愛しのナイトメア。

 夕方と呼ぶよりすでに夜と呼んだ方が良い時間帯。
 乾燥した冬の空気を、ゆっくりと加湿器が潤してゆく。
 そしてホットミルクの微かな香り。

「お風呂、沸いたよ。」
 リビングの扉を勢いよく開けて、杏が顔を覗かせる。
 帰宅後、友達に電話をしなきゃと言って、一度部屋に戻っていた杏だったが、そのままリビングの桔平たちに合流して。
「何の話してたの?」
「や、この前俺が来たときのコトとかさ。」
「あは。天根くんが置いてけぼりだったときの話?」
 道理で天根が憮然とした表情のまま桔平たちの顔を見交わしているわけだ、と、杏は緩む口元を押さえて、三人が腰を下ろすソファの隣りに椅子を引いて座った。
 兄が自分の愛用マグにもホットミルクを用意してくれていたことに気付いて、そっと口にする。

「杏ちゃん来たし。……ほかのコトしよ。」
 きっと三人がかりでこの前の話などされた日には、天根は寂しくて泣きそうになるだろう。笑いながらからかってやりたい気持ちを抑え、「ああ。」と黒羽が軽く頷いてやれば、天根は。
「何して遊ぶ……?」
 きらきらと瞳を輝かす。
 しかし振り向いて時計を見上げた桔平が、立ち上がり、天根の頭にぽふっと手を置いた。
「先、風呂、入ってこい。」
「……うぃ?」
 天根もそのまま時計を見上げ。
「まだ早いよ……。」
 と少しだけ不満げに訴えたが。
「眠いだろう?さっきだって……。」
 優しく諭すように微笑む桔平に。
「まだ平気……遊ぶの。」
 ふるふると首を振って主張する。だが、桔平が一枚上手だった。
「風呂から上がったら、眠くなるまで遊べるだろう。先に入っておいた方が得だぞ?」
 その言葉に天根はしばらく考える素振りを見せたが、こくりと頷いて。
「じゃあ、入る。」
 極めて単純に説得された。

「タオルとか出すね〜!」
 杏に連れられて、洗面所にとことこと旅だった天根を見送り。
「bathに行ってきバス……ぷぷ。」
「やだ!!またしょうがないコト言ってる!!」
 黒羽が突っ込むより前に、天根のダジャレに杏がばしばしと突っ込みを入れるのを見送り。

 リビングは一瞬、沈黙に支配された。
 窓には冷たい冬の風が当たっている。

「さて。」
 桔平はソファに寄りかかるように軽く伸びをして。
「今夜、どうやって寝る?」
 肩の力を抜くようにふぅっと息を吐く。
「あー?どうやって寝るって?」
「俺の部屋に二組の布団は敷けないからな。布団一組とベッド一台で男三人がどうやって寝るか。」
「あー。」
 黒羽もマネをするように軽く伸びをし、肩を回しながら考える。
 そういえばそうだな。さて、どうやって寝るか。

 そこへ。
 ぱたりと、リビングの扉が開いて、杏が戻ってきた。
「サンキュ。杏。」
「いえいえ。」

 廊下にも彼らの会話が響いていたのだろう。杏はそのまま話に参加する。
「私の部屋に天根くんを泊めるわけにもいかないもんね。」
「もちろんだ。当たり前だろうが。」
 軽い口調の杏に、強い語気で桔平は即答し。
 こういうトコが根っからの兄貴なんだよな、こいつは、と、黒羽は微笑ましく思いながら。
「じゃ、橘が杏の部屋で寝たらどうだ?」
 冗談めかして提案してみる。
 部屋の主を追い出すなんて、ちょっと図々しい気がするが、人数的に順当と言ったら、これが一番順当かもしれない。
 しかし。
 自分がいない間に家捜しをされそうな嫌な予感を感じて、桔平は一瞬言葉に詰まり。
 口を開きかけた桔平を制するように、大きく目を見開いた杏がはっきりと言い切った。
「ダメ!!絶対ダメ!!それじゃしょうがないじゃない!!」
 しかも、その反対の口調がむちゃくちゃ真剣なモノだったので。
「悪ぃ。」
 勢いで黒羽は謝ってしまいながら、杏は難しいお年頃なんだなとちょっとだけ桔平に同情した。桔平は桔平で、杏にはっきりきっぱりと断られたコトにちょっとだけショックを受けていたが、それは顔に出さなかった。天根は良いのに、俺はダメなのか……。

