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だからわたしは解放をねがう。


 ああ、きっとあの人は、底のない優しさで、いばらの道に足を踏み入れてしまったのだ。


 彼をはじめて見つけたのは、体育祭のリレーの時だった。
 アンカーになる人たちは、あたりまえだけど、特に足が速い人たちばかりで、陸上部の先輩なんて三人。ほかだって、サッカーとかの運動部で足が速いって有名なレギュラー部員の人たちだったから、わたしが顔を知らないのは、ひとりだけだった。
 だれだろ、あの人。
 あんなに足が速い人たちの中に混じって、平気なのかな?
 知らない人だし、ハチマキの色が違うしで、その人はわたしとぜんぜん関係ないはずなんだけど、どうしてか目を放せなかった。リレーがはじまる前も、はじまってからも。
 彼がバトンを受け取ったのは、5番目。
 前を走る人たちは、やっぱり、すごく足が速かった。
 だけどその人は、どんどん追い抜いていって……すっごい接戦だったけど、2位でゴールに入った。
「凄かったな」ってだれかが言ってる。「1番になれなくて残念だったな」とも。
 うん、凄かったよ。だから、残念じゃないよ。
 おかしいのは結果の方で、みんな知ってる。あのリレーで、1番だったのはだれだったか、って。

「美春?」
 みとれすぎてて、ぼーっとしてたみたい。真琴が声をかけてくれた時には、リレーの選手はみんな退場しちゃってた。
 あの人、どこに行ったんだろう。
 知らない人だし、べつの組なんだけど、すごく、気になった。話してみたいと言うか。
 私は人見知りとか激しいほうだから、知らない人と会ってみたいなんて、ふつうは絶対に思わないんだけど……でも、今回はトクベツ。
 だってあの人は、とてもキレイに走るんだもん。
 どこの部で、どんな活躍している人なのかなって、ちょっと知りたかった。
「真琴、わたしちょっと飲み物買ってくる」
「へ? まだ残ってるじゃん」
「別の、飲みたくなっちゃって」
 真琴は中学からの付き合いだから、わたしの態度がおかしいって事に気付いたみたいだけど、何も言わないで送り出してくれた。
 これもウソついたことになるのかな。
 でも、悪いウソじゃないから、いいよね。

 ジャージの色で、三年生だって事はわかってるし、ハチマキの色で、どの組かもわかってるから、向かう場所はだいたいわかってた。よくよく思いだしてみれば顔かっこいいし、背が高いから目立つしで、見つけるのは簡単だった。
 見つけたのは、同じ色のハチマキの三年生の人たちの集団に、すごくさわやかに手を振って、背中向けて歩き出すとこで、せっかく会いに来たんだから呼び止めようと思ったけど、なんて声をかけていいかわからなかった。だから、とりあえずついていく事にした。男の人だし、足も長いから、普通に歩いているだけですごく速くて、わたしは少し走らないといけなかった。
 あ、ミルクティー持ってる。全力疾走したあとに飲むには、ヘンな気もするけど…好きなのかな。見た目が大人っぽいから、甘いミルクティーはあまり似合わない感じがして、ちょっとおもしろかった。
 彼はグラウンドから離れて、校舎に向かっていた。
 校舎と言っても、中に入るつもりはないみたい。昇降口の前を通り過ぎて、花壇の前も通り過ぎて、校舎脇で足を止める。そして、にっこりと笑った。
 すっごい、いい笑顔。幸せそうで、もともとキレイな顔が何十倍もキレイになって、わたしはまたみとれてしまった。
 オーラみたいなものを感じて、声をかけるどころか、そばに近付くこともできない。あんま近寄りすぎると、オーラでが壊れちゃうような気がして……悪い事のような気がした。
「大活躍だったみたいね」
 女の人の声だ。冷たい感じがするけど、キレイな声。
「見てくれたんだ」
 女の人への返事ではじめて、わたしは彼の声を聞いた。すごく優しくて、頼もしいカンジ。イメージどおりの声だ。
