ」
 メアリは思わず呟いた。声は、少しふるえていた。
 まだ小さなメアリにとって、知らない世界はただ恐ろしく、すぐに逃げ去りたかったが、足が思うように動かない。そもそも、どこに逃げていいのか、メアリにはわからなかった。
 いつもどおり、夜の十時にベッドに入って眠ったはずなのに。どうしてこんなところに居るんだろう?
「パパ! ママ! アン!」
 両親やメイドを呼んでみた。だが、返事はない。
「パパー! ママー! アンー!」
 もう一度呼んでみる。やはり返事はない。乾いた風の音が鳴るだけだ。
 わたし、ひとりで、こんなに遠くまで来ちゃったの?
 訳のわからない状況が不安なあまり、縋るものを求めたメアリは、腕の中にある大きなうさぎのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた。三ヶ月前の誕生日にもらってから、いつも一緒に寝ている大切な友達だ。彼女をそばに感じると、自分の周りにある全てのものが未知のものではないとわかり、少しだけほっとする。
 それでも寂しさのあまり泣きたくなり、メアリがぐずぐずと鼻をならしはじめると、小さな舌打ちの音が、後ろの方から聞こえた。
 メアリが振り返ると、そこにはらくがきだらけの高い壁と、壁に寄りかかって座る少年の姿があった。それから、少年の膝に頭を乗せて横たわる、少年よりも幼い子供も。横たわる子は、ボロボロのコートを頭から被っていて、顔がよく見えなかった。
「静かにしろよ。寝てるんだから」
 少年がぶっきらぼうに言い捨てると、メアリは驚いて、両目と口を大きく開けた。
「ここ、お外よ? 道の途中よ?」
「だからなんだよ」
「おうちに帰ってベッドで寝たら? 地面は固いし汚いし、こんなに風が吹いてたら寒くて、風邪をひいちゃうか……」
 メアリは言葉の途中で、自分の言っている事がおかしいと気付き、口を閉じた。
 ちっとも寒くないのだ。月夜の下で、しかも今は冬なのに。風も強く吹いているのに。寝巻きの上に、毛糸で編んだカーディガンを着ているだけの格好で、しかも裸足なのに。
 あ、これ、もしかして、夢なのかも。
 そう考えると、すんなり納得でき、にじむ涙はあっさり乾いた。目が覚めれば、帰れるのだ。いつも暮らしている屋敷の、温かい部屋の中の、柔らかいベッドの上に。それならば今の状況を、ちょっとした冒険として楽しめばいいのかもしれない。
 すっかり上機嫌になったメアリは、にっこり笑顔で、ぬいぐるみに頬をすり寄せた。
「お前、どこのお嬢様だよ」
 少年はメアリとは対照的に、不機嫌になった。薄汚れた髪の向こうに隠れた目でメアリを睨みつけながら、冷たい言葉をメアリに投げつける。
 だけどびっくりするほど優しい手は、コートにくるまれた子供の頭を撫でていた。
「寒いのはわかってるし、こいつはとっくに熱出してるよ。それでも行くところがない、帰る家がないヤツは、いるんだよ。みんながみんな、お前みたいに恵まれてると思うな」
 鋭い声だった。
 怖くて、いつものメアリなら、とっくに泣いていただろう。けれど今は、怖いよりもショックの方が大きくて、メアリは泣かなかった。
 親も家もなくて、路上で暮らす子供たちの話は、聞いたことがあった。けれどそれはメアリにとって、遠い異国や、物語の中だけの話だったのだ。一応想像してみたことはあるが、不安になるかもなあと思うだけで、実感はちっとも湧かなかった。
 だが今のメアリは、帰る家のない心細さを、少し知っている。ついさっきまでのメアリは、もう家に帰れないかもしれないと、途方に暮れていたのだから。
 メアリは目覚めれば不安から解放される。けど、この子たちの不安は、この先も、ずっと続く。
「寒い?」
「あたりまえだろ。っつかお前、よくそんなカッコで平気だな」
「平気だよ。だって、夢だもん」
「何、ばかなこと……」
 少年が吐いた真っ白な溜息は、すぐに空気に溶けて消えた。
「そうだな。全部夢だったらいいのにな」
 険しい顔を続けていた少年が、この時はじめて、メアリに気弱な顔を見せた。
