試練

 エリウッドは静かに祈りを捧げていたが、どれほど平常心を保とうとしていても、胸騒ぎを治めきる事ができずにいた。
 思えばあの日、父を求めて旅立った自分の所に駆けつけてきてくれた時から、親友であるオスティア候弟ヘクトルは、エリウッドの足で駆けつけられないほど遠くに離れた事がなかった。故郷で平穏に暮らしていた頃にはあたりまえの距離が――もっとも今は互いの故郷の間にある距離よりももっと遠くに離れているのだが――今は途方もない、孤独にも似た感覚を、エリウッドに与えてくる。
 彼は、彼だけが、今エリウッドのそばに居なかった。
 神将器がひとつ、天雷の斧アルマーズを手にするために、大賢者アトスとふたり西方へと旅立ったのだ。
 アルマーズが眠るその遺跡に潜む危険は、現代に生きる若者にとって――あるいは大賢者アトスにとってみても――まったく未知なるもので、その遺跡に挑戦すると言う事がどう言う意味か、エリウッドは計りかねていた。とても危険な事だろうと容易く想像できる。だがもしかすると、容易い試練なのかもしれないと、希望を抱く事もできるのだ。
「無事に帰ってこいよ、ヘクトル」
 立ち去るヘクトルをそう言って見送ると、ヘクトルは、いつものように力強い笑みを浮かべて、「任せとけって」と返してきた。
 ヘクトルは強い。その強さの中にときどき危うさを見つける事もあるけれど。
 だから自分が心配する必要はないのだろうとは、判っている。判っているけれど。
「……?」
 不意に空気がゆがむような感覚を覚え、エリウッドは顔を上げる。
 つい先ほどまでその場に居たのは自分だけだったはずだと言うのに、澄んだ空気の中でみずみずしく枝を伸ばした木々の中に見覚えのある姿を見付け、エリウッドは息を飲んだ。
「……アトス様」
 つい先ほど親友と共に姿を消した老人が、なぜ今、ここに居るのだろう。
 抱いて当然の疑問を込めて、エリウッドは大賢者の名を呼んだ。
「エリウッドか。ちょうどいい、カナスとファリナとの名を持つ者たちを呼んでくれんか。名前だけではわしには判らんからな」
「カナスとファリナ……ですか?」
 エリウッドは半ば呆け気味に瞬きをする。
「判りました。ですがその前に聞かせてください。ヘクトルはどうなったのですか? 試練は……」
「その試練を乗り越えるために、その者たちの力が必要なのだ」
 はっきりとそう言い切られ、幼い頃から聡明な子だと誉められ続けていたエリウッドは、しかしアトスの言葉を理解するために少々の時間を必要とした。
 理解をすると、余計に判らなくなる。
 アトスは何を言っているのか。
「試練にはひとりで向かうのではなかったのですが?」
「そのはずだった。しかしあまりに守護兵の数が多い。仲間のうちからふたりだけ選べと言った所、ヘクトルはそのふたりの名をわしに告げた」
「……本当に?」
 こんな事にアトスが嘘をついても意味がないと、頭では理解していたものの、どうしても信じられず、エリウッドは問いを投げかける。
 ひとりで挑まねばならないとアトスに言われたから。だからエリウッドは、ここで待ち、無事を祈る事を受け入れた。
 けれど。
 けれど、誰かが力を貸せるのならば。
 それは本来ならば、誓いを交わした自分であるべきだ。
 いつもの彼ならば、誰を差し置いても、自分の名を上げたはずだ。
「僕の名を、口にしませんでしたか、ヘクトルは」
 エリウッドが掠れた声でそうこぼすと、アトスは僅かに俯いた。
「ほとんど迷わず、そのふたりの名を口にした」
 たったふたりしか同行者を選べないのならば。
 そのうちのひとりに、杖も魔道書も使えるカナスを選んで当然だろう。彼の闇魔法は強力であるし、万が一武器の効かないような敵が現れても、ヘクトルの救いとなるだろう。杖で傷を癒す事もできるだろう。
 そしてもうひとり、彼の補助役となる戦士に、天馬で空を駆け、槍の使い手であるファリナを選ぶと言う判断も悪くない。
 ヘクトルはエリウッドを同行者に選ばなかった。
「……そう、ですか」
 無意識に、奥から込み上がってくる喜びが、口元に小さな笑みを浮かばせる。
 エリウッドがその事を自覚したのは、アトスが少し驚いた様子でエリウッドを見ている事に気付いた時だった。
「嬉しいのか?」
 今度はアトスが問いを相手に投げかける番だった。
「ええ、とても」
「なぜ……」
「だって、ヘクトルはああ見えて、とても先の事を考える男ですから。必ず帰ってくるつもりでも、それでも万が一を考えて、自分が帰れないと言う不測の事態を想定して、行動できる男ですから」
 自分たちの肩にかかるものがもっと軽ければ、ヘクトルは自分を選んでくれたに違いない。けれど今自分たちに課せられた責任は、世界がかかっている。
 ヘクトルは万が一、自分たちが帰れないとなった時に、エリウッドがここに残っている事を選んだ。選んでくれた。
 すべてをエリウッドに任せるとばかりに――それは、何物にも代えがたい信頼の証だと、エリウッドは思う。
「急いでふたりを呼んできます。ここでお待ちください」
「……頼んだ」
 エリウッドは力強く肯き、その場を走り去る。
 胸を支配していた不安に似たものは、いつの間にやら消え去っていた。


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