この喜びを伝えよう

 背中に触れる温もりと、耳に届く微かな寝息は、記憶の奥に眠りつつある懐かしい思い出を蘇らせる。
 ムワリムは半ば眠りに落ちつつも、半ば覚醒した意識の全てで温もりに酔いしれながら、小さく笑みを浮かべた。ここ数年で体も随分大きく――本人的には納得が行っていないようだが――なり、精神的にも更に逞しくなったトパックだが、当時から持っていた純粋さや優しさは、少しも失われていない事が嬉しかったからだ。
 勇気ある小さな手が臆病な大きな手を引いて走り出したのは、ベオクと比較して長いラグズの寿命を思えば、さほど昔の事ではない。しかし、その日から立て続けに起こった激動と言える変化は、一般的なラグズの一生で味わうものよりも大きいとムワリムは思っている。そのほとんどが素晴らしいものばかりで、与えてくれたのは背中の向こうで眠る少年だった。
 彼はベグニオンの民のほとんどが気付いていない、あるいは気付いていたとしても見て見ぬふりをする元老院の腐敗から、目を反らさなかった。消極的な方法だったかもしれないが、戦う道を選んだ。自分は関係ないと言うのに、苦しむラグズ奴隷を解放するために。
 元老院の腐敗に気付き、失望し、他所の国に亡命した男が、ベグニオンでは「新天地を求めて旅だった英雄」なのだそうだ。だとすれば、トパックは英雄などを遥かに飛び越え、神に値するのではないだろうか。
 以前ムワリムは、トパックが席をはずしている時に、無意識に呟いた事がある。その場に居た仲間たちはムワリムを笑ったが、誰ひとりとして否定しなかった。少なくともラグズ奴隷解放軍においては、彼は勇者であり、神であるのだ。
 はじめはふたりきりだった。ムワリムは、炎のように強い眼差しや「自由」と言う言葉に洗脳されるように、屋敷を飛び出した。長い従属生活が体に染み付き、報復を恐れてばかりいたムワリムを動かせるだけの力が、トパックにはあった。
 誰にも見つからないように、砂漠に逃げた。偶然見つけた古代の遺跡を宿としたが、砂漠の夜は凍えるように寒かった。用意していた毛布だけでは暖を取るのに役者不足で、ひとつの毛布に包まりながら抱き合って眠ったものだ。
 解放軍が徐々に大きくなって行き、神使サナキと言う強力な後ろ盾を得、トパックが子供から少年――もう青年と言ってもいいかもしれない――へと成長してからは、そうして寄り添って眠る事などなかった。互いの体温に頼らずとも暖を取る事はできたし、大人になるに連れて、父代わりである男と一緒に寝る事が、恥ずかしいと思うようになったのだろう。
 だが、今日。トパックはムワリムの隣で寝息を立てている。
 子供の頃のようにぴったりとくっついて眠るのはさすがに抵抗があったのか、背中合わせと言う形になっているが、ここで眠る事を望んだのは他ならぬトパックだった。
 しなやかで強い彼でも、不安にかられて眠れない夜があるのだ。そして、不安の原因が自身である事を、ムワリムは自覚していた。
「ムワリム!」
 耳の奥でこだまする、悲痛な叫び声。
「ムワリム、しっかりしろ、ムワリム!」
 何度も何度もくりかえし、トパックはムワリムの名を呼んだ。ムワリムの意識が、強烈な力によって弾け飛びそうになる度に、彼がムワリムを呼び引き戻してくれた。
 あの力は恐ろしかった。ムワリムの全てを飲み込みそうであったし、飲み込まれる事が何よりの快楽であるような錯覚をムワリムに与えた。何もかもを破壊できる解放こそが、喜びなのだと。
 トパックが名前を呼び続けてくれなければ、ムワリムはとうに薬の魔力に飲み込まれていただろう。ただ破壊するだけの存在となり果て、周りの者たちを食らいつくしていたに違いない。
 ムワリムの正気を保ったのはただひとつ、トパックだけは殺したくないと言う願いからだ。力に抗う事で精神が磨耗していく事は判っていたが、たとえ自分が廃人になろうとも、トパックを失うよりはましだと思った。
「よかった……ムワ、リム……よかっ……」
 大地を照らす太陽のように優しくて大切な存在が、自分の無事を知って歓喜に涙してくれた。
 太陽を食らう暗雲となりかけながらも、自分を保ち、鷺の王子によって救われた。
 この喜びを誰に伝えよう。
 いや、誰かに伝える必要など、ないのかもしれない。自分の胸の中で、輝き続けていれば。
「ムワリム?」
 背中の向こうから突然声がかかり、ムワリムはトパックを潰さないよう寝返りをうった。
「坊ちゃん、どうしました?」
「やっぱり起きてたのか。駄目だぞ、ちゃんと寝ないと。特に今日は、色々疲れてるだろ?」
 トパックは上体を起こし、ムワリムの目元を覆い隠すように手を置いた。
 ふいに訪れる完全な暗闇。だが、触れる温もりや人の気配が、闇がもたらす不安を完全に吹き飛ばす。
「あんな事があったばっかりだから辛いかもしれないけど、安心して寝ろ。おれが着いててやるから。な?」
 一瞬間を開けた後、ムワリムは吹き出した。
 その後も、こみ上げてくる笑いを抑えようとしたのだが、表情に浮かぶ笑みを消せなかった。覆われているために目視できないが、おそらくトパックは怒っているだろうと思いながらも、止める事はできなかったのだ。
 そうだ。トパックではない。自分だったのだ。ひとりきりの夜に、自分が失われる恐ろしさに眠れなくなるはずだったのは。
 背中越しに伝わる温もりがあったからこそ、暖かな思い出だけを胸に広げられたのだ。
「なんで笑うんだよ!」
 トパックの声には怒りが篭っていた。
 けれどとても優しい声。幸せな涙を誘うような。
「嬉しくて、ですよ」
「何がだ!」
「貴方の存在そのものが」
 トパックの手を優しく掴み、目の前からよけると、頬を染めて言葉を失ったトパックの顔が見えた。
 ムワリムができうる限り優しく微笑みかけると、トパックは顔を背けるように、ムワリムに背を向けて横になる。
「な、何言ってんだよ! ムワリムって、恥ずかしい事平気で言うよな!」
「そうですか?」
「そうだよ!」
 それきりトパックは何も言わなかった。はじめのうちは眠ったふりをしているのか、わざとらしい寝息が聞こえてきたが、徐々に真実の寝息と形を変えていく。
 どれだけ言葉で語っても、どれほど態度で示しても、トパックには判らないだろう。ラグズ奴隷たちが与えられた幸福。眩しく、優しく、暖かな存在への感謝の心。それらはおそらく、トパックには想像もつかないほどの、言葉では語りつくせない領域の感情であるから。
 ああ、でも、いつか、この喜びが伝わるといい。本音を心から込めた言葉を、恥ずかしいからと拒否されては、少し寂しいから。
 ムワリムは目を伏せた。心地よい眠りが訪れる予感があった。


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