「瑛一が私の前でどんなふうに走るのか、見てやろうと思って」
 えいいち。ふうん、瑛一っていうんだ。
「どうだった?」
「ふつうに走ってたから、むかついた」
 冷たい声は、悪意がむきだしだった。
 傷ついたかな。傷ついたよね。さっきまですごくいい笑顔だったのに、困った感じになってる。
「ごめん」
「あんたに謝られても嬉しくないけど」
「わかってるけど、それでも、ごめん――そうだ、喉、乾いてない?」
 瑛一さんはちょっとむりやり話を変えた。
「乾いてるに決まってるでしょ。今日、暑いし」
「じゃあ、はい、これ。好きだろ、ミルクティー」
 瑛一さんは手に持っていたミルクティーを差し出した。なんだ。自分で飲むために持ってたんじゃなかったんだ。ちょっと納得――
 バシッ、て、突然、乱暴な音がした。
 わたしは彼の笑顔につられて、幸せな気分になっていたんだけど、音で眼が覚めた。
 彼の手の中からミルクティーがなくなった。女の人が受け取ったわけじゃなくて、軽く空を飛んでた。で、すぐに地面の上に落ちて、ころころ転がった。わたしの足元まで、転がってきた。
 よく見てなかったけど、たぶん、女の人がたたき落としたんだ。
「こんな暑い日にこんなもの飲みたくないわよ」
 それは、わたしも少し考えたから、正論と言えば正論なんだけど。
 ちょっと、どころじゃなく、ひどくない?
「そうだよな。ごめん」
 優しさのかけらもない言葉を投げつけられても、彼の笑顔の優しさは変わらなかった。それがすごく、わたしの胸に痛かった。
 わたしはミルクティーを拾う。少しホコリにまみれて、中が少しだけ泡だっていることに、なんかすごくむかついた。
「別のもの買ってくるよ」
 女の人のそばを離れて、彼は走り出す。だけど、すぐに立ち止まった。たった今投げ飛ばされたミルクティーをわたしが持っていることに気がついたんだと思う。
「拾ってくれたんだ。どうもありがとう」
 爽やかな笑顔だ。優しそうで。でも、女の人に向けていたものとはぜんぜん違う。さっきは、もっと、嬉しそうだった。
 冷たい態度をとられたのに。
 ひどいこと、言われたのに。
 それでも、彼女といることが、嬉しかったのかな。

 結局話しかけることができなくて、瑛一さんのことは下の名前意外わからないままだった。
 クラスはわかってるから、教室をたずねることもできたんだけど、違う学年のクラスって行きにくいし。仲のいい先輩がいるクラスなら、まだよかったんだけど、運悪く違ったんだ。
 だから、カッコいい男の子のこととかちょっと詳しい真琴に話をしてみたら、
「芦田先輩のこと?」
 って。
「下の名前、わかる?」
「わかるよ。瑛一。芦田瑛一」
 なんだ。真琴にきけば、名前くらいすぐにわかったんだ。
「すごいね真琴。カッコいい人の事、やっぱり詳しいんだね」
「詳しいのは認めるけど、芦田先輩のことなら、知らないあんたの方が珍しいと思うけど」
「そうなの?」
「そうだよ。色々目立つじゃん、あの人」
 確かに、背が高いし、けっこう顔かっこいいし、足速いし、ふんいき大人っぽいし、優しそうだし、モテそうだよね。
 わたしが聞いてなかったか、覚えてないだけで、うわさ話とかに何度か出てたのかな。
「やっぱり人気、あるの?」
 質問すると、真琴はヘンな顔をした。難しい顔、って言うのかな。
「人気は…あるような、ないような」
「なにそれ」
「みてくれイイし、運動神経イイし、頭もイイし、性格もイイ。でも、環境はサイアクだもん。入学してすぐは、うちらの学年のコたちからもけっこうモテたけど、今はもうみんな、芦田先輩なんて見てないよ」
 入学してすぐって、たった二ヶ月前の事なのに。
「そんなにひどいの?」
「うーん……なんかけっこう、複雑な事情あるらしいんだけどさ。小さい頃に両親が亡くなってて、で、預かってくれる親戚とかぜんぜんいなくて、施設に入るかって話になりかけたとこで、お父さんが働いていた会社のシャチョーさんが引き取ってくれたんだって」
