家族への憧憬

「あのね、あのね、ジャファル、すごいの! あたしすごい事聞いちゃった!」
 赤子の頃から暗殺者として育てられた【死神】ジャファルに、そうして明るく、気軽に声をかけてくる者は、少なくとも今のところ、ニノと言う名を持つひとりの少女だけであった。『黒い牙』を抜け、エリウッド率いる軍に従属するようになってからもそれは変わらない。
 いや、むしろ、『黒い牙』の仲間たち(ジャファルは彼らを仲間と認識していた事は無かったが)の方が、よほど親しかったと言えるだろう。何しろこの軍には、『黒い牙』時代のジャファルが手にかけた相手に親しい者が居る。彼らがジャファルを受け入れず、恨みを抱くのは当然の事と言えた。
 当然の事――そう思えるようになったのは、いつからだろう。
 昔のジャファルでは判らなかったはずだ。親しいものを失う恐怖や、奪った人間への恨みなど、想像した事も無かった。
 親しい者など、大切な者など、かつてのジャファルには存在しなかったのだから。
「どうした、ニノ」
「あのね、あたし今、カナスさんに字、習ってるでしょ? それでね、ほら、このペンダント」
 ニノは大切そうに両手で握りしめていたペンダントを開き、中に収められている写真をジャファルに示した。
 仲の良さそうな夫婦と、生まれたばかりの子供がふたり、幸せそうな四人家族の肖像。
「ここに書いてある名前が読めたから、カナスさんに報告に行ったの! そしたらカナスさん、すごい事教えてくれたんだよ。あのね、カナスさんの奥さんのお姉さんが、あたしの本当のお母さんと、同じ名前で、同じ理魔法の使い手なんだって! それで、若くして亡くなったところも同じなの」
 その一致は、全くの偶然と笑い飛ばすにはあまりに重なりすぎていた。
 けれど同一人物と決め付けるには、情報が足りなすぎるようにも思える。
 ジャファルは何も口出ししない。信じるも、信じないも、ニノの自由にすべきだ。
「カナスさんの奥さんのお姉さんが、あたしのお母さんだといいな」
 ニノの笑顔の明るさが少しだけ弱まったが、その表情はけして悲しそうではなく、より幸せそうな笑顔としてジャファルの双眸に映った。
「どうしてそう思う」
 少女の浮かべる表情が、ジャファルにとってはとても不思議で、自然とその問いが口をついていた。
「『どうして』?」
 大きな両目を更に大きく見開いて、ニノはジャファルを見上げてくる。
「どうしてそんな事、聞くの?」
 逆に質問を投げかけられて、ジャファルは答えに詰まった。
「お前こそどうしてそんな事を聞く」と、聞き返したい衝動にかられたが、それをしてしまえば、互いに問いを投げかけあうだけで何の解決にもならないと判っていた。無意味な事を繰り返すのは、ジャファルの性分ではない――無駄なく、素早く仕事を片付ける。暗殺者であったジャファルは、ずっとそうして生きてきたのだから。
「カナスさんの奥さんが、あたしのお母さんの妹なら、カナスさんの奥さんも、カナスさんも、あたしの家族になるんだよ。それに、カナスさんの奥さんに会ったら、お母さんやお父さんの話、聞けるかもしれないんだよ。今までちっとも知らなかった家族の事が判るんだよ。それって、嬉しくない?」
 そんなに優しい目で、真っ直ぐに見上げられても、ジャファルには答えようが無かった。答えられるはずも、なかった。
 ジャファルの中に蘇る記憶は、闇と、血と、ネルガルと、拷問にも似た暗殺技術の訓練の日々。
 物心付いた時からそれらしか周りになかったジャファルが、ニノのように家族への憧れや愛情を抱けるはずがない。
 それどころかジャファルは、自分に(他の人間と同じように)本当に両親が居るのかどうかさえ疑っていた。モルフのように高い魔力も美しい容姿も持っていないが、あれらと同じように自然の摂理を捻じ曲げて創られた存在だと言われた方が、すんなり納得がいく。特にニノを見ていると――人間であるならば当然持っているべきものが数多く欠如している自分に気付くからだ。
「判らん」
 素直な気持ちを簡潔に、ジャファルは口にした。今自身の隣に立つ少女に、嘘偽りを述べる気にはなれなかったし、述べる意味も無いと知っていたからだ。
「俺は家族など知らない。その愛情も」
 家族そのものも、家族への憧憬も、ジャファルは知らない。
 だから今、ニノがどれほど嬉しいのかも、判らない。
「そっかあ」
 パチン、と音を立てて、ニノはペンダントを閉じ、家族の肖像を隠してから、ひとつため息を吐いた。
「あたし、ジャファルの家族のつもりだったんだけどな」
【死神】と呼ばれていたジャファルに、馴れ馴れしく声をかける者は、ニノただひとり。
 そしてこれほど唐突に、ジャファルを動揺させる者も、おそらくニノただひとりであろう。
「そう……なのか?」
「ジャファルが嫌なら、別にいいよ」
「いや」
 ジャファルがそっと、不機嫌そうに頬を膨らませるニノの髪を撫でると、ニノはくすぐったそうに、可愛らしく笑った。
 そうだったのか。
 この少女が与えてくれるこの温もりが、優しさが、『家族』と言うものの象徴であると言うのならば、焦がれて熱望する気持ちを、理解する事ができるかもしれないと、ジャファルは思えた。
「そう、だな」
「ジャファル?」
「お前の母親の、血縁だといいな。その、カナス……と言う男の妻が」
「……うん!」
 ニノが笑う。
 そしてジャファルの心が、温かいもので満たされる。
 この気持ちを、人間としての感情を、教えてくれたのは、ニノ。
「そしたらジャファルの家族も、いっぺんにたくさん増えるね!」
 ジャファルは静かに目を伏せ、自覚無く、小さく微笑んでいた。


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