遠い約束

 ベグニオンの王都から懐かしきデインへの旅路は長く、けれど不思議と足が軽い。
 同じ道を往路でも進んだはずだと言うのに、往路の静けさとはまるで違う事が原因だろう。通り過ぎる街では人が動き、人の声が溢れている。宿も普通に営業しており、きちんと金を払って罪悪感なく利用できることも嬉しかった。
 ミカヤは全開にした窓から半身を乗り出し、朝の風景を眺めた。朝食の支度などとうに終え、井戸端に集まる主婦たちが楽しそうに歓談している姿を見ると、自然と笑みが湧いてきた。
 アスタルテの裁きから解放され、世界に負の気が戻ってからこちら、流れる時間の自然さに安堵しているせいか、ついつい時間を浪費してしまう。今朝はかなり早起きしたミカヤだったが、窓から見える光景を眺めているうちにずいぶんと時間が過ぎてしまったようで、部屋の外から扉を叩く音に慌てて窓から離れた。
「ごめんね、サ……」
 扉を開ければ義弟が立っていて、『皆とっくに準備を終えて待ってるぞ』と小言を言われる事を覚悟していたミカヤは、そこに立っていた青年が義弟ではない事に驚いた。
「ペアレス王」
「ちょっと、いいかな。出立の前に、ミカヤにだけ話しておこうと思って」
「は、はい。どうぞ」 
 ミカヤが部屋の中に入るように進めると、ペレアスは申し訳なさそうに会釈した。
 ミカヤは扉を閉めようとして、その前に通路を見回す。特に人影は見られず、せわしない様子もない。どうやら、出立までまだ充分な時間が残っているようだ。
 部屋の中に視線を戻すと、中心で足を止めたペレアスが、温かく降りそそぐ日差しを眩しそうに見つめていた。とても自然で優しい光景は、心温まる一枚の絵画のようで壊してはいけない気がして、声をかける事に躊躇したミカヤだったが、王をずっと立たせておくわけにも行かない。
「どうぞ、椅子に座って……」
 ミカヤが言い切る前に、ペレアスはこぼすように言った。
「国に戻ったら、王位を返上しようと思っているんだ」
 ミカヤの表情が凍りつく。ペレアスを見上げたまま全身を硬直させていると、ペレアスはミカヤに向き直った。
「ミカヤには、先に告白しておこうと思った。僕が本当は何者であるのかを。いや、何者でもない事を、と言った方がいいのかな」
「ペレアス王……」
 実に彼らしいと言える穏やかな微笑み。王となってからの彼が背負い続けていた苦悩の欠片はどこにもなく、純粋な優しさと、純粋な愛だけがそこにあった。清々しいと言える表情だ。
 ミカヤは祈るように、胸元で手を組んだ。
「僕は先のデイン王アシュナードの子ではない」
 深い闇色にも近い青色の髪が、日の光に透けて海を思わせる色となって輝いた。誰もが恐れた狂王と、温厚を絵に描いたようなペレアス王の唯一の共通点を見る者の目に焼き付けながら、それは唯の偶然なのだと彼は言う。
 事前の口ぶりからある程度の覚悟をしていながら、それでも受け止め切れない衝撃に混乱する中、ミカヤはペレアスの眼差しから目を反らした。
 ミカヤは彼の苦しみを知っている。優しく笑う彼の心に巣食う、深い深い闇。孤独で悲しい日々。ミカヤ自身がサザに出会う前に常に抱いていたものと同種の闇だ。
 自分自身に力などなくても自分の血が必要とされているのならば立ち上がろう、と決意した彼の静かな言葉に心を動かされたのは、一年前の事だった。彼は誰よりデインを愛していると判ったから、共に歩もうと決めた。無知ゆえに過ちを犯した事もあったが、デインのために、デインの民のために、その身を捧げていた彼を尊いと思ったからこそ、ミカヤはこの身を盾にしてでも彼の命を守ろうと思ったのだ。
 そんな彼が、デインのために生きる理由を失ってしまった。
 辛くないわけがない。悲しくないわけがない。
 けれど、それでも、ペレアスは微笑む。
「知らなかった事とは言え、みんなを騙していたんだ。心から申し訳ないと思う――僕の無知はデインの民を苦しめてばかりいたけれど、自分の事すら判らないなんて、愚かすぎて笑えないな」
「ですが、王母アムリタ様は、ペレアス様を間違いなく御自分の御子だとおっしゃってたのでは……?」
「母……いや、アムリタ様は、信じたかっただけなんだ。僕が息子なんだって事を。アムリタ様はおっしゃっていたよ。先王の子には間違いなく、ふたつの種族を繋いだ証が刻まれていたと。でも僕の印は違う。生まれつきではなく、僕の意志で刻んだものだ」
 ペレアスは両の手を組み合わせ、硬く握り締めた。
「ミカヤ。知ってしまった以上、僕はこれ以上デインの民を騙す事はできない」
 痛いほど誠実なその言葉は、勝手に王位を捨てると決意した無責任な言葉でもあった。ミカヤは彼に何と言って引き止めるべきかを決めかねて、沈黙を保ってしまう。
「僕が先王の息子であろうとなかろうと、今現在のデイン王は僕だ。復興のために全てのデインの民が一丸とならなければならない時に、民を導くべき僕が責任を放棄する事を、糾弾する者もいると思う。王であった僕が犯した罪を知る者ならば、尚更」
 ミカヤは鈍い動きで肯いた。
「でも僕は、デインを捨てたいと思ってるわけじゃない。僕に先王の血が流れていないと判った上で、民が僕を王に望んでくれるのならば、僕は再び王となり、迷う事なくデインの民のために尽くすだろう――けれど、おそらく、それはない。同じく王の血を引いていないと言う条件なら」