 う。普通の家庭に生まれ育ったわたしには、ちょっと重い家庭環境だ。本人が居ないところで、関係ない人から聞いちゃってもいいのかなって、罪悪感もあるし。
「そのシャチョーさんにはひとり娘が居たんだけど、兄妹のように仲良く育ちました、なんてウマイ話にはならなかったみたいでね。ってかあたしは、シャチョーさんははじめっからそのつもりで引き取ったんだと思ってるんだけど、芦田先輩は、わがままなお嬢様の召使みたいに使われてたんだって」
「うわー」
 多分、だけど。
 昨日の、綺麗だけど冷たい声をした女の人が、その「わがままなお嬢様」なのかな、やっぱり。
「去年までは、ちょっとわがままなだけだったらしいんだけどね。サイアクになったのは、去年の冬以降。そのお嬢様が、彼氏の家に遊びに行った時に、火事にあったんだって。駆けつけた芦田先輩が助けたおかげで、命は助かったんだけど、キレイな顔に火傷しちゃったり、杖なしでは歩けなくなったり。それで、とりあえずキレイならいいやってチヤホヤしてた人たちが離れちゃって、元々悪かった性格が悪化して、もう手に負えないカンジになったらしいよ」
 ふつうに走ってたから、むかついた。
 昨日の女の人は、芦田先輩に、そう言ってた。
 走れなくなった人にとって、だれよりも速く走る人は、見ていて辛いのかもしれない。わたしだって、追いつけないくらい速く走ってる人見てると、辛いし。
 でも、走りきったことをけなしたり、悪意をぶつけるのは、やっぱり違うと思う。
「それからの芦田先輩は、召使どころか、奴隷みたいなカンジらしいよ。杖なしでは歩けないって言っても、杖があればそれなりに歩けるらしいのに、どこに行く時も芦田先輩に運ばせてさ。学校ではもちろん、放課後も付き合わされるから、部活もできなくなって、やめちゃったんだって」
「やっぱり、部活やってたんだ」
「サッカー部のエースだったんだって。去年の県大会なんか、芦田先輩が抜けてすぐに負けちゃったくらい。そんなこんなで、お嬢様は男からも女からも恨みを買いまくって、いじめられそうになってたんだけど、彼女をいじめようとした人たちに、逆に芦田先輩が殴りかかって。あの優しい先輩が、『葵に手を出すな』って……あ、葵ってのは、そのお嬢様の名前ね。一ノ瀬葵先輩って言って、そんなのどうでもいいか。とにかく、すごい剣幕だったらしいよ。ちょっとした伝説になってるって」
 イメージ湧かないなあ。
 周りの人たちも、ビックリしたんだろうな。伝説にしちゃうくらい。
「それ以来、みんなあのふたりを遠巻きに見ているわけよ。まー芦田先輩はいいひとだから、クラスメイトと普通のともだちづきあいくらいはしているみたいだけど」
 でも、一ノ瀬先輩がひとりでいるなら、「おめでとう」とか「すごい」なんて嬉しい言葉を全部捨てて、駆けつけちゃうんだ。
 一ノ瀬先輩が行きたいところに行って、できるかぎり欲しいものをあげて。
 自分のしたいことなんて、何もできないんじゃないかな。
 それって悲しくない? 辛くない? いくら、一ノ瀬先輩のご両親に恩があるからって、そこまでやる必要、あるのかな。

 いつもは部活の練習で帰りが遅いんだけど、今日は先輩に買出しを頼まれたから、早く帰る事になった。早く帰るって言っても、部活の用件だし、買ったものを学校に持ってかえって来なきゃいけないから、家につくのはいつもと同じくらいになるんだろうけど。
 とにかく、一度学校を出るのが、いつもよりずっと早かったから、だから、いつもは見ないものを、見てしまった。
 芦田先輩だ。車椅子を押してる。にこにこ笑いながら、車椅子に乗っている女の人に話しかけてる。
 だけど車椅子の女の人は、冷たい顔をしてる。長くて真っ直ぐな髪の、人形みたいにキレイな人なのに、冷たすぎてあんまり魅力を感じない。
 彼女が、一ノ瀬先輩かぁ。
 真琴の話をきいていたから、他には考えられなかった。体育祭の日に聞いた声のイメージにも、すごく合ってるし。
