六角中、午後三時半。 部活の開始時刻である。佐伯の眼前では葵と天根が跳んだり跳ねたり、準備体操に忙しい。 準備体操というよりはむしろ香港映画のワイヤーアクションのマネごとのようで。 二人はひとしきり跳ね回って、部活が始まる前から汗だくになり。 座り込んだ天根に、佐伯は接近する。 夏休みが終わって以来、ずっと気になって仕方のなかったコトを今日こそ明らかにしよう、という決意を胸に秘めて。 「ねぇ。ダビデ。橘とバネってさ。」 「……?」 「結局どこまで行ったの?」 「……どこまで……?? 海まで?あ。スーパーにも行った。」 「……そう。」 晩夏の午後の日差し。影はすでに長く伸びている。 ダビのやつ……そう来たか。 天根の場合、どんなときでもノリが悪いはずがないので、そういうネタが通じないお子様なのだ、と佐伯は諦めて質問を切り替えた。 「バネと橘ってすごく仲が良かった?」 「うぃ。……俺が入り込む隙がないくらい。」 「ラヴラヴ?」 佐伯の問いに、天根は少し首をかしげて考えている様子だったが。 「……超ラヴラヴ。」 と、にぃっと笑って言い切った。 ようやく、佐伯が何を期待しているのか、天根も理解したらしい。 「バネさんが何も言わずに茶わん渡したら、橘さん、普通にご飯をよそってた……。なんかもう、長年連れ添った老夫婦みたいだったよ……。」 「なるほど。ありがとう。ダビデ。」 くすくす笑って、天根の頭をくしゃりと撫でれば、天根はくすぐったそうに首をすくめた。 午後七時半。 佐伯は不二の家に電話を掛ける。 もちろん、別件の用事があったからだが、さっさと本題を片づけると、佐伯は今日の小ネタを切り出した。 「不動峰の橘桔平、分かる?」 「ん?不動峰の橘くん?よく知ってるよ。彼がどうしたの?」 電話口を通してかすかに聞こえるのは、秋の虫の声だろうか。 東京もすっかり秋の気配らしい。 「彼がうちの黒羽春風と、超ラヴラヴらしいっていう噂。どう?」 「へぇ。……ふふ。良いね。面白いよ。ありえない組み合わせで。」 「長年連れ添った老夫婦みたいな関係らしいよ。」 「ふぅん。それ、確かな話?」 「もちろん。保証する。」 不二は、電話口で小さく笑った。 「面白いね。」 「だろ?不二なら絶対、喜んでくれると思ったんだ。」 電話はただ、噂話を伝えただけで、和やかに終了した。 確かに会話は穏やかに終了した。 しかし、ゲームは始まったばかりである。 翌日の午後三時十分。 部活前のひととき。 桃城が越前にムリヤリ柔軟を強要し、その反撃を受けてじたばたしているのを、不二はにこにこと見守っていた。 「痛ぇ。越前、お前、ホント、容赦ねぇな。」 「桃先輩が最初にやったんでしょ。俺は先輩のマネしただけ。」 「全く。敵わねぇな。敵わねぇよ。」 長く伸びた木陰が、静かに風に揺れる優しい午後。 「ねぇ。桃。」 不二がゆっくりと桃城に歩み寄った。 「なんすか?不二先輩。」 桃城は足を伸ばして座ったまま、不二を見上げて。 不二の影がふわりと桃城にかかる。 「六角の黒羽くん、覚えてる?」 一瞬、桃城は記憶の糸をたどるかのように、瞬きを繰り返したが。 「覚えてるっすよ。俺とタカさんで試合したダブルス2の三年生っすよね。」 はっきりと返答する。忘れもしない。楽しい試合をさせてくれた人だ。 「あの彼がさ。不動峰の……橘と……ラヴラヴらしいって噂は?知ってる?」 「え?!知らないっすよ!!なんすか!それ!!」 案の定、桃城は勢いよく、不二の言葉に食らいつく。 「マジっすか!?うわ。人は見かけに……いや。えっと。そっすか。へぇ。」 しばらく桃城は何かを思案しているようだったが。 手塚が集合の合図をかけたために、彼が何を考えているのか、不二は聞き出すことができなかった。 ただ、面白そうなことになりそうだ、とだけ予感して。 不二は、遥かな千葉の空を遠く見上げた。 そして、その日の午後五時。 桃城はときおり橘杏が来ているストリートテニス場に顔を見せた。 もし、橘杏が来ていたら……真相を聞いてみたい、と。 「あれ?桃城??」 「……なんだよ。神尾かよ。……それから前衛キラーも。」 「……内村だ!覚えておけ!!」 知り合いの顔を見いだせず、ベンチで手持ちぶさたにジュースを飲んでいた桃城に、神尾と内村が声を掛けて来て。 桃城はこの際、こいつらでも良いか。と、真相を確認する。 「なぁ。橘妹が六角の……黒羽さんと付き合ってるってホントか?」 「「……へ?!」」 桃城の言葉に、神尾は瞬間的に涙目になり、内村の瞳には殺意の色が宿った。 「「誰が何だって?!」」 「いや、あの。橘妹と、黒羽さんが、老夫婦もびっくりなラヴラヴ同棲生活を夏休みにしていたらしいって……。」 神尾は青ざめ、内村は意味もなくラケットを振り回して。 なにやら大いに憤慨している様子だったが。 「「アリエナイ!!」」 二人は同時に叫ぶと、全力でどこかに走っていってしまった。 「……ありゃ。神尾や内村にはちょっと刺激が強すぎたか?」 桃城は頭を掻きながらも、やっぱりコトの真相が気になるので。 