背中

 エリウッドの目には、人の輪から遠く離れて星空を見上げる親友の背中が、彼がごく稀に親しい者だけに見せる隠された弱さの象徴として映った。
 そんな彼の背中に気付かないまま夜を明かさずにすんだ己を誇りに思いながら、エリウッドはできるかぎり静かに、だがけして存在を隠すような事をせず、ヘクトルの側に歩み寄る。
 彼は近寄るエリウッドを拒絶しなかった。
 しかし、エリウッドの存在に気付いているにも関わらず(彼が気付かないわけが無い)、一言も声をかけてこない辺りから察するに、無条件で歓迎してくれるわけでもないようだ。
 彼は今、とても複雑な感情に悩まされている。
 エリウッドはその悩みの直接的な原因ではないが、悩むように強制した張本人であるから、間接的な原因と言えるだろう。そんなエリウッドを、彼が笑顔で受け入れてくれないのは、当然の事と言えた――むしろ、そんなエリウッドを責めようともしない彼の強さと潔さは、尊敬に値する。
「ヘクトル、座るよ」
 エリウッドは少々悩んだが、ヘクトルの隣ではなく、背中合せに座る事にした。
 顔を上げると、雲ひとつ無い星空が見える。眩しいほどに星と月が輝き、美しくも物悲しいものとしてエリウッドは受けとめる。背中が少しだけ触れる親友が、そんな気持ちで空を見上げているに違いないであろうから。
「エリウッド」
「なんだい?」
「……背中、借りるぞ」
 返事を待たず、ずしり、とエリウッドの背中にヘクトルの体重がかかる。
 同じ戦場に身を置く男とは言え、実践経験の少ない細剣使いのエリウッドと、戦い慣れた戦斧使いのヘクトルでは、目に見える体格差があり、正直なところを言えば、こうして彼に凭れかかられる事は、エリウッドにとってかなりの負担ではあった。
 けれど、これは、ヘクトルの甘え。いつも自分を甘やかしてくれる親友が、自分の存在に救われている証。それを拒絶する事など、エリウッドにできるわけがない。
「ジャファルの事かい?」
 親友が何かを言い出すまで、黙っていようと思っていたが、ふと気が付くと、エリウッドは核心を突いた問いを投げかけていた。
「どうだろうな。ジャファルっつーか、レイラっつーか、マシューっつーか」
 つい先日仲間にした、【死神】の異名を持つ男が殺した女性と、その恋人の名を聞くと、この件には無関係とも言えるエリウッドでさえ、少々胸が痛む。
「君たちがジャファルを恨むのは当然の事だ」
「そうだ」
 ヘクトルは即座に強く頷いた。
「そんでもって、お前があいつやニノを救いたいと言うのも、人間として当然の事だ。殺されたのがレイラじゃなくて、マーカスやロウエンだったら、俺らの立場は今、全く逆だったと思うぜ」
「ヘクトル……」
 エリウッドも、ヘクトルと立場を入れ換えて考えてみた事はある。だからこそ、彼にジャファルを仲間として受け入れろと言うのは、辛い。
 彼らにだけ我慢を強いるのはエリウッドも辛い。けれど、彼らの間にある恨みを消せなければ、何も変わらないのだ。
 どうすればよかったのか。どうするべきだったのか。
 エリウッドはまだ、正しい答えを導き出す事ができていなかった――おそらくこの答えは、当事者でないエリウッドが出して良いものではないのだろう。
「なあエリウッド。【死神】が俺らと同い年だって、知ってたか?」
「え……?」
「ニノが言ってたのをフロリーナが聞いて、そのフロリーナからセーラが聞いたんだと」
「……」
「言葉にならないほど驚いてんのか? まあ、そうだよな。俺もだよ」
 彼は、ジャファルは、エリウッドたちと同じ時間を生きてきて。
 エリウッドたちが笑っている時、泣いている時、感情を知らずにすごした。
 エリウッドたちが手合わせを繰り返し、勝敗を競っている間、命じられるがままに人を殺していた。
