その手に星を

「おやおや、どうしたんだい、エイミ!」
 三年前のデイン=クリミア戦役が終わってから開いた店は、カウンターから店の中が全て見渡せるくらいの小さな店であったから、店の片隅で泣きはじめた娘の姿を見つける事は容易だった。
 幸いにもまだ食事の時間でも酒の時間でもないため、店に居る客はまばらであったし、そのほとんどが馴染みの者たちだ。カリルは客の相手をラルゴにまかせて、すぐに娘に駆け寄った。
 エイミはまだ幼いが、気丈で、明るい娘だった。よく店の手伝いをしてくれ、近所でも評判が良いしっかり者の娘である。その娘がよりにもよって店の中で泣く事などかつてなかった。しかも、ついさっきまではすこぶる機嫌が良かったのだ。
 カリルは娘を抱き寄せながら、娘の傍らに立っている青年を見上げた。涼しげな青い瞳と同色の髪を持つ男――クリミア王宮騎士団長ジョフレを。
 大抵の女性の目を釘付けにできるだけの美丈夫であり、市街の隅にある店に居る事が不自然なほどの気品の持ち主でありながら、気取らず、下の者には気さくで、誰にでも優しい彼は、当然ながらクリミアの若い娘たちの憧れの的だ。幼いとは言え女の端くれであるエイミにとってもそうだった。
 だからエイミは、ジョフレが店に来る事をいつも心待ちにしていたし、彼が店に来るといつも以上に楽しそうに、機嫌良く働く。ジョフレが店に来る理由を増やすマカロフにまで優しくするほどなのだ。
「何があったんだい?」
 泣きじゃくる娘に事情を聞く事を諦め、カリルはジョフレを問いただした。
 彼がエイミを泣かせた犯人である事は明らかである。普段の彼ならば、エイミが突然泣き出したとすれば、優しく慰めるはずなのだ。泣くエイミを戸惑いながら見つめているだけなどと、原因が自分だと言っているようなものではないか。
「いや……その」
 ジョフレは口ごもった。言にためらいがあるのも、彼にしては珍しい。
「すまない。それは名誉にかけて言えない」
「名誉なんてどうでもいいだろ! だいたい、何だったここに名誉なんて小難しい言葉が出てくるのさ!」
「それは……」
 綺麗な顔に浮かぶ困惑が、より色濃く変わった。胸元で握り締めた拳が、小さく震えている。
 カリルは長い息を吐き出してから薄く笑みを浮かべ、エイミの背中を優しく撫でた。
「ごめん、言いすぎたねだ」
 娘が突然泣き出した事で、少し興奮してしまったようだ。冷静になると、一方的ジョフレを責めるような言葉を口にした事が、恥ずかしくなってきた。
 デイン=クリミア戦役の頃から、ジョフレとの付き合いは三年ほどになる。彼が絵に描いたような好青年で、子供をわざと泣かせるような人間でない事を、カリルはよく知っていた。しかもこの状況で、何よりも自分の名誉を優先するなどと、ありえる事ではない。
 ならば彼が守っている名誉は誰の者なのか。彼が心より仕える主のものかもしれないし、この店のものかもしれないし、エイミのものかもしれない。真実がどれにしても、ジョフレはけして口を割らないだろう。カリルや今この店に居る人間全てに、無為に子供を泣かせた悪人扱いされたとしても。
「いや、謝らないでくれ。悪いのは私だ。配慮が足りなかった」
 ジョフレは深く頭を垂れた。
 仮にも伯爵家の嫡男ともあろう彼が、平民である自分やエイミに、誠意を持って謝罪してくれる。嬉しいと思う反面、彼の不器用さに少しだけ呆れながら、カリルは未だ泣き続けるエイミを抱き上げた。
「すまないね、ジョフレ将軍。今日は、帰ってもらってもいいかい?」
「……判った。本当に申し訳ない」
「あ、でも、できればまた来ておくれね。今日追い返しちゃった分、サービスするからさ」
 カリルが笑いかけると、ジョフレの表情には僅かに安堵が浮かんだ。「心遣い感謝する」と硬い謝礼の言葉を残し、ジョフレは店を出て行く。
 ジョフレが立ち去ると、少しだけエイミの嗚咽が弱まった気がした。カリルは娘を抱いたまま、カウンターの中に戻った。
「おお、エイミ、大丈夫か?」
 娘に駆け寄りたい衝動を必死に耐えていたラルゴが、近寄ってきた娘の頭を撫で、涙で濡れる頬を拭く。大きな手は見た目に反してひどく優しく、エイミの泣き顔にやや笑顔が混じりはじめた。
「さっすがは我らがジョフレ軍。女泣かせの憎い男だね〜」
 穏やかな家族の輪に割って入る声。不愉快とまでは行かないが、カンに触るその声に、カリルは冷たい眼差しを投げかける。
 カリルはエイミをラルゴに預け、まだ夕食時にもなっていないと言うのに酒に飲まれてカウンターに伏せている男の剥き出しの後頭部を軽く殴りつけた。
「いいかげん飲みすぎだろ、あんたは! ま、お代はちゃんともらってるからウチとしてはいいんだけどさ」
「あれ? 俺、払ってるっけ? ツケにしっぱなしで一度も払った記憶ないけど」
「妹さんが『いつもすみません』って払いに来てくれてるよ」
「おー、いい妹だなあ、マーシャよ!!」
 マカロフは知らないのだろう。マーシャが事前に手を回して、マカロフの給料の半分近くを差っ引いている事も、そこからツケが支払われている事も。
