最後の夜

 一定距離を保って連なる窓から差し込む月明かりと、ミカヤ自らが手にする燭台の淡い光だけが、暗く長い通路を照らす。その薄闇の中に、カツン、カツンと、足音が響き渡った。
 他でもない自身が立てた音であるにもかかわらず、ミカヤ以外に人が居ないためか妙に大きく感じる音は、ひとりの寂しさを強調させ、恐ろしいものに感じられた。恐ろしいならば、部屋に戻って休めばいいのだが、休もうとしても眠れないからこそ部屋を出たミカヤに、その選択肢ははじめから存在していなかった。
 デイン復興のために目まぐるしい日々を送るミカヤの小さな身体には、ずいぶんと疲労が蓄積されている。寝台に寝転び、目を伏せれば、すぐに明日が来るのが当然だった。少なくとも、昨日まではそうだった。だと言うのに、なぜ今日は眠れないのだろう。
 朝が来る事を、無意識に恐れているせいだろうか。
 ミカヤは無数とも言える窓の中のひとつの前で足を止め、黄金の月が輝く空を見上げた。雲ひとつない暗黒の夜空に浮かぶ月は、数多の星の中に埋もれる事なき存在感を示していた。
 静かで、美しい光景だ。そう言えばこのところ、ゆっくり空を見上げる余裕もなかったなと気付いたミカヤは、たとえ眠れずとも、良い休息の時間を得られた気がして、小さく微笑んだ。
 ゆるい風に弄ばれる銀の髪を押さえながら、心地よく静かな時を過ごしていたミカヤは、やがて通路に響き渡る足音を耳にする。
 音に導かれ、ミカヤは振り返った。
 音を立てた人物が誰なのかが、まず気にかかった。名も知らぬ兵士たちなのか、常日頃から信頼を預けているデインの重臣たちなのか――確かめるために、音が近付いてくる中で待ち続けていたミカヤは、やがて影が月光に照らされて姿を表すと、静かに息を飲んだ。
 デイン王ペレアスその人だった。光を浴びる事で青みが増す髪をかき上げた彼は、僅かに遅れてからミカヤに気付き、足を止める。薄い唇はミカヤの名を呼ぼうと開かれたが、結局は何の音も発する事なく、硬直したままだった。
「ペレアス様」
 そう呼ぶのは、随分久しぶりな気がした。神との戦いを終え、デインに帰還してからは、ふたりで話す機会などそうなかったからだ。特に、退位を決意した彼が国民に真実を発表し、新たな王としてミカヤを指名してからは、共に忙しく、自由な時間などまるでなかった。顔を合わせるのは必ず公的な場で、大勢の臣が集まる場所ばかりだったと記憶している。
 ペレアスは静かに、戸惑う様子を見せた。その場を動く事も、顔を反らす事もしなかったが、視線が迷い、ミカヤから反らされている。
「ペレアス様も、眠れないのですか?」
 沈黙に耐え切れず、ミカヤが再度声をかけると、ペレアスは静かに微笑んだ。そして突然、だが優雅な仕草でミカヤに歩み寄り、深々と礼をする。
「日は変わりました。新しきデインの夜明けは、間もなくやってくるでしょう」
 ミカヤが過去にペレアスと言葉を交わした機会は幾度もある。だが、そのような口調で語られた事は、一度としてなかった。意味が判らず――もしかすると判っていたのかもしれないが、判りたくなかった――動揺したミカヤは、再度ペレアスの名を呼ぶ。
「ペレアス、様……?」
「今日と言う良き日を無事迎えられました事、心より喜び申し上げます、ミカヤ陛下」
 その時胸に走った衝撃を、ミカヤは知らない。
 たとえばサザを失いかけた時の胸の痛みとも、自身の正体を知った時の驚きとも違う、かつて味わった事がない、ミカヤを根源から揺るがすものが、ペレアスの言葉によって湧き出たのだった。
 絶対だと信じていたものが消え去り、足元から崩れ落ちていくような感覚。言い知れぬ不安感で、押し潰されてしまいそうだ。
「やめて……やめて、ください。ペレアス様」
 感情で詰まった喉から、ようやく震えた声を絞り出すと、ペレアスは穏やかな眼差しでミカヤを見下ろした。
「確かに私は今日、デインの王になります。けれど、戴冠式は夜が明けてからです。今のわたしはまだ、ペレアス様の臣下で――ですからどうか、今まで通りに」
 ミカヤは顔を伏せた。とてもではないが、ペレアスの視線に応えられなかった。
「そうだね。日付の区切りじゃあ、受け入れにくいかもしれないね。じゃあ、明確な区切りとなる、戴冠式が終わるまでは」
「は……」
 ミカヤが震える感情を声に出してはならないと、必死に押さえ込んでいると、涙となって両の目から零れ落ち、静かに頬を伝った。
 今更心が揺れている自身の滑稽さに嫌気がさし、ミカヤは泣きながら歪んだ笑みを浮かべる。それをけしてペレアスには見せまいと、両手で覆い隠した。
 王としての使命や責任の重さに怯えているわけではなかった。まったく怯えていないと言えば嘘になるが、一生怯え続けて生きていこうと覚悟しての事であるから、今になって泣くほどではない。
 嫌でも理解せざるをえなかったのだ。かつてデインの頂点に立っていた男に敬称を付けて呼ばれる事で、自分はデインの頂点に立つのだと――絶対的にひとりなのだと。
 とは言え、それもまた、涙をこぼすほどの理由にはならなかった。多くの臣が、友人が、家族が、そばに入れてくれる事をミカヤは知っている。比類なき孤独は、彼らの支えによって大部分が癒されるだろう。
「すみませ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 ミカヤの感情を突き動かすものは、深い悔恨だった。
 目の前の青年がデインの頂点にあった時、自分はどうしていただろう。デインの将として、可能な限り尽くしてきたつもりだったが、突然王に祭り上げられた彼の、絶対的な孤独を癒すための力には、なれていただろうか? 答えは否だ。当時のミカヤは、本当の意味で彼の孤独を知らなかったのだから。
 本当の意味で彼の支えになれていれば、彼がひとりで過ちを犯す前に、最悪の事態に落ち込む前に、何かできていたに違いない――それを今更理解した事実が、泣きたくなるほど恥ずかしく、恐ろしく、悲しい事だった。
「ごめんなさい……」
 温かな手が、ミカヤの左肩に触れた。間違いなくペレアスの手で、伝わる温もりは、言葉にせずとも、彼の優しさを伝えてきた。
 許してくれているのだ。おそらくは、もっと、ずっと前から。デインのために命を絶とつと覚悟していた時には、すでに。
「謝らないで、ミカヤ」
「でも、ペレアス様、わたしは、貴方に酷い事を」
「そんな事はないよ。ミカヤはいつも、僕を助けてくれていた。むしろ僕が迷惑をかけっぱなしだったじゃないか。望んでもない戦いをさせてしまったり……」
 右肩にも手が触れた。両肩から伝わる心は、今にも泣き崩れそうなミカヤに力を与えてくれた。
「ミカヤ、僕は、力の限り尽くすよ。デインに、君に――この肩にかかるものに、君が潰されないように、支えていけたらと思ってる」
 優しい声が、ミカヤの心を慰めた。優しい言葉は、それだけでミカヤの心を支えてくれた。これからミカヤが進む道の闇を知る者が、そばに居てくれる事実は、何よりも心強い気がしたからだ。
 けれど涙は止まらなかった。止まるどころか、むしろより強く溢れ、ミカヤの肩を震わせ続けた。


GAME
トップ