ブルー 不安色。

「バネさん……どうしよう。俺……。」
 お正月二日。
 リビングで見るともなしにかけっぱなしだったテレビに目をやっていた黒羽の背後から、唐突に聞き慣れた声が届く。
「……困った……。」
「おい。いつの間に入り込んでんだ。お前。」
 家族は福袋を買いに出かけてしまい、一応、受験生だということで家に残っていた黒羽は、無人のはずの我が家に唐突に闖入してきた後輩にびっくりして。
「玄関、閉まってただろ?!」
「うん。だけど。……窓、開いてた。」
「あー。」

 そういえば。
 さっき、換気しようと思って開けたんだっけか。
 道理で寒くなってきたと思ったぜ。
 ってか、普通な顔して窓から入るなよ。
 全開にした窓を振り返れば、それはもうきっちりと閉められていて。

 びっくりしたように窓を振り向いている黒羽を横目に、天根は小さく苦笑する。
 人を気遣うことにかけては人一倍繊細なのに、自分のことに関してはむちゃくちゃ大雑把で。この人は。先輩だということを忘れて、天根はときどき不安になってしまう。
「開けっぱなしはダメ。……受験生なのに風邪引く。」
「ひかねぇよ。ばかだかんな。俺は。」
 そう言いながら、黒羽はテーブルの上に開いていた英語の単語帳をそのままぱたりと伏せた。
「……俺がばかって言うと怒るくせに……。」
 天根は軽くむくれたように頬をふくらますとすたすたとストーブを付けに行く。

「んで?どうしたんだ?いきなり?」
 慣れた様子でリビングのストーブを付け、がたりと椅子を引いて回転させ、背もたれにあごを載せるように逆向き座った天根。
 上目遣いに黒羽を見上げ。
 困り果てたように、まぶたを伏せた。

「困ってるの。……明日のこと考えると……なんかブルー……。」
 明日。それは一緒に橘の家に遊びに行く日。
「あー?行きたくねぇのかよ?昨日まで遠足行く前のガキみたいにはしゃいでたのによ。」
「……そう……ずっと楽しみにしてた……。でもね、あのね。」
「あー?」
「たぶん、これ……マリッジブルーってやつだ……。」

 げしっ!!
 突っ込みの台詞もなしに、問答無用に黒羽のかかと落としが炸裂する。
 天根が頭を低くして、伏せるように座る癖があるのは、かかと落としの突っ込みを期待しているからではないだろうか。と、樹が先日、ひどく真面目な顔をして分析していたことを、黒羽は密かに思い出していた。

「……痛い……。」

 ストーブの温風が部屋の中に次第に満ちてきて。
 黒羽は軽く息をつき、天根の頭をくしゃっと掻き回す。

「んで。なんでブルーになんかなってんだ?」
「うぃ。……俺ね……橘さんに笑ってほしいの。」
「ああ。」
「だけど……どんなダジャレを言ったら一番笑ってもらえるか……分からなくて……昨日からそればっかり悩んでる……。」

 びしっ。
 裏拳が天根の額に炸裂する。

「あほ。」
「……ひどい……。」

 黒羽を恨めしげに見上げる天根の目が潤んでいるのは、突っ込みが激しすぎたためか、それともあほと言われたからか。
 付けっぱなしのテレビをぴっと消し、黒羽はもう一度天根の髪をくしゃりと撫でる。
 むくれたような天根の眼差し。小さく黒羽は微笑んで口を開く。

「じゃあ、俺がとっておきのネタを教えてやるぜ。橘が間違いなく笑うネタをな!」
「……ホント?バネさん……!」
 さっきまでの恨めしげな目つきはどこへやら、天根は目をキラキラと輝かせて、黒羽を見上げて。
「良いか。よく見ておけよ?」
「うぃ。」

 黒羽はにやりと笑い。
「リズムにHigh!」
 と神尾直伝の台詞を口にする。

 天根はといえば。
 一瞬、呆然とした後、両手で顔を覆い、俯いて。
「……。」
 黙り込んでしまう。
「おい?ダビ?」
「バネさん……その恥ずかしいネタは……俺みたいな絶世の美男子にはちょっとムリ……。」
 声を震わせて訴えて。
「おい!」
 少しだけ顔を上げ、指と指との隙間から黒羽の様子をうかがう天根。
「あんだけ恥ずかしいダジャレを連発しておいて、よくそんな台詞を言うな!」
「俺のダジャレは……センス良いもん……。」

「一度でもセンスの良いダジャレ、言ってみろってんだ!」
 げしっ!!
 座ったままながら、黒羽の蹴りが決まる。
「……いたた……。」
 額を抑えて悶える天根。ふと黒羽は、橘に少しは手加減してやれと言われたことを思い出していた。

「ねぇ、バネさん……それ……橘さんが好きなネタなの……?」
 天根は突っ込まれ慣れている分、立ち直りも早い。
「ネタってかな。橘の大事な後輩の神尾が使う決めぜりふなんだ。」
「……神尾……大事な後輩……。」
 天根は思案顔でしばらくいろいろ呟いていたが。
「橘さんが喜ぶなら……俺、練習する……!」
 と力強く宣言した。
 そして、「リズムにHigh!」の特訓が始まる。

「り、リズムに……High!」
「リズムが悪いぞ!ダビデ!」
「うぃ!リズムに、High!」
「もっとリズム良く!」

 そんなこんなで。
 十分もリズム特訓をしたあと。
 ようやく合格点をもらった天根は深い溜息をついた。
「橘さん……喜んでくれる……かなぁ。」
「おう。当たり前だっての。」
 黒羽は、自信満々な表情で微笑む。
「ホント?」
 不安げに問いかける天根。

 くしゃり。
 と。
 天根の髪をいつもよりたくさん掻き回して。
 黒羽はゆっくりと口を開く。
「橘さんはな、どんなダジャレよりも、お前と会えることが何より嬉しいんだよ。」

 突っ伏したまま、黒羽に頭を掻き回されていた天根は。
 しばらくの間、瞬きを繰り返したが。
「……うぃ!」
 満面の笑みを浮かべて。
「俺も……橘さんに会えるのが嬉しい……!」
 と応じた。

「ねぇ。バネさん……。」
「あー?」
「俺……ダジャレ、もう一晩考えるね……。」
「お、おう。勝手にしろ。」

 天根がそわそわうきうきと、今度は玄関から帰っていくその後ろ姿を見送って。
 黒羽はまた英語の単語帳を開く。
 神尾に借りた洋楽CDに出てきた単語を見つけるたびにそこに蛍光ペンでチェックを入れながら。
 黒羽は静かに時計を見上げた。
 約束の待ち合わせ時間まであと20時間。


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