優しくて遠いメモリー。

 がちゃがちゃと皿のぶつかり合う音が聞こえる。
 桔平は台所で一人、皿を洗い。
「なぁ。手伝うってば。」
「良い。お前は客だからな。そっちで座っていろ。」
「だけど。」
「せっかく淹れてやったコーヒーが冷める。」

 朝食の片づけにも参加させてもらえず、黒羽は台所の片隅で、コーヒーカップを手の中でもてあそんでいた。
 いつもの橘ならば、あんな音を立てて皿を置いたりはしない。きっと皿を拭くぐらいは手伝わせてくれるだろうし。
 ゆらゆらと漂うコーヒーの芳しい湯気に、黒羽はふぅっと溜息をはく。
 あいつ、またずいぶん苛々してんなぁ。まぁ、杏が心配な気持ちは分からないでもないんだけどな。
 ずずっと熱い最初の一口を飲みながら、桔平の背中を見守れば。
 なんだか寂しそうにも見えて。

「なぁ。」
 用もないのに声を掛けてしまう。
「何だ?」
「いや……コーヒー、淹れんの、上手いのな。お前。」
「……そうか。」
 極力、自分の不機嫌を黒羽にぶつけないように、押さえているような桔平の声。
 そんな、ムリして良い子にしてなくても、ちゅーなんかしねぇっての。
 そばにあった丸椅子を引き寄せて、腰を下ろす。
 かちゃり。
 冷たい音を立てて、皿が積まれてゆく。

「……黒羽……。」
 いつもより低い桔平の声に、黒羽が「ああ?」と軽く応えれば。
 またしばらく、沈黙と皿のぶつかり合う音だけが聞こえ。
 そして。
「石田の家で……もし杏が泣いていたら……俺は、石田と天根、両方殴って、杏を連れ帰る。」
「……おぅ。」
「すまんが、黒羽。お前は残って、石田と天根の面倒見てやってくれ。」
「……なんだよ。二人セットでかよ。」
「杏を泣かすようなやつらなら、二人とも願い下げだからな。」
「……へぃへぃ。」

 ご立派な兄貴ですこと。
 黒羽は含み笑いを桔平に悟られないように気を付けながら、そっとコーヒーカップに口を付ける。
 気持ちは分かるけどな。そんなに大事にしまっておかなくても、杏は大丈夫だっての。

 そしてまた沈黙。
 桔平は一枚一枚、やけに丁寧に皿を拭いて。
 ようやく、黒羽を振り返った。
 流しの横に無造作に置かれた桔平のコーヒーカップは、うっすらと湯気を揺らめかせているものの、もうずいぶん冷めてしまったに違いない。

「サンキュな。」
「何がだ?」
「皿洗い。」
 黒羽の感謝の言葉に、桔平は苦笑を浮かべ。
「ここは俺の家だ。当たり前のコトだろう。」
 あっさりと斬り捨てた。
 俺んちに遊びに来てたとき、お前が皿洗ってた気がするんだけどな、と。
 黒羽は少しだけ突っ込んでみたい気分になったが、今の桔平に突っ込むのは得策じゃないだろうと、自重した。ついでに言えば、自分の家でまで桔平に皿を洗わせてしまった不甲斐ない自分というのも、一応は自覚しているつもりであった。

「さて、12時までまだ時間あるけど。何する?」
 リビングに戻って、改めてコーヒーカップを覗き込む。ゆっくりと薫る香ばしい湯気。
「そうだな。まだ時間があるな。」
 時計を見上げる桔平は、恐らく自分の機嫌に手を焼いているのだろう。懸命に普通の顔をしようと苛立っているのが分かる。
 良いのにな。そんな良い子じゃなくてもな。

 しばらく時計の文字盤をぼんやりと眺めていた桔平が。
 口を開いたのはたぶん15秒ぐらい経ってからで。
「ならば……腹筋でもするか。」
「……腹筋かよ!」
「いや……俺は、腕立て伏せでも構わんが。」
「暇なときは、筋トレ以外、やることねぇのか!お前は!」

 思わず、桔平の機嫌などお構いなしに、真っ向から黒羽は突っ込んでしまう。

「筋トレは嫌いか?そうは見えないが。」
「や、嫌いじゃねぇけどよ!滅多に逢えない友達んち行ってまでやりてぇとは思えねぇ。」
「そうか。なら……受験勉強でもするか?」
「……それくらいなら、腹筋してた方が良い……。」

 桔平は決してボケているつもりはないのだ。
 真面目に時間の潰し方を考えているに違いない。
 黒羽は頭を抱えた。こいつ、ホントは友達いねぇんじゃないのか?!

