差し伸べられた手

「お前はミストの事が嫌いなのか?」
 疑う事を知らず、裏を書く事を好まず、飾らず素直な言葉を口にし、迷わず前を向いて歩んでいく。
 アイクがそう言う人物であると、充分すぎるほどに熟知していたはずのセネリオだったが、それにしてもあまりに率直過ぎる物言いに、返す言葉もなかった。
 基本的にセネリオはアイク以外の誰とも馴れ合わず、素っ気ない態度を取っている。感じが悪いと取られる事は当然だろうし、アイク以外の全てを嫌っていると誤解――アイク以外の誰にも興味がなく、興味を抱けない対象に愛想を振り撒く事に意味を見出せないだけで、嫌っているわけではない――されても当然だとは思って居るが、特定の人物に嫌悪を抱いていると判断される理由に心当たりは全く無かった。だいたい、仮にそうだったとしても、だ。当事者に対して直接的に質問を投げかけるのはどうだろう。
「どうして突然、そんな事を聞くのですか?」
 他の人物に同じ問いを投げかけられたとしたら、「ミストはともかく、貴方が不快です」とでも返していただろう。だが、相手がアイクであれば話は別だった。誤解される事は構わないが、それによってアイクが不愉快な想いをしているのだとすれば、それはセネリオにとって望ましくない事だからだ。
「いや、俺は何とも思ってないんだけどな」
 アイクは無表情のまま少し考え込み、それから答えた。
「ミストの奴がセネリオに嫌われたんじゃないかって気にしてたからから、一応聞いておこうかと思ってな」
 ああ、なるほど。
 セネリオは妙に納得し、静かに目を伏せると俯いた。
 自らの感情の起伏が激しいためか、他人の感情に敏感な所がある少女の顔が、瞼の裏に蘇る。長い年月を同じ傭兵団で過ごしているものの、彼女と特に親しくしていたわけではないセネリオの中にあるミストの表情は、悲しそうなものばかりであった。
 それら全てはここ最近の彼女が見せていたものだが、まさか原因が自分にあるとは思っていなかったセネリオは、小さくため息を吐きながら、紡ぐ言葉を選んでいた。
「嫌っているわけではありません。特別好きではありませんが」
 嘘で取り繕うつもりはない。だが、はじめから全てを語る必要もあるまい。セネリオは自身の胸の奥にある感情から、最も当り障りのないものを拾いあげ、アイクへ伝えた。
 嘘は本当に言っていなかった。セネリオはミストを嫌っているわけではないし、特別好いてもいない。それは真実だ。
 だがそれだけではなかった。豊富な知識を蓄えたセネリオの脳でさえ、胸の内で渦巻く感情を上手く伝える言葉を見つけられないが、あえて言うなら――そう、あえて言うなら、憎悪や嫉妬と言った感情に近いものを抱いている。ミストがそれを敏感に察知し、セネリオに嫌われていると思いふさいでいるのだとすれば、さらに鬱陶しいとの言葉も追加しなければならないだろう。
「そうか。それならいいんだ」
 アイクは実に彼らしく、困ったように笑って言った。
 それ以上問われなかった事に、セネリオは密かに安堵した。アイクに請われれば、全てを打ち明けなければならず、それは少し気恥ずかしかった。
 何ヶ月前だったか具体的には思い出せないが、あれは確か港町のトハだった。敗戦国の町とは思えないほど活気に満ちた市を、セネリオは歩いていた。
 ガリアの戦士ライが、ベグニオン行きの船の手配が終わるまで好きに買い物をしていろと与えてくれた時間だったが、元より物欲のないセネリオにとって特別ありがたいものではなかった。結局いつものように、集められるだけの情報を集めるだけだ。
 ただ、市に並ぶ溢れるほどの品や、その中にある今まで見た事もないような珍品に、少なからず楽しそうにしているアイクを見つけた時は、ライの申し出に少しだけ感謝した。
 それぞれが別行動をしていたはずだが、市の面積は有限だ。歳の割に背が高く、商人や町人とは一風変わった格好のアイクと、端から見ても仲が良い妹の二人連れは、人通りが多い中でも目に付いた。
 だから、見てしまったのだ。
 人込みの中を平然と歩いていくアイクが、人込みにもまれはぐれそうになって居たミストに、差し伸べた手。
『もう、いつまでも子供扱いしないでよね!』
 そして、軽く拗ねたような口ぶりで、差し伸べられた手をはらったミスト。
『――!』
 あの時セネリオは、全身の体温を失ったかのような錯覚を覚えた。震える事もできずに立ち尽くし、市を進んで行く兄妹を睨むように見つめながら、腹の置くから湧き上がって胸の中でわだかまる感情をもてあましていた。倒れこむ事ができれば、整理のつかない感情を少女に叩きつける事ができればどれほど良いかと願いながら、喉までせり上がってきているものを抑えるために、口を抑えた。
 幼い頃の記憶が瞬時に蘇った。誰にも顧みられる事のなかった哀れな自分。とげとげしい感情と、膨大な知識を押しつけられるだけの自分。何を与えられるでなく、傷付けられるだけの日々が過ぎ、ようやくひとりになれた時には、自ら何かをする事もできず、絶望と言う名の暗闇にいた。
 そんな自分に差し伸べられた、手。
 小さな手は、やがて大きな光となって、セネリオに温かいものを与えてくれた。大地が、風が、太陽が、優しいものだとはじめて知った。人の声を聞く事が心地良いのだと、食べ物が美味しいのだと、あの時はじめて実感できた。
 嬉しくて涙が流れる事もあるのだと、初めて体感したのだ。
 今こうして生きているのも、生きていたいと思うのも、あの手があったからこそだ。それがセネリオの全てだと、他には何もいらないと――嘘偽りなく、胸を張って、言葉にできる。
 それをあの少女は、いとも簡単にはらいのけた。
 衝撃だった。当り前のように差し伸べられるものの価値を知らずにいる少女を、許せないと思いながらも、哀れだと思った。
「どうして、嫌われているなんて思ったんでしょうね」
 嫌いでは、ない。
 そんな簡単な言葉で、この複雑な感情を、現せるわけもないのに。

