アイオケ騒動

「ヒメコ、スイッチ。頼みがある」

 ある日の放課後。
 部室に現れるなり、ボッスンは神妙な顔付きでそう告げた。
 いつも決定的に緊張感の足りないスケット団の部室に、突如として訪れた深刻な雰囲気に、ヒメコは思わず息を呑んだ。
「……何や、あんたらしくもない。……どうしたん?」
 部屋の奥でデスクに向かっていたスイッチも、キーボードを叩く手を止めて、眼鏡の奥の目をボッスンへと向ける。
 二人の視線を順々に受け止めて、ボッスンは重々しく口を開いた。
「……『アイオケ』を知ってるか……?」
「「アイオケ?」」
 聞き覚えのない単語をオウム返しで繰り返したヒメコの声に、高いトーンの別の声が重なる。ヒメコが振り向くと、窓際に立ち尽くすモモカの姿があった。窓枠にかけた彼女の手はわずかに震えている。
「……ボス男……あんたも見たのかい? ユリカが病院で――」
「それ以上言うな、モモカ!」
 鋭いボッスンの叱責に、モモカは言葉を途切れさせて黙り込んだ。
 異様な雰囲気に、静まり返る小さな部室。その沈黙を破って、恐る恐るヒメコは口を開く。
「なあ……何やの? その、『アイオケ』って……」
「水九だ」
「スイク?」
 大げさな身振りで腕を広げ、ボッスンはきっぱりと言い放った。
 その後を引き継ぐようにカタカタとキーボードの音が鳴り、スイッチの合成音声が語り始める。
『水九、つまり水曜九時のドラマのことだ。『愛してると言っておけ』、略称アイオケ』
「知るか!」
 目を吊り上げてヒメコは叫んだ。「これだけ煽っといてただのドラマかい! だいいち『アイオケ』ってなんか、略する位置おかしない?!」
『ちなみに初回からの平均視聴率は9.8%、最終回直前の昨日の視聴率は10.7%だ』
「視聴率も微妙やし!」
 叫び終えて脱力し、がくりとテーブルに突っ伏すヒメコに、モモカがおずおずと声をかける。
「姉さんは見てないんですか、アイオケ」
「見てへんわ。アタシは水曜九時はクイズペンタゴンて決めてんねん」
「そうか……お前も知らないんだな」
 辛そうに唇を噛み締め、ボッスンは俯いた。「……なら、もちろん録画もしていないよな……」
「ボス男、あんた、まさか……見逃したのかい、昨日の回!」
 モモカが悲鳴のような声を上げ、ボッスンは自嘲的にふっ、と笑った。
「ああ、うっかり録画間違えてな。ばっちり録れてたぜ、『今日の料理』が」
「よりにもよって昨日の回を見逃すなんて……!」
「なんや、アホらし。ドラマ見逃しただけかい。ただのドラマでそこまで騒がんでもええやん」
 肩をすくめたヒメコに、
「ただのドラマとは何だ!」
「……!」
 ぐっと拳を握り締めてボッスンが詰め寄る。その鬼気迫る眼差しに気圧されて一歩後ろに下がったヒメコの肩に、モモカがそっと手をかけた。
「姉さん。そう思うのも無理はないけど、本当に泣けるんですよ。『アイオケ』」
「……そうなんか?」
 ヒメコの問い掛けに、こくりと頷いて微笑むモモカ。よくよく見つめると、彼女の目尻はほんのりと赤く染まっている。――まるで、泣いたあとのように。
「そ、そんなにええ話なん?」
「俺は近年稀に見る珠玉のラブストーリーだと思っている」
「視聴率10%なのにかい」
「視聴率なんてどうでもいいんだ。――よし、俺が今から、アイオケのあらすじを説明してやろう」
「はあ?!」
 ぽん、と。
 今度はボッスンが、ヒメコの肩に両手を置いた。
 顔を引きつらせるヒメコに構いもせず、ボッスンは瞳を輝かせながら語り始めた。
「ある田舎の小さな町に、夫を亡くした女性とその幼い娘がやって来るんだ。母親はその町の紡績工場で働き始め、娘は廃校寸前の小さな小学校に通い出すんだけどな――」


