目を上げて。 状況を飲み込めないまま、ぼんやりと体を起こす。 ここはどこで。 今はいつで。 頬を宛てていた腕が少し痺れている。テーブルに伏していたおかげで、腕にはくっきりと跡がついて。 ゆっくりと辺りを見回せば、斜め前で英語の宿題をやっていた天根が橘に気付き、小首をかしげた。 「起きた?」 そりゃ、起きたのは見れば分かるだろう、と。 少しだけ心の中で突っ込みを入れながら、ぼんやりと口を開く。 「俺は寝ていたのか?」 「うぃ。」 よく考えれば、起きたんだから、それまで寝ていたに決まっているわけで。 自分の寝ぼけた思考回路も実は天根と大差ない。 なんだか、とても気持ちの良い夢を見ていた。 温かくて優しくて。 何も思い出せないけれども、心の奥が痺れるように幸せな夢を。 うん、と小さく伸びをすれば、肩からタオルケットが滑り落ちて。 名残の温もりが、背中を伝う。 「これは。」 「……風邪、ひくといけないから。」 そう呟いて、天根はタオルケットを拾い上げ、くるくると丸めて、廊下に放り投げる。 「……良いのか?」 「うぃ。バネさんのだから良いの。」 良くないだろう? 心の中で突っ込みを入れながら、本来突っ込むべき人の姿が見えないことに気付いて。 橘ははっとする。 そして、目に入ったのは。 テーブルの向こう側で大の字になって寝ている人影。 豪快に畳の上に長い腕を広げて、熟睡しているように見えた。 「……黒羽にさっきのタオルケットを。」 いまさらながら声を殺せば。 天根は普通の声で。 「バネさんはいらないの。……暑がりだから。」 と、応える。 言われてみれば、まぁ、そうかもしれない。 昨夜だってタオルケットを全くかけずに寝ていたからな。 「声、普通で平気。バネさん、起きないから。」 息さえも潜めるようにして、黒羽の寝顔を見ていた橘に、天根が声を掛ける。 「でも、起こしたら悪い。」 やはり声を殺したままの橘。 「だって……バネさんは、一度寝るとね……口の中にせんべい入れられても、氷入れられても、がりがり食べちゃって……全然、起きないの。」 それはどうだろう? 橘は少しだけ不安になりながら、黒羽を見やる。 確かにこの男だったら。そのくらいやりかねない。 「信じて。ホントだから……。バネさんはすごい人なの……。」 目を輝かせて、主張する天根。 そんなところで後輩に尊敬されるのは……どうだろう??黒羽。 それにしても、この男は、本当にいつも楽しそうに居る。 寝ているときも起きているときも。 精一杯、今を満喫している。 黒羽は。 「……橘さん?」 呼ばれて。 慌てて、視線を黒羽からそらす。 「どうした?天根。宿題ははかどっているか?」 「……うぃ。ちゅーされたくないから、頑張る……。」 「……そうか。」 「橘さん……信じてないでしょ?」 「何をだ?」 「バネさんは……ちゅーするよ。ホントに。」 「……まさか。」 「バネさんは約束破らないもん……だからちゅーする。」 天根は信じ切った瞳で、黒羽を見やり、そして橘に視線を戻す。 そんなところで、後輩に信頼されるのは……どうだろう??黒羽。 開け放した窓から入り込む温い風は、少しだけ天根の髪を揺らして、どこかへと消えてゆく。 手元のプリントの上を、エンピツがころりと転がった。 「……橘さん。」 「うん?」 「俺、バネさんが居ないと寂しい。」 「あ、ああ。」 「……橘さんは?」 「……?」 「不動峰のやつら、きっと橘さんが居ないと……寂しい。」 はっとして、天根の顔を見れば、いつも相手の目を直視する天根が、少し視線をずらしていて。 困ったように何度も瞬きを繰り返す。 「でもね。橘さんが帰ると、俺が寂しい。……難しい……。」 世界平和でも語るかのように、深刻な表情でもう一度繰り返す。 「難しい……。」 雀が鳴いている。 数羽、あるいは十数羽。 華やかに呼び交わしながら、庭で遊んでいる。 それが途切れた一瞬に。 「寂しかねぇよ。東京なんかすぐ隣りじゃねぇか。」 この三日で、すっかり聞き慣れた声がして。 声の主は、まだ畳に転がったままだったが。 「……黒羽。」 「ふぁ。よく寝た。」 ごろり、と寝返りをうって。 「おい。今、何時だ?」 うつぶせの状態から、勢いよく跳ね上がり。 掛け時計に目をやって、橘が答える。 「……一時半だな。」 「ふぁあ。そっか。道理で腹が減るわけだぜ。」 「さっきケーキを食ったばかりだろう?」 屈伸をして、う〜んと力一杯伸びをして。 「足りねぇっての!昼飯だ。昼飯!」 黒羽が快活に笑う。 「そうだな。何か作るか?」 立ち上がりかけた橘を目で制し。 「……たまには俺の手料理、食わせてやるさ。」 大きくあくびをしながら、黒羽は台所へと消えた。 黒羽の手料理……。 想像もできないな。 橘の不安を察したのか、天根が優しく解説する。 「バネさん、カップ麺、作るの上手だから。」 それは……手料理なんだろうか? 「ホント。バネさん、ああ見えても、カップ麺は上手いよ……。」 ああ見えても、って。 カップ麺も上手く作れないように見えるのか? そんなふうに、後輩に褒められるのは……どうだろう??黒羽。 橘は立ち上がる。 胸の奥に残る温かい幸せの感触を忘れないうちに。 この気持ちをくれた友人達に、何かお返しをしたくて。 「麺は任せるから。具は俺に作らせてくれ。」 「お、おう。サンキュ。橘。」 お湯が沸くまでの間に、きっと簡単な野菜炒めくらいは作れるだろう。 さっきまで見ていた温かい夢の正体は、もう、どうだっていい気がした。 夢のつづきは、ここにあるから。 キャベツとニンジンと、生しいたけとネギとベーコンの切れ端と。 まな板の上に並べれば、まぁ、見栄えはする。 これくらいで良いか。 すっかり持ち慣れた包丁を握れば。 やかんを睨み付けていた黒羽が、静かに口を開く。 「もう。帰るのか?」 「……ああ。」 そろそろ。帰らないと。 帰れなくなる気がする。 「ちょっと、海、寄ってからにしろよ。」 「ああ。」 「また来いよ。」 「ああ。」 「来ねぇと……ちゅーするからな。」 「……わざわざ、東京まで来て、か?」 キャベツを刻みながら、きまじめに問い返す橘に、やかんを睨んだまま、黒羽が小さく吹きだした。 「おう。不動峰の後輩達に、六角の気合い入ったハレンチぶりを見せつけてやるぜ。」 「お手柔らかにな。」 たぶん、二時間もあれば家には帰れるから。 もうしばらく、千葉の海で遊んでいこう。 俯いてやかんを見据えていた黒羽が、すっと顔を上げ。 「なんか夢、見てた。」 言葉を選ぶように呟いた。 「何の?」 「……分かんねぇ。でも、むちゃくちゃ良い夢だった。」 そして、キャベツを刻み終えた橘の頭をふわりと撫で。 がちゃがちゃ、大きな音を立てて鍋を漁りながら、尋ねる。 「フライパン、使うか?それともパラボラアンテナ?」 「……それは中華鍋だ。」 台所に並んで立つ黒羽と橘の背を、静かににこにこと見つめていた天根は。 宿題の残りを適当にたたんで、ぎゅっと鞄に押し込んだ。 |