 メアリは少し考えてから、カーディガンを脱いだ。冬の夜に寝巻きだけになったが、やはりちっとも寒くなかった。
「これ、着て。少しはあったかいと思うから」
 言うと同時に、赤地に花模様のカーディガンが、メアリの目に入る。
「あ、でも、女の子用だから、着るの恥ずかしいかな。じゃあ、かけるだけでも」
「お前、ばかか?」
「ばかじゃないよ」
「凍え死ぬぞ」
「大丈夫だよ」
 自信持ってメアリが言い切ると、少年はメアリの手からカーディガンを奪い取った。
「後で返せって言っても遅いんだからな」
「そんなこと言わないよ」
「あと、礼は言わないからな」
「いいよ別に」
 メアリはにっこり笑う。
 どうせ夢なのだから、メアリは何もなくさない。それなのにいいことをした達成感が手に入ったので、メアリはとても気分がよかった。

「メアリさま、朝ですよ!」
 体をゆさぶられ、朝を告げるメイドのアンの声を聞き、メアリは目を覚ました。
 いつもの朝だった。アンが居る。アンがカーテンを全開にしたので、部屋の中に朝日が飛び込んできて、きらきらしている。ベッドの中は温かくて、いつまでもまどろんでいたい感じだ。
 あれはやっぱり夢だったんだ。
 突拍子のないところや非現実的なところが多かったけれど、少年の細かな表情や声は生々しくて、もしかしたらやっぱり現実なんじゃないかとうたがっていたけど。
 ほっとしたような、少し残念なような、複雑な想いを胸に、メアリは身を起こす。
 毛布が体から剥がれ落ち、急に肩が冷えた。
「メアリさま、起きぬけに薄着でぼーっとしてたら風邪ひいてしまいますよ。何か上着を……あら」
 アンは周囲をきょろきょろと見回しだ。
「メアリさま。いつものカーディガン、どうしました?」
「え?」
「メアリさまのお気に入りの、赤いお花のやつです。昨晩お休みになるまでは着てましたよね? あれ? 『今日は特別寒いから』って、寝る時も着たままだったような……」
 おかしいですねと言いながら、アンは部屋の中を探し回った。ソファの上、クローゼットの中、シーツの下や本棚の裏まで。だけど、やっぱり見つからなかった。
 探すのを諦めたアンは、腕を組んで眉間に皺を刻みながら、どこにいったのかしらと呟いた。
 メアリはなくしたものがどこにあるのかわかる気がしたが、アンには秘密にしておいた。

「また来たのかよ」
 一週間後に再会した時、夢の中の少年はそう言った。
 メアリは少年の失礼な口ぶりに腹を立てる一方で、頭と胸にひっかかり続けていた少年にもう一度会えたことに喜んだ。会ったって苦しい想いをするだけだとわかっていても。
「げ……元気?」
 何と声をかければいいのかわからなかったメアリがかけた言葉は、少年にとって気のきいてない言葉だったようだ。悪い目つきをもっときつくして、メアリをにらみつけてきた。
「家はねーし、仕事は三日前になくなった。食いもんもねぇ。なのに寒くなる一方だ。元気なわけねーだろ」
「だ、だよね。ごめん」
 メアリは素直に謝って、少年の前に、膝を抱えてしゃがんだ。
 少年の膝の上には、一週間前と同じように、少年よりも小さな子供が眠っている。メアリがあげた、赤いカーディガンを着て。
 今度は顔が見えた。やせているし汚れているしで、はっきりと言い切れないが、女の子のようだ。
「この子、あなたの妹?」
「まあな」
「風邪は治った?」
「一応な。でもこの寒さだし、また倒れるかも。今日は何も食わせてやれなかったし」
 少年は今日も、メアリには想像もできないような辛い現実を、簡単に語る。
 朝も、昼も、夜も、おなかいっぱいにご飯を食べて、しかも寝る前にこっそりおやつを食べていたメアリは、恥ずかしくなって、膝に顔を埋めた。
「悪かったな」
 頭の上から、優しい声がふってきた。
 それは少年の声で、びっくりしたメアリは、急いで顔を上げる。
「なんで謝るの」
「この間会った時、お前にやつあたりしたろ。お前、そのことけっこう気にしてるだろ。だからだ。別に、お前が悪いわけじゃないからさ……」
 メアリはもう一度びっくりしてから、笑った。