 彼と妹の将来の事を思い、カリルは真実を告げずにおいた。
「それより、将軍様は女泣かせの酷いやつなのか? 確かにもてそうな面構えだが、真面目な人だと思ってたよ」
「真面目だよ。そりゃもう、真面目すぎるくらいに。部下だからってだけで俺の事見捨てないくらいだからな」
「将軍もマーシャも偉いねえ。尊敬するよ」
「まったくだ」
「納得してないで少しは反省しな」
 カリルは再びマカロフの後頭部を殴りつけた。今度は、先ほどよりもやや強めに。
「ほらさ、あの美男子っぷりに加えて将軍様と言う地位だろ。性格も良いし。まともな女の子はみんな将軍に惚れるんだよなあ」
「ま、惚れるは大げさにしても、一度くらいは騒いでみたくなるよね」
 カリルは己の過去を顧みて、周りに気付かれないよう苦笑した。
 自分のような女にもためらう事なく救いの手を差し伸べてくれた彼に、ときめいた過去があるのは事実である。もっとも、いつの間にか「悩み相談の相手」と言う立ち位置に移行し、友達になってしまったので、そんな感情を抱いていた事などカリル自身忘れてしまっているし、他の誰も――おそらくはジョフレ自身も――気付いていないのだろうが。
「でも将軍様はどんな綺麗な子でもどんな優しい子でも、絶対応えてやらないのさ。だから影で泣いてる女の子もいっぱいいるんだよ」
「なんだい。将軍に手当たり次第お手つきする最低男になれって言うのかい」
「そうじゃないけどさ。真面目すぎるせいで、軽く受け流す事もできないってのがなあ。なあ、エイミ? お前も可哀相にな」
「まかろふ、うるさい!」
 いつの間にか涙を止めていたエイミは、短い腕を必死に伸ばして手にとったスプーンを、マカロフに投げつけた。
 一応は騎士である普段のマカロフならば、手で受け止められたのだろうが、今はただの酔っ払いである。額に強くスプーンを打ちつけ、悶えるはめになった。
「そっか。エイミ、お前もジョフレ将軍にふられちまったのかい」
 カリルが頭を撫でると、エイミは寂しそうに肯いた。
「じょふれしょーぐん、えいみのおねがいいっつもきいてくれるの。でもね、『えいみがおおきくなったらおよめさんにして』っていったらね、だめっていわれたの」
「おやまあ」
 マカロフは急に表情を引き締め、カリルとエイミを真っ直ぐに見つめた。
「『すまないが、それだけはできない。私の生涯はただひとりの方に捧げると決めている』……くー、かっこいいねえ」
「将軍が言えば、ね」
「ね」
「俺、一応客なんだけど。もう少し優しくする気、ないの?」
「ないね」
「ね」
 マカロフはそれ以上話に入るつもりはないのか、酒を一気にあおると、再びカウンターに突っ伏した。マーシャか、ステラあたりが迎えに来るまで、そこをどく気はないのだろう。
 カリルはラルゴに背を向け、エイミを強く抱き締める事で、誰からも顔を見られないようにしてから目を細めた。静かに、長く息を吐き、胸に渦巻く感情を沈める。
 見返りを求める事なく、クリミアの頂点に輝く星を愛するジョフレを、悲しいと思った事がある。
 攫って逃げてしまえば良いのにと思いながら、それをしては彼ではなくなるのだとも理解して、切なくなった事がある。
 彼は今も変わらず見上げ続けている――あの優しく、美しい星を。主君としても、女性としても。
「ま、それはしょうがないよ、エイミ。将軍はずーっと昔からそうなんだ。母ちゃんも以前、将軍にふられた事があるしね」
「へー」
「おい、なんだカリル、それ! 聞いてないぞ!」
「女の過去を詮索するなんて野暮な男だねえ」
「過去って! お前と将軍が知り合ったのって、たった三年前じゃないか! もう俺が居ただろ!」
「そうだったかい?」
 カリルは優美な笑みでラルゴを黙らせた。
 今のカリルにはラルゴが居て、エイミが居る。小さいけれど優しい人があふれる店がある。噛み締めると涙が出るほどの幸せが、この手の中にあるのだ。
 だから、あの優しくて、堅物で、不器用な青年も、いつか同じように幸せになれればいいと、思う。
 彼が星を見上げ、星を支えるだけで、幸福を感じていると知っているけれど――それでも、いつかその星を掴み取れればいいのにと、願うのだ。
「王族とか、お貴族様とか、難しいねえ」
 カリルは心から祈った。彼の幸福を。
 店から追い出した詫びにできる事が他にない事を悔やみながら。

「だから、ねえ」
 神は失われ、世界が変わり、国は変わり、人も変わる。
 不可能とされていた事も可能となり、言葉にする事すら許されなかったはずの想いは、全ての祝福を得て成就した。
「この状況をあたし以上に喜んでいる人間は、居ないと思うよ」
 カリルは唇で笑みを作り、優しく目を細めて見守った。
 クリミアでもっとも高貴なる花嫁と、その傍らで幸せそうに笑う青年を。
 それは何よりも美しい光景に思えたのだ。


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