宿題とアイスクリーム。

「ほら。天根。何か、足りないだろ?そこ。」
「……足りない?」
「He は三人称で単数で、現在形の文だから、動詞は walk じゃなくて。」
「……He is walking ……??」
「いや、進行形じゃなくてだな……。」

 天根の宿題を見てやりながら、橘はつい最近、全く同じコトを神尾や内村にも注意したのを思い出す。
 中二って。
 こういうモノなんだな。どこの学校でも。
 そういえば、あいつら、宿題完成しただろうか??

 本来なら天根の面倒を見るべき、子守のバネさんこと、黒羽春風は。
「悪ぃ。橘。ダビ任すわ。」
 と、にこにこ笑って、どこかへ行ってしまっている。
 どうも、歴史の教科書を持っている友人を探しに行ったらしい。
 ……あいつは夏休みの間中、教科書を学校に置きっぱなしにしたのか……??
 軽い目眩を感じながらも。
 自分だって、宿題をやったとき以外、教科書などほとんど手を触れもしなかったのだから、人のことは言えないな、と思い直した橘は、また静かに天根の手元を覗き込む。

 じりじりと、座っているだけで汗が噴き出しそうな夏の空気が、むぅっと部屋に立ちこめて。
 リビングに二人。
 木製の品の良いテーブルで、向かい合って座って。

「walked……?」
「だから、それじゃ過去形だろう??」
「……むぅ。」

 一度理解してしまえば、簡単に解ける問題でも。
 それを掴むまでが結構大変だったりするのだ。
 橘は髪を掻きむしってじたばたと悪戦苦闘する天根を温かく見守った。
 卓上の麦茶のコップから、つっと汗がしたたり落ちる。

「三単現、って、習っただろう?」
「……そっか。三単現の s ってやつ……。」
「そうそう。それだ。」
「……そっか。」

 ゆっくり自力でやらせた方が良いに決まっているが。
 それでは何時間あっても終わりそうにない。
 手取り足取り、ヒントやら答えやらを小出しに出して。
 天根がそのたびに、「むぅ」だの、「うぅ」だの、言うのを眺めて。

「……橘さん。」
 ふと。
 天根のシャーペンが止まる。
「ん?」

 質問か、と思いきや。

「橘さんって優しいね……。」
 いきなり、そんな言葉を呟いて。

「バネさんみたいに人のこと、叩いたり蹴ったり、しないでしょ?橘さん。」
「……そう見えるか?」
「うぃ。」

 思わず、笑ってしまう。
 あんな暴力事件を起こした俺に、何を言い出すのやら。

「俺の不動峰のテニス部での最初の仕事は殴り合いだったぞ。」
「……え?」
「暴力事件ってんで、部活を潰されそうになった。」
「……嘘。」

 嘘じゃない。
 そんな、驚いた眼で、見るなよ。天根。
 俺は「優しい橘さん」なんかじゃないんだよ。

「悪かったな。天根。」
「……何?」
「今日は黒羽と遊びたかったんだろう?俺が居なければ……。」
「…………。」

 窓の外で、蝉が唐突に喚き始め。
 天根は静かに首を横に振る。

「……ううん。橘さん、優しい……。」
「……。」
「不動峰のやつら……みんな、そう言ってた。」
「…………え?」

 今度は橘が驚く番で。
 そうか。この前、うちに遊びに来たとき、あいつらとしゃべったのか。
 そんな人の噂なんか、するなよ。全く。
 天根の視線に耐えられなくなって、橘はすっと目をそらしたが。

「……橘さん、照れてる……。」
「……ば、ばかなことを言ってるんじゃない!天根!宿題やれ!!」

 六角のメンバーは、黒羽にしろ、天根にしろ、なんでこう、ストレートに恥ずかしいコトを口にするんだ、と。
 橘は視線を泳がせながら、狼狽えた。
 鳴きだしたときと同様に唐突に、蝉が鳴きやんで。
 天根がにぃっと笑った。

「俺、橘さんのこと、嫌いじゃなくなった。」
 また恥ずかしいことを言い出したぞ。こいつは。
「お昼にもう一回、卵焼き作ってくれたら……バネさんの次の次の次くらいに好きってコトにしてあげる。……バネさんの次はね、サエさんと樹ちゃんと亮さんとえっと……あのね。あとね。剣太郎とオジイと……。」
 いや。
 好きな人のランキングは良いから!
 卵焼きくらい、いくらでも焼いてやるから!
 そういう恥ずかしい話を、一生懸命語るな!