 この子、きっと本当は、いい子なんだ。色々辛くて、でも守らなきゃならない妹がいて、余裕がないだけで、本当は優しい子なんだ。
 胸が温かくなったメアリは、泣きそうになった。それを別のことを考えてごまかそうとした。せっかくこうして会えたんだから、何か、この兄妹にしてあげられればいいのに、とか。
 しかし今日は余分なものを着て寝なかったので、分けてあげる服がない。大好きなうさぎのぬいぐるみは、今日は寝ている間に手放してしまったみたいで、今は持ってなかった(持っていたとしても、ぬいぐるみなんていらないだろうけれど)。
「あ」
 メアリは少年のそばに落ちている、古びたナイフを見つけ、思わず声を上げた。
「なんだよ」
「ナイフなんて持ってるの?」
「あると便利なんだよ、色々。最悪、このまま食うに困ったら、強盗とかできるし」
「そんなの、駄目!」
 とっさに叫ぶと、少年は少しうろたえた。
「冗談だろ。本気で怒るなよ」
「冗談でもイヤだったんだもん」
 メアリはぐいと手を伸ばした。少年の目の前に。
「貸して。それ」
「何する気だよ」
「思い出したの。もっとちっちゃい頃から、アンによく言われてたこと」
 メアリは寝る前に髪をひとまとめにするため結んだリボンを強く結び直してから、少年がおそるおそる差し出してくるナイフを受け取った。
 何回か深呼吸をしてからメアリは、右手に持ったナイフを、髪の束にあてがう。メアリ自慢の黄金の髪は、思い切りよくざくざくと、メアリからはなれていった。
「な……何してんの、お前!」
 少年は目を丸くして、だいたい肩くらいの長さのざんばら髪になったメアリと、メアリの手の中にある、リボンでまとまっただけの長い金髪を、交互に見た。
「髪を切ったの」
「それは見ればわかるって」
「金髪は高く売れるんだって。アンが言ってた。高くって言っても、髪だから、大したことないと思うけど、パンくらい買えるかもしれないよ」
 メアリは強引に髪の束を少年へ押し付けた。
「せっかく綺麗だったのに……」
 綺麗と素直に褒められて、メアリは少し得意になった。
「どうせまた伸びるもん」
「そうだけど」
「もう切っちゃったんだからしょうがないでしょ。捨てるのもったいないから、役に立てて」
 メアリがにこにこ笑うと、少年は一瞬だけつられそうになったが、すぐにもうしわけなさを顔に出し、手の中の黄金を見下ろすふりをして、俯く。
「お前、なんで、俺たちのために、こんなことするんだ?」
 ぼそぼそと聞き取りにくい声で少年が言った。
 なんでと聞かれても、メアリの中にはっきりした答えはなく、困ったメアリは、照れ笑いしながら返した。
「ただ、いい夢が見たいからだよ」

「きゃあああああーーーー!!」
 メアリはその日の朝、アンの悲鳴で飛び起きた。
 息が切れたアンの声が途絶えたあとも、耳がぴりぴりするくらいの、ひどい声だ。いつもはあまり寝起きがよくないメアリだが、今日はぱっちり目が覚めた。
「メ、メ、メアリさま! 何ですその髪!」
 アンはがたがた震えながら、メアリを指差す。
 メアリは自分の髪に手をやって、ばさばさな切り口の、肩くらいの長さを確かめると、「あ、今回もやっぱり夢じゃなかったんだ」と受け止めた。
 それから、どうしようかなと考えはじめた。さすがに今回は、メアリの体に明らかな異変が起こっているわけで、黙ってやりすごすことはできそうにない。だけどやっぱり、本当のことは話したくない。何か言い訳を考えなければいけなかった。
「えーっと、長いの邪魔だし、飽きたから、ばっさりと」
「ならそう言ってくだされば! ご自分で切らなくても!」
「なんか朝まで待てなくて。でも失敗しちゃったから、綺麗に切りそろえてくれる?」
「揃えます、揃えますけれども……」
 多分メアリ自身よりもメアリの髪が大好きなアンは、がっくり肩を落とした。
 そんなにショックをうけなくても、どうせまた伸びるのに、とメアリは思ったが、言ったら泣いて騒ぎ出しそうなので、言わないでおいた。

 例の夢を見るのは不定期で、いつも突然だ。