 ホントに、キレイな人。芦田先輩みたいに優しく笑っていれば、きっとお似合いのふたりなのに。
「瑛一、日傘は?」
 一ノ瀬先輩は、外の天気を見て、そう言った。
 日傘さすような時期かなあって思うけど、五月の紫外線は強いってよくテレビで言ってるし、一ノ瀬先輩みたいにキレイは白い肌の人は、気にするのかな。どうせ、自分でさすわけじゃないだろうし。
「あ、ごめん。上に忘れてきた」
「馬鹿ね」
「取ってくるよ。少し待ってて」
 芦田先輩は車椅子から離れて、来た道を駆け戻った。
 優等生っぽい芦田先輩は、廊下を走るのも似合わない感じがするんだけど、一ノ瀬先輩をあんまり待たせちゃダメだって、思ってるのかな。
 どうしてそんなに優しくするんだろう。
 優しくしたって、優しさで返してくれる人には、見えない。近くにいないわたしがそう思うくらいなんだから、芦田先輩にわからないわけないと思うんだけど。
 それでもいいと思っているなら、辛いな。辛い優しさだな。本人がよくても、見てるほうが辛い。
 辛くて、我慢できなくて、わたしは一ノ瀬先輩に近付いた。わたしが先輩のそばで、何も言わずに立っていると、先輩はわたしに振り返った。
「何か用?」
 わたしはコクンって、うなずいた。
「用って言うか…日傘くらい、自分で取りに行ったらどうですかって、思って」
 一ノ瀬先輩は、わたしをにらむ。すごく怖い眼をしてる。
 長く伸ばした髪の向こうに、うっすらと見える火傷のあとが、余計に怖い。怖いんだけど、せっかくキレイなのにもったいないって、ちょっと悲しくなった。
「瑛一が取りに行ったほうが早いでしょう」
「でも、自分の事なんだから」
「いいのよ。あいつがやりたいって言ってるんだから、やらせておけば」
「いいわけないですよ! 芦田先輩、すごい選手だったのに、あなたの言うこときくために、サッカーやめちゃったりして……」
「それの何が悪いの? あいつが好きにやってる事よ。それに、私がこんな風になったのも、あいつのせいなのに。あいつが――もっと早く、私を助けに来れば」
 何、それ!?
 芦田先輩が助けに来てくれたから今も生きてるってのに、助けに来るのが遅かったせいで怪我した、なんて、逆恨みもいいトコじゃない!?
 すっごい腹が立った。腹が立ちすぎて、泣きそうになったくらい。でも、泣いたら恥ずかしいから、唇を噛んで我慢してたら、何も言えなくて、余計に悔しくて、もっと泣きそうになった。
「あなたは瑛一が好きなの?」
 ……へ!?
「残念ね。瑛一は、私の事が大好きなの。小さい頃からずっとよ。私がひどいことを言っても、殴っても蹴っても、それでも私が大好きでたまらないの」
 それは、何となく感じてた。
 一ノ瀬先輩はひどいって、何度か感じたけれど、でも芦田先輩は、不幸せそうには見えなかったもん。いつか心を開いてくれたらいいなって、夢を見ているみたいに。そんな夢が実現する日なんて来るわけないって、わたしは思うんだけど。
「いいよ。奪いたければ奪って」
「それは……どう言う意味ですか?」
「瑛一が欲しいならあげるって言う意味。私は別に、あいつなんていらないから。へらへら笑って寄ってくるから、使ってやってるだけ」
「ひどっ……」
「葵!」
 廊下を走ってくる足音がした。声がしたほうを見てみると、日傘を持った芦田先輩が、手を振ってる。
 3Fの教室は、けっこう遠いのに、もう帰ってきたんだ。全力で走ったのかな。一ノ瀬先輩のために。
 こんなにひどい、一ノ瀬先輩のために。
「ともだち?」
 芦田先輩は、わたしを見てから、一ノ瀬先輩を見下ろして、きいた。わたしのことなんて、ちっとも覚えてなかったみたい。ミルクティーひろっただけで、わたしはひとこともしゃべってないんだから、あたりまえなんだろうけど。
「余計なこと言ってないで、早くして」
「ごめん」
 芦田先輩は、一ノ瀬先輩の車椅子を押して、ゆっくりと歩き出した。
 あんなに速く走れる人なのに。
