反故すべき約束

「お前が遅れるなんて珍しいな。約束は絶対に破らない堅物のお前が」
 待ち合わせの日付を軽く一日ばかり遅れて到着した僕に、しかしヘクトルはけして怒りをぶつけてくる事はなく、素朴な疑問だけを投げかけてきた。彼は言動から短気だとか乱暴者だとか思われがちだけれど、本当は優しくて余裕のある男だ。
 まあ、待ち合わせの場所や日時全てを自分で指定しておきながら、毎回僅かずつとは言え遅れ続け、四年分のそれを合計すればおそらく一日分くらいは遅れているだろうヘクトルに、怒られる筋合いはないのかもしれないけれど。
「待たせてすまない、ヘクトル。ちょっと途中で人助けをしていたんだ」
「『ちょっと』する事じゃねえだろ、それは」
 確かに、その通りだ。
 けれど少女が連れ去られそうな場面に出くわしたのはほんの偶然で、彼女を悪漢から救い出すためにさほど労力を裂いたわけでもないので、気分的には「ちょっと」だった。
「あ、ヘクトル。君の認識は少し間違っているよ。僕は約束を必ず守るわけじゃない。絶対に破ると決めた約束だってあるんだ」
 僕がそう言うと、ヘクトルは珍しく間の抜けた顔をして、僕を見下ろした。
「……俺が言う筋合いはねえだろうが……それは、そんな胸を張って堂々と言うべき事じゃ、ねえよな?」
 どうやら驚いているらしいヘクトルに――僕はヘクトルの言う通り、基本的に真面目で堅物な人間であるから、当然だろうけれど――僕は笑顔で答えた。
「本来ならそうなんだろうけれど、こればかりは違うんだよ、ヘクトル。もしその時が来たら、僕は誇り、いや、僕の存在そのものにかけて、あの時の約束を破るだろう」


 その約束は、僕が生涯の友となる存在にはじめて出会った日に交わされたものだ。
 十年に一度行われるリキア同盟の神聖なる儀式のために諸侯が集まり、子供だった僕らは、別室でおとなしく待っているようにと言われた。
 若いと言うより幼いとしか言えない集まりの中で、ひときわ存在感のある青い髪の子供が、同盟主であるウーゼル様の弟ヘクトルだろうと言う事は、すぐに判った。彼の隣に座る気弱そうな子供が彼に媚びへつらう様子からも予想がついたし、何より彼自身の放つ光が、他の子供たちと比べ物にならないほど強かったからだ。
 僕らは大人たちにしつこいほど、「おとなしく座って歓談していろ」と言われていたのだけれど、それにも関わらずヘクトルが立ち上がったのは、本当に突然の事だった。
「じゃあ、俺たちも誓おうぜ!」
 彼や、彼と会話を交わしていた子供たちにとっては、自然な流れだったのかもしれない。
 しかし彼からやや離れた場所に席があった僕にとっては、彼が何をしたいのか、何を誓おうと言うのか、さっぱり判らなかった。
「誰かが敵の攻撃を受けたり、困ったりした時、すぐにかけつけて、助けてやるんだよ!」
 それは子供の簡単な言葉に変換されてはいたけれど、同じ時、別の場所で、大人たちが誓いの儀式の場で宣誓している事とまったく同じだった。
 けれどこの場は儀式場ではない。
 彼の誓いの言葉に、少なくとも僕は感銘を受けたのだけれど、それを証明する方法を知らなかった――彼がナイフで、自らの右の手のひらを切りつけるまでは。
 赤い鮮血が、彼の手のひらから日に焼けた腕に伝わり、肘から一適ずつゆっくりと、滴り落ちる。白いテーブルクロスが徐々に赤く染まっていく様子に、戸惑ったのは僕だけではない。
 いや、むしろ僕は、その時ヘクトルについで冷静だったのかもしれない。彼のそばに座っていた子供はあまりの事に椅子から転げ落ちていたし、悲鳴を上げる子、泣く子、放心する子など、部屋中の皆が様々な形で、ヘクトルの奇行――と言って差し支えないと思う――に動揺していたのだから。
 僕はその時、とても胸が痛んだ。
 彼の傷が痛そうだとか、流れる血が気持ち悪いとか、そんな事ではない。
 このままでは、手のひらに刻んだ傷を重ね合わせて血を交わすと言う戦士の誓いの儀式が、なされないままに終わると気付いたからだ。
 そしてヘクトルが、落胆を濃く宿した視線を周りの子供たちに落としている事に気付いた時、僕は無意識に、彼のそばに歩み寄っていた。
 多分、僕は。
 その悲しい視線を、僕だけには向けてほしくなかったのだ。
「お前は……」
「フェレ家のエリウッドだよ。ぼくにもナイフを貸して」
 僕が半ば奪い取るようにヘクトルからナイフを受け取り、右の手のひらに傷をつけた時、暗く陰った彼の瞳は、一瞬にして太陽のような眩しさを宿した。

 多分この出会いは、運命だったのだと思う。

 彼と誓いを交わした事を、僕は一生後悔する事などないだろう。それどころか、今まで生きてきた中でもっとも誇れる事だと言い切れるくらいだ。
 けれど。
 痛かったんだよ、やっぱり。
 ヘクトルと一緒に居る間は、痛みなど感じなかった。そのくらい興奮と言うか、感動と言うか、とにかく気持ちがいっぱいで、痛みを感じる余裕がなかったのだけれど、儀式が終わって大人たちの顔を見たとたんに、泣くのを我慢した自分を誉めてやりたくなるほどの痛みが僕を責めた。
 手も服も真っ赤にした僕を、儀式を終えた父さんや母さん、マーカスたち重臣が勢ぞろいして、叱りつけたんだったな。
「これはどう言う事だ、エリウッド!」
「おとなしくしていなさいと言ったでしょう?」
「なぜこのような事をしたのですか、エリウッドさま」
 僕は答えなかった。
 誓いは、子供たちだけの秘密。胸に秘めた誇りは、僕とヘクトルだけの秘密。大人たちにはこれっぽっちも教えられない。
 けれど、なぜ怒られているのか――つまりは、彼らがどれほど僕を心配しているか――を理解していた僕は、ふるえた声で言ったのだ。
「ごめんなさい。もう二度と、こんな事はしません」


「で?」
「ん?」
「『絶対に破ると決めた約束』って、なんなんだ?」
 僕の正面に立ち、愛用の斧を構えたヘクトルの質問は、いつかは投げかけられるものだろうと覚悟していたものだった。
 彼にならば、答えてもよかったのだけれど。
 少し照れくさくて、笑ってごまかした僕は、鞘から剣を引き抜いて、切っ先をヘクトルに向けた。
「今日の手合わせ、君が勝ったら教えてあげるよ」
 ヘクトルは一瞬だけ呆けて、それから不敵に微笑んだ。
「ぜってー言わせてやる」
「できるものならどうぞ」

 これは僕だけの秘密。
 もし君が再び、その手を切り裂いて、僕に差し伸べてきたら。
 僕は家族や家臣との約束を放棄し、ナイフを手に取って、この手から血を流しながら君の手を取るだろう。
 だって僕が生きてきた中で、何よりも尊い約束は、君との誓いだから。


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