 その晩に行けるとわかっていれば、何か役に立つものを抱いて寝れるのに、とメアリはいつも歯がゆかった。パンを詰めたバスケットや、ミルクを入れた瓶を、あの兄妹に持っていけたら、きっと喜ぶのに。
 そう言ってメアリが謝ると、少年は相変わらずのぶっきらぼうな口調で言う。
「何もいらねえよ。お前みたいな世間知らずの手なんか借りなくても、やってけるっつの」
「そうなの? ご飯、食べれてる?」
「ああ。最近はけっこう仕事させてもらえるし、その日の食いもんくらいはなんとかなってる」
 メアリは少年の言葉を信じた。はじめて会った日に比べれば、いくらか健康的に見えるのだ。相変わらずやせっぽっちだし、服はあちこちほつれているけど。安心して休める家も、ないみたいだけど。とりあえず食べているようだし、冬も春も終わって夏になり、夜も温かくなったようだし、少しは楽になっただろう。
「ところで妹さんはどうしたの?」
 メアリがここに来る時、彼の妹はいつも、彼の膝の上で眠っていた。しかし、今は、目に見える所にいない。
「お前、そんなこと気軽に聞くなよ」
「なんで?」
「病気で死んだとか、金に困って売ったとかだったら、答えにくいだろ」
「え……?」
 少年の言葉がショックで、メアリは何も言えなくなった。真っ青な顔で、少年を見下ろす。
「たとえだよ。本気にするなって。運良く、そーゆーことにはならなかったよ。今働かせてもらってる店の人がさ、生活の面倒は見れないけど、夜寝る場所だけなら貸してやれるよって言ってくれてさ。妹も居るって言ったら狭いからふたりは無理だって言われて、じゃ、妹だけお願いしますって」
「そうなんだ……よかったね」
「ああ、よかった」
「もっとよくなるといいね」
「するさ。今はまだむりだけど、そのうち少しずつ金貯めてさ。とりあえず家を借りるか、住み込みの仕事見つけんのが目標」
 少年のほほえみは力強くて、でも見たことないほど優しくて、メアリは嬉しくなった。
 寝巻きの、ポケットの中に手を入れる。すぐに、指先に小さな丸い包みがふれたので、メアリはそれを取り出した。
 十日前、アンからもらった飴玉だ。いつかまたここに来た時に、兄妹にあげようと、ずっとポケットに入れっぱなしにしていたのだ。
「これ、ふたりにいっこずつあげようと思ったけど、やめた。妹想いの優しいお兄ちゃんに、ふたつともあげる」
 メアリは手の中の飴玉を、少年の手に押し付けた。
 少年は飴玉をじっと見つめて、ひとつだけ手にとると、包みを開けて口の中に放り込む。甘いお菓子など口にするのは久しぶりか、もしくははじめてなのかもしれない。いつもはメアリの目に大人びて映る表情が、ふと幼く見えた。
「もういっこ」
「ん?」
「妹にあげていいか?」
 メアリは一瞬だけびっくりしたが、すぐに頷いた。
「あなたにあげたものだから、あなたの好きにすればいいよ」
「そっか。ありがとな」
 気にしないでと言おうとしたメアリだが、何も言えなかった。
 さりげなく聞き逃しそうになった言葉。それは、はじめての。
「そんな驚くなよ」
「驚くよ」
「お前のおかげで、一番ヤバいとき、何とか乗り越えられて、俺も妹も何とか生きてるからさ。一度くらい言っておこうと思っただけだっつの」
 メアリはくすくすと笑った。
「礼は言わないって言ってたのに」
「うるせ。忘れろ、昔のことは」
「忘れないよ」
 力強い声でメアリは言った。
「忘れない」
 絶対に。絶対に、忘れない。
 それは決意ではなく、確信だった。
 夢なのか現実なのかわからないできごとは、今のメアリにとって大きなものだ。そしてこれからのメアリにとっては、もっと大きくて、大切なものになる。そんな予感がした。
 だから、忘れてはいけないし、忘れられないのだ、絶対に。


 夢を見なくなったのは、いつからだろう。夢の中だけで行けた路地裏を、最後に訪れた時からだろうか。
 あの日以来、毎日疲れている気がする。ベッドに入れば、夢を見る暇もなく眠ってしまうくらいに。
「まさかこんな大口の契約をとれるなんて思ってもみませんでした!」
