そして。

 朝から、何百回となく見上げた時計には、もういい加減飽きてきて。
 窓の外を見やれば、本当に良い天気で。
 空は冬の名残など何もなく、すっきりと晴れ渡り、風の匂いをかぐだけで、なんだか心が浮き立ってくる。
 時計の針の進みが遅いなんて、授業中でもなければ、なかなか思わないのに。
 黒羽は、ふぅっと息をついて、改めて時計を見上げた。
 今、家を出ても、待ち合わせより20分くらい前に着いてしまう。
 あんまり早く出てもな。久し振りに会えるのが楽しみで、待ちきれなかったなんて、ちょっとかっこ悪いしな。
 そんなコトを思いながら、自転車の鍵を手の中で弄び。
 五秒ほど、ためらったものの。

 ま、良いか。

 軽く首を回して立ち上がる。一度そうと決めれば後は早い。もう、行くしかない。

 二年前の夏に初めてあいつを見たとき。
 まさか、あのまっすぐな目が、こちらを振り向く日があろうとは思ってもいなかった。
 強烈な容姿。鮮やかな、そして猛々しいテニス。
 たくさんの猛者がいたはずの一昨年の全国大会で、なぜか彼のことだけははっきりと覚えていて。佐伯は運命だの一目惚れだの言うけれども。確かに自分はあの男に憧れていた。きっとそれはただただ強い者への憧れで。
 そして。あの日の桔平は間違いなく遥か遠い存在だった。

 自転車の鍵を片手でかちりと回し、バランスを取る間も惜しんで走り出す。道沿いの生け垣には常緑樹の緑。そして、ちらほらと萌え出でる路傍の新芽たち。
「あれがタチバナだよ。バネ。五月ごろ、キレイな白い花が咲くんだ。くすくす。」
 木更津が教えてくれた近所のタチバナは、決して桔平を想起するような風情の花ではなくて。
 それでも、なんとなく、通りがかるたびに桔平を思い出している自分がおかしくて。

 そうだ。ちょっと遠回りして、ダビんち、寄ってってやるか!

 昨日から、天根はそわそわとせわしなかった。
 伊武のためにダジャレを考え、内村のためにネタを選び。
 一生懸命、石田の手袋にリボンをかけ、桜井のマフラーをラッピングし。
 森に似合うバケツを友人から借りてきて、神尾のために「リズムにHigh!」の復習をして。
 ムダだとしか思えない努力を、一日中、飽きもせずに続けていた。

 天根だけではない。数日前から、佐伯も樹も木更津も葵も。
「何時に来るの?」
「いつまでいるのね?」
「潮干狩りするの?それともテニス?」
「橘さんだけ?それとも杏ちゃんも一緒?」
 などと、会うたびに桔平情報を気にしていて。
 みんな、楽しみに待っている。きっと、今ごろ、家で時計を何度も見上げて、待ち合わせの時間を今や遅しと指折り数えている。

 自転車に乗ったまま、片足を大地に付け。
「ダビっ!」
 天根の家の前で、チャイムも鳴らさずに、声を掛ければ。
 からりと窓が開いて。
「バネさん?」
 まるで待ちかまえていたかのように、天根が顔を出す。
「橘たちを迎えに行ってくるけど、お前も行くか?」
「行く!」
 間髪入れずに答える天根に、黒羽は少し苦笑しながら。
「じゃあ、来い!先行ってるぞ!」
 そのまま、走り出そうとして。
「待って!俺も行くってば!!」
 慌てた天根が窓から転がり落ちそうになる。

「準備してから来い!いつものバス停だからな!」
 ぐっと、ペダルを踏み込めば、世界がぐいっと前に進む。
「いつものって、どっち?! 学校の方?! それとも……?」
「頑張って考えろよ〜!!」
「待ってよ!バネさん!!置いてかないで〜!」

 どうせ、バス停なんて、そんなにたくさんあるわけじゃない。
 あっちかこっちか。
 ちょっと頭を使えば分かること。

 空に春の陽射しが満ちていて。
 こんな日には、海に行くにかぎるって。
 あいつらに、よく教えてやらなきゃな!
 道ばたのレンギョウとユキヤナギが、自転車の風に揺れる。

 去年の夏に、再会したとき。
 彼が彼であるコトはすぐに分かったのだけれども。
 彼が何かもっと大切なモノを見つけて。
 そのために歩いているのだというコトも、すぐに分かったのだけれども。
 それがとても過酷で幸せな道だというコトも、なんとなく分かったのだけれども。
 自分は一昨年の彼を知っていたから。
 何ものにも縛られずに、自分のために笑える彼を知っていたから。

 まだ後ろから天根が追って来る気配はない。
 この坂を登れば、バス停だ。
 時間は結構余裕だけども、橘のコトだ。少し早めに到着しているかもしれない。
 車道の向こうには砂浜。そして。海。
 冬の海も悪くないけど、春の明るい光に照らされた海は、なんだか生命力に満ちていて、本当に元気になれる。
 坂の上から、一台のバスが滑るように下りてきて、黒羽とすれ違った。
 あれ?
 もしかして、今のバスに乗って来てるかもしれねぇな。

 彼に背負う重荷を全て捨ててしまえなどと言う気はない。
 だけど。
 疲れたときは疲れたって言って良いんだぜって。
 笑いたいときは口開けて笑って良いんだぜって。
 ただ、それだけ、伝えたくて。
 そして。

 伸び上がって坂の上を見ても、まだ誰も見えないけれども。
 もっと行けば、きっと見える。
 桔平と、彼を取り囲む可愛い後輩達の姿が。
 どうだ?千葉の海はすごいだろ。今日はそん中でも最高のトコに連れてってやるからよ。

 二ヶ月半。
 たった、それだけのブランク。
 それだけ、なのに。

 道の向こうに、見慣れた人影が動いたように思った。
 陽射しに包まれて、影のように見えるけれども。間違いない。見間違えるはずがない。
 人影が、ゆっくりとこちらに歩き出す。
 全く。俺が迎えに行くまで良い子に待ってろっての。
 はやる気持ちを抑えきれずに、黒羽は渾身の力を込めて、思いっきりペダルを踏み込んだ。

 そして。
 新しい想い出が始まる。


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