 遅い人に合わせて歩くことが、悪いわけじゃないけど、優しいことだと思うし、それで幸せを感じてるんだろうけど。
 でも、わたし、見てしまった。だれにも合わせず、全力で走る芦田先輩の姿を。速くて、だれよりも速くて、顔とか、背が高いこととか、関係なく、キレイだった。
『あなたは瑛一が好きなの?』
 一ノ瀬先輩の質問の答えはわからない。
 でも、芦田先輩が走る姿は大好き。それは、わかる。だって、もう一度見たくて、泣きたくなるくらいだから。
 でもきっと、このままじゃ無理なんだ。
 一ノ瀬先輩から解放されないかぎり、芦田先輩は、自由に走れないんだ。

 わたしは、表札に「一ノ瀬」って書いてある、大きい家の前に立っていた。
 さすがシャチョーさんちだな、と思う。テレビとかで見る冗談みたいな豪邸ではないけど、このあたりでは一番の高級住宅街だし、角だし、他の家より大きいし、高そうな車三台とまってるし。ものすごく有名な会社のシャチョーさんではないらしいけど、そこそこ業績がいい会社だって真琴が言ってたっけ。とにかく、フツーを絵にしたようなウチより、ずっと裕福だってのはわかった。
 インターホンを押して、出たおばさん(一ノ瀬さんのお母さんっぽくはないなあ。お手伝いさんとか、いるのかなあ)に名乗って、葵さんをおねがいしますって言ったら、しばらくして、出てきた。
 私服で、杖をついた、一ノ瀬先輩。
「何しに来たの? 瑛一は今出かけてるけど」
 学校で見た時にくらべて、少しとっつきやすい雰囲気があった。比較的、だけど。普通の人とくらべたら、やっぱりまだとげとげしてる。
「いいんです。今日は、一ノ瀬先輩におねがいがあって来たんで」
「何?」
 おねがいしたことはあっても、されたことはほとんどなさそうな一ノ瀬先輩は、急に不機嫌そうになった。
 すごく怖いけど、そのくらいじゃ、負けない。
 わたしだって、覚悟決めてきたんだから!
「芦田先輩を、解放してあげてください」
 一ノ瀬先輩は、すごく、驚いた顔をした。その顔は、冷たい表情しか見たことがなかったわたしには、すごく新鮮だった。
 一ノ瀬先輩の怖さもやわらいで、だから、いいことのはずなのに、なんでだろう。すごく不安になる。
「ごめんなさい」
 突然先輩は、そう言った。素直で優しい女の子みたいに。
 今度はわたしの方が驚いた。
「この間言ったことは冗談。私から瑛一を奪わないで。何も言わずに、何も考えずに、私たちから離れて、どっかに消えて」
 何それ。
 この間と言ってることがまるで違う。態度も、ぜんぜん違う。
「一ノ瀬先輩は、本当は芦田先輩が好きなんですか?」
 Sっぽい態度とかは、全部、ひねくれた愛情表現なのかなって、好意的に考えてみた。ちょっとありえないとは思ったけど、お嬢様だし、フツーなわたしたちとは感覚が違うのかなって……でも、やっぱ違和感感じる。
「そうって言えば、黙って従ってくれるの?」
「黙っては従えないですけど……普通のお付き合いなら、いいんです。芦田先輩を束縛しないで、自由に、好きなことをさせてあげてほしいんです」
 一ノ瀬先輩は、杖をついていないほうの手で、顔を覆った。すごく辛そうで、泣いているように見えた。
「何も知らないくせに、勝手なことを言わないで」
「わたしだって言いたくないですよ? 言いたくないけど、だれも言わないから、しかたないじゃないですか。とにかく、約束してください。芦田先輩を解放するって」
「できるものなら……!」
 髪をふりみだして叫ぶ一ノ瀬先輩は、やっぱり泣いていた。涙は出てなかったけど、悲しい子供みたいに、泣いてた。歯を食いしばって、耐えている感じ。
 その、閉じていた口が、突然開いた。何か叫ぼうとしている感じだった。でも、叫ぶ前に、わたしの首に、何か力強いものが回った。
 男の人の腕だ。まだ思いきり力が入ってるわけじゃないみたいだけど、それでも息苦しい。何より、怖い。