 メアリは走りはじめたばかりの馬車に揺られ、夕日が落ちたばかりの空を眺めながら、隣で興奮した声を上げるアンの声を聞いていた。
「そう? わたしは悔しいけどね。来月からにも注文増やしてもらうつもりだったのに、三月以降とか言われてさ。まあ、おかげで三月までの間少し休めそうなのは、ちょっとだけありがたいけど」
「私、今日ほどメアリさまについてきて良かったと思った日はありませんよ。メアリさまが、旦那さまの遺産を屋敷含めてすべて処分なさった時は、ものすごく戸惑いましたけど」
「処分したのはすべてじゃないでしょ。事業の方はまるごと残して、利用させてもらってるもの」
「あ、そうでしたね」
 笑ってごまかすアンに冷たい目を向けながら、メアリは盛大にため息を吐いた。
 数年前の話だった。病死した父から受け継いだ、仕事関連以外のすべての財産を、孤児院の建設や運営にあてたのは。その金額は膨大で、路頭に迷っていた多くの子供たちを救い、これからも膨大な数の子供たちを救うだろうと、新聞に載ったこともある。
 多くの人々に聖人君子だとはやしたてられ、うんざりした記憶はまだ新しかった。自分自身の世間からの評判の高さを、仕事に利用したこともあるので、全否定する気はないのだが。
「大したことじゃないのにね。べつに先祖代々続く由緒正しい屋敷だったわけじゃないし。まあそうだったとしても、保存することを条件に売ったと思うけど……生まれ育った思い出の家を泣く泣く手放したってわけじゃなくて、ひとりで住むには広すぎるし人件費がかかりすぎるから手放しただけだし。ちゃんと新しい家買ってるし。他にも、何か我慢してるわけじゃない。それなりに着飾るためにお金使ってるし、おいしいものも食べてるし。その上で余ったお金を使ってるだけなんだけど」
「それでも、見知らぬ他人のために何かをするって、なかなかできることじゃありませんよ。すばらしいです、メアリさま」
 別に、見知らぬ他人のためだけでは、ないんだけど。
 とっさに反論しそうになったが、メアリは言わなかった。未だにアンに話したことがない、そしてきっとこれからもずっと、自分だけの秘密にしておくだろうことに深く関わるから。
 ある出会いを境に、メアリは知ったのだ。自分はたまたま環境に恵まれて生まれてきただけだと。そしてこの世には、たまたま環境に恵まれずに生まれてきた子供たちがいるのだと。
 そんな子供たちのためにできるだけのことをするのは、自分の義務ではないだろうか。ある日ふとそう思ってしまったら、もう止められなかった。
 何より、子供たちを救えれば、一緒に救えるような気がしたのだ。十年前を最後に二度と会えなくなり、それきりどうなったかわからない、夢の中の少年とその妹を。
「お疲れですか?」
 突然黙り込んだメアリを案じて、アンが言う。
「少しお休みになります? メアリさまのご自宅まで一時間はかかるでしょうし」
「……そうね」
 メアリは少し考えてから返事をした。
「今ならいい夢を見られそうな気がする」
 目を閉じる前にメアリは、ゆっくりと流れていく町並みに目をやった。
 はじめて通る道だが、立ち並ぶ家のくたびれ具合から、古くからある通りなのだろうとすぐにわかった。その割に、道に敷かれている石畳や、ときどき建っている街灯は綺麗だ。最近整備されたのかもしれない。
 知らない場所のはずなのに、懐かしいと思ってしまう心が不思議だった。少し似ているからだろうか。昔夢見た町並みに。夢の中ではもっと暗く、汚かったけれど。
 メアリは微笑みを浮かべながら、背もたれに体を預け、そっと目を伏せた。
「!」
 メアリは咄嗟に目を開け、体を起こした。
「止めて!」
「メアリさま?」
「馬車を止めて! 今すぐ!」
 停止したかしないかわからない内に、メアリは馬車から飛び出す。驚くアンや御者がかけてくる声を一切耳に入れず、少し前に通り過ぎたものへ向かって、一目散に走った。
 目的の場所に辿りついたとき、心臓は大きく鳴っていた。大して長い距離を走っていないのに……緊張と驚きのせいだろうか?