 ペレアスは大きな手を伸ばし、ミカヤの頬に触れた。温かく、だが少し震える手は、ペレアスを見ないように俯き続けていたミカヤの顔を上に向けさせる。
「皆、僕ではない人を選ぶだろう」
 ペレアスは誰とは言わなかった。だが、ミカヤには判っていた。自惚れでなく、理解していた。
「デインを勝利に導く暁の巫女」に向けられた熱気溢れる眼差しと声を忘れられるわけもない。自身に眠る力が、かのベグニオン帝国を長年治め続けてきた力である事を知った今となれば、尚更納得してしまう。
「僕の体の中に流れる血がデインの役に立つならと、ずっとそう思ってきた。けれど、その血すら――」
 深い闇、深い孤独が、ペレアスの心を支配しはじめ、触れる指先から伝わってくる。いや、もし触れ合っていなかったとしても、そばに居るだけで伝わってくるほどの強い感情だった。
 僕がもう、デインの役に立てないと言うのならば、後方の憂いを断つため、潔く身を引く事が、デインのためにできる全てだと言うのなら仕方が無い。
 でも、できる事ならば、ミカヤのように、本当の意味でデインに役立てる人間になりたかった。
「僕は……君が羨ましかった」
 妬みとも取られかねない言葉を紡ぎながら、ペレアスの瞳はただ悲しみだけを浮かべていて、力の無い自身を嘆く純粋な想いが伝わってくる。
 ミカヤは温もりに酔うように目を伏せ、頬に触れる青年の手に己の手を重ねた。
 この善良さが、この優しさが、王として相応しくないと思った事もある。けれど、この嘘のない善良さに、この曲がらない優しさに、救われた事もあったのだ。
「ペレアス様、覚えておられますか? わたしたちがはじめて出会った日の事を」
「砂漠の……遺跡で?」
「はい。わたしがイズカ殿に突然『副大将になれ』と言われた日の事です」
「……懐かしいな」
「あれからたったの一年だなんて、信じられませんよね」
 ペレアスの表情が和らいだ事を感じ取り、ミカヤも同じように表情を緩めた。
「あの日、私は副大将など無理だと即座にお断りしました。けれど、貴方はおっしゃった。自分にだって何もできない。けれど、自分が立たなければデインは変わらない。だから勇気を出して立ち上がったのだ、と」
「確かに言った。君を引き止めたい一心で」
「ペレアス様のお言葉を聞いて、わたしは目が覚めたんです。副大将と言う役目から逃げて、わたしに何ができるのか。目の前で傷付くデインの民に手を差し伸べながら、目の前に居ない人たちに差し伸べる手を持たない事を悔やみながら生きていくのかと――それは、わたしのデインへの愛にもとるのだと、気付く事ができました」
 ペレアスは無力に嘆きながら、無知を恥じながら、王である事だけはけして放棄しなかった。それがデインのためであると揺るぎなく信じ、その身をデインに捧げる事ができる人であった。
 そう、この青年が、デインへの愛にだけはけして迷わない人であったから。
「わたしは貴方が羨ましかったんです」
 だから着いて行こうと決めた。この人と共にあればデインが救えると言う予感を、微塵も疑わずに、ここまで来る事ができたのだ。
 デインさえ守れればどんな卑怯な手も厭わないと言う決意も、迷いの無い愛から生まれてきたものなのだろう。
「おかしな事を言うな、ミカヤは」
「お互い様です」
「そうかな」
「そうです」
「判った。そう言う事にしておこう」
 緊張が解れたのか、ペレアスは子供のように無邪気な笑みを一瞬だけ浮かべると、ミカヤの手を優しく除けた。
「朝から邪魔して申し訳なかったね」と短く詫びを入れ、部屋を出ようと扉に向かっていく。すぐに取っ手を手にしたが、しかし押し開けようとはせず、しばらく立ちつくしていた。
「ミカヤ」
「はい」
「ありがとう」
 偽りのない、簡潔な謝礼。
 それは決別の言葉のようにも聞こえて、ミカヤは再び表情を凍らせた。
 床を蹴り、距離を詰め、扉を開けて出て行こうとするペレアスが翻すマントに指をかけると、突然後ろに惹かれた事に驚いた顔のペレアスが振り返る。
「ミカヤ?」
 優しい声が、名前を呼んでくれた。予感が全て幻であったかように。
「ペレアス様、忘れないでください。わたしが感じた未来。貴方と共に進む先に、輝かしいデインがあったんです」
 あの時見たデインの未来が、いつのものかは判らない。すでに訪れた、駐屯軍から解放され彼が王位に着いた頃のものなのかもしれない。
 けれど、この先も。より明るいデインの未来を見るために、必要だと思うのだ。この人が。誰が王になり、誰が王でなくなろうとも。
「――ありがとう、ミカヤ」
 再び紡がれた簡潔な謝礼の言葉は、先ほどと同じ声音、同じ表情で紡がれたものでありながら、固く結ばれた約束のようだった。不吉な予感はどこにもなく、ミカヤを優しく包み込んでくれる。
 ミカヤは笑った。すると、ペレアスも微笑んでくれる。
 それだけの事だと言うのに、涙が出るほど幸せだと思えた。


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