橘が黒羽に呼ばれて、一人、千葉に赴き潮干狩りに勤しんだ日の夜。 初めから泊まって行く予定だった橘は、約束通り黒羽の家で夕食をごちそうになり。 食後は黒羽の部屋で、冷えた麦茶を飲みながらのんびりとした時間を過ごした。 部活のこと、友人のこと、去年の全国大会のこと、今年の全国大会のこと、これからのこと。 他愛のない話が、他愛もなく楽しくて。 「二人とも、早くお風呂に入りなさい!」 黒羽の母親にせっつかれ、ようやく時計を見た二人は、短針が九時を指していることにびっくりする。 まだ夕食を食べ終えたばかりだと思っていたのに。 そんなことさえも笑い合いながら、まずは橘が、そして黒羽が風呂に入って。 九月に近い夜の風は、もう晩夏の色。 名残の蝉の声に混じって、澄んだ鈴虫の音が聞こえている。 「あー。さっぱりした〜。」 タオルでばさばさと髪をぬぐいながら、黒羽が風呂から戻ってくると、床にあぐらを組んで雑誌をめくっていた橘は目を上げて、しばらく、黒羽の頭に釘付けになる。 「……黒羽。」 「あ?どうした?」 「お前の髪は……洗ってもそんなに突っ立ってるのか??」 「ああ。すっげぇ剛毛だろ??」 「てっきりセットしてるのかと……。」 「んな面倒なコトしねぇよ。ダビじゃあるまいし。」 黒羽の深い色をした髪は、風呂上がりでもいつもどおり、ぴんぴんに突っ張っていた。 「…………。」 「そ、そんなに見るなよ。いつもと変わんねぇだろ?!」 「…………触っても良いか??」 「あー?い、良いけど……。」 開け放しの窓から響く鈴虫の声ばかりが耳に残って。 おずおずと腕を伸ばす橘に、黒羽は苦笑する。 「ふむ……確かに剛毛だな……。」 ぱふぱふ、と、黒羽の頭を軽く叩いて、感心したように呟く橘。 「お前がそんなコト言い出すとは思わなかったぜ。熱でもあんじゃねぇの?」 と。 照れ隠しのようにふざけた調子で、手のひらを広げ、橘の額に触れれば。 「……おい!ちょっと待て。橘!お前、平熱何度だ?!」 「……平熱?……36度4分くらいだが。」 「マジで熱あるって!!37度くらいあるぞ!」 「そんなこと、分かるのか?」 「子守のバネさんを舐めちゃいけねぇよ!」 「こ、子守のバネさん??」 確認するように黒羽は己の額に橘の額を合わせ。 むぅ、と小さく唸った。 「いかん。いかん。子守のバネさんともあろうものが抜かったぜ。海遊びに慣れてないちびっ子ははしゃぎすぎると熱を出すんだった。」 「……ちびっ子か。俺は?」 「俺より小さいだろうが!」 「……14歳のくせに。」 「あー?なんか言ったか?」 「言ってない。」 一瞬、にやりと笑みを交わしてから。 黒羽は弾けたように立ち上がり。 「おら!そこどけ!布団敷くぞ!!」 と、辺りに散らばっていた雑誌やらマンガやらを、部屋の隅に蹴り飛ばした。 「あ、ああ。手伝おう。」 「手伝わなくて良いって。」 「しかし。」 「病人はそっちで大人しくしてろ!」 「……しかし。」 部屋の隅にあらかじめ積んであった布団を、手際よく伸べながら。 黒羽は振り向きもせずに、言い捨てた。 「良い子にしてないと、てめぇ、ちゅーするぞ。」 「…………は?!」 五秒ほど。 世界が凍る。 氷が溶けると同時に、黒羽は勢いよく橘を振り返り。 「わ、悪ぃ!橘!!今のは嘘だ!忘れてくれ!」 「……な??」 「六角だとちびっ子に言うこと聞かせるとき、『良い子にしてないと、ちゅーするぞ』って脅すんだよ。俺も脅されたし、脅すときも使うし。」 心なしか赤面して、早口でまくし立てる。 「いつもの癖でつい……。悪ぃ。」 「な、何を言い出すのかと思った……。」 