夢を見よう。

 十日前だったら、絶対、こんなコトにはならない。
 森はそう思った。
 何しろ、美味しく楽しくご飯を食べているその隣りに、黒羽がいるのだから。十日前には黒羽とはちゃんとは出会っていないし。出会っていたにしても、怖い人だと思っていた。黒羽が横にいてくれて嬉しいなぁなんて、感じる日が来るとは思いもよらなかった。天根も。そう、天根だって怖かった。ついさっきまでは。ホント、不思議だな。今はこんなに楽しくて幸せで。

 そして、ふと思い出す。
 いつものリュックの中に、カメラが入っていることを。
 そうだ。家族で初詣に行くときに入れたままにしてたっけ。

 唐突に鞄を漁りだした森に、黒羽が視線を向ける。
「どした?」
「あの。カメラ、持ってきてたコト、思い出して……。店出たら、みんなで一緒に撮りましょう?」
 鞄の一番奥からカメラを引っ張り出しながら、森が提案する。
「良いな。それ。」
 やけに真剣な声で黒羽が同意して。
「な?橘。」
 さらには桔平にまで賛同を求める。
「俺ら、来年は高一だろ?そしたら、部活とか、球拾いからでさ。橘はどうか分からねぇけど、俺なんかはたぶん大会には出してもらえねぇし。しかもお前らは中学大会で、俺ら出たとしても高校大会だろ?」
 桔平は黙ったまま、軽く眉を上げた。
「こんな風に集まれるチャンスって、あんま、ねぇもんな。」

 そうか。
 黒羽さんも橘さんも、高校になったら、部活の最下級生なわけで。球拾いとかさせられるわけで。高校の部活なら今よりずっと忙しくて大変になるわけで。
 そしたら……ばらばらなんだな。天根と黒羽さんも、俺らと橘さんも。
 森はカメラを握りしめたまま、少し哀しい気分になってきた。さっきまでの幸せな気持ちが急にしぼんでしまったようで。

「俺だって球拾いからだ。黒羽。」
「あー。お前でもそうか。」
「だが、必ずはい上がる。お前と会えるところまで、な。」
「なんだよ。俺とは関東大会で会えるっての。もっと上目指せよ。」
「ならば、そうだな、関東大会と全国大会の決勝で会おう。」
「なんだ、それは。むかつくくらい強気だな。お前。」
「ムリか?」
「行くっての。絶対、俺も行く。」

 黒羽が笑う。つられて桔平も笑う。
 こんな風に、子供っぽく夢を語り、子供っぽく人を挑発する「橘さん」は。
 楽しそうで幸せそうで。
 森はそっとカメラを構える。そして、彼らを邪魔しないように、ゆっくりとシャッターを切った。

「わっ。今、写真撮ったのか?!」
 至近距離から撮った写真だから、きれいに写っているか分からないけども。
 真横で光ったフラッシュにびっくりして、黒羽が振り返って。
「楽しそうだったので……一枚。」
 照れくさくなって、そそくさとカメラをテーブルの隅に押しやりながら、森は俯いて答えた。

 そのとき。
 ふと森は気付いた。
 さっきから深司と天根が大人しい。
 いや、天根はもともとダジャレと相槌くらいしかしゃべっていないのだけれども。深司も静かで。どうしたんだろう……?
 探るように目をやれば、黙って姿勢正しく伏し目がちに座っている伊武と。
 その隣で、今にも目をつむりそうな天根。
 ……あれ……? 眠いの……?
 森の視線を追いかけて、黒羽はにやりと笑い、桔平の横腹を突く。
「ダビのやつ、昨日から、橘サンに会えるのが嬉しくて、はしゃぎまくりでさ。夜、あんま寝てねぇみてぇで。電車ん中でもはしゃぎっぱなしだったしな。」
 いつもより更に低い声で、笑いながらささやけば。
「まぁ、俺も楽しみだったからな。天根が来ることは。」
 微笑みながら、桔平が頷いて。
「なんだよ。俺が来るは楽しみじゃなかったのかよ?」
 拗ねたように口を尖らせる黒羽。
「お前が来るのは当たり前だろうが。いちいちはしゃいでいたら、身がもたない。」
 少し呆れたように応じる桔平の言葉に、杏が口を押さえて微笑み、桜井が困ったように視線を泳がせたことに、森は気付いてしまったが、その理由については考えないことにした。

