食卓

 逸る気持ちを抑えきれず、温厚で知られた――生涯のライバルと勝手に語る青年に言わせるとのんびり屋の――青年は、彼らしくない乱暴な仕草で扉を開いた。
 大きな音が響くと同時に、家の中の空気が凍りつく。扉の向こうからでも聞こえてきた、上の弟の怒鳴り声も、小さな弟の泣き声も止まり、息を切らせた自身の呼吸の音だけが妙に耳につく事に苛立ちを覚えたオスカーは、しかしその感情をぶつける場所を見出せず、腕で口元を覆って自分の中に押さえ込み、消化した。
「兄貴……」
「お兄ちゃん!」
 数瞬の間を開け、ヨファは座っていた椅子を蹴飛ばして、オスカーに駆け寄ってきた。
 膝を着いて視線を合わせると、小さな弟はオスカーの胸に飛び込んでくる。オスカーがわんわんと泣き喚く小さな弟を優しく抱き止め、頭を撫でると、泣き声がいっそう大きくなった。
 本来ならば胸を痛めるべきなのだろうが、今は安堵の気持ちが先に立った。自分たちの父親が命を落とした事は変えようもない事実で、ならば親を失った悲しみや心細さは避けられようもない感情であり、それを素直に表に出す事は、大切な事に思えたのだ。ヨファのように小さな子供であればなおさら。
 しばらくそうしていたオスカーは、ふと思い出したように視線を巡らせ、立ち尽くしたまま気まずそうな顔でこちらを見下ろしているボーレと目を合わせた。突然の事に驚いたボーレは、一瞬硬直し、息を飲み、オスカーから視線を反らした。
「ボーレ」
 上の弟の名を呼ぶと、腕の中のヨファが一瞬だけ体を強張らせた。オスカーの服の裾をぎゅっと握りしめ、鼻をすする。
 扉の開ける前のふたりの間に何があったか、言葉をはっきりと聞き取れなかったオスカーに知る術はなかったが、ふたりの態度からある程度の事を察したオスカーは、ボーレに穏やかな笑顔を向けた。
「夕飯は、食べたかい?」
「え?」
「王都から慌てて帰ってきたから、まともに食事をとってなくてね。お腹が空いているんだよ。だから今から作ろうかと思ったんだけど、お前たちの分はどうするべきかと思ってね」
 問いかけた相手は立ち尽くす上の弟だったはずだが、答えたのは胸の中の小さな弟だった。
「僕、食べる!」
「そうか。じゃあ、少しまっていてくれ。すぐに作るから」
 オスカーはヨファを抱え上げ、食卓に着かせると、立ったままのボーレに座るよう目で伝えた。ボーレはしばらく戸惑っていたが、オスカーが肩を叩くと小さく肯き、椅子に腰を降ろす。古びた椅子がぎしりと立てた音が、自分が家を離れていた間の弟の成長を伝えてくれた。
 体がどんどんと成長して、体の成長に追い着けない自分に戸惑う日々。かつて自分が歩んだ時期を、ボーレも迎えている。
 そんな大切な時期に、成長を促すべき保護者を失った弟の胸の内を思うと、感情が連れてきた苦いものが口の中に広がった。
 遠く離れた王都に居たからなどと、言い訳にもならない。こんなに追い詰められている弟たちのために、これまで何もできなかった自分に苛立ち、オスカーは強く唇を噛んだ。痛みが、苦味と苛立ちを少し和らげてくれるように感じた。

「ありあわせで、簡単なものしか作れなかったけど」
 オスカーが料理をしている間、一言も言葉を交わそうとしなかったふたりの弟は、前に置かれた料理を目にすると、少しだけ表情を和らげた。
 台所にあった野菜の炒め物や、自分が携帯していた干し肉を使ったスープなど、本当に簡素でわびしい料理。だが、それでもふたりにとってはご馳走に見えたのかもしれない。勝手を知らない人物がたどたどしく使ったのだろうと一目で判る台所の惨状を見た直後のオスカーは、弟たちの態度に妙に納得するところがあった。
「いただきます」
 女神アスタルテに祈りを捧げてから、オスカーは料理に口を付ける。
 表情は暗いながらものすごい勢いで食べ続けるヨファに対して、ボーレはスプーンを握りしめたまま動こうとしなかった。
「ボーレ」
 名を呼んでも、ボーレは答えなかった。ヨファがボーレの異常に気付き、手を止めたのみだった。
「俺……」
「うん?」
「どうしていいか、判んなくっ……て」
 オスカーは微笑みながら、弟たちに気付かれないようそっとため息を吐き、ボーレに腕を伸ばした。ちょっと料理をのせればすぐにいっぱいになってしまう小さな食卓を、以前は不満に思っていた事もあったが、今のオスカーにはとてもありがたいものに感じた。
 少し手を伸ばすだけで、こうして弟に触れる事ができるのだから。
「兄さんなのに、一番大変な時に一緒に居てやれなくてごめんな」
 言うと、料理を睨みつけていたボーレの双眸から溢れたものが、一瞬にして頬を伝った。
 今日ようやく帰ってきたばかりのオスカーには予想することしかできないが、突然自分と幼い弟を支えなければならなくなったボーレは、ある種の感情を必死に押さえ込み、誰にも見せなかったのではないか、と思う。他人だけでなく、自分自身にすら。
 叶うならば悲しみや不安に浸って暮らしたい。だが、生きていくためには許されない――そうしてこの不器用な弟は、不要な感情のすべてを封印してしまったのだ。それ以外に方法がなかったから。
 今日この日まで、こうして父の死の悲しみや、それによって背負わされた重圧を、涙に託す事はできなかったのではあるまいか。
「俺、何にも……できなかったんだ」
「うん」
「家の事。兄貴みたいに器用にできねえし」
「うん」
「不安で、どうしようもなくて」
「うん」
「だから……ヨファに当たっちまって」
「うん」
「……すまねえ」
 怒鳴り声はそういう事だったのかと納得して見れば、ヨファも目に涙をためていた。泣く事を誰が咎めるでも無いだろうに、ヨファは泣く事を必死にこらえていた。
 子供の目ではない。幼いながら、立派な男の目だった。自身に課した試練を乗り越えようとする目。それは哀れみや悲しみでなく、決意が秘めていた。
 自分ひとりが泣き喚き、負担の全てをボーレに背負わせていた事を、ヨファは恥じているのだろう。大人の目から見れば当然は言いすぎとしてもそうなってしかるべきだと思えるのだが、今のヨファにとっては違うようだった。
「僕も……ごめん。ボーレのご飯、マズいとかひどい事言った」
 下手なりに一生懸命やっただろうボーレに対してそれは、確かに酷いと思ったが、ボーレもそうであったようにヨファも感情をぶつける場所が必要だったのだ。それはお互いしかありえず、ふたりきりである以上、互いに傷付けあう事は必然だったのかもしれない。
「しょうがねえよ。アレは本気でマズかったからな」
 ヨファの謝罪に、乱暴に涙を拭ったボーレが応えると、ふたりは小さく笑い合う。
 宮廷騎士と言う地位を捨て、帰ってくるという選択肢を選べた自分が、とても誇らしく思えた。オスカーは小さく微笑み、ふたりの肩に手を置いた。
 ふたりよりは年上だが、まだ若輩者と言える自分に、何がしてやれるかは判らない。それでも、弟たちが少しずつ安らぎを見つけられるよう、力を貸してやろう。
 弟たちの弱々しい笑顔を見下ろしながら、オスカーは決意を固めた。ふたりが以前のように陽気に笑ってくれる事が、今のオスカーにとって何より強い望みだった。


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