 わたしは腕がだれのものかを確かめようとして、背後に立つ人を見上げて、それで、もうこれ以上びっくりすることはないだろうってくらいびっくりした。
 芦田先輩だった。
 女の子に乱暴しているのに、芦田先輩は笑ってた。幸せそうに。それが、冷たくしている一ノ瀬先輩とか、怒ってるお父さんとか、生活指導の先生とかより、ずっと怖かった。
「その子を放して、瑛一」
 一ノ瀬先輩の声は、震えてた。
「放しなさい! 私の言うことは何でもきくって、約束したでしょう!?」
「したよ。けど、葵と僕を引き離さない範疇で、と取り決めたじゃないか。この子は、僕らを引き離そうとしてた、違う?」
 違わない。
 わたしは、ふたりを引き離して、芦田先輩に自由になってもらおうと思ってた。自由になって、やりたいことをやってもらおうと思ってた。サッカー部に戻って、キレイに走る姿を見せてほしかったから。
 でも、わたし、いまさら気付いてしまった。違うんだって。
 何が、どう違うのか、よくわからないけど、でも少しだけ、わかったような気がする。さっき一ノ瀬先輩が言おうとしたこと。「できるものなら」の、続き。
 わたしは、ひとつ大きな勘違いをしていたんだ。
「去年の火事は」
 思うぞんぶん息ができないからかな。少しぼーっとしてきた頭で考えて、思いついた言葉を、言う。
「偶然、に?」
 わたしは一ノ瀬先輩を見ていた。
 一ノ瀬先輩は、迷って、ものすごく迷ってから、うなずいた。
 そっか。火事そのものは、偶然なんだ。でも、それだけなら、一ノ瀬先輩は、もっと素直にうなずいたんじゃないかなって、思う。
 前に、一ノ瀬先輩が言ってたことの意味が、わかった気がした。
「もっとはやく助けに来れば」
 わたしは、火事のあとに芦田先輩がどれだけ変わったか、それしか考えてなかった。でも、考えなきゃいけなかったのは、きっと一ノ瀬先輩のほう。
 一ノ瀬先輩のまわりには、芦田先輩以外、だれもいなくなってしまった。
 そうしたのは、だれなのか。
 そうしたひとにとって、今のふたりの世界を壊そうとしているわたしは、何なのか。
――――こわい。
「わ、わたし」
 声を出すのは苦しくて、辛かったけど、必死で出した。そうしないと、逃げられないと思ったから。
「この先二度と、おふたりの邪魔をしようなんて、考えません。おふたりに、近付きません。ですから、許してください……!」
 一ノ瀬先輩は、杖を使ってわたしたちのところに駆け寄ってきた。
「そう言ってるじゃない、瑛一。はなしてあげて」
「信じられる?」
「信じられる。もしその子が裏切ったら、その時は、貴方の好きにすればいい」
 わたしの耳元で、「しょうがないなあ」って言いながら、芦田先輩はわたしを解放した。
 わたしは怖くてたまらなくて、その場にしゃがみこみたかったけど、そんなことをしたら、今度こそは何されるかわからない。
 だから、必死に逃げた。
 逃げながら、ちょっとだけ振り返る。
 わたしのことなんてすっかり忘れてしまったみたいな芦田先輩が、一ノ瀬先輩を支えてる。一ノ瀬先輩は、家の中に戻ろうとしながら、ちょっとだけわたしを見て、ほんのちょっとだけ、笑った。
 それがすごく優しくて綺麗な笑顔だったから、わたしは、家が見えなくなるころ走るのをやめて、歩きながら泣いた。すれ違う人がいたら不審がられるだろうなってくらい、思いっきり。

 それきりわたしは約束どおり、ふたりには近付いていないし、ふたりのことをだれかに話そうともしなかった。
 だけど時々、遠くにふたりの姿を見つけると、眼を細めて眺めてしまう。
 もう、芦田先輩のことをキレイだとは思わない。走る姿を見られないことを、残念だとは思わない。芦田先輩は、思いきり走っているのだ。自分が思うとおりの道を。
 だからわたしは解放をねがう。
 冷たいふりをしながら、けして嘘をつかなかった、キレイなあの人が救われる日を、祈るしかなかった。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.