 そして気を取り直して別の提案をする。
「リビングなら三組布団敷けるが。」
「それじゃ、朝早くにお祖母ちゃんたちに起こされちゃうよ。」
「そうか。それもそうだな。」
 会話の成り行きからして、桔平の部屋で男三人どうにか眠るしかない様子で。
 黒羽は腕を組んで。
「やっぱ、俺とダビで布団で寝るわ。」
「……それで良いのか?」
 遠くからわざわざ来てもらっておきながら、自分がベッドを占領し、友達を二人、一組の布団に押し込むなど、ちょっと気が利かない感じがして、桔平はためらったが。
「だって、泊めてもらってるんだしよ。少しはお客様にも遠慮があるわけで。」
 黒羽の言葉に桔平は少し笑って。
「なんだ。客という自覚はあったのか。」
 からかうように呟いた。

「ならば、天根と黒羽で布団を使うので良いか?」
 少し戸惑いつつも、二人の仲の良さと付き合いの長さを思えば、それがむしろ当たり前のことなのかもしれない、と判断した桔平の言葉を遮ったのはリビングの扉だった。
 ばたん!
 激しい音を立てて開かれたドア。
 そこに立つのは上半身裸の天根で。
「おい!ダビ!そんなカッコでうろうろすんな!!」
「天根、風邪をひくぞ。」
 黒羽と桔平が狼狽えたように注意するのを、杏はころころ笑いながら見ていたが。
「橘さん……!」
 動揺したように、天根が唇を震わすので。
「どうした?」
 急に不安を感じて、問いかける桔平。

「俺……バネさんと寝るのやだ……!橘さんと一緒に寝る……!」
 真剣な眼差しで懸命に主張する天根。
 一瞬、戸惑った桔平は、黒羽の寝相を思い出す。そうか。こいつと同じ布団なのは危ないのか……!

「分かった。天根。お前、ベッドでも平気か?」
 桔平の笑みに、こくこくと激しく頷く天根。
「俺、家でベッド……。平気。」
 お前がそんなに怯えるほどにすごいのか。黒羽の寝相は。まぁ、確かに激しく動きそうだし。力もあるしな。この前、寝ぼけた黒羽に襲われたときには、どうなるかと思ったんだった。
「じゃあそうしよう。とにかく今は、風邪引く前に風呂入ってこい。」
「うぃ。」
 天根はようやく納得したらしく、静かにリビングの扉を閉めて、出て行った。

 残されたのは、笑いすぎて苦しそうな杏と。
 釈然としない顔で頬をふくらます黒羽。

「なんだよ。ダビと橘が一緒かよ。」
 寂しいのか。この男は。
 どうせ三人とも、同じ部屋で寝るのだというのに。
 桔平はこみ上げる笑いを堪えるのに精一杯で。

「俺だけ仲間はずれかよ。」
 拗ねる黒羽に。
 桔平はようやく笑いを押し殺して、言った。
「天根が寝ついたら、お前の布団に行ってやろうか。」

 その桔平の低い声に。
 杏は嬉しそうに目を輝かせて、何度も激しく頷いたが。
 黒羽は、桔平の額に指を突きつけて、笑いながら応戦する。

「んなコト言ったって、絶対、ダビより先に寝るだろ。お前。」
 否定しない桔平に微笑み。
 そして。
 黒羽は世にも恐ろしい台詞を口にした。
「寂しくなったら、俺もお前らのベッドに潜り込んで寝るから良いや。」

 今夜は寝苦しい夜になりそうだ。
 と。
 桔平は少しだけどきどきしながら、それはそれで良いかも知れないと思った。


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