*  *  *


「――というわけで、アキオの正体を知ったユリカは失意のあまり町を離れるんだ」
「ユリカーーーーーー!!!」
 小さな部室の中に、ヒメコの絶叫が響き渡る。
 目を潤ませながら、ヒメコはばんばんと机を叩いた。
「ていうか許せへんわハルヒコ、なんでこの期に及んでアキオを裏切るねん! ユリカが好きやったら彼女の幸せを願って身を引くんが筋やろ!」
「いやでもね姉さん、ハルヒコにもそれなりの事情があるんですよ。なんていったって昨日の回で」
「だから続きを言うなって言ってるだろうモモカ、俺見てないんだから!」
「あ、そうか。ゴメンよ」
 再びボッスンの叱責を受けてしおらしく謝るモモカの頭に、軽く手を置いて。
「……わかったわ、ボッスン、モモカ。この学校から、昨日の『アイオケ』を録画している奴を探し出して、続きを見る。それで、ええんやな?」
「姉さん……!」
「ああ。――ありがとう、ヒメコ」
 差し出されたボッスンの手をぐっと握り。
 何故か壁際に置かれていた愛用のサイクロンを手にとって、かつて鬼姫と呼ばれていた少女は高らかに宣言した。
「よっしゃ、ほんなら行くで! アタシ達でユリカの幸せを守るんや!」
「おお!」
 意気揚々と部屋を出て行くヒメコの後を追いかけ、ふとボッスンはパソコンに向かっていたスイッチを振り向いて、軽く首を傾げた。
「ちなみにスイッチ、お前は録画なんかしてないよな?」
『俺が3次元の恋愛ドラマに興味があるとでも?』
「――だよなあ」


*  *  *


「んー、キャプテンもフリスケもヤバ沢さんも見てへんかー。なかなか視聴者おらへんな、さすが視聴率10%」
「裏でペンタゴンやってるのが痛いな、大抵のひとはそっち見てる。たまに見てる奴がいても、録画まではしてないって言うしな……」
 校内を一通り聞き込み回ったボッスンとヒメコだったが、成果はいっこうに上がらなかった。
 しかし、諦めるわけにはいかない。必ず、必ずどこかにいるはずだ。彼らと感動を分かち合える同志が。
 無言のまま、二人は決意を秘めた熱い視線を交し合う。
 そんな彼らを遠巻きに見つめる、一人の少女がいた。


 ――あ……あそこにいるのは、王子と……鬼塚さん?


「ん? 何か聞こえた、今?」
「あとなんか、フワアッとしたの浮いてへんかった?」
「……まさか」


 そんな。二人が、あんなふうに熱く見つめあう仲だなんて――!


「なんだこのモノローグ。っていうか」
「こんな風に作品に介入できる人、アタシ一人しか知らんわ」
「俺も一人しか知らない」

 振り向くと。
 ちょうどふたりの視線の端に、背景に薔薇の花を背負い、涙の粒を風に舞わせながら、スローモーションで駆けていくベレー帽の少女――ロマンの後姿が目に入った。


 ――そう、知らなかったのは私だけ、なのね。ふふ。本当、バカなわたし。バカなロマン――


「やっぱり……!」
「ああもういい加減にせえ! 大体少女マンガパロディって、小説というプラットフォームではやりにくいねん!」  
「……あ。なあヒメコ、ロマンだったらもしかしたら、知ってるんじゃないかアイオケ。ああいうメロドラマ、まさに好きそうじゃないか」
「! 言われてみればそうやな! よし、追うで!」

 きらきらと舞う涙と薔薇を手がかりに、ボッスンとヒメコはロマンの後を追った。
 ロマンの意外な足の速さに、校内を半周ほど追いかけっこする羽目になったが、中庭でようやくふたりは彼女を捕まえることに成功した。

「『アイオケ』?」
 しかし、ボッスンの予想に反し、ロマンはその単語に期待通りの反応は示さなかった。
「ロマンちゃんも知らんの?」
「ええ。私、恋愛漫画は好きだけど、ドラマにはあまり興味がないの。3次元の作品にはあまり萌えないみたいね」
「萌え言うなや」
「微妙にスイッチと発言がカブってんな……」
――ごめんなさい、わたし、何の役にも立てなくて――
「だからもうダッシュはええねんて! 普通に喋れや!」
 ヒメコの叫びに、ロマンは素直に頷いた。「てへ★」と自分の頭を小突くことは忘れなかったが。
「うん、そういうわけで私は、よく知らないんだけど……そういえば最近、誰か、アイオケがどうとかって熱く語っている人を校内で見かけたような気がするわ」
「!」
 意外なところからの情報に、ボッスンは目を見開いた。
「それ、本当か?」
「ええ。ユリカがどうとかアキオがどうとか、アヤネとフユヒコの仲も気になるとか言っていたような」
「アヤネとフユヒコに目をつけるとは通だな……!」
 腕を組んでボッスンは唸る。「それくらいのディープな視聴者なら、保存版録画もしているかもしれないな」
「ロマンちゃん、それ言ってたのって誰なん。思い出せんか?」
「えっとね。――あ。ちょうどあそこにいる人よ」
 ロマンが指差した先を、ボッスンとヒメコは期待を込めて見やり。

