祈り

「レイ……ヴァンさま、レイヴァンさま」
 誰もが女性と見紛う、柔らかな面差しをいっそう優しくし、ルセアは主人の仮の名を呼ぶ。
 皮膚を切り裂きそうに冷たい雪解け水をひとくち喉を通してから、億劫に思いながらも振り返ったレイヴァンは、頂点に昇りかけた太陽の陽射しを浴びたルセアの金髪が眩しく、目を細める。
「なんだルセア」
「あっち、見てください」
 ルセアの細い指が示すところには、ふたつの人影があった。
 ひとつは少年の、もうひとつは小柄な少女の。
 ふたりは一冊の本を覗き込み、何かを語り合っていたが、ルセアにもレイヴァンにもふたりの声は聞こえない。ときおり混じる少女の笑い声だけが、かろうじて風にのって届くのみだ。
「ジャファルとニノか」
「ええ、ジャファルさんとニノさんです」
「……そのふたりがどうかしたか」
 水にぬれた口元を乱暴に拭い、レイヴァンは訊ねる。するとルセアは嬉しそうに笑った。
「レイヴァンさまは気付きませんか? ジャファルさんの眼差し、この軍に入ってからずいぶん優しくりました。ニノさんと一緒の時はいっそう」
 確かにルセアの言う通り、まだ黒い牙に所属していた頃のジャファルは、冷徹で残酷で優秀な暗殺者によく似合いの、鋭い瞳を持っていた。血の色を思わせる赤い瞳は、睨むだけで切り裂きそうなほど。とても同じ人間の瞳とは思えなかった。
 けれど今のジャファルは違う。先天的な要素が強いのだろう、目つきはお世辞にも良いとは言えないが、何と言うか――そう、この軍に入ってからの彼の瞳は、きちんと人間のものに思えるのだ。
 ルセアの言っている意味は判る。判るのだが。
「だから、なんだ」
 それは水を飲んでいるレイヴァンをわざわざ呼んでまで見せるべきものだろうか。
 疑問に思い訊ねると、ルセアは失望したかのように表情を曇らせ、わざとらしくため息を吐く。肩を落とし、レイヴァンに背中を向けた。
「レイヴァン様の瞳も、あのくらい優しくあってくれれば良いのですけれど」
「……俺はあれより悪いのか?」
 レイヴァンはある種の衝撃を受けた。
 自分の目付きが良いか悪いかなど今まで気にした事もないし、傭兵として生きて行く以上むしろ目付きなど悪いほうが良いのだろうが。
「何かを守る人の瞳は、破壊を望む人の瞳よりも、ずっとずっと優しいものですよ」
 誰の目から見ても明らかなほどに優しいルセアの輝いた瞳は、眩しいものを見るかのように僅かに細められ、ジャファルとニノに注がれる。
「また説教か。しつこいなお前も」
「私の諦めが良ければ、とっくにレイヴァンさまなど見捨てて、どこかの教会で静かに暮らしていますよ」
「……違いない」
 ふてくされたように言う、この年上の臣下の態度が妙におかしく、レイヴァンは低く笑い声をもらした。
「お前の諦めがよければな」
 ひとしきり笑ってから、レイヴァンは呟く。
 そうすれば――ルセアがそばに居なければ――自分は自由になれると思う。その自由は、けして優しくはないだろうけれど。
 そしてレイヴァンの瞳はより陰り、復讐のためだけに生きられるだろう。
「レイモンドさまの心に、聖女エリミーヌの御心が伝わりますように」
 ルセアは日に何度、そうして祈るのだろうか。手を組み、目を伏せ、願いを込めて。
 そうして少しずつ、ルセアの祈りは、天へと通じていくのだろう――忌々しい、本当に忌々しい事に。
「お前がどれほど祈ろうと、俺はオスティアへの復讐を忘れるつもりはないぞ」
 優しい祈りに負けまいと、レイヴァンは冷たい誓いをくりかえした。
 ルセアはゆっくりと伏せられた目を開く。
 どれだけ虐げても、ルセアの中からけして消えない慈愛の光。それがどれほど、レイヴァンを苛立たせるか、ルセアは知るまい。
「それでも私は祈ります」
「オスティアの……リキアのためにか」
「いいえ」
 いつも穏やかなルセアが、珍しく語調を強め、きっぱりと否定した。
 いつも穏やかなルセアの瞳が、珍しく貫くような強い視線で、レイヴァンを捉える。
「貴方のためです。レイモンドさま」
 レイヴァンは、自分よりもいくつか年上とは言え、背も力も遥かに弱いこのルセアと言う男に、しかしけして勝てまいと時折思う事がある。そして今がまさにその時だった。
 けれど負けるわけにはいかないのだ。負けてしまっては、父や母があまりに哀れではないか。
 この、胸を焼く憎しみを。
 心に残る、傷痕を。
 どうにかして、輝かしい幸福の中で生きるオスティアの者に叩きつけ、冤罪で苦しむ者の存在をしらしめてやらなければならない。それが生き残ったレイヴァンに与えられた使命だと思う。
「ルセア、俺のためを思うのなら」
「レイヴァンさま……」
「もう二度と、くだらない事を祈るな」
「……」
 ルセアは答えない。
 それは拒否の証だと、誰よりもレイヴァンは知っていた。
 知っていながらも、レイヴァンはルセアを咎める事ができず、逃げるようにその場を後にした。


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