「だってさ。そう言うと、みんな、ちゅーなんかされたくないから、良い子にするんだよ。ダビも剣太郎も、もっと小さい連中もさ。」 「……天根もちびっ子なのか……?」 「だってあいつ、俺より小せぇし。あいつら、きゃーきゃー言いながらも、ちゃんと大人しくなるんだ。」 少し決まり悪そうに視線を合わせないまま、懸命に言い訳を続ける黒羽に、橘はくすりと微笑んだ。 「急に破廉恥なコトを言い出すから驚いたぞ。」 「…………ハレンチ…………。橘、てめぇ何時代の人間だ??」 そして、シーツを敷き。 タオルケットと枕を放り込んで。 ぱふぱふ、と、整えて。 黒羽の手際よい仕事ぶりを、橘は「良い子」に見守った。 「あー。できたできた。ほら、橘。こっち寝とけ。」 「もう一組、敷くんだろう?」 「当たり前だっての。そんな狭いトコに二人で寝られるかよ。でも、お前の分は敷いたから!寝とけ!」 「……ああ。すまん。」 「謝るな。寝ろ!」 良い子にしていないと、ちゅーされるからなのか、なぜなのか。 橘は大人しく、黒羽の指示通り、布団の上に移動し。 「横になっておけよ。それだけでも疲れが取れる。」 「…………。」 ぺたりと布団に座っていた橘は、先に一人、横になるコトに躊躇して、シーツを広げている黒羽を見上げるが。 「てめぇ、良い子に寝ねぇと、おやすみのちゅーするぞ!」 そんな橘を振り返りもせず、しかし今度は確信犯でいたずらめかして言う黒羽に。 橘は、喉の奥でくすくすと笑った。 「それも子供を寝かすときの台詞か?」 「そうそう。みんな、ちゅーされたくないから、一生懸命寝たふりしてさ。疲れてるからすぐ、ホントに寝ちまうんだ。」 タオルケットを横に避けて、橘はごろりと身を横たえる。 確かに疲れていたのかも知れない。 一度、横になると、急に眠気が襲ってきた。 「悪かったな。ムリに一日、連れ歩いてさ。」 「いや。楽しかった。」 「……ムリすんなよ。」 「ホントのコトだ。」 うつぶせになって、ほおづえをついて。 横で布団を敷く黒羽を見ていると、だんだん体が重くなってくる。 「目、つぶってねぇと、マジでちゅーするぞ。」 「…………六角ってのはずいぶん破廉恥な学校なんだな。」 今度は橘が確信犯で。 くすくすと笑いながら、ぽふっと体を横向きに倒す。 「ああ、恐ろしくハレンチだぜ?しかも部員の仲が最悪に悪い。」 「最低だな。」 「ああ。最低だ。不動峰と同じくらいな。」 「はは。違いねぇ。」 黒羽が喉の奥を鳴らして、くつくつと笑っている。 そう。 こんな居心地の良い場所はない。 六角は、お前の大好きな不動峰と同じくらい、最高なんだぜ? 自分の布団を敷き終えて、黒羽は卓上の目覚まし時計を取り上げる。 えっと。 明日は予定もないし。 「あー。橘。明日、何時に起きる?」 呼びかけて、数秒。 返事がないことに気付いて、ふと見れば。 いつの間にか、橘は規則正しい寝息を立てていて。 「……寝るの早すぎだっての。」 思わず笑みがこぼれる。 「まぁな。ここまで来んの、遠かったしな。一日遊んだしな。」 呟きながら、タオルケットを掛け直してやれば。 そこに眠っているのは、不動峰のメンバーの中でひときわ威厳があって、ひときわ貫禄があるいつもの「橘サン」ではなく。 自分と同じ中学三年生の普通の少年で。 「俺にくらい、『疲れた』とか『もうやだ』とか、弱音の一つも吐いてみろってんだよ。橘サン。」 すっかり寝入っている橘の頬をぷにぷにと突きながら、黒羽は小さく微笑んだ。 「おやすみ。」 かちり、と、黒羽は部屋の灯りを消して。 窓の外には鈴虫の声。 そして、秋の風。 |