「…………!!!」

 凍りついた。
 予想外というべきか、――むしろ予想通りというべきか。
 そこに立っていたのは、厳格な生徒会副会長、椿佐介であったからである。
 うっすらと目元が赤く染まっていたりするあたり、どうやら彼が『アイオケ』ファンだというのは、思い違いでも勘違いでもないようだ。彼らにとっては残念ながら。
「……なあ、ボッスン。どうするん?」
「……」
 ボッスンは返事をしなかった。宿敵の姿を視線の先に捉えたまま、彼はただじっと立ち尽くしていた。
(なんていうか。やっぱりアンタら、根っこでは似たもの同士なんやなあ)
 拳を硬く硬く握り締め、唇を噛み締めて、プライドと必死で戦っているように見えるボッスンを見つめ、ヒメコは心の中でそう呟いた。 

 やがて。
「……諦めよう」
 長い長い沈黙のあと、彼は小さな声で告げた。
「ボッスン……ええのん?」
「ああ。あいつに屈するよりはマシだ」
 そう吐き捨てた後、ボッスンは真っ直ぐにヒメコに向き直り、頭を下げた。
「え、ちょ、ボッスン?!」
「すまない、ヒメコ。長々と付きあわせた挙句に、俺のつまらないプライドのせいで、お前にアイオケを見せてやることもできなくて」
「ボッスン……」
「こんなことなら、お前にアイオケの話なんか、しなければよかったな」
 申し訳なさそうに誤る彼の姿に、なんだか無性に腹が立って、ヒメコは思わず声を上げた。
「何言うとんの、そんなのアンタらしないわボッスン。アタシは……アタシは後悔してへんで、あんたにアイオケを教えてもらったこと。アタシはアタシの意志でアンタを手伝ったんや、だからアンタも後悔なんかすることない!」
「ヒメコ」
 顔を上げたボッスンに、ヒメコは頷いて微笑む。
 そんな、二人の背中から。

『「さすがスイッチ」のコーナー★』

 気の抜けるような、いつもの声が聞こえてきた。

「す、スイッチ!」
「アンタ、いつからそこにおったん!」
 首からノートパソコンを下げたスイッチは、二人の問いには答えずに、カタカタとキーボードを叩いた。
『俺の情報網で調べたところ、ヤバ沢さん自身は見ていないようだが、ヤバ沢さんの母親が熱心な『アイオケ』ファンだそうだ。録画したDVDも第一話から全て、CMカット済みで残っている』
「な、何やて!」
「俺たち、ヤバ沢さんにはもう聞き込みしてたのに!」
『掘り下げが足りなかったようだな。ともかく、駅前の洋菓子点の新作スイーツと引き換えに、DVDを焼き増ししてもらうことを交渉しておいた。明日には渡してもらえるはずだ』
「……!」
 口の端をわずかに上げて、スイッチが微笑みのような表情を作る。
 それを合図にしたかのように、ボッスンとヒメコは声を揃えた。

「「さすがスイッチ!」」

「ほんとお前最高だ、嫁に来い俺が一生面倒見てやる。いやむしろ俺を嫁にしてくれ。俺が一生味噌汁を作ってやる」
『wwwww』 
「味噌汁くらいアタシかて作れるわ。まあアンタの嫁にはならんけど。嫁にも取らんけど」
 一斉に盛り上がるスケット団3人の側に。
 いつのまにか寄ってきていたモモカが、遠慮がちにヒメコに声をかけた。
「あの……姉さん?」
「ん? どうしたん、モモカ」
「……あの。あれくらいの情報、スイッチくらいだったらすぐに引き出せただろ。なんで最初から、それをやってくれなかったんだろ?」
「んー……」
 興奮した様子で跳ね回るボッスンと、笑い声なのかなんなのかよくわからない合成音を発しながら歩いていくスイッチ、ふたりの後姿を見つめながら。
「……あいつ、ただの構われたがりなんちゃうかな。きっと」
 ヒメコはぼそりと呟いて、笑った。


 その翌日にスケット団の部室で行われたアイオケ鑑賞会は、大変に盛り上がったそうであるが。
 翌週放映された最終回の意外な展開を巡り、ボッスンと椿の間で壮大な論争が展開されたのは、また別の話である。


おしまい。


SKET
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