う〜む、としばらく思案していたが。 自分の脳みそは考え事には向いていない、とはっきり知っている彼は、すぐに頭を切り換えて。 明日、不二先輩に続報を聞こう、と心に決め、そう決めてしまえばもう悩みなどすっかり忘れはて、鼻歌交じりに上機嫌に帰路に就いた。 橘家の玄関先で、午後五時十五分のできごと。 「「杏ちゃん!!」」 橘家に飛び込んできた二人の少年の形相に、杏は少しびっくりする。 「アキラくんに内村くん。どうしたの??」 二人は荒い息の下、お互いに会話の口火を切る役を押しつけ合っていたが。 ついに神尾が折れて、口を開く。 「杏ちゃん!六角の黒羽って人と付き合ってるってホント……?!」 「はい?!」 そして時は流れ、橘家のリビングで、午後六時半。 帰宅してきた桔平に、杏が詰め寄っていた。 「お兄ちゃん!どういうこと?!」 「な、何がだ??」 鞄を床に下ろす暇さえ与えず、仁王立ちで怒っている杏。 何も身に覚えのない桔平は大いに困惑する。詰られるようなことは何一つしていないはず。 すっかり暗くなった窓の外に、鈴虫の声が冷たく響く。 「私が!六角の黒羽さんと付き合ってるっていう噂!流したの、お兄ちゃんじゃないの?!」 「……な、なんだ?!その噂は……??だいたい、なぜ俺がそんな噂を流す必要がある……??」 びっくり仰天しながらも、しどろもどろに桔平が反論すれば、杏も少し冷静さを取り戻し。 「そっか。そうよね。お兄ちゃんは別に、私と黒羽さんを付き合わせても意味ないもんね。」 「まぁ、お前達が結婚すれば、黒羽と俺が兄弟になって、少し面白そうだとは思うが。」 「……やっぱりお兄ちゃんが流したんじゃないの?!その噂!!」 「ち、違う!!断じて違う!!」 それから三十分かけて、桔平は杏に懸命に弁解し、事なきを得たものの。 杏の機嫌はなかなか直らない。 まぁ、確かに。 ろくに面識もない兄の友人と付き合っているという噂が流れたりしたら、それは気分も良くないだろう。第一、杏には他に好きな人がいるわけだしな。 拗ねたようにソファの上に膝を抱えて本を読んでいる妹の横顔を、静かに眺めながら、桔平は軽く溜息をついた。 一体、何の因果で、こんな変な噂が流れているんだ?? そして、夜八時半。 桔平は黒羽に電話することを決意した。 悩んでも理由など分かりはしないし、もしかしたら黒羽はコトの真相を知っているかもしれない。 興味などなさそうな顔で、でも、しっかりと杏が聞き耳を立てていることに気付きながら、桔平は押し慣れた番号を指で辿る。 二度、三度と無機質なコール音が繰り返されたあと。 少し低い声が受話器の向こうから響く。 「もしもし?」 「黒羽か?橘だ。」 「あー?どうした?橘。」 しかし。 聞いてみても、黒羽にもさっぱり思い当たる節はなかったらしく。 「どうしたらそんな噂が出てくるんだ??」 少し申し訳なさそうな声音で、何度も繰り返す。 「ごめんな。妹さんに謝っといてくれよ。」 「いや、黒羽が悪い訳じゃないだろう?」 「そうだけど……だって、俺なんかと噂になっちゃ可哀想じゃねぇか。」 「……俺はそれでも構わないんだがな。」 恐縮しきりの黒羽に、桔平は喉の奥でくつくつ笑う。 背後から、クッションが飛んできて、後頭部に激突し。 「お兄ちゃんのばかぁ!!」 杏の叫び声が、受話器を通して千葉にまで届いた。 翌朝の八時。 朝礼前、教室で黒羽は、佐伯に相談を持ちかけていた。 窓の外に雀の声を聴きながら。 「なんかさ。俺と橘の妹が付き合っているっていう変な噂が東京で流れているらしいんだけどさ。しかも同棲してるとか、ラヴラヴだとか。ひどい噂で。なんなんだろな?」 「変な噂だね。それは。」 平静を装って、佐伯は訝しがってみせる。 九月の早朝は、もう暑さの予感を感じさせることはない。 清々しい秋空の下、澄み切った風が窓をすり抜けてくる。 「まぁ、俺は良いんだけどさ。橘の妹が少し可哀想だよな。」 「へぇ?バネは良いんだ?」 「……橘の妹だったら、可愛くて良いんじゃね?」 「ふぅん。そっか。」 ひとしきり相談して、気が済んだのか。 解決の糸口を見いだせぬままに、黒羽は、自分の教室に戻っていった。 その後ろ姿が見えなくなった途端、教室を飛び出した佐伯はB組に飛び込んで。 樹に突撃すると、彼の肩に額を押し当てて、引きつったように苦しげに笑い出す。 「サエ。どうしたのね?」 「ご、ごめん。樹ちゃん……!!くっ。あはははは!!」 丸一日で、よくぞここまで変な噂に成長してくれたものだ。 しかもきちんと、六角まで戻ってきているし。 笑い続ける佐伯と、狼狽える樹。 見かねて、木更津が声を掛ける。 「くすくす。どうしたの?樹ちゃん?」 「……サエが壊れたの……。」 「……また?」 「……またなのね。」 もちろん、その晩、佐伯が不二の家に電話を掛けて、この悦びを分かち合ったことは言うまでもない。 そして、その奇妙な噂が三日と経たずに立ち消えて、みなにすっかり忘れ去られたことも、言うまでもない。 |