『セネリオはとても綺麗ね。羨ましい』
 一、二年前だったか、ミストは屈託なく笑いながらそう言った。
 そうですか、とセネリオは素っ気なく答えた。僕はアイクの妹である貴女が羨ましいですけどね、とは、自尊心が邪魔をして言えなかった。
『私にもセネリオみたいな魔力があればいいのに。そしたらもっと、みんなを守れるのに』
 震えながら、祈るように呟いたのは、そう遠くない昔の事。団長――アイクとミストの父親――が亡くなってすぐの事だった。
 その気持ちは少し理解できない事もなかったが、特に感動はしなかった。
 欲しいのなら、なにもかもくれてやる。その代わり。
「――っ」
 願う自分の浅ましさが、滑稽で醜いものに思え、セネリオは両手で自分の顔を覆った。
 力無くよろける体を壁に預け、そのまま座り込む。感情が体熱と共に冷たい石壁に吸い取られていくようで、心地良かった。
 ミストは間違いなくアイクの妹だ、と度々思う。容姿は少しも似ていないが、本質的な部分で、共通するものをいくつか見つける事ができる。
 彼女は前線で傷を負った者が居ると聞けば、自らの身の危険を顧みる事なく突進した。自分にできる事を知り、真っ直ぐに突き進む様子は、兄と共通する長所であり、自ら身を守る術を持たない彼女にとっては、致命的な短所でもあった。
 敵兵に襲われる所を見かけたのは、一度や二度ではない。味方の誰も殺さない事を目指しているアイクの意志と、その意志に沿うように試行錯誤を重ねた自分の作戦を踏みにじりかねない彼女の無鉄砲さには、呆れる事の方が多かった。
 見捨ててしまおうかと思った事もある。けれど、そうなればアイクが悲しむ。だから、何度か助けた事もあった。前線の中でも、魔道士である自分は若干後方に居て、戦場で彼女とかち合う事は多かったから。
 その度に、セネリオの胸内のわだかまりは増していった。
 愚かな少女だ。親を失った不幸に苦しむ事で視界を狭め、己の幸福に気付けないでいる。あちこちから差し伸べられる手のありがたみを、知ろうともしない。
「ええ、嫌いでは、ないですとも」
 嫌いになどなれるものか。
 何もいらない。他人が羨むような容姿も、膨大な魔力や知識も。何もかも、くれてやる。その代わりにセネリオが欲するたったひとつのものを、いつでも与えられる彼女に。
 彼女になれるものなら、なりたいのだ。
「セネリオ?」
 扉の向こうから聞こえてくる足音は徐々に強まり、部屋の前で止まった。ノックはせず、代わりにかけられた声は、この世で最も温かい声だった。
「居ないのか?」
 確認するように言いながら、扉が開かれる。慌てて顔を上げたセネリオは、真正面からアイクと目を合わせる事となった。
 視線が重なる事で、僅かではあるが、混乱や動揺が伝染する。セネリオから、アイクへと。
「なんだ、居たのか。居るなら返事しろよ」
「……すみません」
「謝らなくてもいいさ。それより、具合でも悪いのか?」
 力のない顔で、部屋の隅にうずくまっているセネリオに、アイクも何か感じ取ったようだった。
「夕飯の時刻だって言うのにお前がなかなか来ないから、みんな心配してたんだぞ」
「あ、いえ。少し、考え事を」
 アイクの目は、「そんな所でか?」との疑問を浮かべていたが、セネリオは答えなかった。
 言わない事を無理に聞きだそうとしないのは、アイクの優しさであり甘さでもある。軍を率いる者としてそれは時に罪だったが、知っていて甘える自分も同罪なのだろうとセネリオは思った。
「元気ならいいさ。とりあえず、考えるのは飯を食いながらか、食ってからにしろ。ほら」
 そうして差し伸べられた手は、記憶に鮮明に焼き付いているものよりもずっと大きくて、力強い。
 けれどセネリオを真から揺さぶる力は、記憶にあるものとまったくの同等だった。
 ああ、この人は。
 まだ僕にも、手を差し伸べてくれる。
「っと。こんな事しなくてもひとりで立てるよな。悪い、どうも俺は、いらんところでおせっかいらし、い――」
 アイクの手をじっと見つめたまま動けないでいると、アイクはその手を引っ込めようとしたので、セネリオアは慌てて手を出して掴んだ。重ね合わされた手のひらから伝わってくる温もりは、昔から変わっていなかった。
 判っているのだ。どれ程羨んでも、妬んでも、祈っても、セネリオはミストにはなれない。けれど。
「貴方は、変わらない」
「……何の話だ?」
「いえ、いいんです」
 他の者には見せた事のない、和らいだ表情を浮かべたセネリオは、先ほどとは違って迷いのない視線で、アイクを真っ直ぐに見上げた。
 この人はいつでも、その手を差し伸べてくれる。だから、それでいい。それ以上望む必要は、はじめから無意味だったのだろう。
 ときどきこうして、温かなものを分け与えてもらえれば、それだけでいい。そうすれば、自分は全てを投げ出せる。自分が持つ力の全て、命すらも、惜しいとは思わない。
 名残惜しむように、繋いだ手に少し力を込めてから、セネリオは手を離した。
 するとアイクは、一瞬呆けた顔を見せながらも、セネリオに笑顔をくれた。


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