「うそ……」
 メアリは目の前にあるものを凝視した。
 辺りの建物より少しだけ高い石造りの建物は、古くからここにあるのだろうと思わせる風情がある。壁には細かなひびがいくつも走っていて、薄汚れていて、誰がいつどんな塗料で書いたのかわからないが、多くのらくがきがあった。
 そのらくがきに、メアリは見覚えがあったのだ。
「どうして、こんなところに」
 遠い記憶、非現実的な夢の中、メアリがいた場所に、壁に寄りかかっていた少年と少年の膝の上で眠っていた少女がいた場所に、よく似ている。似ているどころか、同じにしか見えない。
 メアリはゆっくり振り返り、通りを眺めた。
 行き場を失った子供の姿はどこにもない。綺麗に掃除もされており、街灯のおかげで見通せる程度には明るい。雰囲気は大きく違っている。だが、やはり、同じに見えるのだ。
「そんなところでどうしたんだい?」
 近くの家から出てきた中年の女性が、立ち尽くすメアリに目を止めた。目つきは少し厳しい。メアリを不審に思っているのかもしれない。
「すみません。少し、懐かしくて」
「以前この辺に住んでいたとか?」
 とてもそんな身なりには見えないけれど、と、女性の視線は語っていた。
「いいえ。たまたま通りかかったと言いますか……あの、この辺りに住んで長いのですか?」
「まあね。もう二十年近く」
「では、十年くらい前に、ここで幼い兄妹が暮らしていたかどうか、覚えてませんか?」
「ああ!」
 女性は突然大きな声を出して、家の中に戻っていく。
 声に驚いて呆然となったメアリが立ちつくしていると、女性はすぐに顔を出した。
「覚えてるよ。その兄妹。そこに住みついて、数ヶ月したら妹だけいなくなって、一年くらいかな、兄の方も、家ができたって言ってさ。でもしばらくの間は、毎晩来てたんだ。『何してんだい』って聞いたら、『もう一度会いたい人がいる』って」
 ぎりぎりと、心臓が痛む音が聞こえた。
「昔路上で生活していたなんて思えないくらい、どんどん、立派になってってねえ。二年くらい前に、仕事で遠くに行くことになったとか言ってたよ。それで、もうここには来れないから、もし待ちびとが来たら、渡してほしいって言われて」
 女性の手が、メアリの手に、小さな包みを握らせた。
 メアリが震える手で包みを開けると、中には真っ赤なリボンが入っていた。けして上等とは言えず、粗い手触りだが、鮮やかすぎるほど鮮やかな発色をしている。
「見つけた仕事の最初の給料で買ったって言ってた。色んなものをくれた恩人に、少しでもお返しがしたかったんだって。綺麗な金の髪の女の子に……あんただろ?」
 これは。
 夢の、続き?
「それなら、あんたの髪の色に映えそうだね」
「あ、りがとう、ござい、ま……」
 ぽろぽろと涙が頬を伝い、メアリは何も言えなくなる。ついには立っていられなくなって、汚れることも気にせず、その場に膝をついた。
 メアリはリボンを握りしめ、強く胸に押し当てる。
 嬉しかった。
 彼らが、今までの自分を認め、これからの自分を後押ししてくれている気がして。
 そして何より、彼らが生きていて、きっと幸せになっているだろうことが、嬉しくてたまらなかった。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.