「遊ぼうぜ?せっかくなんだからよ。」
 だから何がやりたい、というわけでもないのだが。
 テレビゲームでも良いし、オセロやトランプでも良い。テレビを見るんでも、ビデオを見るんでも、買い物に行くんでも良い。
 とにかく、何か桔平の気が晴れるようなコトだったら。
 まぁ、もしかしたら桔平は腹筋すると気分爽快になるのかもしれないけれど。

 黒羽の言葉に、桔平はしばらく考える素振りを見せたが。
「……遊ぶ……。」
 小さく反芻し。
「……ならば、ままごとでもやるか。」
 と、大まじめに提案した。

「…………。」
 黒羽は一瞬、リアクションが取れずに固まったが。
 冷静に考えれば、桔平にとってままごとは普通の遊びだったのかも知れない。これだけ杏を可愛がっている桔平である。小さいころ、杏がままごとをして遊びたいと言えば、きっと付き合ってやったのだろう。
「ままごと、ね。良いぜ?」
 正直、黒羽はままごとには自信があった。
 彼は六角テニス部の中で、自他共に認めるままごとのプロフェッショナルなのである。なんなら、ままごとの全国大会に出ても良いと思うくらいなのである。
 桔平がどれくらいのレベルか知らないが、ままごとなら負けない。そう確信していた。
「じゃあ、俺、お父さんな。」
「ああ。」
 ポジション取りも完璧である。こういうのは言ったもん勝ち、先手必勝と相場が決まっている。

「橘は何やるんだ?」
「……俺も参加するのか?!」
 ちょっとびっくりしたように眉を上げる桔平。
「おい!俺一人でままごとやらせる気か?!」
「いや、お前もずいぶんと物好きだなと思っていたんだが……。」
 真顔でそう返されては、黒羽も溜息をつくしかなく。
「せっかくだから、付き合え。」

 こうして、リビングのテーブルを挟んで、中三男子二人のままごとが始まった。

「で、橘は何をやる?」
「じゃあ、八百屋のオヤジをやろう。」
「……お父さんと八百屋のオヤジの二人かよ……。」
 ままごとの達人バネさんも、こんなシチュエーションのままごとは初めてであって。ちょっとだけ燃えるぜ、と思ったが、その情熱はとりあえずヒミツにした。

「お前は妻子を千葉に置いて単身赴任中の父親だ。」
「……おぅ。」
「で、俺は近所の八百屋のオヤジだ。」
「……おぅ。分かったぜ。」
 桔平が唐突に設定を決める。やっぱりこいつ、昔からままごととかごっこ遊びとか、やり慣れてるっぽいな。油断ならねぇぜ!

 しばらくは、二人で、相手の出方を窺って、沈黙を守り。
 そして。
 二人揃って吹きだした。

「中三にもなって、ままごともあるものか。」
「ってか、男二人だろ。ありえないって。」

 くつくつと笑う桔平の瞳は、先ほどまでの寂しそうな色を消し去っていて。

「小さいときとか、杏と一緒にやってたのか?ままごと。」
「ああ。……だが、最後にやったのが何年前だか、もう思い出せないな。」
 桔平は遠くを見るような目をして何かを考えていたが、そのまま目を伏せて、小さく微笑んだ。
 とても大切で温かくて優しい、素敵な何かを見つけたかのように。
 黒羽の口元に無意識の笑みが浮かぶ。

「杏に構ってもらえなくて、寂しいんだろ。お前。」
「……そうだな。ああ。そうだ。」

 自分が苛立っていたのは、石田にでも天根にでもなく。
 いつの間にか自分を離れてオトナになってゆく杏を、受け入れられない自分の軟弱さがいやだったからで。
 そう。
 そうなんだ。分かっている。
 自分の寂しさを認めてしまえば、心はふわりと楽になる。
 だって、あいつは、いつまでも小さい杏のままではないんだから。

「お前さ、絶対、杏が結婚したら、凹むよな。」
「……そうかもしれない。」

 今でさえ、杏が自分で自分の道を選ぶのを見て、こんなに寂しくなるのだから。
 確かに、杏が結婚したりしたら、相当寂しいに違いない。
 黒羽がにやにやと笑って。
「ま、そんときは、俺が慰めてやるさ。」
 言いながら、すっかり冷めたコーヒーの、最後の一口を飲み干した。
 きっと、杏がいなくなった橘家は静まりかえっていて。
「俺も寂しいしな。」
「単身赴任だからか?」

 桔平の切り返しに、一瞬、何の話か分かりかねて黒羽は目を見開き。
 ままごとの設定に話が戻っているコトにびっくりする。
 橘のやつ、照れくさくなったんだな。いきなり話を変えやがって。
 苦笑しながら、黒羽は反撃する。
「そうだな。俺も寂しいし、八百屋のオヤジも寂しいし。寂しいモノ同士、俺らも結婚しようか。橘。」
 桔平はその言葉に動じる様子もなくにやりと笑い。
「お前が妻子と別れるならな。」
 一瞬の間をおいて、黒羽は勢いよく吹きだした。


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