 噂をされているにも関わらず、天根は目が覚めた様子もなく。
 ついにはそのまままぶたを完全に閉じてしまって。
 お腹がいっぱいになって。暖かい部屋の中で。居心地のよい仲間達と一緒で。しかも寝不足だったら。それはもう、うたた寝してしまっても仕方がないのかもしれない。
 ゆらっと。
 その頑強な体が揺れて。
 隣りに座っていた石田の肩にそのままもたれかかった。
 困惑した様子で、肩越しに天根を見、桔平と黒羽に視線を送る石田。
 桔平は寝かしておいてやれと言わんばかりで。しかし黒羽は蹴飛ばして起こしそうな勢いで。
 どうしたら良いのか、判じかねて石田は固まった。

 石田の逆隣りに座っていたのは伊武だった。
 深司に寄りかかったんじゃなくて、本当に良かった……、と森は少しだけ安心し。
 それでも伊武が何かをぼやきだしそうな予感を胸に、ちょっとびくびくとそちらを見守っていた。森だけではない。今や、全員が伊武と天根と石田に目を向けていた。
 伊武はみなの視線を気にする様子もなく、ゆっくりと天根に向き直り。
 その寝姿を見ながら、しばらく口をぱくぱくさせていたのだが。
 何かを諦めたような目で、ぱたりと口を閉じて。
 正面に向き直り。
 手近にあった神尾のコップに手を伸ばす。
 氷がたくさん入っていたそのコップは、冷たく冷え切って、しかも汗で濡れていて。

 伊武は。
 その冷たさを指先で軽く確かめると。
 石田に寄りかかって眠っている天根の頬に、つまみ上げたコップをぎゅっと押し当てた。

「……ぅっ。」

 びくっとして、目を開ける天根。
 そして狼狽えたように周囲を見回し。
 まだ頬にコップを押し当てている伊武に気が付いて。
「……お、おはよう。」
 間の抜けた挨拶をする。
「おはようじゃないだろ。だいたい、幼稚園児じゃないんだから、食事中に寝るなんて、ありえないだろ。行儀が悪いし、普通、そんなコトしない。おかしいんじゃないの?お前。」
 ぼそぼそとぼやき始めつつも、伊武は天根の頬からコップを離すと、適当にそれを神尾の前に押しやって。
 天根は目をぱちくりさせながらも、それでも。
「うぃ。」
 真剣に伊武のぼやきに相槌を打つ。

 そのとき。
 かしゃっ。
 という軽い音と同時に、小さな光が駆け抜けて。
 あれ?と、森はびっくりする。
「カメラ、借りてるぞ。森。」
 横から桔平の声。
 慌ててそっちに目を向ければ、黒羽が、森のカメラを片手に、下手なウインクを投げて寄越す。
「悪ぃ。勝手に借りて。」
「いえ、良いですけど。」
 黒羽が撮ったのは、ただ単に、伊武にぼやかれている天根。
 それだけのスナップショット。
 だけど。
「なんかな、今、伊武がすげぇ楽しそうだったから。」
 柔らかく黒羽が微笑むので。
 文句を言いかけていた伊武も、困ったように伊武と黒羽を見比べていた天根も。
 そのまま、深く座り直して。
 ……深司が……すごく楽しそうだった……?

「このまま……全部、とっておきたいよな。」
 黒羽の言葉に。
 桔平は俯いて笑った。


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