 もはや、リアクションさえできない状態で、橘はあわあわと視線を泳がせ続ける。
 六角ってのは、なんて破廉恥な……。
 まぁ、可愛いといえば、可愛いんだけれども……。

 そこへ。
 びゅんっと。
 スーパーのビニール袋に入ったアイスが飛んできて。
 天根の後頭部を直撃した。
「ダビ!てめぇ、何、ハレンチな話、していやがる!!」
「痛……。」
 勢いよく、テーブルに突っ伏して、頭をさする天根。
 アイスのカップってのは、結構、頑丈にできているもんだな。
 床に落ちて、微妙にひしゃげたアイスをテーブルに拾い上げながら、橘はリビングの戸口を見やる。
「おかえり。黒羽。」
「おう。ダビが迷惑かけたな。」

「ハレンチって……なんだよ。バネさん。」
 ようやく頭を上げた天根。
 どかどかと歩み寄った黒羽は、ぐりぐり彼の頭を撫で回し。
「てめぇみたいのを、橘サンはハレンチってお呼びになるんだよっ!」
 と、さりげなく橘のせいにしながら、決めつける。

「ハレンチ漢のフレンチカンカン……ぷぷ。」
「ダビデぇっ!!!」

 黒羽の肘が、天根の脇腹に炸裂する寸前。
 橘が吹きだして。
 机に肘を突いたまま、額に手をあてて、声を殺すように笑い続けて。

「ば、バネさん……!う、受けたよ!今のギャグ、行けた!」
「……橘……てめぇ、まだ熱あるんじゃねぇのか??大丈夫か??」
「……す、すまん。」

 また唐突に蝉が鳴き出した。
 秋の訪れを感じさせるツクツクホウシの声。
 まだ笑い止まない橘に、天根が嬉しそうに告げる。

「橘さん……今のギャグ、特別に橘さんにあげる……。」
「あげるも何も!!んなもん、いらねぇだろうが!!」
「……あげるの。」

 天根のささやかな友情の証。
 そんなだじゃれをもらっても、使いどころに困るだろうが!
 不動峰の部活の最中、いきなりだじゃれを言い出す橘を想像して、黒羽は少しだけ慌てた。
 ありえない……。

 そして。
「良いか。橘。絶対、絶対、何があっても、不動峰の連中の前で、それ、言うなよ??」
 真剣に念を押す。
「なぜだ?」
「……誰もてめぇには突っ込めねぇだろうが!!あいつら、素直で大人しいから、橘サンに突っ込み入れるなんてできねぇっての。」
「……それもそうか……。」
 あの連中、黒羽が思っているほどに大人しいわけではないんだが。
 確かに、跳び蹴り突っ込みを入れてくれそうなやつは居ない。
 そう考えると、また無性に何かが可笑しくなって。
 笑いがこみ上げてきて。
 まだ橘の発作は治まりそうにない。

「バネさん……。」
「あー?」
「橘さん……可哀想……。」
「あー?なんでだ?」
「誰も突っ込んでくれないなんて……。」
「……いや、それは……可哀想か??」

 天根の友情は。
 かなり微妙だ、と黒羽は思った。

「橘さんがギャグを言ったら……俺んときみたいに、突っ込んであげてね。バネさん……。」

 天根の額にスプーンをこつんとぶつけ。
 ついでに、まだ笑っている橘の額にも、こつんとぶつけ。
 二人に一個ずつ、アイスを押しつけて。

「大人しく食え。じゃないとちゅーすっぞ。」
 溜息混じりに、黒羽は、苦笑しながら呟いた。

 蝉時雨。
 そして、アイスクリーム。
 夏休みの終わりはもうすぐである。



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