 それが【死神】である彼の生き方。いや、それを生きている、と称して良いものか。
「あいつはこうして、背中を任せられる相手、居なかったんだよな。今までずっと」
 エリウッドの体に、震えが走る。その震えが何を意味するか、エリウッドは考えない。
 けれど、今となっては、とても耐えられない事だとは、思うのだ。
 頼もしい父も、優しい母も、気の置けない親友も。その全てが存在しない生活など、今のエリウッドにとってはありえない事だと。
「頭では判ってんだよ、俺だって。俺があいつの立場に生まれてりゃ、何も考えず何も感じず、レイラを殺すだろう。あいつが悪いんじゃない、悪いのはネルガルだってな。だから恨みたくない、許したいって、思ってはいるさ」
「ヘクトル」
「けどな……やっぱ仲間が死んで、実行犯はあいつだってのは、変えようの無い事実だ」
 背中にかかるヘクトルの体重が突然消え失せた事に驚き、エリウッドが振り返ると、ヘクトルは夜空を見上げるのをやめ、俯いていた。
「エリウッド、マシューってヤツはな、ほんとどうしようもねえヤツなんだ。一応俺は主君だっつうのに、くだらねえことばっかするんだぜ。ふたりで城を逃げだそうとした時なんざ、俺を騙しやがって、荷物のほとんどを俺に持たせやがったしな。なのに悪びれもせず、いっつも笑ってて……」
 親友に仕える密偵が、いかに陽気で軽快な人物であるかを、近しい立場では無いエリウッドでさえ知っていた。
 そんなマシューが、笑う事を忘れてしまった瞬間を、エリウッドも覚えている。
 あんなにも切ない悲しみ方を、エリウッドは知らなかった。
 命の尽きた父の体を抱きしめ、ひたすら泣き、周りに気を使わせたエリウッドとは大違いだ。
「彼を許してはいけないと、許すのが辛いと思う君の気持ち、少しは判るつもりだ。だからヘクトル、本当に辛いなら、君は許さなくてもいい」
 驚いたヘクトルが、一瞬で顔を上げた。
「エリウッドお前、何、訳の判らねえ事……」
「僕は彼を許したいし、許さなければならないと思ってる。けれどそのために、君たちを過分に苦しめていいとは思わない。だから、君が許さないと言うのならその分、僕がふたり分許そうと思う。マシューも君と同じなら、三人分だ」
 ほぼ同時に、エリウッドとヘクトルは顔だけ振り返り、視線を合わせる。
 睨みつけるようなヘクトルの厳しい視線を、エリウッドは温かい視線で受け止め――先に目を反らしたのは、ヘクトルだった。彼は微かに、声を殺しながら、笑っていた。
「あんまり俺を甘やかすなよ」
「たまにはいいだろう?」
「まったく。人が善すぎると早死にするぞ」
「その時は君が僕を守ってくれればいいじゃないか。今日のお返しに」
「……調子のいいヤツだな、お前」
 ヘクトルは再び、エリウッドの背中に体重をかけた。
「重いぞ、ヘクトル」
「うるせえ。このくらいねえと斧使いはやってられねえんだよ」
「そう言う意味で言ったわけじゃない」と、エリウッドは言い返そうと思ったが、止めておいた。
 そんな事を言わなくとも、彼も本当は判っているであろうし、何より、冗談で流したくはない言葉が、かろうじてエリウッドの耳に届く程度の声量で、ヘクトルの口から飛び出たからだ。
「お前が居てよかったよ」
 ジャファルの事を思ってか、単純に今この時の事を言っているのか。
 それだけで判断する事はできなかったが、エリウッドはどちらでも良いと思えたので、静かに両目を伏せると、黙って小さく頷いた。
「僕もだよ、ヘクトル」
 返すべき返事を、黙って飲み込んで。


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